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本稿は月刊誌「前衛」2004年10月号に掲載されました。同誌編集部のご厚意により、日本科学者会議沖縄支部ホームページに全文を掲載します。教育・研究目的や部内での利用を除き、本稿の一部または全部を引用・出版等される場合は事前にご相談下さい。(日本科学者会議沖縄支部事務局)


■緊急現地レポート■

米軍ヘリ墜落事件 −目の当たりにした米軍基地の危険−

亀山 統一 (支部事務局長)

1 墜落直後の現場へ

 ハワイから派遣されている米海兵隊のCH53D大型輸送ヘリコプターが、8月13日、普天間基地南隣の沖縄国際大学(宜野湾市)に墜落炎上した。

 午後二時過ぎ、琉球大学農学部の校舎から北西方向に黒煙が高く上がるのが見えた。私の研究室からは普天間基地に離着陸する航空機が見える。基地の南側にあがった煙に、はっとして仕事の手を止めた。まもなく、軍用機が沖縄国際大学に墜落したとの電話が入った。

 慌てて私は、森林調査で使い慣れた撮影機材や双眼鏡、簡易測量機、野帖を鞄に詰め込み、現場に向かった。出発した午後3時頃には、琉球大から沖国大に向かう県道は1キロほどがずっと交通麻痺状態だった。バイクで渋滞をすり抜け、裏道を抜けて、沖国大前の広い市道にでると、非常線の先に消防車両が密集し、白煙が上がっていた。

 現場の全容をつかもうと、近くのアパートの屋上に上がった。すでにマスコミや近隣の住民が現場を見つめていた。墜落場所は、沖縄国際大学正門左手にある1号館と市道の間と分かった。

 ヘリは市道に面した建物側壁に接触して墜落していた。軒先が砕け、メインローター(主回転翼)が壁を激しくこすったものらしく、コンクリートが水平に3ヶ所、深くえぐれていた。壁面は火災の影響で真っ黒だ。壁の下には焼損した残骸が積み重なり、鎮火直後には、外から見える残骸が機体のどの部分なのかもよく分からなかった。

 ヘリが衝突した外壁に接して、職員駐車場側の1階の窓は粉々に割れていた。そこは事務室で、職員が常在する部屋だ。2階は学長室、3階は労組の部屋である。墜落当時、館内で約20名の職員が勤務していたことを後から知ったが、皆が無事だったことが信じられないような現場の状況であった。

 機体周囲の植栽はあまり倒れておらず、ヘリは壁に当たりながら垂直に近い角度で落ちたようだ。周囲の広葉樹が焼けこげていたが、火災の広がりも、事故の規模からすると最小限に抑えられたようだった。

 消火活動の中心は、宜野湾市消防本部が担っていた。赤い消防車両が現場を幾重に取り囲んでおり、1号館正面玄関前にも市消防の車両が見えた。墜落直後の消火活動の状況が、市消防の記録映像として翌日のテレビで放送された。インタビューに答える消防隊員は、同じ現場にいた米軍から、墜落機やその装備品に関して全く情報をもらえず、何があるか分からないまま激しい火勢に立ち向かった怖さを語っていた。

 しかし、鎮火後しばらくして私が現場に戻ったときには、取り囲んでいるのは米軍の黄色い消防車両であり、憲兵隊の車両であった。消火に当たった消防も、駆けつけた県警も、大学関係者も、1号館や機体の残骸のまわりには立ち入れない。墜落直後から、周辺一帯が米軍憲兵隊によって封鎖されたのである。

2 「軍政下」の沖国大

 米軍は事故機から機体の異常を早期に報告されていたらしく、墜落とほぼ同時に多数の兵士が現場に到着していた。道路を封鎖して通行人を排除するとともに、金網を乗り越えて大学構内の墜落現場に突入、一帯を制圧して、3名の乗員も収容した。1号館にいた職員は、「米軍がすぐ現場に来たので市民を助けに来たのかと思ったが、救援活動はせず、あたりを封鎖して人を追い出していた」と話している。墜落の瞬間を大学構内で見た2名の学生は、黒煙の方向に向かおうとしたら20名ほどの兵士に取り囲まれたと証言している。しかし、墜落の前後を通じて、米軍の側から県警、消防、自治体、沖国大などに情報が提供されることは一切なかったのである。

