■会員の肖像 2003.12■

医学・医療と平和

武居 洋(沖縄支部代表幹事)

1.はじめに −原爆追体験のインパクト−

 被爆から11年目に、医学生として長崎に住むことになった。爆心地から約500メートルの距離にあった長崎大学附属病院は、鉄筋の骨格だけを残して崩れ落ちていた。病院の高い煙突が爆風の圧力でくの字型に曲がっていた。基礎医学の建物は、木造であったため焼野原と化し、その跡地にようやく新築の真新しい校舎が建っていた(1956年)。
 一つの教室では、授業中に被爆したので、先生・学生とも机に向って並んだままの状態で骨だけが残っていたという。医学部の学長、多数の教授をはじめ教職員、学生合わせて893柱が一瞬にして犠牲になった。日本で最も古い医学部、西洋医学の発祥地の破壊は大きな損失であった。
 原爆投下後11年目にみる傷痕はそればかりではなかった。丁度、その頃日赤原爆病院ができたばかりであったが、ヒバク患者はこの病院に殺到していた。私はこの原爆病院で夏期実習、インターン(実地修練)を行なった。そこで目撃した原爆による深い傷跡とは、後遺症とそれに苦しむヒバクシャの心の傷であった。血液のがんである白血病、悪性リンパ腫、再生不良性貧血、皮膚のやけどとそれがふくらんだケロイド、胃癌等々の患者。

2.忘れ得ぬ原爆症患者の苦しみ − ヒバクシャの群わが背を鞭打つ −

 一人のヒバクシャの男性が入院した。40才代の会社員、職場で野球の最中に急に骨の痛みを感じて原爆病院へ。急性の白血病ということが分かった。病室に看病に来る奥さん、2人の子供達が可愛想であった。体の痛みで苦しむさ中に「先生何とかして下さい」と叫んで息を引きとった。奥さんと子供達はベッドの布団にすがりついて泣いた。こうした場面を私は決して忘れることができない。

3.医学・医療とその実践

 長崎で医学・医療へのとりくみを始めたことが、私のその後の生き方を形成して行ったと思う。長崎では原爆1発により、その年の中に死亡した人が7万人±1万人、そしてそれと同数の被爆生存者が出た。被爆生存者らは、愛する肉身を失い、家族・財産を失い、いのち・こころ・くらしの全面にわたる重い苦痛を背負って生きてきた。特に被爆当時の青年・乙女達は、青春時代を奪われてしまい、未来に絶望して自暴自棄となり、自殺を計るものが多かった。多くのヒバクシャは人目をさけ、日陰の暗い生活をしていた。特に被爆後10年余りは、GHQにより意図的に被爆の実相が隠ぺいされた。
 1955年第1回原水禁世界大会を契機として、ヒバクシャも原爆反対を訴える活動家と共に、ヒバクシャ援護連帯、核兵器廃絶を訴えはじめた。このように、活動家に支えられながらヒバクシャらは絶望の中から立ち上り、自分達の要求を訴えるようになって行った。1956年、全国的なヒバクシャの組織・日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成された。
 私は医学生の頃から、毎年の原水禁世界大会、核実験反対の集会などに、ヒバクシャと共に参加するようになった。運動に参加するヒバクシャは多数とはいえなかったが、原水禁の運動家に支えられながら次第に生き甲斐を見出してゆくヒバクシャらの生きぎまに、私自身も動かされた。「生きる以上は核兵器のない世界が実現するまで生きて闘う。これ以上自分達のようなヒバクシャをつくってはならない」という思いであったと思う。これこそが人間としての尊厳であり、誇りであると思う。
 医療人は、医学の研究・治療そして予防などに専念することが本来の使命であろう。それだけで事足りるであろうか。原爆症のように不治の病を患う患者の支えになってやれる医療の実践が、求められていると思う.
 私の場合はヒバクシャとともに原水禁運動を続けてゆくことである。

4.NGO被爆問題国際シンボ (1977)

