読書と日々の記録2001.11上
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■読書記録: 12日『賢いはずのあなたが、なぜお金で失敗するのか』 8日『レオニーの選択』 4日『実践のエスノグラフィー』
■日々記録: 13日きる/明日と明後日 10日Palmの使い心地 6日子どもを使って筋トレ 3日附中教育研究発表会

 

■嫌いの反対は「きる」/明日は明後日?
2001/11/13(火)

 上の娘(3歳5ヶ月)の言葉を聞いていると,自分なりの言語ルールをもって理解/発話していることが伺えて,なかなかおもしろい。という話を2つほど。

 ときどき冗談で娘は,「パパのこときらーい」という。悲しい顔(ToT)をしてみせると,おもしろがって「パパのことすきー」と言ってくれる。そこでうれしい顔(^o^)をしてみせると,またもや「ぱぱのこときらーい」と言いやがる。

 そうやって,「きらーい」(ToT) 「すきー」(^o^) 「きらーい」(ToT) 「すきー」(^o^) と繰り返していると,「きらーい」のあとに,「きるー」と言うことがある。というか,この遊びをやると,毎回一度は言っているような気がする。

 おそらくこれは,(服などを)「着る←→着ない」という関係を「嫌い」という語に適用したものだと思われる。「きる←→きらい」という具合に。あくまでも1つの解釈だが。

 ということは,娘は言葉を覚えたり使ったりするときに,機械的に丸暗記しているのではなく,語幹に肯定とか否定の語尾をつける,みたいなルールを作ったり使ったりしている,と言えそうである。3歳児あなどりがたし。ちょっと感動である。

 先週,娘は保育園の行事で,イモほり遠足に行った。その2日前の会話:

妻 「まーちゃん(仮名),あさってはイモほり遠足だね」

娘 「あしたは,違うの?」

妻 「そう。あしたは熊組さんだよ。」(熊組さんとは,いつもどおりの保育園という意味である)

 その次の日。つまり芋掘り遠足の前の日の会話:

妻 「まーちゃん,あしたはイモほり遠足だね。お弁当とおやつとスコップもっていくんだってさ」

娘 「……。まま,あしたはあさってなの?

これも別の意味で,3歳児あなどりがたしと言えそうである。前の日のことをちゃんと覚えているし,今日は違うことを言ったことを指摘しているし。それにしても,いったいいつどういうふうに,明日とか明後日の概念が理解できるようになるんだろう?

 

■『賢いはずのあなたが、なぜお金で失敗するのか』(ゲーリー・ベルスキー&トーマス・ギロヴィッチ 1999/2000 日本経済新聞社 ISBN: 4532163587 \1,500)
2001/11/12(月)
〜行動経済学入門〜

 経済誌の記者と,推論と意思決定が専門の心理学者が書いた,行動経済学の本。行動経済学とは,有名な心理学者トヴァスキーとカーネマンが実質的に作り上げた(p.18)学問分野で,ようするに一般に人は,経済学が想定しているほど合理的な存在ではないことを明らかにするものだ。

 行動経済学には,二本柱があるらしい。一つは,「心の会計」と言われるものである。それは,出どころ,保管場所,あるいは使い道によってお金を分類し,扱い方を変える(p.26)ことである。そのせいで,同じ金額であっても,稼いだお金と拾ったお金では,使うときの気前よさが違ってしまう。それどころか,拾い物のお金が手に入ると,その倍ものお金を使ってしまうという。気前のよさが,手持ちの(自分で稼いだ)お金にまで波及してしまうのだ。きわめて不合理なことに。もちろん「心の会計」は拾いもののお金だけの話ではない。たとえばクレジットカードのような,現実感の薄いお金などもそうである。

