読書と日々の記録2000.02
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■読書記録: 29日短評5冊 29日『ホワイトアウト』 27日『論証のレトリック』 24日『ナビィの恋』 21日『もうひとつの声』 18日『ライト、ついてますか』 15日『大学に「明日」はあるか』 12日『科学革命の構造』 9日『テレビは真実を報道したか』 6日『タブローの方法による論理学入門』 3日『青年期の心』
■日々記録: 27日つまがかぜ 24日私の授業評価(人間関係論) 18日私の授業評価(思考の技法) 15日かぜ引いた 12日私の授業評価(思考心理学) 9日ハチウクシーほか 6日伊波屋ほか 3日心理学者の読書案内ページ(2)

 

2000/02/29(火)

■『ホワイトアウト』(真保裕一 1995/1998 新潮文庫 \781)

 400年に1度のうるう年を記念してのイレギュラー更新。本書は、1996年「このミステリーがすごい」で第1位になり、吉川英治文学新人賞を受賞した作品。文庫本になっていたので買ってみた。この著者の本は、『奪取』が異様に面白く、『密告』もまあまあ面白かったので、期待して読んだのだが、期待通りの面白さだった。

 内容は、一言でいうと雪山版ダイハード(と「このミス」では形容されている)。もう少し詳しく言うと、テロリストに占拠されたダムの運転員が、1人でテロリストと、そして雪と戦うアクション・サスペンスもの。主人公は、人間相手に戦う経験はもちろんない一般人なのだが、登山で鍛えた体と、ダム内部および近くの地形を熟知しているという地の利のみを唯一の武器に戦う。600ページ以上ある分厚い本だが、1/3を過ぎたあたりから面白さが加速し始め、半分を超えると、「やめられないとまらない」状態で、最後まで一気に(1日で)読んでしまった。

 すごいのは、舞台設定やスピード感やハラハラドキドキ感だけではない。ダムをはじめ、圧倒的な取材に基づくのであろう、ディテールの描写が非常に詳細で、読後は何だか雪山での行動の仕方やダムの構造について、いっぱしの知識を身に付けたような気になった(『奪取』のときも、何だかニセ札作りができそう、と思ったが)。これで著者は私とほぼ年齢が同じ。こういうふうに、同世代の人が活躍しているのを見ると、もうそういう年になったのか、とか、ワシも頑張らねば、と思ったりする。もうちょっとこの人の本を探して読んでみたくなった。

■今月ほかに読んだ本は5冊

 減らす減らすと言いながら、ちっとも減っていない。しかも、心理学関係書が少ない。半ば、逃避読書になっているかもしれない。来月こそは(今月より)減らすぞー。

『アメリカ教育使節団報告書』(村井実訳 1979 講談社学術文庫 \580)

 アメリカの対日本教育使節団(心理学者2名を含む)がマッカーサー司令部に提出した報告書の全訳。戦後の日本の教育政策はすべてここから始まっている。「書かれた形の日本語(=漢字)は、学習上の恐るべき障害である」(p.54)だからローマ字を使え、というヘンな指摘もあるが、「民主主義の生活に適応した教育制度は、(中略)学問研究の自由、批判的に分析する能力の訓練を大切にする」(p.30)という指摘もある。

『現代論理学入門』(沢田允茂 1962 岩波新書)

 カバー袖には、「記号論理学など現代論理学の体系を、現実の問題と関連させてわかりやすく説明した入門書」とあるが、やはり後半は、素人には難しい。それでも、記号の話に入る前に「論理的な思考とは何か」について語られている点は、まあ悪くない。

『独創が生まれない −日本の知的風土と科学』(S.K.ネトル・桜井邦朋 1989 地人書館 \1500)

 日本人(科学者)がいかに科学的思考が苦手で、そのために、いかに独創的研究が生まれないか、ということを説いた本。日本人は日本人でひと括り、外国人(!)は外国人でひと括りで論じられている。主張に対する論拠も示されていない。外国人って誰のこと? 日本人にバリエーションはないのか? あまりに独善的・ステレオタイプ的で、読むのがちょっとつらかった。

『ブラック・ティー』(山本文緒 1995/1997 角川文庫 \440)

 ちょっとしたウソや罪をテーマに書かれた短編小説集。どれも、ショートショート的なオチがついている。ひどくつまらなくもなかったが、ひどく面白いわけでもなかった。まあこれは、人それぞれでしょうが。

『論理学的思考』(菅原道明 1991 北樹出版)

 大学の図書館より。やはり後半が難しく、全部をきちんと読めていないが、第3章「演繹的推理」に§4「人間的推移」というセクションがあったので、メモ代わりにここに記しておく。人間的推移とは、人間がしばしば犯す誤った推理のこと。内容的要因と形式的要因に分けられている。内容的要因とは、前提が受け入れがたいと感じると、妥当な論証でも結論が受け入れがたく感じられること(その逆もある)。形式的要因は、妥当な推理の「型」を妥当でないものにまで普遍化してしまうこと。例として、4枚カード問題が出てくる。論理学では、こういう方面の研究はどの程度進んでるんだろう?

