読書と日々の記録2001.08下
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■読書記録: 31日短評7冊 28日『築地久子の授業と学級づくり1』 24日『「学ぶ」ということの意味』 20日『論争・学力崩壊』 16日『すぐれた授業とは何か』
■日々記録: 25日トウビョウ ノ キロク 21日エイサー見物 17日減量宣言

 

■8月の読書生活
2001/08/31(金)

 今月,特に後半は「教育書」月間だった。

 今月よかったのは,『築地久子の授業と学級づくり1』『「学ぶ」ということの意味』『すぐれた授業とは何か』あたり。どれか一冊を選べといわれると,けっこう難しいのだが。

『魂にうったえる授業』(伊藤功一 1992 NHKブックス ISBN: 414001640X \806)

 筆者が校長として勤務した3つの小学校における校内研修について書かれたもの。言ってみれば,全国の義務教育の学校現場で,普通に行われていること(p.196)と筆者も書いているように,いったい校内研修がどのようなものなのか,また,一般的な教員の意識やものの考え方がどのようなものかがわかる本であった。しかしそれだけではない。林竹二に出会って以来,筆者が追求してきた「授業を問い直す」「自分の授業を創る」を校内研修のテーマとしてきた筆者の苦しみと喜びが描かれており興味深い。また,筆者が紹介している林竹二の言葉「子どもはみんな学びたがっている」それにもかかわらず「教師は,パンを欲しがっている子どもに,石を与えている」(p.189)というものも興味深かった。とはいえ本書は,タイトルから連想されるような激しい内容ではなく淡々としたものであったし,思ったほど林竹二の話も出てこないので,ワタシ的には期待はずれな部分が多かったのではあるけれども。

『レトリック認識』(佐藤信夫 1992 講談社学術文庫 ISBN: 406159043X \920)

 レトリックの本なのだが,扱われているものは,『議論術速成法』などの香西秀信氏のレトリックとはまるで違う。香西氏が扱っているのが,論証や説得のレトリックとするならば,本書で扱われているのは,文章を彩るレトリックではないかと思う。引用されているのも,多くが文学作品だし。やっぱり私に必要なのは,論証や説得のレトリックだよな,とか,でもこういうレトリックの本もあることを一通り知っておくのも悪くないか,などと思って読んでいた。しかし本書は,そういうレトリック解説だけの本ではなかった。レトリックの様式のなかには,人間の認識の様式が反映されており,レトリックを通して(認知科学や言語学や哲学のように)人間の認識について知ることができる,というのが,本書のテーマのようである。もっともその部分は,あまりはっきりは打ち出されておらず,示唆程度でとどまっているのだが。この話がもっと具体的に展開されると,非常におもしろいものになるような気がする。

『知覚は問題解決過程−アーヴィン・ロックの認知心理学−』(吉村浩一 2001 ナカニシヤ ISBN: 4888486174 \2,310)

 ギブソンの"直接知覚論"に正面から挑んだ(p.ii)理論だそうである。その心は,知覚が無意図的・自動的に起きるものではなく,意図的な推論や仮説提案,検証による「解決」過程なのだということだ。読後感としては,ギブソンへの挑戦が十分に達成できているようには思えなかった。扱っている実験のほとんどは,ギブソンが批判する(エアー・セオリーに基づく)実験室実験だし,それに,ギブソンが「光学情報から環境的場面を復元する」と述べているかのように書いてあるが,ギブソン流の視覚論では,知覚されるのは形や大きさなどの属性ではなく,知覚者が環境内で行動する上での「意味」である,ということなのではないかと思う。もっとも私はギブソンの本を直接読んでいるわけではないのだが。ただ,脳が情報をピックアップするにあたって,ギブソンはそれを達成する過程についてはほとんど語らなかった(p.167)とか,ギブソンは直接知覚がどのようなものであるかをそれほど明確に定義づけなかった(p.167)という指摘にはちょっと納得。

『児童の心理学』(岩田純一・佐々木正人・石田勢津子・落合幸子 1995 有斐閣 ISBN: 4641086036 \2,500)

