読書と日々の記録2001.12上
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■読書記録: 12日『あの日、東海村でなにが起こったか』 8日『教育方法学』 4日『「私」というもののなりたち』
■日々記録: 13日レーラレとかオバケとか 10日お気に入りのPalmware 6日乳児の行動に自我の芽生えを見る 2日日々の記録

 

■レーラレとかオバケとか
2001/12/13(木)

 上の娘も3歳半になり,すっかり口が達者になっている。

 最近,何か気に入らないことがあると,すぐに「もうパパとは遊ばん」と言われるようになった。遊ばんの「あ」が高イントネーションである。ちょっと沖縄っぽい。もちろんパパだけでなく,ママも言われたりする。

 それに加えて,どこで覚えてきたのか,最後に「レーラレ」とつける。「もうパパとは遊ばん。レーラレ」である。今はまだかわいいが,もうちょっと大きくなって,本気でこんなこと言われるようになると,ちょっとムカッとくるかも。

 だいぶ前から暗闇を怖がっているのだが(下の娘はまだぜんぜん),何が怖いの?と聞くと,最近は「オバケが怖い」と言うようになった。オバケのように見えないものを怖がるなんて,どこでどのように覚えたのか,すごく不思議である。実物を見たことがあるわけではないだろうし。仮に絵本で見たことがあるとしても,3歳児が読むような絵本なら,怖いと思わせるようなものではないはずだし。何らかのイメージをもってるんだろうけど,どうやってそのイメージができたのか。それは我々がもっている,幽霊のイメージと似たようなものなのか。まったく見当がつかない。

 でも最近,これかなと思ったのは,三項関係を通して,他者から社会的意味が敷き移されるというやつ。これならまあ分からないでもない。オバケの機能的・社会的意味としての「怖さ」が,誰か(妻?)から敷き移された可能性はある。そう言えば三日月は,「夜のネズミさん」なるものが食べたとか,いい子にしてないとまーちゃん(仮名)も食べられちゃうよ,なんて教えてるみたいだし。最近はそれに,「夜のクマさん」なるものも加わっている。なんじゃそりゃ?

 ちなみに1年前,娘はサンタクロースを怖がっていた。今年はサンタさんの絵本を読んだせいか,ちっとも怖がっておらず,むしろ心待ちにしているようだ。来年の今ごろは何を怖がっていることやら。

 

■『あの日、東海村でなにが起こったか−ルポ・JCO臨界事故−』(粟野仁雄 2001 七つ森書館 ISBN: 4822801489 \1,600)
2001/12/12(水)
〜それぞれの立場がある〜

 『無責任の構造』を読んで,授業でJCO臨界事故に触れようと思った。基本的にはインターネット(過去の新聞記事)などで情報を集めたのだが,本書では,そういう形で得にくい情報を知ることができた(もちろん探し方の問題もあるだろうが)。筆者は通信社の記者である。

 ほほおと思った事柄を,列挙しておく。

  • 国はこういう事故を「想定不適当事故」と呼ぶらしい。そんな事故が起こることを想定すること事態が不適当(p.19),という意味だ。その認識は専門家も同じで,事故当初,専門家の多くは「あの工場での臨界などありえない」(p.34),「臨界はすぐに終わっている」(p.95)と考えたようだ。
  • JCOは安全審査をパスしていた。それは上記のような認識に支えられた甘い基準であるうえに,「七年前に審査したきりだ」とか,「社員が不在のときに審査に行き,審査したことにした」という科技庁の怠慢(p.24)もあったそうだ。
  • 違法作業の元になった「裏マニュアル」は,専門知識のある人も作成・承認に参加しており,何かのはずみで臨界になってしまうことのないよう,意外にも臨界に関してはしっかり,「防止策」を講じていた(p.88)。それにさえ違反していたので事故になったわけだが。
  • JCOが大規模なリストラや効率性の追求を行った背景には,脱原発の流れで新規の原発建設がなくなった米国は,余った安価なウラン酸化物を日本に引き取らせてきた(p.118)ことがあった。
  • JCOは決して技術レベルの低い会社ではなく,京大,阪大,東北大などの原子力工学を出た,高いレベルの技術者がそろっており,核燃料取り扱い主任の肩書きを持つ社員も人数規模に比べて多かった(p.144)そうだ。
  • 事故調査委員会は,JCO以外は,誰も責任をとらないでもよい結論を出し(p.234),調査書は抽象論,一般論のお説教で終わっている(と筆者は認識しているらしい)。
  • 筆者が取材したある技術職の中堅幹部は,事故の半年後に次のように述べているらしい。「日本が事態を説明する文化を,そしてそれを受け入れる文化を持っている社会なら,今,何もかも説明したい。すべてを知ってほしいです。しかし,日本の感性の土壌ではそうはいかないんです。罪を犯した人間はだまっていなければならない社会です。」(p.185-186)

