読書と日々の記録2000.08上
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■読書記録: 12日『進化と人間行動』 8日『推定有罪−あいつは……クロ−』 4日『発達心理学とフェミニズム』
■日々記録: 15日エイサーオーラセー 10日教師の押しつけがましさ 6日私の授業評価(教育心理学'00) 2日メールアドレス

 

■エイサーオーラセー
2000/08/15(火)

 昨日は沖縄のお盆だった。今日ではない。正式な旧暦だから,昨日が7月15日だったのだ。沖縄のお盆は,旧の7月13日(ウンケー)から15日(ウークイ)までの3日間,盛大に行事が行われる。

 例年はこの時期,里帰りをしていることが多いのだが,今年は帰らないことにしたので,沖縄のお盆を堪能できた。お盆といえば何と言ってもエイサーだ。もちろんこのセリフはエイサー狂いの妻のものだけど。

 初日は沖縄市の園田(そんだ)まで,エイサーを見に行った。夜8時に公民館を出発してあちこちを練り歩く,ということなので,公民館に行き,そこから約1時間,たっぷり園田のエイサーを堪能した。帰りに,普天間でもエイサーを見かけたので,ちょっとだけ見物した。帰ろうとしたら,娘(2歳2ヶ月)が「エイサー見る,エイサー見る」(もっと見るの意)と泣き叫んでいた。英才教育の効果が早くも現れたか?

 最終日の昨日は,沖縄市で,4つの団体がぶつかり合うエイサーオーラセーがある,というので見に行った(エイサーガーエーとも言うらしい)。闘牛のことをウチナーグチで「ウシオーラセー」というので,これはさしずめ,「闘エイサー」だ。これは夜中の12時から始まる。11時半に諸見百件通りにつくと,すでに通りは黒山の人だかり。道路は路上駐車の嵐であった(私たちはコインパーキングに止めたけど)。

 長々と待たされて,結局1時前に,園田のエイサーと久保田のエイサーが向かい合って演技するのを見ることができた。久保田のエイサーははじめてみたが,はだしで,くるくる回ったりぴょんぴょん飛んだりして,何だか忍者のようだった(実際,エイサー=忍びの武士起源説というのがあり,この本で紹介されている)。

 本当はもっと見たかったが,2歳児が眠そうだったので,切り上げることにした。帰る道すがら,山里のエイサーの演技も見ることができた。こちらは空手風エイサーだった。へー。エイサーって,結局はどれも似たようなものだと思っていたけど,こうやって見比べてみると違いがよく分かる。まるで沖縄そばに開眼したときのようだ。

 週末には,全島エイサー祭りがある。これも今から楽しみにしている。もちろん妻が,だけど。

日記猿人 です(説明)。

 

■『進化と人間行動』(長谷川寿一・長谷川真理子 2000 東大出版会 \2500)
2000/08/12(土)
〜進化論と進化心理学をクリシンする〜

 ネット上のあちこちで話題になっていたこちらの7/13-22および文中リンクでだいたいたどれるはず)ようなので,あまり多くを語ることもないのだが...

 東大教養学部の1・2年生向け総合科目のテキストとして書かれた本。前半は進化論の概説で,よくある進化論の誤解を正してくれる。この部分はクリティカルシンキング的で非常におもしろかった。たとえば,進化論とは遺伝決定論,すなわち=行動が遺伝的に一対一に「決定されている」(p..10)と思いがちだが,そうではない。遺伝子はケーキのレシピみたいなもので,遺伝子が変われば,あるタンパク質の組成または作られる量が変わり,それが変われば,特定の神経伝達ルートが微妙に変わり,それが変われば最終産物である行動が変わる(p.53)という経緯をたどるらしい。その他にも,進化を進歩と混同する誤り(p.38)などが挙げられている。

 ただ,疑問な記述もあった。群淘汰もしくは種の保存論,すなわち,「種の利益を優先させるために,個体の利益を犠牲にする」という考え方がある。個体数が増えすぎると自殺するレミング,みたいな話だ。これが間違いであることが,p.76で説明されているのだが,その論旨は,「自己犠牲の遺伝子は,あったとしても自然淘汰の過程で生き延びられない」という論理だ。思考実験に基づく結論だ。

