読書と日々の記録2001.02上
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■読書記録: 12日『現代倫理学の冒険』 8日『メディア論』 4日『大学の授業を変える16章』
■日々記録: 15日教科書と授業の関係 10日授業評価 5日アンパンマンパソコン 1日日帰り出張

 

■教科書と授業の関係
2001/02/15(木)

 最近はあまり悩まなくなったが,以前から,授業に使うのにどんな教科書がいいのか,分からなかった。あまり詳しい教科書だと,授業で話すことがなくなるし,あまり簡素な教科書だと,結局,別に資料を用意しないといけないし。

 先ほど期末試験の監督をしながら,これに対する一つの答えを思いついた。ほんとに「思いつき」のレベルだけど。

 まず,教科書的な本には,大きく2種類あると思う。教科書的な本とはつまり,一般書と専門書の間をつなぐような本のことだ。2種類とは,「網羅的な本」と「物語重視の本」。これらはある程度までは両立も可能だろうから,教科書には,2つの評価軸があると言ってもいいかもしれない。しかし多くの場合は,網羅性を重視すると物語性が相対的に減少するし,物語性を重視すると網羅性が欠けるだろうから,大きくはこの2種類に大別できるのではないだろうか。ま,典型的な教科書は網羅性を第一に置いているだろうけど。

 こう考えると,「授業に使うのにどんな教科書がいいのか」という問いが不適切であることが分かる。というか単一の答えはない。むしろ,「授業と教科書をどのように組み合わせるか」あるいは「ある特徴をもった教科書は,授業でどのように扱うのがいいのか」という問いのほうがよさそうである。つまり簡単に言うと,「教科書と違うスタイルの授業を組み合わせるのがいい」のではないだろうか。

 網羅的な教科書からは,そこに物語性が見出せるような授業がいいだろう(その場合は,論理的な物語の方が望ましい)。逆に物語的な教科書であれば,そこに網羅性というか体系性をもたせることが授業で必要になってくる。物語的な教科書というのはあまりないだろうけども,ちょっと専門色の強い一般書を授業で教科書として使う場合は,こうする必要があるだろう。

 ちなみに,単に本として読む場合には,網羅的な本は読みにくい。辞書としては使えるだろうけども,そこで書かれていることの意味を自分のものにすることができないので。もちろん物語性の強い本では,分かったつもりになったはいいけど,全体像が把握できてなかったりすることがあったり,あるいは,安易なストーリー的理解に陥っている危険性もあるのだけれど。

 #...ということを試験監督中に考えることができたのは,微妙な位置にある本を監督中に読んでいたから(^^ゞ。この授業は,人数は少ないし,みんなイイ子たちばかりだから,カンニングの心配がないと思ったので...

 

■『現代倫理学の冒険−社会理論のネットワーキングへ−』(川本隆史 1995 創文社 ISBN: 4423730731 \3,500)
2001/02/12(月)
(昨日はベイスターズ
キャンプ見学)

 倫理学というと何となく,人はいかに生きるべきかとか不倫はなぜ不道徳なのか,みたいな,よく言えば原理的な,悪く言えばちょっと現実から遊離した問題を扱っているかと思っていた(たとえばこんな)。しかし本書で扱われている現代倫理学,あるいは応用倫理学はちょっと違うようである。本書で言う現代倫理学とは,

「人間に関わるなにごとも,私にとって無縁ではない」との姿勢を崩さずに,しかも専門分化した社会科学の業界の慣行に逆らいながら,<現代をどう生きるか>を問い続けていく営み(p.iv)
である。単に倫理の原理を探求するのではなく,現代的な課題にできるだけストレートに答えようとする,実践的な分野のことだ(p.100)。扱われる問題は,ヘアヌード写真の法的規制の是非から,鯨は食べてよいかという問題まで多種多様(p.108)(これらは本書では出てこないが)。正直言って,半分も理解したとは言いがたいが,しかし,このような倫理学が,今後の私にとって必要なものかもしれない,と思わせられた本であった。

