読書と日々の記録2000.04
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■読書記録: 30日【短評】短評6冊 30日『パフォーマンス・マネジメント』 27日『大学−挑戦の時代』 24日『思考スタイル』 21日『反論の技術』 18日『人はなぜ迷信を信じるのか』 15日『いじめられた知識からのメッセージ』 12日『オカルトでっかち』 9日『デューイとその時代』 6日『「正しく」考える方法』 3日『フェミニズム入門』
■日々記録: 27日松尾貴史氏からメール 24日最近の読書生活 21日大学関係者の読書案内ページ 18日最近お気に入りのWeb日記 15日私の授業評価(教育心理学'99) 12日わたしのいちにち 9日大学生に読んでほしい7冊 6日かぜ 3日クオーター制について

 

2000/04/30(日)

■『パフォーマンス・マネジメント −問題解決のための行動分析学』(島宗 理 2000 米田出版 \2000)

〜何かを知っている〜

 本書については、ちはるさんがすでに4月23日に取り上げている。だから、本書の概要はもうあまり説明することがない。現実的な問題解決の指針となる良書だ。ただ一つ、私も本書を読んでちはるさんと同じことを感じた。行動分析家は「答えを知っている」という点だ(ちはるさんが「本書に」それを感じたのかどうかは不明だが)。私が本書で感じたことを正確に表現すると、「何かを知っている」かな。もちろん何かとは何でもいいわけではない。多くの人が知らないで苦労している何か、という意味だ。

 その何かとは何か。ちはるさんは、「有効な予測と制御ができること」(4/25)と表現した。この表現は、私にはあまりしっくりこなかった。あくまでも私の感覚では。本書では確かに、巧みな行動の予測と制御の例がたくさん挙げられている。これを読むと、私もすぐにでも部下のマネジメント(部下はいないけど)や体重のマネジメント(これは必要)やスポーツ技能のマネジメント(私は運痴)が、あっという間にできそうな気がしてくる。

 しかし、対象行動にもよるだろうが、実際には何でもすぐにきれいにマネジメントできるわけではないと思う。本書にも8章には、「道徳のマネジメント」と題して、違法駐車やポイ捨てが話題になっている。しかし、真に道徳的な行動、つまり、誰も見ていなくても、ご褒美がもらえなくても自然と行われる善行は結局、「家庭や地域での”しつけ”」が重要であり、「こうした草の根運動には時間がかかる」(p.76)と結論づけられている。ここは本書の中では、一番歯切れが悪い章だと感じた(そのようなテーマでも扱っている点はすごいと思うが)。つまり行動分析は、必ずしも行動の予測と制御の実際的・万能なツールではないのではないだろうか。だから現在もさかんに、行動マネジメントのための具体的な技法が日々開発されている(たとえばプリシジョン・ティーチングp.98など)。

 むしろ私は、行動分析学は、予測・制御の前の段階である「原因推定」の強力かつ実際的なツールであると感じた(あくまでも本書のみに基づく感想)。簡単に言うと、誰かがあることを「しない」とき、それは、知識の欠如か、行動レパートリー(スキル?)の欠如か、動機づけの欠如のどれかが原因だと考えられる(p.12-)。この分析ができれば処方箋もでる。知らないのなら教える。知っていてもできないのならトレーニングする。できるのにやる気がないのなら強化テクニックを使う。簡単なことのようだが、このようにすっきりと理解している人は多くないのではないだろうか。もちろん処方箋が出ても、その実行(行動の制御)は難しい場合もある。しかし、このような処方箋が出せる「視点」をもっていることが行動分析学の強みであると思う。

 私が思うに、行動分析家が何かを知っていると思わせる点は、ここにあるのではないだろうか。世界は、普通の人から見れば、混沌としていて理解が(予測も制御も)難しい。部分的には理解可能であったとしても、その適用範囲は狭いことが多い。ところが行動分析学は、簡潔な原理であるにもかかわらず、世界をスパッと切り取り、きれいに整理してみせる確固たる枠組みをもっている。普通の人には見えない何かを見る(的確な)見方を知っているのだ。だから誤ることなく理解できるし、場合によっては上手に予測し制御することができる。それが行動分析が知っている「何か」であり、本書は、その何かを簡潔に、しかも的確に見せてくれる本であると思う。

■今月ほかに読んだ本

 ・・・ろくさつ。 こ、これは、月初め、風邪で寝ていたとき、病床で読んだもので... まあでも、来月から更新頻度を下げる予定。今のところ、現在の3日に一回から、4日に一回程度にペースダウンしようと思っている。詳細は来月はじめに。

『ンパンパッ!おきなわ白書−うちあたいコラム3』(新城和博 2000 ボーダーインク \1600)

 これはおもしろかった。エッセイなのだが、垂れ流し系気の抜けたエッセイではなく、著者がいつも沖縄のことを深く考えていることがわかる。政治についても音楽その他の文化についても、ここ5年から10年ほどの沖縄の状況や流れが、非常に上手にまとめられている。

『新心理学がわかる。−現場から』(AERA Mook 2000 朝日新聞社 \1200)

 現場ということに焦点を当て、心理学の人が関係している仕事だとか、臨床の現場であるとか、フィールド(現場)ワークとしての発達心理学などが取り上げられている。ワタシ的におもしろかったのは、「現場の心理学」(p.37-73)。

『マンガは哲学する』(永井 均 2000 講談社 \1400)

 マンガによる哲学入門書であり、哲学によるマンガ入門書。橋本治みたいな、スルドい人が書くマンガ評論と、どこが違うんだろう、というのが率直な印象。もちろん私の理解不足による感想なのかもしれないけど。

『アメリカ人はなぜメディアを信用しないか−拝金主義と無責任さが渦巻くアメリカ・ジャーナリズムの実態』(J.ファローズ 1996/1998 はまの出版 \2200)

 アメリカ人はここ10年、年々メディア嫌いが深まっている(p.7)。それは、視聴者を楽しませるために、対立と見世物に焦点を当て、有名人をこしらえては叩き潰し、次から次へと危機や問題を引っ張り出して来ては消費する。政治をゲームのように扱い、ジャーナリストは出世競争や金儲けに精を出している(p.331)からだ。かつてデューイは「市民が政治に疎外感を味わっている限り民主主義は機能しない」と危惧(p.301)した。こんにちのメディアは人々に「世の中はコントロール不可能だし、自分たちの生活とは関係ない」というメッセージを送り、デューイの危惧を現実化している、という警告の書。ちょっと長くて読むのは大変だったけど。

『逆さメガネの心理学−自分の視覚や知覚が信じられなくなる不思議実験室』(太城敬良 2000 河出夢新書)

 錯視や視覚の生理学から逆さメガネ研究までを広くカバーした本。心理学以前の時代の視覚研究の歴史など、詳しくてよかったが、全体的にはちょっとねぇ... 何というか、読みにくい本だったなぁ。

『恥と意地−日本人の心理構造』(鑪 幹八郎 1998 講談社現代新書 \640)

 「恥」とその防衛としての「意地」を通して日本人の心理構造を考察した書。それによると、日本人の自我は「アモルファス(無定形)自我」なのだそうだ。本書は、私にとってのしっくり感は今ひとつだった。いつも思うのだが、こういう比較文化ものの本で、目ウロコなものとイマイチなものの差は、いったいどこにあるんだろう?