 もう一本の柱には,損失を極度に嫌う「損失の嫌悪」(そのせいで株のパニック売りが引き起こされる),過去に使ってしまったお金を忘れられない「つぎこんだ費用をめぐる誤り」(そのせいで計画の変更が難しくなる。『組織の不条理』でも同じ指摘がされている),ものごとをあるがままにしておこうとする「現状維持の傾向」,もっているものにほれ込んでしまう「所有効果」が含まれる(p.49)。これらは,「予想の理論」と総称されている。たとえば「所有効果」があるからこそ,売り手は商品に試用期間や現金返還保障をつけてでも,商品を持ち帰らせて使わせようとする。社会心理学でいう「フット・イン・ザ・ドア」というやつである。

 本書はこのように,対象をお金の使い方だけに絞っているが,りっぱな認知心理学の本であり,批判的思考の本である。認知心理学的な部分としては,心理学者が行った各種研究が紹介されている。それだけではなく,実際に実験で使われたような刺激文が随所にはさまれており,読者はそれを考えながら読むことになる(「コレコレこういう状況では,どちらの選択をすべきだろうか」みたいな)

 批判的思考書的な部分としては,各章の最後に,「どう考え,どう行動するか」という節があり,その章の議論から得られる教訓が,説明つきで列挙されている。たとえば,「心の会計」のワナにはまらないためには,すべての収入を働いてかせいだものだと想像する(p.44)みたいな感じである。こういったものだけが並べられているのであれば,それは単なるハウツー本だろうが,上記のように,認知心理学の実験や行動経済学の理論を元に述べられている点が,批判的思考書と言えるゆえんである。

 そういうつもりで読めば,なかなか興味深い本であると思う。もっとも,とくに後半に行くにつれて株式投資の話が多くて,私にはよくわからないことも多かったのだけれど。

 

■Palmの使い心地
2001/11/10(土)

 ちょうど1ヶ月前に,いわゆるPalm互換機を買った。買ったのはVisor Platinum。前々からほしかったのだが,買うのを躊躇していた。しかし安売りされていたので,つい買ってしまった。

 躊躇していたのは,果たしてどれほど使うか,予測がつかなかったからである。正月に買う普通のスケジュール帳でも,1年通して使ったためしがない。とくに夏場になると,ジャケットの内ポケットのような手軽な収納場所がなくなるので,自然と使わなくなる(超整理手帳を含む)。パソコン上のスケジュール管理ソフトなんか,シェアウェアに2つもお金を払っているのに,結局使っていない。

 やっぱり持ち運べなくっちゃ,ということで,次に買ったのがData Slim。これは恥ずかしながら,数日使ったっきりである。まあ,新製品が出る前の投げ売り価格だったから,損失は少ないのだが。使わなかった理由はいくつもある。画面が狭いこと,機能が少ないこと,電池がすぐになくなってしまうような気がしたこと,単体での文字入力がほとんど不可能であること,パソコンとの連携が悪いこと。とくに最後の2つは「あわせ技一本」で完全に使う気をなくさせてしまう。連携は,ノートだと問題ないのだが,デスクトップは,市販のPCカードリーダーでは認識されないのだ。カードが認識されないと,シンクロソフトも起動しないし。

 ということでPalm。今のところ,毎日快適に使っている。添付ソフトは十分に使い物になるし,フリーソフトはいっぱいあるし,パソコンとの連携はUSBで簡単だし,電池は単4×2で1ヶ月以上もつし,起動は速いし,文字入力(Graffiti)はすぐに慣れたし。胸ポケットに(なんとか)入る大きさだし。

 よく使うのは,まず英和辞典。これなら寝転がって論文を読むときに,胸ポケットに入れておけばすぐに辞書が引ける。辞書はROM上にもあるが,大きなサイズの辞書が付いていたので,英和だけはそれを入れている。スケジュール(予定表+)とTodoは,パソコンとの連携が簡単なこともあって,いまのところよく使っている。画面表示もなかなか工夫されてるし。それからメモ帳。たとえば図書館に本を探しに行ったり買い物に行くとき,パソコンからメモ帳に必要事項を転送しておけば,いちいち手書きしたりプリントアウトする手間が省ける。これも重宝している。それから実は,フリーで体重管理ソフトがあるので,毎朝使っている。以前はパソコンを起動して記録していたのだが,それに比べると起動の待ち時間がないのがいい。とてもいい。

