読書と日々の記録2000.12上
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■読書記録:  12日『知識から理解へ』 8日『常識を疑ってみる心理学』 4日『謎とき日本近現代史』
■日々記録: 14日ミニオフ 10日近況 6日RLA / 歴史的思考ほか 2日第3世紀

 

■ミニオフ
2000/12/14(木)

 出張で沖縄に来られた,大東文化大学の中村さんとお会いした。二人とも日記猿人で日記を書いているから,猿人オフとも言える。二人だけのミニオフ。といっても私のほうは,妻と二人の子どもも連れて行ったので,結構にぎやかだったのだが。

 場所は,那覇にある「はてるま」というお店。料理は,ぐるくんの南蛮漬け+長命草(波照間島から取り寄せているそうだ),パパイヤ・イリチー,ンジャナ(苦菜)の和え物,煮付け,島らっきょう,ソーメンのおつゆなど。ほんと,どれもおいしかった。酒は波照間の幻の酒,泡波をいただいた。残念だったのは,最初にいただいたビールのグラスが小さくて,グビグビいけなかったことくらいか。

 中村さんとは,大学のこと,日記のこと,お互いの専門分野のことなど,いろいろな話ができて,とても楽しかった。中村さんの某月某日の日記の裏話,なんてのも聞いたりして。お会いする前にうちの妻は,「接点があんまりなさそうだけど大丈夫だろうか」と心配していた。妻の言う接点って,生育歴とか専門分野とか興味のあることとか人間関係などを指すようだが,その心配は要らなかった。われわれがどんなに暴投しても,中村さんは守備範囲が広くて,ちゃんと取って返してくれたし,中村さんは私たちが取りやすい球を放ってくれたし。

 おかげですっかり遅くなってうちに帰ってみると,留守電が2本入っていた。どちらも,用件らしい用件は吹き込まれていない。少し遠くに,子どもと大人の声が聞こえる変な電話である。いたずら電話か?と思ったが,よくよく考えてみたら,中村さんがご自分の携帯を上の娘(2歳6ヶ月)に貸してくれて,電話遊びしたときのものだった。そう,中村さんはうちの娘と,実に根気よく遊んでくれたのでした。ホント,ありがとうございました。

日記猿人 です(説明)。

 

■『知識から理解へ−新しい「学び」と授業のために』(守屋慶子 2000 新曜社 \2800)
2000/12/12(火)
〜「つなぐ」理解をつくる授業〜

 「理解」に関して,発達心理学の視点から取り上げた本,と「はじめに」(p,i)にある。筆者は続けて,こう述べている。

理解したいものが何であれ,私たちの理解は,ひととのやりとりなしでは展開しない(p.i)。
これが,この本全体で筆者が主張したい,ただひとつのことだそうだ。しかし本書は,筆者の授業実践とその背景理論を紹介するFDの本と考えることもできる。また,その授業内容は,批判的思考の育成と言うこともできると思う。

 筆者が実践している授業は,「仮説検討型授業」である。「仮説実験授業」に似ているのだが,実際に学生の目の前で実験が行われることはない。授業は(おそらく)2コマがひとまとまりで,1時間目は,まずある研究の目的と方法の説明が行われる。それを聞いて学生は,結果を予想し,その理由を書く(書き込む紙は,授業書と呼ばれる)。それから授業者が,研究結果を紹介し,学生が,それを聞いて考えたことを書く。最後に授業書を回収して終わりである。次週までに学生は,テキストや参考文献で,関連内容の確認,理解を行う。2時間目は,授業書の内容を授業者が整理・分析し,学生の見解が紹介される(p.264)。

 従来の教育では,既有知識とは無関係に知識を貼り付けさせている(=丸暗記)。仮説検討方授業の1時間目では,そうではなくて既有知識を元に結果を予想し,その中に新情報を組み込むことが大事にされている。このことを筆者は,「新しい酒は古い皮袋に」と表現している。そしてまた,「なんとなくこうかな」という答えを,従来のように「要するにわかっていない」と切り捨てるのではなく,「『わかった』の一歩手前」として許容する。