2000/04/27(木)

■『大学−挑戦の時代』(天野郁夫 1999 東京大学出版会 UP選書 \1800)

〜大学進学率上昇のカラクリ〜

 大学問題について、以前から不思議に思っていたことがある。それは、「大学進学率が上昇している」ということについてだ。よく、大学進学率が15%未満の時代はエリート段階、それからマス段階を経て、日本はユニバーサル段階(50%以上)に近づきつつある、などと言われる。最近の一連の大学改革論議も、キーワードは少子化と大衆化だ。要するに、もう大学はエリート教育機関ではないのだから、意識を変えなければいけない、というわけだ。

 疑問なのは、あたかも大学進学率が自然に上昇したかのように言われること。私の体脂肪率がエリート段階を経てユニバーサル段階(?)に近づきつつある、というのとは違う。大学進学率が自然に上昇することはありえないはずだ。大学進学率は大雑把には、その年の18歳人口と全国のすべての大学の入学定員で決まるからだ。18歳人口は、少なくとも1992年まではここ15年ほどは単調増加しているし、大学入学定員は、大学の一存で決めることはできず、文部省の意向が大きく影響する。もし文部省がウンといわなければ、大学進学率は、18歳人口が増加している時期であれば、自然と減少すべきはずのものだ。ところが大学進学率は、ずっと増加しつつあるという(正確には、成長と停滞を繰り返している)。なんでそーなるの!?というのが疑問だった。

 その疑問が本書で解消した。本書によると、高等教育の量的拡大/停滞には、2つの力が作用しているという。一つは市場モデルを志向する拡張主義的な諸力(p.20)であり、具体的には、人口増加に伴って激化する受験戦争を緩和すべしという社会からの要請のほかに、より質の高い訓練された労働力を必要とする産業界からの要請や、企業として拡大を志向する学校法人(私立学校)からの要請などである。もう一つの力は抑止的なもので、計画モデルを志向する制限主義的な諸力、特に文部省の管理・統制である。つまり、この2つの力の押し引きによって、大学進学率が決定されてきたわけである。

 高等教育は、1949年の新制度発足以来、1949-1960年と1975-1985年の2つの停滞期を除いて、常に拡張主義が優位に立つことによって、拡大してきた。1960年代といえば第1次ベビーブーム、1980年代半ばは第2次ベビーブームの子たちが18歳となったころである。これらの時期には、大学の収容力を拡大しなければ受験戦争が激化するなどの理由で、拡大政策をとらざるを得なかった。実際、文部省は、1961年にはすでに、私学関係者の強い要請を受けた自民党有力者の圧力により、大学設置基準の「弾力的」な運用を約束させられていた(p.27)そうである。また、各大学も恒常的に水増し入学(多いときには定員の1.84倍)することにより、規模の拡大を図った。このように、高等教育の量的拡大は、文部省のコントロールの及ばぬところで進行(p.29)してきたのである。

 このような状況の中、文部省は1993年から始まる第4次高等教育計画では、事実上規模の計画的なコントロールをあきらめ、制限主義的な政策を基本的に放棄せざるを得なくなった(p.35)。それと前後して、大学設置基準の大綱化が行われている。このことの意味することは、高等教育の発展は市場的な諸力の動きにゆだねられたこと(p.37)、そして、大学はきびしい生存競争のなかで、生き残り、発展する自由とともに、競争に敗れ十分な学生数を集めることができず、廃校や閉校に追いやられる自由をも手に入れた(p.39)ことである。その生き残り競争の結果は、大綱化によって文部省から各大学へと移された、質的水準維持の努力によって決まることになる。

 正確に言うと、大学設置基準が日本の大学の質を決定していたわけではない。大学の質の保証機能は、かつては入学試験が担っていた(p.211)。学習指導要領による標準化された高校カリキュラム、5教科7科目の入試、厳しい受験競争や偏差値体制などがそうである。すなわち「入り口型」の質の保証装置(p.212)である。しかしこれらも、1980年代の高校の教育課程の改革によって、品質の保証装置として働かなくなってしまった。学生の学力は多様化し、入試科目は選択制となり、入試方法は多様化したからである。これからは、入学時点で多様な学生に対して、大学がいかに付加価値をつけ、卒業時点で高い品質が保証されるような「出口型」の質の保証装置(p.215)を作る必要がある。それが大学のこれから−挑戦の時代、ということなのであろう。

 #今回は酒を飲みながら書いたため、最後の方は本書に基づく意見というよりも、私の考えが多少混ざっています。

■松尾貴史氏からメールが

 ...来た。『オカルトでっかち』の書評を見たそうだ。本人の了承が得られたので、全文紹介したい。

突然失礼いたします。
読書の欄に書評を書いていただいた松尾貴史と申します。
検索エンジンから入ってまいりました。
ご指摘の部分も自覚症状ありで、なかなか参考になりました。

またいつか、機会がありましたらご指導、よろしくお願いいたします。


                    松尾貴史

 うわぁ、ちむどんどんしたやっさー。もちろんそれは有名人だから、というのもあるが(有名人に縁がないイナカ者)、それだけではない。書評ページをはじめて7ヶ月あまり、取り上げた本は、短評も含めて100冊以上(今数えてみたら、『オカルトでっかち』がちょうど100冊目だった!)。今まで、こちらから著者の方に連絡をとって書評を書いたことを知らせたことはある。著者が知り合いの場合とか、メールアドレスが公開されている場合だ。でも、著者本人からいきなりメールをもらったことはなかった。それでびっくりしたというわけ。早速、返事を出した。お礼と、このメールを引用していいかどうか確認メールだ。それが今週の月曜日(メールが来たのは先週の金曜日の夜中だったようだが)。

 でもそのあとで考えた。これはホンモノだろうか。メールの向こうに本人が存在しないとしたら、どういう場合が考えられるか、なんてことを考えてみたりした(このセリフは『オカルトでっかち』からの借用ね)。そりゃあ誰かが、それらしいメールアドレスを取得して本人になりすますのは簡単だ。うーむ。でも、そんなことして得する人はいないだろうしなぁ、

 ...なんて考えていたら、昨日(水曜日)、返事が来た。正確に言うと夜中に来ていた。今度はもう少し長くて、30行弱あった。どうやら本人で間違いなさそうだ(疑いすぎか?)。こちらのメールは転載許可を取っていないので、ここでは公開しないが、「今日(おそらく火曜日)、同志社大学で講演したが、学生は疑うことに抵抗があるようだ」ということが書かれていた。「不必要なほどの猜疑心と、「はて」と立ち止まって客観的に疑うことは違う」という意味のことも書かれていた。ごもっとも。

 ところで昨日、もう一つびっくりしたことがある。ちょうど昨日の朝、「はなまるマーケット」のゲストに松尾氏が出ていたのだ。前の日に京都で講演して、夜中にメールの返信をして、朝の番組に(東京で)出演していることになる。すげぇハード、というのもあるが、それだけではない。

 我が家では普段、朝8時30分からは、「おかあさんと一緒」をつけていることが多い。9割方はこれだ。しかしたまたま、娘(1歳10ヶ月)が起きてこなかったので、他のチャンネルにした。でもこういうときはたいてい、ワイドショーか「生活ほっとモーニング」(NHK)を見る。つまり「はなまる」の優先順位は低い。昨日はたまたま、他のチャンネルが興味を惹かなかったので、なんとなく「はなまる」を見ていたのだ。で、そろそろ行くか、と思って出ようとしたら、ゲストが松尾氏。ちょーびっくり

