読書と日々の記録2000.01
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■読書記録: 30日短評4冊 30日『沖縄から見た平和憲法』 27日『ワイルド・スワン』 24日『心のことば』 21日『授業を変えれば大学は変わる』 18日『生涯発達心理学のすすめ』 15日『性格研究の技法』 12日『消費者教育論』 9日『社会的認知』 6日『誰も書かなかったバチカン』 3日『超常現象の心理学』
■日々記録: 27日私の授業評価/改革論 24日イカスミそば 21日私の授業評価/1月の沖縄 18日心理学関係ホームページ 15日センター試験で耳学問 9日我が家のY2K(続)/はごろもそば 6日我が家の2000年問題 3日今年の正月/カトリックの2000年

 

2000/01/30(日)

■『沖縄から見た平和憲法 −万人(うまんちゅ)が主役』(高良鉄美 1997 未來社 \1700)

 これから読書の記録に、月に一回ぐらい意識的に沖縄ものを入れていこうと思っている。独特の歴史や文化や自然を持った土地だし、それに何といっても私の町だし。その手始めが本書(正確には9月に1冊沖縄ものを取り上げているけど)。著者は琉大法文学部教授で、憲法・行政法が専門。いくつかの雑誌に寄稿した文章を元に作られた本らしく、各章の内容には重複している部分もあるが、第1章の講演記録「万人が主役」に主要な論点はあらかた出ているし、講演なので読みやすい。

 内容は、沖縄の歴史、米軍と沖縄、代理署名訴訟、駐留軍用地特別措置法、県民投票などについて、日本国憲法の基本的人権(平和的生存権)という観点から語られている。沖縄ではときどき「沖縄からは、日本がよく見える」という表現が使われることがある。一般的にはこれは、沖縄は小さな島国なので、日本の島国社会がさらに凝縮されているという意味だが、本書に関しては、米軍基地問題での沖縄の扱われ方を見れば、日本国憲法の理念と実際のズレがよりはっきり見える、ということのようである。

 たとえば1997年4月に行なわれた特措法改正。現在沖縄だけにしか適用されていない、米軍用の土地を強制的かつ半永久的に収用することができる法律(p.55)だ。議会を通ったと言うことは多数決で決まったと言うことだが、しかし筆者は、基本的人権に関わる問題は、多数決は働かないもの、作用しないものだと言う。そうでなければ、たとえば日本の宗教を国会で多数決によって決める、という信教の自由を侵す決定も可能になってしまうからだ。だからこそ憲法は、基本的人権としての信教の自由を、このような法律によっても侵されない権利として保証している(p.56)

 このような事例や、米兵がらみの刑事事件(復帰〜1996年まで4700件強)における両国の対応その他から筆者は、「結局、沖縄の復帰はまったく形式的なもので、実質的には現在も米軍が統治をして、日本政府がそれを支えているようなもの」(p.78)とさえ言っている。沖縄ではときどき、「沖縄独立論」が沸き起こる。そういえば昨日の新聞の広告にも『沖縄は独立国家へ』という本が載っていた。高良氏はこのような状況に対して次のように述べている。 「沖縄は独立したくて、独立論を展開しているのではないのである。国民の基本的主権が守られることを最優先し、主権者国民が国政をきちんと監視し、きっぱりとあくまで平和主義を貫く。この憲法の基本原則が守られていく社会なら、沖縄の独立論は出てこないのである。」 憲法論議は、沖縄を理解する上で欠かせない点の1つなのかもしれない。

  • 国民に情報が提示されて、いろいろな状況をみて国民が判断する、これが戦争を抑止するうえで大きな意味をもっています。ですから、今の憲法の成立過程で、国民主権は当然とるべき制度だったのです。(p.35)

■今月ほかに読んだ本は4冊

 ...と言っても1冊は童話だけど。もう少し減らさねば、とは思うものの、積ん読書の山がはよ読めと急かしているようで...

『Q&Aで知る統計データ解析』(繁桝・柳井・森 1999 サイエンス社 \2400)

統計に関する115の質問と答え。いざ使うときに役に立ちそう。通読するタイプの本ではないが、一応通して読んでみた。自分が使わない分析関係の話はほとんど分からなかったけど。

『幼児心理学への招待−子どもの世界づくり−』(内田伸子 1989 サイエンス社)

子どもは「周りの人々と積極的にやりとりしながら自律の道を求める存在」であるという子ども観に基づいた幼児心理学の本。全体的には教科書的という印象だが、コラムの形で子どもの事例(母子のやり取りの例とか)がたくさん挙げられている。

『発達心理学への招待』(柏木・古澤・宮下 1996 ミネルヴァ書房 \2500)

従来の発達心理学入門書が不満で、あえて「最新流行、最前線、品揃え豊富」でない本を、3人の協同執筆(分担執筆ではなく)で作ったという本。専門用語や理論を振りかざさず、数ページの読みきりで、というコンセプトは非常にいいと思うが、あまり付箋はつかなかったなぁ。

『海そうシャンプー』(魚住直子 1999 学習研究社 \1200)

 大学の後輩の作品。実験心理学で卒論書いたのに、臨床心理学的センスのある本を書いている。本書は3作目で、前2作(小学校高学年〜中学生向け?)と違い、幼稚園〜小学校2年生向けの、ほとんど絵本。海藻シャンプーというアイデアは面白いが、ちょっと教育的というか説教くさいかんじ。

2000/01/27(木)

■『ワイルド・スワン(上・中・下)』(ユン・チアン 1991/1998 講談社文庫 計\2400)

 学生のお勧め本より。文庫本3巻合わせて955ページある大著。オビには、「もはや現代の古典」「800万部を超えるベストセラー」「イギリスが選んだ今世紀の100冊ノンフィクション部門堂々の第1位!!」などとある。確かに面白かった。1ヶ月ぐらいかけて読むか、と思っていたが、10日ぐらいで読み終えてしまった。

 内容は、著者、著者の母、著者の祖母の3代にわたる女性が体験した、1909年から1978年までの中国現代史だ。纏足をしており、軍閥将軍の妾になった祖母や、満州で日本軍、国民党、中国共産党の支配を受け、共産党員と結婚した母の物語もすごかったが、私と10歳しか違わない著者が体験した文化大革命前後の生活には、想像を絶するものがある。たとえば、1967年ごろというと、日本はだんだん暮らしが豊かになっていった頃だと思うが、その頃著者は、文化大革命のせいで学校は停止したまま、砂糖も石鹸も手に入らない、本も音楽も映画もなく、劇場も美術館も茶館も閉まっている(下p.14)中で暮らしていたという。

