| 31日短評10冊 30日『「私」とは何か』 28日『ダイエットを医学する』 24日『文化・組織・雇用制度』 20日『医療事故自衛BOOK』 16日『学校を非学校化する』 |
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| 29日卒論を見ていて思ったことのメモ 27日3歳児に十余の質問 21日週末のこと 17日正月太りからの復帰 |
■1月の読書生活 |
2002/01/31(木)
今月よかったのは,『アクション・リサーチのすすめ』,『授業研究入門』,『学校を非学校化する』,『「私」とは何か』と4冊ある。あと,『医療事故自衛BOOK』も興味深かった。おお,こうしてみれば豊作月だったようだ。といっても,トータルの冊数が多いから当然か(2000年6月と並んで自己ベストタイ)。このペースが維持できるといいんだけどなあ。いやいや,それとも読書はほどほどにして,その時間を別のことに振り分けるべきか? ちなみに,今月読んだ本の中には,著者様からいただいた本が3冊含まれている。たいへんありがたいことである。
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■『「私」とは何か−ことばと身体の出会い−』(浜田寿美男 1999 講談社選書メチエ ISBN: 4062581701 \1,800) |
2002/01/30(水)
〜存在ではなく現れ方を問う〜『「私」というもののなりたち』(以下「前著」と呼ぶ)の編者による,「私」についての本。今年のセンター試験の国語で出題された本だ(その当時,私が注文中だった本であることもビックリした一因だ)。 本書における「私」に関する考えは,基本的には前著と同じである。内容も,半分ぐらいは前著と重なっている。ただし前著が,詳細に事例を検討し,複数の研究者でそれを検討しながら「私」に迫っていったのに対して,本書では,一人の著者が,順を追って書いているので,はるかにわかりやすくなっている。浜田「私」論をご存じない方には,本書を先に読まれることをお勧めする。また,内容の半分ぐらいが前著と同じとはいっても,なかなかすぐには理解しにくい考えなので,私は別に退屈ではなかった。むしろ,前著を復習する手間が省け,また,前著でわかりにくかった概念がわかるようになったのでよかったと思ったぐらいだ。 本書のタイトルである「私とは何か」という問いに対する筆者の答えは何か。筆者がそれを一言で表していると思われる箇所は以下の部分である。 ことばが対話であるのと同じ意味で,「私」もまた対話であるという言い方も可能かもしれない。(p.233) このちょっと前には,<能動−受動>の構図そのものが「私」(p.233)と書かれている。まあどちらにしてもわかりにくい表現である。もう少し詳しく書いてあり,かつまとまっている箇所としては,次のものが挙げられる。 「私」という存在は,身体の中の心臓とか肝臓といったような特定器官の機能ではない。もちろん脳がそこに関与していることは否定できないが,では脳の中に「私」を生み出すなにかの実態があるのかというと,そういうわけではない。これまでの話を受けて言えば,それはそのような実態ではなく,むしろ他者との関係のなかで生きてきた<能動−受動>の構図そのものが「私」の核をなす。この<能動−受動>のやりとりが自我二重性として根をおろしてこそ「私」は成り立つ。(p.259) <能動−受動>の構図とは,内なる他者との間に<働きかける−働きかけられる>というやりとりを行う,ということのようである。まあこちらにしても,わかりやすい表現とはいえないが,他者を「私」の成立基盤と考えるこの説は,きわめて妥当な説に思える。 さて,本書にみられる考察のなかで,前著になく,しかもきわめて興味深いと思われた点がある。それは,自分や他者の「パースペクティブ」という視点である。たとえば次のような文章に,それが表れている。 私たちは,生身の身体で生きているこの生活世界において,周囲の他者,その他者たちのあいだのやりとりに,しじゅう自分の視点を重ね,その他者のパースペクティブを生きようとしている。(p.51) 小説を読むときも,写真を見るときも同じであるが,どこかの点に視点をおいて描写されているものを,私たちはその視点に自然に入り込んで,その位置から出来事なり風景を味わっている。そしてそれと同じように,他者の言葉や感情も,相手の位置に入り込んで理解しているのである(100%理解することはなく,どこかに自己中心性は付きまとうのであるが)。 これは,『哲学・航海日誌』におけるパースペクティブの考察と全く同じではないが,それとも通じる考察であるように思われる。そして,このように考えると,「他者の心は理解可能か」という問いは無意味といえるのではないかと思う。