教員の地位と学問の自由 - 国の主張する「学問の自由」観の問題 - 

一 はじめに

 現在、私たち一人ひとりの教育や研究のあり方に深く関係する裁判が進行中であります。この裁判は、形式的には国を当事者とする形でではありますが、琉球大学の職員が代理人として指定されていることから実質的には琉球大学も深く関わっています。ここでは極めて簡単に事実を説明すると、A助教授は、同氏が所属する学部のB教授の論文に捏造の疑いがある旨を同学部に訴えたところ、8年間も研究費を停止され、実習からはずされるなどの様々な嫌がらせを受け、最終的に裁判の場に救済を求めたものであります。このA氏の訴えに国が対応する中で、国は、助教授以下の教官は「教授の授業や研究の方針に反して授業や研究を行うことが認められることもない」という主張をしています。これは憲法で保障された学問の自由や大学の自治などに照らして、さらに法律的にみても重大な問題を含んでいます。そこで、国の主張の中で特に学問の自由の観点から問題となる点を検討してみました。

二 国の主張と教員の教育研究・学問の自由

 国側の主張の論旨は、大学における学問の担い手は、教授だけであって、助教授以 下の教官の学問の自由は教授の許容する範囲に限られ、その結果、教授の方針に反す る学問は大学での学問ではなく、一般市民 (いわゆる「町の研究家」)としての学問 であって、それらは憲法(23条)で保障されたものではないというものです。 その内容の重要性から少々長くなりますが、該当部分を引用します。

「学校教育法五八条五項ないし八項は、教授の学生に対する教授、研究指導又は研究 への従事を助け補佐するものとして助教授を置いているのであるから、助教授に学問 の自由が保障されているとしても、それは当然に助教授という立場からの制約を受け るものである。例えば、生理学の講座の助教授が病理学の授業や研究を大学で行うことは認められないし、また、講座の長である教授の授業や研究の方針に反して授業や研究を行うことが認められることもない。
 助教授の学問の自由は、助教授という立場を離れた一般市民(いわゆる「町の研究 家」)として学問を追及する学問の自由はともかくとして、大学という組織の中にあっては、助教授の学問の自由といえども予算の執行、物品の管理、講義・実習の在り方などについて組織体の一員としての制約を受けることは当然である。助教授が組織のルールに従って、研究用物品等の購入を拒否され、また、講義・実習から外されることがあったとしても、それは助教授としての学問の自由が侵害されたことにはならない。
 また、助教授の立場ではなく、一般市民としての学問の自由は、大学とは関係がないから、研究用物品等の購入を不当に拒否され、また、講義、実習から不当に外されることがあったとしても、もともと大学から公費等を受けることはなく、大学と無関係に学問を追求し、研究の結果を発表すればよいのであり、そして、そのような意味における学問の自由は何ら侵害されていない。したがって、本件において、いかなる意味においても原告について学問の自由の侵害は存在しない。」

三 国の主張する学問の自由の問題点


1 学問の創造性を抹殺する国の学問観

 国は、「生理学の講座の助教授が病理学の授業や研究を大学で行うことは認められ ないし、また、講座の長である教授の授業や研究の方針に反して授業や研究を行うこ とが認められることもない。」としています。これまでの学問(ここでは医学)の発 展に対する歴史的認識にもとづかないなら、このような国の理解による運営は、新しい学問分野の創造を初めとする科学の発展を阻害する危険性が多いと考えられます。 医学は本来、経験に出発した科学です。一応の学問的体系はあるが、諸科学の総合学問として発展してきており、厳密な学問領域というものは存在しないと考えられます。例えば、P.ローズは『医学と社会のあゆみ 医学・社会・哲学』(朝倉書店)のなかで「さまざまな専門は、あたかも互いに切り離されているかのようで、全体を見通すことは今や不可能である。互いに溶けあい、それらの間に現実的な境界はない。物理学から化学、生物学、医学へと全体的な連続性がある。単純な概念ではこの複雑さに立ち向かうことはできない。」と述べています。
 また、医学における観察技術や分析技術、さらには近接の諸科学の進歩によって、 あるいは病気の現実にも不断の変化があることから、これらの変化に適切に対応する形で、近接の諸科学の学問的アプローチを採り入れて、医学という学問は絶えず変貌・変化し、進歩してきました。例えば現在診断に活躍しているCTスキャンをとってみても「CTスキャンは物理学、機械工学、電子工学、解剖学、病理学、放射線学との結合の、すばらしい見本である。」P.ローズ(同上)といったものです。 そして生理学に関してもP.ローズ(同上)は「生理学も同じように、医学、病理学、物理学、化学、細胞生物学、薬理学などから概念的に区別するのが難しくなってきた。教科書は、永遠に生理学が描き、生理学が独自の局面をつけ加えるような、こうした各種の分野でのテクニック、概念、研究を求めるあらゆる科学、特に医学の実践と関連する科学の本当の個別性は恒常的な反復を必要とする。区分とカテゴリー化は思想と瞑想を楽にするための概念であり、現実ではない」述べています。
すなわち学問に明確な境目はなくお互いに関連仕合っているもので、学問分野は実際には、概念的形式的区別でしかありません。
 このような医学の現実と進歩の歴史から考えると「生理学の講座の助教授が病理学の授業や研究を大学で行うことは認められない」する国の主張は、形式的、また狭い視野に立って解釈されるなら、非常に危険であり現在の学問研究そして今後の発展の可能性を妨げることとなります。
 また「講座の長である教授の授業や研究の方針に反して授業や研究を行うことが認められることもない。」と国は主張していますが、授業は大学や学部の教育の大きな方針の枠(例えばカリキュラム)のなかで、行われることは当然のことであり、そのことは、助教授に限らず教授だからといってそれに反する授業をすることは認められないわけで、逆に単に教授の方針に反するからといって助教授の授業が認められないはずもありません、すなわち
教育権は教授も助教授も認められています。 したがって教授に助教授の授業を取り上げる権利はないのです。
 学部の意志決定の前に教授も助教授も平等です、教授も助教授にも学問教育の自由 があるはずです。しかし医学部では、学部の意志決定に教授しか関わることができないため、『教授の意志=学部の意志』という構図が生まれ、あたかも教授だけに権利が集中するような仕組みが作り出されてきたのです、そのため、助教授以下の教員の権利が侵害される様々な問題が生まれてくるのです。