 毛沢東の中国では、自分の心をさぐり、誤りを正して、もっと良い人間に生まれ変わるために、という名目で自己査問や自己批判が行われていた。しかしほんとうのところは、自分の考えを一切持たない人間を作るのが目的(中p.159)だったという。あるとき毛沢東は、知識人に共産党批判を要請している。しかしこれは、自分に対立する可能性のある人間を一人残らずいぶり出すための罠であり、1年間で少なくとも55万人の人間が職場から追放されている(中p.60)。毛沢東の論理は「まず破壊せよ、建設はそこから生まれる」であり、そのために党が崩壊しても構わない。なぜなら皇帝としての毛沢東は、つねに共産主義者としての毛沢東よりも上位にある(中p.169)からだ。こういう話を読むと、ここで行われていたことは批判と言いながらも、批判からまったくかけ離れた行為であることが分かる。ちゃんとした批判がなされるためには、批判者自身も含め、あらゆるものが批判に開かれている必要がある。

 文庫版で言うと中巻はずっとこのような恐怖と苦痛の日々だが、下巻になって少しずつ状況が好転していく。著者も少しずつ、懐疑的な見方ができるようになっていく。硬直した思考回路を打ち壊す力になったのが、著者の弟の皮肉っぽい斜に構えた意見であり、国外から少しずつ入ってくる情報であった。たとえば、毛沢東や文化大革命を賞賛する外国の記事が転載されている新聞からも、西側世界が中国とは違う自由で寛容な社会であることが分かる。なぜなら、それらの国では、自国の体制とは異なる意見も許される社会ということだからだ。「西側の進歩を支えているのは、まさにこの反対意見を許す寛容さ、抗議を許す寛容さだということが、私にはだんだんと見えてきた」(下p.226)と著者は述べている。

 このような本を読むにつけ、ものごとを多面的に見ること、なされたことをきちんと評価/批判すること、そしてその批判がすべてのものに開かれていることがいかに大事なことなのか、と改めて考えさせられる。

■私の授業評価/改革論

 はせぴぃ先生@岡山大学の1月24日の日記に触発されて、授業評価について考えてみた。はせぴぃ先生は次のように書かれている(適宜要約しながら抜粋)。

  1. 学生による授業評価によって改善されるのはいわば授業の欠陥部分。
  2. さらに「テーマそのものへの理解度を増すためのヒントが得られるのか」などという点で、授業評価結果から改善に役立つ有用な情報が得られるかどうかはかなり疑問。
  3. 評価項目の設定のしかたにもよるだろうが、評価結果をあげることばかりを気にしていると、「学生にハードな課題を与え、嫌われながらも徹底的にしごく」というような教授法は廃れていく可能性がある。

 まず、1と2はまったくその通りで、授業評価に限らず、あらゆる評価/診断行為は「問題があるかどうか」は教えてくれるが、「どうしたらいいか」は教えてくれない。以前私が授業評価を、知覚運動系におけるネガティブ・フィードバックに例えたように、授業評価は目標と現実とのズレを検出しているにすぎない。あるいは、病院に行ったら治療をする前にまず診断するように、評価はあくまで出発点なのだ(正確には、目標設定が出発点)。授業評価をすれば即授業がよくなるわけではない。しかし文化大革命当時の中国共産党のように、適切な評価/批判のないところでは、独り善がりや腐敗が生じやすい。このことからも、たえず向上し堕落しないための第一歩として、評価は不可欠と思われる。

 ただし、評価を受けることがすぐに改善に結びつくケースがないわけではない。それは、評価によって明らかになったズレ(問題点)にどう対処すればいいか分かっている場合である。たとえば、黒板の字が小さくて読みにくい、という評価があれば、どうすればいいかはすぐに分かる。このようなときは、評価を受けることは授業改善の有効な手段であろう。なお、『授業を変えれば大学は変わる』の著者の1人は、「大学教員が恐れているのは学生による授業評価」(p.68)と書いている。本当にそうかどうかはやや疑問だが、授業評価を恐れており、評価を受けたことがない人(=自分の姿を鏡に映したことがない人)にとっては、評価を受けることは、対処可能な範囲に関しては即効果を発揮する可能性が高いだろう。

 それ以外の、どう対処すればいいか分からない問題点を改善するためには、授業評価を用意しただけではダメで、対処法へアクセスしやすいことが必要であろう。たとえば『授業をどうする! −カリフォルニア大学バークレイ校の授業改善のためのアイデア集』(東海大学出版会)のような本がその役に立つかもしれない。このような方法論の集積が、各大学あるいは学問分野ごとになされていくことは、授業改善の大きな力になるだろう。その他には、「教員による相互の授業参観を実施し,当該授業における教員の態度や教材の提示方法等について教員間で検討を行う」のも1つの手であろう(カギカッコ内の文章は『我が国の文教政策』第2章からの抜粋)。その他、ワークショップや講演会などの勉強会もある。あるいは、コンスタントに評価の高い教員に、ノウハウを公開してもらうことも役に立つ。もちろんこんなことをやっても、改善すべきポイントがはっきりしていない教員や、改善意欲のない教員には、何の効果ももたらさないであろうが。

 上記3に関して言えば、私は授業評価で最も重要なポイントは、「目標を明確にすること」であると考えている。それは前述のように、授業評価は目標と現実とのズレを検出するものだからだ。目標が明確でないと、そこで検出されたものは何の意味も持たないし、評価結果に無意味に振りまわされてしまうかもしれない。目標が明確であれば、何を評価させればいいのか、あるいは評価項目中のどこに着目すべきなのか、おのずと明らかになってくる。上記3の例(学生にハードな課題を与え、嫌われながらも徹底的にしごく)でいうと、「課題がハードであるかどうか」を授業評価によって知ることができる(嫌われているかどうかも)。「徹底的にしごく」点については、授業評価によって学生の主観的な受け取り方を知ることも可能だし、「テストの結果」という「別の評価」によって、内容が身についているかどうかを知ることができる。

 そこで問題になってくるのが、評価項目の内容である。評価項目を学部内で統一している大学も多いだろうが(琉大もそうである)、すべての授業の教育目標(=評価されるべき側面)が同じではないであろうから、項目を統一することは、ややもすると適切な授業評価と改善活動の妨げになる恐れがある。それを回避するには、東海大学のように各教員が自由に項目を設定できる欄を設けるか、そうでなければ、幅広い授業目標をカバーできるよう、評価項目を数多く設けることであろう。

