琉球大学医学部論文捏造裁判の現状と展望
屋富祖建樹、屋富祖昌子、宮本孝甫、亀山統一 (琉球大学

 前々回、新潟大学において開催された第12回総合学術研究集会(1998年)では、研究室のT教授の数度にわたる論文捏造の実態と、医学部教授会による隠蔽および告発者への脅し、そして学部自治の名の下にこれを放置し続ける大学当局の不正について、1993年から1998年までの事実に基づいて報告した。
 今回は1999年11月の那覇地裁提訴以降、現在にいたるまでの公判の状況と、その過程で明らかになったトップダウン方式の学部・大学運営の危険性について報告する。

 1999年11月22日、報告者の1人宮本孝甫は、7年間にわたる研究妨害と人権侵害で所属講座の教授を、またこれを知りつつ放置したとして国(医学部と大学当局)を、那覇地方裁判所に提訴した。
 2000年1月から2002年8月までの間に14回の公判が開かれ、双方の争点が整理・審議された。主な争点は、論文データの捏造の有無、捏造を告発したことによる報復的嫌がらせ、医学部および大学当局による隠蔽と脅迫の事実、であった。

1.論文のデータ捏造問題。


 実験科学の論文を書くには1)まず実験してそこから生データをとる(これを1次データと呼ぶ);2)これを整理して図や表を作成し(これを2次データとする);3)これらに基づいて文章を書く、という3段階の作業が必要である。T教授の捏造はいずれもこの1)から2)への作業過程で行われた。これはどの論文も、1次データに当たれば捏造はすぐわかる、ということを意味している。T教授らの実験は実験記録簿(通称プロトコル、即ちこれが1次データ)に残っており、照合は簡単である。
 T教授は、本件裁判の前に、捏造の告発は名誉毀損であるとして宮本らを那覇地裁に提訴していた。従って、本来ならばここで本当に捏造があったか否かが、争われるはずであった。ところが、大学当局は、学長、医学部長、病院長、事務局長、医学部事務長の協議の結果、約1月の期限をつけてT教授に対しては提訴を取り下げよ、宮本らには教授と和解せよ、さもなくば両者とも分限免職とする、という脅しをかけ、T教授はこれを受けて提訴を取り下げてしまった。このため、捏造の有無そのものを裁判の場で争うことが出来なくなった。
 その一方で、医学部は調査委員会をつくり、「捏造は無かった」という結論を出し、さらに学外の研究者2名にも判断を仰いだがやはり「捏造は認められなかった」という返事であった、と主張した。
 ところが、公判の中で本人証言にたったT教授は、いくつもの点で医学部調査委員会での発言と食い違う証言をした。さらに、宮本らが見ていない実験記録簿が出てきた、として資料を提出したが、これは同定結果と同定のための規準が矛盾しており、明らかに改ざんと判断できるものであった。このような矛盾に満ちた証言には、国側証人として出廷した調査委員会副委員長(医学部教授)も、「困りました」「ちょっとあきれました」「際どいな、とは思っていました」などと言わざるを得ないほどであった。
 捏造に対する裁判所の関わり方は、研究内容については大学が判断するだろうという方向で、捏造があったか否かは直接問題にしないように思われた。だが、人権侵害の原因はまさに、捏造を告発したことにあるのであり、これを曖昧にしては提訴の意味が無い。この点を如何にして裁判官に理解してもらえるか、大きな課題である。

2.報復的嫌がらせ


 7年間に及ぶ研究の妨害(校費や学会出張旅費を使わせない、ちょっとした消耗品の購入にも研究計画書にはじまる科研費並みの膨大な書類を要求し、それを出しても買わない等々)は、1999年の提訴によって一応治まった。医学部の対応により、宮本らは別の所に研究室を持つことができたが、そこは非常に狭くまた別の階であるため第2生理学の研究室にある設備・備品を使うことが出来ない。結局、実験出来ない状態が今も続いている。
 教育に関する業務については、宮本らは現在もなお、授業や学生実験、研究指導から外されたままである。この点では、教員としての業務を果たしていないから分限免職にする、という大学側の方針は生きていると考えられる。
 大学職員名簿についても、告発者2名の名前は当該講座から外されたままである。
 そもそも研究上の嫌がらせは、T教授が、共著でないにも拘わらず、宮本らの論文に名前を載せろと要求し、宮本らがこれを断った時点(1992年)から始まっていた。捏造告発以降は一段と激しくなったのであるが、裁判では3年以上前のものは時効である、として以前の妨害や嫌がらせについては対象外とされようとしたがこれに対し、原告側は、これは過去から現在まで一貫して続いているものであり、時効の成り立つ前と後で切り離せるものではない。ちょうど環境問題と同じで、古い頃から壊してきたものはその連続性の中で捉えていくべきである、と主張した。

3.大学による組織的隠蔽と脅迫


 医学部は調査委員会を設けて「捏造は無かった」という結論をだし、これで問題を終わらせようとしてきた。1次データを見ようともせず、公判の中でも単純な捏造を学問上の解釈の問題にすり替えようとするなど、「捏造無し」という結論を強引に押し通そうとした。これは調査委員会という組織を使って捏造を隠蔽する行為である。
 さらに人権侵害を改善するはずの医学部の「あり方委員会」は、初めから宮本らに、捏造は無かったことを認めろ、L助手には告発によって大学を傷つけたことを謝罪しろと要求し、ことにL助手に対しては、非常に激しい侮辱と脅しを加えた。
 また、宮本らを支援したI教授(細菌学)に対しては、医学部長らが呼び出したり、教授会で吊し上げるなどの攻撃がなされた。またI教授他数名の実名を入れた極めて悪質な誹謗中傷のビラ(B5用紙5枚、2000年1月27日付け)が医学部全教員、学生そしてI教授の家族あてに配布された。あまりにもひどい内容であったため、I教授は差出人不明のまま警察に告訴した。医学部教授会は告訴は大学に対する反逆である、としてしつこく取り下げを迫った。また、同教授の講座の助手採用をさせない、同教授の指導を受けた助手の追放などの行為が繰り返された。

 最も注目すべきは第7回公判で明らかとなった国側の姿勢である。国側は「大学における学問の担い手は教授だけであって、助教授以下の教官の学問の自由は教授の許容する範囲に限られ、その結果、教授の方針に反する学問は大学での学問ではなく、一般市民(いわゆる「町の研究家」)としての学問であって、それらは憲法(23条)で保障されたものではない」という主張を展開した。それ故「組織のルールに従って、物品購入の拒否、講義や実習外しがあっても、それは助教授としての学問の自由が侵害されたことにはならない」というのである。
 これこそ、国側の本音であろう。そして独法化はまさにこの方向で大学を変質させていこうとするものである。国側主張に対する徹底的な反論を資料として添付した。ぜひ御一読いただきたい。(http://www.jsa.gr.jp/ 沖縄支部にも記載している)


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