 ところがp.29には,状況によらず,いつでも必ず生存や繁殖にとって有利なタイプというものはありませんと説明されている。たとえば「鎌状赤血球貧血症」という病気を引き起こす遺伝子があるのだそうだが,これでさえ,マラリアの多い地域では,この遺伝子をもっているほうが生存上有利であることが紹介されている(p.31)。ならば,ひょっとしたら自己犠牲の遺伝子が有利に働く状況があるのかもしれない。その可能性を考えずに,一般論として(状況を考えずに)自己犠牲遺伝子を否定できるのだろうか。

 後半は,進化という観点から,人間行動を解釈する試み。すなわち,人間がある特性を持つことが,どのように適応度の上昇につながるのかについて,さまざまな仮説が挙げられている。しかしどれも,解釈の域を出ていないというか,こういう考え方ができる,というだけのものが多い。

 たとえば,配偶者選択の話題。サルやチンパンジーは中年のメスを好むらしい。これは,中年の方が過去に繁殖経験があるのだから,繁殖能力があることが証明されているし,何度か子育てもしているので,子育ての技術もあって赤ん坊がうまく育つ保証もあるからだ。子育て経験のない若いメスが繁殖相手としてあまり魅力がなくても当然でしょう(p.250)と述べられている。

 ところがヒトの男性は,若い女性を好む。つまりサルとは逆なのである。これを本書では,次のように説明している。すなわち,家父長制文化の元では配偶者防衛(簡単に言うと浮気防止)が進んでいる。それで,従順でコントロールしやすい女性が好まれるので,実際よりも幼い感じの女性が魅力的とされるのである。

 うーんこれは単に「このようにも説明できる」というレベルではないのか。もう少し,実証データとか他の解釈可能性の排除はしないのだろうか。これでは竹内久美子とどう違うのか,よくわからなかった。4枚カード問題の進化心理学的な説明(裏切り者検知メカニズム:p.174)は,実証的かつ説得的でおもしろかったけど。進化心理学は,まだまだこれからの分野と思った方がいいのだろうか。

 

■教師の押しつけがましさ
2000/08/10(木)

 6日の日記に書いたように,教育心理学の授業の感想に「先生は自分の考えを少し押し付けすぎだと感じました」と書かれた。質問書に対してコメントをする場面の話だ。

 去年も書かれたので,今年は,そう思われないよう,努力したつもりだった。努力って,具体的には,(1)学生の意見を取り上げるときに,無下に否定せず,「なるほど,そういう考え方もあるかもしれません。しかし・・・」という話題展開にした(もちろん機械的につければいいわけではない。主観的理解もしようと努めた)ことと,(2)コメントし終わった後に,質問した学生に「これでよろしいですか?」と確認した,という2点だ。

 それでもこのような意見が出た(学生に配慮された授業だった,という感想もあったけど)。もう私にはどうしたらいいのかわからない。そもそも,何に反応して学生がそう感じるのかが分からない。せめてそれがわからないと,ほっておいていいのか,それとも対処を考えるべきなのかさえも判断つかない。

 それで,これを期末試験の試験問題の一つとした(自由選択)。「学生は何を押しつけがましいと感じるのか。どうしたらいいのか」について,具体的かつ明瞭に説明できるものは,期末試験(2問出した)のうち1問をそれに変えても良い,としたのである。その結果,4名の学生が意見を書いてくれた。出てきた意見を以下に要約した。

  • 時間を気にして,生徒の意見を理論で切り,片付けていくようなこともたびたびあった。その後,次の質問書に,いまだによく理解できていないからと,前回と同じ質問をすることは許されなかった。少なくとも生徒のほうはそう感じていた。だから,まだ不満な点があるときには質問書に書けるような余裕を残すべきだと思う。

  • 「ここはどうしてそう思ったのですか?」という先生の質問を学生は,「君の意見・疑問は的外れなんだけど,どうしてそう思ったのですか?」という風に受け取っているのではないか。「自分の考えは間違っている」ということが頭にあれば,先生の言うことをそのまま受け入れてしまい,そこで押しつけがましいと感じているのではないか。私自身は,初回のプリントに「先生と生徒の意見は対等」「正答,かっこいい答えを求めているのではない」とあったので,自分の質問がプリントに載っているかどうかビクビクすることはなかった。このことを,オリエンテーションだけでなく,講義の中でも,今まで以上に強く言う必要があるのではないか。

