読書と日々の記録2001.07下
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■読書記録: 31日短評7冊 30日『原発事故はなぜくりかえすのか』 28日『学びへの誘い』 24日『経営革命の構造』 20日『「市民」とは誰か』 16日『語る身体・見る身体』
■日々記録: 26日前期授業のふりかえり 21日乳児の成長/歯医者 17日プチ旅行'01夏

 

■7月の読書(その他の)生活
2001/07/31(火)

 今月,特に前半は仮説実験授業月間だったなぁ。

 先月なった顎関節症は,1ヶ月間に4回も再発した。心配して大学病院に行ったら,「なっている最中でないと何もいえない」と言われ,特に処置はなされなかった。自力で治せることが裏目に出るとは。しかし顎の体操を教えてもらい,その後再発していない。1回40秒,1時間おきにやれ,だって。

 月半ばに調子悪かったのは,どうやら冷房病ではないかと思う(いまだ不調は続いている)。汗は出ているのに体が冷え切っていたりして,どうも体の調節(自律神経?)がうまく働いていないようなのである。我が家には,温度感覚の違う妻という強敵がいるし・・・ しかしまあ,原因がわかれば対処ができる。ネットで冷房病を検索して,就寝前や起床後に足湯をすることにした。ああ,こうして儀式(腰痛体操,顎関節体操,目のケア,足湯など)が増えていく・・・

 今月読んだ本は15冊。ワタシ的によかったのは,『ちびくろサンボよすこやかによみがえれ』だろうか。再読すべきは,『語る身体・見る身体』や,『学びへの誘い』あたり。

『自己主張トレーニング−人に操られず人を操らず−』(ロバート・E.アルベルティ 1990/1994 東京図書 ISBN: 4489004214 \2,000)

 1970年に初版が出され,その後5回改訂された本。アサーティブネス・トレーニングのバイブルと呼ばれている(p.319:訳者あとがき)そうである。内容は豊富で,事例も多いし,いろいろなケースにおける,具体的できめ細かいアドバイスも多い。取り上げられている状況も,職場,男女関係,つきあいづらい人への対処など,幅広い。まあそれでも基本的な考え方は,300ページ以上ある本書じゃなくても,100ページちょっと(?)の『アサーション・トレーニング』で十分,という気もする。あと,アサーティブネス・トレーニングに出てくる考え方のいくつかは,批判的思考教育を行う際にも,適用可能なような気がする。

『経済を見る目はこうして磨く』(テレビ東京 2000 日経ビジネス人文庫 ISBN: 4532190029 \680)

 6人の経済学者との対談集。市場主義者からケインジアン(多分)までいて面白い。内容も,日本経済のこれまでとこれからだけではなく,学生時代の話や,ご自分で書かれた本の話など多岐に渡っており,さらっと読める部分も多い。ある人は,政策を立案し国民の前できちんと説明できる能力を持った政治家が登場し,異なる選択肢を提示されて,国民に選ぶ判断力がついたとき,日本は一歩脱皮できる(p.82)と述べている。そのために必要なことは,政治や経済の知識,見る目,そして批判的思考力だろうと思われる。

『臨機応答・変問自在』(森博嗣 2001 集英社新書 ISBN: 4087200884 \714)

 重要なのは答えることではない。問うことである(p.14)と冒頭にあるが,しかし本書を読んで思ったのは,問うだけではダメなのではないか,ということ。上記引用のようなことを狙うのであれば,質問書は案外無力なのではないか。むしろ重要なのは,問いを発した後にどうするか,ではないか。質問書では,質問に先生が答えてしまうことが多いため,単なる「教えて君」を作ってしまうだけという可能性も大きいのではないだろうか。

『ハッピーバースデー−命かがやく瞬間−』(青木和雄 1997 金の星社 ISBN: 4323025270 \1,300)

 小学校上級〜中学生向きの本。著者はカウンセラーらしい。醒めた感想をいうなら,まあそんな内容。もう少しよくいうなら,あと10年ぐらいしてからうちの娘たちに読ませて見てもいいかも,という内容。学生のお勧め本より。

『科学哲学者柏木達彦の冬学期−原子論と認識論と言語論的展開の不思議な関係,の巻−』(富田恭彦 1997 ナカニシヤ出版 ISBN: 4888483817 \2,100)