 2 大学における学問の自由は教授だけのもの?

 国は、教授の方針に従わない学問=一般市民としての学問、(即ち大学での学問の 自由は教授だけのものである)というレトリックを使うことで助教授以下の教員の学問の自由を著しく制限する主張を行っています。しかし、このような学問の自由観は、学問の自由の本来の精神である真理探究、さらには、学問に必須である批判的精 神と相容れるものではなく、また、大学における学問の自由を保障することが国民の自由につながるという歴史的教訓・視点も欠如しています。
 かつて天皇機関説を唱えた美濃部達吉が治安維持法違反の嫌疑をかけられ、大学における学問の自由が制限されたとき、それを契機に一般の国民の自由はますます制限 される結果となったのです。
 このことから一定の身分が保障されている大学において学問の自由が制限され始めたとき、国民の自由の侵害がさらに容易に行われるという歴史的教訓が生まれました。今の憲法は、そこから批判的な目で真理の探究をその任務とする研究教育者の間には官僚的な上下関係は適していないという思想を取り入れたのです。
 
『教授の方針に従わない学問 =一般市民としての学問』というレトリックは教授の学問の自由の名のもとに学問の自由の侵害を正当化させ、学問に不可欠な批判的精神をも衰退させるものであります。そのことは結果的に国民全体の自由の基盤をも危うくすることにつながります。

 3 真理の前に人は平等である

 これまで述べてきたことを、法律の解釈の仕方との関係で少し詳しく述べると、学問の自由や学校教育法に関する解釈において、学校教育法や大学設置基準の中の裁判にとって都合のよいこと(助教授は、教授の職務を助ける;学校教育法58条)を、国は断片的にとりあげて、教授と助教授以下の関係をいわば通常の公務員関係のごとく官僚的な上下関係として捉えています。
 その結果、教授の命令や方針は絶対であって、それに従わない助教授以下の学問の自由や教育の自由はあり得ないとしています。このような論理の延長線上、即ち、官僚的な上下関係をもとに憲法の保障する学問の自由や教師の教育の自由の内容を決めています。

