読書と日々の記録2000.10下
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■読書記録: 31日短評7冊 28日『七つの科学事件ファイル』 24日『理解とは何か』 20日『記憶は嘘をつく』 16日『仕事の中での学習』
■日々記録: 26日自宅静養(できず) 23日夫婦の温度感覚 18日日常雑記

 

■10月を振り返って
2000/10/31(火)

 最後の1週間は,風邪だったのでほとんど読んでいない。読む気がしなかったのだ。それでも,最初のスパート(子守り読書)が効いて合計14冊。あ,ひょっとして,風邪が長引いたのも,子守り読書の無理がたたったのかも。

 それにしても,雑用や子守りに追われて,まとまった仕事はできなかったなぁ。はぁ。

 今月とくに面白かった本は,『七つの科学事件ファイル』『記憶は嘘をつく』『哲学・航海日誌』の3冊。『「考える」ための小論文』は,入れるかどうしようかちょっと迷ったので,その旨記しておこう。すんなり3冊挙がったので,当たり月だ。それ以外に読んだのは以下の7冊。

『科学の方法』(中谷宇吉郎 1958 岩波新書青版 \660)

 再読。やっぱり,平易でありながら面白い。クーンの『科学革命の構造』が1962年。それ以前に,次のような指摘をしている。自然界に人間をはなれて真理が隠されていると考えるか,科学的真理とは自然と人間との共同作品であると考えるか,このいずれの見方をするかは,趣味の問題である(p.197)。この指摘がすごいことなのか,それほどのことでもないのかは,私には判断つかないが。火星に行ける日がきても,テレビ塔の天辺から落ちる紙の行方を知ることはできないというところに,科学の偉大さと,その限界とがある(p.89)。うーんすてき

『奇跡の人』(真保裕一 1997/2000 新潮文庫 \743)

 記憶を失った31歳の男が「自分探し」の旅に出る話(オビより)。ミステリーである。自分探しがミステリーになっているところが,単なる探偵物語と違っておもしろい。全体の2/3ほどは,ひきこまれるように読んだ。おもしろかった。最後の部分は,私は,おもしろかったと言い切るほどではなかった。ここは多分,評価が分かれるところだろう。それにしても,『ホワイトアウト』同様,読ませる筆力でありストーリーであるのは間違いないが。

『空海秘伝』(寺林峻 1997 東洋経済新報社 \1,600)

 空海の伝記。立花隆氏が「謎の空白時代」と呼ぶ,遣唐使になる前の期間も,フィクションかもしれないが,書き込まれている。やはりそこまでの迷いの期間の話が,一番おもしろい気がする。

『チ−ムの研究』(竹内靖雄 1999 講談社現代新書 \660)

 個人の個性や能力が組み合わされた,比較的少人数の集団をチームと定義し,歴史上注目すべき仕事をなしとげ,あるいはそれに失敗したチームを取り上げて,その成功と失敗の原因を研究するとともに,そのチームをつくった人物について評価を試みた(p.6)本。著者は経済思想史の先生で,30以上の歴史上のチームが,ケーススタディの対象になっている。ただ,そのチームの成功・失敗の事後的な説明が中心で(歴史だからしょうがないのかもしれないが),ちょっと物足りなかった。なんだか「プレジデント」(雑誌)みたいだ。
 一つ,私の興味を引いた部分があった。それは,「新興宗教」チームのあり方における男女差。女性が神懸りから教祖になった場合は,これを理解可能な形に整理し,編集して教祖の考えをまとめ,わかりやすい言葉で書き直し,それにもとづいて最終的には教団の狭義を文章化する,といった仕事を担当する有能な男性協力者が現れる(p.206)そうである。革新者としての教祖と事務局長というチームだ。それに対して,男性が教祖になる場合は,既成の宗教に修正を加えたり習合したりして新宗教を作り上げるケースが多い。これは,男性は情報を集積し,観念を操作して自分が納得が行くような教義を構成するのが得意(p.207)だからと考察されている。この考察の当否はともかく,新興宗教教祖に男女差があるというのは,なんとなく感覚的に受け入れやすい。

