読書と日々の記録2002.01下
[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'02] [索引] [選書] // [ホーム]
このページについて

 

■読書記録: 31日短評10冊 30日『「私」とは何か』 28日『ダイエットを医学する』 24日『文化・組織・雇用制度』 20日『医療事故自衛BOOK』 16日『学校を非学校化する』
■日々記録: 29日卒論を見ていて思ったことのメモ 27日3歳児に十余の質問 21日週末のこと 17日正月太りからの復帰
日記才人説明
■1月の読書生活
2002/01/31(木)

 今月よかったのは,『アクション・リサーチのすすめ』『授業研究入門』『学校を非学校化する』『「私」とは何か』と4冊ある。あと,『医療事故自衛BOOK』も興味深かった。おお,こうしてみれば豊作月だったようだ。といっても,トータルの冊数が多いから当然か(2000年6月と並んで自己ベストタイ)。このペースが維持できるといいんだけどなあ。いやいや,それとも読書はほどほどにして,その時間を別のことに振り分けるべきか?

 ちなみに,今月読んだ本の中には,著者様からいただいた本が3冊含まれている。たいへんありがたいことである。

『学び合う教室−教師としての学習者,プロデューサーとしての教師の学習臨床学的分析−』(西川純 2000 東洋館出版社 ISBN: 4491015996 \1,700)

 筆者は理科教育の大学教員。筆者の基本的発想は,教師は教えるのがヘタ,子どもこそが優秀な教師であり,子どもは学びあう能力を持っているので,教師が特別な指導をしなくても学びあえる(p.1)ということのようである。「特別な指導をしなくても」というのはいいすぎだと思うが,小学校5年生に15分×3回のコミュニケーション指導(話し合いの模擬ビデオ視聴,自分たちの話し合いのビデオ視聴,話し合いのロールプレイング)を行い,その後の授業では,毎回の授業で5分間の話し合いを必ず行わせる,「他者にわかることが大事」ということが伝わるような問いかけをする,という2点を心がけたところ,1,2週間で子どもたちの話し合いが,問いかけ,説明の多いものになった,という例を紹介していたりする。興味深い事例だと思うが,どういう状況のときに話し合い活動が自発し,どういう状況のときにそうでないのか,もう少し具体的に知りたいと思った。

『いのちに触れる−生と性と死の授業−』(鳥山敏子 1985 太郎次郎社 ISBN: 4811800516 \1800)

 一度読んだ本なのだが,最近読んだいくつかの本で,鳥山実践が取り上げられていたので,再読してみた。記録されている授業は,「にわとりを殺して食べる」授業,「原発の下請け労働者の人の話を聞く」授業,「性についての授業」,「ブタ1頭,まるごと食べる」授業などである(「食べる」授業は自由参加)。鳥山氏というと,「なってみる」授業が有名なようだが,本書でも,精子の話をするとき,ちょっと,みんな,1ミリのからだになって!(p.202)と言ってならせ,その半分の半分の半分の半分の大きさ(精子の大きさ)になって,20センチの距離を卵子を目指して泳ぐ(というイメージをさせる),ということをやっていた。なるほど。

『自立した子を育てる年間指導−築地久子の授業と学級づくり2−』(落合幸子・築地久子 1994 明治図書 ISBN: 4181164071 \2,408)

 築地氏の授業実践記録はこれで3冊目だが,本書は前の2冊ほどは驚きがなかった。それは,3冊目ということもあるかもしれないが,「年間指導」ということで,各教科の各時期の指導という各論的な話であるせいもありそうである。教科の指導は,国語と社会でゃ「人間としての生き方を教える」という色彩が強く,理科・算数は「ものの見方・考え方を教える」という色彩が強いという(p.21)。しかしそのようにきれいに分けられているだけではなく,同じ時期には教科を横断して同じことが問われる。たとえばある時期には,国語でも算数でも社会でも,同じ所と違う所,あるいはあるものと別のあるものを比べる,という作業が含まれている(p.74)。そうやって教師が複数教科を関係づけるなかで,生徒たちも「関係づけて考える」ことを学んでいく。こういう点はなるほどと思うのだが,しかし,築地氏は生徒に,教師が何を言おうとしているのかを予測しながら話を聞くことを指導し,最後には,教師の発言,出そうとしている課題や目標まで先取りするようになっていくという(p.168)。最後には,『学生参画授業論』のように,生徒(班)が授業を実施する,というところまで行くという。それはすごいことだし,生徒の「自立」とつながるとは思う。そう思う反面,ちょっと恐い気もする。もっとも,本書を読んだだけの印象なので,氏の生の授業を見ないことには,何もいえないのだけれど。

『チーズはどこへ消えた?』(スペンサー・ジョンソン 2001 扶桑社 ISBN: 459403019X \838)

 義母が置いていったので読んでみた。なるほど,これが大ベストセラーか。この内容は,万人向けとはいえないな。「変化する必要があるけれども踏み切れない人」には確かにいいかもしれない。『組織の不条理』にでてくる日本陸軍のような。しかしこれがすべてではないことは,認識しておくべきだと思う。この物語を,基本は同じにして細部をほんの少し変えるだけで,まったく逆のお話にもなりうるからだ。(そういえば,そういう本が出てるのかな? よく知らないけど)

