思考の技法

学生のテスト・レポートより

 

2000年度

問題:

 次の文章は,先週行った学生による授業評価の中の,「改善すべき点」に対する1回答です。このままでは,情報が不十分なので,教師である私は,これが具体的にどういった状況を指しており,それを具体的にはどのように改善したらいいのかが分かりにくいので困っています。そこで,以下の文章に,具体例や具体的なアドバイスを補足することによって,この意見が生きるようにしてあげてください。あるいは,あなたがこの意見とは反対の意見をもっている場合は,「反論」でも構いません。

「先生はクリティカルシンキングの研究をされていて,いろいろなことを知っていらっしゃると思うのですが,そのために,学生の的外れの意見を排除してしまう傾向が部分部分で見られました。もう少し,そういった学生の意見も一歩下がって聞いてあげられたら,もっといいなと思いました。」

学生の答え:

 ある学生が発言していたとき,先生は1回目に黙って聞いていて,その発言の意味がよく分からなかったと思うのですが(自分もよく分からなかったのですが),もう一度聞き返していました。それでその学生がもう一度発言していたときに,そのとき扱っていた課題の内容とズレていることがわかり,発言の途中で「それは,別のことを言っているよ」というような感じで,発言を切っていたように記憶してます。

 確かにその発言を聞いているときは,的がズレていたように思いました。しかし,もしかしたらその学生には何らかの別の(課題内容に沿った)裏づけがあって,そういう発言をしたのではないかと考えました。もしそうだとしたら,そういう発言は「多面的な見方」の一つとして扱われてもいいのではないでしょうか。その学生に,この課題で,どうしてこんな発言が出たのかということを,学生自身に聞く方が,より効果的なクリシンになるのでは,と思います。

 例えば,毎週の宿題として出された実験計画批判には,あらかじめ正解があって,そことずれた答えを述べた学生の意見は結局不採用という場面が何回かあったように思う。

 基本的に学生の自由な発言の場となれるような形の講義だと思うので,たとえ的外れ的な意見でも「どうしてそう考えたのか?」といったことをみんなで話し合えるような雰囲気を作っていければいいと思う。今回,講義中に先生が学生の意見を何とか汲み取ろうとしている場面も多く見られたので,そこでもう少し学生の立場に立って考えることができたら,学生ももっと活発に意見を述べることができると思う。

 私は授業の予習・宿題を発表するとき,自分の意見には自信が持てなかった。他人の意見が出て,それが先生の考えと等しければ,それ以上の意見は出てこないと感じる。実際,異なった意見を言った場合,先生の返答があるのだが,他の受講生にも同じような意見を持った人がいるかもしれない。

 そこで先生の返答だけでなく,その意見に対して他の受講生の意見というものも聞いたらいいと思います。どのような意見も尊重されるのが思考の技法での良い点だと感じてきました。しかし,的外れの意見に対しては,先生の返答があり,そのまま消えているような気がしました。そこで他の受講生からの意見,さまざまな意見が出てくれば,良い雰囲気ができ,討論ができると思います。なぜ的外れなのか,他の人がどう思うのか,多面的に見る機会を与えられれば,その人の意見も授業の中で意味あるものとなるし,学習の達成感があると思います。私は,的外れと思われている意見に対して,他人の意見も聞いてみたり,いっしょに考えるということが,「一歩下がって」ということではないかと思います。

 先生が質問に答えるとき,「うーん,なるほどー。そういう見方もあるんですねー。でも私はこう思うのですよ」と,先生の意見を黒板に書き,「よろしいでしょうか?」とおっしゃることがありました。この問題は,的外れの意見を受け,反論を述べ,確認で止めるという方法から来ていると思います。

 この授業形式では,生徒の理解は深まると思いますが,先生の理解は深まらないと思います。その証拠がこの問題用紙ではありませんか? フィードバックペーパーもそうですが,紙を通してでしか<対話>ができないのはおかしいと思います。

