読書と日々の記録2001.11下
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■読書記録: 30日短評9冊 28日『専門家の知恵』 25日『学びその死と再生』 20日『インターネット学習をどう支援するか』 16日『帰国生のいる教室』
■日々記録: 26日教育工学会に参加した 21日減量・追記 17日減量3ヶ月8kg減

 

■11月の読書生活
2001/11/30(金)

 今月は,トータルの冊数の割には選書に苦労することが多かった。よかった本は,強いて挙げれば『レオニーの選択』だろうか。『実践のエスノグラフィー』『専門家の知恵』は,十分に理解できていない気がするので,余裕があればもう一回読んだ方がよさそうだ。もちろん今回も,それなりに得るところはあったのだが。

 最近の私の嗜好のせいだろうか,教育書に面白味を感じることが多いような気がする。しばらくはそういう傾向で行きそうである。

『教室の改革−学校の再生をめざして2−』(佐伯胖・汐見稔幸・佐藤学編 1992 東京大学出版会 ISBN: 4130530623 \1800)

 教育現場たる教室をしっかり見る(p.iii)ことを狙いとした本。といっても,理屈の話が中心だとは思うのだが。佐藤氏は例によって反省的実践家の話を書いている。専門的技術の妥当性を論争で明らかにするのではなく,むしろ,自己の専門性の一面性をたえず自覚して,他者の仕事や他の専門家の仕事に学びながら,総合的な視野に立って専門的な判断ができる力を形成しようとしている(p.126)とあるのがわかりやすい。私はどうも反省的実践家としての教師像がわきにくかったのだが,提唱者のショーンは建築デザイナーや精神分析のカウンセラーなど,教師以外の専門家に対する事例研究を元にこの概念を提出したのであった。あと,佐伯氏も納得や文化実践について論じている。「どこまでも『納得』しない」ということこそ真の納得活動(p.215)という表現にはうなった。

『進化とはなんだろうか』(長谷川真理子 1999 岩波ジュニア新書 ISBN: 4005003230 \780)

 素人の私から見ても,進化生物学の基本を丁寧に説明していると感じる本。基本とは適応と自然淘汰であり,丁寧に見えるのは,起こりがちな誤解に対して適切に言及し対処している点である。どうも私の理解もゴチャゴチャっぽかったのだが,自然淘汰とは,(1)生物の個体に変異があり,(2)その中には遺伝で次世代に受け継がれ,(3)その中には生存と繁殖に影響を与えるものがあり,また,(4)すべての個体が生き残ることはできない,ということから生じるもの(p.32)のようだ。なるほど,すっきりしてわかりやすい。あと,今日的な進化生物学ができてからまだ100年ぐらいの新しい学問(p.187)という表現があった。心理学も100年強だ。しかし進化生物学はその前に,博物学の長い歴史があり,それを理論化しようという試みがいくつかあった上での100年である。それに比べたら心理学は,赤ちゃんのようなものか。

『自民党の研究−あなたも,この「集団」から逃げられない−』(栗本慎一郎 1999 カッパ・ブックス ISBN: 4334006582 \819)

 衆議院議員として自民党に5年間籍をおいた日sshが,文化人類学者としてその「フィールドワーク」体験をまとめた本。ことの性質ゆえかもしれないが,フィールドワークという割には,登場人物の生々しい「声」が含まれていないので,ちょっと肩透かしを食らった感じ。これじゃあ,どこまでが観察に基づくもので,どこからが「推測」の混じった話なのかはわからない。なかには,どうみても憶測だろうと思われる記述もあるし。自民党の特質の第一には「理念や政策を重視せず,人と集団にかかわることを特に重視する」が挙げられている。日本にはありがちな光景だが,それが「政党」の姿というのは,政治素人の私からすると,かなりの驚きだった。あと最後のほうでは,今後,新保守が台頭してくる流れが予言されている。今後の展開が楽しみである。