 墜落直後から、沖国大正門は通用口のみ通行可能で、1号館を取り囲む植込みや裏手の職員駐車場の一帯は非常線が張られていた。1号館正面玄関前には憲兵隊の指揮車とテントがあり、米軍が大学本部を「制圧」していた。大学前の市道も数百メートルにわたり封鎖された。封鎖場所の境界では県警が市民の排除に当たる。

 大学のキャンパス内を機動隊が固め、米軍関係者だけが、非常線の内外を自由に行き来している。大学関係者は、事務機能の集中する1号館に入れない。大学の公印も、教務書類も、取りに行けない。切断されたインターネット回線の復旧にも当たれない。丸一日以上たった14日夜になってようやく、沖国大学長は1号館への立ち入りを米軍から許可されたが、防衛施設庁の職員に伴われて3分間ほど入るというものだった。

 しかし、沖国大は抵抗していた。墜落翌朝には、「講義などは通常通り行います」との学長名の掲示を出した。1号館奥の7号館でも、正面玄関(2階につながる)を封鎖されたまま、1階の教室で朝から夏期の集中講義が行われていた。また、1号館と正門を挟んで向かい合う図書館も開館し、多くの学生の姿があった。米軍が張らせた黄色いテープを境に、国の主権も大学の自治も通用しない無法の空間と、教育研究機関であり続けようとしている大学とがせめぎ合っていた。

 14日朝、西原町の町長と町議会議長が沖国大に来学した。翁長町長は、正門を入ったところで、県警に対して、「事故機に異常が発生したとされる場所も、町界からすぐの所です。住民の生命・財産を守るべき自治体の長として、起こった事態を把握したいので、墜落現場を見せて下さい」と平穏に求め続けた。しかし、県警は拒否したあげくに、「入ろうとするなら実力で排除します。県警本部長の許可がなければ通せません」と機動隊が町長らを取り囲んだ。町長が本部長の連絡先を訊くと、「110番しなさい」と回答した。町長はその場で110番して事情を説明し、本部長につなぐよう求めていた。

 米軍が道路や私有地、学校を占領する法的根拠はなく、しかし、日本政府は抗議もしていなかった。説明不能の事態に、警察も高圧的に対応するほかなかったのだろうか。

 非常線の内側にいる沖縄県警もまた、排除される側であった。米軍関係者が淡々と機体の調査を進める間、県警と宜野湾市消防は現場検証を求めて現場で待機した。しかし、米軍は回答をいつまでも保留した。1号館の館内には14日夜になって立ち入りが認められ、機体の残骸付近は墜落2日後の15日夜に、県警が短時間の立ち入りを許された。このときも現場検証が許可されず、令状を必要としない実況見分として写真撮影できただけだった。

3 周辺市街にとびちる部品

 宜野湾市は、普天間基地のまわりをドーナツ状に市街地が取り囲んでいる。沖国大前の市道は、市の東部と南・西部を結ぶ幹線であるから、道路閉鎖の影響は甚しく、墜落当日は平日だったので周辺は激しく渋滞した。

 墜落現場の向かいには中古車販売店があり、機体の一部が多数飛来していた。お店の人は、自分の頭上に墜ちてくるヘリに逃げ場を失ったという。店の後ろは数メートルの崖で、その上は宜野湾3丁目の住宅密集地である。その住民の中には、外出先の家族から電話でヘリが墜ちていくと叫ばれ、直前に乳児を抱いて脱出した人もいる。子どもの部屋には飛来した部品が貫通した。

 私がこの住宅街で目撃したのは、道路や住宅の敷地に落ちた多数の部品である。あちこちでガラスが割れたり、塀が壊れたりしていた。目を引いたのは、8メートルほどの長さがあるヘリの主回転翼だ。CH53の翼1枚は11メートルある。先端が少し欠け、残りは原形を保ったまま数十メートルの距離を飛んできたことになる。民家の屋根をかすめて壊し、駐車場と家の前の道路に落下していた。現代の沖縄の民家は、台風とシロアリの被害を避けるため、鉄筋コンクリートの頑丈な外壁を持つ。木造ならこの翼だけでも大惨事をおこしただろうし、現状でも、飛来物の角度や人や車の動きがわずかに違えば、死傷者なしにはすまなかった。

 落下物は、当日夕方までに米軍が回収していった。県警は警備に当たるだけ。ある現場で、私は、県警の科学捜査班の到着に居合わせた。米兵は「全員の英文の身分証を提示せよ」と彼らを制止する。そのとき、警備の警官がおもわず私たちに「彼らに抗議して下さい」と言ったのである。現場の状況を象徴する場面であった。

