読書と日々の記録2001.10下
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■読書記録: 31日短評8冊 28日『カタログ現場心理学』 24日『実践・個を育てる力』 20日『仮説実験授業の考え方』 16日『「わざ」から知る』
■日々記録: 26日ごあいさつ 25日減量その後 22日読書記録の効用 17日減量2ヶ月5kg減

 

■10月の読書生活
2001/10/31(水)

 前にもちょっと書いたように,今月は不作の月だった。短評行きと思っていた本を何冊か復活させて,ようやく体裁をなすことができた感じ。実は今月一番読んでよかったと思ったのは,『心理学と教育実践の間で』(↓)かもしれない。再読ものながら,時間に余裕があれば,改めて長評を書こうかと思ったくらいだ。

 それでも,良かった本がなかったわけではない。まずは何といっても『発達心理学入門』。そのほかに,『実践・個を育てる力』『「学び」から逃走する子どもたち』も挙げていいかもしれない。最後のやつは,内容はさておき,分量的には薄いブックレットなので短評行きかと思っていたのだけれど。

 そうそう,それから,今月このページのアクセスカウンタが4万を超えた。めでたい。FastCounterのページで,日ごとのアクセス数を見ることができることに,最近気づいた。それによると,今月最も多かったのは10日で139,最も少なかったのは20日で42であった。なぜそうなのかはわからないけれど。

『心理学と教育実践の間で』(佐伯胖・宮崎清孝・佐藤学・石黒広昭 1998 東大出版会 \2800)

 久々に再読してよかったと思える本だった。1年前に読んだときよりもはるかによく理解できたからだ。それは,この1年で私が読んできたものの蓄積が役に立ったということもできるし,逆にいえば,いかに1年前はわかっていなかったかということでもある。本書のおかげでたとえば,エスノグラフィーとアクション・リサーチの違いもわかったし,状況的アプローチと呼ばれるものの意味もわかった。状況的アプローチとは,個体能力主義とは違い,活動の媒介性,知識の文脈性,意味の交渉性を強調する立場(p.126)である。状況的アプローチには複数のものがあり,状況的行為,社会的分散認知,状況に埋め込まれた学習などがあげられているが,ここには,最近いくつか読んだ,関係論的視点も入るのではないかと思う。

『アメリカのユダヤ人迫害史』(佐藤唯行 2000 集英社新書 ISBN: 4087200477\680)

 反ユダヤ主義とはすぐれて欧米人だけの問題ではなく,すでに我々日本人自身も内に抱え込んでいる今日的な問題でもある(p.15)との問題意識から,主に20世紀前半にアメリカで起きた,特徴的な反ユダヤ主義的・ユダヤ人差別事件を6つピックアップし,それを通してアメリカにおける反ユダヤ主義の全体像を描こうとした本。まあ,ほとんど日本における今日的な問題,という描写は出てこないのだが,しかし,このような少数民族差別が,新しい都会的アメリカの攻勢に対抗して,古き良き農村的アメリカを守りぬこうとする動きの表れ(p.122)であったことは,よくわかる。そういえば,携帯電話などの新しい技術が普及する過程で,否定的な「うわさ」があらわれる(『うわさの謎』による)。大雑把にまとめてしまえば,アメリカにおけるユダヤ人迫害も,同様の構図と言うことができよう。もちろん、アメリカの総人口の2.5パーセントにしか過ぎないユダヤ人が,全米で最も裕福な4000人の大富豪の26パーセントを占める(p.210)というユダヤ人の特殊性も,その迫害や差別のあり方と関係していることは忘れてはならないのだが。それにしても,自由と平等の国と思われているアメリカの高等教育機関でさえ,クォータ・システム(特定の人種的・宗教的少数派集団に対する差別的入学定員制度)を通して,1950年代ごろまで人種差別を行っていた(p.156)ことは,ちょっと驚きだった。

『「うつ」を治す』(大野裕 2001 PHP新書 ISBN: 4569610846 \660)