 我が家でたまたまつけたテレビに松尾氏が出演して、その当の本人からその日にメールをもらう確率はどのぐらいになるのだろう。具体的な数字は分からないが、分母が天文学的な大きさの(要するに小さな)確率になることは間違いないだろう。これは単なる偶然というには、できすぎではないだろうか。100冊目というキリのいい数字といい、この不思議なシンクロニシティといい、松尾氏と私には神秘的なつながりがあるに違いない。

 #...補足はしませんが、この推論には問題があります。もし素直に上記の結論を信じそうになった方は、『オカルトでっかち』を読みましょう(^^ゞ

2000/04/24(月)

■『思考スタイル −能力を生かすもの』(R.J.スターンバーグ 1997/2000 新曜社 \2500)

〜能力ではない。スタイルだ。〜

 私の好きなマンガに、『天職の泉』(中川いさみ、だったかな?)というのがある。今手元にないので、内容はうろ覚えなのだが、たとえば、どう見てもタカラヅカの方が向いている、と思われる女性が工事現場監督の仕事をしていて、ついつい鉄骨の上で歌ったり踊ったりしてしまう、みたいな話がいくつも載っている短編集だ(ったと思う)。たしか作者の言葉が扉かどっかにあって、そこには次のような趣旨のことが書いてあった(と思う)。「人は誰でも天職をもっている。しかし多くの人はそれに気づかず、天職とは違う職業についてしまっている」(うろ覚えなので、だいぶ違ってるかも知れないけど)。

 誤解を恐れずに端的にまとめれば、本書の主張もこれと同じである(天職→思考スタイルとおきかえて)。正確に言うと、この本の主なテーマは次のとおり。(p.10)

  1. 学校でもその他の組織、家庭、ビジネス、文化でも、特定の思考法が高く評価される。
  2. 思考のしかたが組織の評価する思考法と合わない人は、たいてい罰せられる。
ここでいう思考のしかたが「スタイル」である。思考スタイルとは、考え方の好き嫌いのこと。能力ではない。能力の使い方の好みである。スタイルは、能力や努力に次いで、成功や失敗を規定する第3の要因であるにもかかわらず、これまで重視されてこなかったために、いろいろと問題を生んできた。たとえば、学校で、「できない子」だと思われている生徒は、単に、スタイルが教師と合わないというだけのことが多い(p.16)。それは仕事でも日常の人間関係でも同じであろう。自分が尊重するものと、「正しい」ことを混同(p.127)してしまうのである。面接試験における面接者と試験官の関係も同じである(p.166)。

 スタイルに関する理論はこれまでもいくつかあったが、スタイルと称して結局は能力を測定していたり(場依存−場独立の認知スタイルがそう。p.189)、体系化された理論やモデルがない(p.200)という問題点があった。スタンバーグの思考スタイルの概念は心的自己統治理論という理論の元に、政治形態とのアナロジーで思考スタイルを定義されている。立法、行政、司法に対応した「立案型」「遵守型」「評価型」、君主制、階級制、寡頭制、無政府に対応した「単独型」「序列型」「並列型」「任意型」、中央政府(=中央集権制か?)、地方自治体、内政、外交に対応した「巨視型」「微視型」「独行型」「協同型」、それに、「革新型」「保守型」(これらは文字通り)である。ただし、人にはスタイルのプロフィール(パターン)があり、ただ一つのスタイルがあるのではない(p.111)し、スタイルは課題や状況で変わる(p.112)点は留意が必要である。

 そして、一番大事だと思われるのは、これである。「人生の選択は、能力だけでなくスタイルに合う必要がある。」(p.109) 要するに「天職の泉」だ。仕事で成功している人は能力があり、成功していない人は能力がないのではなく(だけではなく)、仕事が要求するものと思考スタイルの一致/不一致が問題なのである。これは、職業選択以外の人生選択(配偶者など)の場合でも同じだ。もう一つ。スタイルは教えることができる(p.121)点も重要であろう。それは、教えることで自分のスタイル・プロフィールを拡張したり柔軟性をもたせることができる、という意味でも重要だが、それだけではない。単に「スタイルというものがある」ことを教えるだけで、自分にとってよりよい選択がありうることを知ることができるし、「自分の考え方には何もおかしいところはない」と分かる(p.122)のだから、多くの学生は自己効力感を得る(p.122)ことができる。

 本書は、読んでいたときには、結構つらかったというか、面白くない部分も多かったような気がするが、こうしてまとめてみると、なかなか有益な示唆に富んでいることが改めて分かった。

■最近の読書生活

 夜、自宅で寝っころがって本を読んでいる。何もないときは、心静かに読書に専念できるのだが、そうはいかないことも多い。たいてい娘(1歳10ヶ月)が来て、「オキオキシテ、オキオキシテ」(起きろ)と連呼する。無視していると、髪の毛を引っ張って起こそうとしたり、「オッシマーイ」と言いながら、本を閉じようとする。しょうがなしに上体を起こす。今度は「ダッコ、ダッコ」(抱っこしろ)とせがまれる。

 無視していると、号泣に変わり、読書どころではなくなるので、抱っこする。すると今度は、「タッチシテ、タッチシテ」(立て)とせがまれる。無視しているとコワいので、結局立つ。立ち上がると、今度は「アッチ、アッチ」(あっちに行け)と指を差す。

 そうして言われるがままにあたりをうろうろし、蛍光灯のスイッチを触ったり、冷蔵庫に貼ってあるマグネットを貼りなおしたりする。そのうち、「オリオリ、オリオリ」(降りたい)というので降ろすと、何をするでもなく、またすぐ「ダッコ、ダッコ」。そうして2段落目に戻る(無限ではないが、しばらくの間ループ)。

 自宅で読書するのが、ますます大変になってきた。

2000/04/21(金)

■『反論の技術 −その意義と応用』(香西秀信 1995 明治図書 オピニオン叢書 \1760)

〜マイ・トポイ・カタログを作ろう〜

 議論の能力を短期間で効率よく向上させるには、反論の訓練だけをやればいい。議論の能力を高めるには、反論の技術を身につけるだけで十分(p.7)という主張をしている本である。反論といっても2種類ある。別の根拠によって別の主張をするだけの「主張」型の反論ではなく、相手の「推論や論拠」に誤りがあることを明らかにする「論証」型の反論(p.11)の腕を磨くことが重要だ。

 なぜ反論なのか。それは、意見とは本質的に先行する意見に対する反論(異見)だからである。誰も反対しないようなことは、意見として述べる必要はない。ということは、議論は反論によって始まり、反論が続く限り継続し、反論が終わることによって終了する。議論の始まり、継続、終わり、いずれもすべて反論が決定している(p.36)、すなわち議論=反論なのである。(以上第1部。反論の訓練の意義について)

 本書第2部には、教師が反論技術を自修するための方法が論じられている。古典的には、議論の基本的な発想を類型化(=トポス)し、それを収集・記憶して定跡として利用する方法がある(この語は『論証のレトリック』にも出てきた)。このようなトポスについての学問・研究のことをトピカ(複数形はトポイ)と言うそうである(p.81)。ただし、このような議論の定跡集は、思いのほか退屈である。どういう型があるかの羅列だからである。

 そこで著者が推奨するのが、マイ・トポイ・カタログを作る、という方法。やり方は簡単で、日常の読書等で出会った反論の例を、自分に分かりやすいかたちで片端から収集しておく(p.94)だけである。自分が「面白い」と思える反論を収集することが重要だそうだ。それをいつも眺めていると、反論の勘を養うことができる。これならそれほど大変でもないし、面白そうだ。これを読んで以来、Web上とかMLとかで(質のいい)議論が起きないか、実は心待ちにしている。すぐにコピペでマイカタログにできるからね。