それは結局,以前状況論についての補足として書いた,「心は,存在の有無を問われるべき問題ではなく,どのようにして現れてくるのか,その見え方を問われるべき問題なのである」ということと同じことを,本書は示唆しているように思える。 ただ,本書では「心」ではなく「私」が,「他者」との関係で記述されている。そこでこの表現を,本書に即して改変するならば,次のようになるだろうか。 『私』の問題は,実体としての存在を問われるべき問題ではなく,発達の中で(他者との関係において),どのようにして現れてくるのか,その現れ方を問われるべき問題なのである。うーん,ちょっとイマイチという気がしないでもないが。まあしかし,ということは,本書のような関係論と,相互行為分析のような状況論(といっていいのかどうかはわからないけれども)とは,同根の発想ということなのだろうか。この点については今後の課題だ。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■卒論を見ていて思ったことのメモ |
2002/01/29(火)
学生の卒論を検討していていろいろ思うことがある。提出直前なので,対処療法的というかもぐらたたき的に一つ一つ検討していかなければいけないのだが,そういうことをしながら,もっと早い時期に文章作法や論理の一般ルールを指導しておけばよかったと思う。今後のために,今回思ったことのメモを書いておく。 まずは文章作法。1文がやたら長かったり,段落の切れ目が悪かったりして,文章が読みにくい。たくさんではなくていいので,読みやすい文章のための一般ルールを知り,それを実際に使ってみるという体験が必要だろう。 それから,結果と考察のつながりが悪い。ある結論がいいたいとき,何を根拠にそれをいっているのかが不明確である。文章を「根拠」と「結論」にわけ,その論証構造を検討してみると,その論証に関係のない文章が紛れ込んでいたり,根拠が不十分だったり,不適切だったりしていることがわかる。こういうことも,早めにやっておくべきだな。 あと,可能性の検討が足りないように見える部分も多い。一つの可能性だけ挙げて,それで満足してしまっているように見える。常に複数の可能性を考えたり,一度自分の考えを否定・反論してみるみたいなことをしないようである。「問い直し」が足りないというか。これは思考態度の問題,といえるかもしれない。 ・・・とは言っても,具体的にどうすればいいのかはわからないのだけれども。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■『ダイエットを医学する−人類は丸くなっている?−』(蒲原聖可 2001 中公新書 ISBN: 4121015991 \880) |
2002/01/28(月)
〜肥満は自然。でも減量しましょう?〜肥満について研究している医師が書いた本。基本的な主張は,肥満の主たる原因は遺伝子(p.147)というものである。面白かった。その面白さには3層ぐらいあるような気がする。 一番外側の層は,雑学的面白さである。たとえば,イギリスでは痩せすぎのモデルの起用が自粛されるようになってきている,とか,体脂肪量測定の難しさ,とか,単品ダイエットでなぜ痩せることができるか,といった話である。 真ん中の層は,中核の主張部分を周りから支えている層であり,思考態度の確かさとでもいえる面白さである。先に書いたように,筆者の主張は肥満遺伝子説であるが,それ以外の説を単純に排除しているわけではない。たとえばウィルス説が紹介されており,それに対する反論や,医学界では懐疑的に受け取られていることも紹介されているが,肥満もウィルス説を完全に無視することはできない(p.47)と述べられている。それはピロリ菌(胃潰瘍の原因となる菌)のように,当初はウィルスの存在が疑われたにもかかわらず,後に市民権を獲得したケースがあるからである。 あるいは,BMI(体格指数)が遺伝する可能性は70%(p.22)だそうだが,このようなわかりにくい統計的表現の意味が,丁寧に説明されている。なんとなくこれを,たとえば「肥満になる理由の70%は遺伝だ」というように理解しがちだが,そうではない。これは,たくさんの人のデータを集めたとき,そのBMIの値のばらつきの70%は遺伝素因で説明できる意味である。こういう部分がきちん説明がなされている点も,本書が面白く感じる一因であり,好感が持てる本である。 で,面白さの中核に位置する,肥満遺伝子説であるが,体重が遺伝的に決定されるメカニズムと関連すると思われる箇所を抜き書きしてみた(本書に登場した順序。強調は道田)。