 医学部講師が書いた,うつに関する本。診断や症状,といった基礎知識から,心理療法,薬物療法までが書かれている。とくに薬理学的な部分はまったく知らなかったので参考になったが,心理療法(認知療法)のくだりは,「自分の思考の根拠や結果を問い直すことで,硬直化した考え方からはかなり解放される」みたいな,楽観的すぎる記述が気になった。「コントロール感覚を取り戻させる問題解決技法」も,一般的な問題解決のサイクルが書かれているだけだし。

『ロジカル・シンキング−論理的な思考と構成のスキル−』(照屋華子・岡田恵子 2001 東洋経済新報社 ISBN: 4492531122 \2,200)

 私のもっている本が,3ヶ月で11刷刷っている,えらく売れている本。ただ私は,タイトルから期待した内容と違ったので,かなり斜め読みっぽい読み方をしたが。要は,ビジネスの場面において,So what?という問いで結論を明らかにし,Why so?という問いで推論の妥当性を検証する,という作業を,重なりなく網羅された(MECE)要素に適用することで,タテにもヨコにも堅牢な論理を組み立てる,ということのようだ。形式論理も非形式論理も明示的には扱われておらず,ロジカル・シンキングの本というよりは,ビジネス・シンキングの本だと感じた。そういえばなぜか一箇所だけ「課長・視野狭窄」というおやじギャグがかまされていた。

『「生きる力」を育むポートフォリオ評価』(村川雅弘編 2001 ぎょうせい ISBN: 4324063745 \2,400)

 タイトルに書かれているようなことについて知りたかったのだが,残念ながら,あんまりしっくりくる理解はできなかった。ポートフォリオ評価なるものを導入しさえすればすべてうまくいく(いった)かのような書かれ方は,ちょっと違和感がある。利点があるのは認めるが,どういう場合にそれがうまく働かないのか,そういう状況ないのか,そういう子どもはいないのか,そしてそういう場合に,どうすればその問題を少しでも改善できるのか,と言った視点がほしかった。

『ライ麦畑でつかまえて』(J. D. サリンジャー 1951/1984 白水社 ISBN: 4560070512 \820)

 訳者によると,最初サリンジャーが持ち込んだ出版社からは,主人公が「クレージー」だと評されて突き返された(p.333)そうだが,私の読後感もそれに近い。私が若者の心を失っている,ということだろうか。それにしても訳者は,登場する大人が心の動きを彼(=主人公)によって正確に見抜かれている(p.337)と論じているが,それは言い過ぎではないかと思った。少なくとも「正確」である保障はないと思う。

『痛快!経済学』(中谷巌 1999 集英社インターナショナル ISBN: 4797670010 \1,700)

 非常にやさしく書かれた経済学の教科書。『竹中教授のみんなの経済学』よりは教科書くさかった。経済オンチの私が言うことなので間違っているかもしれないが,ミクロ経済学,マクロ経済学,そして新古典派的な考え方のごく入り口が紹介されている。やさしいとはいっても,私は需要供給曲線のところでつまずいてしまったけれど。供給曲線について,「高く売れるものほどたくさん作ろうとする」という,値段→供給量方向の説明はわかるのだが,それが別の箇所では,「少ないものは安く作る」という供給量→値段方向の説明になっている。これがどうしてもわからなかった。

『恐るべきさぬきうどん』(ゲリラうどん通ごっこ軍団 1993 ホットカプセル ISBN: なし \1048)

 古本屋で100円で買った,お笑いエッセイ+隠れたさぬきうどん名店紹介の本。こんなところにうどん屋が!という店が香川にはたくさんあるらしい。ああ,行ってみたい。

 

■『カタログ現場心理学−表現の冒険−』(やまだようこ・サトウタツヤ・南博文編 2001 金子書房 ISBN: 476082295X \3,200)
2001/10/28(日)
〜自由に研究しましょ〜

