読書と日々の記録2001.08上
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■読書記録: 12日『自分のこころからよむ臨床心理学入門』 8日『シミュレーション世界の社会心理学』 4日『セーフティーネットの政治経済学』
■日々記録: 13日今どきの3歳2ヶ月児 10日オープン・キャンパス 7日雑記 2日こんなFDはどうだろう

 

■今どきの3歳2ヶ月児
2001/08/13(月)

 ふと思い立って,うちの娘たちを1〜2ヶ月に1回程度,定点観測することにする。今日は3歳2ヶ月の誕生日(笑)なので,上の娘を。

 カミナリを恐れる娘,その効果は絶大だ。とくに今年は,実際にカミナリが鳴ることが多いからだろうか。食事をぐずったりしているときでも,「カミナリさん来るよ」というと,半分泣きそうになりながら,大急ぎで食べている。ちょっとかわいそうだけど,毎日,食事だけに限らず何かあるたびに使ってしまう(特に妻が)。そんなことすると,すぐに効果が薄れちゃうんじゃないかと心配だけど。

 ちなみに,もう一つの「食べさせる」テクニックは,下の娘(11ヶ月)を利用すること。下の娘(けっこう食いしん坊)が一口食べるたびに,聞こえよがしに「しいちゃん(仮名)はすごいねぇ。大きくなるよぉ」と言う。すると上の娘もあわてて食べては立ち上がり,「まあちゃん(仮名),大きくなったでしょう」と得意げである。うーん,かわいいというか単純というか...

 「ボケ!」という口癖は,最近すっかり影をひそめてしまった。よかったよかった。マイブームみたいなものだったのか。おかげで私は,遠慮することなく子どもの前で(主に妻に対して)言っちゃったりしてしまっている。

 「お手紙」のことを「オテミガリ」と言っていた娘,さらに転音して「オテリガミ」と言っている。ミガ←→リという転音だ。「リ」が取れると大正解なんだけどねぇ。相変わらずチリガミはチミガリと言っているのだけれど。

 

■『自分のこころからよむ臨床心理学入門』(丹野義彦・坂本真士 2001 東京大学出版会 ISBN: 4130120344 \2,520)
2001/08/12(日)
〜社会心理学から考える心の不適応〜

 臨床心理学入門の本。全体的に語り口は平易なのだが,ちょっと読みにくいような気がした。それは,文章中にカッコが多用されているせい(たとえばこんなぐあい)だろうと思われる。その点を除けば,他の類書にはない大きな特徴をもつ本であり,それなりにおもしろいのではないかと思う。

 主な特徴は3つあると思う。まず,抑うつ,対人不安,精神分裂病の3つのみに絞っていること。なかなかいさぎよいし,ゴチャゴチャしないのでよい。2番目は,わたしたち自身のこころのなかを見つめることによって,こうした問題の芽が理解できる(p.2)という「自分のこころからよむ」点である。とはいってもこれは,各章の冒頭に,その章の内容にちなんだ簡単な質問紙がついている,という(だけの)ことのようにも思えるが。

 最大の特徴は,社会心理学をベースにしてこころの不適応の問題を考える(p.3)点である。上記3つの精神疾患が,原因帰属理論,抑うつリアリズム,自己意識理論を用いて説明されているのである。まあ抑うつや対人不安は,帰属理論で十分説明可能に思える。抑うつであれば,ネガティブな体験を,内的(自分のせい)で安定的(今後もおきる)で全般的(別の場面でもおきる)なものとして帰属しやすいことが,抑うつになりやすい素因であるという。ありがちな説明である。

 しかし本書では,精神分裂病も社会心理学的に説明しているのである。精神分裂病の中の症状で,自我障害といわれるものがある。自分の考えが他人につつぬけになっていると感じられたり,他人の考えが自分のなかに直接入ってくるように感じられる体験(p.104)のことである(前者を自我漏洩体験,後者を作為体験とも言う)。その「他人」は,主観的には非常になまなましく存在しているにも関わらず,誰だれと名指しはできない。ではその他者とは誰なのか。そこに「誰でもない他者」というパラドクスが生じているという。

