読書と日々の記録2001.09上
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■読書記録: 12日『デモクラシーの論じ方』 8日『組織の不条理』 4日『論理トレーニング101題』
■日々記録: 12日米同時多発テロ,在沖米軍は 11日迷走台風16号 10日2周年 5日MP3プレイヤー 2日Most Impressive Books

 

■米同時多発テロ,在沖米軍は
2001/09/12(水)−2

 今日の琉球新報夕刊は,在沖米軍が事実上の臨戦態勢に入っていると伝えている。

 まず昨日の夜から,五段階ある警戒態勢のうち、湾岸戦争中にもなかった最高レベルの警備態勢「デルタ」に格上げしており,イラクの上空監視活動にF15戦闘機を出している在沖四軍の警戒態勢は、事実上の”臨戦態勢”に入っているそうだ。ローカルニュースでも,台風のさなか,基地のゲートに車止めを置いて,検問をしたり,車の下をミラーでチェックしている姿が流されていた。

 コンディション・デルタについては,今日の昼に見たAFN(米軍放送)のテレビでも,テロップで伝えていた。

This is an AFN special announcement. This is not an excercise. All millitary bases on Okinawa are now in force protection condition delta. This means that terrorist atack has occured or intelligence has been received that a terrorist actoin against special location or person is likely. Stay tuned to AFN for further updates.
3文目にコンディション・デルタの意味らしきものが書かれている。2文目に「これは演習ではない」とあるのもすごい。

 実は,これをきちんと書き取りたくて,英語も大してわからないのに,昼にAFNを見続けていた(けれどもまったく出なかった)のであった。テロップが出た,と思ったら,台風15号についてのアナウンスだったりして(洋名はtyphoon NARIだそうだ)。一旦は諦めて,午後から台風のさなか,大学に仕事しに行ったりした。念のためさきほど(23:00)見ていたら,ようやく出てきたので,こうやって日記ネタにした次第。

 #沖縄が台風で「他国の上空監視活動」などの行動に出にくいからこのタイミングを選んだ,というのは考えすぎか?

 

■『デモクラシーの論じ方−論争の政治−』(杉田敦 2001 ちくま新書 ISBN: 448005894X \714)
2001/09/12(水)
出戻り台風が停滞中
〜対立軸を知る本〜

 デモクラシーの諸問題が,立場の違うA,B二人の論者の対話(論争)という形で論じられた本。全編それだけである。おかげで,デモクラシーにまつわる問題には何があり,代表的な主張として何があるかはわかる。

 しかし,この形式は,私はちょっと不満だった。それは,論者の名前はおろか,個性や情景も語られていない。それによって,議論が実に無味乾燥なものに感じられ,個人的には読みにくかった。

 しかも,必ず賛否両論が論じられるため,何かが「わかった」という感じにはならない。もっとも,デモクラシーをめぐるいくつかの対立軸が見えてきたとすれば,それだけでも収穫(p.189)と書かれているように,それこそが筆者の目指しているところのようではあるのだけれど。このようなタイプの本から得るところがある人というのは,最初から自分の意見を持っている人ではないかと思う。そういう人は,一方の立場に共感しつつ,それに対して反論がありうることを知ることができる。しかし私のように,基本的な考えを持たないものにとっては,「いろいろある」で終わってしまいそうな本だった。

 それだけではない。2名の論者の立場がはっきりしており,基本的にはふたりの議論は,決して交わることはない。それも一つの議論のあり方だろうし,違いを明確にするという意味では,悪くないのかもしれない。しかし私は,議論の醍醐味は,複数の論者が,お互いに自分の立場から「のみ」論じるだけではなく,お互いの論点を理解したうえで,双方の意見を相対化したり,止揚したりする点にあると思う。しかし本書ではそのようなことはなく,ただお互いの立場を主張するだけに終わってしまっているのが,読みにくくかつ不満な点であった。せめてお互いの意見を位置づける程度のことはしてもよかったのではないかと思う。というのは,デモクラシーは1種類ではなく,いくつかの形態がありうると思うからだ。

