| 31日短評7冊 30日『人生を観る』 28日『人はなぜ誤るのか』 24日『日本史討論授業のすすめ方』 20日『考える脳・考えない脳』 16日『服従の心理』 |
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| 26日サイバーな幼児 22日センター試験のない週末 18日2歳児に十余の質問 |
■1月の読書生活 |
2001/01/31(水)
今日は出張のため,早朝更新。飛行機の中でも読書すると思うが(そして,移動中に1冊ぐらいは読めると思うが),それは来月分にまわすことにする。まあ,1月は31日,2月は28日なので,バランスがとれて(?)いいのではないか,と思う。 今月面白かったのは,『日本史討論授業のすすめ方』,『考える脳・考えない脳』,『服従の心理』の3冊だった。『人生を観る』も,もっと知識が増え自分の思考が深まってから読むと,きっと面白いに違いないとは思うけど。今月他に読んだのは,以下の7冊。
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■『人生を観る−今一つの心理学−』(石原岩太郎 1993 信山社 \3,495) |
2001/01/30(火)
〜夜の心理学から昼の心理学へ〜#今年から,大の月の30日も,適当な本があれば読書記録を更新してみようかと思っている。 昨年の日本心理学会のシンポジウムで,名大の斎藤先生が紹介されていた本。(科学的)心理学が,私の心の足しになっていない,と感じはじめた(p.v)ことから,それ以外の(今一つの)心理学について,石原氏が考えたことがまとめられている。といっても,きちんとした理論構築がされているわけではなく,どちらかというと随想に近く,しかも後半は,かなり宗教色が強くなってはいるが。ちなみにサブタイトルの意味は,「現在の心理学は,いまひとつやなー」だそうだ...というのは,シンポジウムでの斎藤先生のジョークだが。 それはさておき,現在の心理学が足しにならない理由の一つとして,心理学が, <日麗に花薫り蝶舞う春の牧場>をそのままに眺めるような,<ありのままが真である昼の見方>ではなくて,<色もなく音もなき自然科学的な夜の見方>(p.19)を採用していることがあげられる(上記引用はフェヒナーの言葉)。つまり本書で提唱されているのは,「自然科学的=夜の見方=二元論的」でない心理学である。感覚に関して言うと,従来の心理学では,感覚を客観的に測定し,科学の俎上に載せるために,感覚の「弁別機能」ばかりを重視してきた。それは一定の成功をおさめたわけだが,そこで抜け落ちてしまったものがある。それが「昼の見方」である感覚の「印象機能」である。それをもっと大切にすべきではないか,と著者は言う(p.22)。 感覚の印象機能とは何かというと,実は私にはよく分かっていないのだが,本書中から関係ありそうな記述を拾い集めるとどうやら,刺激を「意識化」することである(p.6)。あるいは,刺激を「現実感をもって」感じ覚えることである(p.26-27)。あるいは,「自己と物が一致」することである(p.11)。ちなみにこれは,西田哲学からの引用である。「花を見たときは即ち自己が花となっているのである」と表現されている。あるいは,(ものではなく)「こと」としての認識であり,「自我が関与しての認識」である(p.29)。「主体と客体に分かれる前」の状態であり(p.58),物の心を,「内側からつかむ」ことである(p.45: 本居宣長の<物のあはれ>)。まとめるとどうやら,感覚の印象機能とは,意識と関係しており,客観的には捉えられないものであり,東洋思想とかなり親和性の高いものであるらしい。 面白いのは,このように,従来的な二元論から脱しようとすると,その発想が,きわめてギブソニアン的なものになっていることである。たとえば本書には,次のような記述が散見される。 それはまた,仏教をはじめとする東洋思想につながっていくのであるが,それに関する論評は,とても私にはできそうにないので,ここでは特に行わない。今後,そちら方面も勉強する必要がありそうだ。 あと,科学に対して,次のような指摘がなされており,なかなか納得がいくものであった。 近代科学の客観性なるものは,実は遠近法と同じく一視点を固執することにおいて成立したと言ってよいように思われる。私がいま立っている此処にたってみなさい。私と同じように見えるでしょうというのが,いわゆる客観性なのである。(p.166)科学において次に革命がおきるとしたら,多視点的・生態学的・主客合一的・東洋思想的なものになるのであろうか。皆目見当がつかないことではあるけれども。