 後者の場合は、どの項目が自分にとって着目すべき項目なのかを、教員側がきちんと理解した上で評価結果を利用しなければならない。また授業評価を作成する側(学部等の授業評価担当委員会)は、適当に項目を列挙するのではなく、どのようなタイプの授業がありうるのか、それらの授業はどのような目標を持ち、その目標はどのような形で評価できるのか、について熟考した上で作成し、また、評価内容自体を常に改善(授業評価の評価に基づいて)していく必要があるであろう。

 また、先に「別の評価」ということばを挙げたが、授業は、学生による授業評価以外にも、いくつかの側面から評価されうる。先ほど挙げたテスト結果の他にも、教員の自己評価、他教員による評価、教育のプロによる評価、授業への登録者数、出席率、などが考えられる。これらはどれも、その授業のある側面を「評価」という形で浮き彫りにしてくれるはずだ。目標に応じて適切な評価を選び、評価結果に基づいて適切な処置を選択し、実行する。これらはもちろん教員一人一人がそれぞれ努力すべきことであるが、さらにそれをサポートする体制を大学内に設けることで、個人、組織の両面から大学の授業を改善していくことが可能になるのではないかと思われる。

 補足しつつまとめると、次のようになる。

  • 各教員は評価に先だって、自分の授業の目標(=評価ポイント)を明確にしておくべきである。しょうがなしにお仕着せの評価項目を使わなければならない場合は、それぞれの評価項目が、自分の授業が目指す方向性と一致しているかどうかをチェックしておく必要がある。また、教員個人の授業目標の前提として、大学/学部での教育目標も明確にされる必要があるであろう。
  • 評価は、学生による授業評価だけでなく、授業目標を適切に映し出す評価を適宜使い分けることで、多面的かつ目標に応じた評価となり、ひいては適切な改善につながる。
  • 大学組織としては、適切な評価項目を用意するのと同時に、授業改善のための手助けになるツールや制度を整備することが望まれる。

2000/01/24(月)

■『心のことば −心理学の言語・会話データ』(吉村浩一 1998 培風館 \1850)

 心理学は、「内観法でない客観的方法によって、潜在的認知過程を切り出すという方法」(下條『サブリミナル・マインド』p.295)をとってきた。しかし実際は、心理学の歴史を振り返ると、言語を道具として明らかにされてきた知見も多々ある。そのような言語データの位置づけを、歴史的展望に基づきながら俯瞰し、これからの心理学での有効な利用形態を見出していくことを目指したのが本書である。その底には、「心の状態を直接本人に尋ねるという方法をそっちのけにして、(反応)時間を測ることだけ専念することは、心理学の健全な姿とは言えない。より直接的な方法として、言語データの可能性にも目を向けるべきである。」(p.6)という著者の思いが流れている。

 本書で扱われるのは、内省報告、内観報告法、プロトコル分析、言語心理学での利用状況、エスノメソドロジーの会話分析、言語データ転記法の問題、インタビュー法、事例研究におけるエピソードの記録法の8トピックである。例えば1章では、実験後の内省報告がその後の理論展開や実験手続きの改善、新しいパラダイムを生み出すことにつながった研究例が取り上げられ、内省報告の重要性が再認識させられる。そのほか、ティチナーらの内観報告法では、「刺激錯誤を犯してはならない」などの一定の基準を用いていたこと(p.29)や、インタビューにおいて証言の質の向上を目指した「認知インタビュー」という方法が開発されていること(p.121)など、言語報告に関わる過去から現在のことを知ることができる。

 読み始めてすぐに、すごく面白い着想の本だと思った。一般に心理学の研究法では、反応時間その他の客観的測度に基づいて内的モデルを構成するためのロジックは、割と綿密に検討されているように思われる。それに対して道具としての言語報告には、ロジックも体系的な整理もあまりなされてこなかった。その点を整理し俯瞰し、自分の問題にあてはめて考える上で役立ちそうな本だ。

 ただし全体として見たときに、まとめや具体的な提案があるわけではなく、未完という印象である。その点は著者も承知のようで、本書を「微視的評価に耐える内容に改訂」するために、さまざまな研究室で集中講義を行ない、方法論の問題に対して学生たちから直接情報を得たい(p.152)、と考えているようだ。今後の進展と本書の改訂が楽しみな一冊である。

  • バートレットの研究(物語理解)からわれわれは、定量的評価の前にまず定性的検討が必要であること、あるいは定量的に測れることだけ目を向けていたのでは問題の本質を外し瑣末なことに振り回されかねないことを学ぶべきである。(p.67)

  • (インタビューにおける)"対話法"での聞き手による疑問点・矛盾点の追求は、話者の補足説明を誘い出す役目を果している。その意味で「批判者」の本質は「媒体」である。(p.130-131)

  • 事例研究が独り善がりで恣意的なものになることを防ぐために:"語られたデータ"を実験室での測定データとつき合わせるという小笠原(1989)のとった姿勢が健全である。すなわち、異質なデータ間の照合作業である。一面からの展開に終わるのではなく、多面的突き合せを経た議論が頑健な見解を生み出す。(p.147)

■イカスミそば

 土曜の昼は、首里の「海の幸 里」という店に。イカスミそば(汁が真っ黒な沖縄そば:680円)を食す。イカスミの味が強いのでそばそのものの味の良し悪しは分からなかったが、組み合せは悪くなく、うまかった。量的にはちょっと少なめなのか、今ひとつの満腹感であった。満腹するならイカスミそば定食(980円)かイカスミ定食(お昼は1000円)がいいかも。

 妻は中味定食(1000円)を。ここの中味汁は、とてもおいしかったようだ。肉は白くてきれいな肉だし、汁も透明で上品なおだし。この店は、魚料理が充実しているようなので、また機会があったら来るか。

2000/01/21(金)

■『授業を変えれば大学は変わる』(安岡・滝本・三田・香取・生駒 1999 プレジデント社 \1800)

 授業を変えるために、学生による授業評価を行ない、教師の意識を変えよう、という本。昨年11月末の紀伊国屋書店の週間ベストセラー情報では、ノンフィクション部門の3位だった。大学教育改革本がベストセラーに入るなんて、とびっくりした覚えがある。

 正直言って内容的には、いくつかある大学改革関連書と比べて飛びぬけて面白い/特徴があるとは思わなかった。と言っても、もちろん得るところがなかったわけではない。例えば、授業評価では最先端を行っている東海大学の取り組みについて知ることができた。