 最後の引用は,具体的な内容はわからないが,うなずけないでもない話である。難しいとは言え,いつか何らかの形で語ってほしいことだけれど。というか,完全に理解されることは難しいにしても,語る必要があるのではないだろうか。

 本書の最後に筆者は,雪印食中毒事件と,旧動燃再処理工場事故を並べて,次のようなことを述べている。こうした事件や事故は,前兆がほとんど見られず,あるレベルを超えると突然最悪の事態になること(p.231),生鮮品や危険物を,そういうものとしてではなく「工業製品」としてしかあつかっていなかったこと(特に雪印)(p.232)。扱っているものに対する「皮膚感覚の欠如」である。同様のことは,『原発事故はなぜくりかえすのか』でも述べられていた。そのような皮膚感覚の欠如の背後には,想像力の欠如やマニュアル主義の問題がある。それは結局,思考力の欠如と言えるだろう。そして筆者は,そのような問題のあるマニュアル主義(と前例主義)にもとづく応対をしたとして,政府の問題も指摘している。

 冒頭に挙げた『無責任の構造』は,社会心理学者にして事故調査委員会委員の方が書いた本だった。今思い起こしてみると,内容は,置かれている立場が明確に反映されている(正確に言うとあの本は,JCO臨界事故の本ではなく,JCO臨界事故を切り口にした社会心理学/啓蒙の本なのだけど)。それに比べると本書は,また違うスタンスから事故が述べられている。問題はあったにせよ,会社の人も付近の住民も各役所も周辺企業も,それぞれ立場があり,そういう行動を起こした(起こさなかった)何らかの理由がある,ということだ。その一端を本書で知ることができたと思う。

 

■お気に入りのPalmware
2001/12/10(月)

 Palmは順調に毎日使いまくっている。探せばなかなか素敵なソフト(palmware)があることがわかったので,毎日いろんなパーム関連ページを巡回し,よさそうなソフト探しをしている。それが一段落しそうなので,Palm歴2ヶ月の私ではあるが,作者へのお礼の気持ちも込めて,それらをここでご紹介。

 Palmを使い始めて思ったのが,ちょっと見たいだけのときにいちいちスタイラスを取り出すのが結構面倒くさいということ。そこで探したのが,ハードウェアボタンでソフトが起動するためのソフト。いくつか試した結果,EasyLaunch参考ページAdAという組み合わせに落ち着いている。

 いろいろソフトを入れていくうちに思ったのが,標準のラウンチャー(ホーム画面)がすぐにいっぱいになる,ということ。カテゴリで分ければいいのだが,カテゴリーを変更するのも面倒くさいし,カテゴリを切り替えるのも面倒くさい。そこで入れたのが,LauncherIII。これなら,カテゴリはタブ切り替えだし変更はドラッグ&ドロップなので,手間がかからず幸せ。

 次に思ったのが,AdAでどこにどのソフトを割り当てるかということ。そこで導入したのがWatcha!。自分がどのようにPalmを使っているかがわかって幸せ。その上,直前のソフトに戻ることもできるし,自分の使用ソフトベスト10をすぐに呼び出すラウンチャー的な使い方もできる。いろいろと便利でとっても幸せ。

 そうこうしているうちに思ったのが,予定やToDoがもう少し見やすいといいのになぁ,ということ。予定帳+では,1日表示画面にToDoが表示されるが,もう少し先の予定まで,すっきりと見たい。と探していると,あったのがhotdate。すっきり1週間分の予定とToDoが表示されてとっても幸せ。とりあえず朝はこれを一度覗いてみるのが習慣になった。私が使うPalmWareベスト1である。