 ほかのPDAは知らないから何ともいえないが,1ヶ月使ってみた限り,不満はない。画面は狭いし白黒だが,今のところはぜんぜん気にならない。1ヶ月過ぎたことだし,そろそろDA(Desk Accessory:よくは理解していないが,一種の割り込みソフト?)あたりに手を出してみようかと思っている。

 #使い続けなれば,「またガラクタを増やして」と妻になじられるのは必至。

 #知人に,男(私?)は「新しい」「安い」「便利」に弱い,と言われた。返す言葉はありません。

 

『レオニーの選択−18歳少女の<政治>への旅立ち−』(ブルクハルト・ヴェーナー 2000 光文社 ISBN: 4334960979 \2,200)
2001/11/08(木)
〜近代民主主義の限界〜

 『ソフィーの世界』っぽい本。政治家から来た,民主主義を考察する手紙を中軸として,政治について考えている18歳の女の子とそれをめぐる人々の話が展開される。民主主義についても,たんに説明したり利点を述べているだけではなく,現代の民主主義がどうしてこんなにおもしろ味に欠け,わたしたちをがっかりさせ,時には心底から腹立たしいものになってしまったのかを,読者が理解するお手伝いを(p.3)するような内容になっている。500ページ弱ある分厚い本だ。

 手紙のなかでの民主主義の考察は,おおざっぱには次のような内容になっている。これは,手紙の主が最後のほうで,これまでの手紙の内容を要約したものだ。

アテナイの民主制をこれこそ本物の民主制だと賛え,そのくせ同時に,従来型の近代民主主義を,これこそ現実に使える民主制だ,と持ち上げた。ところが今見えてきたのは,現実に使えるというその近代民主制の有効性が,思ったよりずっと限られていることだった。わたしたちは新しい,時代に見合った民主制をつくる必要に目覚めなければならないのではないだろうか。(p.299)

 私は,何度か書いているように政治経済オンチで,その内容に対して論評めいたことを書くことはできないので,ここにあるようなことを,本文からピックアップしてみる。

 まず,アテナイの民主性が本物,というのは,その透明性,教養のレベル,そして見通しのよさ(p.80)にあるようである。透明性とは国政がオープンであること,見通しのよさとはほどよい大きさの組織体制でったことである。教養のレベルは,市民の教養レベルが高かったので,全員参加の直接民主制が可能だったということである。もっとも参政権の範囲を,狭い範囲のエリートに絞ったからなのだが。

 しかしこれらは,アテナイの民主制の限界にもなる。ごく小さな都市国家にしか適用できないこと,参加する市民に高い教養レベルを要求することはそうである。それに加えて,直接民主制のため,各市民は多大な時間を政治にさかれ,個人の自由を脅かしていた。あるいは,情報伝達手段の発達していない時代なので,参加者が持っている予備知識は少なく,結果的に,煽動に弱く,感情にはやった決断をしがちだった(p.118)。たとえばソクラテスの死などはその例である。しかし近代民主主義は,選挙に基づく議会を作るというささやかな改革によって,これらの欠点を乗り越えている。それが上記の「現実に使える民主制」という意味である。

 それはしかし次の問題を生む。それは,利益保護や問題解決やイデオロギーよりも,エンターテイメント(娯楽)や感情移入(たとえばカリスマ政治家)など,イメージよる選挙なり政策提言が行われている,という点である。それは,イデオロギーの差が見えにくくなったせいでもあり,また,政治の仕事が複雑すぎて,「利益保護や問題解決」といった実質的な部分を市民にすべて説明することが不可能になったからでもある。そのほかにも,政治家が一般市民を「代表」していないという問題や,専門性の低い半可通のジェネラリスト(何でも屋)である政治家には現代の複雑な問題を解決できない,という信頼の低下の問題などもある。

