読書と日々の記録2000.09上
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■読書記録: 12日『合議の知を求めて』 8日『はじめての現象学』 4日『<意識>とは何だろうか』
■日々記録: 14日台風一過 10日Most Impressive Books 7日誕生 2日北部旅行記

 

■台風一過
2000/09/14(木)

 昨日とおととい,久々に長い台風だった。沖縄本島は,31時間暴風域にあったそうだ。昨日は午前9時からバスが動き始め,お昼には暴風域を抜けるという話だったので,昼から大学に行った。でも,まだ結構風雨が強かった。今日の新聞によると,台風の速度が予想外に遅く,暴風域を抜けたのは午後3時ごろだったそうだ。どうりで。

 研究室のある建物に入ったら,廊下が水でジャブジャブしている。誰かがうっかり窓を閉め忘れたのかと思ったら,違っていた。風で何か飛んできたらしく,窓ガラスが割れていたのだ。そういえば去年も,台風で廊下の窓ガラスが割れていたを思い出した。割れたのが研究室の窓じゃなくてよかった,なんて思ったりした。

 大学は,サミット効果と言われている校舎改修工事によって,小便器の洗浄と手洗いが自動になっただけではなく,廊下の蛍光灯も自動になっている。つまり人が通ると,自動的に蛍光灯がつく。昨日は,この台風のさなか,廊下の明かりが私を迎えてくれた。玄関に入ったとたん,行く先々で明かりがつくのだ。台風のさなかということもあってか,何だか本当に,出迎えられている,という気分がした。

 研究室を出てトイレに行くときもそうだ。廊下に出るとまず廊下の電気がつき,角を曲がると曲がった先の電気がつき,トイレに入るとトイレの電気がつき,小便器を離れると水が流れ,洗面台に手を差し出すと水が出る。まるで王様になった気分だ。大学生や大学教職員が王様気分でいいのかという問題はさておき。

 今回の台風で困ったことが一つあった。旅行食べあるきケーキバイキングの効果が如実に身体に現れてしまったので,2週間ほど前に歩数計を買ったのだ(はずかしながらてくてくエンジェルDue)。この歩数計には,毎日ノルマがある。しかし台風ではいつものように歩くことができない。しょうがないので,部屋の中をうろうろしたりピョンピョン飛び跳ねたりした。まあ,これをしなかったら,台風のときなんて一日に数百歩しかあるかないので,身体のためにはよかったのだが。

日記猿人 です(説明)。

 

■『合議の知を求めて−グループの意思決定−』(亀田達也 1997 共立出版 認知科学モノグラフ \2400)
2000/09/12(火)
(今日は台風休暇)
〜合議の無知〜

 われわれが直感的に信頼しているグループの意思決定が,どれほど堅固な基盤を持つかについて明らかにした本。具体的な検討点は2点。一つは,「3人寄れば文殊の知恵」と言われるように,グループ決定は単独個人よりも優れているか? もう一つは,合議制は民主的な価値を実現しているのか? 結論から言うと,これらに対してはどれも,否定的な結果が出ている。いわば「合議の無知」を明らかにした本だ。

 このような結果が出る理由として,動機づけの低下(手抜きをしてただ乗りすること)と,メンバー間での相互調整の失敗が挙げられている(p.21-22)。また,グループの決定は極化現象を起こしやすいので,平均的なメンバーが一人で正解を出せる確率が0.5よりも小さい場合は,「誤った多数派」が形成されがちなため,グループ決定は個人判断よりも質的に低下しやすいという(p.39)。これは,いったん劣勢に立った側が自分の見解を公共的な場面で訴えにくくなり,ますます状況を自分にとって不利なものにしていく(p.40)という沈黙のらせんによって説明されている。

