読書と日々の記録2001.01上
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■読書記録: 1/12『〈競争優位〉のシステム』 1/8『すぐれた意思決定』 1/4『地震は妖怪 騙された学者たち』
■日々記録: 1/14「おてみがり」の謎 1/10冬休みボケ 1/6「そうそう」「おやまあ」「なるほど」の教育心理学 1/2新年雑記

 

■「おてみがり」の謎
2001/01/14(日)

 子どもの話す言葉はふしぎだ。

 上の娘(2歳7ヶ月)は,ときどきおもしろい言葉を使う。たとえば「チミガリ」。これは「ちりがみ」のことである。「り」と「み」が入れ替わっているわけである。「チカモラチ」(ちからもち)なんてのも言う。

 これは「転音」と言い,「幼児独特の言葉の使い方」として,教科書にも載っている現象である。うちにある本には,「てぬぐい→てぐぬい」という例が載っている(上田礼子『生涯人間発達学』三輪出版)。

 ほかの例として,うちの娘は「ヌーピース」という。何かと思えば「スヌーピー」である。どうやら転音は,複数音の入れ替え(ス←→ヌーピー)もアリのようである。また,子音のみの入れ替えというのもある。うちの娘は,テレビを「テベリ」(teReBi→teBeRi)と言い,スカートを「スターコ」(suKa:To→suTa:Ko)と言う。うーむ。見事である。

 ひとつわからなかったのが,「オテミガリ」。これは「お手紙」のことである。これ,上記の「転音」現象とは関係なさそうである。しかし,ひょっとしたら関係あるんじゃないのか,と昨日ふと気がついた。おそらくこういうことだと思う。

 まず「チリ紙」という語がある。これを娘は「チミガリ」と,転音して認識する。そしてその上で,この語を「チ・ミガリ」と分けて理解するのである。チリ=チ,紙=ミガリ,というわけである。

 そしてこれを「お手紙」に応用する。と,お手→オテ,紙→ミガリ,となる。これで「オテミガリ」の出来上がりである。

 もちろん,娘がそのように説明したわけではないので,これが正解かどうかはわからない。こう考えると,説明はつく,というレベルである。でも昨日,これに気がついたとき,ちょっと感動したものである。というのは,音を音として機械的に捉えているのではなく,小さなまとまりに分解して理解し,その上で,それを他の音にも応用している,ということだからである。

 月並みな(そして親バカな)感想だが,誰が教えるでもなく,こんなことができるなんて,つくづく,子どもって天才だと思う。

 

■『〈競争優位〉のシステム−事業戦略の静かな革命−』(加護野忠男 1999 PHP新書 \657)
2001/01/12(金)
〜大学にも事業システムを〜

  新書だと思って,タイトルだけで適当に買ったが,案外面白かった。事業システムとは簡単に言うと,事業をどのように構築し展開するかという,事業の仕組みのことである。もう少し正確に言うと,

どの活動を自社で担当するか,社外のさまざまな取引相手との間にどのような関係を築くか,を選択し,分業の構造,インセンティブのシステム,情報,モノ,お金の流れの設計の結果として生み出されるシステム(p.47)
である。製品やサービスは,新しいものを作っても,すぐに他者に真似される。それに対して,事業システムは,表に出にくいため,うまいシステムが構築できれば,その効果は長期的に持続されやすい。本書では,従来型の事業システムである規模の経済(=大きいことはいいことだ)に変わる,新しい事業システムについて,具体例を交えながらわかりやすく解説されている。

 たとえば,任天堂がゲーム業界で一歩リードできたのも,ソニーがそれにある程度追いつくことができたのも,従来とは違う事業システムを作ることに成功したからだ(p.30),と説明できる。ちなみにタイトルにある「〈競争優位〉のシステム」とはおそらく,競争に強いシステム,という意味ではないかと思う。本書中には触れられてはいなかったので,私の想像なのだが。