 そのほかにも,多数決原理による少数者支配の問題とか,民主的に民主制を止めることができるという問題とか,長期的視野で政治を行うことの難しさなどもある。そこで,「時代に見合った民主制をつくる必要」があるわけだが,それに関しては,手紙ではなく断片的なメモにいくつかアイディアが示される程度で終わっている。

 本書で,著者が目的にしていた「問題点も含めて民主主義を理解する」ということは,ある程度できたと思う。しかし,考察が一直線にある方向に向かっておらず,ジグザグしているのが,どうもすっきりしないんだよなあ。似たようなことは,『デモクラシーの論じ方』でも感じたのだが。現代においては民主主義とは,すっきりと論じることのできないテーマなのか,というのが,本書を読んだ大雑把な印象。

 

■子どもを使って筋トレ
2001/11/06(火)

 最近,夜の子ども達との過ごし方が定型化してきた。

 帰宅後,食事して読書などして入浴をする。これは子どもと一緒だったり違ったり。その後は腰痛体操をしている。まずはストレッチからはじまるのだが,そこに子ども達が絡んでくる。はじめは上の子(3歳4ヶ月)が後ろに来てマネをしているだけだったのだが,最近は下の子(1歳2ヶ月)も来ている。ストレッチみたいな動作をしながら,「フンッ」と言って気合を入れてたりして。かわいい。

 続いて腹筋をしていると,今度は私のおなかの上に乗ってきたりする。一通りの体操が終わるまでは無視しているのだが,適度な負荷になるから乗ってもいいよー,と内心は思っている。それから本格的に,子どもを利用した運動モードに。

 まずは二人を,仰向けに寝ている私のおなかに乗せて,「おおがたバスーに乗ってます♪」と,おなかを上下させながら大型バスごっこ。たぶんこれは,臀筋や背筋のトレーニングになっているはずである(よくは知らないけど)。次は一人ずつおなかにダッコして,「お舟はぎっちらこー♪」と歌いながらゆりかご運動。これは腹筋のトレーニング。一人ずつやったあげく,最後に二人乗せてやると,けっこうな運動になる(ような気がする)。

 最後は,「グリンする」と呼んでいるのだが,なんと言ったらいいのだろう。柔道の巴投げみたいな形で,もちろん投げ飛ばすわけではなく,最後まで脇を支えてあげながら,子どもを空中でグリンと前転させてあげる遊びをひとしきりやっている。上の子も下の子も楽しいらしく,ちゃんと順番待ちをしながら交互にグリンされている。下の子はまだ平衡感覚がしっかりしていないのか,グリンされた後はちょっとフラフラしているみたいだけど。顔はすごくうれしそうで,空中にもちあげられたとたんに「ニヤーッ」と笑顔を浮かべるのがたまらない。こうして,子どもの遊びとパパの筋トレの一石二鳥が就寝前まで続くのである。

 

■『実践のエスノグラフィー−状況論的アプローチ3−』(茂呂雄二編 2001 金子書房 ISBN: 4760892834 \4,000)
2001/11/04(日)
〜転移と能力と熟練と〜

 この秋に金子書房から全3巻で出された,状況論的アプローチシリーズの第3巻。状況論とは,認知,学習といったものを頭の中に何かができあがることといったことに還元せずに,実践や相互行為,道具の組織化として見ていこうとする(p.i)アプローチである。

 3冊あるし,難しそうだし,値段もそれなりなので,金子書房の人に聞いたところ,3冊の間に順序はなく,また,一番とっつきやすいのが第3巻だという。それでまずはこれから読んでみた。確かにとっつきやすい部分もあったが,難しい部分も多かった。

 内容は,実践をキーワードにした理論的考察が4編,実際のフィールド報告が3編である。フィールド報告はまだしも,理論的考察に関しては,どの論考も「なるほど」と思える箇所も必ずあるのだが,その一方で「ぜんぜんわからん」と思える箇所も必ずあるのである。以下,「なるほど」部分を3箇所ピックアップ。