 21世紀を切り開く新たな心理学の方法論と表現法を提案するカタログ=見本帳として編まれた本。1編8ページで,全部で22のフィールドワークが含まれている。個人的には,教室におけるアクション・リサーチについて,体験を通して論じた秋田論文が興味深かった。それ以外にも,実にさまざまな分野におけるフィールドワークが含められているので,読者の興味によって,いくつかは得るところがあるのではないかと思う。ただ,実際のフィールドワーク研究を紹介しつつ,フィールドワークの方法論や表現法も論じられているので,「フィールドワークの実際」を知る論文集のつもりで読むと,ちょっと物足りないかもしれない。そういう目的「だけ」の本ではないので,それはそれでいいのだけれど。

 ただやっぱり,自分自身がやらない(知らない,わかっていない)せいか,フィールドワークに対して,いくつか疑問や釈然としない点も感じた。本書の編者の一人であるサトウ氏は,日常の疑問から出発する「違和感分析」を提唱しておられるので,私も本書から感じた違和感について,ちょっと考えてみた。

 まず,一番感じたのは,現場心理学の節操のない方法論の自由さである。単なる参与観察にとどまらず,文芸批評的なものやドキュメンタリー的なものもあるし,「観察」を超えて,メンバーとして参加するようなものもある。そういうものを見ると,もはや「心理学」と言えるのか,という疑問がわく。もちろん「心理学」でなければならない理由はない。しかしそうであれば,タイトル(現場心理学)にも「心理学」はなくていいはずである。本書のいう「現場心理学」は,心理学の看板をはずした「フィールド研究」とどこが違うのであろうか。

 しかし一方で,数値的なデータをあげたり,きわめて科学的な心理学論文に近いスタイルの文章が混じっていることもある。そういうのを見ると今度は,どこが「現場」心理学なんだろうか,という疑問が逆にわいてくる。あるいは,一見フィールドワーク的な手法をとりながら,結論としては,特定のフィールドを離れた一般論的なものが述べられていると,そこにも違和感を感じる。そういう一般的抽象的法則的なことが知りたいのか? それではどうして,あえてフィールド的な体裁をとるのか? そのフィールドにおける固有性はどこに置き忘れてしまったのか? そういう疑問(違和感)がふつふつと沸いてしまう。

 もっとも,そういう疑問と関係しそうなことが,まったく触れられていないわけではない。ひとつは,編者の南氏の言葉として,心理学者のフィールドワークが,文化人類学者や社会学者のそれと違うのは,人間関係により敏感な「関係のエキスパート」によるそれであるがため(p.177)とある。本当にそうか?という疑問はあるが,一つの考え方ではあるだろう。またサトウ氏はあとがきで,

研究しましょ!ってことである。現場で,自由に。成果の表現も,自由に。しかし,全てを勝手にやっていいわけではない。研究方法の蓄積が必要である。このカタログはそうしたバランスの上に成り立っている。(p.188)
と述べている。こちらは「心理学」は放棄してしまっているようだが,これもひとつの考え方であるだろう。まあ以上のような諸疑問はあるものの,私個人としては,フィールドワークという手法には非常に興味を持っており,将来性も大いにあると思っているので,これからも理解を深めていこうと思っているのだけれど。

 

■ごあいさつ
2001/10/26(金)

 大東文化大の中村さんに教えてもらって(9/16)注文していたIntercommunication(季刊)No.38がようやく届いた。「ネット社会の新潮流」(第一人者33人が選ぶテーマ別ウェブ・サイト)という特集で,私のサイトが紹介されている,ということだったが,見て見てびっくり。

 隅っこの方にちょっと載っているだけだろうと思っていたのだが,苅宿先生が書かれた「教育的な観点から10サイト」の1番目にあげられているではないか。しかもトップページの写真つき(小さくだけど)。あーたまげた。このページは,HTMLもろくに知らなかった2年前,自分が書いた本の宣伝をしようと思って,本を見てちょこちょこっと作ったページなので,恥ずかしいことこの上ない。