まあ十分にわかったとはいいがたいが,サーモスタットによる温度調節のような「体重のセットポイント説」と,その生理学的メカニズムについて,多少わかったような気がする。結局,「太っている」ということも,「最近太ってきた」ということも,セットポイントのなせる,自然なことだということか。しかしそうだとすると,減量しても無駄ということなのだろうか? この説からすると,そう考えざるを得ないような気がする。しかしそれに反して本書後半では,いかに体重をコントロールするか,ということが書かれているのである。自然なことなのか? それともコントロール可能なものなのか? この点が本書最大の疑問だった。 具体的には,肥満は万病のもとなので減量は必要と言い(p.164-),肥満などの生活習慣病を予防するライフスタイルとしてヴェジタリアニズムを推奨し(p.218-),肥満対策として「体脂肪税」(体脂肪の高い人に課税?),「ジャンクフード税」(ファーストフード店に課税),健康維持減税(1年間健康保険を使用しなかった人に減税)などの経済的インセンティブを働かせる方法を提唱している(p.260-267)。前のほうでは,肥満に対する行動修正療法(体重日記をつけるような認知行動療法)がかならずしも有効ではないという趣旨のことをを述べている(p.150)にも関わらずである。なおこの節では,肥満遺伝子説について,「肥満者の一部は,個人の遺伝素因の関与が大きく」(p.263)と,表現が微妙に変わっている。いや,変化は微妙でも,これでは,冒頭の筆者の主張とは意味が大きく変わってしまうのではないか。 しいて全体が統合的に理解できるよう解釈するなら,「肥満は遺伝であって,意志の弱さでなるわけではない」「しかし意志が強ければ,体重を低く維持することは可能」ということだろうか。そして,肥満は生活習慣病(成人病)を合併しやすいので,肥満体質の人は,無理をしてでも体重を低く維持しなければならないのである。こう解釈する以外に本書の全体は理解できないように思う。もしこれがあっているのであれば,結局,上記4番は不適切だと思うのだが。 そうであるならば,私も今後,リバウンドの危険性は大いにあるものの,現在の減量努力を生涯続けて,体重を維持しなければならない,ということか。ちょっとガックシだけど,まあしばらくは,そのつもりで頑張りますか。そして,リバウンドしても,遺伝なのだから落胆することはない,と思いましょう。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■3歳児に十余の質問 |
2002/01/27(日)
1年前にやった,発達検査(日本版デンバー式発達スクリーニング検査)の質問と同じものを,上の娘(3歳7ヶ月)にやってみた。ただし聞いたのは今回は,専門家である妻ではなく私である。あと,カッコ内は,1年前の答えである。
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当然だろうが,この1年間で相当進歩している。そのなかで,今回気づいたことがいくつかある。列挙すると次のようになるだろうか。
とくに上の3以降に書いたことすべてから感じたのだが,娘はこの問答が,いつもの私とのコミュニケーションとは違うものだと感じていたのかもしれない。もう少し別の,改まったものというか,学校的というか。会話するというよりも,「答えることそのものが目的」というか。 もちろん娘がそう言葉で言ったわけではないし,そうではないという見方も可能かもしれないが,娘のはにかみや答え方を見ながら,そういう類のことを感じたのではないか,と私は質問しながら感じた。(ひょっとしたら,最近の私の問題意識を投影して答え方を聞いているのかもしれない)。もしそうだとすると,娘は学校経験はないので,これは,私の聞き方(学校の先生のような)が引き出したものかもしれない。 1年前にこのテスト場面を見たときには,「これって,コミュニケーション能力を測定しているわけではないのかも」と考察した。今回感じたことは,これらの質問に支障なく答えられるということは,学校のような場所に適応できることを示しているのかもしれない,ということである。発達検査とはそういうものなのかもしれないけれど。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■『文化・組織・雇用制度』(荒井一博 2001 有斐閣 ISBN: 4641161410 \3,800) |
2002/01/24(木)
