読書と日々の記録2001.05下
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■読書記録: 31日短評7冊 30日『テレビ報道の正しい見方』 28日『日本人のしつけは衰退したか』 24日『竹中教授のみんなの経済学』 20日『考えることの教育』 16日『社会学研究法』
■日々記録: 29日我が家でダンスブーム 26日大学教育関連ニュース2題 22日片付けが苦手 19日アサーティブネス講座体験

 

■5月の読書生活
2001/05/31(木)

 今月読んだのは15冊。月初めに病気療養しながらたくさん読めたのが大きい。でも,月初めは当たりの本が多いなどと言いながら,結局はいつもどおり5割のヒット率になっている。

 それは,ヒット率が高すぎると,いい本が短評に回ってしまうので,今月後半は意図的に,短評に回りそうな本をピックアップして読んだという次第なのである。あとは,ちょっと難しめの本を時間をかけて読んだり。これがうまくいっていれば,来月も,少なくとも最初は高いヒット率を記録するはずなのだが...

 今月よかったのは,何と言っても『考えることの教育』。その他には,『社会学研究法』『竹中教授のみんなの経済学』だろうか。『市場主義の終焉』ではなく竹中教授を選んだということは,私も実は市場主義者?

『ダメな大人にならないための心理学』(山岡重行 2000 ブレーン出版 ISBN: 4892426652 \1,995)

 さまざまな心理学の知見を身に付けることによって,「ダメな大人」にならないようする,という本。位置づけは,心理学の入門的な一般書〜教科書というところか。扱われているトピックは,人間の情報処理,思い込みと勘違い(血液型性格判断),科学におけるステレオタイプ(クレッチマーの体格性格論など),マインドコントロール,アイデンティティ,自己評価など。この手の本を書くのは非常に難しいが,本書も含め,成功している本はあまりないように思われる。この手の本では,筆者が考える「ダメな考え」と「良い考え」が紹介される。ダメな考えを否定するのに,問題点が指摘されるが,その問題がある論法を,筆者自身も使ってしまっていることがあるからである。本書でいうとたとえば,クレッチマーについて次のように書かれている。日本の心理学入門書は無批判にクレッチマーやシェルドンの説を紹介していますが,理論としての妥当性の低さを指摘してあるものはほとんどないのが現状です。(中略)少なくとも心理学の入門書にクレッチマーやシェルドンの説を紹介した心理学者はその節の妥当性を検討する責任があると私は考えます(p.81)。これ自身は(特に前半は)悪くない指摘だと思う。クレッチマーの説を否定している著者の論法によると,ここでいう妥当性の検討とは,研究者本人のデータに基づくものではなく,他の研究者による批判的検討のことを指している。しかし筆者が,本書で紹介した理論全ての妥当性を検討しているとは思えない。たとえばp.169にはマスローの欲求階層説が紹介されているが,この妥当性を筆者は検討したのだろうか。少なくともそのような記述は本書にはない(マスローは,偏ったデータによってこの説を作った,と言われている)。他にも本書は,「単なる一つの解釈であって,他の解釈もできる」(p.88)論や,「外集団のメンバーを一人の人格を持った個人としてではなく交換可能な集団の一部として認識」(p.224)するような,著者自身が問題としている論法が散見されるように思われる。

『MBAクリティカル・シンキング』(グロ−ビス・マネジメント・インスティテュート 2001 ダイアモンド社 ISBN: 4478490325 \2,940)

 ビジネスにおける論理的思考について書かれた本。この本を見てわかることは,ビジネスで生じる問題にそれなりの解答を得るには,ビジネスについての知識がなければ始まらない,ということである(著者はそういうことは一言も書いていないけど)。あと,クリティカル・シンキングの基本姿勢として「問い続ける」(p.13)が挙げられているが,本書では一つの問題に一つ程度の考え方を示して,それで終わりになっているのは,「基本姿勢」がすばらしいだけに残念に思う。

『日本海の黙示録−[地球の新説]に挑む南極科学者の哀愁−』(島村英紀 1994 三五舘 ISBN: 4883200221 \1800)