 墜落ルートから数十メートル離れた、沖国大図書館向かいのレストラン「パブロ」では、飛来物はなかった。当時営業中で、至近で繰り返される爆発音と黒煙に包まれた。それでも、墜落当日は夜も開店した。店は非常線の内側数メートルにあったが、警備を押し切って多くの客が食事に来ていた。外はまだ異臭が漂う中で混み合う店内のにぎわいが、人々の抵抗の姿に見える。14日は、道路封鎖のため客が来られず、臨時休業を余儀なくされた。

4 「空中分解」の衝撃

 墜落現場の南方300メートルあまり、我如古区公民館横の斜面に、ヘリの機体後部が落ちている。後部回転翼が曲がっているだけで、水平板など機体後部の構造が完全な状態であった。墜落現場から飛来したのではない。つまり、墜落機は空中で破壊して尾部を落とし、制御不能の状態で沖国大に墜落したことになる。その後の調査で部品や油の落下が40ヶ所以上で見つかり、それらは、機体後部の落下地と墜落場所の間に集中している。

 地元マスコミが丹念に取材した目撃証言も、墜落機が空中分解したことを裏付けている。「琉球新報」の報道では、墜落機は中城村方面から飛来し、低高度で異音を出して琉球大学(西原町、墜落地から一・五キロ)上空を西向けに通過、北に旋回しつつ養護学校、病院、市立図書館上空を経て、中部商業高校から我如古公民館上空で機体後部が脱落、多数の部品を落下させつつ、右下に市立志真志小学校、宜野湾記念病院、市立宜野湾保育所をかすめて沖国大に到達した。

 今回のヘリ墜落事故は、日米両政府が認める「最も危険な基地」を放置して起こしたものである。日本の航空法令に従わない米海兵隊の航空基地が住宅密集地にあるとどんな事故がおこるか、懸念どおりの現実となった。しかし、私は、墜落現場の惨状以上に、墜落原因の重大さを強調したい。

 これまで、エンジンの不調による不時着や墜落、飛行中の機体からの部品や積荷の落下など、米軍機の重大事故は多発している。しかし今回は、飛行中のヘリが、衝突などの外的要因なしに機体後部を空中分解させ、制御不能となって墜落したものである。航空機の基本構造の破壊であり、乗員は何の対処もできない。想定外の事故ではなく、「想定してはならない」事故なのである。

 軍隊か民間かを問わず、このような事故を起こした者は、機体整備・運航管理の能力を全く欠いているということである。事故の直接の原因とともに、事故発生の危険を見逃した米軍の管理の問題点が完全に解明され、それらが完全に是正されたことが確かめられるまで、すべての米軍機は安全ではない。たとえ一時的でも、普天間基地のみならず全ての米軍機の飛行停止を日本政府が求めないことが、私には信じられない。

5 機体撤去…証拠は消された

 米軍は、週明けの16日、沖国大前の市道の車道の封鎖を解くとともに、墜落現場で無断で大学の樹木を伐採し、大型車を導入し、機体残骸の撤収を開始した。県警には翌17日に現場検証拒否を通知した。すべての残骸は回収され、跡地の表土もはぎ取って持ち去られた。何もなくなって米軍が封鎖を解いたその現場に、県警がようやく立ち入って現場検証を行った。機体後部も16日に回収され、同様に県警が跡地を検証している。

 日本側が、墜落原因究明や刑事責任追及に必要な証拠を保全する機会は失われた。事故原因の深刻さを思うと、住民に安全を保障するために欠かせない物的証拠を、事件当事者が回収するに任せた日本政府の屈辱的な姿勢を許せない。

 政府や県警は日米地位協定上やむを得ないとしているが、地位協定の条文をどう読んでも、民間地に落下して損害を与えた米軍の財産保全のために、米軍が民間地を封鎖し、土地や建物の所有者を立入らせず、火災や事件の捜査を行わせないような行為をなす権利を根拠づける規定などない。もし、地位協定上このような行為が容認されるならば、米軍の前には日本全土が全く無権利である。

 ところで、米軍による機体残骸の調査と撤去作業の過程で、放射能測定が行われていた。米軍は「EBERLINE E?520」型によく似たガイガーカウンターを土壌や残骸に向けていた。また、黄色の防護服姿の兵士が、オレンジ色に包装した箱を回収した。事故機が放射性物質を積んでいた可能性が示唆される。作業に当たった米軍兵士のほとんどは、放射線防護や粉塵の付着・吸入防止の態勢を取っていないので、兵士の健康を犠牲にして情報を隠したのでない限り、強い放射能をもつ物質はなかったと思われる。推測されるのは劣化ウランとエンジン部品である。