 せっかくなので,紹介文を一部抜粋すると,

特に,道田先生の読後感を集めた「読書と日々の記録」は教育に興味をもっている人には,ぜひ勧めたいページです。(p.64)
と書いてくださっている。自分では,自分用のメモに毛の生えたもの,と思っているので,恐縮することこの上ない。それに読書記録以外にも,減量だのオヤジギャクだの娘自慢だの書いているし。一瞬,こういうのはやめちゃおうかなー,なんて思った(ぐらいに恐縮した。多分やめないけど)。

 ということで,これを読まれて来られた方もおられるかもしれないので,ちょっと「ごあいさつ」をすることにした(雑誌が出てから1ヶ月以上経っているので,手遅れかもしれないけど)。

 えー,はじめまして。ようこそ「読書と日々の記録」においでくださいました。このページは,私が読んだ本の備忘録であると同時に,本の内容を人に紹介することによって自分の理解を深める,というページです。書評ではありません。しかし,私と興味関心の近い方にとっては,多少なりとも役に立つ部分があるかもしれません。

 本は月に10冊以上読んでいるのですが,そのなかから7〜8冊,おもしろかったもの,自分なりにまとめてみようとおもったものを紹介することにしてます。そのような「読書記録」の部分は,4日,8日,12日などの「4で割り切れる日」の,だいたい午前中に更新しています。

 本はどれも,私自身の研究テーマとの関連で選んでいます。研究テーマは「思考(批判的思考)」です。わたしがこういうことを考え始めてから,まだ5年ちょっとしかたっていないので,「専門家」というのはおこがましいのですが,このことについては,毎日考えている,と自分では思っています。

 批判的思考という概念は,以前から言われてはいると思うのですが,日本ではちょっと前まではそれほどメジャーな言葉ではなかったと思います。ですから,これと直接関係する本は,非常に少ないのが現状です。しかし,読書記録をはじめて,定期的にたくさん本を読むようになってからわかったのですが,批判的思考と間接的に関係のあるもの,結びつけることのできるものは,実はけっこうあると思います。私が読んでいる本は,ほとんどがそういうものです。

 たとえば,子ども達が討論していたり自ら考えている授業の記録などはそうです。ほかにも,民主主義というのは一種の批判的思考の過程と言えますし,哲学や論理学,倫理学,科学論や研究法,あるいはその他の分野でも,「目からうろこが落ちるような議論が展開されている」研究は,批判的思考という観点から,興味深く読むことができます。ですから,ぱっと見には,私の選書はいろいろなものがあって,雑多な印象をうけるかもしれませんが,私としてはすべて,批判的思考について考えたり,私自身の思考に磨きをかけたり,思考力を高めるような教育をするにはどうしたらいいか,というヒントをくれるものだと思っています。

 具体的に本を選ぶときには,だいたい次のようにしています。(1)読んでおもしろかった本に挙がっている参考文献,(2)読んでおもしろかった本をネット上で検索したときに同時に見つかる類書,(3)私が定期巡回している書評ページでみつけたもの,(4)大学図書館の新刊書のコーナーで目についたもの。

 こういうものは,捜せばいくらでも見つかるので,私の目の前には,いつも10冊から20冊の本が順番待ちをしています。読書記録をはじめて2年たちますが,思うことは,捜せば捜すほどおもしろい本が見つかる,ということです。私の探し方は上記のように偏っておりますので,もしこれをお読みの方で,おもしろい,私の興味と関係ありそうな本をご存知の方がおられましたら,ご一報いただけるとうれしく思います。また,このページを読まれたご感想などございましたら,メールなどいただけると幸いです。

 

■減量その後
2001/10/25(木)