 2時間目で大事にされているのは,他者の考え方が自分のものと違うことを知ることである。それを元に自分の考えを見直すという対話的・社会的な理解であり,論の立て方である(これを「展開的やりとり」と呼んでいる)。この過程を経ることによって,半年2単位の授業であっても,「自分の考え方や感じ方が流動的で柔軟になるのを感じる」「自分の中に,『それは変じゃないか?』『独り善がりでは?』と言ってくれる他人を感じる」(p.234)という柔軟性を身に付けることができるようになる。これは批判的思考そのものと言ってもいいようなものであろう。

 それに何よりも,この授業によって,他者の捉え方が,「競争相手」や「対立的他者」という他者観から,「自己の発達を助けてくれる他者」という他者観に変容するという(p.236)。これも,適切な批判的思考のためには,なくてはならないものである。

 この本が興味深かったのは,単に授業実践の紹介をするのではなく,その根拠としての筆者の理解観や他者観が述べられていた点である。これらは,筆者のこれまでの発達心理学的研究に裏付けられている。なかには,「ことばのからだ性」(p.93)であるとか,「自分の目的や意志に沿った行動が遮られるときに他者が認識される」(他者性)(p.138)であるとか,なんだか,『哲学・航海日誌』を思い起こさせるような議論が,心理学的研究の中から論じられているのが興味深い。

 あと興味深いのは,『学ぶ力をうばう教育』に似ているようで似ていない部分である。どちらの本も,考えない学生に考えさせる試みをしており,結果的に学生に,疑うことや考えることを体験させている。しかしそのアプローチの仕方が違う。『学ぶ力をうばう教育』では授業者が,もっと考えろと学生をせめ立てながら問いを立てさせることで授業が進められる。それに対して本書では,責め立てるようなことはせず,他人の意見を共有しあうことで,自分の意見を相対化させている。

 こういう安易なまとめ方がいいのかどうかはわからないが,この点,両著者の性の違いの現れであるようにもとることができる(単なる個人差だけかもしれないが)。つまり前者が主にやっていることが「切る」ことであるのに対して,後者(本書)がやっていることは「つなぐ」ことなのである。これが性差なのかどうかは別にしても,この両者の視点は,適切な批判的思考に必要なのであろう。

 

■近況
2000/12/10(日)

 私と,私のWebページの近況。

 8日(金):我が大学の心理学関係者が,学部の壁を超えて忘年会。ものすごく久しぶりだ。私がここに来て9年経つが,3度目ぐらいではないだろうか。他の参加者も言っていたが,学部の壁を超えて交流し,情報交換することの重要性を実感した。それにしてもM先生,あんまりこのWebページのこと言わないでよ。はずかしいから(^^;;

 9日(土):上の娘(2歳5ヶ月)の保育園のお遊戯会。去年(ひよこ組)は,ステージの上でほとんど烏合の衆であったが,今年(うさぎ組)は,ステージの上でちゃんとイスにお座りして,先生の呼びかけに応じて,自分の名前を言ったりしていた。あとは鈴を振ったり太鼓を叩いたり。昨年からすればすごい進歩だ。来年(くま組)は,さらにステージの上で歌ったり踊ったりできるらしい。今年のくま組は,月光仮面や,おはロックをやっていた。ああ,今から楽しみだ。

 10日(日):9時から18時過ぎまで,ある委員会のワーキンググループ。つ,疲れた... それでも今日では終わらなかったので,明日もやるそうだ。ゲッソリ。

 学生のお勧め本:昨年に引き続き,共通教育科目(人間関係論)のレポートの末尾に,学生のお勧め本を書かせている。今年もいくつかピックアップしてWebページに掲載したので,興味のある方はご覧ください。現在18冊を紹介している。昨年のものとあわせると,40冊以上ある。昨年に引き続いて今年も,学生は案外,面白そうな本を読んでいるようだ,と感じた。