 劣化ウランは、核燃料物質として法令で規制され、日本国内では軍事利用できない。米国では、戦車や地中の目標を貫通して発火する徹甲焼夷弾に用いられる。このほかに、劣化ウランは航空部品としても使われた時期がある。

 米国原子力規制委員会の文書NUREG-1717(2001年)や同委員会職員がコロラド州公衆衛生環境局に提出した文書(1999年)によると、軍用機では、A7、F111、C5A、C141、C130、KC130、P3C、S3A/Bの航空機と、未詳ながらミサイル・ロケット類に、劣化ウラン製のバランサー(おもり)などの部品が使用されていた。また、ヘリコプターでは、一部メーカーのローターの先端に装着されていた。これ以外の軍用機への劣化ウラン部品の使用状況は全く不明である。墜落したCH53D型ヘリは30年あまり使用された旧型機であり、公表されていないが劣化ウラン製部品が機材に使われていたとしても矛盾はない。

 墜落現場で米軍が何をしたのか、放射能測定の理由も含めて日本政府は明らかにさせる責任がある。

6 飛行再開、部隊はイラクへ

 空中分解・墜落炎上という最大級の航空機事故を起こしながら、米軍は航空機の飛行制限を最小にとどめている。鎮火直後に、現場上空を普天間所属のCH46中型ヘリが旋回飛行した。KC130など固定翼機(ヘリ以外の飛行機)は墜落翌日の14日には低空飛行訓練を再開した。米軍は、16日にCH53D以外の飛行再開を通告したが、このことは、事故機と基本設計が同じCH53E型機も含め、普天間基地所属の全航空機を飛ばすことを意味する。

 普天間のCH46ヘリは、嘉手納基地に飛来して運用されている。普天間から数キロしか離れていない嘉手納基地は、運航が続いているのである。

 そして、22日には、事故原因も不明のまま、事故機と同型の6機が普天間基地を離陸した。沖縄本島を横断して、ホワイトビーチ軍港を出港していた佐世保基地所属の強襲揚陸艦エセックスに向け飛行したのである。エセックスに艦載されたCH53D機は、沖縄の第31海兵遠征団とともにイラクに派遣される。米海兵隊司令官は「通常、同様の事故が起きないと完全に確証されるまで飛行を再開することはない」(「朝日新聞」)としており、対イラク作戦を優先して住民の安全を無視した米国の姿勢が鮮明になった。

 ところで、CH53Dはハワイにのみ配備されている機種である。それがなぜ沖縄にいたのだろうか。沖縄に司令部を置く第3海兵遠征軍は、航空部隊を普天間のほかに、岩国基地とハワイ・カネオヘ湾においている。1995年以来の基地撤去の運動の盛り上がりを受けて、沖縄の負担軽減措置として普天間所属のKC130空中給油機を岩国に移駐している。しかし、KC130は普天間のCH53E大型ヘリへの給油が主任務なので、普天間に事実上常駐しているのである。同様に、カネオヘ湾に3個中隊あるCH53D部隊は、2002年以降、半年交替のローテーションで岩国に派遣され(UDPという)、「対テロ戦争」に出撃した在日米軍の穴を埋めている。派遣先は岩国だが、輸送ヘリが海兵隊本隊から離れていても無意味なので、実態は、沖縄に常駐しているのである。

 このように、UDPは在日米軍基地の機能強化の手段であるとともに、米軍が今重視している、部隊配置を固定せずに世界中の必要な場所に派遣する「柔軟な運用」態勢そのものである。このために、CH53Dのような超老朽機さえ、習熟した専門の整備・技術要員のもとから離され、今回の事故につながったとも言えよう。また、これが日米両政府のいう沖縄の負担軽減策の所産であることも、見逃してはならない。

 しかし、日本政府は基地撤去も地位協定見直しも求めない。名護市辺野古への海上基地建設など、SACO路線も変えない。沖縄県民は、休暇中の小泉首相から、まだ事件についてのコメント一つ受けていないのである。

