| 30日短評9冊 28日『専門家の知恵』 25日『学びその死と再生』 20日『インターネット学習をどう支援するか』 16日『帰国生のいる教室』 |
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| 26日教育工学会に参加した 21日減量・追記 17日減量3ヶ月8kg減 |
■11月の読書生活 |
2001/11/30(金)
今月は,トータルの冊数の割には選書に苦労することが多かった。よかった本は,強いて挙げれば『レオニーの選択』だろうか。『実践のエスノグラフィー』と『専門家の知恵』は,十分に理解できていない気がするので,余裕があればもう一回読んだ方がよさそうだ。もちろん今回も,それなりに得るところはあったのだが。 最近の私の嗜好のせいだろうか,教育書に面白味を感じることが多いような気がする。しばらくはそういう傾向で行きそうである。
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■『専門家の知恵−反省的実践家は行為しながら考える−』(ドナルド・A.ショーン 1983/2001 ゆみる出版 ISBN: 4946509267 \1,700) |
2001/11/28(水)
〜技術的合理性を超えて〜知りたいと思っていた,「反省的実践家」の概念が提唱されている本。実は原書は持っていたのだが,読む気がおきずにほうっておいてあったのだ(そういう本は多い)。本書は,原書の最初の2章と最後の1章(の一部分)の抄訳である。内容は...やはりわかりにくかった。が,いくつかのことがわかった。 まずは訳者序文からわかったこと。「反省的実践」という概念は,デューイの探究の理論を「実践的認識論」(practical epistemology)へと発展させ,その「反省的思考」を専門家の実践の中核に定位(p.3)したものだそうである。なるほど,デューイに由来する発想なわけね。あと,『日本の教師文化』を読んだときに思った,省察と反省の違いだが,訳者によると,reflectionという語が「省察」と「反省」の二つの意味を併せ持っていることを考慮して,この二つの訳語を文脈に即して使い分け(p.9)ているのだそうだ。ははあ,これは日本語を勉強する必要があるな。 つぎに,本文の内容について。これは,なんとなくとらえどころのない文章で,非常にわかりにくかったのだが,自分の理解を助けるためにも,以下に本文を私なりに要約してみる。要約内容が適切である自信はないのだが。 専門家について私たちが伝統的に抱いているイメージは,科学的な理論と技術を厳密かつ道具的に適用することによって問題を解決する,という「技術的合理性」モデルである(p.19)。そのような,基礎科学に立脚した応用という図式は,たとえば医学や法律,ビジネスや工学にを見ることができる(p.22)。しかし現実の実践は,単純に基礎が応用できるものではなく,複雑性,不確実性,不安定さ,独自性,価値葛藤をそなえており,問題を解決する以前に,問題を認識し構成するところからはじめる必要がある(p.56-57)。そこで実践者が状況に対処するためは,(サブタイトルにあるように)行為しながら考える(reflecting-in-action)ことが中心となる(p.78)。それは,自分の理解や理解の枠組みや感情をとらえ直し,検証し,現象についての新たな枠組みを構成することである。 ちょっとわからなかったのは,技術的合理性に基づく専門家として医者があげられているが,別の箇所では,クライアントとの反省的な対話を通して反省的実践を行う医者の例(p.146-147)もあげられている点。まあおそらく,技術的合理性と反省的実践は,領域によることなのではなく,すべての専門家の行為には両者(特に後者)が含まれている,ということなのだろう。 ようやくこれだけが理解できたのではないか,というところなので,それ以上のコメントはできない。ただ,ひとつ思ったことがある。それは,上に述べられている技術的合理性は,教育工学におけるtechnology pushそのものだということだ。そういえばある発表会場では,一人の発表者(今年はじめて教育工学会に参加した教育哲学者)が,発表の最後に,教育工学会に対する感想を述べていた。それは,「技術的合理性のワンダーランドに迷い込んだような印象」というふうなものだった(正確な文言ではないが)。実は先日ちょっと触れた,教育工学に対する私の違和感も,そのようなところから来るものだった。どうやら最近私は,状況論や関係論,反個体能力主義的な考え方に,そうとう毒されているらしい。もっとも教育工学会も技術的合理性一色なのではなく,ショーンや状況論や社会構築主義などに基づいた発表も,私が見た範囲でもいくつかあったのだが。 #追記 ちょっと伺いたいことがあったので,上に書いた教育哲学の先生にメールを差し上げたところ,このページを見てくださり,次のようなメールをいただいた。承諾を得たので,一部分を引用させていただく。