 東海大学では、1993年から全学で学生による授業評価を導入しており、1700人の教師(非常勤を含む)のうちの8割以上が授業評価を受けることに同意しており、その結果は本人にフィードバックされる。その中でも400人弱は、自分の評価結果を公表している(p.35)。結果の公表は、教育研究所発行の冊子によって行なわれている(残念ながら学生の大半はこの冊子の存在を知らないそうだが)(p.51)。それだけでなく、「各教員は授業評価のデータに自己診断書(コメントや改善目標)をつけて、主任教授に提出し、そのデータを元に学科教員全員で授業改善に結びつける方法を摂る」という指針もあるそうだ(p.122)。

 本書には、東海大学の授業評価用紙が載せられている(p.64)が、感心した点が3つ。それは、授業評価専用のマークシート(質問とマーク欄が一緒に印刷されているもの)がある点、学生が自分で自分の出席や受講態度を自己評価する項目がある点、そして、共通の授業評価質問項目10問に加えて、空欄が2欄ある点だ。これは要するに、各教員が自分のニーズに合わせて質問を設定できるわけだ。

 そのほかに目をひいたのは、日本の大学を「教育と研究の両方を行なうことを目的とする大学」と「教育を主たる目的とする大学」に2分し、8割を後者(教育大学)にすべき(p.275-279)、という生駒俊明氏の主張だ。各大学がどちらの大学になるかを宣言することによって、大学間の教員移動が活発になるはずだし、教育大学では、教育に情熱を燃やし、授業力のある教員を優遇(p.280)できるようになる。

 2割対8割などの各論はさておき、総論大賛成である。授業評価「だけ」では大学/教員は変わらない。知覚−運動系におけるフィードフォワード/フィードバック制御のようなループが必要である。具体的には、(1)明確な目標の設定、(2)それに沿った計画立案、(3)計画の実践、(4)目標と実践のズレの検出(ここが授業評価にあたる)、(5)検出されたズレの修正/改善(→(2)や(3)へ)。つまり授業評価は、改善のためのループのほんの1点にしかすぎないのだ。

 さらにこのループがうまく廻るためには、ループを廻そうとする努力が適正に評価される必要がある。またループをまわすための第一歩として、大学自体の目標/位置づけを明確にすることは、大学改善のためにぜひとも必要なことだと思われる。10年後には、大学入学希望者数と入学定員がイコールになる。受験生にとって魅力のない大学で定員割れが起きるだろう。大学教員は、もっと危機意識を持つべきではないだろうか。

  • 授業評価は学生による教師に対する「能力評価」ではない。第1主義的には学生の授業に対する「到達度評価」であり、「満足度調査」である。(p.56)

  • 会社や組織から離れた、自分自身の価値観を持つこと。社会に対して、個人としての見識を持つこと。その基礎トレーニングとして、大学と言う場所があるのだ、と私(三田誠広)は考える。(p.210)

  • 指導要領の改訂にともなって高卒レベル共通の知識基盤が脆弱になることについて:日本の教育は《教えるシステム》から《学ぶシステム》により速く変わらないといけない。(p.290)

■私の授業評価

 上の続きのような話だが、琉大では共通教育(一般教育)科目については、1995年後期から学生による授業評価が導入されており、私もずっと継続して評価を受けている。しかし、はじめの頃はまじめに結果を見ていたが、最近では結果をちゃんと見たり反省したりしていない。何年かやると、そんなに結果が変動するわけでもないし、それに、結果を見ただけで授業が良くなるわけでもないし、結果が高くても低くても誰も何も言わないしなぁというのが正直な気持ち。でもこれじゃイカンよね。

 「大学往来」の伊田さんは、Web日記に授業評価の結果を公開し、自己分析し、改善案を出されている。なるほど、こうすれば、上の問題も一部改善されそうだ。ということで私も見習って、結果をここに記録/開示することにしよう。今期の授業の評価が出るのは来月なので、とりあえずほったらかしにしていた去年の授業評価のものを引っ張り出してみた。

 質問項目は、全部で17項目あるが、そのうち、総合評価に関わる4項目のみ、平均値を算出してみた。以前は総合評価は1項目だったが、4つに増えたので多面的に見ることができるようになっている。

  • 科目名:共通教育科目「人間関係論」
  • 学生数:登録者数140名中、116名が回答
  • 評価:「全くそう思わない」から「強くそう思う」の5段階評価

No質問項目平均
17心に残るよい授業であった4.10
18大学で学んでいる実感が湧く授業4.12
19学問に対する興味が増した3.93
20総合的に判断して満足している4.17

 全体的には4点(そう思う)前後なので、まあ悪くないと言える(琉大の共通教育科目全体でみると、過去4年間の総合評価の平均値は3.80。これは東海大学の平均値とも一致する)。しかし問19「学問に対する興味が増した」が他に比べて0.2ほど低い。これは、この授業のウィークポイントと考えて今後改善すべきなのか、それともこの授業はあくまで「教養としての心理学」であって「心理学入門」じゃないからよしとするか。でも、一般教育科目の中で「学問に対する興味を増す」ような授業って、どんな授業なんだろう。今後の参考にぜひとも知りたいものである。

■1月の沖縄

 大学構内に池があり、橋がかかっている。ここが私の通勤路なのだが、このあたりに少し桜(カンヒザクラ)が咲いていた。また、大学の近くに製糖工場があるのだが、その近くの路上に、さとうきびの茎が落ちてひしゃげていたりする。トラックがさとうきびを山のようにこぼれんばかりに積んで走っているからだ。沖縄でこれらを目にすると、あぁ、もうすぐ2月なんだなぁと思う。

2000/01/18(火)

■『生涯発達心理学のすすめ』(子安増生 1996 有斐閣 \1500)

 結論から述べると、普通の概論書的な発達心理学の本とは違い、特徴があって面白かった。本書の特徴の第1は、幅広い発達を論じたことだ。老年期はもちろんのこと、下は胎児期どころか、出生率低下についても1章割いている。特徴の第2は、専門書ではなく多様な読者を想定していることだ。そのためか、映画の話や筆者の体験談や心理学以外の知識などが豊富に交えられている。

 特に映画の話題は多く、心理学の実験・研究例よりもはるかに多いくらいだ。『となりのトトロ』に出てくる2人の女の子(サツキとメイ)の行動は対照的に描かれているが、その違いのかなりの部分が幼児と児童の心理や行動の違いをあらわしている(p.117)、なんていう話は、授業のネタになりそうである。