 「ベーシック現代心理学」というシリーズの一冊。単なる教科書よりももうちょっと意欲的な感じがした。というか,そういう部分もあった。発達段階論や普遍性仮説への疑問が書かれていたりして。私がおもしろかったのは,落合氏の章。自己教育力を育てている築地学級などについて書かれている。

『発達心理学とフェミニズム』(柏木惠子・高橋惠子編 1995 ミネルヴァ書房 ISBN: 4623025306 \2800)

 再読。1年前にくらべて,この領域に対する私の問題意識が変わった(薄れた?)のか,やけに難しげで読みにくいという印象ばかりだった。それでも,中途半端なフェミニズム本とは違って,生物学的,生理的性差の問題が軽々しく扱われていないのは好感が持てたが。とはいえ,いずれ自分の研究で性差的な問題を扱う時には,また再読する必要があるのだろうけども。

『イワン・イリッチの死』(レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ 1884/1973 岩波文庫 ISBN: 4003261933 \300)

 学生のお勧め本より。私は翻訳物,特に文学のホンヤクモノが苦手であることを再認識した。解説によると「輝かしい出来栄え」だそうであるが,ふーんそんなものなのか,としか思えなかった。

『悪の対話術』(福田和也 2000 講談社現代新書 ISBN: 4061495178 \660)

 お世辞だの悪口だのの言い方の本。タイトルから思っていた内容とは全く違った。全体的には得るところがなかったが,ちょっとおもしろい箇所はあった。それは,悪人というのは,世界の複雑さを前提に生きて(p.13)いる,他人の反応にたいして敏感であるし,何よりも自分がすることにたいして,善を働くにしろ,悪を働くにしろ,意識的(p.13)というくだりである。この,「意識的」に対話する,というのが,本書のキーワードと見た。

 

■『築地久子の授業と学級づくり1 教育実践の全体像を描く』(落合幸子・築地久子 1994 明治図書 ISBN: 4181163032 \2,301)
2001/08/28(火)
〜強力に指導して自立させる〜

 小学校で自己教育力を育てる実践をされている先生ということで買ってみた本(正確にいうと築地氏の教育目標は「自立した子を育てる」(p.21)である)。第一著者は,何年にも渡って築地学級を参観,分析し,丸1年に渡って記録を取った心理学研究者である。本書は9割が落合氏によって書かれており,各章の最後に築地氏のコメントがつく,という構成になっている。

 築地氏の実践が,ちょっと他にはないような,かなり独特なものである。それはいくつもポイントがあるのだが,最大の特徴は,「たった一人のために授業を組む」という点である。それは次のような手順をふんで行われる。まず築地氏は,普段から授業記録や行動記録を,実にまめにつけている。班替えの時でも,集会のときでも,子どもの発言や行動を記入(p.160)しているのである。それらを通してみたときに,たとえば自己中心性が強く現れているなど,気になる子がいるとする。すると,適当な単元の中で,その子の問題点が表出するような課題を設定し,その子だけの変容を目指して授業を組み立てるというのである。こうすることで,いわゆる個別化学習的な状況設定をしなくても,個々人に注目した授業が可能になる。

 普段の授業風景も,かなり変わっている。授業が教師の学習課題の提示からはじまらない。それどころか,教師がいなくても授業(討論)がはじまる。発言が連続し,討論は途切れない。そのような「メインの討論」の最中に,あちこちで「個別の対話」がひそひそ話で行われている。討論の発言は,必ず直前の発言を受けて行われる。という具合である。授業はほとんど討論が主体なのである。

 しかもその討論,かなりレベルが高い。それは築地氏が4月から,明確かつ多段階の目標をたてて,討論を指導しているからだろう。たとえば,結論から話す(4月),わけや理由が話せる(5月),誰に話すのかというように相手を決めて話す(6月)という具合である(p.102)。そして3月には,話すことを楽しみながら授業をする」というところまで到達する(p.103)。話すだけではなく,「聞く」についても「書く」についても,同様の目標がある。