 それでも,出てくる意見の中には,なるほどと思えるものもいくつかあった。たとえば次のようなものである(強調は道田)。

  • 誰にでも何らかの先入観や持論というものがある。でも,討論の中で,それが変わることがありうる。その意味では,デモクラシーというのは,物事を考える過程に似ている。(p.20)
  • 僕はむしろ,デモクラシーを発見の過程と見ているわけだ。さまざまな意見がぶつかり合う中で,新しいものが生まれる過程,それがデモクラシーだ。(p.31)
  • 議会こそがデモクラシーだなどということはありえない。議会に集約される以外に,人々の多様な議論や活動が行われている時にだけ,デモクラシーというものは生きていることができる。議員に任せて,後は知りませんということでは,デモクラシーは死んでしまう。(p.100)
  • デモクラシーにおける政治家は専門家ではない。少なくとも,医学における医者が,あるいは料理において料理人が果たしているような専門家とは役割が大きく違う。むしろ,人々と一緒になって考えて行くところに本領がある。(p.121)
これらはいずれも,「A」が論じているものである。ということは,「B」はこれとは違う考えなわけである。具体的には,次のようなものである(道田による要約引用。順番は,上の引用と対応している)。
  • デモクラシーは決定手続き(p.20)
  • デモクラシーは多数派を解体する過程ではなく,多数派をつくり出すもの(p.31)
  • 代表制がうまく機能するためには,人々の間に「適当によろしくお願いします」という,謙虚(消極的)な態度が必要(p.99)
  • 政治家は,人々の議論をリードする専門的な役割を果たすべき(p.122)
ふうむ。こうやってまとめてみると,全体を貫く対立軸が少し見えてくる感じがする。前者が過程や少数者重視の理念派,後者が決定や制度重視の現実派,というところだろうか(まちがっているかもしれないけど)。やっぱり本書の前に,それぞれの立場のみを論じた本なり意見に接して,自分なりの意見を作っておく必要があるな。誰か適当な本をご存知ありませんか?

 

■迷走台風16号
2001/09/11(火)

 台風お見舞いメールなぞいただいたので,ちょっと近況を。

 台風16号が沖縄本島を襲来した7日は,私たち家族は沖縄にはいなかった。妻子は実家に,私は学会に。おかげでなんの被害も受けなかったのだが,うちのことはちょっと心配だった。

 というのは4年前にも,旅行で留守中に沖縄本島を台風が直撃したことがあるのだ。そのとき,窓の上にある小窓を少し空けていたのが敗因だった。おそらく横殴りの雨が降りこんだのだろう,ふすまが汚れ,窓際に置いていた本がゴワゴワになって,2倍ほどの厚さになっていた。上のほうにある小窓だから,と侮ってはいけない,という教訓を得た。

 今回,窓をどうしていたか忘れていたのだが,帰宅後,ざっと調べたところ,雨が降りこんだ形跡はなかった。ああよかった,と思ってトイレに入ったら,甘かったことがわかった。トイレの窓が,ほんの少し空いており,そこから雨が降りこんで,トイレのマットが水浸しだった。まあでも,洗えば済む程度の被害でよかった。

 ただ,今回の台風で一つよかったことがある。それは,9〜10日に予定されていた全島エイサー祭が,今週末に延期になったのだ。今年はエイサー見物は諦めていただけに,我が家にとっては朗報だ。棚からボタモチ状態。

 #...と思っていたら,台風が戻ってきてるんだって?

 ##...と思っていたら,10時45分に暴風警報が出てるんだって?