 17日の日記には,減量について楽天的に書きすぎた,と反省している。あれじゃ参考にならん,と人にいわれたりして。

 私の食生活に関しても,ちょっと大げさに書かれている(ようにも読み取れる)。アイスクリームやプリンは,食べるといっても娘と一緒なので,口に入るのは半人前である。飯を腹いっぱい食べているという表現も,あまり正確ではない。夕食に関して言うと,食事はゆっくり食べて7〜8分目。最後に水を一杯飲むと,ちょうど満腹感が来るくらいの食べ方であった。

 確かこのころ,人に「ろくに飯を食べてないのじゃないか」みたいなことを言われた。ご飯はちゃんと食べてるもんね,という気持ちが強かったので,表現がちょっと大げさ目になった。それだけでなく,自分でもその気になってしまい,最近は食事だけで満腹感が来るくらいに食べてしまっている。その結果,以前は食事の1〜2時間前には空腹感があったのに,最近それがなくなっている。そしてこの1週間,体重がほとんど変わらず停滞しているのである。

 それぐらい普通なのでは?と思われるかもしれないが,ここ3週間ほど,1週間の体重変化はコンスタントに,800g〜1.2kg減だったので,この停滞はちょっと手痛い(オヤジギャク失礼)。そんなに減らなくてもいいけれど,200gぐらいは減ってくれてもいいのに,と思う。

 まだ肥満度13%強なので,もう2〜3kgは減らしたい。まずは夕食を食べ過ぎないように気をつけねば。それでも減らなかったら,足の重りを重くするか。

 

■『実践・個を育てる力−静岡市立安東小・築地学級の授業−』(藤岡信勝編 1988 明治図書 ISBN: 418232420X \2,505)
2001/10/24(水)
〜何も言わずにクラス作り〜

 『築地久子の授業と学級づくり1』に引き続いて読んだ,築地学級の記録。この本(以下「前著」と呼ぶ)が数年にわたる観察に基づいて書かれたのに対し,本書は,丸2日の授業記録に基づくものである。また,書かれた時期(そしておそらく観察時期)も5年ほど違う。

 築地学級とは簡単にいうと,教師がいなくても授業がはじまり,前時のまとめなどなしにすぐに討論がはじまるようなクラスである。討論のテーマも授業の方向性も,みんな子どもが決める。また子どもは討論だけでなく,必要に応じて(自主的に)友達と相談したり実験したりしながら問題を解決していく。

 本書の第一の目的は,築地学級の授業の「記録」にあり,2日間の授業のうち,4つの授業が克明な記録として残されている。これを通して,前著ではなかなか見えなかった,1時間丸ごとの授業の進められ方などがよくわかる。そして,前著である程度築地学級の様子は知っていたにもかかわらず,やはりこのような授業記録を4時間分読むと,教師なしに子どもたちだけの討論で授業のほとんどが進んでしまうという授業のあり方に,驚き(とよく理解できない)の連続であった。

 本書ではまた,編者と築地先生の対談がところどころに挿入されており,築地先生がこのような授業をはじめるにいたった経緯が多少明らかになった。それによると築地先生は,30代のころまでは,公開研にしても父母参観日にしても,一度文章を書いてみて,その通り一字一句まちがいなくしゃべるというような授業(p.80)をしていたのだそうだ。テープに入れて練習までして。

 ところがいろいろあって,それとはまったく対極にあるような授業をするようになる。現在はクラスをこのように育てるために,築地先生は,以下のような作戦を取るという。

あたらしく担任になった時に,最初はほとんどものを言わないんです。「おはようございます」とか,「お元気ですか」と言ったきり,朝からひとことも先生がものを言わないんです。(p.84)
うーんこれもすごい。しかしそれが2〜3日(!)過ぎると,バラバラに勉強をはじめるようになり,となり同士話し合いが始まり,それを次第に討論に組織していくようだ。そのようにして,3ヶ月ぐらいかけてクラスを作りながら,「授業というのはみんなでつくっていくんだよ」「お互いを高めていくのが授業なんだよ」(p.88)ということを,子どもたちに伝えていく。この2つはまったくその通りだと思う。逆に,これがまったく行われていないのが,通常の講義・教師中心の一斉授業なのだろう。