『メディア・リテラシーを育てる国語の授業』(井上尚美・中村敦雄 2001 明治図書 ISBN: 4183589185 \2500)

 国語科教育という観点から,メディア・リテラシー教育について語られた本。小・中・高校の実践も含まれている。その観点からすると,現在のわが国のメディア・リテラシー論にはいくつかの盲点があるという。メディア論やマスコミ論の歴史的な動向について,ほとんど触れられていないとか,批判の重要性が充分に述べられていない,などである。本書の中で個人的におもしろかったのは,TBSの下村氏へのインタビュー。大学生の情報受信・発信能力の低さと彼なりの改善法が語られている。

『21授業のネタ 有田社会・高学年』(有田和正・授業のネタ研究会 1999 日本書籍 ISBN: 4819904531 \2,000)

 小学校5・6年向けの社会のネタ集。1時間のネタが,2〜4ページで70個入っている。生徒の意表をつくような,面白いネタも多い。基本的な形は「クイズ」である。議論したり,教科書や資料集を見ながら解くクイズである。それは勉強になっていいのだが,たとえば歴史が,「資料から元に推論し構成されたもの」ではなく,「すでに明らかになっている(固定された)真実」があり,クイズの答えは事実として確固足るものであるかのような扱いがされている。このような授業は,社会科的な知識はまあ身に付くだろうが,そのような固定的歴史観,社会観も同時に子どもは身につけるように思う。それでいいのだろうか。小学生だからいい,という考え方もあるだろうが。

『とっておきの道徳授業−オリジナル実践35選−』(佐藤幸司編著 2001 日本標準 ISBN: なし \1800)

 4ページで1時間の小学校道徳の授業のネタが紹介された本。この本を読んで,いくつかのことを思った。一つは,もし仮に私が,小学校低学年の授業をしろと言われたとしても,こういう本があれば困らないだろうなということ。実際に小学校教師が使って効果のあったネタが紹介されているのだから当然だ。また,こういうのは,1時間の授業としてはうまくいくとしても,1年間としてはどうなのか,あるいは授業の成功が子どもの行動に結びつくのかどうか,という点は難しい問題だと思った。価値の対立(葛藤)があるからである。たとえば,「進んで物事に取り組み,新しいことに挑戦する」ことを推奨するような授業がある。あるいは,「性格を変えたいと悩んでいる人に,そのままでもいいじゃないかと励ます」授業がある。これらはどちらも,1時間で完結する話としてみた場合は正論で,誰も反対しないだろうが,両方を同時に考えたときには,両立が難しいと思う。こういうことについて,現場ではどう対処しているのだろう。

『知識から理解へ−新しい「学び」と授業のために−』(守屋慶子 2000 新曜社 \2800)

 再読。やはり残念なのは,「仮説検討型授業」の詳細が明らかでないこと。冒頭にかかれている学生の変化(学ぶ態度の変化,他者観の変化)をみるにつけ,そう思う。今回目を引いた記述。子どもであれおとなであれ,知覚体験やそれと結びついた既有知識を否定して,科学の世界に踏み込むにはそれなりの手続きが必要(p.109)。例としては,両者の知識世界を具体的レベルでつなぐものとしての「天秤」の存在が挙げられている。生活経験ばかりを重視していては,科学や学問の世界にいつまでたっても入れないので,このようなつなぐものの存在は重要である(ということを,私は忘れていたような気がする)。あと,本書でも個体能力主義的な心理学に対する批判が書かれていた。本書ではそれを「欠如指摘型の心理学研究」(p.154)と呼んでいる。あとがきにも,発達心理学(者)は,間違っても,「ひとの発達の典型像」などを描いてみせてはならない(p.308)と書かれており,1年以上前に読んだときにはあまり理解できなかったのだが,今はもう少し理解できるようになった。この1年に読んだいくつかの本が「つなぐ」役割を果たしてくれたからだ。

『安心社会から信頼社会へ−日本型システムの行方−』(山岸俊男 1999 中公新書 ISBN: 4121014790 \760)

 日本はこれまで信頼をあまり必要としない安心社会であり,それが崩壊しつつあるいま,信頼社会を築いていくべきである,ということを,社会心理学の実験を中心として論じた本。筆者は広義の信頼を「安心」と「信頼」に分けて論じている。信頼とは,大きな社会的不確実性の存在する状況,すなわち相手の行動のいかんによっては自分がひどい目にあってしまう状況で,相手がひどいことをしないだろうと期待すること(p.18)と本書では定義されている。一方安心は,相手が自分を搾取する意図をもっていないという期待の中で,相手の自己利益の評価に根ざした部分(p.21)だという。日本はこれまで,集団主義的な社会構造の中で,そのような社会的不確実性を低減してきたので,日本に存在するのは「安心」であって信頼ではない。それらをどのような言葉で呼ぶかはさておき,このような区別は,なるほどと思われた。
 それ以降の議論の展開は,入り組んでいて十分に理解できたかどうかはわからない。ただ,分かった部分に関して言うと,いくつか気になる点があった。たとえば,「アメリカ」の扱いが矛盾しているように見える点である。本書の最初の方では,欧米の社会が直面している「信頼」の崩壊の問題(p.9)という表現があり,現在のアメリカが低信頼社会であるかのように読めるが,2章のタイトルに「信頼のアメリカ」という表現があるように,2章以降では,「アメリカは信頼社会であるので,日本社会の仕組みもその方向に作り変えなければならない」と言っているようである。信頼社会に作り変えるための方策も関係の開放性と透明性を高める(p.247)ということのようであり,確かにアメリカ的な方向性を考えているようである。しかし冒頭にあったように,アメリカで(開放性と透明性という仕組みのまま)信頼の崩壊が起きているとするならば,そういう社会作りだけでは不十分ではないかと思うが,そういう点に関する考察は,本書ではなかったように思う。