 このように、本書の半分はエッセイ+映画・雑学ウンチクなのだが、「学者が書いたへたの横好き風ありがちエッセイ」にはなっていない。その理由は、本書の第3の特徴である「複雑明快」のせいであろう。単純明快も複雑怪奇も共に望ましくない。このどちらでもない、世の中の複雑な現象の複雑さを認識した上で、しかもできるだけ明快に見ていく(p.6-9)という態度が「複雑明快」なのだそうだ。

 確かに論旨が明快で大変読みやすいだけでなく、ものごとを単純にこうだ、と決めつけずに複数の可能性を考慮している点は、複雑にして明快、とよぶのにふさわしい。ただ先ほど述べたように、心理学の研究例はあまり多くない。したがって、心理学そのものについての勉強にはあまりならない。本書は心理学を勉強する本ではなく、発達心理学者的な視点から見た、生涯発達一般についての本だと思ったほうがいいと思う。

 以下は個人的にメモっておきたい記述の抜き書き。

  • 乳児の模倣実験:母親のひざなどに抱かれることが赤ちゃんの模倣行動を促進する。(つまり)赤ちゃんが未知の人間とのコミュニケーションに入っていくための心理的な基盤として、母親のひざに抱かれるなどの安定した人間関係が大変重要である。(p.78-79)

  • 幼児期の自己中心性:視点取得というのは「他者の視点に立てること」がその基本的意味であるが、現在では、知覚的(空間的)視点取得、認知的(伝達的)視点取得(心の理論など)、感情的(社会的)視点取得(共感能力など)の3つに分けられている。視点取得のためには、互いに相手の立場を知り、理解することが必要。(p.105-109)

  • 知育教育について:算数や理科のような教科は、知識を与えるだけではなく、反復して観察可能な現象の背後にある法則とそれを理解するための論理を子どもたちに教えようとするものでなければならない。(p.134)

  • 青年期の破壊と創造について:青年期は、児童期よりも反省的思考が強く中年期ほど生活スタイルが安定していないという点において、回心(今までの考え方の一切を振り捨てて、新しい考え方に入ること)を起こしやすい基本的な条件がそろっているといえるかもしれない。(p.157)

  • 中年期の楽しみについて:親が子どもを見るときには、アタッチメント(愛着)だけではだめで、時には突き放して(距離をおいて)見ること(デタッチメント)が大切。(p.178)

■心理学者のホームページ

 この4ヵ月ほど、読書を日課にしてみて分かったこと。読めば読むほど読みたい本は増える。当初は単純に、読むことによって読みたい本がぞくぞくと制覇され、空白地帯が減っていくようなイメージを持っていた。大航海時代にヨーロッパの人が世界を拡大していったように。そのうちに読みたい本がなくなって困るんじゃないかと心配したくらいだ。しかし全く逆だった。読みたい本や読みたいジャンルは増えるばかり。

 読みたい本が、具体的に特定されているときはいい。しかし、このあたりの分野の本が読みたい、でもどんな本があるのか、どの本を選べばいいのか分からない。そんなときは大変困る。先日も、何か発達心理学関係の本を読んで授業に生かしたいと思ったのだが、あまたある発達心理学関係の本の中で、どれがよさそうなのかが分からなくて困った。

 そういうときは、インターネットで適当に検索してみる。そうすると結構、心理学の先生が学生向けに本の紹介をしていたり、文献リストを挙げているページにぶつかることが分かった。こういうことは今後もあると思うので、メモ代わりに、見つけたページにコメントをつけてリンクを張っておくことにする。

  • 南山大学文学部の浦上先生授業のページ
    各授業のページに、参考文献や、資料の出典が記載されている。その他に、ネット上で心理学の勉強するためのリンクがあったり、レポートやレジュメの書き方についてのPDFファイルがあったりする。
  • 上のリンクページにあったサイエンスビレッジの中の心理学の森
    研究関係のいろいろな分野のリンク集。心理学に関しては、現在50のページが紹介されている。
  • 上のページで見つけた広島女子大学の猪木省三先生授業参考文献のページ
    認知発達を専門にする猪木先生のページ。大学の先輩だ。こんなところでお見かけするとは、と思ってしまった。授業参考文献のページには、授業別にのべ350冊の本が挙げられている。紹介文はなし。新旧織り交ぜられている。心理学全般のものが挙がっているが、発達心理学が中心か。・・・と思ったら、心理学各分野参考文献というページが別にあって、歴史だの知覚だのの文献が、あと144冊載っていた。おそらく重複はあるのだろうが、結構な量で参考になりそう。またこれらとは別に、おすすめしたい本というページもあり、現在22冊の本が、紹介文つきでリストされている。

2000/01/15(土)

■『性格研究の技法』(杉山憲司・堀毛一也編 1999 福村出版 シリーズ・心理学の技法)

 9月22日に紹介した『認知研究の技法』と同じシリーズ。ただしこちらは、「技法の紹介」という面よりも、「特定理論の中での技法の位置づけ」についての話が多いような印象を受けた。おそらく性格という研究分野の性格上、研究法が理論と密接に結びつくことが多いからだと思われる。

 前書きには、「本書は読む方法論を目指し、通読することによって性格研究の技法全体を鳥瞰し、新しい方法論にふれられるように配慮した」とある。それどころか、性格という側面を通して、種々雑多な心理学の分野や理論が取り上げられており、盛りだくさんというか、「心理学理論のサラダボール」的な本である。性格というものが、簡単に一面的には捉えられないものである、ということだろう。

  • 性格研究のデータは、(1)生活記録データ(L)、(2)観察者データ(O)、(3)テスト・データ(T)、(4)自己報告データ(S)の4つに分類しうる。一人の人間を理解するためには、これら種々のデータ(LOTS)を併用し蓄積することが必要。(p.26)

  • 社会心理学では、性格と呼ぶのが適当ではないかもしれないが、個人差変数として行動の予測に役立つもの(認知欲求や思考停止欲求(need for closure))を多く取り上げてきた。(p.47)

■センター試験で耳学問

 今日と明日はセンター試験の監督。こういう機会には、いろいろな学科の先生が一堂に会するので、休み時間に、普段話さないような人たちと話をすることができる。

 今日は、学部改組後何が変わったかという話を聞いたほか、教育哲学の話、理科教育における実験の話、ドル平という泳法の話などを聞いた。教養部もそうだったけど、教育学部も、先生方の専門分野が多岐に渡っているので、こういうときは面白い話が聞ける。