 食事記録:このページでは,ときどき,家族で食べに行った食事どころの記録を書いている。昨年から,多少数がたまったので,索引を作った。ほとんどの人にとっては意味がないと思うが,ま,これは,純粋に我が家のために作ったものだ。ああ,眺めるだけで,もう一度行きたい,よだれの出てくる店がある(ズズズッ)。

 

■『常識を疑ってみる心理学−モノの見方のパラダイム変革−』(伊藤哲司 2000 北樹出版 \2,200)
2000/12/08(金)
〜ガッテンするときは慎重に〜

 弾不足状態はまだ続いているので,今回も批判的視点を交えて紹介する。といっても本書では,「疑うこと」が推奨されているし,また著者は,TV番組「ためしてガッテン」を批判的に取り上げながら,そんな簡単にガッテンしない,ガッテンするときは慎重に(p.19)と書いているので,遠慮なくやらせてもらうことにする(笑)。

 タイトルは『常識を疑ってみる心理学』だが,「常識を疑ってみる心理学」という一つのテーマに基づく本,というよりも,「常識を疑ってみる」部分と,それと関連した「心理学」の話の2つの部分が合わさった本である(目次はこちらにある)。

 「常識を疑ってみる」部分は,「みんな,自分で考えてみよう」ではない。「おわりに」に,私なりの常識を疑うことの実例を紹介した(p.194)とあるように,著者の見解を提示したものが多い。ただ,それは必ずしも悪いわけではない。「はじめに」には,読者の皆さんに押しつけるのが狙いではありません(p.4)と書かれているので。この本を例に,多面的に見る力量を養うきっかけにしてほしいそうだ。ま,このように,著者の考え紹介が中心なので,ひと言で言うと本書は「エッセイ」だろうと思う。著者はいろいろな経験が豊富な人のようなので,そのあたりの好みが合う人ならばいいかもしれない。

 この,「常識を疑う」部分で面白かったのは,

赤ずきんちゃんの物語を,あえて狼の立場から読んでみたら,どういうことになるでしょうか(p.85)
という部分。赤ずきんちゃんに限らず,醜いアヒルの子などにしても,主人公以外の立場から読むと,まったく違う物語になるというものが少なくない(p.86)こと,そしてその発想を,民族紛争の問題にまでつなげている。これは,授業などで使えそうだ。

 それ以外の部分では,疑問に思う(簡単にガッテンできない)部分がいくつかあった。一つは心理学的な概念の扱い方。心理学的概念として本書では,「マスコミの例示効果」(p.27),「内集団」(p.76),「性格の状況論」(p.153)などが出てくる。ただし,それらの概念が提起される元となった実験や研究が紹介されるわけではなく,身の回りの出来事や私たちの常識を「疑ってみる」ための説明概念として,これらが使われている。つまり,これら心理学的概念(=心理学の常識?)は,疑いの対象からはずれているわけである。それは一つのやり方だとは思うが,しかしそれは数ある説明のうちのひとつの可能性にすぎ(p.15)ないのではないか。

 ちなみにこの引用部分は,ある人の行動を血液型で説明する行為に対する著者のコメントである。このように,心理学的概念を「既定のもの」としてある現象なり行動を説明しようとすると,それは血液型性格論と同型になってしまう。もちろん,だからと言って,それだけで血液型性格論や,心理学概念による現象の説明を肯定/否定するつもりはない。ただ,このタイプの説明には,慎重さが必要であると思う。そういえば著者も後ろのほうでは,わかりやすい言葉,わかりやすい物語に,すぐに飛びつき,したり顔でそれを使う人は多いものですが,十分用心した方がよさそうです(p.179)と書いている。まったくそのとおりだと思う。