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■『人はなぜ誤るのか−ヒューマン・エラーの光と影−』(海保博之 1999 福村出版 \1800) |
2001/01/28(日)
〜誤りを通してクリシンする〜サブタイトルどおり,ヒューマン・エラーの光と影に関する認知心理学的な概説書。さらさらと読める。 「光」の部分の基本的発想は,「人間は誤るものなり」,すなわち, 誤りにも,何かもっと積極的な意味あいが存在するのではないか(p.3)というもの。たとえば,外国語の腕を上げる方法として,どんどん使って積極的に間違う,というやり方がある。これは「誤りこそ教師」(p.31),あるいは「誤りが正解を際立たせる」(p.73)という,誤ることのプラス面である。そのような例から本書では,誤っていいところでも,誤れない,誤りを許せないというのはおかしい(p.46)と主張する。誤りから学ぶことができるのであれば(そしてその誤りにあまり実害がないのであれば),誤りは許容されるべきだ,その方がのびのびと創造的になれるのだから,ということのようである。 このような発想の根本は,批判的思考の発想と同根であると思われる。そのことがわかる記述としては,次のようなものがある。
後半は一転して,誤りの「影」の部分。ここでの基本的発想は,ヒューマン・エラーはむやみに避けるのではなく,コントロールできればいい,というもの。というより,エラーは避けられるものではない。本書ではエラーを,ミステイク(思い込みエラー)とスリップ(うっかりミス)に分類しているが,「思い込みエラー」は,自力での脱出は基本的には無理(p.153)であるし,「うっかりミス」はモニタリング不全(気をつけ損なうこと)から生じるが,人の認知系には,時間的にも容量的にも厳しい制約があるので,モニタリング不全が不可避的に発生する(p.159)からである。 そうならないためにはどうすればいいかというと,結局「自己モンタリング力をつける」(第7章)しかないようである。具体的には,外部目標を吟味する,とか,関連知識を増やす,外に出してみる,などの処方が書かれている。ただし,自己モニタリングは,本質的に精神論vである(p.182)という指摘があり,面白い。著者はそこから,自己モニタリングだけではなく,事故防止につながるような機械,環境,組織の設計(フェイル・ストップ,フェイル・トレランス,フール・プルーフなど)も大事であるという。 本書で述べられている,「いかにエラーを排除するか」ということと,「いかに誤りを活かすか」ということは,ポパーの可謬主義と同じであるし,また,批判的に思考するためも,重要なポイントだ。
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■サイバーな幼児 |
2001/01/26(金)
うちの娘(2歳7ヶ月)は,1日1回はパソコンの前に座って,何やらカチャカチャしている。 ことの始まりは去年の11月(2歳5ヶ月)。私や妻がパソコンの前に座っていると,娘がキー(特にエスケープキー)にやたら触りたがるようになった。それで,娘を喜ばせようと思い,おかあさんと一緒やアンパンマンのページを開いてやった。確かに大喜びした。そしてそのうち,自分でマウスを操作したがるようになった。 それで,キャッシュに残っているアンパンマンの仲間たちのページをみせてみたところ,そのうちに要領を覚え,「リンクをクリック→戻る」を繰り返して,いろいろな仲間たちを,一人で見ることができるようになった。動作はかなりぎこちないけれども。しめしめ,娘のお守りをパソコンがしてくれる。そう思っていた。 ところが最近。 ふと気づくと,デスクトップに見知らぬショートカットができている。それに,ランチャー内のアイコンの並びが変だ。うちで使っているランチャーは,ドラッグ&ドロップで簡単に登録/移動できるタイプのものだ。どうやら,娘はいつのまにやら,ドラッグ&ドロップができるようになったらしい。 