 このような哲学と方法論に支えられた,(いろんな意味で)すごい授業であるにもかかわらず,授業者である築地先生は,私,そんな特別な教師ではありませんし,たいしたことをやっているとも思っておりません(p.237)とか,私のやり方は,特別な能力がなくてもできるからいいんだ(p.238)とおっしゃっている。これもいろんな意味ですごい。

 

■読書記録の効用
2001/10/22(月)

 自画自賛っぽい話で恐縮なのだが。

 前回の読書記録は,自分で言うのもナニだが,ナカナカであった。出来の良し悪しとかそういうことではなく,ああいうことが書けたり考えられたりした,ということが。

 そもそも今月は,読書記録始まって以来の不作月である。現時点ですでに12冊読んでいるぐらいのペースであるにも関わらず,次の読書記録はどれにしようか,と毎回悩んでしまうような状況なのである。

 しょうがないから,いつもだったら月末の短評に回されそうな本を,急きょ繰り上げ当選で取り上げている始末。前回の『仮説実験授業の考え方』も,正直言ってそうだった。これを読んだのは,もう2週間以上も前。読み終わって,すぐに「短評行き」だと思った。

 その本が短評向きか,定例更新日にきちんと取り上げたい(以下「長評」と呼ぶ)かは,読んでいる最中にだいたい目星がつく。各ページにマーカー入れまくり,付箋紙貼りまくりの本は,問題なく長評へ。あまり線を引かなかったものは短評へ。この本が短評行きと思ったのは,すでにいくつか読んだ「仮説実験授業モノ」に比べて,新たに得たものが少なかったこと。今回の読書記録でも,前半が自説の妥当性の確認に費やされていることからも,それがわかるかと思われる。

 短評にまわすものは,簡単な読後メモを書いて終わりである(それをまとめて月末にアップしている)。今回もそうしていた。しかし弾切れ状態である。改めて読後メモを読んでみると,最後に「押しつけに対する著者の考えがわかった」と(だけ)書いてある。これを膨らませることにした。

 それで,その点に注目しながら,もう一度この本を眺めてみると,「押しつけ」に関して書いている箇所が数箇所あることがわかった。それらの内容を相互に関連させ,結局筆者はどう考えているか,全体像を描いてみようとし,さらには,それに対する私自身のモヤモヤの源を追求してみた。その結果書いたのが,前回更新分の後半部分である。

 そんなに時間をかけたわけではないので,出来がいいとは思わない。しかし,本を読んでいる最中や,読後メモを書いたときには考えなかったことを,読書記録を書く過程で考えることができた。こういうことがあるから,読書記録ってやめられないんだよなぁ。

 

■『仮説実験授業の考え方』(板倉聖宣 1996 仮説社 ISBN: 477350126X \2,000)
2001/10/20(土)
〜押しつけはないけれども自由ではない〜

 仮説実験授業の提唱者である筆者が,1988年から1994年までに雑誌に発表した文章を集めた本。扱われている内容も,仮説実験授業の考え方だけでなく,宿題論,読書論,うその教育論,科学論など,多岐にわたる。

 私の関心は,「仮説実験授業の考え方」を知ることにある。私は先日,仮説実験授業の本を数冊読んで,仮説実験授業に関する仮説を考えた。簡単に言うとそれは,「仮説実験授業において,討論も実験も(考えることも)重要ではない」「同一の原理原則が必要な問題をたたみかけることで,子どもに法則や理論を学ばせる」というものである。これが適切かどうかを確認するのが,本書を読んだ第一の目的だ。以下のような記述を見ると,私の仮説が間違ってはいなさそうなことがわかる。