 実は本書が面白かったのは,このような事業システムの話そのものが面白かった点もあるが,それだけではなく,この話が,メタファー的に大学の教育改革論として読むことが可能だと思ったからだ。すなわち大学においても,優位性を長期に持続するためには,いい教員や学生がおりいい設備がある,ということ(だけ)よりも,優位が持続するようなシステムを作る必要がある,といえるのではないだろうか。

 一例をあげると,「集中特化と外部化」という事業システムがある。これは,経営の焦点を1つの事業に絞り込み,それ以外の事業は外部化する,という戦略である。こうすることにより,緊張感が生まれるし,また,ほかの企業にはない深い能力,技術,ノウハウを蓄積することが可能になる。最近,元気がいい企業は集中特化していることが多く,逆に「総合」と名のつく会社や業界は苦戦している(p.121)。

 大学で言うと,「教育大学」「研究大学」などに種別化することは,集中特化であるといえる。逆に言うと,このような方向性を明確にすることなしに,「総合大学」(学部の数のことではない)にこだわったり現状維持を志向するのは,ある意味危険かもしれない。集中特化することがすべての場合において有効かどうかはさておいても,少なくとも「総合」でいることの弱点は十分に自覚しておくべきである。そのようなことが本書から考えられる。

 この他にも,次のような指摘は,大学における「事業システム作り」に何らかの示唆が得られるのではないかと思う。以下は,私が関係ありそうかと思った点の要約や抜書き。どのように関係するかは,他人が読んでもわかりにくいだろうけど。

事業システムを設計するに先立って,ターゲット(顧客)を決める必要がある(p.56)/セブン−イレブンのシステム(POSシステムを用いたスピードの経済)は,商品実験が低コストで行える,仮説検証型事業システム(p.85)/実験によって情報を生み出し,情報収集を活性化できる(p.175)/企業のなかに蓄積された情報や知識を有効利用することによって,組み合わせの経済が実現できる(p.103)/組織的な思考プロセスの活性化の鍵となるのは,自由な議論を許すような組織文化(p.179)/たとえば情報が大切だということを,末端の人まで理解しているような風土は,容易には真似ができない,競争優位の第一の源泉になる(p.188)

 ただし,どのような事業システムを作り上げたとしても,その優位は永遠ではない。しかし,優位が比較的持続する,風化しにくい事業システムは存在する。そのような事業システムの特徴の一つとして,筆者は顧客の声をよく聞きながらも,それに迎合しないこと(p.210)を挙げている。具体的には,どのような顧客を満足させるかを選択し,顧客のどのような要求に応えるかを選択する(それ以外を無視する)ことである。はたして大学は,顧客(学生)の声を主体的に選択し,それに応える努力をしているのであろうか。このように本書は,非常に面白い(ことを考えさせてくれる)本であった。

 

■冬休みボケで大ピンチ
2001/01/10(水)

 昨日から授業も始まっているのに,心身ともに,なかなか仕事の態勢になってくれない。冬休み,食べすぎ飲みすぎ怠けすぎたせいだろうか。しかし昨日からさっそく,120人相手の授業。

 調子もイマイチだし,今日は授業はビデオ中心でいくか,とのんびり構えていた。ところが授業開始20分前,みせようと思っていたビデオテープがないことに気づいた。沖縄に来て10年弱,最大のピンチかも。気持ちばかりがあせるが,ビデオはいっこうに見つからない。教室まで歩いて5分,配布資料の印刷に10分。もう時間がない。

 休講にしようか,とも一瞬考えたが,それは学生に申し訳ない(すでに一度,風邪のため休講にしている)。ということで,急きょ,教える内容を変更することにした。本当は来週やろうと思っていた,ビデオなし口先一本勝負の講義。新年早々,内容の急きょ変更なんてやりたくない。しかも当初の予定よりもキツい方向への変更。しかし背に腹はかえられない。