 そしてその目標を達成するために,とくに6月ごろまでは,子どもの討論の中で先生が非常に強力に介入して指導する。たとえば

  • 「他の人は,言ったことがわかった? それじゃおかしいよ。わからなかったら,わからないと言わなくてはいけない」(p.91)
  • 「何故,教科書に書いてあると,いいんだ?」(p.109)
  • 「意味がわからないと言っているので,同じ考えの梶山さん,言ってごらんなさい」(p.122)
という具合である。しかしこのような指導も,6月半ばを過ぎると,うそのように消えてしまうと言う。そしてもちろん,討論できることが目標ではなく,討論や調べ学習を通して,子どもたちは実に確実に知識を身につけているのである。もちろんそれだけではなく,情報を収集し,処理できる子どもを育てると同時に,人間としてのものの見方をメッセージとして伝えているのである。それは,他を大切にする,自分を大切にする,事実を見る客観的な目を持つ,強い願いをもつ,環境はすべて関わりあっている,というものである(p.215-217を要約引用)。

 討論を主体とした参加型の教育とは言っても,このように強力に指導が行われ強力にメッセージが発せられるという意味では,この実践は『すぐれた授業とは何か』で取り上げられたどの授業とも異なるものである。そして,子ども(大学生も含めて)を鍛えようと思うなら,ヒントになる部分は多いような気がした。何せ,大学院の授業でも,討論(のある面)は,小学生の4月レベルなのだから。

 

■トウビョウ ノ キロク
2001/08/25(土)

 先週1週間で,家族4人のうち3人が風邪で倒れた。

 最初は上の娘(3歳2ヶ月)。月曜日に40度の熱が出た。最初の2日は本当に辛そうで,雰囲気もいつもとまるで違っていた。声が高く平板になっているにも関わらず多弁で,本当にうわごとのよう。些細なことにも過敏に反応するし,ちょっと見ていて痛々しかった。3日目からは,38度から39度程度に収まり,俄然元気も出てきた。声も普通に戻り,遊んだり歌ったり走り回ったりする。本当に38度もあるの?という感じの元気さだった。

 次は私(さんじゅうン歳)。水曜日の午後から調子が悪くなり,うちに帰って測ると39度1分。こんな高熱になったのは,ここ30年以上ないはずだ。これは3日続き,相当ツラかった。頭が痛い。喉が痛い。腰(関節)が痛い。おかげで十分に寝ることができない。食欲がない。特に頭痛が辛かった。39度以上のときの頭痛は,キリで刺されるような鋭い痛み。38度後半のときは,万力で締め付けられるようなジワッとした痛みだ。一番痛いときは,かつて習ったことのある(?)ラマーズ法的呼吸で,痛みを逃がしてみたりした。絶大ではないが,多少の効果はあったように思う。ああよかった。習っといて(というか,妻のラマーズクラスに付き添って)。

 次は下の娘(11ヶ月)。木曜日から熱が出はじめ,金曜日には39度台に。今は38度台だが,この子の場合は,どんなに熱があっても食欲が衰えないから,今のところ,あまり心配はしていない。もちろん,小さい子はすぐにミルミル体温が上がってしまうので,要注意ではあるのだけれど。

 私は,今は38度台前半。これだと,頭痛も弱くなり,ときどきしかない。少なくとも横になっている限りは,それほど辛くもない。39度台から比べると,38度前半は,平熱みたいなもんだということがわかった。歌ったり走り回ったりはできないが,日記ぐらいはいくらでも書ける。もちろん立ってうろうろするとキツいのだけれども。ああ,ふだんは37度ちょっとでると大騒ぎしていたのが,うそみたいだ。

 一つ心配なのは,基礎体力の低下。体重は,減量計画では1ヶ月先の体重を先取りしてしまった。これ自体は悪くはないのだが,筋肉や体力は落ちているだろうから,風邪が治ってもトップスピードでウォーキングできるようになるのは,しばらくかかりそうだ。それだけではない。水曜日以降,本を読んでいない。本当なら,2冊ぐらいは読んでいるはずだったのに。本を読むにも,毎日継続することによって得られる「基礎体力」が存在する。それがどれほど衰えているのか,ちょっと気になるところだ(とりあえずマンガを読んでリハビリ中)。

 ありがたいのは,妻が元気でピンピンしていること。これで妻も風邪を引いていたら,と思うとぞっとする。彼女は普段から,我が家の中で(というより,私よりも)健康で元気なのだが,「鉄の女」とか「温度感覚がおかしい違う」などと言ったりして申し訳なかった。いまは心からそう思っている。あなたは我が家の大黒柱だ。弥勒だ。弁才天だ。吉祥天だ。毘沙門天も混じっているか?