『フォー・ディア・ライフ』(柴田よしき 1998/2001 講談社文庫 ISBN: 4062733064 \714)

 探偵物語。主人公は,元警察官にして,保育園経営者兼私立探偵。ハードボイルドという言葉があるが,本書はそうではない。よく言えばヒューマン,悪く言えば半熟卵的である。そういうのが合うかどうかによって,好き嫌いが分かれるだろう。私は,本書のそういうところにリアリティが感じられなかったので,そういう評価である。主人公の推理に難が感じられる個所もあったし。たとえば『不夜城』(馳星周)などは,私の日常からはとても想像がつかない世界だが,ものすごいリアリティが感じられる。そういうタイプの本ではなかった。本書に好意的な書評としては,こちらがある。

ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。

 

■『「私」とは何か−ことばと身体の出会い−』(浜田寿美男 1999 講談社選書メチエ ISBN: 4062581701 \1,800)
2002/01/30(水)
〜存在ではなく現れ方を問う〜

 『「私」というもののなりたち』(以下「前著」と呼ぶ)の編者による,「私」についての本。今年のセンター試験の国語で出題された本だ(その当時,私が注文中だった本であることもビックリした一因だ)。

 本書における「私」に関する考えは,基本的には前著と同じである。内容も,半分ぐらいは前著と重なっている。ただし前著が,詳細に事例を検討し,複数の研究者でそれを検討しながら「私」に迫っていったのに対して,本書では,一人の著者が,順を追って書いているので,はるかにわかりやすくなっている。浜田「私」論をご存じない方には,本書を先に読まれることをお勧めする。また,内容の半分ぐらいが前著と同じとはいっても,なかなかすぐには理解しにくい考えなので,私は別に退屈ではなかった。むしろ,前著を復習する手間が省け,また,前著でわかりにくかった概念がわかるようになったのでよかったと思ったぐらいだ。

 本書のタイトルである「私とは何か」という問いに対する筆者の答えは何か。筆者がそれを一言で表していると思われる箇所は以下の部分である。

ことばが対話であるのと同じ意味で,「私」もまた対話であるという言い方も可能かもしれない。(p.233)

 このちょっと前には,<能動−受動>の構図そのものが「私」(p.233)と書かれている。まあどちらにしてもわかりにくい表現である。もう少し詳しく書いてあり,かつまとまっている箇所としては,次のものが挙げられる。

「私」という存在は,身体の中の心臓とか肝臓といったような特定器官の機能ではない。もちろん脳がそこに関与していることは否定できないが,では脳の中に「私」を生み出すなにかの実態があるのかというと,そういうわけではない。これまでの話を受けて言えば,それはそのような実態ではなく,むしろ他者との関係のなかで生きてきた<能動−受動>の構図そのものが「私」の核をなす。この<能動−受動>のやりとりが自我二重性として根をおろしてこそ「私」は成り立つ。(p.259)

 <能動−受動>の構図とは,内なる他者との間に<働きかける−働きかけられる>というやりとりを行う,ということのようである。まあこちらにしても,わかりやすい表現とはいえないが,他者を「私」の成立基盤と考えるこの説は,きわめて妥当な説に思える。

 さて,本書にみられる考察のなかで,前著になく,しかもきわめて興味深いと思われた点がある。それは,自分や他者の「パースペクティブ」という視点である。たとえば次のような文章に,それが表れている。

私たちは,生身の身体で生きているこの生活世界において,周囲の他者,その他者たちのあいだのやりとりに,しじゅう自分の視点を重ね,その他者のパースペクティブを生きようとしている。(p.51)

 小説を読むときも,写真を見るときも同じであるが,どこかの点に視点をおいて描写されているものを,私たちはその視点に自然に入り込んで,その位置から出来事なり風景を味わっている。そしてそれと同じように,他者の言葉や感情も,相手の位置に入り込んで理解しているのである(100%理解することはなく,どこかに自己中心性は付きまとうのであるが)。

 これは,『哲学・航海日誌』におけるパースペクティブの考察と全く同じではないが,それとも通じる考察であるように思われる。そして,このように考えると,「他者の心は理解可能か」という問いは無意味といえるのではないかと思う。それは結局,以前状況論についての補足として書いた,「心は,存在の有無を問われるべき問題ではなく,どのようにして現れてくるのか,その見え方を問われるべき問題なのである」ということと同じことを,本書は示唆しているように思える。