 それから思ったのが,メモ帳の使い勝手がイマイチ。これもホーム画面と同じで,メモの数が増えてくると見にくくなる。そこで見つけたのがSnap!Memo。超整理法的に,開いたメモが常に先頭に来るように並べ替えられる。これを使って,routine work的な仕事の管理をしている。やるべきことを書き出して,1つのメモにし,やったら内容を更新(あるいは次の仕事を閲覧)。下のほうにあるということは,その仕事はしばらくしていないということなので,着手する。そういう使い方ができて幸せである。

 しかしこれだと,ちょっと見ただけのメモがすべて先頭にきてしまう。それが気になって,気軽にメモの中身を見ることができなくなってしまった。そこで導入したのがMemoReaderという閲覧ソフト。タイトル一覧とメモの中身を同時に見ることができて幸せ。メモ帳のハードウェアボタンはこれに割り当ててあるので,すぐに起動できて幸せである。

 しかもここに挙げたソフトは,すべてフリーウェアなのである。さすがPalm。といっても,他機種(CEとかザウルス)の世界は知らないのだけれど。

 ...とまあ,幸せなPalm生活を送っているわけだが,不満がないわけではない。おもいつくままにあげると,「もうちょっと薄いほうがいいなあ」「青空文庫なんかから拾ってきた小説を読もうと思ったら,ハイレゾのほうがいいなあ」「カラー画面だと,娘の写真なんか入れられて幸せかも」というあたりである。まあ,カラーはなくてもいいが,薄さとハイレゾは,あるととっても幸せになるような気がする。

 なんて思っていたら,このすべてを満たす機種が最近発売された。ほ,ほしい。でもまだVisor嬢とは新婚2ヶ月だし。買うにしても,今のVisorをせめて1年は暮らしたい。その後はどうなっているか,わからない。現状に満足しているか,新機種に乗り換えているか,はたまた全然使わなくなっているか。それにしても,久々に物欲が喚起されてしまった。

 

■『教育方法学』(佐藤学 1996 岩波書店 ISBN: 4000260057 \2,000)
2001/12/08(土)
〜最新の課題と知見と論点満載〜

 教育方法学のテキストなのだが,よくあるような,「教職を希望する学生のための講義資料」ではなく,「教育方法学」の最新の課題と知見と論点を提示したテキスト(p.v)である。といっても私は,教育方法学の本を読んだのは初めてなので,他の本がどんな具合なのかは知らないのだけれど(ちなみに私は大学時代,教育学関係の授業は「教育原理」しかとったことがない。それさえ内容はひとつも覚えていない)。

 本書によると,教育方法学とは

教育実践の様式と技術を原理的に探究する学問(p.1)
だそうである。具体的に含まれる内容は,授業と学習,カリキュラム,教室の会話,教師文化と教師教育,情報教育などである。教育方法学は案外あいまいな分野で,その概念や方法論を規定する「親学問」を特定することはできない(p.4)のだそうだ。といっても全くないわけではなく,授業の哲学や学習の心理学など,いくつかのディシプリンを基礎とした研究もある。その一方で,教師が教室で展開している省察や選択や判断に対する反省と批評を中心とする探究(p.5)の部分もあり,この2本(基礎分野の応用,実践の反省と批評)が教育方法学の柱といえそうである。ふむふむ,もう少し他の(一般的な)テキストも読んでみなければ。

 著者が提示している「最新の課題と知見と論点」のもつ視点は,ほとんどの章を通して一貫している。それは,現在主流となっているような「効率主義の教育」や「行動科学パラダイムによる教育研究」からの転換,ということである。この点が,歴史(世界史)的考察でも,日本における授業研究史でも,授業パラダイムの章でも,教室のコミュニケーションやカリキュラムの章でも,一貫して取り上げられている。そういう意味では,少なくとも著者が最新の課題と捉えている事柄については,多方面からよくわかるようになっている。