 また,冒頭に書いたように,本書では「ためしてガッテン」が批判的に取り上げられているが,そこにも問題がある。筆者は,あの番組の実験がうまく行き過ぎる点や,不備がある点を指して,「実験もどき」と言っている。うまく行き過ぎる点については,「編集段階にカットされているに違いない」とか「都合のいい映像をくっつけて編集したのでしょう」と述べているが,そのような憶測だけで,「お膳立てされた必ず上手くいく実験」(p.13)と決めつけていいのだろうか? それこそ,そのような説明は「数ある説明のうちのひとつの可能性」にすぎないのではないだろうか。あるいは別のページの筆者のことばを借りるなら,相手の立場や状況を自分は簡単に理解できていると思い込んではいないでしょうか(p.88)と言われても仕方がないのではないだろうか。少なくとも「ガッテンするときは慎重に」という態度にはなっていない。

 その他,やや細かい点を。p.106では,宜保愛子が,あきらかに科学の常識ではありえないことを公言(p.106)したと述べている。あれ,本書は「常識」を疑う本だったのではないだろうか? 少なくとも,こんなにナイーブに「科学の常識」を振りかざすのは,本書の趣旨にそぐわないのではないだろうか。

 「常識を疑う」というコンセプトは悪くないし,随所にいいことも書いてあるのだが,同時に,大雑把な論も目についた,ちょっと残念な本であった。

 

■RLA / 歴史的思考 / 物語としての学問
2000/12/06(水)

 前回の『謎とき日本近現代史』については,2人の専門家の方からコメントがいただけた。一人は,日本の近現代経済史の専門家にして,大教室のMONOLOGUEを書かれている中村さん。以下のようなメールをいただいた(本人の了承を得て転載)。

歴史の「立体的な構成」重要ですね。

例に上がっていた“関東軍の暴走”・・・筆者があげている7つの要因に加えてまだ考えられないか? というふうに考えさせてあげられる構造になっているかどうか...もその本に対する評価のポイントだと思います。

たとえば陸軍内部の組織上の問題とかもあるんじゃないかなぁ〜?とか。なぜ「帝国陸軍」ではなく「関東軍」だったのかという問いです。

それから7つの要因のなかに重複して絡んでくる問題もあるから問題をもっと整理してみることもできそうです。

人口圧力と移民、加州における日本人排斥、「アジア人」による「王道楽土」の建設...

こういった論点がそれぞれ7つの要因にどう絡んでくるのか学生さんには考えて欲しいですね。

ふーむ。「その他の要因も考えさせてあげる」かあ。この本は,歴史学の「成果」をもとに,「なぜ」に「答える」形で紹介する,という形になっているので,残念ながら中村さんの言うような本にはなっていない。

 そこまで考えることができれば,それはもう,「学んで覚える歴史」ではなく,研究者のように「自分で組み立てる(再構成する?)歴史」ということになる。これはまさに,最近ときどき耳にするRLA(Researchers-Like Activity)である。おそらくそうすることで,「歴史学的なものの見方・考え方」が身につくに違いない。「自ら考える力」が重視される昨今,初等・中等教育においても,このような活動を取り入れることも,検討されていいのではないだろうか。

 もう一人は,日本中世史がご専門で,愚一記をお書きの愚一(俊一)さん(Web日記として公開されているので,多分大丈夫だろうと判断し,著者の許可なく一部引用)。

  • 「歴史的必然性の物語を,多面的かつ論理的に」提起するとか、「歴史的必然性を立体的に描きだす」というのは、まさに歴史学が目指していること。

  • 歴史がたどる可能性があった別の道を思考実験してみることも大切。「歴史に"If"」は大いに結構だと思う。

 本書で扱われていたのはwhyだが,これに加えて,愚一さんの言うifと,中村さんの言うwhy not(なぜ〜ではなかったのか?)を考えることが,歴史的な思考なのかもしれない。心理学者は,因果関係を明らかにするために「実験」を行う。それに対して,歴史に関して実験を行うことは,まず不可能である。

 しかし,このような問い(if/why/why not)を駆使して適切に「思考実験」すれば,実験に勝るとも劣らない,因果関係の(論理的)物語を作ることができる。その意味では,「実験をしないと何もいえない」心理学者に比べて,歴史学者は,もっといろんなものが見えている。そんな気がしてきた。いずれにしても,その底には,共通のもの(論理的/批判的思考の核とでもいうべきもの)があるのだろうけれども。