 もう少し具体的に言うと,(1)平等と差別,(2)経済倫理,(3)戦争と平和,(4)生命倫理,(5)環境倫理(p.108)が主要トピックのようである。経済倫理というと,『文化の経済学』で扱われていた問題は経済倫理だということができるし,『社会的ジレンマ』に出てきたような「公共財のただ乗り」の問題もそうである。また,『合議の知を求めて』に出てきたような,民主主義の問題点も,倫理学の守備範囲である(民主主義のパラドックス:民主的な決定手続きが備えるべきすべての要請を同時に満足することはできないこと。p.123)。素人考えだが,結局これらの問題は,功利主義(的人間観)の問題であり,旧来的な合理性の問題なのではないだろうか。この点については本書でも,狭隘な「合理性」概念を克服し,コミットメントを行動の基礎に含めた新しい人間観を提出することはきわめて重要な課題(p.83)と述べられている。

 また,本書ではギリガンの「世話の倫理」について書かれている。そこには,「道徳の問題の解決には,形式的で抽象的な思考よりも,むしろ文脈的=情況を踏まえた物語的な思考様式が要求される」というギリガンの言葉が紹介されている。また,ギリガンの言うような「もう一つの声」のことを,民衆的知=ローカルで不連続的で科学としての資格を剥奪された非論理的な知(p.208)として,科学的な知に対抗するものとして扱っている。案外,このあたりに現在の(自然)科学の限界を乗り越えるヒントが隠されているのかもしれない,などと考えてみたりした。

 

■授業評価
2001/02/10(土)

 木曜日に,教育学部の専門科目「思考の技法」が最後の授業だったので,授業評価を実施した。実施結果をまとめたものはこちら昨年は,評価結果について,いろいろと考えたことを日記に書いたが,今年はちょっと変えて,授業評価について考えてみたい。

 授業評価アンケートの方式や内容は,基本的には各学部で決めることになっている。しかし,ほとんどの学部が,共通教育で使われている授業評価項目と同じものを使っている。

 しかし答えさせ方に違いがある。共通教育では5件法で,マークシートを使って評価させている。しかし教育学部では,数字による評価はなく,各質問項目の下に,2〜3行程度書けるような自由記述欄が設けられている。おそらく教育学部では,単純に数字を聞くよりも,学生の生の意見を聞いた方が,授業改善に役に立つ,と考えたのであろう。

 教養部から教育学部に配置換えになって3年。これまで,この授業評価アンケート用紙を,何も考えずに使っていたが,よく考えてみると,ここには不一致がある。すなわち,質問項目のほうは,はい/いいえ(正確に言うと,そう思う〜そう思わない)で答えることを想定した質問になっている(教員の説明はわかりやすかったか,など)。それに対して答えは自由記述。これでは自然と「はい」「いいえ」的な答えになってしまう。実際,何割かはそのような回答になっている。

 もちろん中には,単なるyes/noだけではなく,それなりに理由や補足説明をつけてくれていることある。授業評価結果をまとめるにあたっては,結果的に,そのような学生の意見が中心になってしまう。しかしそのような学生の意見が,代表的な意見かどうかはわからない。

 この問題点を避けるためには,「自由記述」という点を重視するのであれば,質問は,もっとオープンな(yes/noで答えられない)質問にするべきではないだろうか。「教員の説明のよかった点や悪かった点はどのようなところか?」のような。あと,必修ではない授業であれば,「この授業はどんな学生に薦められる/薦められないか?」なんて質問もいいかもしれない。それはそのまま,次年度のシラバスに使うことができる。

 結論としては,このような点を考慮するためには,お仕着せの評価用紙ではなく,各教員が,自分の状況や知りたいことにあわせて,授業評価をカスタマイズするほうがいいのではないか,と思われる。

 

■『メディア論』(吉見俊哉・水越伸 1997 放送大学教育振興会 ISBN: 4595534566 \2,400)
2001/02/08(木)
通勤途中の桜が綺麗
〜社会がメディアを創造する〜

 放送大学の印刷教材。メディア論というと,技術論的な話が中心になったりして,技術が社会を引っ張っていくようなイメージがあるが,本書はそうではなく,社会的なプロセスの中でメディアが構成され発展し意味づけられてくることを,歴史社会的な視点から描き出している。このような本書の立場を如実に表した言葉として,次のようなものがある。