 著者様から頂いた本。メインタイトルにある「日本海」の話ではなく,サブタイトルにある「南極」を,筆者が研究した時の話である。それが日本海の成立の謎を解く鍵にもなり,プレートテクトニクスを超える新説の鍵にもなっている。
 といっても,本書で描かれているのは「科学」や「南極」だけではない。研究者の苦労が描かれ,そこから透けて見えるその国の事情が描かれ,地球物理学的データを得る過程が描かれ,人間が描かれている。たとえば,過酷な南極の地や船の長旅で身体も精神もすり減らし,うつになった人の話が出てくる。あるいは著者自身も,ぎゅうぎゅう詰めの飛行機で南極に向かい,実験のためにひどく揺れる船に乗る話も出てくる。こういう話を読むにつけ,私には(万が一,機会があったとしても)地球科学者は勤まりそうもない,と思う。ところが実際には,「机に座ったまま,すでにあるデータを解析だけしている科学者のほうが,ずっと多い」(p.344)そうである。へえ,そういうものなのか。本書は,現場で奮闘する少数派の地球物理学者である筆者の目を通して,思いもよらない世界を垣間見せてくれる,良質のエッセイであった。

『岡本太郎の沖縄』(岡本太郎 2000 NHK出版 ISBN: 4140805382 \2,400)

 岡本太郎が1959年と1966年に撮影した,沖縄の写真集。風景とか街並みとかおばあの顔とか。写真集なんて,論評が難しいが,この本のいいところは,解説はおろか,写真のタイトルさえも,後ろにまとめられている点。おかげで,写真は写真だけで,邪念なしに見ることができる。それにしても,この2回の撮影の間で私が生まれているわけだが,その頃の沖縄がこんな(に田舎)だったなんて。イメージ的には「昭和初期」とか「戦前」に見えてしまう。

『ウィトゲンシュタインのパラドックス』(サウル・A・クリプキ 1982/1983 産業図書 ISBN: 4782800177 \2,400)

 ウィトゲンシュタインのパラドックスがどのように正当化されているのか知りたくて読んだのだが,残念ながらよくわからなかった『哲学・航海日誌』に書かれていたようなことが確認できたくらいだ。あとは,『心と行為』の考え方がウィトゲンシュタインに依拠していることの片鱗が落ちているのが時々見つかったくらい。やはりこのレベルの哲学書に手を出すのは早すぎたか。それでも一応最後まで目を通したが。ウィトゲンシュタインが一時期,独我論と行動主義が結びついた考え方をしていたことがわかった(最終的には違うらしい)。あと,「他人の痛み」に関する考察から何が言えるかというと,我々は周りの人を物ではなく人間として見ている,ということらしい,ということもわかった。

『哲学の最前線−ハーバードより愛をこめて−』(冨田恭彦 1998 講談社現代新書 ISBN: 4061494066 \640)

 再読。前回の読後印象と同じで,1章と3章は面白いのに,2章はわかりにくい。1章は,他人を理解する時には,とりあえず相手が言っていることは基本的には正しい,と考える「好意の原理」から出発しなければならない,という話。一方,3章は,われわれが何かを正しいとか正しくないとか判断するに当たっては,今自分たちがよしとするものをさしあたってよしと考えるところから出発しないとしょうがない,という「自文化中心主義」の話だ。考えてみたら,前者はとりあえず相手を正しいとみなす立場,後者はとりあえず自分を正しいとみなす立場で,そこから出発するという点では同じだ(それで具合が悪ければ,またそこから考え直す)。結局これらは,自分や他人を,好意の原理から始めることによって理解する,という話なんだな。ここから考えたことなのだが,批判的思考が「理解」のための思考だとするならば,この話と同じように,「好意の原理からはじまる批判的思考」というものがあってもいいような気がする。一見形容矛盾に見えるけど。

『鉄道員(ぽっぽや)』(浅田次郎 1997/2000 ISBN: 4087471713 \476)

 著者の処女短編集。『ビデオで社会学しませんか』を真似して解釈を試みるならば,この中の多くの話は,「人の中に生きる他人」について書かれている,と言えるのではないかと思った。その他人は,死人である場合もあるし,一度も会ったことのない人であったりもする。あるいは最後の話は,ずっと昔に離れた故郷だ。ワタシ的にはこれが一番面白かったかも。