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■教育工学会に参加した |
2001/11/26(月)
先週の金,土と,鹿児島で開かれていた日本教育工学会第17回大会に参加してきた。今年加入したので,この学会に行くのは初めてだ。以下雑感。
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■『学びその死と再生』(佐藤学 1995 太郎次郎社 ISBN: 4811806387 \2,000) |
2001/11/25(日)
〜イニシエーションとしての学び〜「エッセイ」と「ストーリー」の文体に挑戦して教育を語って(p.188)いる本。それは,佐藤氏がこのような表現をしているわけではないが,学問として(のみ)教育を語るのではなく,自分の経験を通して教育を語るということである。たとえば,次のような話が本章冒頭にある(道田による要約)。 佐藤氏は小学生時代,多動癖があり,教室を追い出されることもしばしばだった。高校時代は,教師と衝突して教室に居場所を失い,図書館や音楽練習室にこもってすごした。それと同時に,神経症,赤面症,どもり,失語症に悩まされていた。中退寸前までいったあるとき,音楽の先生の声かけがきっかけで,教育の仕事に携わりたいと決意し,学校に居場所を作る努力をするようなったという。 本書に収録されている文章は,雑誌に発表されたものを集めたものなので,全体が統一されているわけではないが,基本的な考えは,「イニシエーション(死と再生)」としての「学び」(p.189)のようである。上の話は,うまく要約できたかどうかはわからないが,佐藤氏にとっての死と再生の体験であろう。その後も佐藤氏は,学生運動への参加と挫折という苦しい「死」と「再生」の体験をしたという(p.139)。しかし今日では,それに相当するような体験は「受験勉強」ぐらいしかない。そこで佐藤氏は,次のように提言する。 混沌とした現実の裂け目に身を移して「自分さがし」の実践を遂行しつづけるならば,私たちの生きている場所を「サティアン」として再構築し,そこでたくさんの「グル=他者」を再発見して,いくつもの「イニシエーション」の契機を蘇生させることも可能である。(p.145)教育における死と再生は,生徒だけではなく,授業に行き詰まった教師が,子どもを理解する視線を獲得することでよみがえる話なども出てくる。 この「イニシエーションとしての学び」という考えが,私は十分にわかったとは言いがたいが,興味深い視点であるような気はした。また,佐藤氏がアメリカの子ども中心の学校を訪問することによって,教育を見るまなざしが変わった,という話も興味深かった。 それまでは,「すぐれた授業」「すぐれた教育」を追いかけがちだったのに対して,教育とは日常の営みではないか,学びとは日常のいとなみではないかと強く考えだしました。日常のいとなみに隠されている「意味の網」にまなざしをそそぎ,それを編みなおしていく(中略)織物のように裁ちなおしていく,そういう実践として教育の実践を考えるようになりました。(p.83)私も「すぐれた授業」を追い求める気持ちが強い。それでいろいろな教育関係書を読んでいる。しかし,「日常の営み」のなかにも,「意味の網」を見出すことができるという。具体的なイメージは湧きにくいが,そのような視点を持ちたいものだと思う。
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■減量・追記 |
2001/11/21(水)
減量に関する追記というかこぼれ話10連発。
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■『インターネット学習をどう支援するか−シリーズ教育の挑戦−』(佐伯胖・苅宿俊文 2000 岩波書店 ISBN: 4000264508 \1700) |
2001/11/20(火)