『科学的とはどういうことか−いたずら博士の科学教室−』(板倉聖宣 1977 仮説社 \1600)

 基本的な感想は『コックリさんを楽しむ本』と同じ。悪くない部分もたくさんあるのだが,全体として言っていることが一貫していない
 本書の最初では「卵を立ててみませんか」と題して,コロンブスのようなまねをしなくても,生卵を机の上に立てられることが取り上げられており,みーんな「卵なんか立つはずがない」と思いこんでいた(p.17)という,先入観の問題点が指摘される。あるいは最後のほうでも,日本人がきわめて常識的で,「うそにきまっている」ようなことは考えまいとする,うそに対する強い抑制心がありすぎる(p.189)ために独創性がとぼしいことを指摘している(何を根拠に言っているのかは不明だが)。
 ところが,本書真ん中あたりで,スプーン曲げなどの超能力について触れる段になると,じつはあまりバカバカしいので,いまさらこんなことをいうのは気はずかしいような気がするのですが,もともと物質的な力以外のものでスプーンを曲げたり折ったりすることなんかできっこないのです(p.145)などと,きわめて「常識的」な意見を出される。ぐったり。

『私の嫌いな10の言葉』(中島義道 2000 新潮社 \1,200)

 「相手の気持ちを考えろよ!」のような,著者の嫌いな言葉のどこが嫌いかについて書いた本。ちょっと文化論の入った,しかし基本的には,わたし色の強い,エッセイだ。そのあたりが,『<対話>のない社会』とはちょっと違う。典型的な日本人と著者を対置すると,私の基本的な感覚はどちらかと言うと著者に近い。たとえば,ボンヤリした言葉遣いの「裏」を読むことがアホらしくて,バカくさくて,薄汚くて,虚しくて,屈辱的で,厭で厭でたまらない(p.34)という感覚は,私にもある。このような,共感できる部分が,本書では2割ほど
 また,著者の異常なまでのアグレッシブさには辟易する部分が3割ほど。まあこれに関しては,私なんぞは一種の性格異常者だと思ってくれればいいのですが(p.36)と著者自身が書いているように,ちょっと変わった部分というか,個性だと思うから別にいいのだが。中には首を傾げたくなる,矛盾した記述もある。著者は,彼の嫌いな言葉を吐くようなマジョリティの人々をさして,自分と反対のベクトルをもった人間がこの世に生息している可能性をわずかでも考えてみようとしない(p.64)と非難する。あるいは,「子供をもたないあなたに何がわかる」的なことを言われたことをさして,子供をもったらハハーンとわかるかもしれないし,やはりわからないかもしれないし,自分と別のわかり方をするかもしれないし,子供をもたなくてもわかるかもしれないし,やはりわからないかもしれない・・・という柔軟な観点をもつ必要性を強調したい(p.99)という。これらに関しては問題ない。が,しかし・・・
 別のところで,私は子供の言葉ほどつまらないものはない,と常々思っている。彼らは真に考えない。真に感じない(p.118)と,子供を一面的に,非柔軟的にしかみていない。著者の持ち味なのかもしれないけど,こういうのって,どうなんでしょうねぇ。比較的妥当と思われる本書の評はこちらにある。

『説得の法則−情報を武器にする−』(唐津 一 1999 PHP新書 \657)

 タイトルが不適切。少なくとも「法則」のような理屈の話なのではない。「説得という語から連想した私の思い,思い出,思い込み」あたりが適切なのでは。本書の中に,得意そうに自分の話をするタイプの人がいるが,(中略)これは説得する側にとってよいカモである(p.72)という文があったが,私には筆者もそういうタイプの人に見えた。東芝ココム違反事件に言及するくだりで出てきた,私の説得に耳を傾けてくれる新聞社はほとんどなかった(p.159)はご愛嬌か?