 その他者を本書では,社会心理学の自己意識理論を元に,自分の内部に取り込まれた他者(内在的他者)であると考えている。内在的他者とは,自分を他人の目で眺めてみるときや自問自答するときのような,公的な視点のことである。通常はこれは,自己の中に統合されている。つまり,あくまでもそれを考えているのは自分だとわかっている。しかし自分のものだという感じが弱まると,実在する他者のように感じられ,それが自我漏洩体験や作為体験になるのではないかと言う。その説明が妥当かどうかはまったく判断がつかないが,なかなかうまい説明になっていることは確かである。私にとっては,ここが本書のヤマ場であった。

 本書の最後には,精神病理にセルフコントロールの技法を用いて対処するためのヒントが書かれている。それは,認知(考え方や出来事の捉え方)を変える,考え込まずに自己から注意をそら(p.152)すなど気晴らしをする,専門家に相談する,の3つである。これら(特に前の2つ)は,認知療法的な考えから出てくるものである。本書で扱われている社会心理学はどれも,認知論的な社会心理学なわけで,シメが認知療法なのは実に納得がいく。ただ,1つ目(認知を変える)と2つ目(考え込まない)って,矛盾するような気がしないでもないんだけど...

 

■オープン・キャンパス
2001/08/10(金)

 今日はオープン・キャンパス,つまり,高校生向けの大学説明会の日だった。備忘録がわりにその記録を。

 私は午前の部を担当した。参加者が,去年は40名以上いたのだが,今年は16名だった。他のコースの先生も減っているとおっしゃっていたのだが,その理由は不明。まあ,教室サイズからすると,ちょうどいいくらいだったのだが。

 時間は1時間半で,最初の30分がこの専修の説明,その後約20分,2名の教官によるミニ講義,それから15分程度,2名の学生にうちの専修や大学生活について紹介してもらった。

 学生とは何の打ち合わせもせずに臨んだ。別に悪くはなかったのだが,やはり慣れないせいか,ちょっと流暢ではなかった。来月の教育実習は大丈夫なのだろうか,とちょっと思ったりして。

 まあそれにしても,打ち合わせゼロはまずかったかもしれない。学生も,どこに焦点を合わせて話していいか分からない感じだったし。どちらかというと,これから大学を受ける高校生向けというよりは,これから大学生活を送る新入生向けっぽい話になっていた。一般論だったり,大学に入ったらこうした方がいい,見たいな話になっていたり。

 来年は,ちょっとその点に注意をしてもらって,今現在,自分たちがどんな大学生活を送っているかを具体的に語ってもらうことにしよう。そのほうが,高校生もイメージが湧きやすいだろうし。

 あと,私のミニ講義は,準備不足もあって,イマイチだったのではないかと思う。「教育心理学的な研究を紹介する」というやり方をはじまる30分ぐらい前に思いついたのは悪くなかったのだが。もう少し,単純でわかりやすくて劇的な実験例だとよかったかもしれない。そんなものがあればの話だけど。

 

■『シミュレーション世界の社会心理学−ゲームで解く葛藤と共存−』(広瀬幸雄編 1997 ナカニシヤ ISBN: 4888483647 \2,000)
2001/08/08(水)
〜仮想世界ゲームを通して見る社会心理学〜

 以前,『大学の授業をつくる』という本を読んだとき,私にとって最大の収穫は,実は本書の存在を知ったことだった。地球規模の問題が再現されるようなゲームで,実際にさまざまな経済現象(貧困や環境問題など)や社会現象(同調や社会的ジレンマなど)が再現されるという。特に,社会心理学的な現象が体験できるということで,非常に興味を持った。