『四人はなぜ死んだのか−インターネットで追跡する「毒入りカレー事件」−』(三好万季 1999/2001 文春文庫 ISBN: 4167656086 \476)

 表題作は,文藝春秋誌に発表されたときに読んでいたのだが,文庫化されたので読んでみた。改めて読むとこれは,ある意味「失敗学」だな。本書にはそのほかに,現地取材,裏話,その後の話,中2のときのレポートが収録されており,けっこうなボリュームになっている。中2のときのレポートは,「中学生であることを考慮に入れると」,その論理性に驚いた。今の私から見ると,もう少し別の突っ込みようはあるとは思ったが。

『おもしろ言語のラボラトリー−認知心理学を語る2−』(森敏昭編 2001 北大路書房 ISBN: 4762822221 \2500)

 文字の認知からはじまって,文章理解,筆記思考,会話の理解,第二言語習得など,言語心理学に関係する話題が集められた本。実は私は言語関係が苦手で,一般教育の心理学でも,一度も触れたことはない。本書も,苦手ゆえに読みにくい章もいくつかあったが,触発された内容もあった(それが何かは秘密)。あと,知りたいと思っていた「テキストからの学習」についても,何人かの著者が触れていたので,理解を進めることができた。

『哲学・航海日誌』(野矢茂樹 1999 春秋社 \2500)

 再読。まあ半分ぐらいしか理解してないだろうけど,筆者の巧みな語り口のおかげで,なんとなく最後まで読めてしまう。
 『仕事の中での学習』のところで,状況論的なエスノグラフィーが,本書にあるような根源的規約主義的な考え方に基づいているのではないか,と述べたが,ちょっと違う(かもしれない)点に気がついた。まずは引用から。一般的に言って,ゲームがなめらかに滞りなく進行しているかぎり,そこではゲームの規則は暗黙の前提となっており,規則について語るということは起こらない。(中略)「意味」や「規則」といった概念の故郷は,実はなめらかな言語ゲームの流れの内にあるのではなく,言語ゲームのよどみ,コミュニケーションにおける流通不良という現象の内に存しているのではないだろうか。(p.155-6) 私の理解では,状況論の研究方法(エスノメソドロジーと会話分析)では,流暢な言語ゲームを分析して見せることがけっこうあるような気がするが,上の指摘からすると,むしろ,よどみ(と回復)のある会話こそ,分析の対象とされるべきなのではないのだろうか,と思った。私の理解が適切である自信はあまりないのだけれど。

『ジェンダ−の発達心理学』(伊藤裕子編 2000 ミネルヴァ書房 ISBN: 4623032752 \2,800)

 本書は,男女の性差を明らかしようとするものでも,性差はない(あっても取るに足りない)主張するものでも,女性固有の価値や世界を探るものでもない。女の子が大人になっていく場合の経験は,男の子が大人になっていく場合の経験といかに異なるか(p.10)を,心理学の分野から考察するものである。このような「序」の文章は大いに興味がそそられたが,内容は私にとってはそれほどでもなかった。ここでいう「心理学的な考察」は,調査データが主になっているが,調査データをもとに(データに直接あらわれていない事柄まで)固定的なものとして一般論として語る,というスタイルに違和感を感じたのだ。これが,ジェンダーという問題の性質なのか,私が質的分析などに毒(?)されているからなのかはわからないが。ただ,附中の教育研究発表会を見たこともあって,学校におけるジェンダーに関する記述は,ちょっと面白かった。

『「買ってはいけない」は嘘である』(日垣隆 1999 文藝春秋 ISBN: 4163557709 \800)