その上。 エディタなどで文章を書いていると,娘がやってきて,ウィンドウの右上にある「閉じる」ボタン(×)を押してしまう。このボタン,ブラウザの「戻る」に比べてはるかに小さい。ほんの2ヶ月前までは,「戻る」ボタンを押すのに四苦八苦していたのに,いつのまにやら,こんなピンポイント攻撃もできるようになるなんて。親ばかとしては,感慨半分もあるが,知らない間にファイルを捨てられたりしないかという困惑も半分。 そうならないためにも,そのうち,コイツ専用に安いパソコン買ってやってもいいかな〜なんて思ったりしている。しょせん,親ばかは親ばかということだ。私の物欲も満たされるし。あと,もうちょっと安全かつ便利な(かつ高くない)ランチャーはないかなー。
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■『日本史討論授業のすすめ方』(加藤公明 2000 日本書籍 \2,000) |
2001/01/24(水)
〜討論授業の手の内公開〜筆者が公立高校で実践している,討論授業のノウハウを公開した本。実践報告は『考える日本史授業』『考える日本史授業2』という別の本があるが,本書は,問題提起の仕方,教材の選定,意見の作らせ方,討論を組織するやり方など,討論授業の根幹に関わるポイントから,知ってて便利な小技としての指示の仕方までが書かれている。 このような授業を展開する著者の目的は次の通り。 各時代の構造,社会,文化などの特性や歴史学による時代研究のあり方の特徴などに着目して,生徒が自らその時代の歴史像を,主体性を発揮しつつ討論など集団的な検討を経ながら獲得・発展させていき,歴史認識の主体として成長していく。そのための授業を試みているのである。(p.205)具体的な授業としてはたとえば,地元の貝塚で,解体されていない犬の完全遺体が発掘されている。その写真を提示して,「なぜ犬だけが,このように死んだままの完全な遺体で出土したのか?」というように問いかける。なおこの発問は私が要約しており,正確な文言ではない。発問の仕方が違うと,授業の効果がなくなってしまう,という点については,本書第1章をご参照ください(正確な文言は,p.15)。そこで出てきた複数の意見をもとに討論を組織し,最後にどの説がもっとも優れているか,投票する。それを通して,縄文時代の社会を自分たちで考える。そのような授業である。 ただし,投票結果をもって討論の最終的な決着をつけるわけではない(p.141)。また,授業中,教師は生徒が自分の意見を作る最中に机間巡視してアドバイスするが,その際にも,次のような点に留意する必要がある。(次のものは,生徒が自分の意見を作る最中のアドバイスに関して) 生徒が自説を作成している最中に行うアドバイスは,あくまでも生徒それぞれの探究,思考を活かし,それをより説として発展させるためのもので,いわば触媒に徹する内容でなければならない。教師が考える「正解」を生徒に教えるものであってはならないし,生徒の発想の核にあたるようなオリジナルな部分を,教師が批判したり否定してはならない。そのような吟味・点検は次の討論の段階で生徒たち自身が行うべきものだからである。(p.35)これは討論中も同じで,教師は,ひたすら司会の任に徹し,争点の明確化に努める。では教師の教師としての役目はないのかというとそうではなく,問題設定や教材選択のほかにも,あらかじめ生徒の意見を把握しておき,そのときの争点を解明する方向性を持つ意見の発言を促すことは必要である(p.136)。そのような配慮は,随所で丁寧になされている。 このような授業を通して生徒は,自分の知識や生活経験,ものの感じ方・考え方に沿った歴史認識を獲得していく。そのへんは,『知識から理解へ』における守屋先生のねらいと同じである。というよりも,実際に討論を組織している分,筆者の授業の方がより高度とも言える。そのような高度な授業を成功させている要因として,上記のような教師の配慮や課題の選定のほかに,各種小道具(討論発表用紙,討論採点メモ用紙,批判質問一覧,最終アンケート用紙,授業ノート,日本史通信など)がある。こういうものなしに,白紙の状態から討論をはじめようとすると,そうとう大変だろうと思う。 基本的には本書の授業はすばらしいの一言なのだが,一つだけ疑問に思った点があった。