  • 生徒は,教師側がいくら「分かっていただけたでしょうか」といっても,そこで「分かった」と言わなければ教え甲斐のない奴と思われるという恐怖心を抱いている。それと,生徒は理論の完成度が圧倒的に弱いので,「やっぱり何となく自分の意見が的確であると思う」と思っても,「何となく」で止まってしまって言葉にできず,教師にきちんと言葉で返されると,意見が言えない。あるいは,意見を出すことに恐怖心を覚えてしまう。私に関しては,私の意見に対して「そういう可能性もありますね」とあいづちを打った上で,「でも・・・」と説明してくれたことがあった。このときは,自分が質問したことに意味があったと感じさせられた。教師はいくらレベルの低い質問や意見であっても,その長所を見つけてあげなくてはならないのだと思う。

  • 先生が「わかってくれたかな」という気持ちで「これでいいでしょうか」とたずねたとき,生徒の中には,それを「もうわかったか?」と言われているようにとらえるものもいる。それが押しつけがましさへとなるのだろう。それはまた,時間が押しているとき,先生のあせりが出て,「いいですか」の言葉もきつい言葉に聞こえる。だから,時間に余裕を持って授業を進めることが,押しつけがましさに対処することにつながる。

 ふーんなるほどね。これらのアドバイスをそのまま生かすかどうかは別にして,学生がどのように感じているか,ということは多少分かった。それと同時に,学生の認識論を変えるのがいかに大変か,ということも分かった。この場合の認識論とは,知識や授業や教師や教育活動をどう捉えるか,という考え方のことだ。教科書や教師は絶対正しい/教師に反論してはいけない/知識は教えいただくものである,という考え方もあれば,すべてのものは間違いうる/教師と学生は対等/対話によって新しい知が生まれる,という考え方もある。もし学生が,前者のような権威主義的な認識論を持っている限り,いくら質問書のトレーニングをしても,その効果は薄いだろう。

 何もここまで配慮する必要があるのか,と思われる方もいるかもしれない。教育心理学の授業は,まあしなくてもいいのかもしれない。しかし,たとえば批判的思考の授業をするときに,「論拠がデタラメなポジティブ思考のすすめ」の文章を取り上げ,それを批判すると,必ず反発が出てくる。「それでもポジティブ思考は大事なのではないか」みたいな。かなり感情的に反発されることもある。そのようなときに,「北風と太陽」の太陽のように意見を伝えることができれば,より反発も少なくなり,こちらの言わんとするところもより伝わるのではないか。これは,そのためのトレーニングの一環だと思ってやっている。

 

■『推定有罪−あいつは……クロ−』(磯貝陽悟 2000 データハウス \1600)
2000/08/08(火)
〜報道における客観と主観〜

 著者は,テレビ朝日記者として松本サリン事件にかかわった人。松本サリン事件の1994年から,地下鉄サリン事件を経て,オウム休眠宣言の1999年までのことを,テレビスタッフとして知りえたことを中心に描きながら,その中で,マスコミにあり方についての自問が繰り返される。400ページもあるが,一気に読めるような興味深い内容である。松本サリン事件に関しては,河野氏の著書『「疑惑」は晴れようとも』で知ることができたが,あの本を読みながら,「立場の違う人の話も読んでみたい」と思っていたので,本書でその思いをかなえることができた(次は警察側の人の本が読みたいぞ)

 筆者は運良く、といって言いのだろうか,あまり視聴率の取れなかった昼の報道番組のスタッフだった。だから,松本サリン事件から3ヶ月の間に,松本サリン事件の特集を12回も組むことができた(その後番組が打ち切りに)。はじめは河野氏クロ説で行動していたが,そのうち,極力中立を保つ立場となり,最後には,あえて捜査本部の方向の流れに棹をさした。それは先見性があったからではなく,取材を通して,自分たちの取材チームでは解決不能な事実や現象が現場に転がっていたからであり,テレビ屋の常に結論を急ぎすぎる体質とは正反対の分析家や専門家がブレーンとして支えていてくれたためだと言う(p.55)。

