読書と日々の記録2003.04下

[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'03] [索引] [選書] // [ホーム] [mail]
このページについて
■読書記録: 30日短評5冊 25日『利己的な遺伝子』 20日『地震学がよくわかる』
■日々記録: 29日勝負する娘(4歳10ヶ月) 24日外で泣き止む2歳児 16日2歳児に十余の質問

■4月の読書生活

2003/04/30(水)

 今月は、先月ほどの忙しさはなかったものの、読書記録の冊数を減らしたことで気が緩んだのか、総冊数も記録的に減っている。

 今月よかったのは、しいてあげれは『鈴木敏文の「統計心理学」』だろうか。といっても、本書自体がよかったのではなく、鈴木氏の考えが興味深かったということなのであるが。そういう意味では、『どの子も発言したくなる授業』での「文化としての教育」という考えも、『利己的な遺伝子』における自己複製子という考えも興味深かった。いずれも、本全体がお勧めというわけではないのだが。

『Dive!!1─前宙返り3回半抱え型─』(森絵都 2000 講談社 ISBN: 4062101920 950円)

 迷いながらも「飛び込み」競技に青春をかける少年の話。評価としては,○〜◎というところだろうか。以下,読みながらの印象。序盤は,「なんとかジュニア小説」みたいだなと思った。それが中盤,アメリカ帰りのコーチと幻の高校生ダイバーが登場する段になって,ちょっと劇画チックな話に見えてきた。終盤,いろいろあって主人公も鬼コーチも迷いをみせるところは,少年や青年の,成長と自分探しの物語といったところか。まあ,ほとんど知らなかったダイビングの世界を知ることができた点は悪くなかった。次のオリンピックではちょっとみてみてもいいかななんて思ったりして。全4巻らしいが,続きも,気が向いたら読んでみるか。

『Dive!!2─スワンダイブ─』(森絵都 2001? 講談社)

 図書館に行ったらあったので,早速読んでみた。1日で読める。評価は○といったところか。前回は,試合の前までだったが,今回は試合の前後に起きるドラマが中心に据えられていた。そのドラマもまあ興味深いものではあったが,試合そのものも,飛び込みという全く知らない競技であるために,特にその点が興味深く読めた。それにしても,この巻が扱っている内容からすると,対象年齢は中学生よりはもう少し上か。

『哲学的思考─フッサール現象学の核心─』(西研 2001 筑摩書房 ISBN: 4480842578 \2,500)

 再読。初めて読んだとき,本質看取とは「古い心理学の用語を用いるならば内観」と書いたが,これは適切ではなかったようである。本書によると,「認識の客観性の意味を根底的に問い直すための「方法」。根底的な思考法としての哲学。フッサールにとって,内観心理学(純粋心理学)が単なる心の解明にとどまらずそうした課題を引き受けうるものになるとき,それは超越論的現象学となり,「哲学」となる。」(p.160) まあ今でも十分に分かっているとはいえないのだが,どうやら内観心理学と,(超越論的)現象学とは違うもののようである。あと,「脳が分かれば人間の心はすべて分かる」わけではない例として,「恋とはどのような経験なのか,ということは,恋の経験そのものに向かってそのことを問い尋ね,確かめる以外の方法はない」(p.177)と筆者は述べている。心理学の数量的研究と質的研究にも同じことがいえるであろう。数量的研究で言えるのは,あくまでも行動の法則性であって,「経験の意味」のようなものは扱えない。私が違和感を感じるのは,そこのところを越境して,数量的な結果に基づいてその体験の意味まで考察しようとする研究のようである。

『十七歳』(井上路望 2001 ポプラ社 ISBN: 4591068056 \650)

 3回もいじめられ体験のある女子高生のエッセイ。彼女の体験が中心に書かれた部分と,彼女の考えを中心に書かれた部分があるが,前者が非常に興味深かった。こんなにまとめるのがいいかどうかは分からないが,彼女の悩みの多くは,自分が理解されないことから来ているように思った。先生や同級生や親だけでなく,自分自身にも。他人に理解されないというのと,自分で自分が見出せないというのはかなり質の違うことだろうが。逆に彼女の安心や成長は,周りや自分から自分が理解されたと感じたときに起きているのかもしれない。勝手な「大人」の意見だが。子どもが大人に理解されないと感じるのは,「大人の価値観で判断」(p.34)しているからだ。その点は,「科学的」研究がやっていることに近い。

『論理に強い子どもを育てる』(工藤順一 2003 講談社現代新書 ISBN: 4061496433 \680)