 その日の授業がどうだったか,自分では客観的には分析できない。ともあれなんとか乗り切った,とも言えるし,メタメタだった,とも言える。授業後,いつもの倍ぐらい疲れたことだけは確かだ。こんなことをWeb日記に書いて,全国に恥をさらすことはないかもしれないが,今後の自分の戒めのために,記しておくことにした。

 

■『すぐれた意思決定−判断と選択の心理学−』(印南一路 1997 中央公論新社 \1,900)
2001/01/08(月)
〜意思決定論的クリシン本〜

 この本は,「意思決定」と銘打たれているが,内容はモロ批判的思考の本である。実際,全12章のうち,意思決定に特化された話は2章しかない。あとは,本書の大部分を占めているのは,「直観的意思決定のおとしあなとしての各種バイアス」の説明である。このあたりが批判的思考の本と考えられる所以。

 著者の基本的立場は,次のようなものである。

[問題の定義→選択肢の発見→判断基準の設定→効用を最大化する選択肢の選択]といった,伝統的な意思決定のフレームは,実際には使えない。世の中は,あいまいで情報が少なく,あるいは矛盾する情報だらけで,時には問題の定義すら容易ではない。選択肢は五月雨式に現実化するから,全ての選択肢を同時に比較検討して,最もよいものを選ぶというアプローチがとれるのは稀である。(p.17)
 と言っても,伝統的(規範的)意思決定理論が「マチガイ」だというわけではない。そのまま実現するには,あまりにも現実が理想状況とはかけ離れている,という話である。その障壁としては,世界の複雑性,情報の歪み,我々自身の認知能力の限界,同調圧力などがある。そのために,各種の問題(=バイアス)が生じ,合理的な判断が難しくなるのである。このあたりの伝統的理論の捉え方は,なんだか『文化の経済学』における新古典派経済学の評価に似ている。

 ではこれらを踏まえたうえで,どうしたら迅速かつ創造的な意思決定ができるか。それは一言で言うと,常にバイアスや同調圧力などに気を付け,判断状況を含めた記録をつけるなど,「意思決定の良い習慣」をつける(p.311)ことである。もう少しだけ詳しく言うと,

なるべく,問題を多角的に捉え,想像力と創造力を働かせ,多くの選択肢を生成し,それぞれの選択肢の将来の帰結をできる限り正確に予測して,合理的な決定ルールに基づいて選択するということ(p.295)
である。うーむ。きわめてクリシン的である。それと同時に,最初の言葉とはうらはらに,伝統的な意思決定のフレーム内におさまっている,という点は気になるところではあるが...

 ちなみに本書は,(批判的)思考の本としてみた場合,認知システムそのものの説明はあまり深くというか,概論書程度でありちょっと不満。しかし,各種バイアスの説明は,網羅的であり,またそれぞれに,適切な例がつけられていることが多いので,その点ではかなり良書である。

 あと,やはりこのような意思決定は,我々は苦手であり,理屈はわかっていてもなかなかそうはうまくいかない。それに関して,いくつか面白い提案があったので,下に抜書きしておく。

  • いろいろな可能性を想像すれば,不確実性を強く意識してしまうため,極端な場合には,行動を起こす意欲を無くしてしまう。想像によって促された不確実性を受け入れることを学ぶことが重要である。(p.264)
  • 発散が大きいということは,さまざまな意見が出され,意見の対立が生じるということである。意思決定の質を高めるためには,このようなスムーズでない意思決定プロセスの法が健全である,という認識を共有することがまず重要である。(p.296)
  • 集団内に誰か一人を「悪魔の弁護人」として指名し,この「悪魔の弁護人」は皆の意見に対して,ことごとく反対する役割を担う。筆者の実証研究によれば,この方法は意思決定の質を高め,かつスピードを早めることができる。(p.303)
このうち,うしろの2つは,集団における創造的(=発散的)な意思決定について述べられたものである。このように,個人にしても集団にしても,思考プロセスの前提として,不確実であり,かつスムーズでないものの方が健全であるという「認識」が重要のようである。この認識は,いわゆる「批判的思考態度」と同じものであろう。