〜信頼に支えられた組織〜『文化の経済学』の著者による新著。『文化の経済学』に比べて,数式を多用して理論的モデルをきちんと提示したりしているなど,専門色が強い。何度か述べているように,私は政治経済オンチなので,適切に理解しているかどうかは分からないが,一応がんばって(数式以外は)最後まで目を通した(ので,以下に述べることが適切な理解に基づいているかどうかは自信がない)。 本書は,ゲーム論を用いて組織と雇用制度を分析し,信頼という文化の重要性を論じた本といえるだろうか。その基本的な考えは,以下のようなものかと思われる。契約によって,おこりうるあらゆる可能性に備えることはできない(契約の不完備性)。それゆえそこには,当事者が自由裁量で行動を選択する余地が存在する。そして,契約に関わる両者のとる行動の組み合わせによって,お互いがどのような利益を得るかが変わってくる(相互依存性)。そのような世界を描写する方法がゲーム論である。そして,自由裁量下の行動選択に影響するのが,相手に対する期待(信頼を含む)の程度であり,そのような期待のあり方を方向づけるのが文化,ということである(たぶん)。 そして,このような構図ががあらわれる場の一つとして,本書のテーマである「組織」があるのである。筆者は,組織の存在理由を次のように捉えている。 組織とは,信頼し合う(よう努力する)特定の個人同士が継続して取引し,また信頼を強化する制度的工夫を行って,取引費用を含む生産費用の最小化(利潤の最大化)を図る存在である。(p.24) ここには「契約」という語こそ出てこないが,組織内の取引では,上の要約内容と同じようなことがおきる。というより,明確な契約がないため,よりいっそう自由裁量の余地が生まれ,結果として,よりいっそう文化の影響があらわれるといえる。おそらくそういう意味であろうが,筆者は組織はきわめて文化的な存在(p.23)と述べている。そして,日本的な雇用制度である終身雇用制度のような制度的工夫は,組織忠誠心を醸成し(p.27),信頼関係を生み出し,結果的に効率的な組織となる。 ◇
もちろん私には,その内容にはとてもではないけどコメントできない。ただ,おそらくは本書の考察の範囲外のことではないかと思うが,ちょっと思ったことがあるので,書いておく。組織忠誠心やお互いの信頼に支えられた組織は,生産性の高い,効率の良い組織だと思うが,そこで生み出されるのは,その組織が本来的に目的としている生産物だけではないであろう。『無責任の構造』で論じられているような,組織の犯罪や,ミスの隠蔽など,対外的に無責任な行動をも生み出すのではないだろうか。組織忠誠心をバックに,信頼に基づいて一致団結して。 しかも恐ろしいことに,筆者がおこなった実験によると,コミュニケーションや説得が行われると,個人の当初の価値観は達成利得に無関係となる(p.78)という。もちろんこれは,企業本来の生産における効率性を高める場合には大きな利点になる。しかしそれは同時に,「対外的無責任行動」においても,個人の価値観や倫理観が,組織の倫理観に埋没してしまうということにもなる。つまりみんなで協力すれば平気で非倫理的なことができてしまうということだ。そういう意味では,信頼とは,組織の成員が個人として自分の責任でものごとを判断することを抑制する方向に働くのかもしれない。 もちろん信頼に支えられた組織が,悪い方向に突っ走ってしまう場合もあるだろうし,うまく話し合いが行われたりして歯止めが利くこともあるであろう。その組織がどちらになるかはおそらく,本書の言い方でいうならば「文化」によって決まるのであろう。そのような,対外的に健全な組織とそうでない組織の違いを支える文化がどのようなものか,知りたいものである。 ◇ ◇
ここまで書き上げてアップロードしようと思ったのだが,これと関連しそうなことが少しだけ本書に触れられていたので追記。まず,筆者の「信頼」の定義(の素)は次のようなものである。 個人Aが個人Bを信頼することとは,Bの表明したことや(表明しない場合は)社会的に倫理的と考えられることをBが行うと,Aが期待することである(p.45)実際はこれに確率の概念が入ってきたりして,もう少し(数学的,経済学的に)使い勝手のいい定義になっているが,幹の部分は変わらない。そして上記の問題は,このなかの「社会的に倫理的と考えられること」が人によって食い違うことに端を発するものと考えられる。それに関しては本書には,「非倫理的な行動に関しても信頼が成立しうる」「社会によって倫理は異なりうる」「重要性は劣るものの,同一社会の中でも,ある行動に対する倫理性の判断が個人によって異なる場合がある」(p.46)と書かれている。 上記の問題は,このうちの一番最後の(筆者が「重要性が劣る」と書いている)個人間の倫理の差であろう。そのような,個人間の倫理の差を許容する文化があれば,ある社会内で合意されている倫理的判断や非倫理的(と一部の成員には見える)行動に対して,疑問を呈したり話し合いに発展したりするのだろうと思う。そしてそれは,組織忠誠心や組織の生産性の高さとは相容れない場合もあるかもしれない。これは経済学の問題ではなく倫理学の問題になるのかもしれないけれど。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■週末のこと |
2002/01/21(月)