 明日も朝から夕方まで監督業務。大した事はしないのに、なんだか疲れるんだよなぁこの仕事。ま、受験生はもっと疲れるんだろうけど。

2000/01/12(水)

■『消費者教育論』(今井光映・中原秀樹編 1994 有斐閣 \3100)

 本書は消費者教育について、歴史、経済政策、教育政策、労働行政といった幅広い視点から取り扱った本。「はしがき」によると、消費者教育の「古典」となることを目指して作られたそうだ。確かに扱われている範囲も幅広く、また全400ページ超とボリュームがある。

 消費者教育は、1920年代からアメリカではじめられるという古い歴史を持つ。現在では、たとえばアイオワ州立大学では8つの学部(農、経営、デザイン、教育、工、家族消費者科学、教養、獣医)が消費者教育と関係しているなど、大学で幅広く行なわれているようである。しかし、欧米各国で行なわれている消費者教育には、あまりに多くの視点が設定されすぎており、消費者教育の概念を1つの定義の元に結集させることはできない(p.7)まま今日に至っているようである。類型すると、自立して自己の確立を目指すアメリカ型、番犬に代表される市民社会における個人の責務と「自律」を図るイギリス型、そして、市民の社会的責任に代表される個人の批判的思考に基づいた社会的意思決定能力の開発を前面に出したドイツ型などがあるようである。以下、消費者教育の定義に関する個所を引用。

  • 1984年、消費者教育の定義ともいえるIOCU(国際消費者機構)5原則が公表された(今日の消費者教育の基本的な概念を代表)。

    1. 批判的思考:私たちが使う商品やサービスの価格や品質について本当にこれでよいのかという疑問をいつも抱くという責任
    2. 行動:公正な取引を確保するための行動と、主張する責任
    3. 社会的な配慮:他の市民に対して与える影響に対する自覚を持つ責任
    4. 環境的関心:消費がもたらす環境への影響を理解する責任
    5. 連帯:消費者として連帯する責任(p.7-8)

  • 1981年には「学校における消費者教育」という基本政策がECの閣僚会議で決定された。「消費者教育とは、学際的な科学的アプローチに基づいた、単なる知識の受け売りという伝統的教授方法をこえた、批判的思考能力の開発に力点をおいたアプローチが強調されるものである。」(p.13-14)

  • ドイツ消費者教育の中心的役割を演じている消費者研究財団は、次の3つの消費者教育の目標を掲げている。

    1. 意思決定と批判的思考の確立
    2. 社会的責任の自覚と行動
    3. エコロジーに対する責任の自覚と行動(p.17)

 批判的思考の語は、始めのほうの章にはたくさん出てくるが、途中まったく出てこなかったりするので、今ひとつ消費者教育と批判的思考の関連や、どれほど重要な概念なのかがつかめない。また、批判的思考の語が出てくる部分でも、それ以上のつっこんだ考察がなされておらず、「批判的思考にもとづく意思決定」という表現程度で留まっている。唯一それに触れられているのは、花城梨枝子先生の章(消費者教育における意思決定 −批判的思考能力の開発−)。ここでは、いくつかの研究者の定義を引いた後で、批判的思考とは、「知識、論点、何らかの主張が正しいかどうかを、理性の導くところによって分析し、査定するための思考」(p.310)となっている。

 本書に1つ不満な点。全14章のうちの11章を編者の2人が書いている(執筆者は全部で6人)。これでは、本書に述べられている事柄のどのくらいが著者の個人的な見解でどのくらいが消費者教育界に一般的な見解なのか、判断しにくい。それに、せっかく「幅広く」「古典になること」を目指しているのに、これではその目標が十分には達成されないのではないだろうか。

2000/01/09(日)

■『社会的認知』(山本真理子・外山みどり編 1998 誠信書房 対人行動学研究シリーズ8 \2200)

 学生〜助手として大きな大学にいたときには、知らず知らずのうちに結構な量の耳学問をしていたように思う。それは、院生の研究発表会だったり、学部学生の雑誌会だったり、単なるおやつ時の茶飲み話だったりする。それが現在の大学に来てからは激減した。それは、スタッフの人数や行事の量の違いもさることながら、私の研究室が他のスタッフからは300mほど離れた別の建物にあって孤立している点も大きいかもしれない。

 しかし、本書(↑)のような本を読むと、少しはその穴が埋められるような気がする。豊富な引用文献を元に、社会的認知の最近の研究が展望されているので。いわば、紙上耳学問、ひとり研究会状態である。

 本書によると、社会的認知研究とは特定の研究領域を指すのではなく、さまざまな社会現象を情報処理アプローチの立場に立って研究の対象とする、一定のアプローチを指すという。本書の取り扱い範囲については、私の側の知識があまりないので、こちらでまとめたり論評したりはせず、要約抜き書きのみで。

  • (人物表象を形成し使用する際に、先行課題によって特定の情報が活性化されていることに気づくと対比効果が起こることの説明としてのセット/リセットモデル) これは、先行課題の処理によって、印象が歪んでいる(セット)ことに気づくと、その影響を除こうとし(リセット)過ぎて対比効果を示してしまうというものである。(p.74)

  • (社会的判断事態で人が用いる処理方略が、状況に応じて使い分けられると考えるマルチプロセスモデル) 一般に、肯定的感情状態では、即断傾向が強まり簡便なヒューリスティック型の方略が好まれるが、否定的感情状態では逆に分析的、熟慮的になるため実質型方略へ依存する傾向が強まる。(p.98)

  • (対人情報の処理の二重処理モデル) 自動的処理の段階では、刺激人物が知覚者のその時の要求や目標に関連しているかどうかが、ほとんど意図せず、また意識されずに判断される。関連性があるとされると次の統制処理の段階に移る。自動処理の段階では、性別や年齢、人種などに基づいて、判断が行なわれる。(p.108)

  • 社会的推論では、判断に無関連な診断性の低い情報が加わると、診断性の高い情報の効果が薄められ判断がより控え目で保守的になる「希薄効果」の存在が示されている。希薄効果は、注意深い推論を促進するような要因を導入することで、かえって強くなる。(p.160-161)

  • 私たちは、情報の送り手の言うことを「理解」する段階で、否定しながら(誤った陳述として)これを受け取ることが苦手らしい。まずデフォルトとして、いったん肯定しながら情報を取り込んだあと、改めてその真偽を判断するという、二段階の過程を経る傾向が見られるのである。(p.191)