日記猿人 です(説明)。

 

■日常雑記
2000/10/30(月)

 この1週間,風邪が治りきるわけでもなく,かといって,風邪らしい症状が出るわけでもない毎日。だいたいいつも,朝が36度7分前後,夕方が37度前後という微妙な体温。ただダルさだけはいつも付きまとう。

 十分に栄養も休養も取っているのに,なぜ治らないのか。トシなのだろうか。以前,このような状態が1ヶ月ほど続いた挙句,ウィルス性の肝炎なるものになったことがあるだけに,ちょっと心配。っていうか,早くすっきり健康な一日を送りたい(涙)。

 ひさびさに他人のホームページで自分とこのサイトの名前を見つけて,ちょっとドキドキしたりして。要はbk1の読者書評に出してみれば,というお誘い(?)。一つ採用されると300円相当のポイントだそうだ。見てみると,400字弱の書評も採用されていたりするので,あまりハードルは高くなさそう。実際,70本近く採用されている人なんてのも見かけたりした(に,にまんえん...)。でも,なんとなく食指が動かない。

 bk1のページはときどき覗くのだけれど,やたら重いし,ごちゃごちゃしていて情報が探しにくいという印象。それに本は,もっぱら生協インターネットショッピングで買っているし。書評として出すということは,このページに書いた書評そのままというわけには行かないだろうから,あらためてbk1用に書き直す,という手間が要りそうだが,それがなんだかおっくうだ。というか,10月に入ったら,9月(夏休み)ほどじっくり落ち着いて仕事ができなかったので,仕事と読書以外のことまでは頭が回らない。ヒマができたらまた考えてみるか。

#bk1のほかにも,私の知っている限りでは,

  • ブックレビューでは,1000字程度の書評で1000円の図書券がもらえるし,
  • book-chaseでは,オリジナル書評でPHPの好きな本が1冊もらえる
 図書券はちょっと魅力的だ。「採用」にならないと,もちろん貰えないのだが。

■『七つの科学事件ファイル』(ハリ−・コリンズ & T.ピンチ 1994/1997 化学同人 \1,800)
2000/10/28(土)
〜コワおもしろい本〜

 一言で言うと,非常におもしろい本だった。その上,コワい本でもある。

 よく科学哲学の本(正確には新科学哲学)には,決定実験(実験によって競合する理論のどちらが正しいかを決めること)は論理的にありえない,と書かれている。たとえば『科学の解釈学』には,(決定実験は)「科学的発見という「物語」を粉飾する一種のフィクションにすぎない」「単独の観察命題は理論を反証する力をもちえない」(これをデュエム=クワイン・テーゼという)と書かれている。それに対して私は,理屈としては何となく分からないでもないけど,でもそうは言ったって,きちんと計画された実験なら,理論の当否を決定できるんじゃないのかなぁ,と漠然と思っていた。

 ところが本書では,そのような考えが徹底的に叩きのめされる。といっても,正確な事実が客観的に述べられるだけなのだが(この表現は適当ではないかもしれない)。本書では,科学的な論争を7つ取り上げ,それらを通して,今日われわれが,なんとなく正しいと信じている科学理論は,実はきちんと立証されているわけではない。他方,今日私たちが,なんとなく間違いであると信じている科学理論は,実は完全に否定されているわけでもない(p.225)ことが明らかにされる。前者の例としては相対性理論と太陽ニュートリノが挙げられている。後者の例としては,記憶物質(学習したプラナリアをすりつぶしてほかのプラナリアに食べさせると,記憶が移植できる),常温核融合,重力波などが挙げられている。

 相対性理論は,太陽のそばにある星の位置の観測調査によって証明された,とよく言うが,それが決定的なデータじゃなかったなんて,びっくり。それは,この観測が単に望遠鏡をのぞいて星の見え方のズレを測りました,という簡単なものではなく,不鮮明な写真に基づいて,込み入った計算や推論を重ねる必要があることだからだ。しかも複数取られた写真のどれを採るかによって,結論がまるで違ったものになってしまう。それをかなり恣意的に選択して出されたのが「相対性理論を支持」という結論だ。