〜ふりかえりの道具としてのコンピュータ〜教育現場で,コンピュータやインターネットに「使われてしまう」のではなく,本当に「使いたいときに,使いたいことのためだけに」使うということ(p.198)を提言している本。前半は苅宿氏が主に学校現場を通して,後半は佐伯氏が主に「学び」の本質についての考察を通して,このことを論じている。これは一見,ありがちな主張のように見える。語り口は平易だし。しかしその意味するところは深い。そのことが,読み進むにつれてわかってきた。ちょっと長くなるかもしれないが,本書前半を中心に,私の理解の軌跡を示したい。 前半の苅宿氏が書かれた部分は,ちょっと変わった終わり方をしている。それは,それまでずっと,コンピュータやインターネットを教室での学習に利用する話が述べられてきたのに,最後は一転して,それらが出てこないのである。ではどういう話かというと,教室で「みんな」という語を多用することによって,一人一人の子どもたちの存在を希薄にして(p.118)いき,子どもというのは,「みんな」という名前の付いたひとつの集団(p.119)になってしまう,という問題が述べられている。大切なのは,子どもが「みんな」というまとめられ方から抜け出し,柔軟で主体的な人間関係をもち,積極的な活動をすること(p.121)だと言う。この話はもちろんよくわかる。しかし,コンピュータなどとの関わりがよくわからなかった。そこで,この話を念頭において,もう一度本書を振り返ってみることにした。 おおざっぱにいうと,本書ではまず,コンピュータを使うことの問題点が指摘されている。たとえば,インターネットによる調べ学習が「インターネットで見ているだけ」「闇雲にボタンを押し続け」「与えられた情報を飲み込んでいく」学習になりがちなこと(p.23-24)。あるいは先生が,コンピュータを授業で使うことに夢中になりすぎて,クラスの子どもたちのことを忘れがちになってしまうこと(これは筆者の体験談だそうである:p.56-66)。 次には,コンピュータをうまく使いこなしている(使いたいときに,使いたいことのためだけに使う)事例として,次のようなものが挙げられている。ホームページやデジカメ,デジタルビデオを,社会科見学当日の「気持ち」や「出来事の記憶」をよみがえらせるために使った事例。これは,それをきっかけとして,その後の学習がうまく進んだそうだ。あるいは,子どもがコンピュータに,自分の作品や声を蓄積し,おりに触れてそれを見直したり作品を増やしていくことで,「自分の軌跡」を振り返ったりわかり直したりすることに使われている,という事例。 一つ一つはよくわかる話なので,まあそういう使い方もあるだろうなぁ,と思っていたが,次の一言で,これらがつながった。 それはつまり,子どもたちにとってコンピュータが「次の課題」を提示する装置ではなく,自分たちの学びや生活をふりかえることができる道具になっているということなのだ。(p.108)最初の「夢中になりすぎ」た事例は,コンピュータを「次の課題提示装置」として使っていた事例と言える。そのような教材は,どの教室でも通用するものとして作られる。そこにいる生徒は「みんな」であり,個人としては存在していないのである。それに対してコンピュータを上手に取り入れている事例では,確かにコンピュータが自分たち(独自の)学びのふりかえりを助ける道具になっている。そこでは,ゆきちゃんならゆきちゃん独自の学習の軌跡が,唯一無二のものとしてコンピュータの中に蓄積されている。なるほど,コンピュータ学習における「一人一人」は,そういう形で存在するのだなと納得した。 そういえば,後半の佐伯氏の文章の最初は,「ミレニアム・プロジェクト」(教育の情報化)批判である。ミレニアム・プロジェクトでは,各普通教室にパソコン2台とプロジェクターを設置し,多額の予算を投じて作られる数十秒の動画を配信することによって,授業の理解度を上げようというものだそうである。そういったものは,子どもの主体的な学習にも,論理やイメージや仮説を用いた探求や理解にもつながらない,と批判されている。結局これは,配信先の教室や教師や学習者の固有性を考慮することなく,無名の「みんな」に向けて資料を提示する装置としてコンピュータを用いることが問題,と言っているわけであり,先の苅宿氏と同じことを指摘している,と言えそうである。この解釈があっているのかどうかは自信がないが。 #bk1に著者インタビューあり。
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■減量3ヶ月8kg減 |
2001/11/17(土)