2000/02/27(日)

■『論証のレトリック −古代ギリシアの言論の技術』(浅野楢英 1996 講談社現代新書 \650)

 本の表紙には、「事柄の利益・善悪、正と不正を見分け、説得に役立つレトリックと、筋道だった議論の仕方を見につける「技術」を教示する」と、魅力的なことがかかれている。が、本書を読み終えた今、そういう技術が身につけることができたかというと、(まったく)そんなことはないと思う。というか、本書に直接そういう技術が書かれているわけではなく、本書が中心的に取り扱っているのは、古代ギリシアの人(主にアリストテレス)がどんな言論の技術を考えていたか、その解説が中心だからだ。

 アリストテレスによると、弁論による説得立証には3種類あるという(p.68)。それは、事柄のロゴス(論理的説明)によるもの、語り手のエートス(品性・人柄)によるもの、聴衆のパトス(感情・情念)によるものの3つである。またこれらとは別に、「トポス」という概念が出てくる。よくは分からないのだがトポスとは、「思想・言論のそれぞれの論拠が見出される場所・領域を意味する。つまり言論の拠り所」(p.80)と説明されている。よくは分かっていないのだけど。

 まあいずれにしても、ロゴスだけでは説得はできない、それ以外の要因も考えなければいけない、ということだろうと思う。しかし、アリストテレスはこう言った、アリストテレスはこう分類した、という話が中心なので、肝心の「説得に役に立つ技術」がストレートに見えてこないのである。

 それでも、思考がテーマであるだけに、自分の研究テーマとの関連で興味を引かれた部分はないわけではない。3か所ほどだが。1つは、見かけだけの(虚偽の)説得推論の共通トポス(何だ?)の1つとして、いわゆる「前後論法」が挙がっていた。ここでは「原因でないものを原因とすることによるトポス」(p.149)という表現になっていが、「Aの後にBが生じたことを前提として、AはBの原因であることを結論づけること」だ。まさに前後論法そのものだ。

 2つめは、レトリックに似たものとしての「ディアレクティケー」についての記述。これはレトリックの中の、事柄の論理的な証明だけに関する部分(p.164)のようだが、プラトンのディアレクティケーとは、「問答(対話)によって、ものごとの「何であるか」の知識を探求する方法」であり、「問いと答えの積み重ねによって、ものごとを考え、言論を進める」(p.155-6)ということのようだ。「批判的思考」の考えも、ソクラテスの流れを汲む(たぶん)。そういう意味では、このあたりの考え方は、実は批判的思考の大先祖なのかもしれない。

 3つめは、原因から結果を推論する際の「必然性」には、論理の必然性と自然の必然性(自然の法則にしたがって生じること)の2種類がある(p.190)という点。これは気がつかなかったが、考えてみれば重要な区別だ。

 以上、部分的には得るところがあったが、全体としてはよく分からない本だった。ただ、こちら側の哲学的素養の少なさに拠る部分もあるかもしれないし、部分的には、何かありそうなにおいもしたので、今後も機会があればこの方面の知識に触れてみたいところである。ちなみに本書の最後は、「護身術としてのレトリック」という見出しで、メディア・リテラシー的な話で終わってた。

  • 今日われわれは、全世界を挙げての大々的な情報社会に突入しつつあります。(中略)受信者の側におかれる人々は提供された情報を批判的に受けとめなければなりません。(中略)常識に基づいて、「異なる前提を見つけることによって、互いに反対の主張を結論として導き出す」というレトリックの(ディアレクティケーとも共有する)技術を心得ていれば、情報発信者の思うがままになることも防げるでしょう。(p.203)

■つまがかぜ

 今週半ば、妻が風邪引いて熱出して寝こんだ。おそらく結婚以来はじめてのことである。

 妻が寝こむと、我が家の円滑な日常生活運営に多大な影響をきたすことがよく分かった。主に食事関係にである。作り置きがあったので、私が台所に立つほどの危機はかろうじて避けることができたが。

 それでも久しぶりに、一人で買い物に行かされたりした。でも、きれいなシイタケと言われても、どこをみて選べばいいのか分からない。私は先週熱を出して寝込んだが、こういうこと(円滑な日常生活の危機)は生じなかった。当然といえば当然だけど。

 改めて、妻が我が家の大黒柱であることを確認した一件であった。アリガタヤアリガタヤ。

2000/02/24(木)

■『ナビィの恋 沖縄−永遠の「愛してるランド」』(藤田 正/イエス・ビジョンズ編 1999 データハウス \1200)

 この本は、本屋でたまたま見つけた映画『ナビィの恋』の上映記念本。残念ながら映画(公式ページあり)はまだ見ていないが、この映画、いくつかのWeb日記などで取り上げられており、それを見る限り、相当おもしろい映画らしい。見てみたいのだが、1歳児を抱えて映画鑑賞というわけにもいかず、未だに見ることができずにいる。これは映画だけじゃなく、芸能音楽一般にそうだけど。

 目次を見ると分かるように、本書は映画のノベライズものではない。映画にゆかりのある人が中心となって、ナビィの恋そのものではないが、ちょっと関連がありそうな沖縄の話題などを何となく語りながら、ナビィの恋の周りをたゆたっている、という感じの本だ。