 また,自然発生説も本書では取り上げられている。これは,少なくとも短期的な自然発生は,今日の科学では否定されている(はずである)。しかし,これを最初に否定したパスツールの実験(白鳥の首型フラスコを使った有名な実験)も,実際にはきちんと実験された上で決着がついたわけではない。この問題の白黒を判定するために,フランス科学アカデミーが調査委員会を組織した。その委員会のメンバーは,自然発生説の立場に立っていた論争相手(プーシェ)に反対する人々ばかりであった。それでプーシェが公開実験を取りやめたため,自然発生説が自然消滅しただけに過ぎない。しかし,当時の科学では明らかになっていなかったことだが,干し草の中には,100度で煮沸してもなかなか死滅しないカビの胞子が存在するという。そしてパスツールはその干し草抽出液を使っていた。もしきちんと公開実験がなされていれば,パスツールに不利な結果が出ていた可能性がある

 いずれのケースでも,反対意見を打ち負かすものは事実でも理屈でもなく,力と数の論理(p.153)であった。というのは,どんな実験でも1回だけで完全ということはありえず,必ず落とし穴が見つかる(p.214)からだ。装置も,温度・磁力・湿度,素材も,ちょっと違っただけで結果がまるで変わってくる場合は多い(特に実験が複雑で微妙になればなるほど)。そこで論争において,実験肯定派は実験否定派に対して,実験がうまくいかなかったのは技術不足のせいで,どのように実験すればよいかさえわかっていないとののしり,実験否定派は実験肯定派に対して,インチキ実験だ,データ捏造だと罵倒(p.23)することになる。というか,そうすれば永遠に,論理的な決着をみることはない

 これがコワいのは,科学の論理性が信じられなくなる点。もしすべての研究がこのようなものだとすれば,そこにあるのは合理性や論理ではなく,なんでもありのアナーキズムであり,力の論理でしかない。これが科学の現実の姿の一端だ,ということは認めざるを得ないと思うが,しかし心情的には,認めたくない,認めるのはコワいという気持ちでいっぱいである。そういう意味では,本物の怪談(≠作り物)を読むような,面白さと同時に,怖さで背筋がぞっとなるような本であった。ま,おだやかな言い方をするならば,全ての科学的結論は,暫定的な仮説に過ぎない,ということだろうけど。そのことを,われわれが(少なくとも私は)以外にあなどっていることをに気づかせられる。

 

■自宅静養(できず)
2000/10/26(木)

 風邪の状態が思わしくないので,昨日とおとといは,午後に年休を取って自宅静養。授業や会議があったが,まあしょうがない。それでもすっきりと治ってはいないのだが。

 とは言っても,自宅は必ずしも静養に適した環境ではない。まずは上の娘(2歳4ヶ月)。私が布団で寝ていると,「まーちゃん(仮名)もねんねする」といって,布団にもぐりこんでくる。かわいいといえばかわいいのだが,ただねんねするだけではない。「かくれんぼー」などといって布団にもぐって遊んでいる。それに飽きたら,私の上(腰のあたり)にのって飛び降りて遊んだりする。それにも飽きると,ご本読んでー,と絵本を次から次に持ってくる。というわけで,なかなか落ち着いて寝ていられない。

 それから下の娘(0歳1ヶ月)。よく泣く。多少ならほっておくのだが,妻が家事に忙しく,かつ,泣き声がフォルテッシモになってくると,ダッコせざるをえない。ダッコしても,しばらくは立ってゆすってあげないと落ち着かない。というわけで,なかなか落ち着いて布団にも入れない(こともある)。