 本書第3部では、著者の10年に及ぶ反論訓練の経験を元に、学生に反論を身に付けさせる方法が、かなり具体的に述べられている。著者の基本方針は、訓練は、最初から完全なものを目指さない(p.109)というもの。当たり前のようだが、これは結構勇気がいることだそうだ。具体的なやり方はここでは述べないが、反論だけに限らず思考教育一般に使えそうな方法だ。

 本書は、反論や議論の力を実践的に磨いたり、教育する方法を知る上では、非常に有益な本であると思う。ただ1点だけ疑問に思った点がある。日常の(非演繹的な)議論は蓋然的(=帰納的?)推論なので、どんな議論にも反論の余地がある、と著者は言う(p.51, 139)。著者の主張通りであれば、議論に終わりはなくなってしまうが、もちろんたいていの議論には、暫定的にせよ終わりがある。この「反論が終わるとき」については、本書では全く触れられていない。これは片落ちではないか、と著者の主張に反論(?)を呈しておこう。

  • 「論理的」とは、「ことなる立場の論者による批判に対し防御力がある(すきが無い)」ということである(p.45:宇佐美寛氏の定義)
  • われわれが最も注意しなければならないのは、やはり大前提の省略された議論である。なぜなら、結論が蓋然的確実性しかもたないような推論の場合、反論できる可能性をもった事実認識、論者の思想や価値観などは、大前提において最もよく表現されるからだ。だから、多くの場合、ある議論に反論することは、その大前提に反論することとほとんど同義となる(p.158)

 #こちらに紹介文あり。

■大学関係者の読書案内ページ

 自分用メモ代わりと化しているこのシリーズ。今回は、心理学関係者に限らず、大学関係者にまで枠を広げてみた。というか、何かの検索のついでに、たまたまそういうページがひっかかったんだけど。

  • 静岡大学情報学部の漁田武雄先生(心理学)の参考図書リストのページ
     心理学を勉強するための参考図書が分野別に、50冊以上挙げてある。コメントはなし。1997年に更新されたのが最後のよう。オーソドックスな内容。
  • 新潟大学の三浦淳先生(ドイツ文学)の読書コーナーのページ
     かなり気合の入ったページ。読んだ本すべてを短評と5段階評価付きで公開するページと、短評で済ませてしまうにはもったいない良書を本格的に書評する「この本を読め!」というページ(分野別)がある。短評のページ(1999)(7月)では、『アメリカの大学』が「この著者の本にはハズレがない」と評されている。
  • 中央学院大学の大村芳昭先生(法学)のジェンダー学文献リスト・リンク集のページ
     ジェンダー関連についての、1999年11月現在のリストおよびリンク集。50冊以上はあるのではないかと思う。そのほかにも、セクシュアル・ハラスメントと家族法の文献リストもある。授業用に作ったリストとのことで、コメントはないが、できたらコメントなり評点なりがあるとうれしいよね。

2000/04/18(火)

■『人はなぜ迷信を信じるのか −思いこみの心理学』(スチュアート・A・ヴァイス 1997/1999 朝日新聞社 \2200)

〜迷信の必然性と合理性〜

 著者は行動主義者。本書は、一般の人向けに、迷信を心理的な側面からとらえると同時に、迷信を案内役に心理学の世界を紹介することを目的とした本。もちろんオペラント条件づけにおける「迷信行動」を用いた解釈は1章をさいて行われているが、それ以外にも、確率論や認知心理学的な考察もある。そのあたりは、『人間 この信じやすきもの』(ギロビッチ著 新曜社)や菊地聡氏関連の一連の著書(たとえばこれとか)に書いてあることと半分以上は重なる感じ。しかしそれ以外にも、社会学や人類学の研究も引いていたり、心理学の研究が、結論だけではなく方法も含めて紹介されていたりするので、部分的には興味深い点も結構ある。ただ、引用文献リストがついていないのが非常に残念な点ではある。原著も買うか。

 人が迷信を信じる理由の中核には、偶然の条件づけや推理(推論)の誤りが中核にあるわけだが、それ以外に重要なものとして、所属集団とコントロール欲求が挙げられる。

 人はまず、属している社会集団によって、迷信に接触・獲得する可能性が変わってくる。『オカルトでっかち』にもあったように、芸能界(ショービジネス)の世界では、迷信などの非科学的な考えが広く受け入れられている(p.45)。それはこの世界が、先が読めず、理屈が通らない(実力だけではない)世界だからであろう。それ以外にも迷信が根強い集団としては、スポーツ、ギャンブラー、船乗り、兵士、炭鉱労働者、投資家、大学生が挙げられる(p.46)。これらも、先が読めない、運が影響する、という点で共通する(大学生はどうか分からないが)。しかも、たとえば同じスポーツの中でも、確実性が低い行為に迷信が集中している(p.47)。

 これらの考察から、迷信とは、コントロールできないものを支配しようとする試みだと考えられる(2章)。このことは病人なども同じで、ある調査によると、乳ガンにかかった女性のほぼ全員が、自分がなぜ乳ガンになったかという理論を作り上げることで、現状に何らかの意味づけを行っていた。それは病気をコントロールできると思う(思い込む)ことにつながり、また、患者が病気を受け入れるのに役立っているのである(p.192を元に道田が解釈)。このように、迷信や思い込みが作り出す支配の感覚(錯覚)は、意味があり、心理的に好影響を与えることがあるのである。

 また、経済学の概念である期待効用理論を使って迷信の合理性を数値化してみると、状況によっては迷信行動が合理的である場合もある(6章)。それは、病気を治すという触れ込みの水晶で言うなら、考えられる正当な治療をすべて実行しているとすれば、水晶を身につけてよい結果が得られる可能性がどんなに小さいとしても、それは合理的だと考えられる(p.281)。では迷信を信じることは影響がないかというと、そうではない。適度の迷信ならば、個人の生活に大きな問題は起こさない。だが社会全体に目を転じると、迷信を無批判に受け入れる土壌は問題(p.301)がある。そこで著者は、パースの言う「知識固定」の方法(固執、権威、先験、科学的手法)を引いて、批判的思考力を養うことの重要性を説いている。それと同時に、科学教育を推進したり、科学者のイメージアップを図ることを提言している。このあたりはちょっと、「科学ですべてが解決する」的な感じがして気にならないでもないが。

  • われわれは健全な懐疑を養う必要がある−−誤った考えに陥っている人を見つけだし、嘲笑するのではなく、謙虚に疑問を呈するための懐疑である。(p.309)

  • 天文学者のカール・セーガンは、2つの相反する態度、すなわち新しい発想を受け入れることと、新旧にかかわらず発想を批判的に評価することの、微妙なバランスをとるのが懐疑主義の難しいところだと言っている。(p.309)

  • 迷信や超常現象信仰に歯止めをかけたいのなら、大学レベルだけでなく、小学校、中学校ぐらいから批判的思考の原理を教えるべきだろう。たとえば、情報の多くは権威から得なくてはならないのだから、テレビなどに登場する権威者を評価させてみよう。権威者の考察が経験的推理に基づいているのか(=良い)、個人的な体験なのか(=あまり良くない)、別の権威からの借り物なのか(=悪い)を判断させるのである。(p.309)