 古本屋に出ていたので買った。1章が文藝春秋誌に載った日垣氏の『買ってはいけない』批判,そのあとに『買ってはいけない』著者の反論文が載せてあり,さらにそのあと,日垣氏の再反論文が載っている。ちょっと面白い。しかしはっきり言ってそれらは,泥仕合の様相を呈しているのだが。日垣氏の反論は基本的にはまっとうなものだが,泥仕合となりがちな理由の一部は,日垣氏の語り口にあるのではないかという気がする。日垣氏は『買ってはいけない』の記述に対して,相関関係を安易に因果関係と断定するな,という主張をしている。その一方でたとえば,産業廃棄物処分場に関する記述では,「周辺の木々は死に直面している。大規模な立ち枯れが,何度も背筋を寒くさせた」(p.120)のような,不十分な因果関係を印象で断じる書き方を,日垣氏自身がしているのである。ちなみにこの,「ダイオキシン猛毒説の虚構」は,以前読んだ『敢闘言』に収録されているものとまったく同一のもの。ちょっと損した気分。

『総合学習を創る−シリーズ教育の挑戦−』(稲垣忠彦 2000 岩波書店 ISBN: 4000264451 \1,700)

 総合学習を,過去,海外,現在に学ぶ本。「過去」は,日本で明治〜大正期に行われた総合的学習的な授業が紹介され,「海外」はイギリスのトピック学習が紹介される。イギリスでは日本とは逆で,従来はトピック学習が主だったのが,近年になったナショナルカリキュラムが導入されたという。「現在」は,日本で総合的な学習を行っている教師の紹介。長野の牛山氏は,長年小学校高学年だけを受け持ったあとで1年生担任となって壁に突き当たり,子どもを動かしてやろうなんてことより,とにかく彼らが動き出す場の中で学習を果たすことを考えざるを得なくなった(p.139)と言う。そういう話は興味深いが,そのような総合学習が具体的に,どのように展開されていくのかを,実感できるレベルで知ることはできなかったのが残念。それがないと,本当に自然な「総合・横断」的な学習になっているのか,あるテーマに教科内容を「こじつけ」ているのかがわからないので(そう見えなくもないものもあるので)。

 

■『専門家の知恵−反省的実践家は行為しながら考える−』(ドナルド・A.ショーン 1983/2001 ゆみる出版 ISBN: 4946509267 \1,700)
2001/11/28(水)
〜技術的合理性を超えて〜

 知りたいと思っていた,「反省的実践家」の概念が提唱されている本。実は原書は持っていたのだが,読む気がおきずにほうっておいてあったのだ(そういう本は多い)。本書は,原書の最初の2章と最後の1章(の一部分)の抄訳である。内容は...やはりわかりにくかった。が,いくつかのことがわかった。

 まずは訳者序文からわかったこと。「反省的実践」という概念は,デューイの探究の理論を「実践的認識論」(practical epistemology)へと発展させ,その「反省的思考」を専門家の実践の中核に定位(p.3)したものだそうである。なるほど,デューイに由来する発想なわけね。あと,『日本の教師文化』を読んだときに思った,省察と反省の違いだが,訳者によると,reflectionという語が「省察」と「反省」の二つの意味を併せ持っていることを考慮して,この二つの訳語を文脈に即して使い分け(p.9)ているのだそうだ。ははあ,これは日本語を勉強する必要があるな。

 つぎに,本文の内容について。これは,なんとなくとらえどころのない文章で,非常にわかりにくかったのだが,自分の理解を助けるためにも,以下に本文を私なりに要約してみる。要約内容が適切である自信はないのだが。

 専門家について私たちが伝統的に抱いているイメージは,科学的な理論と技術を厳密かつ道具的に適用することによって問題を解決する,という「技術的合理性」モデルである(p.19)。そのような,基礎科学に立脚した応用という図式は,たとえば医学や法律,ビジネスや工学にを見ることができる(p.22)。しかし現実の実践は,単純に基礎が応用できるものではなく,複雑性,不確実性,不安定さ,独自性,価値葛藤をそなえており,問題を解決する以前に,問題を認識し構成するところからはじめる必要がある(p.56-57)。そこで実践者が状況に対処するためは,(サブタイトルにあるように)行為しながら考える(reflecting-in-action)ことが中心となる(p.78)。それは,自分の理解や理解の枠組みや感情をとらえ直し,検証し,現象についての新たな枠組みを構成することである。