 それでも,午睡もできたし,少しは休養になったようだ。ただ,昼に寝ると,夜なかなか寝られない。かといって布団を出ると,部屋は冷房が入っているので寒い。できることは,布団に入って読書するぐらいだが,あまり難しい本は読む気がしない。それで,昨日はもっぱら,マンガ(『マスターキートン』)を読んでいた。難しい部分(複雑な推理や人間関係)は読み流して,もっぱらキートンの活躍ばっかりを読んでいたのだけれど。

 

■『理解とは何か』(佐伯 胖編 1985 東大出版会 \2,200)
2000/10/24(火)
(カゼなので読後メモそのままで)

 昭和58年に行われた「理解とは何か」というシンポジウムの記録を中心とした本。4人の話題提供者の講演と質疑応答,および,佐伯氏の私説・認知科学史が収められている。

 興味深かったのは,三宅なほみ氏の講演。「理解におけるインターラクションとは何か」というタイトルで,ミシンはなぜ縫えるのかを2人で話し合う,共同的問題解決場面における理解過程の話。そこには2人いても,問題設定も理解過程もわかり方も各自違っているという(p.80)。では2人いる意味はないかというとそうではなく,相手の答えの正しさに別の視点からみてチェックをかける(p.83),モニターの役割を果たすという意義がある。そこでは,よりわかっていない人の批判が役に立つ(p.84)し,飛躍的な提案がモニター側から出されることが多い(p.92)。これは一人で考えているときも同じで,自分で考えるということは,ある意味で,自分が当たり前だと思っていることを,どれだけ否定できるかということにかかっている(p.94)という。面白い。

 もうひとつ面白かったのは,1966年にアメリカ留学した佐伯氏の認知科学史。ちょうどこのころは,認知という言葉がきわめて遠慮がちに,用いられる(p.129)時期だった。それからナイサーの『認知心理学』(1967)が出,大きな転換となる1972年を経て,知識や自然言語,理解,ピアジェ流の発想がアメリカの心理学界の中での位置を占めるようになってくる。そのあたりの流れが非常によくわかる。

 その後,人間の情報処理に関する実験研究から発展して「理解」研究を深めていったものとして,情報処理レベル,メタ認知,思考の文脈依存性が挙げられている(p.153)。この中で佐伯氏はメタ認知について,単に学習や記憶のスキルの知識という以上に,なんとかして覚えなければならないとか,ちゃんとわかっていなければならないという状況の認識と,そこに関わる自分の役割や責任の意識から自然に生まれるものなのかもしれない(p.156)と考察している。この考え方も,なかなか示唆深い。

 

■夫婦の温度感覚
2000/10/23(月)

 数日前から風邪を引いている。のどが痛くて結構つらい。

 なんだか最近,しょっちゅう風邪を引いている気がする。季節の変わり目だからなのかもしれない。あと,耳鼻科の医者によると,鼻中隔が曲がっているそうなので,鼻が詰まりやすい→寝るときに口があく→のどが乾燥して,ばい菌が住みやすくなる→風邪を引く,ということもあるようだ。

 でも私は,もう一つ原因があるのではないかと思っている。それは,夫婦の温度感覚の違いだ。うちの妻は暑がりだ。氷やアイスクリームなど冷たいものは大好き,今ぐらいの気候だと,朝から晩まで冷房かけっぱなし,寝るときは半そで短パンでほとんど布団はかけない,真夏は扇風機にあたりながら寝る,という具合である。

 一方私はその逆。しばらく前から布団は厚めのものに変えているし,大体うちでは,長袖長ズボンですごす。冷たいものも好きなのだが,割とすぐにお腹を下してしまう,という具合である。こういう場合,クーラーを入れるかどうかなどを決めるのは,結構大変である。その上,こっちが風邪引いたりすると,すぐに「弱っちい」などと言われてしまうし。

 面白いのは,子どもに対する対応。娘が調子悪いときなど,私はすぐに,「寒いんじゃないか」と心配するし,妻は「暑いに違いない」と考える。おかげで,対応が全く逆になってしまうのである。人がいかに自分を基準にしてものごとを判断するかがよくわかる。結局具合の悪い娘にどう対応していいのかはわからないのだけれど。