 ちょっと一例をあげると,「教室の会話=コミュニケーションの構造」の章(6章)では,まず行動分析的な手法による教室の言語行動の分析法(フランダースの相互作用分析)が紹介されている。しかしそれは,一見客観的に見えても,分析カテゴリーの設定など,主観性や特定の授業観に支配されているのである。また,そのような方法による分析は,教室の環境を無視し,表面的で観察可能な行動や,カテゴリー化されたものだけに関心が向けられ,グローバルなレベルの相互作用は説明し得ない,という問題がある(p.84)。発話の多義性や複雑さを度外視している,という批判もある(p.85)。

 そこで,エスノメソドロジー的な会話分析や,社会言語学的分析が紹介されている。そのような方法によって,学校文化の規範や慣行の自明性を問い直す(p.93)ことができるようである。たとえば日常的な会話では「今何時ですか?」「2時半です」「ありがとう」という形で会話が進むが,教室ではこれが,「今何時ですか?」「2時半です」「よろしい」という風になってしまう。つまり,知っているものがたずね,応答が評価され,教師のみが主導権を握っている会話なのである。教室ではごく当たり前にこのような会話がなされるが,それがいかに日常からかけ離れたものであるかが,この事例ひとつでも示されている。

 もっともこのような会話構造を採用することによって,授業と学習に専念できる構造が得られる,という利点があるわけだが。とはいっても,それが形式的な手続きへと転落したときには,生徒の創造性を奪い,生徒たちは,教室の会話構造の中で学ぶのではなく,会話構造の約束事それ自体を学んで(p.96)しまう,という危険性もある。しかしそのような構造が何かのきっかけで破られるとき,教室のコミュニケーションへの教師の関与を変革する積極的な契機となる(p.96)ことも指摘されている。そのようなズレを積極的に生かすということは,著者の好みの言葉でいえば,省察的実践を行うということなのであろう。

 本書のまとめを。「教育実践の様式と技術を原理的に探究する学問」という意味では,教育心理学も同じような部分をもっているのだが,教育心理学の本にはあまり見られない,教育の歴史や今日的課題が触れられており,興味深かった。上にもちょっと書いたように,教育方法の本をほかにも読んでみようと思う。

 

■乳児の行動に自我の芽生えを見る
2001/12/06(木)

 『「私」というもののなりたち』を読んでから,自分の子どもを見る視点ができたように思う。とくに下の娘(1歳3ヶ月)の。

 たとえば以前,乳児が人間らしく感じられるときという日記を書いた。5ヶ月の子が,触らなくてもこちらの働きかけに応じて笑うようになったときのことを書いたものだ。これが人間らしい反応のように感じられたのは,下の本のような言い方をするなら,相手と能動−受動のやりとりをする,という相補性が感じられたからではないかと思う。「笑わせる−笑う」というやり取り(しかも身体接触なし)である。

 最近でいうと,「パパを見て」遊びに,それを感じる。「パパを見て」遊びとは,下の娘がテレビなどを見ているときに,わざと視界のなかに入って「パパヲ見テ,パパヲ見テ」と言って存在をアピールする,という他愛もない遊びである。下の娘はこれを始めると,私が視界に入らないように大きく反対側を向く。そこで私は,またそちらに顔をもっていくわけである。もちろん娘は遊びだとわかっていて,ニヤニヤしながら私のこの遊びに付き合ってくれる。

 これは,「見る−見られるという能動−受動のやり取り」を意図的にしない,という意味で,高度な相補性なのではないかと思う。言い換えるならこれは,「パパを見て」と言われたら(私の意図を察して?)決してそちらを見ない,という形の「能動−受動」のやり取りになっているとも言えるのではないかと思う。その辺が「高度」といいたくなる所以である。

 なんて思っていたら今朝は,「人からされたことを自分がする」(受動から能動へ)他者とのやり取りの内化らしきものが見られた。朝食時,上の娘が私のひざの上に座っていた。そこに下の娘が,手にコーンフレークを持ってやってきて,上の娘に「ハイ」と言って(正確には「ア」みたいな音を出して),口にコーンフレークを持っていって食べさせようとしたのだ。このような光景ははじめて見たので,「おお,受動から能動だ」と思ってしまった。/P>