 そこで取り上げられている話題も豊富というか雑多。たとえば嶋津与志氏(作家)が、沖縄で仏教(とくに檀家制度)が普及していないのはなぜかについて語る中で、ナビィ役のおばぁ(平良とみ)の魅力について語っていたり、ナビィの恋のポスターの絵を書いている名嘉睦稔氏(版画家)が、「沖縄は風を感じやすい場所」(p.60)であることを、芸術家的な感性で書いていたり。映画に関しては、監督の中江祐司氏が、「オバァの恋」というこの映画のアイデアを得た出来事について書いていたりする。その他にも沖縄ツーリストの人が、これからの沖縄の観光についてや、「こんな沖縄に触れてほしい」スポットを書いていたりして、沖縄のガイドブックとして楽しめる部分もある。

 こんな風に本書は、単なる映画の副産物でも沖縄紹介本でもない。イメージとしては、『ナビィの恋』の映画完成打ち上げの会か何かの席で、その場に居合わせた関係者や招待客が、それぞれの得意分野を通して沖縄について自由に語った、その語りを収録したような楽しい本だ。

 そうそう、本書から得た耳より情報がひとつ。りんけんバンドの照屋林賢と上原知子の対談が載っているが、それによると、彼らの店「カラハーイ」は、「ゼロ歳の赤ちゃんから90歳になるおばあちゃんが来る店」(にしたい)(p.32)だそうだ。よし、これなら久しぶりに子連れで、生の音楽が楽しめるかもしれない。さっそく娘にりんけんバンドのCDでも聞かせて慣れさせておかねば...と思ってCDケースを見たら、娘がおもちゃにしてどこからやったらしく、中味が入っていない。がっくし。

■私の授業評価(人間関係論)

 いわゆる一般教養科目。140名登録して、114名が授業評価アンケートを提出。出席を点数化しているが、それでも2割程度は脱落する。授業評価の詳細はこちらにあるが、過去のデータが見つかり、しかもエクセルの表が簡単にHTML化できることが分かったので、3年分を載せている。

 ショックなことがひとつ。総合評価(5段階評価)が、1997年(4.41)→1998年(平均4.08)→1999年(平均3.85)と、年を追うごとに下がっているのだ。もちろん毎年学生は変わるので、同じ授業をしたとしても同じ評価が得られるとは限らない。むしろ、学生の質の方が下がっているのだ、という可能性もないわけではない。

 しかしこちらにも、思いあたる節はあるのである。授業準備にかける時間が減っているのだ。でも、授業の準備は、時間をかければキリがないし...それにしても、時間をかけなさ過ぎたかのか... 両者のバランスをうまくとるのは、なかなか難しい。いずれにしても、来年度はもう少しましな授業をせねば。

 その他の反省点は、学生に上手にこちらの意図を伝えること。そのためにはレポート(毎回15人程度指名)を有効利用し、それに対して適切にフィードバックをしながら、その中で授業の意図を少しずつ伝えていくのがいいと考えている。具体的な方策は、半年後に考えることにするけど。

2000/02/21(月)

■『もうひとつの声 −男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』(キャロル・ギリガン 1982/1986 川島書店)

 従来の道徳発達理論が、男性の視点のみから作られていたのに異議を唱え、女性特有の道徳性の発達があることを、インタビューデータから示した書。これまで無視されてきた女性の道徳観を指して、「もうひとつの声」と言っている。ただしこれは、性のちがいによる異なる声というより、テーマのちがいから来る異なる声であり、性の区別は絶対的なものではない(p.xii)。

 ここで取り上げられているのは、「大学生に関する調査研究」(青年期のアイデンティティの形成と道徳性の発達)、「妊娠中絶の決定に関する研究」(中絶を迷っている妊娠3か月の女性に面接)、「権利と責任に関する研究」(自己に対する見方および道徳的葛藤状況に対するデータ)の3研究からなる。

 私が男性であるせいか、本書はなんだかダラダラした感じで読みにくかった。しかしおそらく、キーワードは「分離」(男性)と「関係」(女性)ということだろうと思う。たとえば、男性は自分とは違う性である母親に育てられるため、母親からの分離と個性化がアイデンティティの確立に必要である。従来の発達理論は、この発想の元に男性中心の視点から作られていた。それに対して女性は同性の親に育てられることが多いため、分離はあまり問題にならない。この「分離と関係」が、道徳性の発達の中でどのように現れるのか。以下は、本文中に現れている分離と関係の対比らしき部分の抜き書き。

 男性女性
 権利の道徳/個人の要求のために自然な絆を分解させる/平等に基づき、公平ということの理解に関わる/自己と他者の主張を均衡させ、それぞれを尊重することを明らかにする責任の道徳(p.30)/個人の要求を人間関係の中に組み込む(p.234)/公正の概念(要求は各自異なるとの認識)を拠り所にする/共感と心くばりを生むところの理解に基礎をおいている(p.290)
自分についての記述自分の生きている世界のなかで特別な位置を示すことによって、他人とは異なったものとして記述他人との関係の中に自分を組み入れる行動を通して記述(p.57-8)
道徳的命令他人の権利を尊重し、そうすることで生命と自己達成の権利を干渉から守るこの世の中の苦悩を見分け、それを緩和するという責任(思いやり)(p.176)
自我同一性の定義「知的」「論理的」「想像力に富んでいる」など、分離を示す形容詞を使用人間関係の中で定義し、責任と心配りを基準に評価(p.282-3)