 

■『記憶は嘘をつく』(ジョン・コ−トル 1995/1997 講談社 \1,800)
2000/10/20(金)
〜"嘘"なのではない〜

 はじめの方は,記憶がどこにあるかという大脳生理学的な話とか,記憶は再構成されるというバートレットやロフタスの話で,まあありがちだと思って読んでいたが,第4章から自伝的記憶システムの話が中心になって,俄然面白くなってきた。というか,自分が自伝的記憶について,ほとんど知らなかったことに気づいた。

 自伝的記憶とは,人間の一生の話のなかに登場する人物,場所,モノ,できごと,感情に関する記憶である(p.14)。しかし,それらを単に図書館のように貯蔵しているわけではない。私たちは記憶しているものをひとつのまとまった形にして,それにさらにゆがみがつけ加えられていく(p.190)。それはたとえば,ちょっとした善人がさらに善人になり,悪人にはさらに悪の度を加える,という具合である(p.168)。あるいは,記憶の持つ意味や感情が,思い出すときの状況によって変化するのである。世の中のことに一貫性をもたせて理解し,自分自身のアイデンティティも形作られていく。

 そのようなことができるのも,記憶が「再構成される」からである。つまり,私たちの記憶のすべてにオープンスペースがあり,それに次から次へと意味を注ぎ込める(p.286)からだ。つまり,記憶が再構成されるものであるということは,われわれのシステムの単なる欠点ではなく,積極的な意味があることだということが,よく分かった。

 このような記憶の再構成によって,他人についての記憶が神話化されることがある。本書にも,「サルキスの死後,子どもたちがこの話を思い返してみたとき,父親の人生はまったく新しい意味を帯びるようになった」(p.337)という例が載っていた。この記述は,遠藤周作の『キリストの誕生』を思い出させる。というか,まったく同じである。つまり,イエスの死後,その生や言葉や死の意味が弟子たちの間で再構成されたものが,キリスト教になった。これも,言ってみれば,特別なことなのではなく,自伝的記憶の,ごく通常の作用(が極端に大きな意味を持った)なのだ。うーん面白い。

 となると,「記憶は嘘をつく」というタイトルは不適当ではないだろうか。ちなみに原題は,著者の記憶の中で,アイデンティティにも大きな意味を持っていた祖父の手袋の逸話から取られた"WHITE GLOVES"というタイトルである。サブタイトルは,"How we create ourselves through memory"。原題と邦題,全然ちゃうやんけ。

 

■日常雑記
2000/10/18(水)

 昨夜(午前1時ごろ)。下の娘がちっとも眠らず。妻は家事と育児の重労働がたたったらしく,肩痛を訴えながら,「たまには男女の役割を入れ替えたらいいのに」と不満たらたらだったので,しばらく私がダッコして寝かせることに。おかげで,相変わらず,本は読めるが眠い眠い。

 朝。そんなこんなでいつもより1時間ほど遅く目がさめてあせるあせる。慌てて支度し,朝食抜きで上の娘を保育園に連れて行き,大学へ。妻は,内臓の超音波検査のため病院へ。

 午前中。3年と4年で合同ゼミ。一人が強烈な偏頭痛とかで遅刻する。私は偏頭痛の経験がないから全くわからないのだが,車の運転をしていても気持ち悪いそうだ。実際,途中で吐きに行ったりしている。こういうときは打つ手もなく,横になっているしかないが,かといって眠れもしないそうだ。お大事に。

 午後。会議が2つ。ま,それほど大変な会議ではないのだが,時間を取られるのはつらい。何だか,授業が始まってからは,まとまった時間が全く取れず,なかなか生産的な仕事ができない。眠くて頭がぼーっとしているせいもあるが。せっぱつまったら,また休日出勤するしかないか? 妻,怒るかなー。

 