 松本サリン事件のときもそうだが,普通,マスコミ側の人間は,このときの著者のような立場をとることができず,被害者や当事者を追いかけ回すだけの「新聞屋」「テレビ屋」になってしまい,当事者の「敵」や「加害者」になってしまう。それはなぜなのか。著者によるとそれは,「当事者の思いに付き合っていたら,仕事が中途半端になってしまうという強迫観念」から「原稿を書く方」を優先させてしまう。しかし,自分なりのスタイルを仕事の中に盛り込もうとしても,字数や時間の制限から,味もそっけもない無個性の作品が出来上がる。それを繰り返していくうちに,いつのまにか記者の感性を鈍らせてしまい,「気がつけば加害者」の道に近づいていってしまう(p.322-323)のだという。

 その他にも,取材者の習性として,電話をかけてコメントを求めた人間に断られると,落胆するだけでなく,意味もなく不愉快になってくるし,曲解や深読みをして自己を正当化する。「俺たちに素直にしゃべれないということは,本当は後暗いところがある人間じゃないのか」と(p.147),という指摘がある。また,「これは大事な場面だ」と思えば思う程撮られる人々の心を忘れ「いい絵」を取るために動き回ってしまう。(中略)この作業を繰り返すうちにいつの間にかメディアの伝え手は,「事実を見据える」という立場から一歩踏み込んで,客に見せるための「絵作り」「言葉作り」を追いかけ始める(p.360)という指摘(告白?)もある。

 一般にメディアの世界では,"客観性をたえず持ち,批判の精神を養うためにはタネモトにくっつきすぎるな"(p.250:タネモト=取材対象者)というらしい。しかし著者は,取材での関わりだけではなしに河野さんと付き合い,マスコミ人の業務を超えて,被害者のためのチャリティコンサートを企画する。それによって日頃から最も不安に思っていた「伝える側」と「事件に遭った人々」の思いの距離が少しでも縮まるのならば,第3の道が開けてくるかもしれない,と思い始めている(p.409)と言う。それだけでなく,筆者は河野さんと近く接していたために,逆に幅広い見方をすることができ,むしろ客観的な立場を取ることができていた。ずっと河野氏クロ説で固まっており,その方向で情報の取捨選択をしていた他のマスコミや警察(の一部?)とはえらい違いである。というよりも,上にあげた,「感性よりも仕事を優先し」「自己正当化し」「見栄えのいい成果を重視する」姿勢は,警察の誤認逮捕事件にも共通する構図なのかもしれない。

 客観性と対照との距離の問題は,なんだか,研究における調査者と情報提供者の関係や,調査者の主観の問題に似ているような。あ,そういう意味では,上記の3点セットは,研究者にも言えることかもね。

 

■私の授業評価(教育心理学'00)
2000/08/06(日)

 ようやく前期が終わった(成績評価がまだ残ってるけど)。最後の授業時に,教育心理学(法文学部学生対象。教職科目)の授業評価をやってもらったので,ここで点検・評価しておく。全登録学生72名中,65名が回答している。まずカッコ書きでおよその賛否割合を挙げ,各種コメント(賛=○,否=×)を取り上げ,必要に応じて,ヤジルシのあとに私のコメントをつけている。ちなみに昨年のものはこちらにある。

〜 ・ 〜

●使用したプリントは適切であったか
(9割以上が適切と言う意見)
○適切だった。プリントを見ても説明を聞かなければ意味がわからないので,先生の話をよく聞くようになった
△講義内容の補助となり適切だったが,グラフや図などは分かりづらい場合が多かった
→それはワザとやっとるのです。授業に出て話を聞かないと意味がないようにね。説明不足だったか。
●教員の説明はわかりやすかったか
(適切…5割程度)
○答えがあいまいになっているところもあった気がするが,学生が理解するまで答えていたのでよかった
△分かりやすかったが,時々説明の方が長すぎて,要点がつかみにくいときもあった/簡潔すぎて分からないことが何度かあった
→ううむどっちだ。もちろん説明技量の精進は必要だが,分からないときの手立て(直接質問やメール)は用意していたのに,誰も利用せんかったぞ。
●教員は学生を積極的に授業の流れに参加させようとしたか
(していた…9割)
○していました。いつ質問されるかと,ちょっとビクビクしてました
×最初の授業でこの授業のやり方(マイクを回す)を聞かされていたのだが,言ってた割には生徒に意見を聞く機会は少なかったのではないかと思った
→意見を聞く機会が少なかったのは,私もまったく同感。学生にマイクを回しつつ授業を成立させるって,けっこう難しい。
●この授業はよく準備されていたか
(されていた…9割)
○はい。プリントに何種類もの資料がのってて,まさか,それが毎回,最後まで続くと思わなかった
○されていたのでは。教員は生徒の質問(質問書)にきちんと答えていた