 

■『テレビ報道の正しい見方』(草野厚 2000 PHP新書 ISBN: 4569613144 \660)
2001/05/30(水)
〜メディア・リテラシー実践本〜

 本書は,メディア・リテラシー実践本とでも言うべき本である。メディア・リテラシー「教育」ではない。筆者が実際に,いくつかのテレビ番組を読み解いて見せているのである。そういう意味での実践本だ。

 本書の中核をなすのは,筆者が実際に行った,ドキュメンタリー番組とニュース番組の検証である。

 ニュース番組検証は,同一のニュース4種を,4つの民放ニュース番組(午後10時以降のもの)がどのように報じたかを検討したものである。これを通して,出来事の印象が番組によって大きく異なることが検証される。具体的には,バランスよく豊富な情報を提供している番組もあれば,公平さを装いながら意図的に編集された番組もあるし,中立性は高いがもの足りない内容の番組もある。おなじ出来事でも,これだけ違うのはちょっと驚きだった。新聞などとは違いテレビは,一つの出来事について,同日に報じられた複数のニュース番組に目を通すことはないから,気づきにくいのだろう(それに加えて私は,ニュースをあまり見ない,という点もあるが)

 ドキュメンタリー検証の方で扱われているは,トルコにおける日本のODAと,震災時の情報共有に縦割り行政が邪魔をしている,というNHKの番組。特に前者では,実際にトルコへ行き,報道がいかに一面的なものかを,実際に検証している。そもそもは,この番組を筆者が見て,その作られ方が気になったことに端を発する。単純化された善玉/悪玉論,スタジオのコメントが飛躍していること,ドイツ・イスラエル(善玉)の描かれ方と悪玉(日本)の描かれ方の違い,善玉悪玉以外の説明も可能であること,などである。そこから,まず結論ありきで作られた番組ではないかとの疑いを持ち,トルコに行った(自費で)。そこで,NHK取材班が知りえたにもかかわらず報じられなかった事実をいくつも掴んでる。

 普通の人がそこまで実行するのは難しいだろうが,ニュース番組の検証は,ビデオデッキが複数あれば誰でもできそうだ。そういう点で,メディアリテラシーの実践を行う上で参考になる本である。

 

■我が家でダンスブーム
2001/05/29(火)

 今,我が家ではダンス・ブームが起きている。と言っても,ビデオを見ながら,それにあわせて踊っている程度なのだが。

 ことのおこりは,NHK教育テレビで日曜日の夕方に放送されている,「みんなの広場だ!わんパーク」という番組。ゲストが歌ったり子どもが踊ったりする,幼児向け音楽番組だ。この中に「ワンポイント・ダンスレッスン」というコーナーがあり,パラパラだのツイストだのの踊り方を講釈してくれる。

 ちょっと面白そうだったので,上の娘(2歳11ヶ月)のために録画した。娘もけっこう気に入り,毎日何回も見ているうちに,親も一緒にはまってしまった,というわけである。ダンスレッスンだけではない。ゲストの歌に合わせて,ちびっこたちがバックで踊っていたりする。ビデオを見ながら,その振りを娘と一緒に真似したりしていると,結構楽しいし,いい運動になる。

 ついには妻が,「パラパラのビデオがほしい」と言い出したので,先日BOOK OFFで探してみた。何本かあったが,ピンクレディの曲にパラパラの振り付けをした,というものがあったので,それを買ってきた。こちらは,わんパークのものと違って難しいのだが,毎晩,わんパークやピンクレディのビデオをかけながら,親子で踊っている。毎日やっていると,それなりにできるようになってくるので,なかなか楽しい。ちょっとには悪いような気がしないでもないのだけれど。

 

■『日本人のしつけは衰退したか−「教育する家族」のゆくえ−』(広田照幸 1999 講談社現代新書 ISBN: 4061494481 \640)
2001/05/28(月)
〜説得的だが問題点も〜

 ここ数年,心の教育とか家庭の教育力の必要性が言われている(たとえば1998年中教審答申)。しかし,その根拠は確かなのだろうか。つまり,

  • (1)本当に家庭の教育力が低下しているのか
  • (2)それが原因で青少年の凶悪犯罪が増加しているのか,
という命題を検証した本である。本書では特に,(1)の命題を中心に扱っており,結局これらの命題は,否定されている。