 もっとも,親がくわえている歯ブラシをもってゴシゴシやりたがったりすることは前からあったので,まったく初めてではないかもしれない。しかし歯ブラシの件は,単なる遊びというかいたずらをしているようにしか感じなかったが,今朝のは,「お世話をしている」という感じがしたので,「おお」と思ったのかもしれない。ま,これからも注意して観察してみる必要がありそうだ。

 それにしても,発達心理学の概論というか教科書程度というか個別の知識をもっているだけじゃ,なかなかこういう視点で見るというところまではいかないよなあ,と思う。必要なのは,発達の流れや重要な転回点を見る手助けしてくれるような知識で,それさえあれば,それほど多くの(個別的)知識は必要ないのかもしれない。

 

■『「私」というもののなりたち−自我形成論の試み−』(浜田寿美男編 1992 ミネルヴァ書房 ISBN: 462302198X \2,800)
2001/12/04(火)
〜他人と自分の間に自我が生まれる〜

 自我がいかにして発生し,変転し,固定していくのか(p.iv)について,障害児や障害者,子どもの心的世界を通して迫ろうとしている本。実は最初に読んだときにはなんだかわかりにくく,60ページほど読んだところで,読むのを中断していた。私は,読み終わる前に読むのをやめてしまうことはめったにない。そういう意味ではよっぽどわかりにくかったのだが,あるとき手持ちの本がないので仕方なく,少しだけ読んでみようと思って続きを読み始めたら,そこから先が異様におもしろく,一気に最後(300ページ)まで読んでしまった。そういう本である。

 全体は3部構成になっており,第1部では病態失認と,健常な子どもの自我の発達が取り上げられており(私が一度読むのを断念したのはこのあたりだ),自我形成の試論が提出されている。第2部では年少と年長の自閉症児の事例を基に,自閉症論が論じられている。第3部では,成人の知恵遅れ者,脳性麻痺児,四肢欠損者の事例から,自我形成における他者の役割が論じられている。大まかな内容は,そういったところである。

 本書は自我を論じるにあたって,伝統的にはあまり一般的といえないいくつかの視点を持っている。たとえば,「私」という確固とした実体の存在を当然と考えない点。「私」が,いつかの時点で何らかの形で「発生」したものと考える発生論的な視点。事例を深くきわめることで人間の普遍構造に至るという視点。そして,「障害」を単に能力の視点から見ない(p.290)という反個体能力主義的視点である。

 まあ簡単にいうならば,現象学+関係論ということなのだろうが,特定の理論からの演繹として現象を見るのではなく,生活世界の視点から障害や自我について考察されている。それが非常に興味深く,エキサイティングであるのと同時に,非常に納得のいくものであった。心や自我の問題に興味がある人,とくに,脳生理学や神経心理学的な説明で満足してしまいそうな人に,ぜひ読んでもらいたいと思った。

 で,肝心の「自我形成」に関してであるが,著者たちの考えはあちこちに散らばっているので,なかなか全体像が把握しにくかった。本書を読み終わったあと,全体像を把握するために時間をとられてしまい,数日間ほかの本が読めなかったほどだ。そうやって苦労した挙句,おそらく筆者の考えが一番まとまっており,かつわかりやすいと思われる箇所を探し出し,そこを中心に,筆者たちの考えを理解しなおしてみた。その箇所を惜しげもなく(笑),以下に公開する。なお,この箇所もわかりにくいので,道田が番号を振って注釈もつけておくことにする。ただしそれは,自分のためにである。自分が理解するのがやっとなので,他人に丁寧に説明・解説するまでの余力はないので。したがって,本書を読んでいない人には,以下を読んだだけでは,ほとんどわからないのではないかと思う。