 サブタイトルどおりの内容。デカルト,ロック,カントがなしとげた認識論的展開についてもわかったし,言語論的転回とは何かとか,言語論的哲学についてもわかった。もちろんどれも何となくだけど。それにしても,歴史はまあわかったにしても,良質の哲学の本にありがちな,知的興奮みたいなものは,本書には感じなかった。残念ながら。

『ヒューマンエラーの心理学−医療・交通・原子力事故はなぜ起こるのか−』(大山正・丸山康則編 2001 麗澤大学出版会 ISBN: 4892054364 \2200)

 心理学者による失敗学の本。執筆者が同じなので,一部の内容は『人はなぜ誤るのか』および『無責任の構造』と重なっている。個人的におもしろかったのは,組織心理学的論考。PM理論における4類型のうち,PM型は他に比べて事故率が少ないという。バス営業所のデータらしいが,上司の話なのか,運転手の話なのかは不明。しかし著者は,MP型なるものを勧めている。これは,ふだんから人間関係の和をはかり(職場にM的要素を充満させ),その基盤の上に安全の基本ルールや規律を厳しく守らせるリーダーシップ(p.157)であるという。つまりPM型はPM型でも,Mが先に来る,というもののようだ。

『実践としての統計学』(佐伯胖・松原望 2000 東京大学出版会 \2600)

 再読。統計的検定をハウツーとか絶対的なものとして考えるのではなく,その実践的意味を考えるというのは,やっぱりおもしろい。あいかわらず,細かいあるいは高度な説明は理解できないのだけれど。それにしても,たとえば片側検定と両側検定のような,基本に位置する事柄でも,実は一般の統計学の中では十分な説明がなされていない,というのは問題のような気がする。それと同時にこういう話を読むと,理解できていないオレが悪いんじゃないんだ,という(ちょっと横着な)気にさせてくれるのもうれしい。

 

■『原発事故はなぜくりかえすのか』(高木仁三郎 2000 岩波新書 ISBN: 4004307031 \693)
2001/07/30(月)
〜身体感覚と公的感覚の重要性〜

 原子力産業に身をおいた後に,反原発の市民科学者に転じた著者の遺作。病床にありながらも,JCOの臨界事故が起きたことで,どうしても書き残しておきたい,ということで口述で書かれた本らしい。JCO事故が1999年9月,本書が録音されたのが2000年夏,著者が亡くなったのが2000年10月なので,本当に最後の力を振り絞って作られた文章のようである(本書の刊行は2000年12月)。

 私は本書を,失敗学的な興味から買ってみた。本書のテーマはタイトルどおり「原発事故はなぜくりかえすのか」であり,失敗学的な問題点も指摘されている。それは,自己検証のなさであり,自己検証がなされる場合でも,それが防衛的になされるという点である。筆者によると,事故調査には,自己検証型と防衛型の2通りがあるという。自己検証型とは,厳しいチェックを行い徹底して究明する(p.130)調査である。それに対して,これ以上ひどいことにはならなかたということを立証したがため(p.130)に行われるのが防衛型の調査である。そして原子力産業では,防衛的に事故調査がなされるか,そうでなければ事故のことを隠蔽,虚偽報告,改ざんしようとする傾向があるようである。

 これは失敗学のテーマそのものであるが,筆者はそこからさらに一歩踏み込んで,なぜそのようになっているのかについても考察している。それは,私たちは個人として物事を考えるとき,公的でない「私」のレベルに解体されてしまっていて,それ以上はものを考えない傾向にある(p.124)からだと言う。原子力も含め,技術というものは社会的に大きな影響を及ぼしうるものなのだが,それを個人レベルで考えてしまうものだから,事故は隠せばいい,適当な報告をしておけばいい,となってしまうのである。そのような原子力産業の体質を筆者は,「議論なし,批判なし,思想なし」と呼んでいる。それは原子力産業が,国策的に上から導入されたものだから,という特殊性に由来するものである。

 このような,公的意識のなさとは,『「市民」とは誰か』で論じられている「シヴィル(=公民)概念のなさ」と同じであろう。また筆者は,このような考察などをもとに,日本には,幅広い裾野を持ち,本能的あるいは感覚的に染み込んだ,「文化」としての原子力(原子力安全文化)などというものはない,と論じている。ではどうすればいいかというと・・・