こうして学習転移という素朴理論は,一般的知識の獲得を学習過程の目的として説明の中に持ち込むことによって,問題解決的事態が発生する現場である諸活動の個別性,差異を脱問題化し,その上位に位置する問題として一般的知識に対する活動一般という構図を取り出してくる。(中略)その結果,学習の問題は,もはや諸活動の個別性や差異を視野に入れる必要がなく,行為主体の側の知識の質だけに焦点を合わせる純粋な個人心理学的問題として立てられることになる。(p.102)

 まずは高木光太郎氏の論考から。学校における学習が,脱文脈化された抽象的なもの,ということはわかっていたつもりだったのだが,そこにはこのような「素朴理論としての学習転移観」があることは,私は浅はかながら気づいていなかった。そういえば学校の先生と話したり討論していると,「学校で学んだことは日常に転移する」ことを彼らが素朴に信じていることが,非常に強く感じられる。万が一それが実際には使われていなかったとしても,それは学習者が「怠け者」だからであって,転移理論が間違っているからではない,という理屈で,この素朴理論は保護されているのである。私自身もこの素朴理論から,どれほど自由かと言われるとあまり自信はないのだが。

 このような素朴な転移観の前提にあるのが,石黒広昭氏が「裸の能力観」(p.72)と呼ぶものである。それは,能力は状況から切り離すことのできる個体に内在する実体であり,それは単独で精神現象において機能し,しかも理想的な状態ではそのまま取り出すことができる(p.72)という考え方である。道具を使うということは,そのような能力が「増幅された」と考える。それに対して,視点が変わると異なった見方になる,と石黒氏はノーマンの議論を紹介している。

自転車に乗っている人を他者が眺めれば,足で走っているときよりもパフォーマンスは向上したように見え,個体の能力も増幅されたかの容易に錯覚することになる。しかし,実際に自転車に乗っている当事者は,自転車のバランスを保つなど自転車に乗ることに付随したさまざまな行為を行う必要が生じる。(p.74)

 前者の,他者の視点を「システムビュー」,後者の行為者の視点を「パーソナルビュー」と言うのだそうだが,パーソナルビューからみると,単に能力が増幅されているというよりも,作業の内容や質が変わってしまう(p.74)のである。そのことからも,能力が裸で存在するということはありえないといえる。あるパフォーマンスは,あくまでもさまざまな環境とその人の協調活動の産物(p.73)なのである。ということは,状況論とはパーソナルビューに立つものだといえよう。そして,このような考えがなかなか理解が難しいのは,どこかでシステムビュー的な観点が邪魔しているから,と言えそうである。

 最後に,パーソナルビューから見た熟練について(と著者が述べているわけではないのだが,たぶんそういうことだと思う)。熟練とは,静的な固定したパターンを身に付けることではない。福島真人氏は,ギブソニアンのマイクロスリップの概念を援用して,問題状況が熟練したルーティンに変わっていくようすについて,次のように述べている。

ある意味でルーティンワークの円滑性とは,問題状況下における試行錯誤のぎくしゃくした過程がきわめて微細化し,それゆえ一見したところそうした錯誤が存在しないような過程のことなのである。逆に言えばルーティン化とは,こうした錯誤行為のたえざる微小化とみなすことができる。しかしそれは一見完全に同調しているように見えても,つねにズレが存在している。(p.147)

 マイクロスリップという概念はよくわかっていたつもりだったが,このように,熟練の過程と関係させて考えることはできなかった。でも言われてみればまさにその通りである。コーヒーを入れるというごく簡単な行為にスリップ(停滞,軌道や手の形の変化など)が見られるということは,まさに熟練行為の完成形がどのような形をしており,それが未熟練行為とどのように連続しているのかを示している,と見ることが可能である。そしてそれは運動行動に限らず,あらゆる技能や認知や思考に起きていることなのだろう。

 とまとめてみて,多少は状況論なりパーソナルビューが理解できたような気がした。こういった考えはこれまで,どこか自分の研究上の興味・関心とは離れたところにあるような気がしていたのだが,ぜんぜん違っていて,とても大事だということがわかった。

 

■附属中学校の教育研究発表会で,おもしろい発表を聞いた
2001/11/03(土)