 また話し合いは,決定プロセスを人為的に操作可能なので,思っているほど「民主的」ではない。たとえば議長や座長は,自分の選好が全的的に見て少数派であろうと予測する場合は,二段階手続き(部局会議→全体会議)を用いた方が,私的に有利となる。逆に,自分が全体的多数派に属するだろうと考える場合には,一段階手続きの方が有利な結果をもたらしやすい(p.60)のである。どうやら,グループでの話し合いや意思決定といっても,他のメンバーにとって未知の知識を新しく共有する場というより,最初に共有していた情報の再確認に終わりがちなのだ。だから,2人以上のメンバーが最初に持っていた賛成・反対の論点の数によって,グループの合議の結果はよく予測できるという。だから,意見の集約方法を変えることで,上記のような結論の操作が可能になるのだ。

 その他,ブレインストーミングについての話題も興味深い。実証研究によると,ブレインストーミングの効果に対しては,一貫して否定的な結果が得られている。その理由が「発話のブロッキング」(誰かがしゃべっているとき,他の人はアイディアが沸いても発言できない)にあることが明らかになっている。そこから,電子プレインストーミング・システムが開発されている。一種の電子掲示板のようなものだが,これを用いると,対面型のブレインストーミングの遂行を上回ることが示されている(p.115)。

 本書の最後に筆者は,集団の意思決定のもっとも根本的な問題として,合議や対話を通じて独自に解決できる問題とはいったい何だろうか(p.139)という問題であることを述べている。うーん,本書のタイトルを見て私が知りたかったのはこのあたりなのに。次作を期待か。

 

■Most Impressive Books
2000/09/10(日)

 このページも,去年の9月9日に始めたので,昨日で1年になった(日記猿人参加は10月から)。おりしも,カウンタも5日に1万を超えた(カウンタ設置は去年の10月中旬だったと思う)。その間に読んで,記録できた本は179冊。

 せっかくだから,索引を作ることにした。といっても,目次から,エディタのマクロで余計なものを除去したり並べ替えをしたりした上で,手作業で改行などを入れただけ。あまり手間はかけないようにした。一応ジャンル別となっており,ジャンルが,ほぼ50音順で並んでいる。ほぼ,というのは,文字コードでソートされているからだ。カタカナが漢字の前に来ている。手抜き。

 さらに,この1年で読んだ本の中で,最も印象深い本(MIBと略)を12冊選んでみた。というか,これをしたかったから,索引を作ったのだ。選ばれたのは,以下の12冊(順不同)。

 選出基準は,印象深い,というだけではなく,もう一度読みたいもの,という2つの基準を用いた。また選出は,索引を見ながら,特定ジャンルのものが重複しないように行った。だからこれは,プロ野球にたとえるなら,基準のはっきりした一つの尺度で一列に並べる打撃十傑というよりは,1ポジション1人で,複数の基準で選ばれるベストナイン,あるいはオールスターのファン投票みたいなものだ。だから,ここには入っていないが,印象深い,再読したい本は他にもある。

 あと,明確な基準として採用したわけではないが,4月に選んだ大学生のための7冊に入ったのも,結果的には選出していない。4月以降に読んだ本でも,MIBよりは「大学生に読んでほしい本」に相当しそうなものも,半意図的にはずしている。それらは,来年の4月にあらためて,大学生に読んでほしい本として選ばれるはずだ。

 MIBを選出したのは,この1年を振り返りたい,という意図もあったが,それ以上に,良かった本はもう一回読み返してみたい,その基準として選んだ部分が大きい。だからMIBとは言っても,「再読したい」に対する重点がやや大きい。12冊あるから,月に1冊ずつ,読み返してみようと思う。この1年間で読み方や印象がどう変わっているか,それを楽しみながら読んでみたい。

 

■『はじめての現象学』(竹田青嗣 1993 海鳴社 \1700)
2000/09/08(金)

 現象学の入門書。前半は,フッサールが中心。後半は,著者自身の「欲望論」あるいは「エロス論」である。現象学は,たとえば『現代哲学を学ぶ人のために』という本でも,「フッサール現象学の影響は現代哲学のほとんどすべての分野に及んでいる」(同書p.107)と書かれているように,現代の思想を知る上では,どうやら重要そうだ。しかし私はこの方面は,全くの素人なので,はじめの一歩として,この本を読んでみた。

