| 30日短評7冊 28日『思考情報処理のバイアス』 24日『ジェンダーで学ぶ社会学』 20日『人間の測りまちがい』 16日『大学の教育・授業の変革と創造』 |
---|---|
| 26日引越し 22日geoに移動 18日夏休みの宿題 |
■読んだ本ほか |
2000/09/30(土)
今月は,旅行,出産,台風,ホームページと研究室の引越し,夏休みの宿題2本と,怒涛の1ヶ月間だった。新生児の夜泣きで,睡眠が十分にとれないのに加えて,2週続けて休日出勤はツラかった。とはいえ夏休み。自分の仕事に専念できた。投稿論文も修正採択になったし。来週からは新学期か。 読んだ本は計14冊。おもしろかったのは,ダントツで『<意識>とは何だろうか』。強いてもう少し挙げるなら,『合議の知を求めて』と『ジェンダーで学ぶ社会学』あたりか。
|
■『思考情報処理のバイアス−思考心理学からのアプローチ−』(J. エバンズ 1989/1995 信山出版 \3000) |
2000/09/28(木)
(引越し後手続不備の ためネットワーク不通) 〜思考心理学と批判的思考〜帰納推理,演繹推理,確率判断,統計判断における認知バイアスをまとめて概観した本。同著者による『合理性と推理』と違い,人間の合理性について論議することは,本書の目的ではない。 主に扱われているのは,利用可能性バイアス,確証バイアス,マッチングバイアス,肯定性バイアス,信念バイアス。著者は,推理が2段階で行われるという2段階推理過程を提唱する。まず,問題情報の各側面が「関連する」と無意識的に認識され,以降の処理のために選択されるヒューリスティック段階,そして,その情報から意識的に推論が導かれるアナリティック段階である(p.31)。そして,これらのバイアスはヒューリスティック段階,つまり情報選択時に無意識的に生じている,というのが著者の説明である(私の理解が確かならば)。 このように,バイアスが無意識的で非言語的な水準で生起しているので,次のようなことが言える。(1)被験者が,なぜそのように考えたかを事後に説明することは,アナリティック段階の反映にしかならず,自分の行動を正当化しようとして構成されたものにしかならない(p.135など)。(2)言葉で教えるだけでは,バイアスを回避(脱バイアス化)することはできない。つまり著者の考えでは,思考は一般的技能として教授できるという見解には懐疑的(p.153)であり,誤った直観をより正確な直観に置き換える,経験に基づいた訓練でなければならない,という(6章)。 最後の「訳者あとがき」で訳者の中島実氏は,思考の研究法略について,規範理論,記述理論,規定(処方)理論(prescriptive theory)の3つの理論を区別している。規範理論には論理学が対応し,思考心理学は記述理論の立場にたつ。そして,バイアスに対して人間が行う思考はどのように対処すべきか(p.183)に関する視点に立つのが規定(処方)理論である。本書6章は,この観点からなされている。 考えてみれば,このようなものを扱うのが批判的思考研究の目指すところであるはずだ。ああ,そうか。なんとなく私の中で曖昧であった,思考心理学と批判的思考の違いはここにあったのか,と納得した(イマゴロだけど)。というよりも,規定(処方)理論が中心だが,そのために規範理論も記述理論もすべてを入れ込んだのが批判的思考と言えるかも知れない。
|
■引越し |
2000/09/26(火)
今日は研究室の引越し。9年弱住んだ,陸の孤島のような建物から,同じ学部や学科のメンバーがいる建物に移動する。引越しのドサクサで更新できなくなったりするとイヤなので,昼前なのに,とりあえず今日の日記を書いておく。 今までは,近所に同僚もおらず,また,教養部から教育学部に配置換えになってからは,メールボックスも事務室も学科の設備もみな遠くにあって,不便極まりなかった。でも引越しとなると,うれしい反面,何だか不安である。 それは,9年もいたので,部屋や環境に対する愛着もあるからだろう。それだけでなく,この9年間で私の行動が,この環境に順応すべく進化し定着していたからだと思う。変な話だが,毎日同僚と顔を合わせる生活なんて,どんな顔をしたらいいのか,想像がつかない。今のところは。 実は不安がもう一つある。私は,超整理法を利用していて,そのための棚が2段ある。