『仕事の中での学習−状況論的アプローチ−』(上野直樹 1999 東京大学出版会 \2700)
2000/10/16(月)
〜行為は局所的・即興的・状況的なものである〜

  「状況論」の初の書下ろし概説・研究書(オビより)。難しかった『状況に埋め込まれた学習』のような先駆的業績の単なる概説ではなく,批判的に検討し発展させている。たとえばレイヴらは状況に埋め込まれた学習を「実践のコミュニティへの周辺的参加から十全的参加のプロセス」としているが,本書の考察によると,コンテキストにしても,コミュニティにしても,あらかじめ与えられたものではなく,知識の組織化や道具の使用を通して,相互的に構成されるものと考えられるので,レイヴらとは根本的に異なった学習の見方をしている(p.162)。

 行為ということに関して,著者は次のような主張をしている。

  • 行為とは,目的−手段リストのようなものでコントロールされているわけではなく,そのつど,局所的に組織化されている,即興的で革新的なものである(p.23-25)
  • タイプライターで何かを書くという作業も,ピアノで即興演奏をすることに似た,キーボードを打つという行為と同期した行為(p.27-29)
  • 会話のさまざまな装置による関連する場所での目印づけや言葉遣いを変えること,身体の向きといったリソースやその使用が,一見するとさまざまに錯綜している出来事やコンテキストの"境界"を社会的に観察可能にし,また,組織化し,秩序だてている(p.110)
  • 教室における相互行為も,心理学実験室における相互行為も,"個人"やその知能が焦点化(可視化)され,あたかも実体であるかのように見えている(p.223)
  • 学習とは,学習や発達を可視化し,焦点化する道具やその使用を含む,ある種の実践の組織化のあり方(p.236)
 「局所的組織化」「即興的」「状況的」などがキーワードのよう(少なくとも前半は)。しかしこれらは,「こういう視点からするとこういう見方ができるという対案の提案」に過ぎないのではないだろうか。例えば,「行為が目的−手段リスト(プラン)によってコントロールされていない」ことが,綿密に論証されているわけではない。

 ...と,以上が読んだ直後の読書メモ。また改めて昨日,全体を見直したときに,気づいたことがある。それは,ここで述べられていることは,『哲学・航海日誌』の中で述べられているコミュニケーション論(の一部)と同じ,ということだ。同書では,コミュニケーションにおいて意味が「固定された規則や規約によって決定されているのではなく,その場その場で意味が取り決められる場当たり的なもの」と主張されている(最終的な野矢氏の意見は少し違うが)。

 「固定ではない」「場当たり的」というのが,局所的・即興的・状況的というキーワードと合致する。つまり本書は,「根源的規約主義」(すべてのルールはその場その場で新たに取り決められる)的な行為論なんだな。ああ,それならわかる。確かにプランは,言語におけるルールと同じく,行為を完全に秩序づけはしない。

 通常の心理学では,超越的・外在的な立場にいる心理学者が,特権的に人の認知システムや社会的システムを記述する(p.11)。しかし本書では,そうではなく,その場で起きているリアリティの意味を,当事者たちの視点から明らかにしていくこと(p.14)をテーマとしている。つまり,状況的行為の中から,当事者たちがその場で生み出しているルールを,エスノメソドロジー的に読み解いていこう,というスタンスだ。ふーん,ちょっとおもしろくなってきたぞ。

 通常は,そのような文脈の意味づけは,当事者たちの間で適切に行われ,相互的行為が円滑に進む。そのような分析もおもしろかったが,本書p.112あたりにあるような,そうでないケースの分析がおもしろかった。ここで取り上げられているのは,コンテキストの管理が適切に組織化できなかった例としての,民間航空機の墜落事件である。簡単に言うと,パイロットと管制官,あるいはパイロットと制御コンピュータのコンテキストの組織化のされ方が異なっていたため,警告や会話の解釈がずれ,事故につながったようだ。このような分析に,本書のような手法は威力を発揮するのではないかと思う。


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