相手の行動の意味を捉え(同型)(1),それを相互にやりとりする(相補)(2)なかで,赤ちゃんは次第に他者との共通の意味世界を確保していくことになります(3)。そして他方,そうした他者とのやりとりは,同時に自分自身の内の回路を生み出して,そこから他者とは離れたものとしての自我が生まれてきます。たとえば,他者との言葉でのやりとりが,声を通してただちに自分自身の内の言葉となるようにです(4)。このことを,私たちは「自他二重性は自我二重性と即応する」と言いあらわしてきました。つまり,自我と他者とは本来切り離せないものとして相互に絡み合い,やりとりしつつ(自他二重性),それが自我の中で内なる他者(第二の自我)とやりとりする回路と重なる(自我二重性)というふうに考えてきたわけです。このように他者との関係のなかから熟成されてくる自我二重性の心的構造そのものの成立を,私たちは自我形成と考えてきました。(p.170-171)
    道田なりの注釈:
  • (1) 同型(性)とは,相手と同じように感じ(=感応,共感),行動する(=模倣)こと。
  • (2) 相補(性)とは,相手と「能動−受動」のやりとりをすること。「見る−見られる」「話す−聞く」など,2人の主体が「するーされる」という関係を取り結ぶことである。
  • (3) 「同型性と相補性を通して意味世界を確保する」とは,三項関係(人と人とがあるものやことを共有する関係)において,養育者が物を扱う扱い方をまねしたり,それを用いてやりとりをする中で,そのものへのふるまい方=社会的意味を獲得すること。
  • (4) 他者とのやりとりが内化される例としては,「会話」のほかに,「人からされたことを自分がする」(受動から能動へ)や,「自分のものから自分へ」(所有意識から自我意識へ)がある。

 まあ,非常にわかりにくい記述だと思うが,思い切って平たくまとめてしまうと,自我形成とは,「他者が自分を,自我をもった一個人(=主体=<私>)として扱うことが内面化されることによって,自分が自分を<私>として扱うようになる過程」といえるのではないかと思う(平たすぎる理解かもしれないけれど)。ちなみにこのように,自己を,他者との対話関係が内化されたもの(内在的他者)と見る見方は,『自分のこころからよむ臨床心理学入門』でもなされていたように思う。あと,本書における議論の一部は,『哲学・航海日誌』と重なっているようである(他我問題とか,他人のパースペクティブとか,意味の理解とか)。

 その他,反個体能力主義や,障害者と介助者の対等な関係の重要性など,興味深い考察はいくつかあったのだが,長くなりそうなので,この辺で終わりとする(それらは個人的読書メモにこっそり書いて公開はしない予定。この辺のことに興味がある方は,ぜひ本書を読まれたい。ウヒヒ)。

 

■日々の記録
2001/12/02(日)

 このページは,3日に一度の「読書記録」としてはじまった。それを8ヶ月続けたあと,読書記録を4日に一度に切り替え,その合間に「日々の記録」をはさむことにした。それが昨年の5月

 それまで,読書記録の付録的に日々の記録も書いていたので,これを分離すれば,もっといっぱい書けていいに違いない,と思っていたが,いざやってみると,なかなか日々の記録が書けないことがわかった。まあ無理して書く必要はないのだが,書きたい気持ちはあるのに書けないのがくやしい。それに,1年ぐらいでも義務的に日々の記録を書いてみれば,自分に適したやり方なり自分の限界なりが見えてくるのではないかとも思った。

 それで,日常雑記でも娘自慢でも何でもいいから,日々の記録を定期的に更新することを自分に義務づけることにした。それがちょうど1年前。ときどき,内容について感想メールをいただくことも励みになり,なんとかそれを,1年続けることができた。

 月に7回程度の日々の記録なんて,えらそうに回顧することでもないが,ネタが思い浮かばなかったり,書くのが面倒くさくて,つらく感じることもあった。それでも1年ぐらいは修行のつもりで,と思ってやってきた。

 書いていて思ったのは,私は基本的に,読書記録と同じ発想で書いているということ。それは,しばらく経ってから自分や家族が読んだときに,そのときのことを思い出せたり,読んで役に立つような情報を入れる,という発想である。そうでないときもあるが,大半はそうしている。読んだ本の備忘録が主目的である読書記録と同じだ。Web日記なんて,何を書いてもよさそうなものだが,同じような書き方しかできないことが,自分でもなんだか可笑しい。

 それにしても,月7回でも苦労したことを考えると,毎日更新されている方はすごい,と素直に思ってしまう...

 


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