それは,沖縄戦でなぜ「集団自決」と呼ばれる悲劇が起きたのかを体験者の手記などを教材に問題提起している(p.142)授業である。毎年どのクラスでも,真剣で活発な討論が展開されるそうだ。代表的な意見として,住民が自主的に自決したとする説と,日本軍がそうするように仕向けたという日本軍誘導説の2つが取り上げられ,それをめぐって生徒は,自分なりに資料を集め,考えをつくり,討論する。 ここで疑問なのは,答えはこの2つのうちのどちら一方(一つだけ)なのか,という点と,なぜ自決したかという理由が,資料や討論を通して明らかにできるのか,という点である。とくに後者に関しては,実際には,生徒はかなり自分の主観を持ち込んで説を作っている。たとえば,(沖縄は,日本や中国に振り回されてきた,という歴史を持つので)もうアメリカにも日本にもふりまわされたくないという想いもあっただろうとか,それならばアメリカでも日本でもなく,自分達の手で最後の時を迎えたいと思ったのだろう(p.149)という推測を行っている。 しかし,1995年に沖縄で行われた県民投票を見ても,県民の意識が一枚岩ではないことは明らかである。それに,心理学者ミルグラムによるアイヒマン実験を見ても明らかなように,極限状態における心理は,平常状態のわれわれの想像を絶する部分がある。これらから考えると,資料と討論と自分の感覚を元に,「なぜ集団自決したのか」というような,戦争時の人の心理を推し量るようなテーマは,ややもすると,自分の判断基準の中だけで分かったつもりになるような,平板な人間理解に陥る危険性があるのではないかと思う。それに対してどのようなフォローがあったかは不明なのだが。 この点は,沖縄の問題ということで,私にとっては気づきやすかった問題だが,ほかのテーマでも同様の問題は生じているかもしれない。逆に,そのような問題が生じにくいテーマもあるに違いないが,これらは私の力量ではわからなかった。このような危険性はあるものの,高校の歴史の授業としては(いや,大学の授業だと考えても),かなり高度で,生徒の思考力を養うのには,有効な方法であると思った。 #追記:愚一記(2001/01/24)にて,次のような情報あり。 歴史のディベート授業というのも両極端あるので注意が必要だが、この方の実践は歴史教育界での現在の到達点&今後の方向を示すものと思う。一部で批判があるようだが、それにも見事に応えられている。
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■センター試験のない週末 |
2001/01/22(月)
大学教官になってじゅうすうねん。はじめてセンター試験(共通一次)業務から,2日とも解放された。で,何をしていたかと言うと... 20日: 朝。ゴミ出しついでに,上の娘(2歳7ヶ月)と近くの公園へ。昼。家族みんなで外食後,ダイエー(ハイパーマート)へ。妻が買い物している間は,上の娘につきあって「よい子の広場」でボーっとすごす。しまった。本でも持ってくればよかった。 帰り道。ひさびさのポカポカ陽気だったので,ふと思いついて,北中城の井恵樹屋(いえきや)へ。ここはぜんざい屋(氷ぜんざい)だが,沖縄本島中部地方一ウマいと思う。金時豆は適度な甘さ。白玉は結構入ってるし,氷は綿菓子のようにふわふわしている。ヨソではまず味わえない食感だ。そのうえ,氷のふわふわ感を生かすためか,たとえばミルクぜんざいでは,練乳などではなくパウダーがかけられている。コーヒーぜんざいもココア味のぜんざいも同じ。そのせいか,あまり冷たく感じない。本当に綿菓子気分だ。冬にこんなものが食べられてシアワセ。 21日: 朝。下の娘(4ヶ月)の,3〜4ヶ月健診で,近くの保険相談センターへ。異様に人が多い。2年前,上の娘のときはそれほどでもなかったのに。来ているのは,2000年秋に生まれた子どもたちだ。ミレニアムベビー狙いで増えているのだろうか? 昼。うちで食事(沖縄そば)を取って,午後はずっとゴロゴロ。平日の寝不足を解消するのだ。あと,昨日氷ぜんざいなんか食べたせいか,ちょっと風邪気味でもあったし。それなりに本は読めたけど。 ...とまぁ,かなり有意義に過ごすことができた。でもきっと来年は,センター試験にかりだされるんだろうな。