 民間の国語教室をやっている人の,実践についての本。引き出し作文や比較作文というやり方,そしてそれを1冊の本の読解に応用するという話は面白かったが,それ以外は,私にはあまり興味をひくところがなかった。

■勝負する娘(4歳10ヶ月)

2003/04/29(火)

 最近,上の娘のマイブームは「勝負」だ。何かというと「どっちがはやいか勝負!」と言うのである。

 たとえばご飯のときとか,着替えるときとか,風呂に入るために服を脱ぐときなど,急に「どっちがはやいか勝負!」と勝負を挑まれる。それはたいてい,自分が早くできそうなときに限られる。そして,「やったー,まーちゃん(仮名)の勝ちーっ!」と喜ぶのである。おかげで,ご飯や着替えなど,つい娘がダラダラとしそうになることを,スピーディにやってくれるので,親のほうも大喜びである。

 もちろん私が勝ちそうになると,わざとノロノロして勝たせてあげるのだけれど、それでもつい私が勝ちそうになってしまうことがある。そういうとき、娘は「今は勝負してないよ」とか「負けたほうが勝ちだからね」なんていうのである。それなら絶対負けない。

 先日も、車で外に出た後、駐車場に戻ってきたら、「どっちがおうちにつくのが早いか勝負!」と挑んで来た。我が家はアパートの5階である。私は下の娘(2歳7ヶ月)に抱っこをせがまれたので、ようやく部屋までたどり着いたが、上の娘は早々と到着していた「かったー」と喜んでいた。それだけではない。部屋に入るなり、彼女はするすると洋服を脱いで全裸になったのだ。何事かと思ったが、そういえばさっき車の中で、「じゃあどっちがパンツ脱ぐのが早いか勝負!」と、私が冗談で言ったっけ。

 ということで、2つとも勝負に勝って大喜びの娘であった。

■『利己的な遺伝子─増補改題『生物=生存機械論』─』(リチャード・ドーキンス 1989/1991 紀伊国屋書店 SBN: 4314005564 \2,718)

2003/04/25(金)
〜遺伝子も文化もウィルスも〜

 いわずと知れた「生物が遺伝子の乗り物である」ことを主張した本(なお「乗り物」という言い方以外に,「共生的な遺伝子たちの巨大なコロニー」(p.290)といういい方もされている)。500ページ以上あり,読んでいる最中は,割と退屈な部分もあったが,読み終わってみると,面白いアイディアがいっぱいだなあと思った。進化論関係の本は何冊か読んでいるが,やっぱり原典は大事だなと再認識した次第。

 本書のタイトルは,利己的な「遺伝子」だが,遺伝子だけを扱っているわけではない。もちろんほとんどのページは遺伝子(やその乗り物としての個体)に当てられているが,「遺伝子は複製子という重要な類いの唯一のメンバーではない」(p.510)のである。重要なのは,複製子=「ほんの少し不正確に複製を作る実体」(p.510)なのである。たとえばミーム(模伝子)がそうである。ミームは「実体」ではないが,本書にはハンフリー氏の「ミームは,比喩としてではなく,厳密な意味で生きた構造とみなされるべきである」(p.307)という言葉が引用されているように,遺伝子とミームは本質的には区別されていない。

 また,ウィルスも一種の自己複製子である。ウィルスは,精子/卵子によって体から体に移るというルートをとらないだけで,生物を一時的な「乗り物」として自分の複製を永続させようとしている点で同じである。このように考えるなら,生物のあらゆる挙動もウィルスの流行も文化も,すべて複製子の利己性に基づくもの,と理解できるのである。うーんすごい。

 そのほかにも本書では,原始のスープの中で自己複製子が(偶然)発生し広がっていった様子や,単純な分裂による複製が,非対称性のない2つの性による交配による複製になり,そこから非対称な性が生まれたプロセスなども,説得的に説明されている。

 あと,私の研究テーマである思考との関連で興味深かったのは,「進化とは,たえまない上昇ではなくて,むしろ安定した水準から安定した水準への不連続な前進のくり返し」(p.139)という表現と,脳は基本的にパラレルな情報処理器官なのだが,その上で「シリアル・プロセッシングという幻影を生むべく設計させたソフト」(p.447)が動いているという説明である。前者はポパー的な進化を考える上で興味深いし,後者は『考える脳・考えない脳』的といえる。

 私のこれまでのイメージでは,進化論や進化心理学は基本的に,(実証的というよりは)非常に解釈的で,面白いんだけどなんだかちょっとどうかな,と思える点があるようなものであった。しかし本書では,そういう感じをあまり受けなかった。それがなぜなのかは分からないが。もう一度進化ということをきちんと考える必要があるかもしれない。