メディアとは外から与えられるものではなく,私たち自身が日常的な実践のなかで創造していくものである。(p.221)
 「外」とは,発明家や技術者のことであろう。平たく言うと,メディアが社会を変えるというよりも,社会によってメディアの「意味」が変わってくる,ということである。その意味でメディアは,透明で中立的なコミュニケーションの媒体というわけではない(p.24)。

 たとえば映画。映画の発明家たちが目指していたのは,動く写真であり,ブルジョア向けの家庭アルバム的な用途であった(p.104)。しかし実際には,露天興行師が見世物として使い始め,労働者階級のための「日常からの解放」のメディアとなってき,現在にいたっている。

 あるいは電話。電話も最初は,電信(モールス信号)と同じく,用件を伝えるためのメディアであったり,あるいは,有線ラジオ的な使われ方もしていた。現在のような,1対1のパーソナルな,「おしゃべり」用の社交メディアとなったのは,1920年代,大衆消費社会の出現という社会の変化に対応している(p.91)。

 あるいは無線。第1次世界大戦後に大量に現れたアマチュア無線家の少年たちは,このニューメディアが新しい民主主義社会をもたらす道具となるのではないかと,期待に胸を膨らませていた(p.120)そうだ。しかし現実には,送信機能を剥ぎ取られた受信機能のみの無線機(=ラジオ)という形で,大衆消費社会の中の一大産業となっていく(p.122)。筆者も示唆していることだが,無線の黎明期と,現代におけるインターネットの状況は似ている。これが今後,どのようなメディアとなっていくかは,単なる技術だけの問題ではなく,これからの社会のなかで「創造」されていくものなのであろう。

 最後の方にホンの少しであるが,メディア・リテラシーについても触れられていた。本書ではメディア・リテラシーに見られる批判的な受け手,あるいはメディア表現者という人間像(p.279)は,メディアの状況の変化によって生まれた,新しい人間像の一つという位置づけであった。社会が創造したメディアによって創造された人間像,というわけだ。

 なるほど,このような人間像は,確かに新しいと言える。それは,単に今までなかった,というだけではない。これまでの社会とメディアの関係は,人間が創造するとは言っても,大衆消費社会など,社会の大きな流れの中に飲み込まれる形での方向づけであった。しかし,メディアリテラシーを身につけ実践するということは,もっと能動的にメディアと関わり,ひいては社会のあり方をも変える可能性がある。そういう意味では,これまでにない,新しい展開がメディアの世界(そして社会)に生まれるのではないか,と期待させてくれるものがあるような気がする。

 #Sociusにメディア論の概説あり。

 

■アンパンマンパソコン
2001/02/05(月)

 上の娘(2歳7ヶ月)のサイバーぶりが加速してきた。

 まずは,Windowsを(きちんと)終了させることも起動させることもできるようになった。これは,まあ,でたらめに終了されるよりはましだが,しかしたとえば,仕事部屋のノートからデスクトップ機のファイルにアクセスしているときに,デスクトップを終了されたりしては困る。あと,今仕事部屋には,ノートパソコンが2台あるのだが,私がそのうちの1台で仕事をはじめると,娘はもう一台を当然のように起動して,カチャカチャやっている。もはや,そのノートは自分のものだと思っている節がある。

 しかし一番怖いのは,ファイラーをいじられること。ファイルをリネームしようとしたり,移動しようとした現場を押さえたことはある。ひょっとしたら,私が気づかないうちに,もうすでにリネームだの移動だのしているかもしれない。そういう可能性は,ないとは言い切れない。

 そう考えると怖くなってきたので,昨日急に思い立って,幼児用パソコンを買うことにした。まずは,自分の子どものクリスマスプレゼントに,キッズパソコンを買ったという知人に電話で話を聞き,それを手がかりに,インターネットで簡単に調べて,トイザラスに向かった。