 

■「そうそう」「おやまあ」「なるほど」の教育心理学
2001/01/06(土)

 先日の読書記録で,「分かりやすく面白くためになる」講義を形容するのに,読者に「そうそう」「おやまあ」「なるほど」と思わせるような,と書いた。実はこの言葉には出典がある。自分のための覚え書きもかねて,そのことについて記しつつ,私なりの補足を加えておこうと思う。

 この言葉は,何年前か忘れたが,たまたまラジオで聞いた言葉だ。NHKのインタビュー番組か何かで,話していたのは,気象庁に勤めており,天気予報の解説などをしている人だった。今でいうお天気キャスターだ。ただしオジサンだったが。

 確かその人は,「天気予報の中で気象について解説するとき,私は視聴者に「そうそう」「おやまあ」「なるほど」と思ってもらえるような話をするように心がけています」と言っていた。それ以上の詳しい話は覚えていないのだが,おそらく次のようなことだろうと思う。

 たとえば,「お天気をあらわすことわざとして,コレコレこんなものあありますね」(ソウソウ),「これは一見あまり科学的ではないように聞こえますが,実はそうでもないのです」(オヤマア),「というのは,コレコレこういうわけで,こういう現象が起きるのです。昔の人は,経験的にそのことに気づいていたのですね」(ナルホド)という具合である。

 この言葉,単純だけれども印象的だったので,なんとなく覚えていたが,考えてみれば,きわめて教育心理学的である。まずは「そうそう」。学習者の既有知識から出発するということである。それは,「有意味受容学習」においても出発点として重要視されていることである。守屋慶子先生も,『知識から理解へ』で既有知識から出発することの重要性を書かれている。

 次に「おやまあ」。教育心理学的には,「認知的葛藤」が学習を促進する,ということである。それは(たしか)『いじめられた知識からのメッセージ』で重視されていたことである。そして「なるほど」。論理的にも感覚的にも納得する,ということはもちろん,学習においては重要なことである。

 このように,「そうそう」「おやまあ」「なるほど」とは,教育心理学的に有効とされる(ひとつの)教育のあり方を簡潔に表した,ナカナカの表現だと思う次第である。

 

■『地震は妖怪 騙された学者たち』(島村英紀 2000 講談社+α新書 \780)
2001/01/04(木)
〜分かりやすく面白くためになる本〜

 地球物理学者である著者が,地震という「妖怪」との追いかけっこを描いた本。これは面白かった。面白いのは,地震という妖怪が一筋縄では捕らえられないからである。それは,難しい事件を追う探偵のような面白さであり,知恵比べの難しさである。この点について本書では,医学メタファーで次のように語られている。

いままでの地震予知研究は,病気でいえば,原因が分からずに病状だけを見ているようなものだった。これは医学でいえば「症例」が少ないこと,場所ごとに「症状」が違うこと,診断するための「透視」もむずかしく,事後の「解剖」も不可能なことのせいなのである。(p.19)
もちろん地球物理学者も,あの手この手で妖怪の尻尾を捕まえようとする。しかし捕まえたと思ったものが全然別物だったりする。その中で新たな事実が明らかになったり,新しい工夫がなされたり。そういう面白さである。

 それに加えて本書の面白さは,著者の語り口にある。それも,単に分かりやすいとか面白おかしい,というレベルではない。われわれがなんとなく知っている地震関連知識や用語の詳しい意味が説明され,間違いが正され,研究の現状やわかっていないことが示される。それだけでなく,身近なことがらとの関連も示される。そのような,知的好奇心を上手にくすぐる面白さであった。

