読書と日々の記録2000.07上
[←まえ]  [つぎ→] /  [目次'00] //  [ホーム]
このページについて

 

■読書記録:  12日『開かれた大学授業をめざして』 8日『反哲学史』 4日『合理性と推理』
■日々記録: 14日品質管理

 

■品質管理
2000/07/14(金)

 昨日,テレビでやっていた「雪印乳業食中毒事件」のニュース解説番組をみた。毎日洗浄することになっているバルブが,3週間も洗浄されずに使われていたとか,返品が再利用されていたとか,脱脂乳を作る作業が屋外で素手で行われていた,などなど,衛生的とはいえない点があったようだ。

 番組自体,メモを取りながら熱心に見た,というわけではないし,この一連のニュースを全貌を,ちゃんとフォローできているわけでもない(一応こちらでチェックはしたが)。と,断りをつけた上で,番組を見ながら思ったこと。

 なんでこんなことになったんだろう。番組ではたしか,利潤追求とか値下げ競争みたいなことを言っていた(かなりうろ覚え)。そういう部分はたしかにあるだろう。でも,上で挙げたような行為があまりいいことではないことは,わかっていたはずだ(と思う)。それでもやってしまったのは,「自分自身が飲まないから」じゃないだろうか。だから,ちょっと不衛生でも気にならない。かってな想像だけど。

 だとしたら,「社長以下,全社員が,毎日,ランダムに選んだ自社製品を口にする」ことを課したらどうだろう。そんなことを,番組を見ながら思った。まあ,たんじゅんな発想だし,それですべてが防げるとは思わない。でも,「何となく他人事」でやってしまっていたような事たちを,「自分のこと」にしてしまうと,少なくとも,品質管理に対する「意識」は多少なりとも変わるんじゃないかなぁ。

 ここから話は飛ぶが,品質管理といえば,大学の授業もそうだ。大学の授業も,一般的には,厳密な品質管理がなされてはいない,というか,品質管理「意識」の低い商品の一つだ(と思う)。そこで,上のケースと同様にしたらどうだろう。この場合は,自社製品を口にする=他教員の授業を受ける。つまりは,相互参観制度だ。まさに前回読んだ本は,そのような本であったわけだ。ただ,この本のケースでは,授業後にみっちりと検討会が行われている。そこまでするのはたいへんかもしれない。でもひょっとしたら,相互参観制度を導入するという,それだけでも,何らかの品質管理「意識」を生み出すことはできるのかもしれない。少なくとも,もう少し「自分のこと」になるんじゃないだろうか。

日記猿人 です(説明)。

 

■『開かれた大学授業をめざして−京都大学公開実験授業の一年間−』(京都大学高等教育教授システム開発センター編 1997 玉川大学出版部 \2400)
2000/07/12(水)
〜相互研修のモデル的試み〜

 平成8年に,京都大学高等教育教授システム開発センターの田中毎実教授が,自分の教養教育の授業を1年間公開した(こちらのページによると,現在なお継続中のようだ)。その目的は,個性化された大学教育の1つの類型をつくりだすこと(p.16)だという。本書は,その公開実験授業の記録であり,共同研究の報告書である。実に画期的な試みだ。といっても,継続参加した人は,学内,学外含めて5名程度だったのだそうだ。しかし,その参加者が1章ずつ執筆しており,さまざまな角度からこの1年の授業が,そして大学の授業および授業研究のあり方が語られている。

 この1年間の具体的な成果としては,「学生との多様なコミュニケーションの組み方」,「〔何でも帳〕の多重な意義と活用法」,「授業研究におけるビデオ利用の意義と限界」,「授業観察記録のとり方と生かし方」,「学生評価の多様な在り方とそれぞれの活用の仕方」,「検討会での議論の在り方」(p.166)などが挙げられており,これらの点はよくわかった。