また本も,カテゴリー分類はしているが,その中での配置は「最近使った順」だ。引越しとなると,おそらくこれらは一度,棚から全部出して,ダンボール箱に入れて移動されるはずで,そうなると,長年の間に築き上げてきた超整理的秩序が崩壊してしまう。本はまだいいが,書類を入れた封筒の順序がばらばらになってしまうと,ちょっとダメージが大きいかもしれない。実は3年程前に部屋の改装があり,そのときがそうだった。 大リーグボール2号は水に弱い。超整理法は,引越しに弱い。また一から並べなおし。賽の河原状態である。 ...あ,引越し屋さんがきた。予定より早いぞ。ま,とりあえず送信送信。
|
■『ジェンダーで学ぶ社会学』(伊藤公雄・牟田和恵編 1998 世界思想社 \1800) |
2000/09/24(日)
(今日も休日出勤) 〜ジェンダーは分かったが社会学は今ひとつ〜ジェンダーという視点を重視しつつ,同時に,社会学を学ぶ人にとって入門書的な役割を果たすテキスト(p.13)。章立てが,「生まれる」「学ぶ」「愛する」から始まって,「越境する」(国際社会)「老いる」「死ぬ」で終わる形となっており,面白い。ジェンダーの問題が,人の一生に付きまとっているということだろう。 ただ,社会学の入門書とは言うものの,結局社会学とは何かはわからなかった。何となく感覚的には分からないでもないけど。本書でも,100人社会学者がいると100種類の社会学がある(p.2)という言葉が紹介されており,社会学を定義する試みを放棄している感もある。ただ,人と人の相互作用のプロセスや,その由来,維持され方,変化などがテーマにはなっているらしい。しかしこれだけでは,社会心理学や発達心理学と区別がつかない。おそらく,社会学の方法論というかパラダイムが不明だから,その正体が分かりにくくなっているのだと思う。この点については今後の検討課題。 本書のテーマであるジェンダーに関しては,生物学的な性と社会的な性の問題が随所で取り上げられている。これに関して,どのように説得性のある論を展開しているか,というのは,私がこの手の本を読むときの大きな関心の一つなのだが,本書では,あまりすっきりした議論は得られなかった。その一例を示す。 われわれの「常識」の世界では,ジェンダーはセックスに規定されている,という発想がまだまだ根強い。「女性は生物学的に男性より体力におとる。だから,男性の方が,さまざまな力仕事を分担し,女性は補助的な労働をするのが自然だ」とか「女性は子どもを生む,だから子育ては女性に向いている。それゆえ,男が仕事,女が家庭という分業は自然なことだ」といった発言はいまでもよく聞くことだろう。 大雑把で感覚的な議論で残念である。「男性より強い女性がいる」ことは,「ジェンダーはセックスに規定されている」ことの反証にはならない。それは,男性より背の高い女性がいるからといって,身長がセックス(生物学的性)に規定されていることの反証にはならないのと同じように。また,「男性が力仕事,女性が補助的な労働という分業」への反論にもならない。上記の論にそのまま従うならば,「男性より女性が強いペア」だけがその分業に従わなければいいことになるからだ。そういう論であるならば,多くのペアはやはり従来どおりの分業をすることになるだろう。強いていうなら,「男女は関係なしに,各個人の力の強さ弱さに応じた仕事を」という論か。それなら分からないでもないが(ちなみに私の立場は,現在のところどちらでもない。単にジェンダーとセックスの関係について知りたいだけだ)。 ジェンダー問題に関する私のもう一つの関心ごとは,女性の特質の扱い方。これに関しては2つほど収穫があった。一つは,『フェミニズム入門』にも書かれていたことだが,エコロジカル・フェミニズムについてだ。これは,ラディカル・フェミニズムの影響を受けて登場した新しい潮流で,効率や生産性を優先する経済や社会の成り立ちを「男性原理」と呼び,それに対する「女性原理」の復権によって環境との共存を説く(p.188)考え方だ。フェミニズムといっても,単なる平等思想だけではなく,女性ならではの原理や特質を重視する考えもあるようだ。 もう一つは,チョドロウという人の説で,「ジェンダー意識の形成過程」を幼児期のコミュニケーション・プロセスのなかで説明したものだ。