 それはさておき,その妻もメル友(高校の同級生)にいろいろ教えてもらったり,励ましてもらったりして,大変助かったようだ。関係者の方々,ほんとうにありがとうございました。私も日記が書けるくらいには回復しました。あと,私の奥さんにも,ありがとうと言わなければいけない。といってもまだ完治していないので,完治するまではよろしく。

 

■『「学ぶ」ということの意味』(佐伯胖 1995 岩波書店 ISBN: 4000039326 \1,575)
2001/08/24(金)
39度の夏カゼ
3日目。ツラい
〜学ぶとは自分探しである〜

 「学び」に焦点を当て,学び手の学ぼうとする意図,学び手にとっての学ぶことの意味(p.4)などについて考察している本。本書でいう「学び」とは,心理学でいう「学習」のような,第3者的な立場から観察されたものとは違う。もっと学習者自身の主体的な営み(p.2)が前面に出ているイメージのようである。本書では,心理学的な研究は(意図的に)まったく触れられていないが,筆者の立場は,状況的学習とか,文化実践への参加としての学習と言われるものだと思う。

 それに加えて,「関係論的視点」(p.192)が,本書におけるものの見方の基本にある。関係論的視点とは,能力や性格特性などを,行為主体が持っている力と考えたり,頭や心の仕組みや属性に帰属させる考え方を否定するものである。そうではなく,その個人が「今,そのときの」社会的な関係,文化的な関係,歴史的な関係の中で,また,それらとの関係づくりとして生きているあり方であることを重視し,そういう能力や特性を「目立たせる」関係構造を明らかにしようという立場(p.192)のことである。

 本書は平易で,具体例も多く,読みやすいし,示唆的な話も多いのだが,このような立場であるせいか,全体として,これがわかった!的なはっきりしたものを読み取るのは,私にはむずかしかった。そこで,本書のテーマである「学び」だけに絞って,本書の各章で学びがどのように捉えられているかを,以下に抜き出してみた(強調および注は道田)。

  • 「自分にとって本当に学びがいのあること」を探す,ということは,いい換えると,本当の自分とは何か,を探し求める「自分探しの旅」だといい換えてもいいだろう。(p.10)
  • 人の学びをひろげてくれるのは,このように,YOU的他者(二人称的他者)と,YOU的道具との親密な交流であり,それによって,私たちの「からだ」=自我が拡大し,変化し,さらにより深く社会・文化に「入り込んで」いくのである。(p.70)
  • この第敬瑤任蓮せ笋燭舛痢岾悗屐廚箸いΡ弔澆,文化的な所産を「創り出す」人々の営みに,自らも「創り出す」立場で,いわば生成的に関係を作っていくことであると提案したい。(p.83)
  • 関係づくり(注:他者との関係づくり)集団の外側(文化的・社会的実践の場)に向かうとき,集団の成員間は,先輩・後輩のちがいはあっても,基本的には「ともに学ぶ者」同士となる。(p.146)
  • 本書では,学習とは認知とか情動とかに分離できない,その人間の全体性に関わることなのだとするのである。(中略)このことを別のことばでいうならば,「学ぶ」ということは,つねに「私が知る」という,この「私」のレベルでの営みだということである。(p.179-180)

 これらをもとに,さらにまとめてみるならば,「学びとは,他者と交流や共同作業をしながら文化を創り出す中で行われる自分探し」,ということになるだろうか。

 私自身,こういう立場が十分に理解できているとはいえないので,間違っているかもしれないが,本書のような立場は要するに,非要素主義,非能力主義,非個人主義的なもの,つまり,全体論的,関係論的,生態学的なものだと思う。そしてそのような立場は,ギブソン流の生態学的心理学(たとえば『エコロジカル・マインド』)や,エスノメソドロジー的相互行為分析(たとえば『語る身体・見る身体』),さらには昼の心理学などと通じるものがあるような気がするのだがどうだろうか。