 こうやって並べてみても、やっぱり分かったような分からんような...ただ、これらはずーっと対立したまま存在するのではなく、最終的には、統合される可能性がある。ある知的倫理的発達の研究によると、成人期初期には人は、絶対的なものを放棄して、しだいに寛容になってくる。そのとき、自分が従来持っていた道徳性の軸(平等とか公正とか)の絶対性を疑問視できるようになると、道徳的判断を状況しだいで決まる相対的なものであると見ることができるようになるという(p.292-293)。本書にあるような、ステレオタイプ的でない男女差の視点とそれらの統合は、道徳観だけではなく、さまざまな研究領域で必要な視点であろう。

  • 責任と権利のあいだの緊張関係が、人間の発達の弁証法を支える柱を理解することは、2つの異なる様式の経験の統合を見るということです。(中略)公平と心くばりのあいだの対話は、男性と女性の関係の理解をいっそう深めるだけでなく、成人の仕事と家族関係を、より理解できる形で描いてみせるのです。(p.305)

2000/02/18(金)

■『ライト、ついてますか −問題発見の人間学』(ゴーズ&ワインバーグ 1982/1987 共立出版 \2000)

 副題通り、問題発見(問題解決)に関する本。基本的な考えは単純で、問題は、それを認識するところが一番むずかしい。問題がひとたび認識されれば、解決策はいくらでも思い浮かぶ(p.55)、というものだと思う。

 だと思う、とあいまいな書き方をしたのは、本書が一風変わった本だからだ。冗談やちょっと変わった例の中に基本的主張が埋もれていて、なんだか分かったような分からないような感がある。そのあたり、よくある問題解決指南書とはちょっと違った雰囲気である。ただ、すべての話を十分に理解できた/楽しんだとは言えないので、しばらく経ってから読み返してみると、また読後感が違うかもしれない。

 本書は問題解決よりも、問題発見に力点が置かれている。「問題の正しい定義が得られたかどうかは決してわからない、問題が解けたあとでも」(p.45)という記述からも分かるように、本書で扱っているのはいわゆる「不良定義問題(ill-defined problem)」である。唯一の正解がある学校の試験問題などとは違い、問題をどう定義するかによってどのような解がありうるかが変わってくる、そういう問題である。

 本書では、新しい問題定義を得るために、外国人や盲人や子どもの視点を取ってみること(p.62-65)や、言葉遊びをしてみること(p.77-82)を提案している。いずれも、新しい視点を得ることで、違う形で問題を認識することを手助けする方策だ。言葉遊びとしては、自分で作った問題定義の文章の力点の置き方を変えてみたり、辞書に載っているいろいろな定義を当てはめてみたり(辞書方式:たとえばhave一つを取っても、10個以上の定義がある)、一部の語を他の語に置き換えてみたり(肯定⇔否定、may⇔mustなど)、といった具合である。

 不良定義問題という問題の性質上、すっきりした明快なマニュアル的解法や指針を記述することは難しいのだろう。しかし、日常生活で出会う問題のほとんどは不良定義問題である。本書に挙げられているような、不良定義問題の性質を知り、問題を発見するためのいくつかのヒントを知っておくことは、何かの時に役に立つかもしれない。ただ、問題の定義を変えてみることによって、簡単に問題や責任を回避/転嫁してしまうこともできる。その点には十分注意しなければならないと思う(このことについて、本書では触れられていないのは残念)。

  • もし問題の原因を、(自然ではなく)人、または現実の事物ないし動作に求めることができるのであれば、解決の可能性に関する足がかりが得られる。(p.110)

■私の授業評価(思考の技法)

 「思考の技法」は、琉大で持っている専門科目。登録者数は18名で、最終的には17名が出席。心理の専門科目という位置づけだが、教育学部の3年生にとっては課程共通科目になるせいもあってか、一番多いのは国語教育の3年生。逆に心理の学生は2名しかいない。そのせいもあり、心理学的な話題だけではなく、教科における思考の話も少し取り入れてみた。

 授業評価は、教育学部で用意している共通の評価用紙。無記名。含まれている項目は共通教育のものとほとんど同じだが、5段階の数値評価ではなく、こちらは各問いに対して1行程度の自由記述欄のみが設けられている。ただ、数値的な評価もほしかったので、総合評価のみ、5段階評価で数字を書いてもらった。

 その結果、総合評価の平均(17名)は4.7。まあこれは、比較的小人数のクラスだし、必修でもないので興味のないものは早めに脱落するし、そもそも他学科から専門科目を受けにくる学生は意欲や興味が高いだろうから、ある程度高くて当然なのかもしれない。それでも、琉大でこの手の授業をするのは2度目で試行錯誤的な部分が多かったし、講義中は学生の反応も今一つ分からなかったので、多少は安心した。以下、いくつかの質問項目に対する反応をピックアップ(平均的な回答ではなく、気になった回答が主)。