 ただ,本書では「心」ではなく「私」が,「他者」との関係で記述されている。そこでこの表現を,本書に即して改変するならば,次のようになるだろうか。

『私』の問題は,実体としての存在を問われるべき問題ではなく,発達の中で(他者との関係において),どのようにして現れてくるのか,その現れ方を問われるべき問題なのである。
うーん,ちょっとイマイチという気がしないでもないが。まあしかし,ということは,本書のような関係論と,相互行為分析のような状況論(といっていいのかどうかはわからないけれども)とは,同根の発想ということなのだろうか。この点については今後の課題だ。

ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。

 

■卒論を見ていて思ったことのメモ
2002/01/29(火)

 学生の卒論を検討していていろいろ思うことがある。提出直前なので,対処療法的というかもぐらたたき的に一つ一つ検討していかなければいけないのだが,そういうことをしながら,もっと早い時期に文章作法や論理の一般ルールを指導しておけばよかったと思う。今後のために,今回思ったことのメモを書いておく。

 まずは文章作法。1文がやたら長かったり,段落の切れ目が悪かったりして,文章が読みにくい。たくさんではなくていいので,読みやすい文章のための一般ルールを知り,それを実際に使ってみるという体験が必要だろう。

 それから,結果と考察のつながりが悪い。ある結論がいいたいとき,何を根拠にそれをいっているのかが不明確である。文章を「根拠」と「結論」にわけ,その論証構造を検討してみると,その論証に関係のない文章が紛れ込んでいたり,根拠が不十分だったり,不適切だったりしていることがわかる。こういうことも,早めにやっておくべきだな。

 あと,可能性の検討が足りないように見える部分も多い。一つの可能性だけ挙げて,それで満足してしまっているように見える。常に複数の可能性を考えたり,一度自分の考えを否定・反論してみるみたいなことをしないようである。「問い直し」が足りないというか。これは思考態度の問題,といえるかもしれない。

 ・・・とは言っても,具体的にどうすればいいのかはわからないのだけれども。

ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。

 

■『ダイエットを医学する−人類は丸くなっている?−』(蒲原聖可 2001 中公新書 ISBN: 4121015991 \880)
2002/01/28(月)
〜肥満は自然。でも減量しましょう?〜

 肥満について研究している医師が書いた本。基本的な主張は,肥満の主たる原因は遺伝子(p.147)というものである。面白かった。その面白さには3層ぐらいあるような気がする。

 一番外側の層は,雑学的面白さである。たとえば,イギリスでは痩せすぎのモデルの起用が自粛されるようになってきている,とか,体脂肪量測定の難しさ,とか,単品ダイエットでなぜ痩せることができるか,といった話である。

 真ん中の層は,中核の主張部分を周りから支えている層であり,思考態度の確かさとでもいえる面白さである。先に書いたように,筆者の主張は肥満遺伝子説であるが,それ以外の説を単純に排除しているわけではない。たとえばウィルス説が紹介されており,それに対する反論や,医学界では懐疑的に受け取られていることも紹介されているが,肥満もウィルス説を完全に無視することはできない(p.47)と述べられている。それはピロリ菌(胃潰瘍の原因となる菌)のように,当初はウィルスの存在が疑われたにもかかわらず,後に市民権を獲得したケースがあるからである。

 あるいは,BMI(体格指数)が遺伝する可能性は70%(p.22)だそうだが,このようなわかりにくい統計的表現の意味が,丁寧に説明されている。なんとなくこれを,たとえば「肥満になる理由の70%は遺伝だ」というように理解しがちだが,そうではない。これは,たくさんの人のデータを集めたとき,そのBMIの値のばらつきの70%は遺伝素因で説明できる意味である。こういう部分がきちん説明がなされている点も,本書が面白く感じる一因であり,好感が持てる本である。

 で,面白さの中核に位置する,肥満遺伝子説であるが,体重が遺伝的に決定されるメカニズムと関連すると思われる箇所を抜き書きしてみた(本書に登場した順序。強調は道田)。

  1. 体重は,体脂肪量を調節することによって,常に一定値(セットポイント)になるように脳でコントロールされている。(p.86)
  2. 体重のセットポイントは年齢によって変化しており,その変化も,あらかじめ遺伝子によって規定されていると考えられる。(p.87)
  3. 体脂肪が減少したことを脳に知らせる働きをもつのは,本章の後半で述べるレプチンというホルモンである。(p.91)
  4. 肥満になる原因が,それまで考えられていたような意思だとか,環境だとかいったあいまいなものではなく,遺伝子の変異やホルモンのアンバランスによることが明らかにされた。(p.134)
  5. 肥満になるかどうか,あるいはダイエットが成功するかどうかという点に関して,これまでにいわれてきたような「弱い意志」などは存在しない。(p.148)
  6. (ある調査によると)48歳のときの遺伝素因は,20歳のときと同じものは多くなく,半分以上が新たに顕在化してきた遺伝素因であるというのだ。(p.182)