7 自治体・住民の反応

 墜落事件に対して、宜野湾市は直ちに抗議声明を出した。

 伊波市長は最初のコメントで、「普天間基地のヘリ基地としての運用を止めるよう求める」と表明した。喫緊の課題としてあえて基地撤去と言わず、かつてない重大航空事故を起こしたもとで、航空基地としての運用を直ちに止めさせることは、政府・自治体がイデオロギーをこえて本来要求すべきことである。日米安保体制がいかに重要でも、政府はこれを拒否できない性質の要求であった。

 宜野湾市議会が16日に全会一致で発した決議では、普天間基地の早期返還、SACO合意の見直し・辺野古沖移設見直し、地位協定抜本見直しなど、画期的な内容の要求を行っている。17日の県議会意見書では、SACO合意の見直しの要求は盛り込まれず、今後15年以上かかる普天間基地の辺野古移設の方針を変えるに至っていない。しかし、副知事もSACOの一部見直しなどを口にせざるを得ない状況である。このほかの自治体でも抗議決議が相次ぎ、米軍の民間地封鎖や飛行再開への抗議も広がっている。

 自治体レベルの反応は速く、政府の屈従的姿勢との対比は鋭い。一方、県民の抗議行動は数百人、数千人のレベルであり、一見、運動は盛り上がっていないようにも見える。しかし、事件が県民に与えた衝撃は深く大きい。一例を挙げれば、少数与党の伊波市長が9月5日に沖国大のグラウンドで市民大会開催を提唱したところ、すみやかに市内の全自治会の参加が確認された。

 事件の深刻さが明らかになり、基地の外でも「米軍主権」であることを見せつけられると、事故対策とは、普天間や嘉手納の基地撤去、米軍の沖縄からの撤退要求にほかならない。それは、かつてはいわば「根本的」な解決策であり、振興策や負担軽減策と称するもので妥協させられてきた。しかし、普天間基地を運用しながら再発を防止する策はない。95年当時よりも切迫した状況で、絶対に動かないように見える基地を動かすだけの行動をするのか、それをどうすれば実現できるのか、県民はいま真剣に考えているように思われる。県民は選択を迫られ、ふさわしい行動の場を待っている。軍事基地との「共存」の60年の歴史を変える選択へと、私たちは踏み出さなければならない。

 一方、今回の事件は日本本土にも鋭い問題提起をしている。

 全国マスコミでは、この事件が、なぜ、お盆の交通混雑やプロ野球のオーナーの動向より小さなニュースなのだろうか。県民が何人か死なないと注目してくれないのだろうか。現場に張り付いている記者の熱意と紙面との落差に、言葉がない。沖縄での事実が全国に伝わらないなかで、政府のあからさまな米国追従が見逃されている。

 本土の軍事施設は、実は沖縄を上回るレベルで再編強化が進んでいる。有事法制の整備状況を考え合わせると、今回の事件は日本のどこで再現されてもおかしくない。現実に、19日にも米軍のUH1Nヘリが横浜のみなとみらい地区に不時着している。もし、このヘリが首都圏のビルに衝突・墜落していたら、何が起こったろうか。全国に共通して、私たちの生命財産と主権が軍隊に侵され、彼らはアジア・太平洋の広大な地域に出撃していくのである。たしかに、軍事占領の歴史や米軍基地の集中という特異性ゆえに、沖縄で起こる基地問題は本土と違う特殊な問題と思われがちだ。しかし、今回の事件は、沖縄の矛盾をわがこととして連帯する「沖縄問題」としての取組みから、日本全体の平和と主権の問題へと、認識の発展を求めているのではないだろうか。

 

 8月24日記。本稿では、朝日新聞、NHK沖縄、沖縄タイムス、共同通信、琉球新報の各社の報道、日本科学者会議会員の論文や見解を、引用したり、参考とした。

 本稿は、「前衛」10月号に掲載された。これは、著者が事件直後に高等教育フォーラム・メーリングリスト(he-forum)に投稿したレポートを読んだ同誌編集長から、JSA支部事務局長として同誌に加筆・寄稿するよう依頼されたものである。

原典: 亀山統一(2004)米軍ヘリ墜落事件 −目の当たりにした米軍基地の危険−.前衛2004年10月号.133-200.

墜落事件当日の沖国大1号館

沖国大1号館は米軍が封鎖し、機動隊が警備する

8メートルもある回転翼が住宅地に降ってきた

袋掛けしてある根元部分に、ストロンチウム90(β線を発する放射性同位体)を用いた部品が組み込まれている。それは後日発表された。

墜落機の機体後部は、300m手前の上空で脱落した。現場は、我如古公民館横の崖地。

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