 前半はまあ理解できたと思う。人間の認識が,その認識しているつもりの対象の客観と正確に「一致」しているという保証は一体どこにあるのか(p.26)という問題に対して,フッサールは,「客観などというものはない」と考えたそうだ。といっても,リンゴは誰が見てもリンゴだ。それに対しては,「客観」とは,必ず「身体」および「幻想的身体(≒感受性や価値観)の「同一性」を条件として成立する(p.47)と考える。つまり,同じ身体を持つ人間同士なら同じモノに対して同一の認識経験をする。しかし身体が異なる生き物同士では,同じリンゴといえども,異なった経験として認識される。それと同じで,同一の事柄(事物ではない)に対しても,感受性や価値観(著者はこれを幻想的身体という)が異なれば,見方や判断は異なったものになる。そういうことだ。身体を中心としたこの考え方,まるでアフォーダンスみたいだ。

 また,現象学が「・・・とは何か」という問いに答えるやり方は「本質直観」というのだという。それは,ある「ことがら」の客観的な「意味」ではなく,それが自分の生にとって持つ「意味」を内省によって(よく反省して)取り出し,適切な言葉にもたらすこと。この取り出された「意味」(=本質)が,自分にとってだけではなく,他のさまざまな人間にとっても”妥当”するかどうかをもう一度内省(想像変容)し,この”意味本質”を,人間一般にとって妥当するものとして取り出すこと(p.91)だそうだ。たとえば,「死が何であるか」に対して,各宗教および無神論者では考え方がまるで異なる。ゆえに,対立する解釈のどちらが正しいのかを確めることは不可能である。しかし,そのような解釈体系の相違を超えて,「死」が,双方の人間にとって持っている共通の意味本質を取り出そうとする(p.95)ことは可能である。それが「本質直観」である。物語(教義,解釈)体系の正誤ではなく,お互いにとっての「意味」に焦点を当てるわけね。エスノメソドロジー系の人が,現象学の語を口にする理由がわかったような気がした。

 本書の後半は,ハイデッガーから竹田現象学の話。こちらはよく分からなかったので省略。ところで,この本についてであるが,あるホームページには「アカデミズムでは竹田青嗣の現象学理解は間違っていると言われていますけど」と書かれていた。それが妥当な意見なのかどうか,私にはまったく判定はできない。が,ちょっと気になる点はあった。それは,著者が現象学を,なんだか絶対的に良いものとして扱ってることだ。たとえば,この方法は論理や言葉の矛盾の源を解き明かし,その本質を教える(p.26)とか,フッサールは哲学上の難問を解き明かした(p.34)というような記述がある。このあたり,現象学を相対化することなく,ただ単に良いものとして受け取っているようで,ちょっと不安な感じがした。あくまでも素人の勝手な印象なのだが。

 

■誕生
2000/09/07(木)

 ゆうべ,娘が生まれた。3366gで母子ともに健康。よかった。

 妻が陣痛に気づいたのは,6日の午前6時。9時に病院入りして6時37分出産。結局12時間半かかった。長女のときは23時間半だったから,半分強になった。でもぐったり疲れた。

 誤算だったのは,こんなに早く出てくるとは思わなかったこと。といっても,予定日の1週間前なのだが。担当の先生の話では,出てくる時期は兄弟で似ることが多いという。長女は予定日の次の日に産まれたので,まあ来週だろうと思っていた(実は,お産があったから,8月はいろいろと遊びまわっていたのでした)。夫婦とも,沖縄に実家や親戚はないので,妻の母親に援軍を頼んでいた。本当は昨日来てもらって,1週間ほどかけて家事について妻から申し送りをしてもらって,それから出産に臨む予定だった。それがいきなり。それで昨日,慌てて病院まで来てもらった。

 びっくりしたのは,10分でお産を済ませた人がいたこと。12時ごろ,分娩室まわりがバタバタしていたかと思うと,あっという間に人が担ぎこまれ,その人がウンウン言っている間に,10分ほどでオギャー。よく雑誌に,早い人の体験談なんかが載ってて,そんなことめったにないよなーと思っていたけど,まさか目の前でおきるとは。うらやましい。