 まあ十分にわかったとはいいがたいが,サーモスタットによる温度調節のような「体重のセットポイント説」と,その生理学的メカニズムについて,多少わかったような気がする。結局,「太っている」ということも,「最近太ってきた」ということも,セットポイントのなせる,自然なことだということか。しかしそうだとすると,減量しても無駄ということなのだろうか? この説からすると,そう考えざるを得ないような気がする。しかしそれに反して本書後半では,いかに体重をコントロールするか,ということが書かれているのである。自然なことなのか? それともコントロール可能なものなのか? この点が本書最大の疑問だった。

 具体的には,肥満は万病のもとなので減量は必要と言い(p.164-),肥満などの生活習慣病を予防するライフスタイルとしてヴェジタリアニズムを推奨し(p.218-),肥満対策として「体脂肪税」(体脂肪の高い人に課税?),「ジャンクフード税」(ファーストフード店に課税),健康維持減税(1年間健康保険を使用しなかった人に減税)などの経済的インセンティブを働かせる方法を提唱している(p.260-267)。前のほうでは,肥満に対する行動修正療法(体重日記をつけるような認知行動療法)がかならずしも有効ではないという趣旨のことをを述べている(p.150)にも関わらずである。なおこの節では,肥満遺伝子説について,「肥満者の一部は,個人の遺伝素因の関与が大きく」(p.263)と,表現が微妙に変わっている。いや,変化は微妙でも,これでは,冒頭の筆者の主張とは意味が大きく変わってしまうのではないか。

 しいて全体が統合的に理解できるよう解釈するなら,「肥満は遺伝であって,意志の弱さでなるわけではない」「しかし意志が強ければ,体重を低く維持することは可能」ということだろうか。そして,肥満は生活習慣病(成人病)を合併しやすいので,肥満体質の人は,無理をしてでも体重を低く維持しなければならないのである。こう解釈する以外に本書の全体は理解できないように思う。もしこれがあっているのであれば,結局,上記4番は不適切だと思うのだが。

 そうであるならば,私も今後,リバウンドの危険性は大いにあるものの,現在の減量努力を生涯続けて,体重を維持しなければならない,ということか。ちょっとガックシだけど,まあしばらくは,そのつもりで頑張りますか。そして,リバウンドしても,遺伝なのだから落胆することはない,と思いましょう。

ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。

 

■3歳児に十余の質問
2002/01/27(日)

 1年前にやった,発達検査(日本版デンバー式発達スクリーニング検査)の質問と同じものを,上の娘(3歳7ヶ月)にやってみた。ただし聞いたのは今回は,専門家である妻ではなく私である。あと,カッコ内は,1年前の答えである。

  1. あなたのお名前は?
    みちたまあちゃん(仮名)です (やしし)
  2. 何歳ですか?
    3さい (にさいです)
  3. お腹が減ったときどうしますか?
    ごはんたべる (おまめのごはんじゃない?)
  4. 寒いときは?
    ながそで きる (おるすばんのときあったよ)
  5. 疲れたときは?
    ねむる (ねんねしたらいい)
  6. 先生のところ(=保育園)で,何してきたの?
    わからない (えっと,せんせいのところ,おやつたべてきたの)
  7. 火は熱いよね。氷は?
    こおりはつめたい (こおりは,れいぞうこにはいってるの)
  8. お母さんは女です。じゃあお父さんは?
    おとこ (おうとさん,おしごと)
  9. 馬は大きい。ねずみは?
    ちいちゃい (ねずみ行っちゃった)
  10. ボールってなあに?
    ボールぽんするの (ボール,ポンてするの)
  11. 湖ってなあに?
    わからない (みずうみ,おおきくなったの)
  12. 机ってなあに?
    つくえって,テーブルでごはんたべること (くつえって,つくえ...こうやってこうやってオオッ!てすんだよ)

 当然だろうが,この1年間で相当進歩している。そのなかで,今回気づいたことがいくつかある。列挙すると次のようになるだろうか。

  1. これは去年も同じなのだが,名詞を,機能で理解している(10番, 12番)
  2. わからないことは,適当に答えるのではなく「わからない」といえるようになった。
  3. 答え方が,日常的な会話というよりは,一問一答に答えるときのような答え方である(3番以降)
  4. 「ボールってなあに?」という質問に対する答えは,1年前とまったく同じだ。ただし去年は,答えた後にボールを取りに行ったのだけれど,今年はそういうことはしていない
  5. はにかんだような笑いを浮かべながら答えていた

 とくに上の3以降に書いたことすべてから感じたのだが,娘はこの問答が,いつもの私とのコミュニケーションとは違うものだと感じていたのかもしれない。もう少し別の,改まったものというか,学校的というか。会話するというよりも,「答えることそのものが目的」というか。

 もちろん娘がそう言葉で言ったわけではないし,そうではないという見方も可能かもしれないが,娘のはにかみや答え方を見ながら,そういう類のことを感じたのではないか,と私は質問しながら感じた。(ひょっとしたら,最近の私の問題意識を投影して答え方を聞いているのかもしれない)。もしそうだとすると,娘は学校経験はないので,これは,私の聞き方(学校の先生のような)が引き出したものかもしれない。

 1年前にこのテスト場面を見たときには,「これって,コミュニケーション能力を測定しているわけではないのかも」と考察した。今回感じたことは,これらの質問に支障なく答えられるということは,学校のような場所に適応できることを示しているのかもしれない,ということである。発達検査とはそういうものなのかもしれないけれど。

ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。

 

■『文化・組織・雇用制度』(荒井一博 2001 有斐閣 ISBN: 4641161410 \3,800)
2002/01/24(木)
〜信頼に支えられた組織〜

 『文化の経済学』の著者による新著。『文化の経済学』に比べて,数式を多用して理論的モデルをきちんと提示したりしているなど,専門色が強い。何度か述べているように,私は政治経済オンチなので,適切に理解しているかどうかは分からないが,一応がんばって(数式以外は)最後まで目を通した(ので,以下に述べることが適切な理解に基づいているかどうかは自信がない)。

 本書は,ゲーム論を用いて組織と雇用制度を分析し,信頼という文化の重要性を論じた本といえるだろうか。その基本的な考えは,以下のようなものかと思われる。契約によって,おこりうるあらゆる可能性に備えることはできない(契約の不完備性)。それゆえそこには,当事者が自由裁量で行動を選択する余地が存在する。そして,契約に関わる両者のとる行動の組み合わせによって,お互いがどのような利益を得るかが変わってくる(相互依存性)。そのような世界を描写する方法がゲーム論である。そして,自由裁量下の行動選択に影響するのが,相手に対する期待(信頼を含む)の程度であり,そのような期待のあり方を方向づけるのが文化,ということである(たぶん)。

 そして,このような構図ががあらわれる場の一つとして,本書のテーマである「組織」があるのである。筆者は,組織の存在理由を次のように捉えている。

組織とは,信頼し合う(よう努力する)特定の個人同士が継続して取引し,また信頼を強化する制度的工夫を行って,取引費用を含む生産費用の最小化(利潤の最大化)を図る存在である。(p.24)

 ここには「契約」という語こそ出てこないが,組織内の取引では,上の要約内容と同じようなことがおきる。というより,明確な契約がないため,よりいっそう自由裁量の余地が生まれ,結果として,よりいっそう文化の影響があらわれるといえる。おそらくそういう意味であろうが,筆者は組織はきわめて文化的な存在(p.23)と述べている。そして,日本的な雇用制度である終身雇用制度のような制度的工夫は,組織忠誠心を醸成し(p.27),信頼関係を生み出し,結果的に効率的な組織となる。

 もちろん私には,その内容にはとてもではないけどコメントできない。ただ,おそらくは本書の考察の範囲外のことではないかと思うが,ちょっと思ったことがあるので,書いておく。組織忠誠心やお互いの信頼に支えられた組織は,生産性の高い,効率の良い組織だと思うが,そこで生み出されるのは,その組織が本来的に目的としている生産物だけではないであろう。『無責任の構造』で論じられているような,組織の犯罪や,ミスの隠蔽など,対外的に無責任な行動をも生み出すのではないだろうか。組織忠誠心をバックに,信頼に基づいて一致団結して。

 しかも恐ろしいことに,筆者がおこなった実験によると,コミュニケーションや説得が行われると,個人の当初の価値観は達成利得に無関係となる(p.78)という。もちろんこれは,企業本来の生産における効率性を高める場合には大きな利点になる。しかしそれは同時に,「対外的無責任行動」においても,個人の価値観や倫理観が,組織の倫理観に埋没してしまうということにもなる。つまりみんなで協力すれば平気で非倫理的なことができてしまうということだ。そういう意味では,信頼とは,組織の成員が個人として自分の責任でものごとを判断することを抑制する方向に働くのかもしれない。

 もちろん信頼に支えられた組織が,悪い方向に突っ走ってしまう場合もあるだろうし,うまく話し合いが行われたりして歯止めが利くこともあるであろう。その組織がどちらになるかはおそらく,本書の言い方でいうならば「文化」によって決まるのであろう。そのような,対外的に健全な組織とそうでない組織の違いを支える文化がどのようなものか,知りたいものである。

◇ ◇

 ここまで書き上げてアップロードしようと思ったのだが,これと関連しそうなことが少しだけ本書に触れられていたので追記。まず,筆者の「信頼」の定義(の素)は次のようなものである。

個人Aが個人Bを信頼することとは,Bの表明したことや(表明しない場合は)社会的に倫理的と考えられることをBが行うと,Aが期待することである(p.45)
実際はこれに確率の概念が入ってきたりして,もう少し(数学的,経済学的に)使い勝手のいい定義になっているが,幹の部分は変わらない。そして上記の問題は,このなかの「社会的に倫理的と考えられること」が人によって食い違うことに端を発するものと考えられる。それに関しては本書には,「非倫理的な行動に関しても信頼が成立しうる」「社会によって倫理は異なりうる」「重要性は劣るものの,同一社会の中でも,ある行動に対する倫理性の判断が個人によって異なる場合がある」(p.46)と書かれている。

 上記の問題は,このうちの一番最後の(筆者が「重要性が劣る」と書いている)個人間の倫理の差であろう。そのような,個人間の倫理の差を許容する文化があれば,ある社会内で合意されている倫理的判断や非倫理的(と一部の成員には見える)行動に対して,疑問を呈したり話し合いに発展したりするのだろうと思う。そしてそれは,組織忠誠心や組織の生産性の高さとは相容れない場合もあるかもしれない。これは経済学の問題ではなく倫理学の問題になるのかもしれないけれど。

ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。

 

■週末のこと
2002/01/21(月)

 週末はセンター試験監督でまるまるつぶれた。土曜日は娘たちの保育園のお遊戯会だったのに...