 ちょっとわからなかったのは,技術的合理性に基づく専門家として医者があげられているが,別の箇所では,クライアントとの反省的な対話を通して反省的実践を行う医者の例(p.146-147)もあげられている点。まあおそらく,技術的合理性と反省的実践は,領域によることなのではなく,すべての専門家の行為には両者(特に後者)が含まれている,ということなのだろう。

 ようやくこれだけが理解できたのではないか,というところなので,それ以上のコメントはできない。ただ,ひとつ思ったことがある。それは,上に述べられている技術的合理性は,教育工学におけるtechnology pushそのものだということだ。そういえばある発表会場では,一人の発表者(今年はじめて教育工学会に参加した教育哲学者)が,発表の最後に,教育工学会に対する感想を述べていた。それは,「技術的合理性のワンダーランドに迷い込んだような印象」というふうなものだった(正確な文言ではないが)。実は先日ちょっと触れた,教育工学に対する私の違和感も,そのようなところから来るものだった。どうやら最近私は,状況論や関係論,反個体能力主義的な考え方に,そうとう毒されているらしい。もっとも教育工学会も技術的合理性一色なのではなく,ショーンや状況論や社会構築主義などに基づいた発表も,私が見た範囲でもいくつかあったのだが。

 #追記 ちょっと伺いたいことがあったので,上に書いた教育哲学の先生にメールを差し上げたところ,このページを見てくださり,次のようなメールをいただいた。承諾を得たので,一部分を引用させていただく。

「先生の書かれている、医学における技術合理性と反省性の問題は、教育を含めて対人交渉に関する理論がつねに出会っている問題だと思います。」
なるほど,対人交渉が入るような複雑で不確定的な場面では,基礎理論の単純な応用のようなことをやろうと思っても,反省的な実践を行う必要あるいは余地が生じる,ということのようだ。

 

■教育工学会に参加した
2001/11/26(月)

 先週の金,土と,鹿児島で開かれていた日本教育工学会第17回大会に参加してきた。今年加入したので,この学会に行くのは初めてだ。以下雑感。

  • 鹿児島は寒かった。朝,息が白くなるなんて,沖縄の真冬なみだ。

  • この学会は,小中高校の教員が多いようだ。

  • この学会は,デジタル率が高い。ほとんどの発表は,パワーポイントかOHPが使われていた(私が見た範囲では,どちらも使っていない人は1名のみだった)。フロアでノートパソコンを広げている人が異様に多かった。デジカメやデジタルビデオも。

  • 目ウロコ1 パワーポイントのスライドをプレゼンテーションするのに,デジカメを使っている人がいた。液晶プロジェクタにつないで,デジカメの再生機能でパワーポイントの画面を(画像として)再生するのだ。これは目ウロコものだ。本体の持ち運びが圧倒的に楽だし。もちろん,スライドインなどの効果は使えないのだが。

  • 目ウロコ2 授業評価アンケートの結果を,スキャナを使って自前で集計し分析するという発表があった。使っているのは通常の市販ソフトのみ。ワープロソフトなどを使って自作したマークシートを集計してくれるソフトがあるらしい(ていか12まんえん)。これだと,質問項目を自分用にカスタマイズすることができるし,専用のマークシートもマークカードリーダーもいらない。結果はすぐに出てくる。ちょっといいかも。

  • 目ウロコ3 京都大学はディベート型FDシンポジウムというのをやっているらしい。あらかじめ学生から授業についての自由記述を得ておき,それをもとに,学生代弁者チームと教官の代表者チーム(各4名)で議論をするのだ。FDというと,伝達講習型か相互研修型しかないと思っていたので,これも目ウロコ。問題認識の共有や,次のステップへの基礎作りには有効だそうだ。