●使用したテキスト・補助教材等は適切であったか
いつも興味のわく資料で、よかったと思う。マンガも分かりやすかった
●教員の説明はわかりやすかったか
ときどきむずかしいことを言っていたが、質問書でフォローしてくれたので問題なし
分かりにくい部分もあったが、大半はよく理解できた
●教員は学生を積極的に授業の流れに参加させようとしたか
毎回質問書に答えてくれてていたので良かった
●この授業はよく準備されていたか
準備は非常に良かった
毎回プリントが配布され、まとまりのある講義であった
●私は、積極的にこの授業に参加したか
参加した:12名、普通:1名、あまり積極的ではなかった:3名、無回答:1名
●この授業のレベルは適切であったか
適切:11人、もう少し難しくても良かった:3人、少し難しかった:3人
●この授業で特に良かった点、印象に残った点(3人分のみ抜粋)
生徒の質問を中心に授業を進めてくれるのが良い(複数)
大学に入って「面白い」と思える数少ない授業の一つでした
クリティカルに考える、ということが学べてとても自分にとってプラスになったと思う(複数)
●この授業で改善すべき点(全部で3件)
レポートと出席だけではなく、授業態度、テストなどもやって総合評価をしてほしい
先生は、たまに考えを押し付ける感じのときがある気がしました
遅刻ばっかりしてごめんなさい

 全体的には、(授業者側の自己評価に比して)十分過ぎるぐらいの高い評価だが、その半分以上は、「クリシン」という素材と、「質問書」という手法の良さによるものであって、授業者の手腕ではないだろうと思う。改善すべきは最後の3点。評価法は改善の余地があるし、「押し付け感」は、1名のみとはいえ、非常勤先同様問題だし。遅刻は確かに多かった。なぜ遅刻するのか、遅刻を減らすためには何ができるのか、次回の課題である。

2000/02/15(火)

■『大学に「明日」はあるか』(毎日新聞教育取材班 1998 毎日新聞社 \1500)

 1996年から1998年まで毎日新聞に連載された「大学どこへ」に加筆・再構成されたもの。東大のシケプリ(学生が組織的に作る試験対策プリント)から始まって、就職問題、入試、大学改革まで、大学現場の生の声や学生の肉声を聞くことに重点がおいて作られている。教育学者が書いた大学改革本に比べて薄味という感じがしたが、それでも、いろいろな大学の実態や、きちんと理解していなかった制度の変遷などについて理解/再確認できたので、まあよかった。

 たとえば入試制度。かつては共通一次だったのがセンター試験になり、A日程B日程と言っていたのがいつのまにか分離分割(前後期)になった事情が、どういう経緯をたどったのかが分かった。その他、最近やけに大学院生が増えている事情(1991年の大学審議会の答申で大学院重点化が打ち出され、院生数が倍増)とか、1980年代の緊縮財政で大学の教育・研究環境の荒廃が進んだとか。

 その他、これからの動向を占うようなテストケースの報告もある。AO入試を採用している慶応大学湘南藤沢キャンパスの話(p.136)やGPA制度を導入した青森公立大学の話(p.175:少しだけ)、衛星を使って遠隔授業をする北海道情報大学の話(p.163)など。こういう「これから」(未知数)の制度には、あまり安易に結論めいた記述はしてほしくないような気がするけど。

 あと、最後に「私の提言」と称して、5人の有識者(?)が意見を寄せているが、こちらは今一つという感じ。例えば森毅先生は、「私語をなくすにはお喋りする空間を用意したらいい」として、「学生街を作れ」と言っているが、これはちょっとピントはずれじゃないの?と思った。こういう提言よりは、前半部分の、新聞記者が取材して作った現状と模索の報告の方が、薄味ながらもまだ面白いところがたくさんあったなぁ。

■かぜ引いた

 かぜで死にそう。関節が痛くて夜はろくに眠れないし。読書記録(↑)、先週末に書きためといてよかった。

2000/02/12(土)

■『科学革命の構造』(トーマス・クーン 1962/1970/1971 みすず書房 \2200)

 言わずと知れた、科学論の名著。科学における進歩を「革命」として捉え、そして、ある分野を科学と呼ぶための明確な基準をパラダイムの獲得(p.25)に求め、パラダイム(後の言葉では専門母体)を中心に通常科学の営みを描いた本だ。

 本書は全体的に、あまり読みやすいものではないと思う。要点がはっきりしないままに何となくだらだらと話が進んでいる(ように私には見える)し、物理学や化学の例が多いので、その方面の知識がないと、せっかく挙げられている例がよく理解できない。そういう意味では、本書よりも『クーン』みたいな本を読んだ方が、要点や流れが押さえやすくていいと思う。

 ただ1つ、本書を読んで良かったと思った点がある。それは、パラダイム変換の流れを、錯覚の心理学実験になぞらえて説明している部分である(p.70)。その実験とは、トランプの中にウソのトランプ(黒いハートとか)を少し混ぜておいて、それをちらっと見せて何のカードかを答えさせる実験だ。最初はウソのトランプを見せられてもそれに気づかず、既有のスキーマに基づいて「普通のカード」を答える(黒のハートを見て「(黒い)スペード」というように)。しかしウソのカードをだんだん増やしていくと、被験者はためらい始め、躊躇や混乱の後に、変則性に気づいて正しく言い当てることができるようになる。これがすなわち、あるパラダイムのもとで変則事態が増大しはじめ、抵抗を受けながらも最終的にパラダイム変換が起こる様子と相似形になっているのだ。

 もう1つ似たようなアナロジーとして、「新しいパラダイムを抱く科学者は、逆転レンズをつけた人のようなものである。以前と同じ一群の対象に向かい、しかも自分でそうしていることを知っていながら、彼はなおかつその詳細において、徹底的にその対象を変革して見ているのである。」(p.137)なんていうのもあった。例としてはある面、こちらの方がトランプの例よりも適当な部分もあると思った。科学者は、チラッと見たトランプを当てるような直感的なやり方で対象を見るわけではないからだ。