 

■エイサー見物
2001/08/21(火)

 先週末,エイサーを見に行ってきた(エイサーについてはこちら参照)。

 今年は,お盆(旧暦)の時期と我が家の諸日程の折り合いが悪く,沖縄の夏一番の楽しみであるエイサーが見に行けない,そう思っていた。ところが沖縄市のプラザハウスで,エイサーをやるという。これを見つけて,エイサー好きの妻は大喜び。ということで行ってきた。

 場所はプラザハウスの駐車場。時間は19時30分から20時30分まで。出場団体は,沖縄市を代表するエイサーである久保田青年会と園田(そんだ)青年会。それぞれ20分ほど演舞してくれたので,大満足だった。

 久保田もなかなかよかったが,やっぱりすごかったのは園田エイサー。こういう一定の場所で演舞する場合は通常,隊列をつくってその場で踊る。したがって私たちは,久保田のエイサーに関しては,見物した場所の関係上,フロントの大太鼓の人ばかりを見ていた(というか,それしか見えなかった)。しかし園田のエイサーは,隊列からいつのまにか輪になって,ぐるぐる回りながら演舞してくれたので,締太鼓も,手踊りの人も見ることができた。手踊りには外国人らしき人が混ざっていて,上手に踊っていたのが印象的だった。最後は両青年会入り乱れてのカチャーシー。すっかり堪能させていただいた。

 もう一つすごかったのは,下の娘(11ヶ月)。エイサーを見るのは初めてのはずだ。私は地べたにあぐらをかいて座り,足の上に娘を座らせていた。まずは久保田の演舞がはじまると,手拍子をはじめた。このあたりはまあ,普段からダンスのビデオで鍛えているから,こんなもんだろう,と思っていた。しかしそのうち,すっくと立ち上がり,2,3歩前に進み出たかと思うと,一方の足は地面につけたまま,もう一方の足でトントンとリズムを取り始めたのだ。恐るべし11ヶ月児。彼女なりに踊っているつもりになっているに違いない。これで我が家の女性陣3人は,みんなお祭り好きであることが証明されたようだ。

 #園田エイサーはCDも出しているらしい。

 

■『論争・学力崩壊』(「中央公論」編集部・中井浩一編 2001 中公新書ラクレ ISBN: 4121500024 \798)
2001/08/20(月)
〜紙上論争で学力問題がわかる〜

 これはなかなかおもしろい本であった。タイトル通り,学力崩壊についての論争なのだが,さまざまな雑誌に発表された論説や対談を収録する形で構成されている。つまり,学力崩壊に関する一連の議論を1冊の本に収録することによって,擬似的に論争が構成されているわけである。こういう本は,今後どんどん出してもらいたいものだ。

 論点は要するに,今の子どもや若者(特に大学生)の学力は低下しているか,という現状認識の問題と,文部科学省の教育改革路線が,さらに子どもの学力低下に拍車をかけるのではないか,という今後の見通し問題の2点が中心だろう。特に後者に関しては,論者の多くは改革反対論者であり,賛成者は文部省の寺脇氏のみ,条件付き賛成者や部分的賛成者がボチボチ,といったところではないかと思われる。私はこのような,子どもの学力の現状認識の問題も,これからの改革の是非の問題もあまり知らなかった。本書のおかげで,いくつかのことを知ることができたし,考えることもできた。

 まず一つ分かったことは,こういう問題は「現状認識」でさえ,コンセンサスが得られていないということである。本書の最後には,高校教育の関係者(先生など)のアンケートが載せられているが,ある県立高校教員は学力の低下は感じません(p.262)と言っているのに,次のページでは別の人(組合の事務局長)が,「学力低下は確実に進んでいる」という認識を,ほとんどの高校にいる現場教師たちは持っている(p.263)と断言しているという具合である(どちらも同じ県の人である)。ちなみに文部科学省の寺脇氏は,大学生対象に授業をしたときに,「熱意が感じられない」し「質問も出ない」(p.88)ような経験から,学力不足と感じているようである。自分はそこで何を学んでいるかがわかっていない(p.88)のが問題だと言う。下に書いた「理解型」の問題,ということだろう。