 このシンポジウムは、準備の段階から最終段階(第3段階)まで延べ2万数千人の各界各層の人々が参加し、かつてない大規模なシンポとなった。シンポの目的は、被爆の実相と後遺・ヒバクシャの実情を明らかにし、世界に普及することであった。「人間の顔をもった」シンポ(加藤周一)ともいわれた。このシンポを通してヒバクシャは励まされ、ヒバクシャと一般市民との信頼関係が深まった。
 シンポのための国際調査団の中には、ロートブラット氏など著名な科学者や法律家などがいた。ロートブラット氏はマンハッタン計画に参加していたが、ドイツが降伏した後に研究チームから離脱した。
 総勢23名の科学者調査団に対してヒバクシャの実相は大きなインパクトを与えたようだ。ヒロシマ・ナガサキを世界に普及するために大いに貢献したものと思われる。私はこのシンポで長崎連絡事務局の共同代表を務めた。長崎からは「長崎レポート」という報告書を作成、そのダイジェスト版の英文レポート「NAGASAKI REPORT」を作成し、海外に普及した。
 また、このシンポでは、原爆の後遺症に関して、未知性という特質が強調された。この視点が重要であった例として、シンポの時点では5種類のがんのみ原爆放射線により発生すると報告されたが、その後、原爆後遺症としての発がんが次々と明らかにされ、ほとんどすべてのがんが原爆放射線によるものであることが明らかとなったのである。

5.核戦争を防ぐ国際医師の会(IPPNW)の活動

 心ある、米・ソの国際的に著名な医学者などが、1980年、核戦争勃発の危機を背景に握手をかわし、共に危機回避について話し合い、核戦争がおこれば人類最後の疫病となり、最後の救助となってしまうことを確認し合い、その予防のために「核戦争を防ぐ国際医師の会」(IPPNW)を結成し運動に立ちあがった.翌81年にIPPNW第1回総会が開かれた。これには、NGO国際シンポの医学の分野で中心的なレポートを提出した広島の大北威氏・庄野直美氏が、また長崎からは市丸道人氏が、日本代表として参加、我々は長崎で市丸氏を送り出すために事務局を務めた。1985年、この団体はノーベル平和賞を受賞、また第3回総会では医学の祖ヒポクラテスがBC400年代に医師の倫理綱領として樹立した「ヒポクラテスの誓い」に対して、核時代における新たな条項を加えた。それは、
「20世紀の医師として、核戦争は人類最後の疫病となることを認識し、核戦争防止のために力のおよぶ限り努力することを決意する」というものである。
 この活動の趣旨に共鳴した日本の先進的な医師らは、1987年に「反核医師・医学者のつどい」を結成した。今年3月15日、沖縄県で反核医師の会が、全国で28番目に結成された。また全国の「つどい」も、去る11月1・2日に沖縄で開催した。

6.軍縮教育世界会議への代表参加(1980)

 開催の趣旨は、1970年代を「国連軍縮の10年」と銘打ってキャンペーンをやってきたが成功しなかった。そこで1980年代をさらに「第二次国連軍縮の10年」とし、そのスタートの年である1980年にパリのユネスコで、軍縮教育世界会議を開催することとした、というものである。丁度この頃、ソ連のアフガン進攻があり、米・ソの対立と緊張は極度に高まっていた。この会議では以下のような「軍縮教育の指導原理」が決議された。

◎軍縮教育は核戦争の危険性のある今日、すべての教育、報道に従事するものの使命である。
◎軍縮教育は軍縮についての教育と軍縮のための教育に分けることができる
◎軍籍教育は、人権教育、開発教育と不可分の関係にある。
◎軍縮について何を考えるかよりもいかに考えるかがより重要である。
◎軍縮教育は世界の各地域の実情に合わせて実践することが望ましく、参加学習がより効果的である。


私は帰国後間もなく沖縄へ赴任することになり(1981)、琉大の「核の科学」総合科目の教育に参加できることになった。これは非常によいタイミングであった。

7.「平和の創造委員会」の結成(1985年・戦後40周年)

 今日まで毎年「慰霊の日」には平和アピールを発表し、今まで情勢に見合ったシンポ、講演会などを開催してきた。

8.世界科連主催の平和フォーラムへの参加

 1980年代後半の、モスクワ開催、アテネ開催の2度にわたって参加、モスクワではヒバクシャ問題、アテネでは沖縄米軍基地の危険性について報告した。アテネでの報告は世界科連のジャーナルに論文として掲載された。アテネの会議ではゴルバチョフの「新思考」が議論されたが、東欧ソ連からの欠席が目立ち、ソ連邦崩壊の前夜であったことが後になって分かった。この両会議でモーリス・ウィルキンス氏にお会いし、親しく話ができたことは、大きな感激であった。

9.むすび

 20世紀、原爆による生命の秩序の破壊、最大の人間破壊を追体験したものの一人として、人間の完全な回復が達成されるまで、永久運動を続ける決意である。医療人の最大の使命はいのちと平和を守ることであると考える。

(2003年沖縄支部年末交流集会抄録)

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