■最近お気に入りのWeb日記

 こちら(日記猿人No.5829)。読みやすい文章もいいし、現在挑戦/変化しつつある状況がリアルタイムで綴られているのもいい。それに、アメリカの「心理学入門」(いわゆる心理学概論)の授業の実態が分かるのが、私にとってはありがたい(試験とか宿題とか授業中のグループワークとか)。もちろんこれは一例にしか過ぎないのだろうけど。

 更新は3日から4日の間隔だそうだが、久々に更新が待ち遠しいページだ。ひとつ難点を挙げると、日記ページに、「次の日」「前の日」へのリンクがないので、目次のページを行ったり来たりしなくちゃいけない。まとめて読もうとする人にはちょっとつらいかも。

2000/04/15(土)

■『いじめられた知識からのメッセージ −ホントは知識が「興味・関心・意欲」を生み出す』(授業を考える教育心理学者の会 1999 北大路書房 \1800)

〜私の行き詰まりを打開してくれそうな本〜

 最近、大学の授業になんだか行き詰まりを感じている。一応、昔一生懸命作った講義ノートとか資料を使っているせいか、それなりの評価を学生はしてくれるのだが、どうもこちら側のやる気がイマイチ...なんてことを大学のホームページで書いていいかどうか分からないので、ここら辺で止めておくが、ともかくなんだかピリッとしないんである。特にどのあたりでそれを感じるかというと、ひとつは、学生にいろいろと意見を言わせたいのだが、笛吹けど踊らず、という点。もうひとつは、授業をおもしろくしようといろいろ工夫してはいるのだが、それがなんだか小手先のごまかしをしているようで...という点。だからといってどうしていいか分からない。しょうがないからそのまま授業をしているのだが、そうすると私のやる気が...という状態がここ数年続いているだろうか。

 ...と思っていたら、その悩みを解消するヒントになるような本があった。なんて魅力的なタイトル、と思って注文してみたら、実際おもしろい本だった。知識中心の教育は「知識偏重」といって敵視されて来たが、本当は「知識尊重」教育こそが子どもの「興味・関心・意欲」を喚起するのだ、という提言を、様々な角度から、また実践例も交えながら示そうとした本だ。

 この中で、私が引き出すのに失敗している生徒の主体性については、次のような考察があった。主体的な学習者を育てる、というときの主体性には、「プロセスでの主体性」と「学んだあとの主体性」(p.16)の2つを分けて考えないといけない。前者は、子どもの問いを中心に授業を組み立てるときに生徒が示す主体性で、学習プロセスの中での主体性である。しかし子どもが好き勝手な、授業とは無関連の問いを立てては授業にならないので、自然と、生徒と教師の1問1答の背後に教師誘導(隠蔽された教師主導)が存在しがちになる。

 それに対して、先に知識(とくに既存知識と矛盾したり、それを整理するような知識)を身に付けることによって、そこから新たに問いが生まれてくることがある。これが「学んだあとの主体性」だ。つまり、授業の中で無理に学生に「主体的に」振舞ってもらおうとしなくても、適切な知識さえあれば、自然に(学習後に)学生の主体的な問いや探究心が喚起される、というわけだ。どうもこれまで私は、その場で学生に考えさせたり発言させることにこだわりすぎていたのかもしれない。

 また、授業のおもしろさについては、本書ではエンターテイメントのおもしろさとインタレストのおもしろさを区別している(第6章)。エンターテイメントのおもしろさとは、道具立てのおもしろさ、教師によって演出されたおもしろさで、学ぶ対象それ自体の勉強がおもしろくなっているわけではない。いわば、勉強という苦い薬を包むオブラートのようなものである。というかオブラートでしかない。それに対して、対象自体の理解や発見に伴うおもしろさがインタレストである。これは、未知の世界や新しい世界を垣間見ることによってもたらされるおもしろさである。「エンターテインメントによって子どもが興味や関心をいだき、授業に身を乗り出すこともあるだろう。しかし、その授業がインタレストを喚起するものでなければ、結局、「おもしろかったけどそれだけだった」ということになる。」(p.95) そうか。大事なのはおもしろさの中身なんだ。思い返してみればこのことは、以前から知ってはいたし、かつては授業を組み立てる際にちゃんと考慮していたような気がするが、最近はすっかり忘れてしまっていたようだ。

 もちろん本書を読んだだけですぐに授業が良くなるわけではない。しかし、少なくとも本書は、授業を見直す上での考えるヒントとしては、すごく大きなものを与えてくれたような気がする。最後に蛇足ながら、本書に感じた矛盾点を指摘しておこう。本書では、「興味・関心・意欲」が「知識」獲得につながる、という従来型のモデルに対して、サブタイトルにあるように、(適切な)「知識」を学習することによって「興味・関心・意欲」が生まれる、というモデルをベースにしている(p.70-)。そして、どちらが正しいモデルなのかという問い(p.72)に対して、結局、どちらも大切で、そもそも2者択一の問いを立てることが誤り(p.74)と結論づけている。そうであるならば、ホントは知識が「興味・関心・意欲」を生み出すというサブタイトルは、ホントは正しくないんじゃないの?

■私の授業評価(教育心理学'99)

 今週から授業が始まった。今期も、昨年の反省を活かした授業にできるよう、ここに去年の教育心理学の学生評価を抜粋しておこう。

 学生の評価には、いいものも悪いものもある。数値評価はさせていないので、平均がどのあたりにあるのかは分からないが、ここには両方のタイプを載せる。悪い評価を載せるのは、今年度に活かすため。いい評価を載せるのは、私自身の精神衛生ややる気のためという理由が大きいが、それ以外にも、私の授業のこのあたりがセールス・ポイントだということを再認識する意味もある。

●使用したテキスト・補助教材等は適切であったか
・教科書はただ読むのではなく自分で疑問を探すための教材として役に立ちました。プリントも分かりやすくてよかったです。
・適切だったが、印刷状態が悪くて読みにくい資料があった。
●教員の説明はわかりやすかったか
・分かりやすい言葉で話してくれたが、もっと説明が欲しいときがあった。
・わかりやすいときもあった。しかし、生徒の質問事項に答えるときに適当に流しているように見えることも多かった。
●教員は学生を積極的に授業の流れに参加させようとしたか
・質問の機会が多かったことはとてもよかったと思う。おかげで集中力が持続できた。
・みんなを参加させようとしていました。ただあれだけの人数に対し実行するのは少々無理だったのではと思いました。
●この授業はよく準備されていたか
・毎回テーマも決まっていたし、プリントなどもあって準備されていた。
・まあまあ準備されていた。
●私は、積極的にこの授業に参加したか
・参加していた。質問の答えを自分なりに考えたりした。
・先生に当てられると答えるという程度に参加した。
●この授業のレベルは適切であったか
・分かるか分からないかのすれすれのラインでよかった。
・少し難しかった。
●この授業についての総合的判断はどうですか
・疑問をもつとそれに答えてくれる授業だったと思う。
・自分に予備知識とやる気があれば、最高の授業だったと思います。
・授業以外で毎週のフィードバックペーパーなどやるべきことが少し多かったので大変だった。
●テストについて
・出題形式がとてもおもしろかったので、勉強もやる気が出た。すばらしい工夫だと思う。
・レポートもたくさんあるのに、テストもやるのはチョットいやと思った。
●この授業に対する評価・意見・疑問など
・久しぶりに「考える」ということをした。教科書をあんなに深く考えながら読んだのは初めてだった。また、ものごとを鵜呑みにせず疑問をもつようになった。これらの点でこの授業を受けてよかったと思う。
・生徒の質問に先生が単純に答えていくのではなく、他の生徒に答えさせるというやり方が良かったです。自分の考えを整理できたし、他の人の考えを聞くことで、より明確になったと思います。
・生徒に意見を言わせる方法はとてもすばらしい方法だと思いましたが、時々先生は自分の意見を相手に押し付けるような言い方をすることがある気がしました(無意識的だとは思いますが)。
・先生は生徒の話に対して比較的批判することが多かったり、深く突っ込んだ質問をしてくるので、先生が納得いくような答えを出せない私は、マイクを向けられるのがとても怖かった。