 今日は附属中学校で開かれている,教育研究発表会に行ってきた。全体のテーマは「学び合いをはぐくむカリキュラムのデザイン」である。

 1時間目は3年生社会で,2グループが「宜野湾市に提言」を発表し,質疑や討論をするのを見た。2時間目は総合的な学習ということで,私は「差別」のクラスに行った。こちらでも2グループの発表と討論があったのだが,そのうちの1グループは,なかなかいい線いっているのでは,と思った。そのグループが扱っているテーマが。

 あくまでも私のイメージなのだが,総合的な学習で自分たちで課題を設定するといっても,「お行儀がいい」テーマが多いように思う。先生の喜びそうな,というか,何となく(従来の)学校教育の枠にはまっているというか。私は総合的な学習については,いくつかの本で読んだほかは,実際の授業は小学校で一つしか見たことはないのだが,そういうイメージを持っていた。

 ところが今日発表したグループのうちの一つは,「先生は男女差別しているか」というテーマを設定しているのだ。生徒100人と先生14人にアンケートを取ったところ,生徒の75%が差別されていると思っている。それに対して先生の50%は差別していないと言っている。

 生徒が差別だと思っているのは,次のような場面である。注意をするとき,女子には優しく言葉で言うだけだが,男子には手を出す,といか。作業(運動会の準備とかだろうか)をするときに,女子は軽作業,男子はテント貼りなど,先生が男女で割り当てる仕事を変えているとか。作業について,発表した生徒たちは,次のように解決策をあげていた。

「作業時のちがいは,男女ではなく,個人の力の差で決めたほうがいいと思う。めんどくさいかもしれないけど,それは生徒1人1人を知るいい機会だと思う」(発表資料より)
実に正論である。このほかにも,フロアの生徒の意見として,「自分が差別していることを自覚していない先生に,自己中心(的であることの問題点)とか,道徳とか教えられるのか?」という意見も出ていた。これについて議論はほとんどなされなかったが,この意見も実にいいところを突いている。

 先生の言い分はこうだ。「差別をしているつもりはない。男と女は違うので,区別しているだけだ」。あるいは,「男女仲のいいクラスはいいが,そうでないクラスの場合は,男女で分けて作業を振り分けた方が,結局効率がいいからそうしている」。先ほどは生徒の意見をベタ誉めしたが,こちらの方はかなり問題だ。前者は,差別する側の人が差別を隠すためによく使うレトリックだし(なぜなら生徒はそれを「差別」と感じているので)。後者に対しては,男子内,女子内での仲の良し悪しはどうなるのか?という疑問が出てくる。結局この意見は,「男女」という軸を使って(あるいはフィルターを通して)生徒を見ている,ということを開陳しているも同然であろう。

 このような発表は,先生には扱いにくいものかもしれない。その後どういう展開になるのかはわからないが,ひょっとしたら,教師が「上にたつ」者として,穏便な,学校の枠組みにおさまりやすいような方向に「指導」してもっていくかもしれない。そうなってしまえば,生徒にとってはその体験は,調べごと,発表,問題解決の「マネゴト」をして終わった,という体験にしかならないだろう。

 しかしそうではなく,教師が問題を指摘されている当事者として真剣に向き合い,生徒の出した解決策にきちんと対応したり(そのまま採用するのではないにしても),教師と生徒がその問題で話し合いを行ったり,教師の意識を変えるような方向に向かってくれることを願いたい。そうなったらそれは,何と言っていいのかわからないが,「ホンモノ」という感じがする。全体テーマである「学びあい」という観点からしても。そういう意味でこのテーマには,何か新しいものを生み出す「力」があるように思った。

 #この授業を指導されていた先生に,感想を書いたことをお知らせしたところ,「「集団行動」「効率」というキーワード・・・を強調しながら、他方でそれについて生徒や参観した先生方から「おかしい」という声がからんでいくことを望んでいました 」というメールをいただいた。なるほど,そういうことだったのですね。さすが。

 


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