 それから,このような議論において,論者のレベルにも,(当然のことかもしれないが)そうとうに幅があるように感じた。ある対談では,国公立大学の教養部が廃止されたことを受けて,大学でも基礎学力を学ぶ機会が失われてしまいましたとか教養部所属の先生がいなくなってしまった(p.59)から入試問題を自前で作成できない大学が出てきた,と論じられている。しかし,教養部廃止という「組織の問題」と,教養教育という「カリキュラムの問題」とは別物であるのに,その区別がなされていない(論者はみんな大学の先生なのだが)。こういうところから見ると,印象や思い込みで論じられている部分も多いのではないかと思った。

 私の個人的関心から,一番興味深かったのは,河合塾の理事である丹羽氏の話である。丹羽氏によると,塾の生徒の学習の傾向は,「理解型」と「納得型」に分けられるという。理解型とは,先生の言うことを正しいと見なしてすべて受け入れる生徒である。この場合の理解とは,先生の言っていることがおかしいように聞こえても,その意図をくみ取って理解する,ということのようだ。それに対して納得型とは,文字通り納得いくまで質問し追求する生徒である。丹羽氏は,これからの大学がすべきことは,もっと「納得型」を発掘すること(p.148)と述べている。これは同感,というか,それが発掘できるような入学試験ができればやってみたいものだと思う。もちろんそれだけでなく,納得型の学生を育成する必要もあるだろう。

 しかし現実にはこれは,かなり難しいことかもしれない。というのは丹羽氏によると,学校や受験にうまく適応できるのは理解型の生徒で,東大,一橋,東工大の生徒は圧倒的に理解型が多いのだそうだ。印象にもとづく評価だろうが,しかしありそうな話ではあると思われる。しかもそれに加えて,大学のほとんどの先生ご自身が「理解型」で,「納得型」を理解できない(p.149)とも言っている。これもありそうな話であり,そして,もしこれが本当だとするならば,いくら大学改革と言っても,そう簡単には変わらないのではないかというちょっと暗い気持ちにさせられる話である。そんなことばかり言ってもしょうがないのかもしれないけれど。

 

■減量宣言
2001/08/17(金)

 今週はじめに,人間ドックに行ってきた。昨年は申し込み忘れたので,2年ぶりのドック入り。

 検査の結果,コレステロールは正常範囲,体脂肪率は「正常」と「肥満」のちょうど境目だった(これは私の意識の中では「正常範囲」である)。しかし,中性脂肪と尿酸値が高かった。この2つは2年前も高かったのだが,そのときは「要注意」レベルだった。ところが今回は「病院へ行け」レベルである。ちょっとショック。

 とはいえ確かに,夜,自宅にいるときは,無制限に本能のおもむくままにお菓子を食べていた。夕食後のアイスクリームとシャーベットは日課だったし(妻が好きなので)。チョコレートは常備,それに最近は,亀甲せんべいという駄菓子がマイブームで,毎日食べていた。

 それに運動量も減っていた。暑いとか腰が痛いとかを理由に,徒歩通勤をサボっていたし。入るほうが多くて出るほうが少なければ,問題が生じても文句は言えない。それにしても「病院へ行け」レベルとは。トホホ。

 で,痩せることを決意した。医者は「3ヶ月で3キロ」といったが,中間目標を設定する。具体的には,今日を起点にしてとりあえず1ヶ月で1キロ減らすことにする(ことをここに宣言する)。1キロなんてたいした量ではないが,しかし何もしなければ何も変わらない。当面の戦略は,徒歩通勤をかかさないこと,週末も5000歩以上は歩くこと。そして,おやつを減らすことである。いきなりゼロは不可能そうなので,2日に1回程度は,多少おやつを食べてもいいことにして,様子を見る。