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■『考える脳・考えない脳』(信原幸弘 2000 講談社現代新書 \660) |
2001/01/20(土)
〜心=脳+身体+環境〜心の哲学を専攻する筆者による,心の働きと脳の働きとの関係に関する論考。大学1・2年生向けの授業が元となっており,平易ではあるがおもしろい。 本書の中心テーマは,心のモデルとして,古典的計算主義とコネクショニズムのどちらが有力か,という問題の比較検討である。結論としては,意識的な過程が古典的計算主義のメカニズムにもとづく過程であるのにたいし,無意識的な過程は,コネクショニズムのメカニズムにもとづく過程なのではないか(p.120),ということのようである。このあたりの話は,技能の習熟や直観などの例を元に,説得的に展開される。そして最終的には, 心を脳と身体と環境からなるひとつの大きなシステムとして捉え,そのサブシステムである脳はコネクショニストシステムであり,また古典的計算主義システムのほうは主として環境に足場をおくサブシステム(p.172)という見方が打ち出される。脳自体は,構文論的構造を欠いた,ニューロン群の興奮パターンの変形装置(p.205)にすぎないのだ。 ここでいう「環境に足場をおく古典的計算主義システム」に基づく心の働きとは,主に「思考」である。思考とは筆者によれば,発話や筆記のような,環境のなかに作り出される表象(外的表象)を操作することによって行われる活動である(p.203)。この場合,外言や筆算のような明白な外的活動だけではなく,内言や暗算も,同様に外的表象にもとづく活動と考える。つまり,発話や内語を行うことが考えることなのである(p.201)。思考は脳内で完結する活動ではないのである。 ただし,ここらの考え方は,思考をどう定義するかによって異なってくる。 「思考」という言葉が構文論的構造をもつ表象の操作に限定されるなら,脳は考えません。脳は身体をつうじて,外部の環境のなかにそのような思考を産み出す働きをするだけです。(p.206)と筆者は断言する。ここで言う「構文論的構造をもつ表象の操作」とは,いわゆる記号操作のことであり,上でいう「古典的計算主義システム」のことである。逆に言うなら,思考をこれだけに限定せず,コネクショニズム的な表象の操作をも意味すると考えるなら,「脳も考える」と言える。 このような,外的表象と同じような考え方は,これまでにも目にしたことがある。たとえば,『仕事の中での学習』に出てくる,「書くという作業は,そのつど,局所的に組織化されている,即興的で革新的なものである」という主張も,人間の認知活動が,外界との相互作用によって生み出されるものであることを言っており,基本的に本書の考えと同根であろう。もっとも,状況論者なら,頭の外とか中とは言わずに,「個人の境界はその都度,用いる道具や行為系との関係で動く」(上野, 1996.06 『月刊言語』)と言うだろうが。 そのせいもあって,このような著者の主張はよく理解できる。しかし思考をどう考えるかは,結局のところ,上述のように思考の定義によって変わってくる。では認知心理学者は,思考をどのように捉えているであろうか。 認知心理学者は,特定の課題に対する被験者の反応の中に,被験者の思考が現れると考えているはずである。つまり,著者のように「思考=構文論的構造をもつ表象の操作」に限定はしていない。実際,エバンズの本(これとかこれ)に出てくる,2種類の合理性とか,2段階の推理過程はおそらく,上述のコネクショニズム的過程と古典的計算主義過程に対応するものであろう。このことと本書の内容から言えることは,認知心理学者は,環境を考慮に入れつつ,「考える脳」も「考えない脳」も研究対象としているし,そうする必要がある,ということであろう。 #...ということを「考える」ことができたのも,本書を読んだだけでなく,書くことによって外的表象を作った(=読書記録を書いた)からなわけね。 #讀賣BOOK STANDに書評あり。
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■2歳児に十余の質問 |
2001/01/18(木)
妻が,上の娘(2歳7ヶ月)に,発達検査を行った(日本版デンバー式発達スクリーニング検査)。以下は,そのうちの問答部分である。(カッコ内は,私のつぶやき,コメント,補足説明)