ことさらに安全,安全と言うことによって安全が身につくのではなく,技術というものの一部に,人間の生命を大事にするような思想が自然に組み入れられていないといけない。(p.57)
たとえば,放射性物質を自分の目の前で直接扱う経験を通して,その扱いの難しさや留意点が自然に身につかないといけない,ということだ。ここから考えると,失敗学にも,単にどのように失敗を改善するか,ということだけではなく,その根底にある文化や思想,風土なども扱ったほうがいいような気がする。

 

■『学びへの誘い』(佐伯胖・藤田英典・佐藤学編 1995 東京大学出版会 ISBN: 4130530658 \1,800)
2001/07/28(土)
〜学習とは,文化実践への参加である〜

 『科学する文化』と同じ,「シリーズ学びと文化」の一冊。本書は第1巻だからか,理念的な話が中心となる。書いているのは,編者3人(それに,翻訳論文が一本はいる)。それぞれ,心理学,教育社会学,教育学の立場から論じられているが,学びを,文化的実践への参加であり対話的実践とみる視点は,全員同じである。つまり本書は,3つの異なる専門の立場から,参加としての学習観について論じられた本だといえる。『状況に埋め込まれた学習』が今ひとつよく理解できなかった私としては,ありがたい。

 とはいえ,理論的考察が中心であるせいか,わかりにくい論考もある。私にとっては特に,1章(文化的実践への参加としての学習:佐伯氏)と2章(学びの対話的実践へ:佐藤氏)が,特に抽象的なところが多くてわかりにくかった。それでも1章では,文化的実践の文脈のなかで行われた学習の例などを知ることができたし,2章では,日本におけるデューイやヴィゴツキーの受け入れられ方(の不適切さ)について知ることができた。ちなみにこのお二方は,4章と終章も書かれており,そちらは読みやすかったことを付け加えておく。

 私がおもしろかったのは,教育社会学的な観点から学習について論じられた第3章。著者の藤田氏によると,教育社会学で学習の問題が正面から取り上げられたことは,これまでなかったという。そこで,<本物の学習><理想的な学習>の実現を妨げているものがあるとしたら,それはなぜか(p.97)といった,学習が生起する意味的・機能的連関について,教育社会学的に考察されている。

 で,そこから先で,その検討がなされているわけだが,しかし残念ながら,全体像は十分に把握できなかった。部分的にはおもしろいところはいくつもあったのだが。それらを何とかつないで,以下にストーリーを(ムリヤリ)作ってみる(まちがっている可能性は大いにある)

 で,先ほどの「それはなぜか」だが,今日的な学習のなかでは,なにを根拠に,すべての子どもにとって特定の課題を学習する意味があるといえるのか(p.106)という,素朴ながら基本的な問いを考慮の外においている(=蓋をしている)からである。そのために学習者は,様々な形で学習につまずいている。しかしそのつまずきは,当人の<参加>を引き出すような出会い,自分と向き合うきっかけとなるような出会い(p.115)を経験することによって,つまり学習を参加的で自己実現的なものにしていく(p.135)ことによって克服できるはずだ。そのような感じのことが書かれている。うーん,やっぱり抽象的でわかりにくい(断片的には,おもしろいことがたくさん読み取れるのだが)

 まあしかし,このわかりにくさも,私自身が討論をしながら学びあう授業を模索するなかで,少しずつながら,見えてきた部分もあるような気がしている。おや? これってひょっとして,「当人(=私)の参加を引き出すような出会い」になっている?

 

■前期授業のふりかえり
2001/07/26(木)

 ようやく授業期間も終わり,来週から試験期間となる。今期の授業は,予想外の授業が多かった。予想外によかったり予想外に悪かったり。

 予想外に悪かったのは,70人規模の講義形式の授業。これを担当するのは今年で5年目なのだが,何が悪かったのか,実はよくわからない。昨年は比較的いい評価をもらったのに。内容は変わってない。私のやる気が10%ほど減っていたかもしれないが,その代わり,新しい試みも10%ほど加えている。差し引きゼロだと思うのだが。考えられるのは,受講対象学生の学部が替わったことぐらいか。あるいは,上のマイナス10%の効果が思いのほか大きかったのか。