●授業を見る眼を養うことができたと思うか
(思う…9割)
○はじめはどう判断していいのか分からなかったが,振り返ることやみんなの意見を見て,少しは養うことができたと思う
×あまりできていないように思えます
→これが授業の,大きな目的の一つだったから,9割がイエスという答えにはちょっと安心した。ただ,どうやら必ずしも試験の出来はいいとは言えなさそうなんだけど...
●疑問をもって文章が読めるようになったか
(なった…8割)
○知らず知らずに文章を疑いながら読んでいる自分にふと気づくことがなんどかあるようになった
×それはまだちょっとできていない
→8割もいるとは,正直言って驚いた。まあ,成果が上がってよかった良かった。あとはそれを忘れないでいてもらうといいんだけど。
●その他,質問書に関する意見・感想など
○他人の意見・疑問がわかって学ぶことが多かった(複数)
×軽くでいいから,すべての疑問に触れるべきだと思う(複数)
→今回は毎回,12人分ずつ取り上げたのだが。全員は無理にしても,もう少し増やすか? あとは学生さんが,直接質問とかメールを利用してくれるといいんだけど。
●私は、積極的にこの授業に参加したか
(参加した…7割弱)
○他の人が質問されているときも,自分なりの答えを考えた
×あまり積極的に参加していないと思う
→他人の質問に各自が自分なりに関与するのも,この授業で必要なことだ。こういう人の比率を上げねば。
●この授業のレベルは適切であったか
易しい=1,適切=3,難しい=5とした5段階評価で,平均3.7
●この授業についての総合的判断はどうですか
悪い=1,良い=5の5段階評価で平均4.1
→難易度はこんなものでしょう。総合判断は,思ったより高かった。
●この授業に対する評価・意見・疑問など
○良い点:プリントが毎回丁寧に準備されている/プリントの内容も良い(そうじゃないこともあった)/クリティカルリーディングが身についた/娘さんの話
×悪い点:結局は発言者中心の授業で,たまにボーっと聞き流すこともあった。次回は,そのボーっとしてる子達に何らかの事をしてください/板書があったほうが良かった
○はじめ,FPを毎回書かされると聞いて,正直面倒くさいな,と感じた。授業に対する質問や,1週間の中でよかった授業などを書くときに,前に受けた授業を思い出すのは結構大変だったからです。でも,この作業がなかったら,きっと受けた授業をいちいち思い出すなんてしなかっただろうなと気づいて,結構何も考えずに授業を受けていた自分が恥ずかしくなりました。たしかにフィードバックすることによって質問の答えが返ってくると嬉しいし,いつもなら,授業で疑問に思うことが合っても流していたと思う。FPはちょっときつかったけれども,自分にとって大変ためになったと思います
○×FPは毎週大変だったけど,予習復習をしない私にとっては,勉強になってよかったです。けど,フィードバックの返答のところで,先生は自分の考えを少し押し付けすぎだと感じました。「ここではどうしてこのような疑問が出るのですか」というようなことばをよく耳にしたように思います。私自身「これ気になるけど,このような質問していいのかなぁ」とよく不安になりました。
→ううむまた出たか,「先生が押し付けがましい」というコメントが。これについてはまた後日

〜 ・ 〜

 来年に向けての改善点としては,「こちらの意図を,最初に十分に伝える」「クリティカルリーディングを,自己報告だけではなく,その他の形(テスト?)でも評価する」「文章に対する疑問を挙げさせるだけでなく,批判書方式も取り入れてみる」あたりだろうか。

 もうひとつ問題なのは,試験の出来の悪さ。来年は,試験の前の週に今年の答案を使って,模擬採点をしてみせるか。そうしたら,試験勉強のポイントも分かるかも。

 