 これ以外に注意を引いた記述としては、「新しいパラダイムの基本的発明を遂げた人は、ほとんど、非常に若いか、パラダイムの変更を促す分野に新しく入ってきた新人のどちらかである」(p.102)というものがある。トランプを見慣れていない人がいい、というわけだ。しかし、非若人は新しいパラダイムが発明できないかというとそうではないと思う。要は自分のパラダイムを相対化し、その外にまで想像力を及ぼすことができればいいのではなだろうい。

 もう1つ。旧パラダイムと新パラダイムでは、同じ語を使っていても意味が違うことが多い。そこから「共約不可能性」などと言われたりするが、しかしコミュニケーションが全く不可能なわけではない。これに関する一節が、1969年に付け加えられた補章部分にある。「コミュニケーションの杜絶の中にある人ができることは、互いに異なった言語集団のメンバーであることを認めた上で、翻訳者になることである」(p.232)。翻訳者として、両言語間の違いを認識した上で、お互いに共通する言葉(日常的語彙)の上で、相手の言語を自分の言語で表現する、ということだ。このように、翻訳者の立場を取ると言うことは、科学の学派間の理解に限らず、異なる立場にあるもの/人を理解する上で必要なことであろうと思う。

■私の授業評価(思考心理学)

 そろそろ後期の授業が終わりつつあるので、そこで得られた学生による授業評価をまとめておこうと思う。まずは非常勤先の授業から。

 授業のタイトルは「臨床心理学」だが、私はその半分の7回のみ。内容は、批判的思考や実験計画法など。(残りの半分は、臨床心理士による本当の臨床心理学の授業)。受講生は理学療法学科と作業療法学科の1年生約80人。この学校の先生に、臨床心理学の時間を使って、実験心理学的な考え方を学生に講義してほしい、と頼まれたので、このような変則的な授業になっている。でも実際、臨床現場で行なわれる「診断」には、客観的/批判的/実験的な思考が必要なので、悪くない位置づけかも、と最近は思っている。この授業は多分、もう4〜5年やっているが、なかなか決定的な内容にできない。そういう意味では、授業評価による改善がもっとも必要な授業の1つだ。

 この授業では、数値による授業評価は行っていないが、テストの最後に自由記述で授業に対する意見を書かせている。解答用紙への記述なので記名回答になるが、回答に際しては「いい点も悪い点も思ったとおりで構わない。批判をしているからと言って、評価を下げることはない」と告げてある。ざっと見たところ、肯定的な意見が半分、肯定と否定(改善案)の両方を述べているものが半分。否定的意見のみのものはほとんどないようだ。ちょっと安心。

 肯定的な意見としては、「将来の職業に必要な内容で、勉強になった」「雑談のおかげで、退屈しなくて楽しく受けられた」「フィードバックペーパーで疑問に丁寧に答えてくれたのが、前回の復習にもなって良かった」などというものがあった。否定的な意見に関しては、学生が挙げたものの中で、自分でも改善すべきだと思う点を、いくつかピックアップしておこう。

  • 授業の進行がはっきりつかめなかった。
  • 早口であったという印象が強い。
  • 全体的には分かりやすい講義だったが、先生が何を言いたいのか分からないときもあった。
  • 実験についての授業は、難しかった。条件があたっているようでも、少し違っていたりと、分かりにくかった。
  • 講義では、先生の言っていることが全て正しく、それが押し付けられているように感じた。
  • 生徒の答えを否定した理由をきちんと話していないときもあったような気がする。

 実験関連では、間違った実験計画の問題点が指摘できるようになる、というのがこちらの教育目標なのだが、このあたりが難しいようだ。間違った実験の問題点指摘には正解があるわけだが、その理由や考え方をうまく説明しないと、学生は「押し付けがましい」と感じるようだ。それまでの回では、「ものごとを多面的に見よう」という話が中心なのでなおさらそう感じるのだろう。ここが来年度の最重要改善ポイントだ。早口は、どの授業にも通じるポイントだが、どう改善したらいいものか...

2000/02/09(水)

■『テレビは真実を報道したか −ヤラセの映像論』(木村哲人 1996 三一書房 \1500)

 テレビの音響ディレクターをしていた人の本。のっけから「テレビ局に入社したディレクターが最初に学ぶのは、ヤラセのテクニックである」(p.9)などと書いてあってちょっとびっくりするが、要するに演出のことを言っているようだ。しかし、演出ならOK、ヤラセはNGと簡単にいうわけにはいかない。「カメラの映像は現象の一部にすぎず、空間や時間を選択したものだ。それはスタッフの意志で印象を自由に変えることができる」(p.1)からだ。正常範囲の演出とヤラセの境目は、思っているよりもあいまいなのだろう。

 BBCでは演出は日本よりも徹底している。インタビューの相手の話し方が流暢ではない場合は、よく似た無名の俳優を使う(p.44)のだという。これもちゃんと理屈があり、「平凡な一般市民はオドオドして不自然になり、リアリティとは程遠い、説得の欠けるものになる」(p.45)からだと言う。その他、インタビューなどのドキュメンタリーを撮るのに、ドラマも及ばぬリハーサルを何度も繰り返すそうだ。