週末はセンター試験監督でまるまるつぶれた。土曜日は娘たちの保育園のお遊戯会だったのに... それはさておき初日。業務中は立ってうろうろすることも多いので,歩数計の数字はけっこう稼げる。でも,いわゆるウォーキングみたいな歩き方(有酸素運動)はしないから,たいした運動にはならないのである。業務の間には,疲れを癒すためにお菓子をつまんだりするし。 案の定,日曜日の朝には体重が増えていたので,2日目は,業務終了後,会場から自宅まで歩くことに。思ったより近く,5600歩で自宅につく。おかげで今朝の体重は許容範囲に。 ◇
2日目の開始前。控え室では,障害児教育の先生と同じテーブルだったので,以前から知りたかったことを聞いてみる。『「私」というもののなりたち』に,自閉症児の心のあり方について,実にうまい説明がなされているのだが,そのような考え方はどのように受け取られているか,知りたかったのである。 するとその先生は,そのような考えを肯定されたのだが,驚いたことに,先生も以前浜田氏の考えがすごいと思ったので,これまでに浜田氏を集中講義に何度かお呼びしているという。著作もすべてお持ちだそうだ。私はまだ2冊しか読んでいない。おかげで,関係論的な考え方について,伺うことができた。 #その直後の国語の試験に,浜田氏の文章が出題されていたのには驚きました。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■『医療事故自衛BOOK−わかりやすい対策11か条と役立つ320の医療情報−』(和田努 2001 小学館文庫 ISBN: 4094178511 \476) |
2002/01/20(日)
〜対等さは勝ち取るもの〜実際の医療事故の例などを示しながら,患者が自衛するための方法や考え方を紹介している本。 著者によると,医療事故の原因は,エラー,ルール違反,未熟があり,日本の医療事故は「未熟」が引き起こすものが圧倒的に多いという(p.16)。たとえば産婦人科で,患者の顔をろくに見ないで中絶手術を行い,人違いで(出産を楽しみにしていた)妊婦の胎児を中絶してしまう,という事故が1987年に福島で起きている(p.17)。これは,名前をフルネームで呼ばなかったり(二人は同姓であった),最終的な意思確認を怠ったという初歩的なエラーによるものである。 このようなケースはとくに大病院に多いのだと筆者は言う。実際に事故が起きた大病院を取材して筆者は,機械化され,細分化されて,まるで工場のようだ(p.20)と述べているが,事故現場で生鮮品や危険物を「工業製品」としてしかあつかわれていた,という同様の指摘が『あの日、東海村でなにが起こったか』でなされていたのを思い出した。 本書には,自衛のためのアドバイスが11か条載せられているが,そのいくつかピックアップしてみる。ほほおと思ったのは「診療手帳」。これを常に携帯し,医師の名前や診療内容,検査結果などを書きとめよう(医師に書いてもらうとなおよい)というアドバイスである。それは,自分のデータを把握することも役立つし,医療事故に巻き込まれたときにも役立。そのうえ,医師がこの手帳に対してどのような態度をとるかによって,患者に対する医師の姿勢がわかるという。ほほお,である。 わかっていてもなかなかできないのが,「医師の説明に対し,納得のいくまでくり返し質問攻めにする」。手術であれば,本当に必要なのか? その他の治療はないのか? 死亡率は? 合併症は? 治癒率は? 執刀経験と成功率は? ということは確認しておいたほうがいい。手術ではないにしても,所見にしても治療方針にしても,納得がいくまで聞くことは必要であろう。とくに本書で,医療ミスの事例を読んでから,なおさらそう思った。また「質問する」ことは,診療手帳と同じく,医師の姿勢を知る手がかりにもなるし。以前私は,自分の体験から医者と患者が対等だなんて絵空事?と書いたが,対等さは,積極的・意識的に行動することによって勝ち取らねばならないことに,改めて気づいた。 なるほど,と思ったのが「かかりつけ薬局を持とう」。最近は院外処方箋が多いが,あまり何も考えずに,いわゆる「門前薬局」に行っていた。しかし院外処方箋は,医療事故を防ぐ意味がある。それは,医師の処方を第二の専門家の目でチェックすることになるし,複数の病院で複数の薬が処方されたときに,それらを一箇所で出してもらえば,薬局が薬同士の関係などを全体的に見ることができる。というかこれは,薬局にしかできない仕事である。そっか。医者でいろいろ聞かれたあと,なんで薬局でもまた,医者がするようなことをいろいろ聞くんだろう,と,実は面倒くさく思っていたのだが,意味があることだったのだ。なるほどなるほど,そうであるならば,その制度は積極的かつ意味のあるやり方で利用しなければ,と思った。 このように本書は,タイトルどおりの「自衛」の本であると同時に,失敗学のためのヒントも得られる本であると思う。そのほかにも本書には,「内科の看板を掲げていても,糖尿病について,無知な医師もいっぱいいる」(p.60)とか,「救急車で搬送先を判断するのは救急隊員なので,判断を誤ることもある」(p.81)とか,「小規模の民間病院が救急指定病院になっているのは営業的にメリットがあるから」(p.81)といった(知らないと危険な)知識も書かれており,なかなか有益であった。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■正月太りからの復帰 |