 

■2周年
2001/09/10(月)

 このページも,昨日で2周年を向かえた。

 はじめのころは,本当に単なる読書の「記録」で,簡単な感想と,それと同量(以上)の抜き書き,という構成であった(見ないでネ...)。まあ,あまり気合を入れずに,それぐらいでとどめておかないと,長続きしないだろうと思ったのだ。

 しかしすぐに,読書と記録の習慣がついたようで,その心配は全然いらなかった。そして,いろいろな本を読むうちに,読んだり書いたりすることが,自分の仕事に大いに役立つことに気づいた。というか,自分の研究テーマとの関連から本を選び,本を読み,思ったことを書くようになった。以前も書いたように,ある意味では「本を読んでいろいろと考えること」は,最近の研究活動の中核といっても過言ではないのである(2000/12/30)。

 そんなこんなで,現在のようなスタイルに落ち着いた。そういえば,はじめのころ簡単な感想+抜き書きという構成にしたもう一つの理由として,「私ごときが,人様の本をえらそうに論評できるわけがない」と思っていた,というものもあった。

 しかし上に書いたように,自分の立場や視点が定まってくると,自然と批評めいたことも出てくるようになった。それはある意味,開き直りとも言える。自分は自分なりに,この立場から一生懸命理解しようとしたけど,これだけしかわからなかったとか,ここが気になったとか。はじめた頃は,こんなことまでできるようになるとは思いもしなかった。2年間でそれなりに成長した,といってもいいかもしれない。まあこれからは,そんなには変わらないだろうけれど。

 あ,そういえば,現在のように変わっていったもう一つの理由として,読んでくれた人からいろいろと意見をいただくことがあったから,というものもある。おかげで私も,そういう視点を取り込んだり意識しながら,読んだり書いたりするようになった。ということで,私の文章を読んで,何か思われた方は,今後とも,ぜひお気軽にメールなどでご一報くださるようお願いいたします。m(_ _)m

 

■『組織の不条理−なぜ企業は日本陸軍の轍を踏みつづけるのか−』(菊澤研宗 2000 ダイアモンド社 ISBN: 447837323X \2,800)
2001/09/08(土)
〜人間の限定合理性〜

 大学で経済を専攻していた知人に教えてもらった本。大東亜戦争における日本陸軍の不条理な行動が,合理的な判断に基づくものであることを,新制度派経済学なるアプローチを援用して論じている。

 新制度派経済学とは簡単に言うと,

どんな人間も完全合理的ではなく,限定合理的(bounded rationality)だとみなす(p.3)
考え方なのだそうだ。これをさらに,私なりに平たく表現するならば,「どんなバカな行動も,歴史や状況や個人的事情を考えると,それなりに合理的な面を見出すことはできる」,という考え方のように思える。この,それなり(人間なり)の合理性という考え方は要するに,『合理性と推理』に出てくる合理1性と同じであろう。

 どんなものにもそれなりの合理性が見出せると言ってしまえば見も蓋もないかも知れない。しかし筆者によると,従来の戦史研究では,日本軍が不条理(不適切)な作戦選択をして負けいくさを重ねた理由としては,人情重視主義や非合理的な楽観主義,敵戦力の過小評価などが指摘(p.114)されていたらしい。しかし筆者に言わせれば,そのような指摘は,基本的に完全合理的な人間を仮定し,そのような完全合理的な人間行動を理想とし,その理想と現実を比較して現実が非合理的であったと批判しているにすぎない(p.114)という。そして上記のような,限定合理性の考えに立つならば,そのような不条理に見える行動の背後には,人間の合理性が潜んでいるのである。完全合理性の立場にたった批判が批判にならないという指摘は,一理あるように感じた。

 しかし,そこで取られた行動が限定的な意味では合理的である,とはいっても,それが効率的あるいは倫理的かどうかは別問題である。というか,日本軍の不条理とは,ある面合理的でありながら非効率的であったり正しくなかったりしていたのである。そこで,そのような合理的非効率や合理的不正の状態に陥らないためには,組織が「批判的合理的構造」を具備していることが重要(p.208)だと言う。これは,人間が限定合理的であることを自覚し,誤りから学ぶためには,積極的に誤りを受け入れ,徹底的に批判的議論を展開することが必要(p.208)ということであり,筆者も何度も引用しているが,きわめてポパー的な発想である。

