読書と日々の記録2001.06上
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■読書記録: 12日『議論術速成法』 8日『大学の授業をつくる』 4日『学校を問う』
■日々記録: 14日娘の誕生日 9日顎関節症になった 6日「間違ってるー」 3日沖縄の披露宴考

 

■娘の誕生日
2001/06/14(木)

 昨日は上の娘の,3歳の誕生日だった。子育てが終わった人は,「あっと言う間に大きくなるよ」とおっしゃる。しかし,やはりその最中にいると,非常に長く感じる。ようやく3歳,ふぅ,という感じだ。

 あまり先のことを想像しようとしても,想像の範囲を超えるので,あと3年後のことを考えてみる(誕生日には,いつもこんなことを考えてみている)。3年後というと6歳だ。小学校に上がる前か。うーん,やっぱり想像できない。(^^ゞ

 一月ほど前から,妻が上の娘に仕込んでいる会話。

妻「まーちゃん(仮名),今何歳?」

娘「にさーい」

妻「もう少しすると?」

娘「さんさーい」

妻「三歳になったら?」

娘「チュッチュ(指しゃぶり)やめるの」

昨日,指しゃぶりしているときに,「まーちゃん,何歳?」と聞くと,あわてて指をはずしたりしていた(「にさーい」と答えて,知らん顔して指をしゃぶりつづける,というパターンもあった)。まあ,そうすぐにはやめられないのだろうけれど。でも,その意気込みと努力が,なんだかカワイイ(ウルウル)

 そういえば,こんなタイプの会話もあった。

妻「三歳になったら?」

娘「じてんしゃかってもらうの」

「じてんしゃ」とは,三輪車のことだ。ときどき,大型スーパーに行ったときに,店の三輪車に乗せてみたりする。数週間前は動かすことができず,すぐに止めてしまったらしいが,先週末は,ちょっと進んだり(戻ったり)したので,なかなかやめてくれなかった。今週末はトイざラスか?

 そういえば,ほんの5ヶ月ほど前には答えられなかった,「お母さんは女です。じゃあお父さんは? 」などの質問にも答えられるようになっていた。いつの間に?

 

■『議論術速成法−新しいトピカ−』(香西秀信 2000 ちくま新書 ISBN: 4480058753 \714)
2001/06/12(火)
〜気質を考えて議論を磨く〜

 議論術を促成(速成)するために,先人の論法を盗むやり方を解説している本。内容的には,特に前半は『議論の技を学ぶ論法集』など,同著書の著作と,一部は重なっているようだが,もちろんそれだけではない。

 たとえば,<常套句>について論じた2章などは面白かった。著者は,

われわれは,ものを考えているつもりで,実際には<常套句>を機械的に操作しているにすぎないことがしばしばある。したがって,相手が<常套句>に頼って議論することを想定して,あらかじめ典型的な<常套句>を破壊する<常套句>を準備しておかなくてはならない(p.118)
と主張している。そうそう,こういうことが聞きたかったんだよ,と頷いてしまった。しかしこの論で行くなら,相手によっては,こちらが用意した「<常套句>を破壊する<常套句>」も,別の常套句で破壊されてしまう可能性がある。やはりここでとるべき道は,常套句に頼らず,時間をかけてでも,自分で考えながら理解し問題点を探し改善策を模索することだろう(つまり批判的思考だ)

 また,「議論気質」に関する章も面白かった。人にはそれぞれ,その人なりの「議論的気質」があり,よく使う議論の種類は限られてくると言う。それは自分が愛読する著者が多用する論法である場合が多い。なるほど,そういえば確かに,『議論の技を学ぶ論法集』などを読んでも,すべての論法にピンと来るわけではなかった。論法によって,すごく説得的に思えたり,あんまり大したことないような気がするけどなぁ的な感想を持つのは,そういうことだったのか。それは論法のよしあしを感じていたのではなく,自分との相性を感じていたのである,と。ということは,マイ・トポイ・カタログを作るに当たっては,いろいろなところから幅広く論法を集めてくる必要はないわけだ。自分の好きな論者のものに限って集めればいいんだな。

 それから,この議論的気質に関して,もう一つ面白い指摘があった。それは,自分の思考を自分で吟味する際にも,「自動的にこの論法を発動させてしまう」(p.191)そうなのである。つまり,私たちはよく使う論法を,自分にも他人にも適用する,ということのようだ。人の思考そのものが,特定の論法によって枠をはめられているわけで,思考教育を考える上でも,示唆的かもしれない(具体的にどう示唆的なのかは分からないけれど・・・)