 こんなゆるい条件で減るのかどうかはわからないが,1キロ減で終わりではないので,このくらいでいいのではないかと思っている。もちろん2週間程度やってもまったく効果が出なければ,もう少し条件を厳しくしなければいけないだろうが。それにしても大丈夫かなぁ。帰省とか学会とか,飲食量の増えそうなイベントも控えているんだけど。

 

■『すぐれた授業とは何か−授業の認知科学−』(佐伯胖・大村彰道・藤岡信勝・汐見稔幸 1989 東京大学出版会 ISBN: 4130020617 \1,400)
2001/08/16(木)
〜参加型教育いろいろ〜

 特徴的な授業実践を取り上げ,その授業のなかでの子どもの思考過程や理解の形成過程,教師の学習観や子ども観,それらと認知科学の諸研究との関連づけを行った本。各章とも,1人の話題提供があり,それに続いて4人による討論が収められている。(実際には,4人で18回行われた研究会の一部のようだ)。

 取り上げられているのは,丹羽氏による作文教育,ランパートによる算数の実験授業,有田氏の社会科授業,そして仮説実験授業である。これらは,筆者たちがたまたま興味を持ったり,問題意識にぴったりだった実践だそうだ。そのせいが大きいのだろうが,どの実践も,伝達型(教え込み型)ではなく,参加型の教育である。そような参加型の教育観のことを佐伯氏は自分がまずのめり込んでいく中に人を呼び込んでいくというような教育観(p.169)と述べている。

 たとえば第1章の丹羽氏の作文教育でいうと,この教師は,「きょうは綴方の時間だから書きましょう」ということはほとんど言わない。ただ,自分の生活ノートに,ふと思ったことを書きとめさせ,それを読みあったり話し合ったりするなかで,自分のなかで一生懸命考えているんだけど堂堂めぐりをしている問題を書こうというふうになる子がでてくるという(p.6-8)。そうやって出てきた作品には,先生はとてもじゃないけど手なんて入れられない(p.10)。しかし自分で書こうと決めたことは,それを伝えようと自主的に推敲するし,いろんな人の作品を読みあう中で,他人を意識して書こうという関係が出来上がる。このような教育について,佐伯氏は次のように発言している。

何か合わせなければいけないんじゃないかとか,こういうふうにやらなければいけないんじゃないかとか,そういう「ねばならぬ」を子どもがあまりにも先取りして考えてしまうところを取っ払って,自分の中で取り込めるものを取り込んでいくという,主体的な活動を解き放つということが,教育としては最大の課題(p.41)
参加型の教育といっても,単に参加・体験させればいいわけではなく,このような視点が重要なのだろう。そして,本書で取り上げられた授業はすべて,思いつきも含めて,子どもたちがどういう発言をしても基本的には認められるという関係は絶対まずつくる(p.140)ことは行われているようだ。

 ただ,同じ参加型の教育といっても,ここに取り上げられた実践は,それぞれ異なる側面を持っている。最初の作文教育は,上に書いたように,まったく教師が介入しない教育。ランパートの実践は,最終的に身につけさせたい技能があるが,教師が周到に状況を準備することにより,自ら法則を発見し,自然に身につくように工夫されている。そのなかで子どもの発想は,教師が矯正しないで,それをできるだけ生かして(p.95)いくよう扱われる。有田氏の実践は,授業は新しい問題を発見させる時間(p.236)であり,調べる(追求する)力をつける時間であり,極端に言えばお遊び(p.151)である。問題の結論は,各自が時間外で調べて得ており,その追求こそが本論であるという。仮説実験授業は,「一定の法則を身につける」ことを目標とした授業であるのと同時に,どの教師でも同じような授業ができるよう,テーラーイズム的に方法論がカチッと決められている授業である。このように,同じ参加型の授業とはいっても,それらの違いをよく見る必要性がありそうである。

 あと,仮説実験授業だが,私の仮説が正しいなら,これは複数の実験を畳み掛けることによって法則を身につけていく授業なはずで,この本のように,1時間で行われた一つの課題を巡る討論を見ただけでは,仮説実験授業の真髄はわからないと思った。

 


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