 そうすることによって、国は自らの主張を正当化しているのです。しかし、国のこのような解釈は、下位の法規(学校教育法)を都合良く解釈し、それを基に上位の法規(教育基本法、憲法)を解釈するという逆転した論理であって、通常の法解釈の常識とかけ離れたものです。
 正当な法解釈の手法に従い、憲法や教育基本法の価値体系に照らして学校教育法や大学設置基準を解釈するならば、国とは異なった結論が導かれます。
 まず、学問の自由の内容は、学問研究の自由、研究発表の自由、教授(教育)の自由の三つからなりたっています、そしてこれらが保障されるということは、具体的には学問研究への政府の干渉は絶対に許されてはならないことを意味しています。また「憲法23条は、学問の自由の実質的裏づけとして、教育機関において学問に従事する研究者に職務上の独立を認め、その身分を保障することを意味する。・・・この意味において、教育の自主・独立について定める教育基本法(10条参照)はとくに重要な意味をもつ」(芦辺信善『憲法』岩波135-6頁参照)とされています。
 すなわち憲法で保障された学問の自由を前提とした教育基本法10条1項では、教育とりわけ
高等教育は、学問の自由を基礎としつつ、自主的・創造的に行われなければならず、「不当な支配」に服してはならないとされています。これらのことは、とりもなおさず教官・教員の教育活動は自由になされるべきである、ということになります。
 また、教育基本法10条2項は教育行政の任務を条件整備に限局しており、その内容に踏み込まないようになっています、このことは教育活動は、その性質上、行政的な上から下への指揮命令が適していないからです、このことは、教員の勤務関係にも当てはまります。すなわち、教員の間に上下関係をもとにした秩序が適さないこと、教員の教育や研究活動に対する行政的拘束や統制は許されないことが確認されてくるのです。
 大学における教員の間に行政上の上下関係を前提とした秩序が適さないことは、学問に従事する研究者の職務上の独立を認め、その身分を保障している教育公務員特例法などからも確認することができます。教育公務員特例法では、その5条、6条および9条で、分限や懲戒などの不利益処分に関する定めを一般の公務員の不利益処分が行われた場合と比べて、慎重な審査手続を規定しています。これは大学教員等の身分を保障することによって、憲法で保障された学問の自由(憲法23条)を実質的現実なものにしてゆくという趣旨であり、その身分の保障により、大学における教育・研究活動が自主的・創造的に行われるようにするために他なりません。
 
注目すべきは、この教育公務員特例法5条、6条および9条が手厚く身分保障している教員は、教授のみならず、助教授、講師、助手も含まれていることです(同法2条2項、22条および同法施行令2条参照)。即ち、学問の自由(憲法23条)に基づいた身分保障は助教授、講師、助手にも及んでおります。そのことは学問の自由が単に教授だけではなく、助教授、講師、助手も保証されていることを意味してます。即ち、教育・研究活動の独立した担い手が、単に教授だけではなく、助教授、講師、助手も含まれているということになるのです。
 また憲法に基づく身分保障の事例として裁判官があります。裁判という権力的活動 においてさえ、法的真理を重視する裁判という場においては裁判官は独立しており、最高裁との関係においても、所属する裁判所の所長との関係においても、即ち、いか なる意味においても上下関係はありません。そして、この裁判官の独立は、裁判官の 身分保障でその独立性が現実のものとなるような仕組みとなっています。
 同様に、
真理探究の担い手である教員においても、その身分保障により現実に研究教育の独立性が保たれるようになっているのです。
したがって、同じように身分保障されトいる教授、助教授、講師、助手は、それぞれ独立しており、その間にいかなる意味においても指揮監督権の及ぶ上下関係はないということになります。

四 結 論

 以上のように、憲法、教育基本法の価値体系に基ずく前提にたつならば、国の解釈のごとく、講座の長である教授が自由な裁量により、原告である助教授の学問の自由や教授(教育)の自由を全て奪うような研究方針や予算の配分のあり方を決定し得るものではありません。
 さて、その学問の自由が保障されているはずの助教授以下の教員において、様々な権利の侵害が引き起こされているのはなぜでしょうか、それは学部の運営のされ方によるものと考えられます。
医学部では学部の意志決定が教授たちだけでなされるため、助教授以下の教員の学問の自由を侵害しかねないシステムや決定が容易に作り出されることになります。
 例えば、学問の自由の、前提となる教員の身分保障も、医学部では容易に助手の任期制が採用されることになり、危うくなっています。このことから、大学組織の意志決定に関わることがなければ、簡単に学問の自由は侵害されるという教訓が学び取れます。
 一方、大学が独法化されれば、大学の大枠の方針決定が大学以外の文部科学省や総 務省にゆだねられ、運営における具体的決定が学長を始めとする少数のメンバーによりなされることになります、したがって、医学部と同様に意志決定に関与できない大多数の教員の学問研究の自由が容易に侵害されることが予想されます、法律上は学問の自由が保障されていても、意志決定システムとの関係で教授を含め大多数の教員は医学部における助教授以下の教員と同等の学問の自由が与えられる可能性は高いと言えます。
 
すなわち、文部科学省や総務省と学長*を初めとする少数のメンバーの方針に反して授業や研究を認められることもなく、そのような学問は一般市民としての学問であり、大学における学問の自由とは関係ないものである。このような可能性が独法化されれば現実味を帯びてくることになります。

*なお、このときには学長の選出方法や権限も変更されることになります。

【付記】現在の法律では、国の公務員が行った違法な行為について裁判をおこす場合に、国が当事者となる仕組みとなっており、そのため、被告国の指定代理人として、所属の職員が関与することになっています。実際に本件においても琉球大学の職員もこの訴訟に関与しています。国の責任と代理人との関係、とりわけ国の主張について大学がどのような責任を負うかについて、現在、検討中であり、今後、議論を深めていきたいと考えています。

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