我が家のY2K(続)

 いろいろ試した結果、NN(4.6)では2000年問題(娘の1901歳問題)は生じないことが判明。きちんと「1歳」と表示される。じゃあIEが古いのかと思い、ver.4だったものをしぶしぶver.5にバージョンアップしてみたが、相変わらず1901歳のままである。

 分かったこと。IEはタコである。少なくともこの問題に関しては。それから、年齢計算部分で単純に1900を引くという小手先解決法では、IEな人にはいいがNNな人には問題であること。何とかしてくれぃビル・ゲイツ。

■はごろもそば

 昨日の昼は、宜野湾市内の「はごろもそば」で。私はそば定食(そば+じゅうしい)、妻は中味汁。国道沿いの割と大きな店なのであまり期待はしてなかったが、そばは意外においしかった。中味(豚の内臓)は、臭みがないので食べやすかったそうだ。帰り際に気がついたのだが、「はごろもそば」という名前の中味そばがあった。早めに気づいたらこっちにしたのに。あの中味汁の味からすると悪くなさそうだし、店名を冠しているということは、店の看板商品なのかもしれない。

2000/01/06(木)

■『誰も書かなかったバチカン −カトリック外交官の回想』(金山政英 1980 サンケイ出版)

 妻の実家にあった本。著者は第2次世界大戦前にバチカン市国に赴任していた外交官であり、諸般の事情で1952年までバチカン市国に居候(外交官の公務としてではなく)したという珍しい体験を持つ。タイトルは何やら意味ありげだが、これは当時、サンケイ出版から出されていた「誰も書かなかった」シリーズの一環として位置づけられていたという程度で、あまり深い意味はないようだ。

 半分以上は私的な体験記および観光ガイド風記述で、大して面白いものではないが、残りの部分は、バチカンの歴史であったり、彼が滞在していた当時の歴史的雰囲気を伝えるもので、割と面白かった。例えば1943年当時のイタリアで、戦争遂行を叫んでいたのはムッソリーニだけであったとか、連合軍がローマに入ってきたとき、逃げ遅れたドイツ兵は、最後の1兵まで戦うという日本兵のような悲壮感はなかったとか。また、アメリカの戦略情報局の工作員が1945年6月に、バチカンの神父を介して日本の使節団に「和平案」を持ちこんだが、日本政府はその案を無視した(p.44-49)、などという外交官ならではの秘話も語られる。

 バチカン/カトリックの歴史も簡潔にまとめられていてよい。それによるとローマカトリックは、中世に領土という俗権を獲得し、それを保持、拡大する過程で、本来の宗教的な使命とはまったく違った方向に変節してしまった(十字軍や免罪符の乱発など)。しかし、ナポレオンなど、法王を臣下のように扱った皇帝のおかげですべてを失ったバチカンが、独立国となり狭い領土で出発したことは、もう一度原点すなわち「キリストの時代」に戻ろうとした(p.127)過程と理解ができる。この、一度俗権にまみれたあとで全てを失い、新たに復活する過程を著者は、日本が敗戦−占領という"洗礼"を受けて復興したことになぞらえ、貴重な時間であったと捉えている。

 また、原始キリスト教時代、暴君ネロの迫害にもかかわらず、燎原の火の如くローマ帝国に広がっていったキリスト教には、ある種の「庶民革命」的な要素があった(p.237)ことを著者は指摘する。たとえば、隣人愛に基づく奴隷制の否定など、社会や経済の分野で貧富の差をなくそうと努めた点などがそうである。これなど、キリスト教の成り立ちと幅広い支持を考える上で、なるほどと思える視点である。

 あと、今年の課題だと思っていた「聖年」については、著者が経験した1950年の聖年についての記述があった(らっきー)。これによると、50年ごとの聖年は旧約聖書の『モーゼの律法』ですでに定められた掟であり、その年には全ての奴隷が解放され、あらゆる負債が免除され、エルサレム(現在ではローマ)への巡礼が義務となっていたようだ。1950年にも、5百万人を越える人がローマを訪れたようだ。結局聖年とは、罪の赦しや自由を意味し、巡礼が行われる年であるようだ(p.184-187)。これらのことを指して、1月3日に取り上げた小冊子では「プロジェクト」と呼んでいたのか。

 キリスト教は、2千年近くに渡って多くの人をとらえ、文化を形作ってきただけに、それがどんなものであり、何が、なぜ、どのように人々をとらえてきたのか、ということを知るのは面白い。また機会があったら、宗教関係の本を読んでみようと思う。最後に、この本に引用されていたアッシジの聖フランシスコ『平和の祈り』の一節を。「主よ、われをして御身の平和の道具とならし給え/われをして憎しみのあるところに愛をもたらし給え/争いのあるところに赦しを/分裂のあるところに一致を/疑いのあるところに信仰を/誤りのあるところに真理を」(p.70)。牽強付会的に解釈するなら、最後の1節は要するに「批判的/省察的に思考しましょう」ということだね。

■我が家の2000年問題

 2000年問題が我が家でも発生した。といっても大した問題ではないのだが。場所は、非公開で作っている娘のホームページ。これは、実家の両親や親戚や知り合いに娘の近況を知らせることを目的として開設した、写真中心のページだ。どこからもリンクを張っていないし、不特定多数の人にURLを教えたりはしていない。知らない人が見て、娘のあまりのかわいさ(^^ゞに、誘拐などされたら困るからね。

 障害が発生したのは、JavaScriptで作った娘の年(月日)齢計算プログラム。現在「1901歳6ヶ月24日」と表示されている。実年齢より1900歳年上だ。プログラムの当該部分は、Date関数やgetYear関数しか使っていない簡単なものなのだが。具体的には、「現在年−誕生年−1」(最後の−1は誕生日前のみ)という計算を行っている。つまり1998年生まれの娘にとっては「2000−1998−1=1」となるべき式だ。これが+1900の誤算ということは、西暦を下2桁で計算したがゆえにおきた間違いではない。それだと「00−98−1=-99」となるはずだから。

 今のところ思いついたのは、「2000−98−1=1901」という計算だ。つまり、現在年は4桁、誕生年は下2桁という計算だ。もしそうだとして、なぜこんなヘンなことになっているのか。OS(Windows98)の問題なのか、ブラウザ(IE4.0)の問題なのか、JavaScriptの問題なのか。不明である。考えられるのは、どこかのレベルで2000年問題に小手先の対応をしようとして、00のような小さな数字にだけ、単純に2000を足しているということ。