 著者によると、ヤラセを見破るコツは、カメラはどこにいるかを考えること(p.25)だと言う。すると、たとえば戦争のシーンなのに不自然にカメラの位置が高かったり、ライトが当たっていることが分かったりする。あるいは、登場人物の行動が不自然(カメラからはみ出さないように動いているとか、人が倒れるのに、なるべく汚れないところばかりに倒れる、とか)ということからヤラセが分かることもある。このあたりの話は、さすが現場経験者。大学の先生が書いたメディア・リテラシーの本にはない具体的な話が多くて面白い。

 ときどきヤラセが新聞などで問題になることがある。そういうときには、映像の作り手と見る側のへだたりがはっきりする。というのは、「映像を加工しない形で見せろ」という単純な批判は、「無心に撮影した映像は真実を伝える」と批判者が思いこんでいるということであり、そのような、演出や編集のないテープは単なる断片にしかなりえない(p.177)ことを批判者が理解していないことを意味するからだ。これらは、真実とは何か、真実を切り取り、記録し、伝えるとはどういういことか、真実はひとつなのか、という問題であり、この問題は映像の世界だけに留まらず、科学や学問一般の世界にも通じる、興味深い問題だと思う。

  • 「それは制作者にとっての真実である」とか「真実は1種類ではない。絶対に公平を期すべき裁判ですら、回ごとに判決が異なる」とは、フランスのドキュメンタリストがよく使うことばである(p.47)

  • 私のように現場であらゆる手練手管を覚えると、どんな映像でも一度は疑ってかかる習性が身についている。(p.81)

  • 不偏不党、公平、無思想、私的な感情を入れず、しかも感動する映像。これが理想のテレビ・ドキュメンタリーだと言う。そんなものはあるはずがないのは、現場のスタッフなら誰でも知っている。(p.172)

■ハチウクシーほか

 野之花商会沖縄の行事のページによると、ハチウクシーとは「初越し=仕事始め」だそうだ。な〜んだ。初(ハチ)御(ウ)越(ク)し、ということかな。これも含めて、旧暦1月の行事は全部で7回もある。昨日が「火の神迎え」。明後日は「七日節句(ナヌカヌシック)」で神仏に菜入り雑炊(ナージュシー)を供えるそうだ。神仏はいないけど、うちでもジューシーを作ってもらおうかな。

 このホームページにはこのほかにも、沖縄案内というページがあり、「現代沖縄の祭り及び催事年間表一覧」なんてのも載っているから、沖縄旅行計画を立てるときの参考にするといいかも知れない。ちなみに今は、「花のカーニバル」だの「なはさくらまつり」だのが行われる時期(県庁のホームページに案内あり)。あと、プロ野球のキャンプもあちこちで行われている(祭りとか催事とは言わないか)。行きたいけどなかなか行けないなぁ。

2000/02/06(日)

■『タブローの方法による論理学入門』(丹治信春 1999 朝倉書店)

 昨年10月から受けている「論理学概論」(2年生向け専門科目)で落ちこぼれかけた。12月から1月にかけて1ヶ月ほど、忙しくて出席できなかったのだ。論理学は典型的な「手を動かして(問題を解いて)身につける」分野だ。だから、遅れを取り戻そうと手持ちの本を読んでみたが、頭だけでは今ひとつ理解できない。その原因としてはもうひとつ、論理学者は、説明の分かりやすさよりも正しさや詳しさを重視する(要するに分かりにくい)という点があるようではあるが。

 で、どうしようと思っていたときに、大学の図書館の新着本のコーナーで見つけたのが本書。まえがきに「タブローの方法(本書で採用されている証明技法)は、ある程度きちんと勉強した学生のほぼ全員が、十分に習得できるものである」、「(他の方法と違って)タブローの方法にはほとんどハードルがない」とある。

 で、実際に読んで(やって)見たら、ルールが単純ですぐ結果を出すことができる、確かにハードルのない方法であった。あっと言うまに最後まで読ん(やっ)た。中でも一番大きかったのは、「これならできそうだから次もやってみよう」という気になったことだ。おかげで、サボっていた「論理学概論」の宿題もやる気になった。そういう意味でこの本は、論理学に落ちこぼれた人にはお勧めできる本だ。

 ただ、ひとつ疑問に思ったことがある。本書に限った問題ではないが、このような形式論理学のトレーニングは、何の目的で行なわれるのだろうか。論理式が妥当(または恒真)であることを証明するのは、言ってみれば詰め将棋を習うようなものだ。詰め将棋の場合は、本物の将棋の勝負にその技能を利用することができる。では論理式の演繹は? もちろん論理学の学徒なら必要なことだろうが、それ以外には、どのような役に立つのであろうか。私が論理学を勉強しようと思ったのは、論理的に妥当な考え方を身につけたい、ということだったのだが、この半年の勉強で何か変わったかと言えば、自覚的には何もない。ただ論理式を変形するテクニックを覚えた、というだけな気がする。

 この点に関しては本書では、「この本では論理の本性についての哲学的問題は扱っていないが、しかし、技法の習得だけに話を限定しているわけでもない」として、2章を当てて命題/述語論理の健全性と完全性の証明が与えられている(ムズカシゲなので飛ばし読みしたけど)。これによって「技法」がどの程度の信頼性とパワーをもっているかを知ることはできるが、それ以上の論理学の「意味」については、まったく触れられていない。教科書だからしょうがないのかもしれないが。論理学を勉強することの意味/意義について、論理学者はどう考えているのだろ。