 予想外によかったのは,大学院生対象の授業2つ。一つは,受講生が一人だったため,本人の希望によりテーマを「創造的思考」とし,基本的には毎週1冊の本を読んでこさせて,授業でその内容について討論した。最終的なまとめも,この15週に得たものや討論したことを元に,自分でまとめてくることになっている。今まで,大学院の授業について,なかなかうまいイメージがもてず,学部生向けの講義とゼミのあいのこのような中途半端な授業をしていた。しかしどうやら,今回の授業が一つのモデルになりそうだ。

 もう一つは,大学院生の必修授業(受講者数38人)。半期を2人の教官でわけたため,私の持ち分は7週だったが,テーマを「自ら学び自ら考える力を育成する教育は可能か?」とし,そのほとんどをフリーディスカッションで通した。実は今までゼミ以外では,ディスカッション中心の授業はやったことも受けたこともない。今回ははじめてだったので手探り状態だった。おかげで,すごくよかった回もあれば落ち込んだ回もあったのだが,最終的には,やってよかったと思った。私自身も得るところがあったし,受講生も授業を通して,考えを深めててくれたようだ。最終レポートが出るのは来週だが,私自身も約7000字の最終レポートを書いた。このタイプの授業も今後,さらに洗練していきたいものだ。

 

■『経営革命の構造』(米倉誠一郎 1999 岩波新書 ISBN: 4004306426 \735)
2001/07/24(火)
〜失敗と大学の役割〜

 イギリスにおける産業革命から始まって,19世紀アメリカにおけるビッグビジネス(鉄道,鉄鋼,自動車など),高度経済成長期の日本,そして,20世紀末の情報革命とシリコンバレーという一時代を築いた産業を,経営革命という視点から論じた本。特に,そのような革命を牽引した少数の英雄に焦点を当てて論じられている部分が多い。そしてそのような観点からみると,革命は,蒸気機関などの単一の発明や時代の流れや政府の政策によって自然かつ必然的に起きているのではないことがわかる。それが世間に受けいれられ実を結ぶまでには紆余曲折あるのである。たとえば,新しい機械ができることによって,旧産業の人々の激しい憎悪や必死の抵抗の対象となったりするのである。とはいえ,私自身は経営や歴史にはあまり明るくないせいか,前半の古い時代の話はボチボチだったが,後半から徐々におもしろくなった。

 本書はいろいろな興味から読むことができる本だと思うが,私がとくに興味をもった点は2つある。一つは失敗の役割である。たとえば,19世紀アメリカのビッグビジネスにおけるビジネスモデルは,原料や部品調達,製造,販売といったすべての職能を内部組織化することによって巨大化した。「垂直統合戦略」である。これによって,規模の経済性を発揮し,生産性をあげたのである。このような巨大で複雑な組織は,それ以前にはなかったため,業務を効率よく運営する内部組織なければ,コストがかさむなどの問題が生じた。たとえば鉄道でいうと,長距離の幹線鉄道の初期は,巨大で複雑な運行業務を効率よく運営する内部組織が未発達(p.85)だったために,走れば走るだけ赤字になるような状況だったという。そこで,責任と権限の範囲を明確にしたり,現業部門と本社部門を分離したり,社内情報の重要性を認識するなど,現代に通じるような組織革新が行われている。

 もっと直接的に「失敗」が組み込まれたビジネスモデルとしては,現在の情報革命によって生じた,ネットワーク型のビジネスモデルがある。現代は,技術の進歩にしても市場のニーズにしても数ヶ月単位で変化する時代である。すると,これにあわせるには俊敏なフットワークが必要になる。これまでの発想では,自社内(ビッグビジネスモデル)や系列企業内(日本型ビジネスモデル)ですべてをまかなうところであるが,現在は変化が早すぎるので,それも無理がある。そこで,得意な分野が異なる企業同士がネットワークを作ってそれに対応する,というビジネスモデルが必要になってくる。たとえばディレクTV(衛星放送)が,受信機の開発,課金システム,放送コンテンツ,マーケティングをそれぞれ別の会社の協力を得てやっているのはその一例である。そして,このように,状況の変化にすばやく対応するためには,短期間に試行錯誤を体系的に行うなかで対応せざるを得ず,そこには必ず,数多くの「失敗」を伴う可能性がある。したがって,このビジネスモデルを実現するには,失敗を許容する土壌があり,失敗しても新たな人材の組合せがさまざまに迅速に何度も行われるような人材プールが必要である,というのである。ハイリスク・ハイリターンという状況だから必然的にそうなるのだろうが,失敗があらかじめ組み込まれたビジネスモデル,というのは興味深い。