 百冊以上の参考文献と,さまざまな統計資料をもとにあぶり出されてきたのは,そのようなイメージとは正反対の,次のような姿である。かつて(戦前)は,誰も家庭でしつけは行ってこなかった。忙しかったし貧しかったからである。当時しつけを担っていたのは,村の共同体(同年齢集団や親戚,隣人など)であった。しかし戦後から高度成長期にかけては,そのような地域共同体が消失し,学校が重視される「学校の黄金期」がやってきた。それも70年代後半には,学校不信へと変化してきた。したがって現代は,通念とはうらはらに,家庭がしつけ(教育)の中心的な場とならざるを得なくなった時代だ,というのである。

 筆者が書いている,結論めいた文章としては,以下のものがある(強調は道田)。

  • 本書で述べてきたことは,「家庭の教育力が低下している」という世間のイメージとはちょうど正反対に,親たちは以前よりも熱心にわが子の教育に取り組むようになってきているということである。(p.180)
  • 要するに,「家庭の教育力が低下している」のではなく,「子供の教育に関する採取的な責任を家族という単位が一身に引き受けるようになってきたし,引き受けざるをえなくなってきた」のである。(p.181)
そして,凶悪な問題が最近増えているかのように感じられる理由として,たとえばかつて自分の身の回りで起こった軽微ないじめを,マスコミが大々的に書き立てる現在の極端ないじめと比較している(p.177)からではないか,と筆者は述べる。今と昔を比べるなら,同じレベル(日常的なものなら日常的なもの同士,マスコミレベルならマスコミレベルのもの同士)で比べなければ意味がない,というわけだ。このようにして,錯覚と誤解による過去の美化がなされている(p.177)のが誤った通念につながっているという。

 全体的には,説得力のあるストーリーになっているように思えた。また,このような経緯から,今後の教育やしつけについても,考えさせたり示唆を与えるような作りになっていた(サブタイトルにある”「教育する家族」のゆくえ”)。子どもをもつ親にとっては,自分の教育観を相対化し考え直す,いい機会を提供してくれるのではないかと思う。

 ・・・と,大まかには本書の意義を認めた上で,ちょっと疑問に思ったことを。まず,冒頭の命題(1)についてだが,問題と答えがズレているような気がする。問題とされているのは教育力の低下,つまり「高−低」で語られる問題である。それに対して,上に引用したように,答えられているのは「熱心に取り組んでいる」とか「引き受けている/引き受けざるをえない」という,高低とは別次元のことである。

 もちろん「熱心である」ということは,「低下していない」ことと結びつく可能性は高いかもしれない。しかし同じものではないはずである。「熱心」かどうかは,本人(家庭の担い手)が自覚的に判断可能な部分である(実際,使われている統計資料は,そのような類のものであった)。しかし高いか低いか,という判断は,内容の量や質の問題が関わるので,それだけではわからないのではないだろうか。たとえば熱心ではあるけれどもその方向性に問題がある,ということは大いにありうることだと思う。あるいは,家庭が教育を引き受けざるを得なくなった結果,その質が,極端に高いものから,極端に低いものまで幅広くなってしまったとか。

 もう一つ。冒頭の命題(2)であるが,これに関しては,戦後,未成年が犯した殺人事件の件数から,「青少年の凶悪犯罪が増加していない」ことを元に否定されている(のだと思う)。まずは,「殺人」だけで語っていいのか,という疑問がある。それは,殺人以外にも凶悪な事件(たとえばいじめなど)はあるが,それに関してはどうなのか,ということが不明である。

 それだけではなく,命題(2)そのものが適当なのか,というのも疑問である。つまり,現在家庭の教育力が必要とされているのは,「凶悪事件」があるからだけなのだろうか。たとえば,筆者が最初に述べたような誤ったイメージと同じようなことが,『学校崩壊』ここの7冊目)でも述べられている。そこで問題にされているのは,「いじめ,不登校,学級崩壊」のような問題であって,必ずしも「凶悪事件」だけではない。また,『学校崩壊』の筆者が,「学校崩壊の原因は地域や家庭の崩壊」と考えたのは,本書の筆者が言うように「誤った比較」をしているわけではなく,現場の教師として数十年子どもや親や地域を見たうえでのことである。