■『発達心理学とフェミニズム』(柏木惠子・高橋惠子編 1995 ミネルヴァ書房 \2800)
2000/08/04(金)
〜男性優位の発達心理学を斬る〜

 『ジェンダーの心理学』に参考図書として挙がっていた本。発達心理学の研究とその応用としての教育や心理臨床に広く,また,深くはびこるセクシズムを検討する,わが国ではじめての試みの書(p.i)だそうだ。「親子・家族・自立」,「性・性差・性役割」,「臨床・教育」が扱われている。わが国で考えられる最上のメンバーを揃えたところ,全員が女性だったと言う。最上のメンバーと言うだけあって,豊富なデータに基づく綿密な考察が展開されており,たやすく突っ込めそうなジェンダーでっかち的な記述はほとんど見られない。さすが。心理学とフェミニズムの関係を考える上では,必読書と言えるかもしれない(...あまり売れてないみたいだけど)

 発達心理学には,男性優位思想がいくつかの形で埋め込まれている。価値の中に(計算や暗記が早く,たくさんできることを発達とみなす),理論の中に(たとえば愛着理論は,育児をするのは母親,という家父長的価値に強く色づけされている),そして方法の中に。方法の問題としては,調査や研究の対象の偏り(男性のみのデータによる理論構成)と,研究の枠組みの偏り(たとえばアイデンティティ研究は男性の価値観によって構築されている)がある(p.13)。

 その他にも,性差を研究変数として組み込んでいる研究の多くには,性に対する明確な意図や視点がなかったり,かくれた思い込みや先入観があったり(p.118),性差の結果を性急に男女の発達の違いとして結論づけたりしている(p.119)。その結果,性という変更不可能な要因の差が,個人にとって動かしがたい絶対的な事実として理解されがちになってしまい,人間の発達の変容可能性を否定することにもなりかねない(p.120)。安易な性差研究は,そういう危険性を持っている。

 ではどうしたらいいか。一つの提言として,研究に性差の要因を不用意に<取り扱わない。扱うときは,なぜ必要なのかを明確に意識する。その上で,性差の発達機制を解明する。性差の視点を意図的に持ち込むことで,発達の原理や理論,パラダイムの見直しを推し進める,などが挙げられている(p.135-7)。最後の理論の見直しの例として,何人もの著者が言及しているものに,ギリガンの研究がある。非常に評価が高いのが印象的だった。(自分用メモ:ギリガンのconnected-selfとseparated-selfは,他者関連自己と他者分離自己と訳すらしい。p.90)

 本書は基本的に心理学者が中心で,発達心理学まわりの問題点を指摘する,というスタンスなのだが,実は私としては一番面白かったのは,戦後日本の家族変容を,社会の変化と関連させて論じた社会学的考察(2章)だったりして。日本企業が,夫には「経営家族主義イデオロギー」のもとに「終身雇用」「年功序列賃金」「企業別組合」を与え,専業主婦の妻に対する扶養家族手当を出した。そのことによって,「稼ぎ手」として家庭よりも職場に忠誠を尽くす夫と,「主婦」として囲い込まれた妻が,「愛情」の名によって結びつく近代家族類型が成立したのだそうだ(p.63)。

 旧来の心理学が依拠してきた家族モデルは,このような1960年代モデルにある(p.75)。心理学研究の中に見られるジェンダー・バイアスは,この家族モデルのズレに起因しているのではないか,と指摘される。ふーん。心理学者にはない発想でおもしろい。

 

■メールアドレス
2000/08/02(水)

 昨日は,高校時代の友人が仕事で来沖したので,夜,那覇に飲みに行った。

 来沖の知らせは,7月に来た暑中見舞いはがきに書いてあった。メールアドレスが書かれていたので,8月1日OKの返事をメールで出しておいた。

 ところがそのメール,届いていないと言う。結局数日前,彼から電話があったので,その件が発覚した。おかしいなぁ。別に,あて先人不明のメールも戻ってこなかったしなぁ,と不思議に思っていた。

 真相が昨日,やっと分かった。昨日は,友人のほかに,友人の会社の同僚の方が2人いっしょだった。3人から名刺をもらって気がついた。みんなメールアドレスがいっしょだ!

 どうやらその会社では,全員(十数人)で一つのメールアドレスを共有しているのであった。確かに私が出したメールには,友人の名前は書かなかった。ただ冒頭に「主任研究員様(笑),道田です」と書いただけだった。

 うーん。そんな会社が実在したなんて。

 


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