 たとえば,阪神大震災後,『日本の活断層』という本が売れたそうだ。今わかっている活断層が全部描かれている本である。自分の住んでいるところが大丈夫かどうか知りたいのだ。そういえば私も,週刊誌でそのような地図を見たことがある。それに対して筆者は,

じつは一般の人が活断層の地図を見るにはいくつかの見方が必要なのだ。そのひとつは,活断層の地図に描いていないところには活断層がないというわけではないことだ。(p.33)
と警告する。というのは,今知られている活断層は,地表に見えているものだけなのだ。だから,多くの大都市が作られている平野部のように,地層が火山灰や土砂のような堆積層で覆われているところは,活断層があったとしても見えない。そのため,地図には描かれていない。阪神大震災も,このような,見えておりしたがって地図に載っている活断層が起こしたものではないことが分かっている。

 このように本書には,私程度の者でも知っているような地学の知識で十分理解でき,そしてそれが自身の理解にもつながるような話がたくさん載っている。この他にも,ハワイがいかに危ないところかについて,太平洋プレートの動きと関連させて説明されていたり,地震学者はマグニチュードを決めるたびに良心の痛みを感じつづけている(p.121)という表現で,マグニチュードが地震の規模の全ての側面を表す万能の数値ではないことが説明されていたりする。

 この本を読んで感じるのは,読者に「そうそう」「おやまあ」「なるほど」と思わせるような,巧みな話題選びと話の組み立てである。言ってみれば,分かりやすく面白くためになる,うまい講義を聴いているような本であった。

 

■新年雑記
2001/01/02(火)

 帰省している。その間のことを少々。

 年末は,薬学部で教官をしている友人一家と,忘年会と称して食事をしに行った。聞くにつけ,理系の仕事ぶりはすさまじい。院生時代は大学での寝泊りは当たり前。今でも,寝泊りはしないものの,夕方うちに帰って食事と子どもの世話をしたあと,また大学に戻って,12時過ぎまで仕事をするという。そんな生活がもう10年以上。体を壊すんじゃないのか,とひとごとながら心配になったりして。

 私の身の回りには,そんな仕事の仕方をする人は(自分も含めて)いない。ま,文系は豊富な生活体験とゆとりのある思考が必要なのだ,と自分を納得させたりして。

 帰省して一番困るのが,私の実家と妻の実家の違い。なんて書くと深刻な話のようだが,水道の蛇口の話だ。どちらも,ひねるタイプではなくレバーを上下させる蛇口なのだが,その方向が逆なのだ。私の実家の水道は,下に押し下げると水が出る。それに対して妻の実家では,上に押し上げると水が出るのである。よく間違えて,水を止めるつもりで蛇口を全開にしてしまう。

 しょうがないから,別々のイメージを対応させるようにしている。私の実家では,ポンプを押して水を出すイメージ,妻の実家では,ふたを押し上げるようなイメージをすることで対処している。とはいっても,必ず1日に1回は間違えるんだけれども。

 気のせいかもしれないが,里帰りの間に,子どもは必ず進歩を見せるような気がする。今回も,下の娘(0歳3ヶ月)が大きな進歩を見せた。まず,帰省前はおっぱいしか受け付けず,哺乳瓶授乳ができなかった。それが,妻のお母さんがまずりんごの果汁をなめさせることに成功してから,メロンに挑戦し,ついには哺乳瓶からも飲んでくれるようになった。ちょうどおっぱいの出が悪くなってきたところだったのでよかった。逆に言うと,これまでは私が楽していたのが,もうそういうわけにはいかなくなったともいえるのだが。

 あと,どうやら寝返りもできそうな気配だ。上の娘のときは3ヶ月ごろから,まだかまだかと毎日待っていたのだが,下の子の方は,ついついやんちゃな上の娘(2歳6ヶ月)に気をとられて,下の娘はほったらかしがちになってしまう。それだけに,寝返りができたときの喜びは大きかった。笑顔もだいぶ出るようになったし,これからがますます楽しみである。

 


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