  • 発表の内容は,教育改善につながることであれば何でもありであるかのように見えた。あえて分類するなら,ツールの作成報告,実践報告,実態把握などが中心だろうか。仮説検証的な実証研究も多少あったが。どうやらこのような方向性の研究は,technology push(理論的な研究の成果の実践での応用)というらしい。

  • 疑問 そのように理論や概念を応用する際に,それらは往々にして(都合のいいように)変容・変質されているように感じた。というのは,いくつかの発表では,その理論なり概念の使い方は合っているのか?という疑問が湧いたのだ。それはもちろん,私のほうの理解不足/誤解が原因である可能性もあるのだが。

  • しかし実際,ある会場では発表者が,前の発表者のそのような問題点(概念の誤用)を指摘していた。別の会場では,「学校では学校文化に合うようにテクノロジーを変容しながら受容する」という指摘があった(これについては向後さんも書いている)。

  • まあその他にも,多少の違和感を感じたりしたのだが,教育工学は学際的な若い分野なそうなので,そこでどういうことが考えられ行われているのか,今後もっと知っていく必要があるだろう。

 

■『学びその死と再生』(佐藤学 1995 太郎次郎社 ISBN: 4811806387 \2,000)
2001/11/25(日)
〜イニシエーションとしての学び〜

 「エッセイ」と「ストーリー」の文体に挑戦して教育を語って(p.188)いる本。それは,佐藤氏がこのような表現をしているわけではないが,学問として(のみ)教育を語るのではなく,自分の経験を通して教育を語るということである。たとえば,次のような話が本章冒頭にある(道田による要約)。

 佐藤氏は小学生時代,多動癖があり,教室を追い出されることもしばしばだった。高校時代は,教師と衝突して教室に居場所を失い,図書館や音楽練習室にこもってすごした。それと同時に,神経症,赤面症,どもり,失語症に悩まされていた。中退寸前までいったあるとき,音楽の先生の声かけがきっかけで,教育の仕事に携わりたいと決意し,学校に居場所を作る努力をするようなったという。

 本書に収録されている文章は,雑誌に発表されたものを集めたものなので,全体が統一されているわけではないが,基本的な考えは,「イニシエーション(死と再生)」としての「学び」(p.189)のようである。上の話は,うまく要約できたかどうかはわからないが,佐藤氏にとっての死と再生の体験であろう。その後も佐藤氏は,学生運動への参加と挫折という苦しい「死」と「再生」の体験をしたという(p.139)。しかし今日では,それに相当するような体験は「受験勉強」ぐらいしかない。そこで佐藤氏は,次のように提言する。

混沌とした現実の裂け目に身を移して「自分さがし」の実践を遂行しつづけるならば,私たちの生きている場所を「サティアン」として再構築し,そこでたくさんの「グル=他者」を再発見して,いくつもの「イニシエーション」の契機を蘇生させることも可能である。(p.145)
教育における死と再生は,生徒だけではなく,授業に行き詰まった教師が,子どもを理解する視線を獲得することでよみがえる話なども出てくる。

 この「イニシエーションとしての学び」という考えが,私は十分にわかったとは言いがたいが,興味深い視点であるような気はした。また,佐藤氏がアメリカの子ども中心の学校を訪問することによって,教育を見るまなざしが変わった,という話も興味深かった。

それまでは,「すぐれた授業」「すぐれた教育」を追いかけがちだったのに対して,教育とは日常の営みではないか,学びとは日常のいとなみではないかと強く考えだしました。日常のいとなみに隠されている「意味の網」にまなざしをそそぎ,それを編みなおしていく(中略)織物のように裁ちなおしていく,そういう実践として教育の実践を考えるようになりました。(p.83)
私も「すぐれた授業」を追い求める気持ちが強い。それでいろいろな教育関係書を読んでいる。しかし,「日常の営み」のなかにも,「意味の網」を見出すことができるという。具体的なイメージは湧きにくいが,そのような視点を持ちたいものだと思う。