■外で泣き止む2歳児

2003/04/24(木)

 下の娘(2歳7ヶ月)は,何か要求が通らなくて泣き出したら,てこでも動かない。

 昨日もそうだった。夜寝る前,妻が何冊か絵本を読んで,さあ寝るよと電気を消すと,もっとご本を読んで! 電気をつけて!と下の娘が泣きわめき始めた(実は下の娘,間違えて「デンキ消シテー」といって泣いていたのだが)。

 しかし妻はもう寝入っている(最初はタヌキ寝入りだったのだろうが)。上の娘も眠そうである。しょうがないので,私が下の娘を別室に連れて行き,とりあえず電気をつけてあげると,「コッチジャナイ」と言って,さらに泣き声が大きくなる。「パパがご本読もっか」と言っても「ママガイイ」と相手にしてくれない。妻が起きて本を読めば泣き止むのだろうが,これまでの経験からすると,1冊で満足してくれない可能性が高い。あんまり寝るのが遅いと次の日起きられないし,疲れている妻を起こすのは忍びないし。コケコケドンで脅して見ても,まったく効かない。途方にくれた。

 そこで,とりあえずダッコしてあげることにした。下の娘はよく眠いときに,理不尽な要求を掲げながらぐずって泣く。今もそうかな,ダッコしたら寝てくれるかな,と思ったが,それは甘かった。ちっとも泣き止まない。もう打てる手はない。そう思った。

 それでも目の前には泣き叫ぶ幼児がいるわけで,とりあえずできることはないか,必死に考えてみた。一つ思い出したのは,娘たちが赤ちゃんのとき,やはり何をしても泣き止まないことが何度もあった。そういうとき,赤ちゃんの専門家である妻は,どこで覚えたのか(あるいは考えついたのか),娘に鏡を見せたり,一緒に外に出たりして,ピタリと泣き止ませていた。たぶん気をそらせる作戦だったのだと思う。

 それで,ベランダに出てみることにした。とはいえ,相手は泣き叫ぶ幼児である。これで泣き止まなかったら,近所迷惑もはなはだしい。ちょっと勇気がいったが,とりあえずやってみた。

 すると,これが泣き止んだのである。まずはガラス戸を開けてみると,それだけで,ちょっと静かになった。ベランダに出ると,もう完全におとなしい。それでも落ち着くのに時間がかかるだろうと思い,「虫さんが鳴いてるねー」とか「風がびゅんと吹いたねー」なんて声をかけながら,しばらくダッコしていた。もうそろそろよかろうと思い,部屋に戻った。おとなしいままでいてくれている。娘をダッコしたままの態勢で布団に横になると,自分で,私の胸から降りて布団に横になってくれた。

 外に出る作戦が,こんなに効果があるとは思わなかった。でも,なんで外に出るとおとなしくなってくれるんだろう。

■『地震学がよくわかる─誰も知らない地球のドラマ─』(島村英紀 2002 彰国社 ISBN: 4395006914)

2003/04/20(日)
〜研究の現場から〜

 「現代の地震学の最前線で,どんな研究が行われていてどのくらいわかっているのか,まだ何がわかっていないのかを皆さんに知ってほしい」(p.6)というねらいで書かれた本。

 私は確か,高校の地学で,地球の内部構造は,いかにも自明のことであるかのように習った記憶があるが,地球の一番中心にある内核の硬さが解明されたのが1989年だそうである。ちょっとオドロキであった。あるいは,地震が起きると震源地(場所や深さ)が報道されるが,それも100kmぐらい違っていることも珍しくないそうで,まだまだわかっていないことがたくさんあることが分かる。

 もっとも,そういう話ばかりではない。語られている話は,地震学者が地震をキャッチするのにいかに苦労している(してきた)か,なんて話が多く,それを通して,地震や地球物理の知識が語られている。

 こういう,「わかっていないこと」の話と「研究の苦労話」はおそらく,ある部分はつながっている話である。分かっていないことがあるから研究がなされる。それは容易に分かることではないから未知の事柄なわけで,研究者はそれをなんとか明らかにしようと苦労する。そういう部分も見えるように語られるので,この筆者の本では,科学的事実が固定的なものではなく,科学者の苦労や工夫を通して日々作られ変化しつつあるという姿がよく見える。教科書的な語りとは対極の語りである。実にうまい提示の仕方だと思う。

 そして,科学を固定的なものとして見るか流動的なものとして見るか,という対比は,科学生成の現場と,教科書など知識伝達の場に固有のものではないことに,本書で気がついた。それは,地震学という学問の性質によるものだろうが,その成果が工学者など他者に利用される,という側面がある。工学者が利用するのは,建物の耐震設計が行われるためである。そこで理学者と工学者には,次のような違いがあるという。