 本書で,このような考え方の一般論はよくわかった。しかし問題点も感じた。それは,実際の作戦や軍政の分析が,きわめて一般論のレベルでとどまっていることである。たとえば,これまでにずっととってきた戦術に固執するのが(限定)合理的であるとしたも,すべてのケースで「過去への固執」という方策がとられるわけではないはずである。どういうときにそうなり,どういうときにはそうならないのか,そのケースではなぜそうならないことにならなかったのか(要するに,なぜそうなったのか),という分析が,一般論を超えたレベルで読みたかった。一般論のレベルでしか論じられない説明とは,結局,「何でも説明できるけれども,その実何にも説明できていない」説明にしか過ぎなくなる。基本的な考えがおもしろいだけに,その点は非常に残念であった。あと,最後の批判的合理的構造にしても,その利点ばかりが強調されている。実際は,批判にさらしさえすれば何でもよくなるわけではないはずである。そのような,批判の問題点やコストの分析がなされていない点も残念だった。

 

■MP3プレイヤー
2001/09/05(水)

 MP3プレイヤーを買ってみた。

 買ったのは,2chを含むいくつかのWebページを元に検討した結果(+買いに行った店でリズナブルな値段で売られていた),MPIOという製品である。決め手になったのは,WMAファイルも聴けること,小さいこと,電池のもちがよいこと,スマートメディアに対応していること(我が家のデジカメがこれなので)。

 使ってみて不満に思ったのは,リモコンがないこと。音楽だけではなく,英語関係のCDをこれに落として聞いているので,リモコンがないのは非常に不便だということがわかった。まあその点は工夫するしかない。ナイスなウェストポーチでも見つかれば解決するのだが。そしてそれ以外は,満足している。

 MP3プレイヤーを買おうと思ったのは,単純である。減量のために歩く時間を増やすことにした→その時間を有効利用したい→じゃあMP3プレイヤーだ,というわけである。

 でも買ったあとで気づいたのだが,実はポータブルのMDプレイヤーの方が,もっと軽くて電池のもちがいい製品がある。メディアの値段はもちろん,MDの方がはるかに安いわけだし。しまった,選択を誤ったかな。一瞬そう思ったが,次のように考えることにした。

 まず,小さくて電池の持ちがいいMDプレイヤーは再生専用なわけで,その場合,録音用のMDプレイヤーも必要になる。それに比べるとMP3プレイヤーはコストパフォーマンスがいい。MP3プレイヤーは,メディア(スマートメディア)はバカ高いので何枚も買うわけにはいかないけれども,CDさえあればデータはすぐに作れるし,ケーブル一本でパソコンから転送できる。こういうシステムなので,パソコンに入っているデータのなかから,今必要なものだけを選んで転送することになるが,考えてみればそちらの方が,何枚もMDを持ち歩いてディスクをとっかえひっかえするよりもいいんじゃないだろうか(必要なものだけを1枚に編集しなおすのは,MDでは大変なことだろうと思う)。

 まあ,なぐさめて半分,本気半分である。それが本当に本当なのかどうかは,数ヵ月後,私がMP3プレイヤーを使いつづけているかどうかでわかるはずである。

 #使っていない場合,妻に「またガラクタを増やして」となじられているはず...