 こうやってまとめてみて分かったこと。授業評価項目に、あまり適当だとは思われないものが入っている。次の改善につながらない評価は無意味だ。このあたりは、学部共通フォーマットにこだわることなく、各個人でカスタマイズすべきだろう。それから、一部の項目には、数値評価や選択肢を導入したほうが、結局どのくらいの評価なのか、ということが分かっていいだろう。そうでないと、肯定的評価だけに目が行ってしまって現状に安住するか、否定的評価だけに目が行ってしまって悲観してしまう気がする。もうひとつ。評価はありがたいのだが、何をさしていっているのか分からないものや、どうせならもっと早く言ってくれればその場で改善できたのに、という評価があった。今期は、5 〜6回目の授業あたりで、中間評価させるか。そうすれば、必要ならば即時改善できるし、学生が考えていることをもっと突っ込んで聞いたりできるし、こちらの意図が十分伝わっていないのであれば改めて伝えることができるのでいいかもしれない。

2000/04/12(水)

■『オカルトでっかち』(松尾貴史 1999 朝日文庫 \580)

〜反オカルトでっかち本〜

 オカルト世界の持つ独特の「お間抜け感」に突っ込んで楽しんでいるエッセイ本。著者の松尾氏は、かつては筋金入りのオカルト少年だったのだが、いろいろな経験をするうちに、それが徐々に薄らいで、(超常現象が)存在しないとしたら、どいういう場合が考えられるか(p.18)という観点でも考えてみる傾向が強くなった。そして、子どもが生まれたことをきっかけに、オカルト否定論者に変わったのだそうだ。子どもが生まれたことは、責任感の芽生えにつながったようで、「この子が、合理的でないことも無批判に受け入れる人間になって、社会に適合できなくなったら」(p.17)と考えるようになったという。

 また松尾氏は、タレントとして放送業界に詳しいだけに、放送業界にいかにオカルト的な話がはびこっているかとか、テレビでいかにオカルト的な番組が「作られる」か、という話があり、割と興味深い。そういった体験をもとに、「テレビでオカルトに出会ったときの対策」、つまり科学的に見えていいかげんな作りをしている番組の見分け方が、約10ヶ条で列挙されている(p.22-24)。出演しているタレントらが、従順かつ肯定的な人ばかりではないかとか、体験談を語る人の話術が、何十回も話してきたような、無駄のない話し振りになっていないかといったヤツである。これはなかなか悪くない。

 ただ、本書には不満な点もある。それは、基本的な論法が、「このような現象がある。肯定派は超常現象だと主張しているが、このように常識的にも考えられる。こうに違いない」という形であることだ。つまり松尾氏は対案を出しているだけ。しかし、別解釈の可能性があるというだけでは、元の解釈が間違っていることにはならない。しかし松尾氏は、「こちらの(超常現象に否定的な)解釈が正しいに違いない」という論調になってしまっている。このように、あいまいな事実に対して一方的に解釈を下すだけでは、超常現象肯定派の論調と同型でしかない。松尾氏は、ニュー・エイジ的な精神世界などを大真面目に語り合っている人たちを見ると、「オカルトでっかち」という言葉が思い浮かぶ(p.6)のだそうで、それが本書のタイトルになっているわけだが、その伝で行くと、この本は「反オカルト」でっかち、と言うのが適切かと思われる。もちろん私はオカルトを肯定(も否定も)したいわけではなく、論じ方についてのみについての感想であるが。この点については、解説を書いている夏目房之助氏も感じているようで、本書は否定論者のための本であり、この本でオカルトとの境界領域にいる人を説得するのはむずかしい(p.311)と述べている。同感だ。

 ただ、松尾氏の徹底的な懐疑主義というか、さまざまなオカルト現象に突っ込む突っ込み方には、「なるほど、そういう突っ込み方があるのか」と思える鋭さもある。また、本書巻末には、「憑かれぬ先の杖 カルトから身を守るための図書紹介」と称して、18ページに及ぶ膨大な文献リストがある(一部のみ解説つき)。中には、間接的な関係はあるとしても、直接「憑かれぬ先の杖」にはならないような本も挙げてあるけど。この2点、つまり松尾氏の突っ込みぶりと、巻末の文献リストあたりは、この本の「買い」の要素かと思う。

■わたしのいちにち

 9じから12じまで会議1。12じから1じまで会議2。2じから4じはんまで会議3・4・5。ふぅ。

2000/04/09(日)

■『デューイとその時代』(田浦武雄 1984 玉川大学出版部 \2400)

〜反省的探究の生涯〜

 私が大学生のころ。確か学習心理学演習か何かだったと思うが、英語のテキストを読む演習の授業があった。そのとき私が当てられた文章範囲に、Deweyという人名があった。何と読んでいいか分からず、テキトーに「デウイ」と言ったら、みんなに笑われてしまった。今から思えば、同級生たちはこれを何と読むか知っていたんだろうか。こういうところまで辞書で調べてたのかな。今でも不思議である(別に真相を知ろうとは思わんけど)。

 で、この本である。この本は、デューイの生涯から哲学や教育論まで、割と分かりやすくかかれている(あくまで「割と」だが)。これによるとデューイは、まさに『アメリカの大学』の時代を生きていたことが分かる。と言っても彼は92歳まで生きたので、それ以降の時期も経験してはいるのだけれど。彼は1859年に生まれ、ニューイングランドで5番目に古い大学であるバーモント大学に入学し、その後(たぶん出来たばかりの)ジョンズ・ホプキンズ大学院に入学し、フェロー(お金がもらえる特別研究生)となり、Ph.Dを取得。それから、いくつかの大学を経験したあと、創立まもないシカゴ大学に34歳で教授として就任し、シカゴ大学付属実験学校長として教育実験を行う...という具合である。

 デューイについては、プラグマティズム(道具主義哲学)ということぐらいしか知らなかったが、本書により、もう少しデューイの思想が見えてきた。まず彼は、伝統的な学校が、固定した教育課程と、注入式の教育方法に傾いていた欠陥を克服するために、2つの改革原理を提起(p.30)している。それは「学校の社会化原理」(学校が社会の変化から孤立せず、小社会であるべきであり、学校と社会との間に相互作用が行われなければならない)と、「児童中心化の原理」(学校が、子どもの自発的な学習と、生活が営まれるべき場所となるべき)の2つである。