 

■顎関節症になった
2001/06/09(土)

 今朝,目を覚ますと,顎関節症になっていた。

 顎関節症といってもいろいろな症状がある。私の場合は,口があかなくなる(開口障害)。正確には,5ミリほどあく。しかし,何の具合か分からないが,それ以上はあかないのである。夜,寝ている間に,歯を食いしばっていたに違いない。一種の心身症だろうと思う。

 はじめてなったのは,はたち前。その時は,何の病気か分からなかったので,適当に外科に行った。医者も知らなかったらしく,適当にレントゲンを取って適当に湿布と炎症止めの薬をもらって,2週間くらいで元に戻った。

 その後,顎関節症には,自律訓練法というリラクゼーション法が有効であることが分かった。大学で,そういう研究をしている人がいたのだ。私もそれ以降も,1〜2年に一度,なることがあったが,10分前後,自律訓練法をやっていると,自然と関節の具合がよくなって,口が開くようになった。

 ところが今朝は,いつものように自律訓練法を試みても,ちっともよくならない。あせって,インターネットで検索すると,顎関節症のセルフケアについて書かれたページがあり,安静やホットパックがいい,とある。それで,しばらく奮闘した結果,ようやく昼過ぎによくなった。6時間もかかってしまった。

 奮闘といっても,布団の中で横になって,顎を温めながら,リラクゼーションするだけなのだが。傍から見ると,単に怠けているように見えるらしい。妻にも娘にも咎められてしまった。まあ,何の説明もせず「ほっといてくれ」と言ったものだから,妻が怒るのも無理はない。でも,食べたりしゃべったりすると,顎の緊張が余計に強くなって,治りが悪いような気がして怖いんだもん。妻よ,すまぬ。

 

■『大学の授業をつくる』(経済学教育学会編 1998 青木書店 ISBN: 4250980111 \2,800)
2001/06/08(金)
〜生きた現実を分析し再構成する〜

 経済学の分野では,1985年から「経済学教育学会」というものがあるらしい。本書はその学会が編集した本で,経済学教育の実践報告が22編集められている。その内容は大きく,「高校・大学の導入授業の展開」「講義形式の授業の悩みと工夫」「学生と作るゼミナール」などからなっている。

 考えてみれば,大学生が経済学を専攻するのは,心理学などと違って「就職時につぶしがきく」的な実用的な判断である場合が多い。したがって,学生の志望動機と専門志向が他分野以上に希薄(p.4)なわけで,専門それ自体が教養にとどまらざるをえない(p.8)ところがある。したがって経済系の学部(経済,経営,商など)では,専門教育のあり方を検討することは重要な問題なのだろう。

 本書は経済学という分野に限定して,教育(主に大学教育。一部高校もあり)を論じている。しかし,他分野にも通じる一般論として読める報告もいくつかあった。たとえば,シミュレーションゲームを導入した授業の報告がある(p.82)。このシミュレーションは,「南北地域間の葛藤と共同のプロセス」という地球規模の問題が再現されるようなゲームで,実際にさまざまな経済現象(貧困や環境問題など)や社会現象(同調や社会的ジレンマなど)が再現されるという。これはもともと社会心理学者が開発したもののようで,ちょっと面白そうである。

 他には,自分が知りたいことがわからない学生を相手にした夜間定時制高校の実践では,景気なら景気について,自分のイメージを書くことからはじめて経済の話に入っていく,という工夫が報告されていた(p.96-)。その他にも,2〜3週に1回行われる小テスト(解答は5行以内)に基づいて評価する「小テスト方式」(p.153-),『学生参画授業論』方式を上手に取り入れたゼミ(p.219-)などがあり,それぞれ参考になりそうな点があった。

 このような経済学教育の実践事例が私の興味を引く理由として,経済学と心理学の類似性が挙げられるかもしれない。もちろん表面的には,両者はかなり違う。しかし,ある先生はシラバスで,経済学を次のように説明している。

経済学は生きた現実の経済の観察に始まり,それを分析し(現象を捨象し)抽象化した上で,現実を再構成してみせることによって終わる。(中略)生きた現実は経済学にとってスタートでありフィニッシュである。(p.256)
 少なくともこの点においては,経済学と心理学はまったく同じといってもいいのではないだろうか(もっとも,こういう括り方にすれば,多くの人文社会科学は入ってしまうのだろうけれども)。まあ何にせよ,明日からも来学期からも使える大ネタ小ネタ集として,なかなか悪くない本だった。というか,心理学にもこういう本が必要なのではないだろうか。