 勘ぐれば,そのような問題を避けるために,筆者はあえてターゲットを「凶悪事件」だけに限定したのではないか,と考えることもできる。ぜひとも筆者には,今度は「いじめ,不登校,学級崩壊」のような,警察沙汰にはなりにくいけれども現代の問題として大きくクローズアップされているものを取り上げて,それとの関連で家庭の教育力やしつけについて論じてもらいたいものである。

 

■大学教育関連ニュース2題
2001/05/26(土)

 最近,ちょっと気になったニュースが2つあった。いずれも大学教育関連。

 一つは,東京大学工学部が,教育改革に専念する「教育専任教授」を3人公募したというもの。7〜8年の任期付きらしく,カリキュラム改革や,教育へのIT導入を担うらしい。

 定員削減が厳しい昨今,このような人事に踏み切ったのは,大変すばらしいことだと思う。こういう人事が,全国的に行われるようになると,大学教育もだいぶ変わるのではないだろうか。さらに教育専任教員が,全学教員のアドバイザリー・スタッフ的な役割も担うようになると,大学全体の教育の底上げにつながると思うのだが。

 もう一つは,多摩大学が仮入学制を導入した,というもの。暫定入試を経て暫定的に入学させ,一年後の成績で合否を決定する,という方式だそうだ(チャレンジ入試制)。授業料は取るが,入学金は合格した時点で取る。対象となるのは入学定員308人中12人だけだそうだが,これもなかなか面白そうな制度だ。

 記事を見る限りこれは,あくまでも目的は学生の選抜のようだ。つまり,やる気のある学生しか残れない,あるいは,通常の入試ではパスできないような学生でも,暫定入学後にやる気と結果を見せれば,入学できるというシステムだ。あるいは,「通常だらけがちな入学後1年間に緊張を持たせるシステム」,と言ってもよいかと思う。

 しかし今はむしろ,学生が大学を選ぶ時代だ。ということはこのシステム,ちょっと変形させれば,大学側が学生を選ぶシステムとしてではなく,学生が大学を選ぶシステムとすることもできそうだ。それは多摩大学とは逆に,「通常教員がだらけがちな入学後1年間の授業(主に教養教育)に緊張を持たせるシステム」となるはずである。むしろ必要なのは,こちらかもしれない。

今日の一日:今日は午前中散髪,午後は公園(上原高台公園)に行った。日陰は涼しかったので,次回は本を持参せねば。

 

■『竹中教授のみんなの経済学』(竹中平蔵 2000 幻冬社 ISBN: 4344900030 \1,365)
2001/05/24(木)
〜面白いほどわかる〜

 経済学の入門書。非常にわかりやすい。わかりやすい経済の本と言うと,1年程前に『経済のニュースが面白いほどわかる本(日本経済編)』という本を読んだココの5冊目)。この本が「学習参考書的」で「風が吹けば桶屋が儲かる式の説明」が多く,今ひとつすっきりしなかったのに対して,本書は実にすっきりとよくわかった。ということで,「面白いほどわかる」という称号は,本書にこそ進呈したい。

 それは,経済の用語,考え方や仕組みを,単に教科書的に説明しているのではなく,毎日の生活と密着した形で説明されている点だろう。もう少し言うと,日常的なところから問題が立てられ(「みんなの」経済学,というタイトルどおり),そこからうまく「経済学の物語」が導き出されているのである。さらには,今の日本経済の問題点を明らかにし,それにどう対処しなければならないかも書かれている。この2冊のわかりやすさの違いについては,もう少し突っ込んで考察する価値があるかもしれない。

 本書にはそういう言葉は出てこないが,竹中氏の基本的な考えは,「市場主義」のようである。私は最近,反「市場原理至上主義」の本を何冊か読んだが『市場主義の終焉』など),市場主義者の本はまだ読んでいなかった。反市場主義の本によると市場主義者は,