 それはさておき初日。業務中は立ってうろうろすることも多いので,歩数計の数字はけっこう稼げる。でも,いわゆるウォーキングみたいな歩き方(有酸素運動)はしないから,たいした運動にはならないのである。業務の間には,疲れを癒すためにお菓子をつまんだりするし。

 案の定,日曜日の朝には体重が増えていたので,2日目は,業務終了後,会場から自宅まで歩くことに。思ったより近く,5600歩で自宅につく。おかげで今朝の体重は許容範囲に。

 2日目の開始前。控え室では,障害児教育の先生と同じテーブルだったので,以前から知りたかったことを聞いてみる。『「私」というもののなりたち』に,自閉症児の心のあり方について,実にうまい説明がなされているのだが,そのような考え方はどのように受け取られているか,知りたかったのである。

 するとその先生は,そのような考えを肯定されたのだが,驚いたことに,先生も以前浜田氏の考えがすごいと思ったので,これまでに浜田氏を集中講義に何度かお呼びしているという。著作もすべてお持ちだそうだ。私はまだ2冊しか読んでいない。おかげで,関係論的な考え方について,伺うことができた。

 #その直後の国語の試験に,浜田氏の文章が出題されていたのには驚きました。

ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。

 

■『医療事故自衛BOOK−わかりやすい対策11か条と役立つ320の医療情報−』(和田努 2001 小学館文庫 ISBN: 4094178511 \476)
2002/01/20(日)
〜対等さは勝ち取るもの〜

 実際の医療事故の例などを示しながら,患者が自衛するための方法や考え方を紹介している本。

 著者によると,医療事故の原因は,エラー,ルール違反,未熟があり,日本の医療事故は「未熟」が引き起こすものが圧倒的に多いという(p.16)。たとえば産婦人科で,患者の顔をろくに見ないで中絶手術を行い,人違いで(出産を楽しみにしていた)妊婦の胎児を中絶してしまう,という事故が1987年に福島で起きている(p.17)。これは,名前をフルネームで呼ばなかったり(二人は同姓であった),最終的な意思確認を怠ったという初歩的なエラーによるものである。

 このようなケースはとくに大病院に多いのだと筆者は言う。実際に事故が起きた大病院を取材して筆者は,機械化され,細分化されて,まるで工場のようだ(p.20)と述べているが,事故現場で生鮮品や危険物を「工業製品」としてしかあつかわれていた,という同様の指摘が『あの日、東海村でなにが起こったか』でなされていたのを思い出した。

 本書には,自衛のためのアドバイスが11か条載せられているが,そのいくつかピックアップしてみる。ほほおと思ったのは「診療手帳」。これを常に携帯し,医師の名前や診療内容,検査結果などを書きとめよう(医師に書いてもらうとなおよい)というアドバイスである。それは,自分のデータを把握することも役立つし,医療事故に巻き込まれたときにも役立。そのうえ,医師がこの手帳に対してどのような態度をとるかによって,患者に対する医師の姿勢がわかるという。ほほお,である。

 わかっていてもなかなかできないのが,「医師の説明に対し,納得のいくまでくり返し質問攻めにする」。手術であれば,本当に必要なのか? その他の治療はないのか? 死亡率は? 合併症は? 治癒率は? 執刀経験と成功率は? ということは確認しておいたほうがいい。手術ではないにしても,所見にしても治療方針にしても,納得がいくまで聞くことは必要であろう。とくに本書で,医療ミスの事例を読んでから,なおさらそう思った。また「質問する」ことは,診療手帳と同じく,医師の姿勢を知る手がかりにもなるし。以前私は,自分の体験から医者と患者が対等だなんて絵空事?と書いたが,対等さは,積極的・意識的に行動することによって勝ち取らねばならないことに,改めて気づいた。

 なるほど,と思ったのが「かかりつけ薬局を持とう」。最近は院外処方箋が多いが,あまり何も考えずに,いわゆる「門前薬局」に行っていた。しかし院外処方箋は,医療事故を防ぐ意味がある。それは,医師の処方を第二の専門家の目でチェックすることになるし,複数の病院で複数の薬が処方されたときに,それらを一箇所で出してもらえば,薬局が薬同士の関係などを全体的に見ることができる。というかこれは,薬局にしかできない仕事である。そっか。医者でいろいろ聞かれたあと,なんで薬局でもまた,医者がするようなことをいろいろ聞くんだろう,と,実は面倒くさく思っていたのだが,意味があることだったのだ。なるほどなるほど,そうであるならば,その制度は積極的かつ意味のあるやり方で利用しなければ,と思った。