 たとえば授業観察に関しては,神戸大学の米谷助教授が,動物の行動観察の方法を援用して,チェックリスト法による学生の行動観察を行っている。はじめは,どの行動をチェックするのかから考えなければいけない0からのスタートなのだが,4回目頃からは行動の判定が容易にできるようになり,それらが持つ意味がわかるようになったと言う。学生は授業中にいろいろな体の動きを通して無数のメッセージを教師に送りつづけている(p.67)。たとえば,授業開始60分程度で男子学生の頬杖が頻出することから,授業集中力60分説(p.75)が提起される。なるほど。第3者が客観的に行動分析することで,授業者には見えないことが見えてくるのはそのとおりだろう。授業者が独り善がりにならないためには,機会があればこのような分析を行うことは意味があるに違いない。

 ...と,有意義な点も本書には多い。のだが,ちょっと釈然としない部分もあった。公開授業の各参加者は1年を通して,確かに授業をどのように記録し研究し理解するかを模索しているようであった。しかし,この1年で授業を記録し議論することで,どの程度授業「改善」がなされたのかが,本書でははっきりしない。というかどうも,本書は全体的に,抽象的な話が多い。どうも著者たちは,具体的な授業実践と改善についての提言よりも,授業論や大学論を論じたいように感じた。しかし本来的には,このような試みは,授業改善につながってこそはじめて意味があるのではないだろうか。本書はその手前の部分で終わってしまっているようで,その点が残念であった。

 授業者である田中氏は次のように言う。大学の教師集団は,高度で専門的な自決能力を持つ研究者集団であるから,FD(教授団の成長)を意図的に図るとすれば,その多くの部分は「相互」研修によるほかない(p.18)。実にもっともなことだと思う。どういう形にせよ,大学の教師集団が,本当に高度で専門的な自決能力を持つ研究者集団であることを示すことは急務であろう。

 

■『反哲学史』(木田元 2000 講談社学術文庫 \820)
2000/07/08(土)
〜形而上学を超えて〜

 哲学史っていうと,ひどく退屈なイメージがある。ちゃんと勉強したことがあるわけじゃないけど。だって思い浮かぶイメージは,山のような人名と術語。誰それはこう言った,こう考えた。 ...だから何?って感じ。ところが,この本はむちゃくちゃ面白かった。なんでも本書は,中央大学の一般教育科目の講義ノートを元に書かれたそうである。こんな講義を聴けるなんて,学生は幸せだ。

 本書は,古代ギリシアから19世紀末までの哲学史の入門書・案内書なのだが,大筋だけを追うことによって,「哲学」と呼ばれてきた知の本質を浮かび上がらせることに意が向けられて(p.16)いる。それがひどく成功しているので,わかりやすく,かつ面白い。といっても,単に枝葉を切り落として大筋を残した,というだけではない。話に一本筋が通っているから,めちゃめちゃ面白くなるのだ。

 その「筋」とは,以下のような出発点のことだ。哲学とは普遍的な知の営みを指す言葉ではない。西洋と言う文化圏の特定の時代に成立した特殊な知の様式,そしていつの日にか乗り越えられなければならない,したがって乗り越えられる可能性のある知の様式(p.12)なのだという。反自然的な思考,不自然な思考(p.114)という表現もあった。そのような「哲学」を批判し,相対化したのが「反哲学」なのである。そのポイントは,どうやら自然に対する見方のようだ。

 「哲学」の話題に入る前に,まずは哲学以前の思想から。ソクラテス以前の思想家たちの思想は,「自然的存在論」であった。これは,自然のみが絶対的に真なるもので,ノモス(人為)的世界においてなされる真偽の区別は常に相対的なものである(p.78)という,自然至上主義的(これは道田の造語)な考え方である。この場合の自然とは,人間も神も含む「万物」を指し,決して自然を対象化したりはしない。万事を無原則に成りゆきにまかせる(p.82),「自然学」(フュシカ)である。

 それに対してプラトン以降の「哲学」は,「制作的存在論」である。これは,自然を単なる材料・質料として対象化する。自然はそれ自体では悪しき非存在なので,それを超自然的原理によって形成し,構造化することによってはじめて存在者になりうる(p.114)。この超自然的原理は,その時々の思想によって,イデア/純粋形相/神/理性/絶対的精神と,呼び名が変わる。しかし,このような「形而上学的思考様式」と「物質的自然観」が,「哲学」の基本パターンなのである。ちなみに,ここでいう超・自然がすなわち,メタ・フュシカ=形而上学である。