 また、彼の教育的価値論は、「価値判断の方法論として実験主義を重視」、「中心的価値として成長と民主主義を重視」(p.108)という2つの特色がある。実験主義とは、知識を得る方法としての実験的方法を、社会的・道徳的問題にも適用すること(p.122)である。また民主主義は、デューイにとっては政治の様式であると同時に、社会生活の様式でもあった。すなわち、科学が実験的探求によって自己矯正的過程をもっていることと同じように(p.38)、民主主義は、社会集団の創意と努力によって、その発展と改善とを求める営みであり、人間の経験を批判し方向づける規範である(p.91)。そうして、どのような状況にも対処して、青少年の知性の啓培によって、問題解決を図っていく社会の実現、社会それ自身が教育的になることができるような社会の実現を企図した(p.52)のである。

 あと、批判的思考研究者にとってはデューイと言えば、『思考の方法』(1933)で反省的思考(reflective thinking)を提唱した人物として重要である。つまり批判的思考のルーツみたいなものだが、これについては次のようなことが分かった。初期の作品では、反省的思考と問題解決のための論理思考とは同じものであると主張していること、そして、晩年の『論理学−探究の理論』(1938)では、反省的思考を探究(inquiry)という語におきかえていること、その理由は、探究という言葉のほうが、客観的でひろい意味を包含していると考えたからであること(p.138)。反省的思考=探究は、問題解決法であり、その過程は(1)経験的事態からの出発、(2)問題の感得、(3)資料の蒐集、(4)仮説の構成、(5)仮説の吟味、の5段階から成る(p.134-5)。この探究も、実験主義も、民主主義重視も、児童中心主義も、そして批判的思考も、おそらく根本的な発想の根は同一だと思うのだがどうだろうか。

■大学生に読んでほしい7冊(1999.09-2000.03)

 この時期、琉大全教官には、図書館から大学生にお勧めの本の原稿依頼がくる。いつもは面倒で出したことがなかったのだが、今回は、せっかく読書記録をつけていることでもあるので、これまで読んだ本のなかから、適当なものを選んで出そうと思っている。

 で、せっかくだから、1冊選ぶだけではなく、7冊(このページを始めてから7ヶ月)選んで、それをここに挙げておこう。選択の基準は、読みやすいこと、大学生にとって何か得るものがあると思われるもの、あたりか。こういうことを毎年やっていると、大学生向けの読書案内としていいものができるかも。

先生の話を聞くことが勉強だと思っている人は
『<対話>のない社会』(中島義道)
テレビの好きな人は
『テレビは真実を報道したか』(木村哲人)
中国といえばパンダと中華料理とカンフーだと思っている人は
『ワイルド・スワン』(ユン・チアン)
占いやオカルトが好きな人は
『超常現象の心理学』(菊池 聡)
マインド・コントロールのメカニズムについて知りたい人は
『「信じるこころ」の科学』(西田公昭)
科学とは何かについてじっくりと考えてみたい人は
『科学の方法』(中谷宇吉郎)
自分をうまくコントロールしたい人は
『うまくやるための強化の原理』(カレン・プライア)

2000/04/06(木)

■『「正しく」考える方法』(齋藤了文・中村光世 1999 晃洋書房 \1700)

〜論理学的クリシン本〜

 最近の私の研究テーマは「批判的思考」(critical thinking)だ。といってもまだ学会発表2つしかしてないけど。批判的思考の定義はいろいろあってはっきりしないが、中核に位置するのは論理的・合理的思考だろうと思う。またそれとは別に、心理学の知識も役に立つ。つまり、心理学によって人の思考の特徴や弱点という「現状」について知った上で、論理学によって思考の「規範」について知ることで、よりよい思考ができるようになるのだ(本当はもうちょっといろいろあるけど)。少なくとも私はそのように理解している。

 すると、われわれ心理学関係者にとって、批判的思考を身につける上で必要なのは、論理学についての知識だ。そう思ってこの半年、論理学の本を読んだり授業を受講したりした(いずれも形式論理学の演繹について)。しかし今ひとつ、そこで得た知識が日常において批判的に思考する上で直接的に役に立つ、という気はしなかった。非常に形式的であり、日常とあまり近くない感じがするからだ。論理学ってこんなもの?という疑念を抱いた、というのは以前書いたとおり。

 と思っていたところで本書に出会った。この本は、そのあたりの疑念がかなり解消されるような本だった。まず、「はじめに」に魅力的なことがいっぱい書いてある。

  • 論理学はほとんど専門用語なしに理解できる。「前提」「結論」「議論」「妥当」というぐらいの言葉さえ理解すれば、実際に論理的に考えたり、論理的な読み方をしたりするのに不自由はない。(p.i)
  • どの文が理由を述べている文であるかを理解し、その文を取り出すことができれば、半分は論理的な考えが身についたと言ってもよい。(p.i)
  • 論理的に読もうとするときに、おもしろいのは、「書いてることだけから何が分かるか」を問題にしようとしていることである。(p.ii)

という具合である。また、論理的演算子とか記号化とか証明みたいな話ばかりではない点もうれしい。日常の議論の特徴、議論の構造の分析法、実際の議論の分析例など、筆者たちが論理学を、日常出会う問題を考える実用的なツールと考えていることがよく分かる作りになっている。そしてそのツールを実際に使えるものにするべく、本書には練習問題もたくさんついている。

 その他にも、『クリティカル進化論』などのクリシン本とかなり共通するような話題が触れられている。たとえば議論の妥当性をチェックする方法としての思考実験(p.46)、因果的な主張をテストする方法、さまざまなタイプの論理的な虚偽(滑りやすい坂道とか不当な権威に訴えるとか)(p.144-158)などである。ただ、「因果的な主張をテストする方法」に関しては、残念だと思った点がある。一致差異法(p.141)や共変法(p.142)など5つの方法があがっているのだが、それらがただ羅列されているだけなのだ。これでは、それらの間の関係が分からないし、実際に日常で応用するにはどうしたらいいか分からない。批判的に物事を考えるターゲットとして、原因推測は比較的大きな部分を占めると思うので、この点だけは残念だ。

 本書の主な観点はあくまで論理学(演繹的・非演繹的議論)なので、『クリティカル進化論』が心理学的クリシン本であるに対して、本書は「論理学的クリシン本」と言ってもいいかもしれない。私はこんな本を探していたんだ、と思った1冊だった。次はこの手の本で、もう少し詳しいものはないかなぁ。

■かぜ

 もう1週間になる。熱は上がったり下がったりで、週の前半下がっていたので安心していたら、昨日からまたひどくなった。病院に行ったところ、白血球(血液中かな?)が多いそうで、気をつけないといけない、と言われた。気をつけてはいたつもりなんだけどなぁ。

 今度こそちゃんと治すぞ、と思って、まじめに薬を飲んだり休養を取ったりしている。でもこれで今年4回目の風邪。我ながらひきすぎだと思う。トシなのかなぁ。

 ちなみに、上の読書記録はおととい書いたもの。ホントです。大体いつも、前々から書くようにしているのだ。更新予定日までに何があるか分からないからね。

2000/04/03(月)

■『フェミニズム入門』(大越愛子 1996 ちくま新書 \660)

〜危険な性差観〜

 先日、学食でたまたまフェミニズム研究者と一緒になったので、食事をとりながらいろいろと話をした。ちょうど彼には聞きたいことがあったので、聞いてみた。それは、男女でのものの考え方や捕らえ方の違いについて書かれた文献を知らないか、ということ。そのときに一緒に、「女性には女性の論理がある」みたいなことも言ったと思う。私としては、『もうひとつの声』みたいな本がもっとあればいいなぁ、と思っていたので聞いたのだ。すると彼は、「そういう考え方は危険だ。特にフェミニズム研究者がいるような学会では相当叩かれるはずだ。かなり論理武装しないと」という風な返事だったので、ちょっとびっくりした。