「底抜けの楽観主義者なのか,近視眼的迷妄のとりこなのか,「強者の倫理と論理」の代弁者なのか,それとも市場主義というマントラ(呪文)を唱える教祖なのか,そのいずれかでしかあるまい」(『市場主義の終焉』p.11-12)
などと書かれている。それでこれまで,市場主義者の主張はよっぽどひどい(楽観的近視眼的強者的)のかと思っていたが,私は本書の記述には,わりと素直に納得してしまった。相反する主張両方に納得する,というのは,私が経済オンチであるせいか,あるいは,生来の素直な性格(ホントに)が災いしたのかはわからないが。

 まあ,どちらも一理ある,という部分はあるのであろう。それ以上の専門的なことや細かいことは,私には判断できない。ただ,どちらの本でも,大学の今後について書かれていたので,その点は比較することができる。

 本書では,教育も含め「官と民」という問題について,

大方の先進国では,市場原理に任せられない公的な分野についても民間が行えばよいという考え方に立っています。日本も民の力を生かす時代になっています。(p.101)
とある。教育の中でも,初等・中等教育のような基礎的な部分は,パブリックな性格をもっているので,公的な教育は残すという考えのようだ。あとは思いきって自由化・多様化し,民間活力を用いるべきです(p.103)とある。「あとは」に相当するのは要するに,大学(高等教育)のことを指しているわけだな。その理由として著者は,大学生が大学に教育を受けにきているのは,将来の就職やよい生活という「私的な目的」のためだから(つまりパブリックな性格のものではないから),と述べている。

 それに対して,反市場主義者(というネーミングでいいのかどうかは知らないが)はどう考えているかというと,

「大学に競争原理を導入することは必要であるが,学問の価値は経済的利益のみで測ることは無理がある」(『市場主義の終焉』p.172-175あたり)
ということのようである。この2冊は,もともと直接向かい合って論じられたものではないので,それを比較するのは無理があるかもしれないが,それを承知で比べると,前者(本書)「教育の意味」という観点から市場主義を説いているのに対して,後者は「学問研究の価値」という観点から反市場主義(全面的市場主義導入の否定)を説いている。大学の使命は主に,教育と研究の2本柱にあるのに,どちらの本も,主にその一方しか語っていないのは,ある意味興味深い。

 #Yomiuri Weeklyにインタビュー記事あり。

 

■片付けが苦手
2001/05/22(火)

 今日は,大学の開学記念日で授業が休講。ふだんできないことができたのかもしれないが,授業の補講で学生が来たり,大小会議があったりで,個人的にはあんまり有意義ではなかった。

 実はいちばんやりたかったのは,研究室の片付け。幼少の頃から,ともかく整理整頓が大の苦手で困っている。ときどき思い切って机の上を片付けるのだが,すぐに元通りに山ができてしまう。おかげで,仕事をはじめる前に探し物でやたら時間が取られてしまうことも多い。昨年の引越し荷物も一部放置したままだし,本棚の本も整理しなければいけないし。でもずっとほったらかしてしまっている。わかっちゃいるけど治らない。

 ところがうちの上の娘(2歳11ヶ月)。整理好きの妻の血を受け継いでいるのか,結構きちんとしている。使ったおもちゃは,寝る前に定位置に戻すし,脱いだ洋服は自分できれいにたたんでいるし。この点に関しては,すでに私を乗り越えたと言っても過言ではないかもしれない。

 上の娘がもう少し大きくなったら,「大学に遊びに行こうよ。ついでにお片づけもしない?」と誘ってみようと思っている。

 

■『考えることの教育−教育のヤラセ主義を排し考えることの教育とは−』(佐伯胖 1982/1990 国土社 ISBN: 4337659072 \1,553)
2001/05/20(日)
〜じっくり味わいたい本〜

 本書は,1973年から1982年に,筆者が教育系の雑誌に書いた文章12編を収めたものである。本として出版されたのは1982年なのだが,国土社が「現代教育101選」という,教育書の良書を再刊行するシリーズを出すにあたって,その中の一冊に選ばれたので,私が持っている本の発行年は1990年というわけである。