このひと月で2.4kg減って,めでたく肥満度が10%を切った(BMI=24.1)。3ヶ月前が肥満度21.7%(BMI=26.8)だったので,とりあえずは十分な数字だ。当面は,減らすことよりもこれを維持することを目標にしようと思う。 減量は平坦な道だったわけではない。とくにこのひと月は,最初の3週間で1kgしか減らず,ちょっとあせった。食べ過ぎないように気をつけ,運動にスクワットを追加したら,(そのせいかどうかはわからないが)最後の1週間で1.2kg減ってくれた。 食事量や運動に関しては,この3ヶ月にいろいろ試したり考えたりした結果,今のところ,次のような結論に至っている(適切かどうかは不明だが)。「食事(とくに夕食)の1〜2時間ぐらい前におなかがすくのがちょうどいい」。おなかがすかなければ,食べすぎか運動不足。カロリー計算や計画的な運動をしていないので,それぐらいしか判断材料がないというのが実情だが,シンプルでまあ悪くない判断基準じゃないかと思っている。実際は,このポイントに持っていくのは,あんがい難しいことなのだけれども。 減量をして得たもの。一番は,体調の良さ。ここ数年,3ヶ月に2回程度は風邪を引いていたが,いまのところ,8月末以来風邪はひいていない。腰のほうも問題はなし。これまで,しょっちゅう風邪を引いたり腰を痛めたりしたのも,太りすぎのせいだったのか。 それに,減量に対する自信。ここ15年ほどずっと,減らしたい,減らしたほうがいいと思っていた(だけで何もしなかった)が,本当に減らせたのは初めてだ。あと,動くことに対する面倒感や,間食欲が激減したのも収穫だ。いつまで続くかはわからないけど。
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■『帰国生のいる教室−授業が変わる・学校が変わる−』(渡部淳・和田雅史編 1991 NHKブックス ISBN: 4140016310 \835) |
2001/11/16(金)
〜帰国生にもまれた獲得型授業〜ICU高校における授業実践報告書。ICU高校って,なんとなくアメリカンな高校なのかなあという認識しかなかったが,本書によると,197年に帰国子女(帰国生)受け入れ校として創設された学校(p.11)だそうである。2/3が帰国生で,残りの1/3が一般生(国内生)である。 そういう構成なので,なかなか普通の高校では考えられない問題がおきる。日本的な教育に対する帰国生の不満もあれば,日本語の問題や日本への適応の問題もあるし,逆にレベルの高い英語の授業に対する国内生の不安もある。しかし先生方がそういう問題を直視することによって,サブタイトルにあるように授業が変わり,学校が変わるのである。 報告されているのは,以下のとおりである。政経のレポート学習,討論を中心とした宗教教育,帰国生のカウンセリング(これは授業報告ではない),模擬裁判やスピーチを取り入れた英語の授業,帰国生への日本語教育,楽しくできる体育やディスカッションのある保健授業,討論を中心とした物理の授業。 ざっと見てもわかるように,レポートや討論,発表など,生徒の自主学習を援助する授業(編者は「獲得型授業」と呼んでいる)が多い。しかしそれは,皆が最初からそのような授業を行っていたわけではない。たとえば,以前は生徒がみんな眠ってしまうようなつまらない授業をしていた宗教担当の教師が,帰国生を中心にした生徒たちのなかに入ってゆくなかでひどく打ちのめされ,ズタズタにされ,文字通り悪戦苦闘の日々が続いた(p.44)あげく,ディスカッション中心の授業をするようになっていったりしているのである。 そんな具合なので,何か特別な考えに基づいて特別なことをやっている,というよりも,普通の人(失礼)がちょっと工夫をしてみたらこうなった,という感じの授業が多いような感じを受けた。たとえば先ほどの宗教教育で言うと,たいてい現実論と理想論がでるので,現実派には理想論的コメントを,理想派には現実論的コメントをあえてして,両派の間にうまい「綱引き状態」をつくってゆく(p.59)とか。あるいは,1年間討論だけで物理の授業を行った先生は,次のように書いている。 (討論の授業をする)前提として最も必要なことは,まず,討論する価値があり,学ぶことによって自分が成長することが生徒自身にもわかるような内容や教材を探りあてることである。そして,討論することの意味がわかるように,また自分の問題意識を次第に高めていけるように授業を積み重ねていくのである。本来,あまり細かい授業テクニックはいらないのではないかと思っている。(p.207)書かれていることはシンプルながら,全くそのとおりだろうと思う。 私のイメージなのだが,この手の,討論とかレポート中心の授業は,壮大な理論を背負っていたり,複雑な手続きを持っていることが多いような気がする。本書はそういうところがなく,普通っぽさが参考になりそう本だと思った。
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