2002/01/17(木)
減量を終了してから2ヶ月が経つが,この1ヶ月で400g減った。理想的な展開である。ただしこの結果は,けっこう苦労して勝ち取ったものだ。 昨年末は,最大で1.2kg減っている。しかし正月で1.6kg増えたのだ。それで,ここ1週間ほどで800g減らしてこの数字になったというわけだ。 正月に増えたのにはいくつか理由があると思われる。列記してみると,
これを,週末にとなり町の運動公園に行ってウォーキングしたりして,なんとか持ち直したわけである。強敵は5番であった。こういうのはなかなか,ピタッとやめることはできないことがわかった。少なくとも私の自制心では。次回帰省時には,対策が必要かもしれない。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■『学校を非学校化する−新しい学びの構図−』(里見実 1994 太郎次郎社 ISBN: 4811806301 \2,000) |
2002/01/16(水)
〜読み書きを通して非学校化〜國學院大學教員である筆者が,1982年から1994年にかけて主に『ひと』誌に発表した教育関連の論考を集めた本。内容はさまざまだが,大きく4部に分けられている。 第1部はタイトルにあるような「非学校化」の話。今の学校のありようの重要な特徴として筆者は,「正解信仰」「競争原理」「生徒化」の3つを挙げている。生徒化というのは,教師は教えるだけの存在,生徒は教えられるだけの存在という,日常のコミュニケーションでは見られない役割の固定化のことである。そして筆者は,学校をそういう場所ではなく,仕事場,アトリエ,共同の作業所のような場所にしうるのではないかと考えており,どうやらそのことを「非学校化」と言っているようである。といっても第一部のなかには,非学校化という言葉は1箇所にしか出てこず,そこで説明はされていないので,これは私の推測なのだが。この主張は,状況的学習論の人たちの考え方と基本的には同じだろう。 第2部は,「いま,なぜフレネか」ということで,フレネ教育についての筆者の論考が収められている。それだけではなく,それに似たものとして,日本の生活綴り方,フレイレの識字実践についても触れられており,「書く」ことによって学ぶ,というかたちで教育活動が展開されているという点では,そのどれもが共通(p.72)している,とまとめられている。このパートを通して,書くことの意義,書くことと考えることとの関連,書くことが上記の3つの原理から脱するために有効でありそうであることが示唆されている。 第3部は「世界を読み解くということ」というタイトルで,社会科教育のほかに,文学と詩について,そして,教育技術の法則化運動に関する論考が収められている。社会科教育に関する章の冒頭に書かれていた,ぼくは,社会科教育は一種の読み方教育であると考えている(p.100)という文章が印象深かった。それは社会科だけではなく,国語でも理科でも同じなのだが,すぐれた授業は「読解力」を育てる,ということである。社会を読む力,自然を読む力。そういう意味では,教育はすべてリテラシー(識字)教育といえるかもしれない。 ほかにも,私のテーマに関してヒントになりそうな興味深い記述はいくつもあったが,これぐらいにしておく。本書の内容を無理やりまとめるなら,この読書記録のサブタイトルに書いたように,学校の不自然さを自然なものとして取り戻すために,(能動的に)読むことと書くが一つの方策として有効ということだろうか。読み書きというと,寺子屋とか,小学校低学年における勉強をイメージしてしまうが,これらにはもっと根源的な力があることが本書を通してわかった。自分の力で世界を読み解くということ,そして,自分が伝えたいことを発信することの重要さというか。うまくいえないが。こういったことも含めて,本書で得たものを,しばらく私のなかでの対話の材料として用いながら,考えを深めてみようと思っている。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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