 

■減量・追記
2001/11/21(水)

 減量に関する追記というかこぼれ話10連発。

  • 減量のせいで風邪を引かなくなったと豪語した翌日,風邪を引いた(涙)。

  • とはいっても,いつもは微熱がダラダラと続くが,今回は38.8度出て,1日半で治った。それが減量のせいかどうかは,慎重を期して明言しないでおこう。

  • 風邪が治ったら,体重が減って,体脂肪率が増えていた。ヤバい。

  • 実はこの3ヶ月で,歩数計を3回落とし,2つなくした(涙)。面倒くさいから,格好悪いからといわず,ひもをつけてベルトに通しておけばよかった。

  • 実はこの3ヶ月で,ダイエット本を3冊買った。読書記録には書いていないけど。買ったのは全部BOOK OFF。

  • ダイエット本は,食事だけでなく運動についても書いてある,という基準で選んだ。そのせいかどうかはわからないが,ひどくハズレの本はなかった。とは言ってもどの本もかならず,ちょっと首を傾げたくなる記述があるのだが。

  • というかダイエット本って,複数見ると必ず矛盾することが書かれているように思える。油はすべて大敵と書かれている本もあれば,日本人のとる油の量なんてたかが知れてるから問題ないとか。ご飯(米)はたくさん食べろとか半量に減らせとか。どれを信じたらいいものか。

  • というか,これまで減らしたいと思いつつも何もしなかった一因に,こういう矛盾した記述があるような気がする。相互に矛盾した記述のうち,自分に都合のいい部分だけを拾っていけば,生活をほとんど変えないままに,ダイエットしている「つもり」になってしまうのである。

  • いつも同じ時間帯にストレッチと筋トレ(もどき)をしている。最後のスクワットのころになると,こどもたち(3歳と1歳)がワラワラとよってきて,いっしょにスクワットをはじめる。かわいいというかなんというか。でも足腰の強い1歳児って,ちょっと怖い気が...

  • 足に重り(アンクルウェイト)をつけた初日,足のうらの皮がむけた。よく見ると,穴があいた古い靴下をはいており,その穴の部分がむけているのであった。以降,靴下の穴には注意をするようにしている。

 

■『インターネット学習をどう支援するか−シリーズ教育の挑戦−』(佐伯胖・苅宿俊文 2000 岩波書店 ISBN: 4000264508 \1700)
2001/11/20(火)
〜ふりかえりの道具としてのコンピュータ〜

 教育現場で,コンピュータやインターネットに「使われてしまう」のではなく,本当に「使いたいときに,使いたいことのためだけに」使うということ(p.198)を提言している本。前半は苅宿氏が主に学校現場を通して,後半は佐伯氏が主に「学び」の本質についての考察を通して,このことを論じている。これは一見,ありがちな主張のように見える。語り口は平易だし。しかしその意味するところは深い。そのことが,読み進むにつれてわかってきた。ちょっと長くなるかもしれないが,本書前半を中心に,私の理解の軌跡を示したい。

 前半の苅宿氏が書かれた部分は,ちょっと変わった終わり方をしている。それは,それまでずっと,コンピュータやインターネットを教室での学習に利用する話が述べられてきたのに,最後は一転して,それらが出てこないのである。ではどういう話かというと,教室で「みんな」という語を多用することによって,一人一人の子どもたちの存在を希薄にして(p.118)いき,子どもというのは,「みんな」という名前の付いたひとつの集団(p.119)になってしまう,という問題が述べられている。大切なのは,子どもが「みんな」というまとめられ方から抜け出し,柔軟で主体的な人間関係をもち,積極的な活動をすること(p.121)だと言う。この話はもちろんよくわかる。しかし,コンピュータなどとの関わりがよくわからなかった。そこで,この話を念頭において,もう一度本書を振り返ってみることにした。