 もう一つ興味深かったのは,大学の役割である。先に述べた,アメリカのビッグビジネスモデルでは,複雑な組織を管理する人材が必要であった。そのような時代の要請から,アメリカでは,ビジネス専門の高等教育機関としてビジネス・スクールが出現したという(p.136)。なるほど,それでアメリカの人文系大学院は,日本に比べて実践色が強いわけね。また現在の情報革命下では,さまざまに人材を組替えることでネットワークを作る必要がある,と述べた。アメリカではその一翼に,大学も重要な役割を果たしているようである。大学が技術や経営を企業に提供しているのである。なるほど。日本でも最近,産学協同みたいなことがさかんに言われるようになり,また,大学人でも企業活動的なことがしやすくなったことの一端は,このようなビジネスモデルの変化に負っているのか。

 本書はこのように,経営革命(新しいビジネスモデル)という観点から眺める世界のおもしろさを感じさせてくれる一冊だった。

 #book.asahi.comに書評あり。

 

■乳児の成長/歯医者
2001/07/21(土)

 下の娘(10ヶ月)は最近,私が寝ているベッドに来て遊ぶことが多い。ベッドに登るのは自力でできるのだが,上手に降りることができず,何度も板の間に墜落し(そうになっ)ている。だから,下の娘が来ると,私は落ち着いて寝たり本を読んだりできなかった(ついでに言うと,先日の旅行のときは,一段高くなっている和室から落ちて,鼻血を出した)。

 しかし昨日から突然,ベッドの上から自力で降りられるようになっていた。腹ばいになって足から降りるのだ。今のところ成功率100%で,一度も転落していない。これなら安心してほっておくことができる。上の子のときのことを考えても,これくらいの月齢を境に,こうやって一つずつ,親の手間を省いてくれるようになる。これから一日一日が楽しみである。それにしても,こどもってある日突然できるようになるからすごいよね。

 今日は,年に一度の(自主的)歯科検診&歯石取りに行った。見てもらった結果,特に虫歯もなく,歯石も,歯並びの悪いところにちょっとついていただけのようでほっとする。いくつになっても,歯を削るというのはイヤなことだからね。

 ついでに今日は,上の娘(3歳1ヶ月)も生まれて始めて歯科検診をしてもらった。3歳になったら連れて行こうと思っていたのだが,それに加えてちょうど数週間前,私が歯間ブラシを使っていた時,上の娘がそれを見て「まーちゃん(仮名)もやりたい」と言い出した。それで,「じゃあ歯のお医者さんに行って,使っていいですかって聞いてみようね」という話になっていたのだ。それで娘は最近まで,歯医者さんにいくのを楽しみにしていた。

 しかし昨日急に,「歯のお医者さんは痛いからまーちゃん行かない」とか「まーちゃんお姉さんだから行かなくてもいいの」などと言い出した(行ったことないのになぜ痛いって知ってるんだろう?)。それで,今日は健診は無理かなーと思っていたのだが,案外,すんなりと診察台に上ってくれて,素直に口の中を見せてくれたのだそうだ。結果,削るほどでもない小さな虫歯が一つ見つかっただけで,それ以外はOKだった。娘も終わってからニコニコしていた。まあこの先の人生,ずっと歯の治療をしなくて過ごせるということはないのだろうけれども,歯が健康で,なおかつ気軽に歯医者さんに来れるような子になってほしいものである。

 

■『「市民」とは誰か−戦後民主主義を問い直す−』(佐伯啓思 1997 PHP新書 ISBN: 4569556957 \657)
2001/07/20(金)
〜市民=私民+公民〜

 タイトルとサブタイトル通り,(日本における)「市民」の概念を問い直すことを通して,戦後の日本の民主主義を問い直している本。

 現代の日本では,市民という言葉が,官僚の権力vs市民の民主主義(p.14)という構図に代表されるように,既成の権威や権力,国家的なものや封建的なものと対立する概念,それらを否定する概念として使われている。このような「市民」の概念は,イギリスにおける2つの革命やフランス革命の影響がある。つまり,絶対王政のもとで弾圧されていた民衆が権力を倒し市民社会をうちたてた(p.51)という構図である。