 

■2歳児に「間違ってるー」と指摘される
2001/06/06(水)

 最近,上の娘(2歳11ヶ月)は,よく「あ,間違ってるー」とか,「間違ってるみたーい」と言う。

 たとえば今朝も,妻が言われていた。下の娘(9ヶ月)にあげようと思っていたチーズを,うっかり上の娘に渡したときだ。間髪をいれず,勢いよく「あ,間違ってるー」と言われた。私も,食卓の準備をしていて,何回か言われた。たとえば,妻用のランチョンマットを娘のいすの前に置いたときとか。あるいは,違う箸を2本一緒にしてしまったときもそうだ。どちらも色は同じなのだが,どうやら微妙にデザインが違うらしい。このときは,観察眼のスルドさに舌を巻いてしまった(内心,天才に違いないと思った。オヤバカ)。

 しかし,この「間違ってるー」という指摘ができるのは,単なる観察眼だけの問題ではない。何と言うか,ルールの習得ができて初めて使える言葉である。コレはどこに置くものである,とか,箸は同じものを組み合わせなければいけない,とか。もちろん,誰もルールを言葉で教えたりしたわけではない。自分で(正しく)発見しているのである。

 乳児の頃は,もちろんそんなことには頓着しない。1歳台でも,おそらく,そういうルールがわかっているということはまずないだろう。正しいも間違いもない。親がすることがすべてである。

 それが,いつのまにか,ルールを学び,人の間違いが指摘できるようになる。考えてみたら,これはすごいことだと思う。何だか,ルールを獲得することによって,彼女の中で新しいゲームが始まった,と言ってもよさそうである。

 とは言っても,まだ「じゃんけん」のルールはわかっていないみたいだ。適当にグーとかパーとか出して,適当に勝ったとか負けたとかいって喜んでいるだけ。今後これが,どのように変化していくか,とても楽しみである。

 

■『学校の再生をめざして 1 学校を問う』(佐伯胖・汐見稔幸・佐藤学編 1992 東京大学出版会 ISBN: 4130530615 \2,400)
2001/06/04(月)
〜問題の心理学化・学校化〜

 既存の学校の枠組み自体を問うような論考を集めた本。登校拒否児の視点,学校特有の言語ゲーム,フレネ教育という日本の学校とはまったく違った学校,学校教育の歴史などについて論じられている。面白いのは,それぞれの論考の後に,執筆者たちの討論が設けられていることである。ものによっては,それにメインの論考以上のページ数が割かれていたりする。

 第1章は,登校拒否児の問題から,「教師も病んでいる」という話になっている。そこでは,「教師は子どもの前で自分の弱い部分を認めることができない様子が見えるが,教師は自分の間違いをもっと率直に認めたほうがいいのではないか」(p.7)などという話から,教師がもっと自己認識を深める必要性が説かれている。しかし討論では,一人が「問題の性質を心理学化,精神医学化してしまっている」というような批判(p.35-)が出てきて,結構バトルになっていたりする。問題の心理学化とは,問題を,心理学の枠内で捉えるように位置づけてしまい,それ以外の発想が入りにくくなってしまう,ということのよう。

 2章は,学校文化がもつ学校特有の「言語ゲーム」を明らかにしている。書いたのは,『インタラクション』などの上野直樹氏だ。できる子は,認知能力が高いかどうかではなく,学校というゲームに適応できるかどうかによって決まってくると言う(これは上の言い方で言うならば,日常の問題の学校化とか,学校算数化,などと言うことができそうである)

 これと似たような話は,上野氏の最近の著書にもあったが,どうも私にはそのイメージが今ひとつわかりにくかった。しかし本書では,それはダイアモンドとか貨幣といったものに似ている(p.69)という。いくら一万円札そのものを調べても一万円の価値を発見できない。その価値は一定の社会的関係,商品の交換という制度の中にあるからだ。それと同様に,テストによって一般的な認知能力が測れると考えるのは,ダイアモンドや貨幣そのものに普遍的な価値があると考えるようなものなのだ。この比喩は,よくわかったような気がする。

 そういったことから上野氏は,学問体系を出来上がったものとして学ぶのではなく,必要に応じて自分で作ったりルールが変更できる「自己生成」の世界に位置づけるべきではないか,というようなことを提案している。逆に今の学校で,そのようなことが難しいのは,学校が「効率性優位」という近代西洋の考え方の中にあるからだ,という話がその後の討論でも出てくる。そのような意味でも,学校で教えられる事柄(心理学も含む)が持つ効率性や体系性,論理性のあり方を,考え直して見るべきかもしれない。