 おおざっぱにいうと,本書ではまず,コンピュータを使うことの問題点が指摘されている。たとえば,インターネットによる調べ学習が「インターネットで見ているだけ」「闇雲にボタンを押し続け」「与えられた情報を飲み込んでいく」学習になりがちなこと(p.23-24)。あるいは先生が,コンピュータを授業で使うことに夢中になりすぎて,クラスの子どもたちのことを忘れがちになってしまうこと(これは筆者の体験談だそうである:p.56-66)。

 次には,コンピュータをうまく使いこなしている(使いたいときに,使いたいことのためだけに使う)事例として,次のようなものが挙げられている。ホームページやデジカメ,デジタルビデオを,社会科見学当日の「気持ち」や「出来事の記憶」をよみがえらせるために使った事例。これは,それをきっかけとして,その後の学習がうまく進んだそうだ。あるいは,子どもがコンピュータに,自分の作品や声を蓄積し,おりに触れてそれを見直したり作品を増やしていくことで,「自分の軌跡」を振り返ったりわかり直したりすることに使われている,という事例。

 一つ一つはよくわかる話なので,まあそういう使い方もあるだろうなぁ,と思っていたが,次の一言で,これらがつながった。

それはつまり,子どもたちにとってコンピュータが「次の課題」を提示する装置ではなく,自分たちの学びや生活をふりかえることができる道具になっているということなのだ。(p.108)
最初の「夢中になりすぎ」た事例は,コンピュータを「次の課題提示装置」として使っていた事例と言える。そのような教材は,どの教室でも通用するものとして作られる。そこにいる生徒は「みんな」であり,個人としては存在していないのである。それに対してコンピュータを上手に取り入れている事例では,確かにコンピュータが自分たち(独自の)学びのふりかえりを助ける道具になっている。そこでは,ゆきちゃんならゆきちゃん独自の学習の軌跡が,唯一無二のものとしてコンピュータの中に蓄積されている。なるほど,コンピュータ学習における「一人一人」は,そういう形で存在するのだなと納得した。

 そういえば,後半の佐伯氏の文章の最初は,「ミレニアム・プロジェクト」(教育の情報化)批判である。ミレニアム・プロジェクトでは,各普通教室にパソコン2台とプロジェクターを設置し,多額の予算を投じて作られる数十秒の動画を配信することによって,授業の理解度を上げようというものだそうである。そういったものは,子どもの主体的な学習にも,論理やイメージや仮説を用いた探求や理解にもつながらない,と批判されている。結局これは,配信先の教室や教師や学習者の固有性を考慮することなく,無名の「みんな」に向けて資料を提示する装置としてコンピュータを用いることが問題,と言っているわけであり,先の苅宿氏と同じことを指摘している,と言えそうである。この解釈があっているのかどうかは自信がないが。

 #bk1に著者インタビューあり。

 

■減量3ヶ月8kg減
2001/11/17(土)

 このひと月で2.4kg減って,めでたく肥満度が10%を切った(BMI=24.1)。3ヶ月前が肥満度21.7%(BMI=26.8)だったので,とりあえずは十分な数字だ。当面は,減らすことよりもこれを維持することを目標にしようと思う。

 減量は平坦な道だったわけではない。とくにこのひと月は,最初の3週間で1kgしか減らず,ちょっとあせった。食べ過ぎないように気をつけ,運動にスクワットを追加したら,(そのせいかどうかはわからないが)最後の1週間で1.2kg減ってくれた。

 食事量や運動に関しては,この3ヶ月にいろいろ試したり考えたりした結果,今のところ,次のような結論に至っている(適切かどうかは不明だが)。「食事(とくに夕食)の1〜2時間ぐらい前におなかがすくのがちょうどいい」。おなかがすかなければ,食べすぎか運動不足。カロリー計算や計画的な運動をしていないので,それぐらいしか判断材料がないというのが実情だが,シンプルでまあ悪くない判断基準じゃないかと思っている。実際は,このポイントに持っていくのは,あんがい難しいことなのだけれども。