簡単に言うと,男の子は母親からの精神的な分離が強く要求されるため,外部とに距離をとりたがり,客観性を重視する傾向にあり,自分や周りをコントロールし支配しようとし,ひいては世界を単純化し,合理的に枠づけてしまおうとする傾向に結びつく。反面,他者との共感や親密さは抑制される。一方女の子は,母親と緊密な関係を維持しつづけるため,他者との連続性や共感能力を身につけやすい反面,他人への依存傾向も保持しやすいという。これは,説明としては割と納得しやすい。このあたり,もう少し詳しく知りたいところだ。 #サーチエンジンで検索したら,ジェンダー関係書を中心としたブックガイドのページがあった(ただし本書はなかった)。このページによると,マンガ『OL進化論』にも,さりげなくさりげなく、OLたちの日常の中に、フェミニズムの主張があるという。おもしろい。
|
■geoに移動 |
2000/09/22(金)
昨日からこのページをgeocitiesに移動した。大学の研究用サーバーが,システム再構築作業とかで,18日から止まっているのだ。 18日も20日も,この記録の定期更新をしたが,アップはできなかった。最初はこのままローカル更新だけでもいいや,と思っていたが,おとといあたりから不満がつのってきた。 今回だけではない。うちの大学のサーバーは,結構よく止まっている。週末まるまる止まっている事もザラだ(ちょっと言い過ぎかもしれないが,定期更新する側からすれば,そのように感じてしまう)。こんなことで,E-Campus 構想(エコキャンパス。コミュニケーションツールとしてE-メールやホームページなどのマルチメディアを活用する,という意味のEも入っている)なんて,本当に実現するのか?なんて思ってしまう(感情度80%)。 そんなこんなで,geocitiesに移動した。「もうよか。こぎゃんところには頼らん!」という気持ちだ。ミラーサーバーとしてではない。「読書と日々の記録」に関しては,geoがメインだ。大学のHPの方がミラー(一応こちらも更新するつもり。面倒くさくなるまでは)。日記猿人のリンクも,geoの方にする。というわけで,ブックマークされている方は,ご変更お願いします(そんな人がいるのかどうかはしらんけど)。 新アドレスは,http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/5682/reading/index.html。ちなみに現在,大学ではメールも使えない。ご用の方は,geoのメール(yasushimichita@yahoo.co.jp)にどうぞ。 #...と書いてgeoにアップしようとしたらつながらない。「お知らせ」のページを見ると,何か障害が発生したらしい。でもしばらくしたらつながった。メンテナンスも30分程度らしいし。うーん大学とは大違い。
|
■『増補改訂版 人間の測りまちがい−差別の科学史−』(S. J. グールド 1996/1998 河出書房新社 \4900) |
2000/09/20(水)
〜主観的営みとしての科学〜長かった。なんせ500ページ以上ある。毎日研究室で,昼休みに少しずつ読み進めて,1ヶ月以上かかった。内容は,知能の優劣のものさしとして,19世紀には頭蓋計測が,20世紀にはIQ測定が行われたこと,そして,それらを通してIQの遺伝決定論(生物学的決定論)が出来上がる過程が明らかにされるとともに,科学の非客観性や,時代の社会的環境を受けやすいことが示される。遺伝決定論とは,IQが遺伝するという単純な見解ではない。「遺伝する」と「避けられない」が等価であると考え,・・・環境の中でどのように変化するか,その変化の幅についてはほとんど語らない(p.255)考え方である。そこから人種差別や性差別,優生学などの発想が生まれてくる。 なぜ科学の名のもとに,このような差別的な発想が出てくるのか。それは科学が,得られた数字をもとに創造的に解釈を行う必要があるからである。得られた数字に抵触しない数多くの解釈の中から一つの解釈を選ぶときには,往々にして先入観が作用する。そしてそのことを,解釈者は意識しないことが多い(p.124)のである。 たとえば,陸軍で大量の知能テストを行ったヤーキーズは遺伝決定論者なのだが,彼のデータの中には,遺伝決定論には都合の悪いものが含まれていた。