 というわけで,本書の中身は基本的に古いものである。この時期,著者の佐伯氏は認知心理学の旗振りを自認していたはずで,おそらくそういう,認知心理学を紹介するような内容だろうと思って,あまり期待せずに注文した。そうであったとしても,タイトルからすると気になる内容だし,その中に,佐伯氏流の観点が多少なりとも見られればいいな,ぐらいに思っていた。

 ところが。そういう期待(の低さ)とはうらはらに,本書は非常に面白い,興味深い,示唆に富む本であった。あまりに面白いので,その内容は人に教えたくないぐらいである。それにこの内容,もう少し自分の中で吟味したり味わったりしたいし。ということでこれで終わりにしたい。以上。

 ・・・と言いたいところだが(ホントに),それではあんまりなので,少しだけ内容紹介を。

 本書では,「考える」「理解する」こととは何か,ということを軸に論が展開されているわけだが,そこでは,「考えることは答えを出すこと」(答え至上主義)や「理解とはさまざまな事実やいろいろな手順を知っていること」(想起と問題解決)という通念が否定されている。では佐伯氏の考える「考える」「理解する」こととは何か。それはどうやら,「吟味すること」「納得すること」のようである。以上。

 ・・・で終わりたいところだが(ホントに),それではあんまりなので,一箇所だけ抜書きを。

納得できた知識は,自分で活用したくなる。(中略)他人にも説明して,共感してもらいたいと思い,食事を楽しむように,みんなでその知識を味わい,語り合いたいと願う。自分のことばで言い直したり,自分なりに工夫をこらしたりもする。(中略)自分ひとりの心の中でとっておくのはもったいないと感じ,人に伝え,説明し,例を示し,自分でやってみせる。デパートで掘出し物を見つけたような感じ,あるいは,庭から小判が出てきたような感じである。(p.92)

 ああ,これはまさに,私がこの読書記録を書いている理由そのものだ。自分ではちゃんと意識していなかったけど。面白い本を読み終わった後,その内容を反芻しながら,自分なりに流れを再構築してみたり,あれこれ思いをめぐらしてみるのって,至福のときなんだよな〜。

 

■アサーティブネス講座体験
2001/05/19(土)

 アサーティブネス講座に行ってきた。沖縄県女性総合センター(愛称てぃるる)が,啓発学習事業として開いているものだ。所要時間3時間,受講料は無料だった。

 講師は,アサーティブネス・ジャパンというところのトレーナーをしている人。ここでは,12時間のコースが基本なのだそうだ。今日は3時間なので,内容紹介程度。具体的には,アサーティブネスとは何かを知り,自分のことを知り,これまでとはちょっと違う自分や見方(視点)があることを知る,というものだ。まあ,説明されたことの半分以上は,『アサーション・トレーニング』にもあったようなことだった。しかし,そういう内容を,講師がどのように導入,説明し,そこにどのようにグループワークなどを絡めていくかにも興味があったので,その意味でも,参加してよかった。

 行われたグループワークは,以下の5つがあった。

  • 二人一組で自己紹介をしあう(今日呼ばれたい名前,今の気持ち,今日期待していることなど)。
  • ある事例を読んで,攻撃的になったり受身的になったりせずに,気持ちよく伝えるためにはどんなことが可能かを,4人一組で考える。
  • アサーティブネス・チェックリストをやって,二人一組でお互いのチェック状況を見て意見や感想を言い合う。
  • 12の権利(アサーション権というのであろうか。「私には間違う権利がある」など)を読んで,思ったことを4人一組で話し合う。
  • 二人一組で12の権利をお互いに読み合って,相手のことを肯定する練習をする。
最後のヤツはちょっと恥ずかしい感じがするが,私が組んだ相手は,「こうやってやると,自分にとって重要な項目については,心に響いてくる」と言っていた。どれも時間は5分程度で,いくつかについては,話し合いが終わった後,グループごとにどんな話をしたか発表し,それに講師がコメントをつけていく,というスタイルだった。私もときどき授業で似たようなことをやるので,まるで自分の授業を受けているような気にちょっとなったりして,内心苦笑していた。