 お産の立会いはこれで2度目だが,つくづく女性はたいへんだと思う。だって,3分前後の間隔で,定期的に痛みが襲ってくる。それが半日(初回は丸一日)も続くのだから。痛みは,少なくともはじめのうちは,下痢のときの腹痛のようだという。はじめのうちは深く呼吸すれば,なんとか収まっていく。それが次第に強まっていき,フーとかウーとか声を出さないと絶えられなくなってくる。想像を絶する世界だ。

 特に前回のお産のときは,最後の部分,つまりいきんで赤ちゃんを押し出す部分が,2時間近くも続いた。こういうとき,男性は何もできない。助産婦さんに言われるがままに,いきむタイミングにあわせて枕を持ち上げ,いきみやすいよう介助をしたが,どれほど効果があったのかはわからない。そのとき,「こんなにたいへんな思いをするのなら,もう産まなくてもいいよ」と思ってしまった。

 でも,幸か不幸か,うちの妻は物忘れがいい。前回どのくらい痛かったか,もう覚えていないという。それでも,前回よりも確実に,いきみかたも呼吸法も上手になって,すんなり産むことができた。最後の30分はそうとう苦しそうだったけど,それでも前回ほどではなかったし。それに,ついさっきまであんなに苦しそうだったのに,産んでしまうと,もうケロッとしている(ようにみえる)。これってひょっとすると,適応のために進化で獲得した部分だろうか,なんて思ってしまった。だってお産の苦しみをいつまでも忘れないようだと,その生物は繁殖できないだろうから。ま,当たっているかどうかはわからないけど,男にできることは,こうやって記録することと,理屈をこねることぐらいなのかも(あ,正確に言うと「傍観者にできること」ですね)。

 

■『<意識>とは何だろうか−脳の来歴,知覚の錯誤−』(下條信輔 1999 講談社現代新書 \680)
2000/09/04(月)
〜早くも本年度ベストワンか?〜

 異様におもしろかった。今まで読んだ本の中でも,これからの1年に読む本の中でもベストワンかも,と思ったぐらいだ。内容を簡単にまとめると,知覚における錯覚の話から始まって,脳から意識・無意識の話へと広がっていき,科学や倫理の話にたどり着く。とまとめていいのかどうかわからないくらい,深くて広い話になっている。科学としての方法論への懐疑や,認知・脳科学の全体像,未来像が見えてこない不安にたいして真っ向から格闘し,細分化された科学を統合しバランスを取り戻す,という個人的な願望(p.6)が元になっており,それはかなり成功しているような印象を受ける。

 ベースになる考え方は,かなり生態学的心理学寄り,すなわち,環境の事物は常に身体行為との関連で知覚される(p.98)という,身体性や環境世界が重視された考え方だ。この視点から見ると,現在の科学から脳や意識を探求することの弱点がよく見える。たとえば,科学的説明は本来一人称の「視点」からは自由な客観的な記述でなくてはならない。しかしそうなればなるほど,皮肉なことに,ここで説明しようとしている主観的な(つまり特定の視点からの,特定の身体による)体験の本質からは遠ざかっていく(p.116)のような話である。書かれていることは,感覚的には非常に良く分かる。さらにそれを深く理解し,自分に役立てていくためには,もう何回か読み返す必要がありそうだ。それぐらい興味深い本だった。

 本書のキーワードの一つは「脳の来歴」。われわれが何を知覚するかは,それまでにどのような経験をしてきたかによって決まる。たとえば残効は,直前の世界に知覚が順応した結果として起こる。そのような短期的なレベルから,われわれが日常的にどのような世界で暮らしており,生後直後の臨界期にどのような経験をし,どのような情報が遺伝として先祖から伝えられ,また,どのような身体を持っているかによって,何をどう知覚するかが変わってくる。何が「正しい」知覚なのかは,単に環境の変化と順応期間の長さの問題だ(p.36)とか,われわれの知覚の瞬間,瞬間が,すべて脳の重なり合った来歴を露呈している(p.97)と下條氏は言う。その来歴から考えて,不自然で,常識的前提を逆用したような刺激や課題が提示されたとき,知覚や認知が錯誤を起こす。その意味では,錯誤は多くの場合,実は正解(p.66),あるいは,脳の来歴が「錯誤」(不適応)と「正解」(適応)を定義する(p.91)と言える。そして,無意識的過程こそが「脳の来歴」の貯蔵庫である(p.206)ことから,意識の基盤である無意識を,意識の本質を解明する突破口にできるのではないか(p.220)と提案する。