それは,南部出身の黒人新兵は,北部出身の黒人新兵よりも知能テストの成績が悪いというものであり,南部では学校に通うのは3年生まで,北部では5年生までであった。この結果は,教育の質という,環境決定論に有利に見えるが,遺伝決定論者は当然,いつもの確信に満ちた解答をした。最も優秀な黒人だけが北部へ移れるのだと(p.311)。遺伝決定論の歴史とは,このような解釈の歴史であり,その発想は現在でも続いている。 科学とは客観的な営みで,科学者は論理的・批判的思考の持ち主である,という考えは改めなければいけない(そう思っている人がいれば,の話だけど)。本書にシリル・バートというロンドン大学の心理学教授が出てくる。彼は,知能の生得説を固定観念として持っており,IQと因子分析とを知能の遺伝論へと結びつけて政治力にしている(p.377)。その彼も,知能以外の分野に関しては,巧みに,鋭い,しばしばすばらしい洞察力を示した。しかし知能の生得性を考察する時にはブラインドが下りてきて,彼の合理的思考は遺伝決定論のドグマの前で消えうせた(p.386)のである。 知能研究の主観性はその他にも,よく使われる循環論法(p.134)やいいかげんな調査法(p.284),因子分析による具象化の誤り(p.349)などなどによって形作られ,維持・発展してきた。本書は,科学を批判的に見る上で勉強になることが多い。それにしても長すぎるけど。
|
■夏休みの宿題 |
2000/09/18(月)
もうすぐ9月も下旬に突入。最近は毎日,夏休みの宿題(9月末締め切りの原稿)におわれている。時間的にギリギリのような気がしてきたので,土日も出勤した。そのせいか,日付や曜日の感覚がなくなっている。1日3回ぐらいは,今日なんにちだっけ? なんようびだっけ?と考えている気がする。 仕事が進まない。でも進めなければいけない。つい立ち止まって悩んでしまう自分のために,孫引きだが,Webページで見つけた言葉をメモしておこう(出典はS. ショフネシー『小説家・ライターになれる人、なれない人』)
「中毒患者」だから,知識の蓄積(読書)は止めてはいない。でものんびりじっくりは読めない。とりあえず,手軽な新書に切り替えてはいるけど。いつか,読書記録の定期更新が止まったら,そのときは,本当に行き詰まってるんだなと思ってください。
|
■『大学の教育・授業の変革と創造−教育から学習へ−』(日本私立大学連盟(編) 1999 東海大学出版会 シリーズ:大学の教育・授業を考える 2 \1900) |
2000/09/16(土)
1996年と1997年に行われた私立大学連盟教員研修ワークショップの記録。講演記録,授業についての報告,シンポジウムの記録が中心になっている。口頭で行われたものを文章化したものということもあって,さほど目新しいことや多くの情報はなかったが,一部印象に残った記述があるので,それを要約クリッピング。 教室を一つのコミュニティとみなす(p.56)・・・東洋大学の浦田氏が授業に臨むにあたって自分に課している方針の一つ。教師と学生は対等,学生は大人,ここはコミュニティである,教室の質を高めて,よりよい授業,よりよいコミュニティを築こうではないかと呼びかけるそうだ。〜コミュニティということは,一緒に作り上げていこうということか。 医学教育というのは死ぬまで続く旅(p.67)・・・大阪医大の鏡山氏。旅に際して,あふれるほど荷物を詰め込んでいるのが現状だが,必要な知識はその時々買えるから,その買い方を教えておけばそれでいいのではないか,という。〜ううむまったくそのとおり。旅アナロジーはなかなか。 良い教材の切り口とは,「無理筋の解釈」と紙一重(p.108)・・・法政大学の遠田氏。映画など視聴覚教材を使って,素材をテーマに結びつけるときのこじつけ方が大事で,学生の思いもよらぬ見方からこう結びつくと解説をするのがいいが,ビデオの短所として,切り口が見つからないこともあるという。 医師免許取得後に専門医試験に受かった後には,5年ごとに百ポイントとらないと免許剥奪される。教育業績評価もそれと同じように,研修集会,ワークショップ,セミナーへの参加,教育実践についての論文の発表などのポイント制によるオプションを加えて,生涯学習を貸していく必要がある。(p.176: 関西大学の池田氏) 〜ポイント制はいいアイデアかも。
|