うちの上の娘は,結構言葉が早いようで,いろいろしゃべるし,日常的には,それほどコミュニケーションに困難を感じない。でも,こういう質問だと,やっぱり難しいらしい。というか,これって,コミュニケーション能力を測定しているわけではないのかも。 あと,妻の質問にも,多少不備が感じられるような。しかし,このとき妻は,4ヶ月児をダッコしつつ,ビデオをまわしながら検査している。多少の不備は,しょうがないか。と,一応フォローしておいたりして。
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■『服従の心理−アイヒマン実験−(改訂版新装)』(スタンレ−・ミルグラム 1974/1995 河出書房新社 \3,107) |
2001/01/16(火)
〜悪の平凡さ〜ミルグラムの有名な「アイヒマン実験」の詳細を記した本。簡単に言うと,人がいかに権威に服従しやすいかを明らかにした実験だ。私の授業では,実験の結果について学生に考えさせたいので,ここでは実験の詳細は触れない(ので,アイヒマン実験を知らない人は,以下の記述を読んでも,あまりピンとこないかもしれないが悪しからず)。この実験を通してミルグラムは, 個人の道徳感覚が及ぼす力は,社会的神話にもとづいてわれわれが信じているほどには効力がない(p.23)ことを鮮やかに示す。 この実験は,たいていの教科書や概論書には1種類しか書かれていないが,実は19コの実験があることが,本書からわかった。そういえば,教科書などに載っている代表的な実験は,比較対照群がないので,私はこの実験,一種のデモンストレーション実験かと思っていた。しかし,それはマチガイであった。ラタネたちの『冷淡な傍観者』も同じだが,少しずつ条件を変えた実験を積み重ねることで,非常に巧みに他の解釈可能性を消去しつつ,人間の本質に迫っている(詳細は後述)。 さらにラタネたちの場合は,実験室実験(10コ)に加えて,街中でフィールド実験を行っていたが,ミルグラムの場合は,被験者の行動観察を詳細に行っていたり,実験終了後に面接をしたり,被験者と議論をすることによって,数字だけではわからない側面も明らかにしている。どちらの研究も,綿密かつ多面的に計画された,非常によくできた研究であると思う。 アイヒマン実験では,被験者は「権威の命令に服従」して,他人に高い電気ショックを与えた。しかしこれは「服従」ではなく,被験者がもともとサディストであったとか,人間が本能的にもつ破壊傾向が踊りだしたからだ,という説明も可能である。つまり,そうしたかったからしたのかもしれない。しかし,命令ではなく被験者自身がショック水準を選択できる実験を行うと(実験11),与えられるショック水準はずっと低下した。また,「権威」に服従したのではなく命令の内容に従っただけだという可能性もある。しかし命令者を,研究者という権威者ではなく,ただの人(実はサクラ)にすると,やはりショック水準が低下する(実験13)ことから,この可能性も排除される。 人が権威に服従したときに起きていることは,「道徳心の消滅」ではない。被験者は,権威に命じられた行為の内容については責任を感じなくなっているが,権威に対しては責任を感じ(p.193)ており,実験に誠心誠意,最善を尽くし(p.71)ている。あるいは,手順に夢中になり,作業を正確にこなそうとすることによって,有能な仕事ぶりを示そうと(p.24)している。もちろんこれは人によって差があるし,同時に葛藤を感じている人も多いのだが。 ここで浮き彫りにされるのは,「悪の平凡さ」(p.22)である。それは,安定した社会組織をつくることによって生存してきた人間に,必然的に備わった機能である,と,著者たちは進化心理学的に考察している。これは,自然がわれわれ人間を設計したときの致命的なミス(p.244)と筆者は解釈しているが,果たしてそう言い切ってしまっていいのだろうか。ミスではないとしても何と考えればいいのか,具体的な案は私は持ち合わせていないが,この実験から明らかになった人間の特質は,その短所も長所も含めて,もっと慎重に捉えられるべきではないだろうか,という感想をもった。
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