  • よく誤解されるのですが,仮説実験授業は決して討論をさせるための授業ではないのです(p.66)
  • バカの一つ覚えができるものだけが仮説実験授業の対象だ(p.246)
  • <仮説実験授業>というのは,結局,面白い問題で,子どもや大人がとびつくような面白い問題をうまく配列して,そして最後には,そういう問題に通ずる法則や理論がうまく使えるようになって,また楽しさを味わえるようにしているのです。(p.60)
最初のものはそのまんま,よさそうである。2つ目の「バカの一つ覚え」とは,すべての事柄に例外なくあてはまる科学的法則のことである。その法則がバカの一つ覚えであることを確認するために,問題をうまく配列する(同一原理の問題をたたみかける)。ということで,少なくとも本書を読む過程では,私の仮説は反証されることはなかった。もっとも,きちんと確認するためには,もっと授業書や授業記録を読まなくちゃいけないのだろうけど。

 本書ではその他,「押しつけ」に関する筆者の考えを知ることができた。それをいくつかピックアップしてみよう。(カッコ内は道田の補足)

  • (講演会で,授業書「自由電子が見えたなら」の実験をいくつか聴衆の前でやったあとで,金属とは何かを説明しながら)「こんなこと,最初に教えちゃえばいいじゃないか」と思う人がいますが,それでは<押しつけ>になります。ここまでやってきて,それではじめて「なるほど,そうだろう」と,抵抗なく納得できるのです。すでに自分たちが納得してきたことがまとめて書いてあるわけですから。(p.28)
  • 子どもたちに無理に教えこもうとすると,それは押しつけになります。しかし,学びたがっている子どもたちに,「勉強というのは自分でするものだ,先生に頼るな」と言い放つことも,教師の考えの「押しつけ」にほかなりません。もともと,押しつけというのは,「他人の意に反することを強要すること」だからです。(中略)そういう誤りをおかさないためには,どうしたらいいのでしょう。それには,「子どもたちは何をどのように学びたがっているか」「何をどのように教えたら楽しく学べるか」ということを実験的に研究するより他ありません。(p.134-135)
  • (自分がグラフや読解の授業が大嫌いだったことを回想して)誰かが「あるグラフ(文章)から読み取って出した結論」というのは,必ずしも真理であるわけではなくて,その人の仮説でしかありません。ところがグラフの授業では,往々にして,<教師や教科書ライターがそのグラフから読み取ったという結論>を押し付けられるので,それがいやだったのです。私はそういう結論とは別のことを考えていたことが少なくなくて,どうしても納得できなかったことがあったからです。(p.193-194)

 なるほど「納得できれば押しつけではない」「意に反しなければ押しつけではない」「楽しんでいれば押しつけではない」「自分で決めれば押しつけではない」ということのようだ。確かに仮説実験授業は,問題をたたみかけることによって「そのような仮説を受け入れざるを得ない」状況を作る。だから,納得できない,意に反した結論(仮説)が押しつけられることはない。それに,子どもが楽しめない授業はやらないことになっているので,その基準もOKである。

 それらの点ではまったく異論はないが,しかし,そのように結論せざるを得ないように,巧みに問題を配列しているという点では,そうとう強力に教師や授業書制作者のコントロールの元に生徒はある,ということができる。上記引用にある若き日の板倉氏のように,「そういう結論とは別のことを考え」る余地は,仮説実験授業にはない。完全に路線が引かれているというか。そういう意味で仮説実験授業は,「押しつけはないけれども自由ではない」ということができるのではないかと思う。

 

■減量2ヶ月5kg減
2001/10/17(水)

 我ながらできすぎた話だと思うのだが,このひと月で3.2kg減って,めでたくBMIが25を切った。減量なんて簡単じゃん,と言いたい気分。

 基本的に,当初のゆるい減量計画(1日最低5000歩+間食を減らす)は変わっていない。とはいえ,途中で体重が微増した時期が2度ほどあったので,そのときはちょっとあせって,通勤路を長くしたり(往路のみ。+1000歩だけど),足に重りをつけたり(片足500gだけど),筋トレを入れてみたりした(腕立て伏せだけど)。

 でも,3度の食事は腹いっぱい食べてるし(妻が気を使って油物を減らしているようだけれど),間食を減らしてはいるけど,週に2〜3回はアイスクリームやらプリンやら食べてるし。やっぱりできすぎ以外の何者でもないと思う。そう思わないと,慢心しそうで怖い。

 次の目標は,あと2kg減らして肥満度10%。年内達成ぐらいでいいんだけどなあ...