 ついでに「物語」について,もう少し。歴史を「(論理的)物語」としてとらえることに関して,特に専門家から異論は呈されなかったので,図に乗って話を広げていく。歴史学だけでなく,心理学も自然科学も含め,すべての学問は,結局は「物語」を作っているのではないだろうか。もちろんどんな物語でもいいわけではなく,論理性が重視された物語ではあるが。しかしそれは,しょせん「物語」なのだ。されど「物語」でもあるが。

 このような考えに,いつ思い至ったのかは定かではないが,最近,強くそう思うようになってきた。古くは,昨年読んだ『科学の解釈学』の中には,科学的知を多元的な「物語知」の一形態として捉え直す「知のナラトロジー」という考え方が出てくる。先月見た,附属小学校の研究授業は,「各種環境と人間との関係を,グループごとに1枚の広用紙にまとめる」という授業であり,それはまさに,「皆で物語を作る」光景であった。また,先々月読んだ『記憶は嘘をつく』では,世の中のことに一貫性をもたせて理解し,また,自分自身のアイデンティティを形作る上で,「物語」としての記憶(事実の記録としての記憶ではない)がいかに大事か,ということがよくわかった。

 それと同じで,世の中の諸現象を,科学なら科学という視点から物語にして理解することができる。そうすることは,世界に一貫性をもたせることで安心するとともに,自分のアイデンティティを確認することにつながるのではないだろうか。もちろんそこには,先ほど書いたように,単なる物語とは違って,「論理」という強い制約はある。しかし,そのような形で世の中を理解することの意味は,「単なる物語」が持っている意味と,大して変わらないのではないか。

 現時点では,諸学問を物語としてとらえることの意味は,自分の中であるイメージがあるが,これ以上言葉で明確に語ることは難しい。また1年ぐらいたってから,いろいろな本を読む中で,そのイメージがもう少し明確になれば,またWeb日記に書きたいと思っている。

 

■『謎とき日本近現代史』(野島博之 1998 講談社現代新書 \640)
2000/12/04(月)
〜論理的物語としての歴史〜

 先月から,相変わらず弾切れ状態が続いているので,いつもなら取り上げないような本を(といっても,悪くない本なのだが)。

 高校時代,私は歴史が大の苦手だった。日本史も世界史もだ。当時,共通一次は5教科7科目だった。しょうがないから両方とも避けて,倫理・社会+政治経済で受験に臨み玉砕。浪人したのだが,この年から,倫社+政経という選択が認められなくなったので,世界史の勉強を改めて一からはじめたクチだ(予備校の先生がいい先生だったので,何とかなったが)。私見だが,歴史が得意な人は,おそらく2種類いると思う。1種類は,素直に丸暗記ができる人。もう一種類は,歴史の中に「物語」を見いだし,それを通して理解できる人だと思う。私は,素直でもなければ物語を見つけ出す眼ももっていなかったので,玉砕したわけだ。

 さらに私見だが,歴史の中に物語を見出すやり方には2通りある。一つは,出来事をつなぎ,人物を描くことで,歴史の「なぜ」を説明するやり方。歴史小説でよくとられる方法だ。つまり,「ああいう人物がいた」からこんなことが起きた/起きなかった,という説明だ。これは,話としては面白いが,歴史が「人物」に還元されがちになってしまう。また,下手をすれば,きわめて平板な歴史像になってしまう可能性がある。

 それに対して本書。扱われているのは,幕末の「日本はなぜ植民地にならなかったか」から,戦後の「高度経済成長はなぜ持続したか」まで,近現代史の謎である。小話風のエピソードに頼るような手法は一切(p.11)とらず,当時の世界情勢や日本の様子などから,きわめて論理的に謎に迫っている。これが,もう一種類の「物語」を作る方法である。