 的外れの意見を掘り下げない要因に,時間とノルマの問題が挙げられます。以前,私が食い下がって尋ねた後に「時間がなくなってまいりました」と先生がおっしゃったことがありました。本筋(ノルマ)の授業時間を尊重するために,筋の外れた意見を尊重できないのではないでしょうか。

 また,「よろしいでしょうか?」とYES or NOの質問をなさるため,先生は排除したと思わなくても,「意見を排除している」と受け取られたのではないかとも考えられます。話を掘り下げるには,「どう思いますか?」と確認の言葉を改める必要があると思います。

 私見として,(先生も同じことを考えているかもしれないが)クリシンというのは,間違いを指摘するということもあるが,おかしな点を指摘するということも含まれると思う。この場合は答えを言うのではなく,おかしな点や間違った点を排除した後に残った部分を見つけ出すことだろうと思う。このように考えると,学生の的外れのように見える意見には,もちろんその意見に行き着くまでの過程があるわけであって,一部分が間違っていたり,おかしな点があれば,その意見はそこで終わりなのかと言うとそうではないと思う。最後まで考察してはじめて総合的に意見を述べる。このようなことが言いたかったのではないかと思う。

 先生が指摘する部分も,先生の中では間違いまたはおかしな部分かもしれないが,生徒側から見れば,その部分がおかしい点かもしれない。そこの意見も生徒に聞くべきと思う。私は,大学生になると,意見を述べる過程に関しては,おおかた理論的な間違いやズレは生じないと思う。しかし,その過程内での言葉の意味や定義の違いから,意見が分かれていくと思う。そこのところを聴いて自分のその言葉の意味や定義が違うだけで,学生の的外れな意見を排除しては行けないという意味で書いたものだろうと思う。

 このような生徒の意見を聞いていたのでは授業の時間が限られてくるということがあるので,区切りをつけるという点においてはいいと思う。しかし,クリシンの講義がこのように区切られては,クリシンの講義とは言えないような気がする。だから,一つの意見として「このように考えた場合にはこうなります」くらいの区切り方をしたほうがクリシンの講義としては,より適しているように思う。

 僕たちは大学に入ってはじめてクリティカルシンキングというものを目の当たりにしました。これは言ってみるならば,小学生が一番最初に算数を習うみたいな感じに似ていると思います。なので,分からないこともいっぱいありました。そこで,普通の授業なら学生たちは分かったふりをして,意見などは言わないのですが,この授業では,授業の性質上,みんなたくさん意見を言ったように思います(これは素晴らしいことだと思います)。そこで,僕も的外れの意見を何度か,言ったように思います。そのとき,確かにちょっと先生の反応というか,答えは,ちょっと胸にぐさっとくるというか,そんな感じがしたように思います。

 だけど,すぐに僕は「なるほど,そういうことか」と思えました。それが先生のクリティカルシンキング的な意見,批判だと思えました。しかし,この人が言っていることも分かるような気がします。なので,先生は学生に,「なに意味のわからないこと言っているんだ?」とおもっても,答えるときには,もう少し和らげておっしゃるようにして「うーん,そうだね。こういう意見もあるんだね。だけど,これはね・・・。」というようにすればいいのではないかと思います。

 確かに普通の物理や数学の授業ならば,答えが違うとき「はい,それは違います。こうです」といえばいいと思うのですが,そういう授業が学生が意見する機会を減らしているのも確かだと思います。この授業はクリティカルシンキングの授業なのだから,授業計画批判で学んだように学生の意見を尊重することが大切だと思います。そのためには意見を言いやすい環境を作ることも大切なように思います。

 最後に,この人は僕が思うには,この人が意見したときに,先生はちゃんと説明して「これはこういう事なんではないでしょうか?」といっていたのだけれど(そしてこれは先生の意見,批判だと思うのですけど),それを毎回聞いているうちに,排除されていると思い込んでしまったのではないかと思います。そういう意味で,先生のおっしゃっていることを聞いて「排除されている」と感じるのは違うと思うし,先生の意見は「なるほど」と思えたのですが,その反面,先生が「何言ってるの?」と思ったときにも,もう少し,言い方を和らげることも必要かなと思いました。