 このように本書は,タイトルどおりの「自衛」の本であると同時に,失敗学のためのヒントも得られる本であると思う。そのほかにも本書には,「内科の看板を掲げていても,糖尿病について,無知な医師もいっぱいいる」(p.60)とか,「救急車で搬送先を判断するのは救急隊員なので,判断を誤ることもある」(p.81)とか,「小規模の民間病院が救急指定病院になっているのは営業的にメリットがあるから」(p.81)といった(知らないと危険な)知識も書かれており,なかなか有益であった。

ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。

 

■正月太りからの復帰
2002/01/17(木)

 減量を終了してから2ヶ月が経つが,この1ヶ月で400g減った。理想的な展開である。ただしこの結果は,けっこう苦労して勝ち取ったものだ。

 昨年末は,最大で1.2kg減っている。しかし正月で1.6kg増えたのだ。それで,ここ1週間ほどで800g減らしてこの数字になったというわけだ。

 正月に増えたのにはいくつか理由があると思われる。列記してみると,

  1. 帰省先が寒く,しかも風邪気味だったのであまり歩けなかった。せっかく,帰省先から歩いて2000歩ほどのところにあるナイスな本屋をいくつか見つけていたのに...
  2. 帰省先の体重計がアナログ式であった。数値がはっきりわからないし,小さな体重計だったので,+5kgぐらいの数字は「すぐとなり」にあるように見える。これだと,まあ2〜3kg増えても大差ないかなあなんて気になるのである。デジタルだと(我が家の場合)200g単位で細かく数字が出るので,ちょっと増えただけで「大差ある」ような気になるのとは大違いである。
  3. 毎日晩酌した。その分食事時間は長くなるし,おつまみ(主にチーズ海苔巻)の分だけは確実にカロリーを摂取している。
  4. それに加えて,お菓子だのぜんざいだの,おいしそうなものがあったので,ついつい食べてしまった。
  5. その癖が抜けず,こちらに戻ってからもしばらくは,口寂しくてついお菓子をつまんでしまうことが多かった。
  6. 上の娘が病気になったので,私だけ先にこちらに戻り,1週間ほどは毎日外食していた(ので,戻った後も体重が増えつづけた)。

 これを,週末にとなり町の運動公園に行ってウォーキングしたりして,なんとか持ち直したわけである。強敵は5番であった。こういうのはなかなか,ピタッとやめることはできないことがわかった。少なくとも私の自制心では。次回帰省時には,対策が必要かもしれない。

ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。

 

■『学校を非学校化する−新しい学びの構図−』(里見実 1994 太郎次郎社 ISBN: 4811806301 \2,000)
2002/01/16(水)
〜読み書きを通して非学校化〜

 國學院大學教員である筆者が,1982年から1994年にかけて主に『ひと』誌に発表した教育関連の論考を集めた本。内容はさまざまだが,大きく4部に分けられている。

 第1部はタイトルにあるような「非学校化」の話。今の学校のありようの重要な特徴として筆者は,「正解信仰」「競争原理」「生徒化」の3つを挙げている。生徒化というのは,教師は教えるだけの存在,生徒は教えられるだけの存在という,日常のコミュニケーションでは見られない役割の固定化のことである。そして筆者は,学校をそういう場所ではなく,仕事場,アトリエ,共同の作業所のような場所にしうるのではないかと考えており,どうやらそのことを「非学校化」と言っているようである。といっても第一部のなかには,非学校化という言葉は1箇所にしか出てこず,そこで説明はされていないので,これは私の推測なのだが。この主張は,状況的学習論の人たちの考え方と基本的には同じだろう。

 第2部は,「いま,なぜフレネか」ということで,フレネ教育についての筆者の論考が収められている。それだけではなく,それに似たものとして,日本の生活綴り方,フレイレの識字実践についても触れられており,「書く」ことによって学ぶ,というかたちで教育活動が展開されているという点では,そのどれもが共通(p.72)している,とまとめられている。このパートを通して,書くことの意義,書くことと考えることとの関連,書くことが上記の3つの原理から脱するために有効でありそうであることが示唆されている。

 第3部は「世界を読み解くということ」というタイトルで,社会科教育のほかに,文学と詩について,そして,教育技術の法則化運動に関する論考が収められている。社会科教育に関する章の冒頭に書かれていた,ぼくは,社会科教育は一種の読み方教育であると考えている(p.100)という文章が印象深かった。それは社会科だけではなく,国語でも理科でも同じなのだが,すぐれた授業は「読解力」を育てる,ということである。社会を読む力,自然を読む力。そういう意味では,教育はすべてリテラシー(識字)教育といえるかもしれない。

 ほかにも,私のテーマに関してヒントになりそうな興味深い記述はいくつもあったが,これぐらいにしておく。本書の内容を無理やりまとめるなら,この読書記録のサブタイトルに書いたように,学校の不自然さを自然なものとして取り戻すために,(能動的に)読むことと書くが一つの方策として有効ということだろうか。読み書きというと,寺子屋とか,小学校低学年における勉強をイメージしてしまうが,これらにはもっと根源的な力があることが本書を通してわかった。自分の力で世界を読み解くということ,そして,自分が伝えたいことを発信することの重要さというか。うまくいえないが。こういったことも含めて,本書で得たものを,しばらく私のなかでの対話の材料として用いながら,考えを深めてみようと思っている。

ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。

 


[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'02] [索引] [選書] // [ホーム]