 減量をして得たもの。一番は,体調の良さ。ここ数年,3ヶ月に2回程度は風邪を引いていたが,いまのところ,8月末以来風邪はひいていない。のほうも問題はなし。これまで,しょっちゅう風邪を引いたり腰を痛めたりしたのも,太りすぎのせいだったのか。

 それに,減量に対する自信。ここ15年ほどずっと,減らしたい,減らしたほうがいいと思っていた(だけで何もしなかった)が,本当に減らせたのは初めてだ。あと,動くことに対する面倒感や,間食欲が激減したのも収穫だ。いつまで続くかはわからないけど。

 

■『帰国生のいる教室−授業が変わる・学校が変わる−』(渡部淳・和田雅史編 1991 NHKブックス ISBN: 4140016310 \835)
2001/11/16(金)
〜帰国生にもまれた獲得型授業〜

 ICU高校における授業実践報告書。ICU高校って,なんとなくアメリカンな高校なのかなあという認識しかなかったが,本書によると,197年に帰国子女(帰国生)受け入れ校として創設された学校(p.11)だそうである。2/3が帰国生で,残りの1/3が一般生(国内生)である。

 そういう構成なので,なかなか普通の高校では考えられない問題がおきる。日本的な教育に対する帰国生の不満もあれば,日本語の問題や日本への適応の問題もあるし,逆にレベルの高い英語の授業に対する国内生の不安もある。しかし先生方がそういう問題を直視することによって,サブタイトルにあるように授業が変わり,学校が変わるのである。

 報告されているのは,以下のとおりである。政経のレポート学習,討論を中心とした宗教教育,帰国生のカウンセリング(これは授業報告ではない),模擬裁判やスピーチを取り入れた英語の授業,帰国生への日本語教育,楽しくできる体育やディスカッションのある保健授業,討論を中心とした物理の授業。

 ざっと見てもわかるように,レポートや討論,発表など,生徒の自主学習を援助する授業(編者は「獲得型授業」と呼んでいる)が多い。しかしそれは,皆が最初からそのような授業を行っていたわけではない。たとえば,以前は生徒がみんな眠ってしまうようなつまらない授業をしていた宗教担当の教師が,帰国生を中心にした生徒たちのなかに入ってゆくなかでひどく打ちのめされ,ズタズタにされ,文字通り悪戦苦闘の日々が続いた(p.44)あげく,ディスカッション中心の授業をするようになっていったりしているのである。

 そんな具合なので,何か特別な考えに基づいて特別なことをやっている,というよりも,普通の人(失礼)ちょっと工夫をしてみたらこうなった,という感じの授業が多いような感じを受けた。たとえば先ほどの宗教教育で言うと,たいてい現実論と理想論がでるので,現実派には理想論的コメントを,理想派には現実論的コメントをあえてして,両派の間にうまい「綱引き状態」をつくってゆく(p.59)とか。あるいは,1年間討論だけで物理の授業を行った先生は,次のように書いている。

(討論の授業をする)前提として最も必要なことは,まず,討論する価値があり,学ぶことによって自分が成長することが生徒自身にもわかるような内容や教材を探りあてることである。そして,討論することの意味がわかるように,また自分の問題意識を次第に高めていけるように授業を積み重ねていくのである。本来,あまり細かい授業テクニックはいらないのではないかと思っている。(p.207)
書かれていることはシンプルながら,全くそのとおりだろうと思う。

 私のイメージなのだが,この手の,討論とかレポート中心の授業は,壮大な理論を背負っていたり,複雑な手続きを持っていることが多いような気がする。本書はそういうところがなく,普通っぽさが参考になりそう本だと思った。

 


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