 キッズパソコンには,どうやらいろいろな種類があるようなのだが,今回買う目的は,娘の気をそらして危険な行動を阻止することの1点である。だから,あれこれ選んだり店を何軒もまわったりはせずに,店頭にあるもの買うことにした。知人が買った商品は在庫がなかったので,「アンパンマン パソコンだいすき」という商品(3歳以上対象)を買うことにした。画面は一昔前の携帯ゲーム機のようなしょぼい画面で,一応「ひらがな」「かず」「ちえ」「おんがく」などのお勉強やお遊びができるようになっている。こういう知育玩具的なものは,あんまり好きではないのだが,背に腹はかえられない。

 ゆうべは,娘は結構熱中してそれをいじっていた。とは言え,娘はまだ,じゃんけんのルールも理解していないぐらいので,ほとんど(製作者が意図したような)遊びにはならないのだが。適当にボタンを押しては悦にいっているようである。

 おかげで,確かに我々のパソコンにちょっかいを出してくることは,少なくなった(まだ1日しか経っていないけど)。そういう点では,一応今回の買い物は成功したといえそうである(今のところは)。ただこのキッズパソコン,いちいちしゃべる。「バイキンマンと対決だ!」とか「メールはとどいていないよ」とか。それがうるさいのが難点だけれども。

 

■『大学の授業を変える16章』(浅野誠 1994 大月書店 ISBN: 4272410717 \2,200)
2001/02/04(日)
〜講義に討論や共同作業を〜

 先月末の日帰り出張に持っていった本の一冊がこれ。著者は,昨年11月にうちの大学で授業実践ワークショップの講師をされた方(富山大学にも行かれている)。この本は,1995年ごろに買っていて,一度は読んでいるはずなのだが,実はあまり印象に残っていない。しかしワークショップが印象的だったので,もう一度読んでみることにした。特に知りたかったのは,ワークショップのときに「私の授業では,教科書を2回ぐらい読まなければ単位が取れない仕掛けがある」とおっしゃっていたが,それが具体的にはどのようなものか,というもの。

 その話に入る前に,まずは概要から。著者の授業は,教師が長々としゃべるのではなく,討論や共同作業を中心とした双方向型の授業である。そうする目的は,

学生の授業イメージを変え,かれらを知的主体にしていくこと(p.6)
にあるようだ。学生があらかじめ持っている授業イメージとは,覚えることが学習とか,意味や現実との関係は二の次とか,正解は一つ,というものだ。また,双方向授業というと,学生に能動的に学習させることだけが目的とされやすいが,著者の意図はそれ(だけ)ではない。「学生を研究=学習主体として育てる」ことにより,「現実に対して批判的研究的に立ち向かう」力をつけさせることを,もっとも意図しているのである(p.176-177)。

 その上,著者の授業は,楽しく厳しいという。楽しく厳しく知的な授業にするために,著者が行っている工夫は,多岐にわたる。その中でも,比較的よく出てくると感じられたものが,検討討論である。たとえば,学生にはレポートを早めに出すことを奨励しているのだが,そのようにして早めに出されたレポートの一部をコピーして,このレポートの「優れたところ」「加筆したほうがいいところ」を抜き出させて討論(p.47)させるのである。もちろん,レポートに限らず,さまざまなことがらが,検討討論の対象となりうる。これも,「正解は一つで,それを教師が指示する」という学習観を崩すた方策の一つとなる。

 またその際には,教師の学習観も重要である。学生のつまらないと思える発言があると,すぐに正答や解説を言いたくなる教師の癖(p.65)を直し,ガマンしなければ討論は成立しない,という。また,グループでの討論は,一つの意見にまとめるために行うのではなく,論点を深め,広げる方向で展開される(p.75)。その際に「発言用紙」(p.75)などの小道具を多用する点は,『日本史討論授業のすすめ方』は同じである。やはり,討論をさせるためには,それなりの準備が必要ということか。

 さて,最初に私が知りたかった,「学生に本を読ませる工夫」であるが,おそらく次のような箇所であると思われた。たとえば,学生グループの共同作業として,「テキストに載っている事例の人間関係を図示せよ」という課題を与える(p.69)。あるいは,「ある章に出てくる重要語50を並べて,近代学校の成立展開の構造図を作れ」という課題もある。そのとき「図ができて先生がOKを出したら帰れる」のである。なるほど,それなら教科書を読まざるを得ない。これに,討論課題などが加われば,さらに教科書を読まざるを得なくなるわけだ。