 下條氏の研究は,逆さメガネの研究という,知覚における身体性を考えざるを得ないテーマから始まって,乳児の知覚という,脳の来歴の出発点(正確に言うと遺伝情報がもっと前にあるが)を考えざるを得ないテーマを経て,知覚の神経機構の研究にたどり着いている。興味深いのは,本書自体が,このような下條氏の研究の「来歴」に基づいた世界観を反映している点だ。逆にいえば,異なる来歴を持つ研究者は,これとは別の世界像が提示できるはずである。そういう本も見てみたいものである。

 

■北部旅行記
2000/09/02(土)

 昨日とおととい年休を取って,沖縄本島北部地方に一泊旅行に行ってきた。沖縄の旅行会社がうちな〜んちゅわくわく宿泊プランといって,沖縄県民が安く泊まれるホテルプランを用意しているので,それを利用した。このホテルプランを利用しようと思ったのは,大学の同僚が,よく利用している,なかなか悪くない,と言っていたからだ。値段の安さもあいまって,120%の満足度(妻いわく)だった。

 子どもができてから,こんな旅行はほとんどしたことがなかった。うちの娘(2歳2ヶ月)は,川の字に敷いている布団の上を縦横無尽に動き回る寝相の悪さだ。これじゃあホテルのベッドに寝せるわけにはいかない。1回だけ畳敷きのペンションに行ったぐらいだ。でも上記の同僚は,床の上にバスタオルか何かを敷いて子どもを寝せているという。なるほどそれならいけるかも,と思って,今回チャレンジしてみることにした。

 行ったホテルは,うちなんちゅ宿泊プランの中で一番安かったところ。というのは,最初にランクの高いところに泊まってしまうと,次に利用するときにランクを下げにくくなると思ったからだ。ちなみに値段は,サミット会場の隣にあるブセナテラスビーチリゾートなどと比べると1/3以下だ。これなら多少悪くても文句はない。

 ところがホテルは,ちょっと冷房がうるさかったくらいで,あとはほとんど文句がなかった。部屋は結構広かったし,全室オーシャンビューだし,室内プールがあって娘でも楽しめたし,レストランの料理はけっこうおいしかったし。それに,娘の寝場所問題は,2つあった一人がけのソファーを向かい合わせて簡易ベッドを作って解決した。

 今回の旅行では,おいしいものをたくさん食べた。本部町にある「山原そば」でそばを食べ(麺がツルツルモチモチしていておいしかった),「ユートピア牧場」で絞りたて牛乳によるアイスクリームを食べ,「新垣ぜんざい」でぜんざいを食べ(ここのは沖縄一おいしい),翌日は「朝日レストラン」でステーキを食べた(ここのは,スジと脂肪を全部とっており,非常にやわらかくてウマい。多分沖縄一だろう)。もちろん食べただけじゃなく,名護城址や海洋博公園にも行った。

 一番楽しかったのは,娘がはじめて入ったプール。海は,ちょっと前に台風がきたせいか,あんまりきれいじゃなかったので,あきらめてプールにしたのだが,それが正解だった。水はきれいだし,日焼けはしないし。娘も最初は怖がっていたのだが,浮き輪に入れて,おさんぽだよ,と言いながら親がひっぱってあげているうちに,怖さがなくなってきたみたいで,「もっとおさんぽするー」と楽しんでいた。

 帰ってきてからは,写真日記(非公開)を作ったり,撮影したビデオを見ながら,3人で,楽しかったねーを連発している。ほんと,120%の満足度だった。これで本当に,道田家の夏休みは終わりだ。

日記猿人 です(説明)。

 


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