 で買ってみた本書。実はちょっと思っていたのとは違っていた。私はこの本は,「シミュレーションゲーム」のやり方や実施結果,注意事項などについて書かれている本だと思っていた。確かにそういう部分も多い。最初の章は「仮想世界ゲーム」のルールと実施方法が書かれているし,最後の章は学習技法としてのシミュレーションゲームについて論じられている。

 しかしそれ以外の10の章は,原因帰属とかリーダーシップとか社会的アイデンティテイについての章なのである。もちろん各章とも,少なくとも1節は「仮想世界ゲームにおける○×」(○×は心理学的概念)という章になっている。しかしそれ以外の大部分は,社会心理学的な概念の説明や研究の紹介に割かれているのである。つまり本書は,「仮想世界ゲームについての本」というよりも,仮想世界ゲームを通して見た「社会心理学入門」の本だと思った方がいいように感じた。

 こう書くと,なんだかネガティブに受け止めているようだが,そうではない。この本は社会心理学の入門書としてみた場合,実に良くできたもののように思う。というか私は,読んでいて面白かった。単なる教科書的に諸概念や研究が羅列されているのではなく,すべてが仮想世界ゲームと関連づけられている。おかげで完璧に網羅的な社会心理学入門にはなっていない。しかし記述されている範囲に関しては,それぞれ興味深かった。

 たとえば,自分が属しない集団(外集団)の人をステレオタイプ的に見がちであるという「外集団均質効果」がある。これはよく知られたことがらだが,沖縄ではその逆の現象があることを前々から不思議に思っていた。沖縄の人はよく,「沖縄の人は〜だからねぇ」という言い方をする。つまり,自分たちのことをステレオタイプ的に表現することが多いのである。これについて本書では,少数者は多数者に比べて不利な立場,低い位置に置かれることが多いため,集団の一致・団結をはかり,特異性を発揮しようとする動機づけが働きやすい(p.47)ので,自分たちの均質性を強調するような知覚や判断が生ずるという(内集団均質効果)。少数者が一致・団結するためか。なるほど,これは納得いく説明だ。本書はこういう,通常の教科書に書かれていることよりも一歩踏み込んだ説明が多く,興味深かった。

 また本書は,「仮想世界ゲーム」という一つの仮想世界ゲームを紹介しているだけではなく,各章末にコラムとして,それ以外のシミュレーションゲームが紹介されている(もちろんどれも社会心理学的な現象が再現できるものばかりである)。世の中,こんなに社会心理学的なシミュレーションゲームがあったなんて知らなかったし,そのようなゲームが用いられている研究があることも知らなかった。できれば何かの授業で,試してみたいものである。

 #こちらをみると,土曜1日(4コマ)とその前後1コマずつの計6コマは必要なようだ。集中講義の1日(4コマ?)だけを充てることも可能なようだが。

 

■雑記
2001/08/07(火)

 ようやく試験の成績をつけたりといった雑務が終わり,ちょっとゆったり気分になる。これから9月末まで,腰を落ち着けて勉強したり物を書いたり考えたりしよう,と思う。

 でも考えてみたら,その間に帰省もするし学会もある。その前後にまとまって取れる時間は,それぞれ半月程度。なんだかあっという間だ。たっぷり8週間あるような気分になっていただけに,なにやらもう何もできない感が漂ってしまった。いかんいかん。分断されているとは言え,時間は十分にあるはずだ。気をつけてペース配分せねば。

 下の娘は昨日で11ヶ月になった。9ヶ月前から歩き始め,いまでは歩いて移動することが多い。急にドスンとしりもちをついたりして,まだまだ安定してはいないのだけれど。

 上の娘は10ヶ月で歩き始めた。下の娘は今のところ,全般的に上の娘よりも1ヶ月ずつ早い気がする。その割にはニブいところもあり,おすわりの姿勢から,何もないのにゴロンとこけたりする。早いけど鈍い。誰に似たんだか。