 以下は、論理学関連で忘れやすい/理解しにくいポイントの覚え書き。

  • 論理的真理とは、論理語の働きだけによって真であることが保証されるような命題である(p.1)

  • 日常的な使い方では、「AならばB」は、前件と後件の真理値だけによってではなく、前件と後件の内容的なつながりによって、真とされたりされなかったりするのである。(p.16)

  • タブローの方法では、Aは偽だ、という仮定から出発して矛盾が出てくるかどうかを調べることになる(帰謬法)。(p.28)

■伊波屋ほか

  • 昨日の昼食は中城の「伊波屋」にて。妻が頼んだ「伊波屋そば」は、汁は澄んでいておいしかったそうだが、でっかいどんぶりにソーキがどかんと載っており、結構なボリュームだった。これにイナリ寿司1個がついて600円。麺は普通の工場製麺という感じ。私が頼んだ中味そばは、なぜか中味だけではなく野菜炒めが載っており、こちらも大ボリューム(イナリもついて600円)。おかげで汁が野菜炒めっぽい味で、あまり感心はしなかった。中味そばなら中味とそばだけで勝負しろ、という感じ。

  • 昨日は旧正月。南部や田舎に行けば旧正月を祝っているところもあるそうだが、このあたりでは何も関係なし。新聞社にもらったカレンダーによると、今日と明日は「ハチウクシー」だそうだが、何だハチウクシーって? 言葉からすると、初起こしかな? それにしても意味は不明だけど。

2000/02/03(木)

■『青年期の心 −精神医学から見た若者』(福島 章 1992 講談社現代新書 \700)

 一般教養の授業(人間関係論)で青年期の話をするのが苦手だ。教科書的な話は一通りできても、今1つ学生の実感に訴える話にならず、抽象的なレベルで留まってしまう。授業のネタ探しついでに、青年期の本を読んで見た。本当だったらエリクソンの著作でも読むべきところだろうが、とりあえず軽めのものからということで。

 著者は精神科医であり、事例や精神分析的考察が盛り込まれているのが、単なる青年心理学の本とはちょっと違う点だ。本書を読んで思ったこと。青年期は、「人間関係論」(旧「心理学供廖H楼呂枠達+人格臨床+社会心理学)の軸にしてもいいくらいの守備範囲をもっている。もちろん青年期は発達心理学の1分野なわけだが、自分や他人の性格に注意が向く時期だし、神経症や精神病などの心の病とも親和性の高い時期だ。また、青年期には人と人との関わりが重要な位置を占め、愛や性の問題も大事になってくる。「人間関係論」の全部とは言わないまでも、半分以上の授業では、青年期と関連づけながら話をすることも可能そうだ。いつかそういう組み立てで授業を展開してみるか。

 授業で話をするのが難しいのは、現代の青年は本当に悩んでいるのか、アイデンティティを模索しているのか、私がよく分かっていないから。これに関しては、「大部分の青年は人生の中でも最も幸福で充実した時代を謳歌している(青年期平穏説)」(p.9)、「多くの青年はさまざまなモラトリアムを経た後で、それと目立つ事件もないままに、おとなの世界に入ってゆく」(p.35)という記述があった。うん、やっぱりそうだよなぁ。それでもそういう青年たちも、可能性を取捨選択しておらず、また、社会的に安定したものにコミットしていない、という点では、紛れもなく青年期の課題を背負っているのだろうし、内面にはなんらかの葛藤や悩みが潜在しているのかもしれない。このあたりをうまく押さえられると、もう少しましな授業ができるのかもしれない。ちなみに宮沢賢治は、これといって永続した仕事にはつかずに39年の生涯を、ほとんど両親の経済力のおかげで暮らしていたそうで、彼の生涯は死ぬまでモラトリアムのままだったようだ(p.36)。

  • 青年期の反抗やアマノジャクな状態、おとなから見れば奇をてらうように見える若者の行動も、自立するための試みのひとつであり、健康な心の発達を示す現象とも理解される。(中略)子どもは親からしだいに距離をとり、また親とは違った態度や価値観や行動パターンを選ぶことによって「自分」というものを確立しようとするものである。(p.84)

  • (青年が恋におちるのは)多くの場合に、拡散した自我を他者に投影し、そこに映し出されたものを見つめ、じょじょに明らかにしてゆくことによって、自己の同一性を明確化する試みなのである(p.144)

  • 自我同一性という場合には、「自分が自分として生きている」という実存的な側面と、「社会の何かと絆をたもっている」という社会的な側面(社会的同一性)の両方がうまく調和していなければならない。(p.159)

  • 現代のように複雑で多様化された社会では、自分が果しうる役割について、あらかじめさまざまな試行錯誤をする機会が与えられているべきであろう。これを青年期における役割実験という。(p.175)

  • 青年期というものは、ある意味で依存の対象をいったん失い、それから新しい対象関係を創造しなければならない時期(p.228)

■心理学者の読書案内ページ(2)

 今日は日々の記録を書く時間がないので、心理学者の読書案内ページ第2弾。ストックしておいてよかった。
 1月はあっという間に過ぎた感じがする。2月も「逃げる」か?




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