 たとえば,「関東軍はなぜ暴走したのか」でいうと,以下の7つの要因が挙げられている。当時のロシアの,軍事面を含めた成長ぶり(→関東軍の緊張感を高めた),中国国民党による統一の成功と国権回復運動,多数の兵士の血を流した日露戦争の勝利によって得た旅順・大連・南満州を守りたいという感情的な動機,不況(昭和恐慌)や急激な人口増加という日本の抱える問題の解決,恐慌によるアメリカの指導力低下(→今ならワシントン体制に敵対的な行動をとってもアメリカは沈黙してくれる),ブロック経済圏という発想,そして石原の「世界最終戦争論」である。

 このような状況にあったがゆえに,関東軍は暴走した。そのような歴史的必然性の物語を,多面的かつ論理的に筆者は提起する。そして関東軍に関して,筆者は次のように書く。

実は正直なところ,自分が現場にいたら指揮官の決断に同意したのではないか,あるいはひょっとすると似たようなことを志向したのではないか,と感じているのです(p.146)。
筆者がそれだけ,当時の情勢を幅広く理解していることの現れであろう。そしてこの章の最後には,石原のような情熱的理論家を説得するのは気が遠くなるほど困難だ(p.160-1)と言いながらも,次のように述べている。
日本が選択することのできた別の道を熟考しておくことも,後世に生きる者の一つの責務だといえるかもしれません(p.160)

 この点にこそ,歴史を学ぶことの意義があると言えるかもしれない。ということは,大事なのは,単なる暗記でも,人物中心の(わかりやすい)物語を描くことでもなく,当時の状況に基づく,歴史的必然性を立体的に描きだすことだと言えそうだ。筆者は予備校の教師なので,本書は高校生などにもお勧めだが,内容は高校レベルというよりも,良質の大学の授業のようであった。といっても,予備校で1回出会って以来,大学その他でそのような授業を受けたことはないのだが。

 

■第3世紀のはじまり
2000/12/02(土)

 5月から11月までで,100冊余の本を読んだ。ので,今月から,第3世紀のはじまりとする。別に何かが変わるわけではないが。

 といっても,多少は変えたい。一つは,日々の記録を充実させること。とりあえずは,日常雑記でも娘自慢でも何でもいいから書くことにする。質より量(定期的)だ。もう一つ。日記猿人の投票ボタンの下に,ご意見・ご感想がある人のための"mailto:"リンクをつけてみた。ということで,ご意見やご感想があれば,お気軽にどうぞ。

 ということで,早速日常雑記。大教室のMONOLOGUEの中村さんの口添えで書かせてもらった,コンピュータ&エデュケーション誌が,昨日届いた。うちに持って帰って,上の娘(2歳5ヶ月)に見せたところ,執筆者紹介のところにある私の写真を見て,「パパ,パパ」と言う。へへへ,やっぱりパパはわかるのか,と悦に入っていたら,その前の論文の執筆者の写真を見ても,やっぱり「パパ,パパ」と言っている。がっくし。さすがにひげの生えた人の写真を見てパパとは言わなかったけれども。

 今日の昼は,那覇市港町にある「徳ちゃんパーラー」に行って来た。 沖縄グルメ人気投票のページで一番人気の店なのだ。パーラーは移動式食堂とでも言うのだろうか。沖縄には多いのだが,改造トラックが道端で営業しているのだ(トラック=店。食べるのは外のテーブル)。徳ちゃんパーラーの場合は,海辺の道沿いにいるので,潮風に吹かれ,海を眺めながら食べることになる。

 今日は暑からず寒からずで,パーラーでそば(沖縄そば)を食べるのには最適の気候だった。徳ちゃんそばは売り切れだったので,ソーキそば(\300)を食べた。そばは製麺所の麺なのでそれなりだったが,うまかったのはソーキ(豚のあばらの肉)。軟骨が肉と区別がつかないほどトロトロで,全然抵抗なく,骨まで食べることができた。あれは,また食べる価値がありそうだ。

 


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