 チェックリストでは,16項目中,3項目で「批判」という言葉が出てくる。「正当な批判を受けいれられる」「不当な批判に対してはそれを否定し,自分の気持ちを伝えられる」「建設的な批判をすることができる」の3つである。つまりこれらを行うことも,アサーティブであると考えられているということだ。これに関しては,いくつかのグループから,「批判を受けいれたり,建設的な批判をすることは,難しい」という意見が出ていた。またそれに対して講師が,「批判を行うのは,信頼関係がないと難しい」「相手との関係作りが重要」とコメントしていた。受講生の意見も講師の意見も,なにかの参考になりそうだ。

 あと,アサーション権という概念について。ちょっと思ったことだが,ここで言う「権利」とは,何というか,自然な権利とか基本的な権利みたいなものというよりも,こういうものを設定することによって,自分が何を信じどう行動するかを,周りに流されるのではなく「自覚的にコントロール」する手助けになるという,一種の概念装置のようなものであるような気がした。

 ちなみにお昼ご飯は,てぃるるの近くにある「ジェフ」(ファーストフード)へ。知らなかったのだが,ちょうどゴーヤー関連商品販売促進期間になっており,20%引きだったので,ゴーヤーバーガーセットを食べた。すると抽選があり,ゴーヤーチャンプルーの素(調味料)と,マグカップをもらってしまった。マグカップは,NHK朝のドラマ「ちゅらさん」に出てきた「ゴーヤーマン」の絵柄が付いたやつである。期待してなかっただけに,めちゃめちゃ得した気分。

 

■『社会学研究法−リアリティの捉え方−』(今田高俊 2000 有斐閣アルマ ISBN: 464112115X \2,310)
2001/05/16(水)
〜これ1冊で丸わかり〜

 以前,「社会学は何でもアリなのか?」と考えたとき,社会学の方法論を知りたいと思った。それで,知り合いの社会学者に紹介してもらったのがこの本だ。研究法の本というと,品行方正で面白くないというのが相場だと思っていたが,本書は違った。面白かったし,いくつもの収穫があった

 収穫その1:社会学とは何かがわかった。本書によると,

社会学は経済学,政治学,文化人類学,社会心理学などからなる社会科学の一分野(p.1)
だそうだ。「とくに人間関係や相互行為を対象とする」という注釈はつくが。以前,社会学と社会心理学はどう違うのか,と疑問に思っていたが,社会心理学を含む,というのであれば話はわかる。それで知り合いの社会学者(上記の人とは別人)は,社会心理学の学術雑誌に論文を投稿していたわけね。

 収穫その2:社会学の方法論がはっきりわかった。本書によるとそれは,「数理演繹法」「統計帰納法」「意味解釈法」の3つなのだそうである(p.4)。具体的にはそれぞれ,数式モデルやシミュレーション,数値データの統計分析,フィールドワークなどの質的研究である。なるほど,3本立てなわけね。「何でもアリ」なんて思って申し訳なかった。

 ...かな,と思ったが,要するにこれは「全部」だな。序章の筆者はおよそ科学であるならば,3つの方法を総動員して研究に取り組むのが理想である(p.4)とか,使われる方法論によって捉えられるリアリティの側面が異なる,と述べている。確かにその通りだろう。そして,少なくとも本書では,この3つの方法に,同程度の重みが置かれている(正確には,意味解釈法に最もスペースが割かれている)。おそらく心理学では,「統計的帰納法」が王道で,その他は,あまり認知されていないか重視されていない。このバランスの違いが,社会学の強みであり,何でもアリと思わせる点なのだろう。

 その他にも,得るところは多数あった。たとえば意味解釈法でいうと,エスノグラフィー的フィールドワークを用いて,空港の飛行管制システムなどのテクノロジー環境が分析されていることとか,会話と相互行為分析の概要が,比較的わかりやすいことばで説明されていたり。統計的帰納法の部分は,単なる数学的な統計学の解説ではなく,統計的な考え方とその社会学における意味が,ポイントを押さえた形で説明されていたり。1枚の表を読み解こうという好奇心と意欲さえあれば,あとは何とかなる(p.151)なんて,数学オンチを勇気づけてくれることばがあったり。

 あと,お勧めの本も,章末にコラムと言う形で結構分量をとって紹介されているので,指針としやすい。内容もそのような工夫も含め,非常にいい本だった。心理学には,このような本はちょっとないのではないかと思う。

 


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