 

■『「わざ」から知る』(生田久美子 1987 東京大学出版会 ISBN: 4130130641 \1800)
2001/10/16(火)
〜教えない教育〜

日本の伝統芸道に代表されるような,西洋的な教育課程とは違う,徒弟制による「わざ」の習得過程における,学習者の認知プロセスに光を当て(p.21)た本。筆者自身が書いているのは140ページ強だし,似たようなことが繰り返し述べられているが,ちょっと内容的にゴチャゴチャした面があるので,私なりにあらすじをまとめてみた。。

 まず,「わざの習得(伝授)」の特徴的な面は,「厳密なカリキュラムが組んである」わけでも,「正面切って教わる」わけでもなく,「聞いて覚える」「見て覚える」という「模倣」が中心となっている点である(p.10)。基本的には「模倣と繰り返し」の連続(p.37)でしかない。先にあげた,カリキュラムがないという「非段階性」,正面切って教えないという「評価の非透明性」が,わざの伝授の大きな特徴である。

 ではなぜこのような方法はうまく機能するのか。筆者の考えがわりとまとまってよく表れていると思われるのは,子どもがパジャマを一人できることができるようになる過程を説明した,次の箇所である。

 子どもは自分が権威として認めている父親あるいは母親のすることを目にして,「自分もああなりたい」「かっこいいなあ」と,その動作を「善いもの」として同意し,それを一つの原動力として模倣活動に入っていく。しかし,毎晩これを繰り返していくうちに,次第にパジャマを着るという目標を自分なりにより豊かに広げていき,そうした生成的な開かれた目標に照らしながら一つ一つの動作の意味を自分なりに解釈していこうとする。(p.35)
ここで重要なのは,善いものとして認めたものを模倣するという「威光模倣」,そして,単なる繰り返しに終わるのではなく,自分なりに意味を見出そうとする「解釈の努力」の 二点だろうと思われる。模倣対象に「威光」(善いものであると模倣者に認められること)がなければ,自分なりに解釈しようという努力には結びつかず,単なる「形まね」で終わってしまう。また,あまりわかりやすく工夫された明確な教授や評価やカリキュラムだと,その場でわかりすぎてしまって,そこで思考停止してしまうのであろう(筆者がそこまで明確に述べているわけではないのだが)。わかりにくいからこそ,自分なりにその意味を解釈して自分のものにする(形ではなく「型」を身につける)ことになるのであろう。

 この本で述べられている「徒弟制によるわざの習得過程」は,「文化的実践への参加としての学習観」と非常に親和性が高いものである。となると,あのような教育を展開するために,まず第一に必要なのは,「まねをしたくなるほど魅力的な」教師なり題材を用意することであると,本書から言えそうである。

 まあそういう意味で本書は面白かったわけだが,不満もないわけではない。ひとつあげておくと,認知プロセスに光を当てるといっても,いわゆる認知心理学的な実験やデータが出てくるわけではなく,具体例に関するいくつかの文献の引用のほかは,基本的には筆者の考察だけで話が進められている。それ自体が直接問題なのではないのだが,筆者の扱っている技の習得過程や学習者の認知プロセスの変化は,きわめて理想化されたもののように感じる。善いものに出会うと模倣が行われ,そのうち自然と解釈の努力や自問自答,師匠の視点の取り込みなどが生じ,わざが自分のものになる,みたいな。実際には,このようにうまくいく場合もあれば,そうならない場合や回り道する場合もあるだろうと思われる。そこまで扱われていれば,もっとふくらみのある話になったのではないかと思う。

 


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