 これらは,ガリレイの数学的自然科学や,デカルトの機械論的自然観の元にもなり,近代科学がここから生まれてくる。さらには19世紀には,科学至上主義,実証主義を背景に,科学としての心理学・歴史学・社会学・言語学といった人間諸科学が成立する。なるほど。こうしてみると,自然科学も心理学その他の人間科学も,西洋である時期に生まれた,ひとつの(不自然な)思考を元にしている,ということがよくわかる。

 このような,プラトン主義的な形而上学的思考様式に対する批判として,シェリング,マルクス,ニーチェの哲学(=反哲学)が出てくる。また,科学の諸分野でも,自然科学的方法論に対する反省から,ゲシュタルト心理学,精神分析,構造主義(人類学,言語学),現象学的物理学などが出てくる。ただし本書はここまで。20世紀に関しては,同著者による本書の姉妹編,『現代の哲学』という本があるらしい。さっそく注文注文。

 

■『合理性と推理−人間は合理的な思考が可能か−』(エヴァンス 1996/2000 ナカニシヤ \3500)
2000/07/04(火)
〜2種類の合理性〜

 人間の合理性について論じた本。少しは理解できたと思うし,私の研究上の興味にも大いに関係がありそうだ。しかし,内容が専門的であることや,こちらの知識不足や,翻訳があまり読みやすいとは言えないことなどが重なって,詳細はあまりよく理解することができなかった。とりあえずわかった範囲でまとめておく。

 まず出発点としては,人間はさまざまな思考・推理のバイアスを示す。そこから一般的には,人間は非合理的な存在であると論じられる。しかし著者たちのスタンスは違う。このようなバイアスは,私たちが知性的であるにもかかわらず生じているというよりは,私たちの知性の性質上生じている(p.v)と考えるのである。つまり必然性のあるバイアス,ということだ。

 この点を適切に論じるために,著者は2種類の合理性を区別する。通常われわれが合理的だと考える,論理学や確率論に基づく合理性は,合理性と呼ぶ。これに対して,個人の目標を到達するのに,おおむね信頼できかつ効果的な方法で行われる思考、発話、推理、意思決定,または行為(p.10)を著者は合理1と呼ぶ。人間は論理的な意味で合理的でなくても(非合理的),個人的な目標を達成するための合理性をもっている(合理1的)。そして,こちらの方の合理性は,顕在的にではなく,潜在的過程として働いている。

 本書中にも少し出てくるが,この発想は,知覚と錯視研究に非常に似ている。すなわち,さまざまな錯視刺激に,人間の知覚はすぐにだまされてしまう。だからといって,人間の知覚が非合理的なものだと結論づけられるわけではない。確かに人間の知覚システムには限界はある。しかしそれは,私たちがよく出会う空間を想定して,そこから効率的にすばやく,かつ可能な限り正確に情報を取得する,という目的に照らし合わせると,きわめて合理的にできている。また,知覚は基本的には潜在的・前注意的・自動的なシステムなので,いくら錯覚だとわかっていても,やっぱり錯覚してしまう。その点でも,彼らが提唱する合理性のシステムと同等である。

 といっても,人間は合理2性をもっていないわけではない。認知的制約の範囲内であれば,抽象的演繹コンピタンスの装置を人間が持っていることを示す実験的証拠もある。ただこれは,論理学の特別な訓練がなければもろいものであり,頑健ではない。(p.166) また,人間にとって,確率の本質にかかわるような課題の構造についての知識なしには,ある純粋に帰納的な方法で確率推理の原理を抽象化することは大変困難である。(p.182) だからやはり,論理学や確率論についての知識や訓練は,必要なものなのであろう。

 特にそれは,科学的な推論を行う場合には必要である。ただし,合理2性だけが必要なのではない。科学的データを集め,研究上の推論を行うためには,多くのタイプ1過程に頼る必要がある。(p.190)とあるように,合理的な科学的推論のためにも,合理1性は大事である。自分の持っているものの特徴を知りつつ,それを生かすように上手に使いこなすことが必要,ということか。

 


[←まえ]  [つぎ→] /  [目次'00] //  [ホーム]