 このように,共同作業や討論を授業の中心にすえるのは,相互に意見を出しあい,協力しあって,共同の課題に挑むという共同研究的性格 (p.101)を授業に持たせようとしているからである。この考えは,『知識から理解へ』の中で守屋氏が述べていた,「私たちの理解は,ひととのやりとりなしでは展開しない」(対話的・社会的な理解)ということであり,「他者が自己の発達を助けてくれる」という考えに通じるものであろう。

 ちなみに,はじめて私がこの本を読んだとき(おそらく5年以上前)に,あまりその内容が記憶に残らなかったのは,一つには,本書は演習形式の授業の話が中心で,講義をする上では役に立ちそうにない,と思ったせいだろう。当時私は,教養部に所属していたので,あまり演習を持つ機会はなかったのだ。しかし実際は,本書の中には,講義形式の授業についても述べられている。しかし,講義の中で共同作業や討論をさせるなんて,当時の私には想像もつかなかったので,読み飛ばしてしまったものと思われる。当時の私の力量(駆け出しに毛が生えた程度)ではしょうがなかったのかもしれないが,このように貴重な提言の詰まった本がきちんと読めていなかったなんて,実に残念なことだと思った。

 

■日帰り出張
2001/02/01(木)

 昨日,東京に出張した。日帰りで。

 日帰りにしたのは,翌日の授業を休講にしたくない,とか,子ども2人抱えて妻が大変,とか,立派な理由もあるが,それに加えて,やったらどうなるだろう,という好奇心があった(それに加えて,もう一つ理由があるのだが,それは最後で)。

 朝: 6:30に車で出発。途中,コンビにでサンドイッチなどを買って食べたが,7時20分ごろには空港に到着した。出発までは1時間ある。ちょっと早すぎたか。

 昼: 東京は,意外と寒くないという印象。日は照っていたし,乗り物での移動が多いし。モコモコのジャンパーは,なくてもよかったかもしれない。実際,同行者の一人は,コートなしだったが,平気そうだった(ような顔をしていた)。とは言え,目的地である東大では,まだ雪が残っていたけど。

 夕方: 5時ぐらいに,ちょっと体がへたってきた。早起きしたせいだろうか。19:40のJAL909便に乗り,自宅についたのは23:20。自宅についたら,飛行機がどうのと言って妻が騒いでいる。なにかと思ったら,JAL1便前の907便がニアミスとか。そういえば,那覇空港ロビーで,少年がテレビのインタビューを受けていて,何かと思ったけど,それだったのか。結局,4時間遅れで出発した907便は,909便とほぼ同じ時間に那覇空港に到着していたのだ。そんなことがあったなんて,羽田でも機内でも那覇でも,まったく気づかなかったけど。

 で,日帰りの感想だが,できないことはない。私は最後,体がへたったが,おそらく20代なら平気だろう。40歳を過ぎたら,やりたいとは思わないだろうが。ま,年寄りになったら,「昔は東京日帰り出張をこなしたもんだ」とでも自慢するか。

 ただ,本は読めた。移動中および待ち時間で読んだ本は,合計3冊(2冊は新書)。実は,日帰りでもいいかと思った理由の一つはコレである。久々に,乳児(4ヶ月)や幼児(2歳7ヶ月)に邪魔されることなく,本が読めた。もちろんずっと読んでいたわけではなく,行きは同行者と打ち合わせや雑談もした。ただ,夕方,3冊目を読んでいる最中は,ちょっとボーっとしてきた。疲れのせいか,本の読みすぎか。それで,帰りの飛行機の中では,寝たり音楽を聞いたりもした。それにしても,いくら時間があっても,1日に読めるのは,3冊程度が限界かもしれないと思った。

 #追記: 日帰り(県外)出張では,早朝出発〜夜帰沖とならざるを得ないので,自家用車かタクシーを利用することになる。しかしその場合でも,空港往復の旅費は,バス代相当の千円弱しか出ないことが判明した。したがって,駐車場代やタクシー代は,足が出るものと覚悟する必要がある。ガックシ(;_;)

 


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