 心理学者はよくデータとして性差を出す。社会学者のように、それがどのように作られてきたのか、そこに差別意識はないのか、みたいなことは(たぶん)あまり考えずに、とりあえず分析してみて、そこに性差が見られれば、性差があった、という報告をよくする。私もそういう程度の意識だったのだが、分野によっては性差の扱いに敏感であることがおぼろげながら分かった。それと、一応フェミニズム研究の入り口ぐらいは知っておこうと思った。あと、上述の返答に一部釈然としないものを感じたのも事実なので、それも確かめたいと思った。

 それで買ってみたのが本書。私のような目的のためには、本書はけっこういい本だった。フェミニズムの歴史的な流れと各種流派という、縦糸と横糸を俯瞰することができたからだ。

 フェミニズムの歴史は、およそ3期に分けられる。第1期は、近代自由主義思想の考え(基本的に男性理論)を援用して女性問題を理解する時期。第2期は、そのような男性理論そのものが内包する差別性を告発し、女性原理を、男性原理に対抗する原理として求めた時期。第3期は、自前の思想を持って、男性中心文化体制の全体構造を問題化する時期である(p.9-12)。要約すると、フェミニズム200余年の歴史は、近代自由主義思想への熱烈な片思いから出発し、やがていつまでも矛盾した態度しかとらない相手の正体を見破り、ついにはその相手そのものを転覆させ、解体していく思想を自力で形成し始めた、実に痛快なプロセス(p.9)だと言える。

 フェミニズムの流派としては、本当にたくさんのものがあることが本書で分かった。代表的なものだけでも10は挙げられている。これらは、何に力点を置くかによる違いであると同時に、フェミニズムが一枚岩ではない、ということなのであろう。たとえば「ラディカル・フェミニズム」は、フロイトの理論を女性のセクシュアリティを科学的と称して、徹頭徹尾男性中心的立場から論じている(p.50)として血祭りに挙げているが、その一方で、無意識の意識化という理論装置を利用した「精神分析派フェミニズム」というものもある、といった具合である。

 で冒頭の問題であるが、ひとつ分かったのは、この発想が第2期フェミニズムの発想であること。しかしその一方で、ギリガンは、カント以降の近代哲学の人間理解を転覆させるキイ概念となるかもしれない「ケア倫理学」(p.215)という問題提起をしているとして、一面では評価されていることも分かった。ただ、このような考えは暴力的な男性社会の後始末を女性に引き受けさせようとする、新たなジェンダー規範となる危険性も内包している(p.215)という指摘がある。それに対してギリガンは、「女性がそれを、一方的自己犠牲としてではなく、自他の相互関係における責任として引き受けることで、自主的判断の基本原理となる」(p.217)と論じている。ボクもその線で考えたいんだけどなぁ。

 いずれにしても、フェミニズムについてはもう少し勉強する必要がありそうだ。つぎは「東大ケンカ」か。

■クオーター制について

 『アメリカの大学』でクオーター制について少し触れたところ、はせぴぃ先生から「アメリカでも「教育の高密度化」と「教官側の教育と研究の両立」という要請から導入されたのだろうか。」というコメントをいただいたので補足がてら。前回更新前から昨日まで、風邪でほぼ臥せっていたので、すっかり間が空いてしまったけど。

 以下の考察は、『アメリカの大学』に拠っているが、この本にすべてが書かれているわけではなく、一部は私の憶測が入るのをご了承いただきたい(分かるような書き方はするつもりだが)。クオーター制を最初に導入したのはシカゴ大学(1892年開学)だが、それは1学年を12週単位の4期に分けたもので、現在イメージされているものとは違う。つまり「長期休み期間も開講する」という制度なのだ。そして上記の問いに対しては、結論から言うと「教育の高密度化」目的はたぶん×、「教官側の教育と研究の両立」は○だと思う。当時の大学は、3月27日の読書記録に書いたように研究のことはほとんど念頭におかれておらず、学生の監視役、古典暗記のチェック役としての教師でしかなかった。しかしシカゴ大学は研究中心大学の路線を打ち立て、4学期中3学期教えればいい、という制度で研究をしたい教師を集めた。もし3年間に渡って4学期教えた場合は、次の1年間は有給で研究に専念することができた。このようにして大物教授を呼び集め、高給と恵まれた研究条件(当時としては)を用意し、研究活動を推進させ、シカゴ大学の名声をアメリカやヨーロッパに広めようと図ったという(p.231)。

 一方、学生のメリットは、早く卒業できる、という点であった(p.228)。つまり4学期フルに活用すれば、3年で卒業も可能なのである。現在でもシカゴ大学では年に4回卒業式が行われているそうである。ここから先は私の憶測なのだが、当時のアメリカの大学は、一般大衆にとってはあまり魅力のあるところではなかった。実学が身につくわけではないし(古典中心)、大学に行かなくても社会的成功をおさめるチャンスは豊富にある。それなのにわざわざ4年もかけて大学を卒業する意味は、多くの人にとってはない。それで、大学を通過(出入り)しやすくするための工夫が4学期制だったのではないかと思う。

 ところでクオーター制に対する私の考えだが、はじめてこの方式を耳にしたとき(2〜3年前だろうか)は、「そりゃいい考えだ!」と思った。その理由は主に、「教員側の教育と研究の両立可能性の高さ」である。でも最近改めて考えて見ると、これはセメスター制でも十分に実現可能なのではないだろうか。つまり、講義をどちらか一方の学期に重点化する。教員ごとに「主に教育をする学期」と「主に研究をする学期」を作るのである。そのときの講義負担割合は、結局クオーター制にした場合と同じで、現在の講義負担の倍負担しなければいけないのが4ヶ月、講義負担がない時期が4ヶ月(+長期休み期間)となる。したがって、教員の教育・研究の両立という意味では、クオーター制に特段のメリットがあるとは思えない。

 では学生の方はどうであろうか。「教育の高密度化」がメリットを生むのは、結局その授業の要求内容および学生しだいではないかと思う。高密度化になじむ授業であればもちろんメリットは大きいであろう。でもその場合は、もっと短く8学期制(毎日1コマ×3週間)とか集中講義(1週間で1講義完結)の方がもっとメリットが大きいかもしれない。一方高密度化がデメリットを生む授業もある。それは、1週間という時間間隔を有効利用している授業である。たとえば私は、教育心理学の授業で毎週学生に、「その週に受けた授業ウォッチング」という課題を出している。教育心理学の授業で「良い/分かりやすい授業とは」みたいな話をするので、その観点を、実際に自分が受けている授業に当てはめて見る、という練習をさせるわけである。こういうタイプの授業は(少ないだろうけど)、クオーター制ではちょっとやりにくそうだ。授業間隔が短いし、1学期に受ける科目数が半減するだろうから。

 もう一点デメリットとして、「連続して休むことの影響が増大」することが挙げられる。教員が学会で4・5日出張する、という場合もそうだし、学生が入院や遠征などで何日か休む、という場合もそうだ。クオーター制では、教育が高密度化する分、連続して休むことのダメージが大きくなる。たとえば2週間休む場合、セメスター制なら2回の欠席(休講)ですむが、クオーター制では4回程度となり、琉大なら、もう1・2回休めば、単位は諦めなければならなくなる。決して現在の制度に固執するわけではないけれど、クオーター制にも結構デメリットがあったり、現行の制度内で実現できる部分があるのではないだろうか。




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