 とりあえず解決しようと思ったら、年齢の数値から1900を引いてから表示すればいい。でもできれば、このような小手先の対処ではなく、根本的な解決をしたい。それに、せっかくの記念(?)なので、当面はこのままでほったらかしている。

2000/01/03(月)

■『超常現象の心理学 −人はなぜオカルトにひかれるのか』(菊池 聡 1999 平凡社新書)

 本書は、著者様からいただいたもの。菊池さんは、超常現象をネタにした心理学の本をここ4年の間に数冊書いている。彼の基本的な考えは、「人の心を科学的に探っていけば、心がいかに精巧で巧妙であるかがわかるのと同時に、直観というのは当てにならず、思考や知覚がしばしば誤りを犯すことが明らかにされてくる」(p.24)ということである。

 この点はどの本も同じであるにも関わらず、全ての本が「同じような話」になっていないところはすごい。本書の特徴はエッセイ風の味つけであろう。心理学の専門知識や実験結果そのものはあまり触れられておらず、さらっと読みやすい文章になっている。そして、自分の体験や感じが比較的前面に出ている。体験談に関しては、最初の本を作ったときのいきさつや大学時代の自分の話、大学教官としての授業での体験もあるが、中でも、「真夏の激闘」と題された、テレビで自称霊能者と対決したときの話が面白い。このような他書との語り口の違いは、先日取り上げたEXPスケールで言うと、今までの本がレベル1中心であったのに対し、レベル2〜3の語りを重視している、ということではないだろうか。

 感心したのが、「オカルトとは壮大な癒しの体系なのかなあ」(p.27)などと、書の冒頭部分で超常現象にもある程度の理解を示した上で、でもそれだけではないよ、とやおら本題に入っていく点だ。こういう配慮は随所に見られる。私の体験から言うと、授業で思考(批判的思考)について取り上げると、きまって1割弱の学生は拒否反応を示す。理由は「他人のことを疑うようでイヤだ」「夢がない」「いつもこんなことを考えている人は好きになれない」などなど。しかし菊池さんのような話運びなら、拒否反応ももっと減らせるかもしれない。参考になりそうだ。

 超常現象にある程度の理解を示す、という彼のこの姿勢は、「占い(オカルト一般も)とはタバコのようなもの」(p.179)というアナロジーにも現れている。つまり、好きな人にとっては一服の清涼剤であり、文化的な意義もあるという面は認めるが、その危険性は肝に銘じていなければならない、ということだ。そういえば確か、菊池さんは結構なスモーカーだったんじゃなかったっけ。

 本書の10章のタイトルは、「クリティカルな思考のために」というものだが、本文中には、クリティカル・シンキングに類する言葉はまったくでてこない(エピローグに1回出てくるのみ)。私は、人がクリティカル・シンキングという言葉をどういう意味で使っているかに興味があるのだが、残念ながら菊地さんがどう捉えているかは明示されていなかった。ただ、10章の章扉に「心理学的なものの見方・考え方の核心は、(中略)クリティカルにものを見、考えることなのです」という宮元博章氏の文章(『クリティカル進化論』からの引用)が載せられている。この引用および10章の内容から察するに、菊地さんにとってのクリティカル・シンキングとはおそらく、心理学(者)的なものの見方や考え方だ、ということであろう。これについては思うところがあるのだが、まだ十分にまとまっていないことでもあるし、今回はここまで。

■今年の正月

 帰省直前から風邪で体調最悪。体調を取り戻すべく、昼寝に努める日々。あまり寝てばかりいると、妻から怒られる。しかしおかげで、ようやく体調が回復してきた。

 昼間は、娘や妻と一緒に、近所の公園や小学校に。娘はすべり台とブランコがお気に入り。私は妻と、転がっていたボールで遊んだり、落ちていた縄跳びで20年以上ぶりに縄跳びしたり。久々の運動で気持ちがいい。

 沖縄よりは寒いが、小春日和の穏やかな日が多く、過ごしやすい。もう少し英気を養ってから帰沖予定。

■カトリックと2000年

 妻の実家に、「カトリック生活」という月刊誌(40ページの小冊子)の2000年1月号があったので、カトリックにとって2000年がどういう意味を持つのかについて、記述がないか調べてみた。

 まず、ミレニアム関係の記述は、イエズス会の司祭による文章の中で、「現在、私たちは第2の千年期の最終段階に生きている」という記述があるぐらい。この冊子だけからは十分な判断はできないが、カトリックにとってはミレニアム(千年紀)の意識は、あまり強くないのか。あるいは来年のことだからまだ騒ぎ立てないのか、それとも、大聖年のことが優先事項で、表に出にくいのか。

 一方、大聖年(ジュビレイム)については、この1冊がまるごと大聖年特集のようになっていて、非常に重要なものであることが分かる。そういえば去年から教会では「大聖年に向けての祈り」という、特別な祈りがミサの中に取り入れられていたような。しかし聖年/大聖年がいったい何であるのかについての、明確な定義は、この冊子には書かれていなかったので不明。聖年自体は、1300年以来、50年あるいは25年ごとに行われるお祝いの事のようだが。

 大聖年については、強いて探せば、「大聖年とはキリスト者の生活の記念と刷新のためのプロジェクト」(p.6)、「キリスト降誕2000年の「主がお恵みをお与えになる年」(ルカ4・19)である大聖年」(p.11)という記述があることから、区切りの時期に行われるお祝い/プロジェクト的な性格を持つものと考えられる。今一つよく分からないけど。

 プロジェクトという意味では、後ろの方に載っていた「大聖年特別カレンダー」によると、この度の大聖年は、1999年12月24日から2001年1月6日の期間を指し、大聖年関連の行事がたくさん用意されていることが分かる。その始まりは、12月24日〜1月18日に「聖なる扉の開放」、12月25日に「大聖年の開会」、12月31日に「2000年に移行する前夜の祈り」となっている。最後には、2000年12月31日に「新しい世紀に移行するための祈りの徹夜祭」、2001年1月5日〜1月6日に「聖なる扉の閉鎖」「大聖年の閉会」が行われる。

 大聖年の意味や意義は、これから1年の間に、もう少し分かってくるだろう。少なくとも言えるのは、カトリックにとっては、2000年1月1日とか2001年1月1日という、点としての区切りではなく、2000年の1年間をかけた、線(面)としての区切りを重視しているようだ、ということ。といっても、小冊子1冊からの推察なので、どの程度正しいかは不明だけど。




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