 しかし,それらの革命前後の社会を,上記のような革命史観,単線的な進歩史観にもとづいて「断続している」と見ることも可能であるが,それ以外の見方もないわけではない。それは,旧来的な貴族制と市民社会が重畳的に折り重なっていると見る,連続史観(重畳史観:変化するものと変化しがたいものが重なり合って歴史を形づくっているという考え方, p.124)的な見方である。実際,イギリスはいまだに暗黙の階級を残した社会であり,貴族が広大な土地を所有している国である。あるいは,イギリス革命は王党派と議会の対立と言われるが,実際には,王党派にも議会派にも,封建勢力もいれば進歩的勢力もいたそうである。あるいは,革命の前後で貴族の土地所有にはほとんど変化は生じていない。つまり,イギリス革命を単純な階級闘争ということはできないのである。もっともこの点に関して筆者は,自分は歴史の専門家ではないのでその妥当性を論じることはできない(p.91)と断っているのだが。

 そして,このような重畳史観,あるいは,ヨーロッパの都市が古代,中世,近世の街並みを保存した上で現代の街並みができている(いわば重畳的都市観だ)ように,市民の概念も古いものの上に新しいものが付け加えられたものと言えるのではないか,と論じている。古代のギリシャ・ポリスにおいても中世の都市においても,市民とは身分であり,その身分に結びついた特権と義務を持っている存在であった。義務とは共同防衛である。その上に,近代国家的な「自由・平等・博愛」など,私的権利を重視した市民概念が付け加えられた。平たく言うと前者は「祖国のために死ぬ」というような市民の公的部分を表しているのに対して,後者は「祖国のために死ぬべきではない」というような市民の私的な部分を表している。筆者はこの2つを,シヴィル=私民と,シヴィック=公民(p.155),と区別している。そして,戦後日本が導入したのはもっぱら「シヴィル」のみで,市民の持つ公的な側面が忘れられている,という。

 終章では,これらとの関連でヨーロッパ的個人主義(+共同体主義)や,日本的集団主義(+公私峻別の曖昧さ)が語られ,戦後日本における「民主主義」や「市民」概念導入時の問題が語られる。さらにエピローグでは,社会科学においてよく行われるように,西欧で生まれた理念を,西欧という文脈を外して,絶対化された理念として日本に持ち込むことが可能なのか,という問題提起がなされる。このように本書は,市民という語が文化論や政治論,学問論にまで発展する,なかなか興味深い本であった。

 

■プチ旅行'01夏
2001/07/17(火)

 先日,北部に一泊旅行に行って来た。夏休み前のこの時期に行ったのは,妻の仕事の関係もあるし,夏休みに入ると料金が一気に跳ね上がるということもある。それに,夏休みに入るまでの期間を乗り切るための私の英気を養う,という目的もあった。

 がしかし,夏休み前の疲れがたまったせいか,旅行予定前日に,熱を出してしまった。妻はもう行かなくてもいい,と思っていたらしいが,子どもも楽しみにしているようだし,行った先でおとなしくしていればいいに違いない,とも思ったので,当日朝から病院に行って薬をもらい,そのまま旅行に出かけることにした。

 思ったとおり,北部の海エメラルド・ビーチはきれいだったし,ホテルにはプールもあったし,子どもたちは楽しんでいたようだ。私はもちろん泳がなかったので,2人かかえて妻は大変そうだったが。ほかにも,ホテルの無国籍レストランの意欲的な創作料理,沖縄そばの伝統的な味を受け継いでいる岸本食堂,北部に行ったら必ず行く新垣ぜんざい店など,うまいものもたくさん食べた。

 ということで,旅行は楽しかったのだが,困ったことに,未だに熱が引かない。微熱ではあるのだけど。これでは,あと3週間ある講義期間が乗り切れないではないか。

 

■『語る身体・見る身体』(山崎敬一・西阪仰編 1997 ハーベスト社 ISBN: 4938551373 \3,200)
2001/07/16(月)
〜相互行為分析がちょっと見えてきた〜