 書いてみてはじめて気づいたのだが,1章(の討論)で問題にされている「問題の心理学化」と,2章で問題にされている「問題の学校化」は,同じようなことなのではないか。前者の問題は「問題行動」,後者の問題が「算数などで対象とされるような,解決されるべき日常の問題」のことで,直接同じではないが,どちらもその問題を,一定の専門の枠にはめようとしている点が問題視されている(心理学化,学校化)

 そしてその解決策として,1章では「素人を取り込んだ改革がいろんなレベルで必要」(p.39)ということが挙げられている。つまり,心理学など特定の専門領域内で問題が完結しないよう,オープンにしたらどうか,というわけだ。一方,2章では,上に書いたように「自己生成」すなわち,学問世界を,自分とのかかわりの中で作り上げていくことが提唱されている。これらはどちらも,専門をありがたがって受け取るだけではいけない,とか,問題を自分のものにする必要がある,ということではないかと思う。そういう意味では同根の発想であり,非常に興味深い。

 

■沖縄の披露宴の民俗学的(?)考察/はじめの一歩
2001/06/03(日)

 昨日,披露宴に出席してきた。つい,自分の娘と重ね合わせて見たりして,ウルウルしそうになる。まだ0歳と2歳なんだけど。それはさておき,ちょっと披露宴の,沖縄特有の面について,昨日気付いた点をまとめておこう。

  1. 出席者が多い(昨日は300人。沖縄では一般的な数字)。
  2. 座席表がない(座るテーブルだけは決まっている)。
  3. 招待状は直前に手渡し。参加するかどうかの返信ハガキはない。
  4. 円卓に,料理が大皿で出される(それでも昨日は,ウェイターの人が取り分けてくれた。これは沖縄では初体験)。
  5. 長方形の部屋の,短い辺の一方にひな壇,もう一方の短い辺にステージがある(ステージは,学校の体育館にあるようなやつ)。
  6. ひな壇には,新郎新婦と,その両親が座る(昨日は媒酌人はいなかった)。
  7. ただし途中から,両親も新郎新婦も,テーブルにつくので,後半はひな壇には誰もいなくなる(これが一般的なことなのか,昨日の趣向なのかはさだかではないが)。
  8. ひな壇に一番近い席に,家族,親族や主賓が座る(この席は,新郎新婦はよく見えるが,ステージが見えにくいのが難点)。
  9. ひな壇で何か行われている時以外は,ステージでほとんど休みなく余興が行われている。
  10. 余興は,沖縄の伝統的なものから,男性による白鳥の湖(踊り)やパラパラなど,若者的なものまである。
  11. 始まりは「かぎやで風」,終わりは「カチャーシー」と,きわめて沖縄的。
  12. ただしカチャーシーでお開きではなく,その後,新郎新婦が,両親への花束贈呈や挨拶をする。
  13. 宴の真ん中あたりで,「記念品贈呈」の時間がある。記念品を持ってきた人は,名乗りながら,ひな壇の新郎新婦に記念品を手渡す。

 実はなんでこんなことを書こうと思ったかと言うと,隣の席が民俗学の先生で,さかんに写真を撮り記録を取り,興味深そうに眺めておられたからだ(これも一種のフィールドワークだ)。その方がおっしゃったのが,上記10の,「伝統と現代のミックス」だ。あるいは沖縄風と大和風のミックス,という事実。

 このミックス問題について,素人ながら考えてみた。上記6〜8から考えられるのは,あくまでもメインは親族への披露なのではないか,ということ。それに,隣近所や知人が参加させてもらうので,上記1〜4や13のようになる。そしてその人たちが,延々と余興をやる(9,10),と。

 そこに,大和風披露宴の道具立てが加わってきた。それが一番よく(ある意味奇妙に)現れているのが,11(沖縄風)と12(大和風)のギャップではないかと思う。カチャーシーとは,一番最後にワーッとやり,その勢いでお開きとするのが(披露宴以外では)普通だからだ。もちろんそれが悪いと言っているのではない。これが現代の沖縄の,一種の伝統と言えるのではないだろうか。数十年後には,また変わっているに違いない。

 上に述べたように,これはあくまでも素人の思いつきでしかない。民俗学の授業でレポートとして出したら,何点ぐらいもらえるだろうか。

 昨日は,下の娘(8ヶ月)が一歩歩いたらしい。新郎新婦と一緒で,人生のはじめの一歩を歩み始めたわけだ。なんて,無理やりこじつけたりして。

 


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