 最近は,音楽が鳴るとそれにあわせて手を振ったりひざを屈伸したりして踊っている。食事の時には手を合わせて「いただきます」のポーズができるし,バイバイもする。アワワもするし,体温計の鞘に体温計が入れられる。あとは何だろう。ともかく,いろんなことができるようになっている。

 一昨日は,私は風邪気味でベッドで寝ていたのだが,下の娘が何度か様子を身にきてくれた。もちろん私にそう見えただけだが。実際,どういうつもりで来たのかはわからない。でも私のところに来て,顔が見えるとニコニコしている。上の娘が私のところの来るときは,本を読めだのボールポンしようだの,必ず要求があるのだが,下の娘はただ来てニコニコ。要求されるのも悪くないけど,病床の身には,こちらの方がありがたい。

 でも,そんなふうに落ち着いているときはめちゃかわいいのだが,泣くときは,身をよじり,マライア・キャリーばりの超音波的高音を発して泣く。上の娘の経験からすると,こういう部分は,2歳になっても3歳になっても変わらない予感がする。怖さ半分,楽しみ半分である。

 妻が最近,掲示板だのチャットだのに入れ揚げている。2人の子どもは夫に押しつけて。困ったもんだ...

 

■『セーフティーネットの政治経済学』(金子勝 1999 ちくま新書 ISBN: 4480058141 \660)
2001/08/04(土)
〜競争の前提としての信頼〜

 経済オンチだというのに,ついこういう本を買ってしまう。わからない部分があるにせよおもしろいからだ。本書も,具体的な各論はわからない部分も多かったが,総論はよくわかったような気がする。そしておもしろかった。

 本書の基本的な主張は以下のように明快なものである。

「市場で競争すること」と「信頼し協力すること」という一見して相容れない正反対の行為は,実は互いに補い合う関係にある。(p.57)
だから,「協力の領域」が組み込まれてはじめて「競争の領域」も安定的に機能する,という論である。必要なのは,セーフティーネットを再構築することによって,将来の不安を取り除く制度改革(p.44)だという。同じような主張は,主流派の人もしているようにも見えるが,セーフティーネットの使用を単なる弱者救済や例外的なものと考えていたり,緊急事態にのみ発動させる使い分け論が出てくるが,上の主張はそうではない。あくまでも市場競争の「前提」として必要なものなのだ。

 このような「安全」を保障するものがないといかに問題が生じるかが,本書ではサーカスの綱渡りにたとえて説明されている(p.62)。綱渡り芸人は,穴のあいた安全ネットの上で演技せざるを得なくなると,行動がギャンブラー的になったり,あるいは思い切ったアクロバット(=市場競争)ができない。その上,綱渡りに失敗して死亡したりすると(=弱小金融機関の倒産),観客(=預金者)は綱渡りを見に行かなくなる,というアナロジーである。結局これらは,バブルの発生と破綻に対応しているという。最後の「見に行かない」が何に対応するかは明示されていなかったが,取り付け騒ぎみたいなものだろうか。

 これはアナロジーとしては分かりやすい,よくできたものだと思う。ただしここには,セーフティネットが脆弱であることの問題点はうまく表現されているが,「協力」や「競争」は含まれていないように感じた。経済オンチの私の感想なので,適切なのかどうだか判断つかないのだが。

 本書の4章では,グローバルスタンダードの落とし穴について論じられている。上述のように,市場競争が安定的に機能するためにはセーフティーネットが必須なわけだが,セーフティーネット関連の制度やルールを実現する方法は,コミュニティごとに多様でありうる(p.108)。ところが,グローバルスタンダードの名を借りたアメリカンスタンダードの押しつけ(日本からすれば,無批判的受け入れ)が行われている。従業員の雇用を守るよりも首を切れるほうが優れた経営者である,という判断であったり,自己資本比率規制やペイオフ制度であったり。これによって,日本的セーフティーネットであった終身雇用制が崩される一方,アメリカ社会の特殊性を前提とした規準が強制される構図が作られている。これからすると確かに,規準のグローバル化は価値観の画一化につながり,多様性を抑圧する方向に働いているようである。