わからないことを「わからない」といえる理学者と,「わかりません」ではすませることができず,実地に使える答えを作らなければならない工学者とは,違って当たり前なのである。このため,工学者たちは,厳密な方程式がないときでも,それなりの式や答えを作ってしまう。当然,結果には曖昧さが残る。しかし,工学者は「近似」する,「最大値」をとる,「安全係数」で逃げる。飛行機も,巨大タンカーもこうしてつくられている。(p.241-242)

 そういえば,カリフォルニアで大地震が起き,高速道路が倒壊した時,日本は耐震基準が厳しいので大丈夫といわれていたが,阪神大震災でそうではないことが露呈してしまった。その一部には,こういう事情があったようだ。耐震設計にせよ工学者の予想にせよ,それはあくまでも,ある一定の仮定の上でなされていることであるということだ。

 ここでふと心理学のことを振り返って見る。心理学は地震学と同じく「理学」であり,もちろんわからないことはわからないといえる。しかし,地震学と同じく,現場からの要請のある学問である。そのような要請があったときに,どこかに工学的発想で「それなりの式や答え」を「近似」や「確率」で作っていないだろうか。心理学の大義は,一応,人間が一般的にもつ法則性を理解するということになっているのだろう。しかし現場で必要とされるのは,人間一般ではなく「個」の理解であり,確率的に得られた法則を適用することは,場合によっては非常に危険なことになる。その危険性を思い起こすのに,地震に対する地震学者と工学者のことを知ることは,案外有効かもしれない。そんなことを本書を読みながら思った。

■2歳児に十余の質問

2003/04/16(水)

 先日,妻が下の娘(2歳7ヶ月)に,発達検査を行った(日本版デンバー式発達スクリーニング検査)。以下は,そのうちの問答部分である。(カッコ内は,私のつぶやき,コメント,補足説明。*は下で改めてコメント)

  1. (名前,年齢は正解したので省略)

  2. お腹が減ったときどうしますか?
    コペットのなかに,コペット。 (なんだこりゃ。コペットというのは,「ポケット」の転音なのだが。どういう意味があるんだろうか)
  3. お腹が減ったときどうしますか?
    おしょくじたべるがいい。 (どうやらこういうときは,もういっぺん聞き直すらしい。で正解と。)
  4. ねむたいときは?
    こーこーって寝るの (まあ正解かな。「こーこー」は意味不明だが。)
  5. 寒いときは?
    サムイサムイしゅる (これは,寒くて震えるようなアクション付きだったのだが,これは正解なんだろうか。不正解なんだろうか。気持ちはよくわかるんだけれども。 ⇒不正解だそうだ)
  6. 疲れたときは?
    ブチブチしゅる (意味不明)
  7. 火は熱いよね。氷は?
    ちゅめたい (正解)
  8. お母さんは女です。じゃあお父さんは?
    おっきーの。 (悪くない答だとは思うが,まあ不正解だろう)
  9. 馬は大きい。ねずみは?
    ちっちゃい。 (正解)
  10. ボールってなあに?
    おっきい。 (不正解)
  11. ボールってどんなもの?
    ボールはキックしゅるの。 (ふーん,こういうときも質問し直すのか。まあこれは正解かな? ⇒正解だそうだ)
  12. 湖ってなあに?
    ミズウミしゅるの。 (不正解。*)
  13. 机ってなあに?
    ビヨビヨーッてやるの。 (不正解。**)

*:こういう答えは何問か続いた。下の娘は「わかなーい」(分からない)といえるのに,なんでこういうときはいわないのだろうか。不思議。正解と思って言っているのだろうか。それとも,何か答えないといけないように思ってしまったんだろうか。

**:おもしろいのは,上の娘が2歳7ヵ月の時にやったときも,こういう質問に「ビヤッてするんだよ」とか「グヤグヤグヤってするんだよ」と答えていた。似たような擬音が出てくるのが面白い。姉妹だからだろうか。それともこれぐらいの年齢の子によくみられることなのだろうか。

 あと全般的には,うちの下の娘は,結構いつまでも舌足らずの赤ちゃん喋りをしているので,大丈夫だろうか,ちょっと発達遅いのかな,何て思っていたが,比べてみると上の娘の同じ時期と,答えのレベルはあんまり変わらないようである。年齢相応ということだろうか。というか,前も書いたのだけれど,これってコミュニケーション能力を測定しているわけではないんだな。言語的認知,理解能力というところかな。


[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'03] [索引] [選書] // [ホーム] [mail]