 ビデオデータを,相互行為分析(会話分析,エスノメソドロジー)を用いて分析した論文を集めた論文集。相互行為分析は,基本的な考えが従来的な研究とは違うため,なかなかに分かりにくい。それで私は,「もうこれ以上理解しようと思ったら,あとは,実際の研究論文を読むしかない」(3/8)と考えたが,それを実現することができた。そして,本書のおかげでいくつかのことがわかった。

 まず一つは,「問題の立て方」である。相互行為分析は,本書でいうとどれも,語ること・見ることが,ともに一定の場面に「参与すること」にほかならない(p.3)ということを示すために行われている。これ自体,(通常の研究の問題設定からすると)わかりにくい表現だが,それが個々の研究では具体的にどのような問題が設定されるのかが本書でわかった。それはたとえば,次のようなものである(道田による要約引用)。

  • 車椅子使用者が駅の階段を上がる際に,どのようにして通行人に介助が要請されるのか,また介助が要請されたことがどのようにして人々に認知可能になるのか(p.82)
  • ビデオゲームを介して,そこにいる複数の参与者たちが,どのように関係をとるのか。つまりビデオゲームが,それをとりまく複数の人のふるまいをどう組織化するのか(p.124)
  • 救急医療現場では,参与者たちの多くの共同作業が無言でスムーズに行われるが,それを可能にするメカニズムは何か(p.169)
  • 学校の保健室で,養護教諭が複数の生徒に対応する際,その順番がどのようにして達成されるのか(p.219)

 たとえば2番目のものでいうと,従来は,ビデオゲームで遊んでいるときには相互交流が少なかったり,相手のほうを向いて話をしない,ということが「教育的な問題」(教育上,好ましくないこと)とされてきた。しかしこのような相互行為分析では,その問題は,ゲームデザインに関連したインタラクションの変化と考える(p.126)わけである。そして,従来的な対面インタラクションとは異なるインタラクションが,ゲーム場面のなかでも調整され分節化されてたものとして現れていることが示されている。

 本書で分かったことの2番目は,相互行為分析の「方法」である。たとえば『相互行為分析という視点』では,「常識(いつももちいている方法)の解明」というようなことが書かれているが,それがどのように「解明」されるのか,今まではよくわからなかった。しかし,たとえば先ほどの3番目の問題(救急医療)でいうと,

ここで扱われている出来事についての観察は,時に,救急医療の専門家を交え,何度も繰り返し,あるときにはスロー再生を用いてビデオを見ていくうちに違和化され,発見されたもの(p.169)
なのだという。そしてこの論文でいうと,全部で3つの場面が分析の対象となっているが,その長さはおそらく,それぞれ数秒だろうと思われる。もちろん取得されたデータ全体はもっと長いのだろうが,しかし,ごく短い相互行為を切り出して,それをしつこくしつこく繰り返し見ながら,そこで行われていることを解釈していくのだ,ということがわかった。次はそのような,生の分析過程を見てみたいものである。

 本書で分かった(分かりかけた)ことの3番目は,相互行為分析の位置づけとでもいうべきものである。それは簡単にいうと,従来的な心理学などとは違い,個人主義的に,個人の頭の中で生じていることには焦点を当てない,ということのようである。たとえば上記の4番目のもの(保健室での順番対応)の研究で言うと,ある生徒と養護教諭がスムーズな交流ができない(ように見える)場面があった。それを従来的な見方をすると,養護教諭の応対が未熟だとか,生徒が反抗的という解釈になる。そのような見方が「個人主義的」と称され,本書から排除されている見方なのである。これについてこの論文の最後には,次のように書かれている。

重要なのは技術それ自体,知識それ自体ではなく,実践場面と結びつき,そこに埋め込まれた技術,知識である。そこに焦点をあわせるため,視点を根本的に転換した研究がめざされるのである。(p.232)
そしてこのような視点の転換は,教師研究においても展開しつつあると言う。それは,「技術的熟達者としての教師」という教師像から,「反省的実践家としての教師」への転換である。反省的実践とは,「複雑な文脈での複合的な問題に対処する教職専門家の反省的で創造的な性格」に焦点を当てるものである。

 今まで,なんとなくこの「相互行為分析」が,自分にとっての何かになりそうな気がして,よくわからぬまま関連書籍を読んできたが,ここにきて,私の研究上の興味とつながった,という気がした。詳細は秘密だけど。

 


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