 

■『論理トレーニング101題』(野矢茂樹 2001 産業図書 ISBN: 478280136X \2,100)
2001/08/31(木)
〜思考を表現し読み解く力を身につける〜

 101の練習問題を通して「論理の力」をつけるための問題集。ここでいう論理の力とは,思考力のことではなく,思考を表現する力,あるいは表現された思考をきちんと読み解く力(p.1)だという。誤謬推理が取り上げられていない以外は,非形式的論理の本っぽい。と言っても非形式的論理の本が典型的にどういう構成なのか,実はよく知らないのだが,自然言語を対象にした論理学ということで。

 感想を一言で言うならば,得るところがあったのは3割程度というところか。それでもときどき,へえ,とか,そうそう,と思う箇所がある。特に最後の章「論証を批判的にとらえる」では,「批判的」ということについてなかなかうまいことが書かれている。たとえば次のようなものである。

  • いっそう重要な,強調したい批判のあり方は,理解するために,あるいは受け入れるために為される批判である。それゆえ,結論には共感しつつも,なおその論証に対して「これはおかしい」と声をあげるということが起こる。(p.131)
  • この「批判」ということが苦手な人がけっこういる。対立するか馴れ合うか,どちらかしかできず,共同作業として批判するということにうまくなじめないのである。その結果,批判することと対立することがゴチャゴチャになってしまう。(p.139)
  • たんに目についたところを手当たりしだいに批判するのではなく,相手の論証の構造をきちんと押さえながら,チェックすべき点をたんねんに見ていかなければならない。(p.142)
どこかで使えそうなフレーズばかりである。本当はもっとたくさんあるのだが,たくさんありすぎるので,これぐらいにしておく。どれもうまい表現だ。批判の微妙な位置づけが,おおざっぱに切り捨てられることなく,上手に丁寧に表現されている。わたしもこういうことが言いたかったけどうまい表現が見つからなかったのよ,と言いたくなるような文章ばかりで,ちょっとうらやましい。

 最後に,本書に対する私の批判的読みを一つ紹介しよう。「推測の適切さ」に関する章で,推測の適切さを評価するためには,他に有力な代替仮説が考えられないかどうか考える必要がある,という説明がある。そしてその実例として,シャーロック・ホームズの推理に対して,代替仮説の可能性をいくつか提示して見せたりしている。具体的には,ワトソンの新品のスリッパに焦げ跡がついていることから,風邪をひいていることを見破ったことに対して,スリッパに焦げ跡があるからといって,風邪を引いた以外の可能性をいくつか挙げて見せているわけである。そのあと,このように代替仮説をいろいろ考えることについて,次のように筆者は述べている。

これは論理というより想像力の問題に思われるかもしれない。しかし,つじつまがあうかぎり,決めつけを避けてあらゆる可能性を考えてみるというのは,まさしく論理の力なのである。(p.124)
 ここで使われている「論理の力」という語は,「あらゆる可能性を考えてみる」ことに対して用いられており,冒頭の定義(思考を表現/読み解く力)と対応しないのではないだろうか。同著者による『はじめて考えるときのように』には,「論理の道筋をたどることは考えることとは違う」(p.70)という表現があり,これは本書冒頭の定義と対応する考えである。これから考えても,「論理の力」は冒頭の定義の方が妥当で,「あらゆる可能性を考えてみる」ことは,論理の力というよりはやはり,想像力の問題といった方がいいのではないだろうか。

 

■Most Impressive Books
2001/09/02(日)

 昨年に引き続き,この1年間に読んだ本で印象的だったものを12冊選んでみた。

 選考基準は昨年とだいたい同じで,印象的であるということと,もう一度読んでみたいと思ったものである。昨年はそれに加えて,1ジャンル1冊というベストナイン的基準を設けていたが,これは今年は撤廃した。今年は,同一ジャンル内にいい本が何冊もあったので。そして,残る2つの選考基準のうち,「もう一度読みたい」にこころもち重点をおくことにした。

 それにしても,選考は非常に難航した。というか,6冊程度はすぐに決まったのだが,残りが難しい。読書記録をはじめてほぼ2年。読む本の焦点が絞れてきたという感じだ。だからどの本も捨てがたいし,再読したい。とはいえ,再読ばかりではなく新しい本も読みたい。ということで,心を鬼にして選んだのが次の12冊である(順不同。というか,私が最近読んだ順)。

 あ〜あ,ほんとうは,あの本もこの本も捨てがたいんだけどなぁ。

 


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