 とまあ,本書の総論に関しては,よくわかった気がするし,納得している。しかし私は,再三述べているように経済オンチである。そして,市場主義者が書いた本を読んでも,やっぱり納得してしまうのである。述べられていることは正反対なのに,である。たとえば,このような本に必ず取り上げられることがらに,1997年のアジア通貨危機がある。その原因を反市場主義者は,「自由化が本来的に持つ不安定さの現われ」と捉え,市場主義者は「自由化が中途半端だったから」と説明する。同じ出来事に,まったく逆の説明を与えているのである。

 ここから,素人ながら大胆に述べさせてもらうなら,経済学とは「物語作り」を主とする学問なのではないだろうか。実験科学と違い,経済現象は実験することも同一の条件が完璧に再現されることも不可能だからだ。ということは,ある経済現象をどのように説明するのが最も妥当なのか,あるいは,これからどのような経済政策をとるのがいいのか,などについては,ひょっとしたら永遠に結論が出ない事柄なのかも,と思ったりした。

 

■こんなFDはどうだろう
2001/08/02(木)

 先日,ある大学の人から,FD講演会の講師依頼が来た。講演会とは言っても,複数の講師が模擬授業を行いつつ,授業について語るというものだから,一人1時間弱だ。私などに声をかけていただいて,大変光栄なのだが,この話はお断りをした。まだ若輩者だし,最近授業について自信をなくしつつあるさなかだし。それに,このような講演会の講師をする人は,単に授業がうまいとか評判がいいというだけではダメだと思う(私がそうだといっているわけではない)。自分の授業を客観視しており,かつ,大学で行われているさまざまな授業との関係で自分の授業を相対化し,そのなかで利点や欠点を理解している必要がある。でなければ,ポイントを押さえた話にならないと思う。

 もっともこのような客観視や相対化は,講演をするかどうかとは別に,授業をよりよいものにする上で重要なことだ。そう思ったので,後期は,自分の授業を録音したり,人の授業を聴講させてもらおう思っている。

 他人の授業の聴講をしたいという思いは,今回にはじまったことではない。毎学期,シラバスが配られるたびに,どれか聞いてみようと思う。でも,なかなか聞きたい授業と私の空き時間が合わなかったりして,あまり実現していないのである。でも上記のような目的なら,これはと思う授業を厳選しなくてもいいから,月2〜3コマでも,定期的にいろいろな授業を聞くことが大事だ。それならやれそうだ(相手さえ承諾してくれるならだけど)

 そう考えていくうちに今度は,共通教育棟まで足を運んだり,90分時間を割いたりするのって,けっこう面倒だよなぁ,と思い始めた。虫のいい考えだけど,もっと効率的にできないもんかなぁ,なんて思ったりして。

 そこでハタと気がついた。私に依頼があったFD講演会が,まさにそれじゃないか。模擬授業だし,一人当たりの授業時間は通常の半分以下とコンパクト(=効率的)だろう。それに,わざわざ時間割を調べて各教室に足を運ばなくても,複数の講師がその場で授業を見せてくれ,そのこころを語ってくれる。FDとか難しいことを考えなくても,授業参観の機会として考えると,これはなかなかうまいやり方かもしれない。

 さらに言うと,この方式なら,高い金を使って遠くから講師の先生をお呼びしなくても,学内で十分にまかなえる。どの大学にも,一工夫ある授業や学生に評判のいい授業はかならずあるので。それに,通常の研究授業だと,授業90分+研究会と,相当長い時間がかかるが,この方式だとコンパクトにまとめることができるので,講師もフロアも気軽に参加できるのではないかと思う。うちの大学でも,えらい先生を呼んでの伝達講習型のFDや,長い時間がかかる公開研究授業だけじゃなく,こういうタイプのFDもやればいいのに(という文章を,うちの大学の大学教育センター報にでも投稿してみるか)。

 


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