読書と日々の記録2002.02上
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■読書記録: 12日『対話の技』 8日『授業を変える学校が変わる』 4日『新学力観と基礎学力』
■日々記録: 13日頭手胴足人 9日広げつつ狭める 6日一歳児が人間らしく感じられるとき 1日クレーター錯視とパースペクティブ
日記才人説明
■頭手胴足人
2002/02/13(水)

 子どもが生まれたときから楽しみにしていたことがあった。それは「頭足人」を見てみたい,というものである(こんなの)。よく発達心理学の教科書に載っているのだが,幼児が人物画を書くと,顔のすぐ下に足が生えた人を書くらしい。それが頭足人である(こんな論文があった)。頭から足が生えた絵を,子どもはどんな風に書くんだろう。そのとき子どもは,世界をどんな風に認識しているんだろう。そういう様子を,間近で見てみたかったのである。

 ところがうちの上の娘(3歳8ヶ月),最近よく絵を描いているようなのだが,見てみるとちゃんと胴体があるのである。頭足人ではなく,頭胴足人なのだ。顔の中には,目も鼻も口も耳もちゃんと描かれている。もっとも,手は頭の横(耳の下)から生えている。ひょろっと一本線で。だから正確に言うと「頭手胴足人」なのだが。

 しかし私の記憶では,娘が頭足人を描いたのは見たことがない。よく覚えていないのだが,半年か一年前だと,「絵を描いてごらん」と紙を渡すと,隅っこに小さな丸をいくつも描いていたはずである。それがある日突然(と私には感じられたのだが),頭手胴足人になっているのである。え,いつのまにこんなに描けるようになったの?という感じでびっくりした。

 そこでつい,「この子は天才?!」と思ってしまう点はオヤバカなのだが。それにしても顔のパーツもちゃんと描けてるし,ホント,いつのまにこんなにできるようになったんだろうと思う。ちなみに「世界の認識」に関しては,日常のコミュニケーションから見る限り,知識や経験が少ないという点以外は,大人と大差ないような認識をしてるように思われる。あ,そうだ。コミュニケーションが普通にできるんだから,「なんで顔からお手々が生えてるの?」と聞いてみるかな。

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 #追記:家に帰って妻に聞いたところ,少なくとも1年前には頭足人を書いていた模様。見せてもらったが,どうやらそれが私には「人」に見えなかったらしい。だって,マル(顔)の,下に2本(足),左右に1本ずつ(手)に加えて,上にも2本(なんだそりゃ?),線が出てるんだもん。

 

■『対話の技−資質により添う心理援助−』(井上信子・神田橋條治 2001 新曜社 ISBN: 4788507579 \2,800)
2002/02/12(火)
〜なかなか納得しないという自身のもがきを正面に据える〜

 『精神療法面接のコツ』を書いた神田橋氏を師匠に持ち,師匠とは正反対の資質を持つ第一筆者が,自分の体験した事例を通して,対話精神療法について書いた本。タイトルから二人の対話を期待していたのだが,そうではなかった。神田橋氏は,各章の最後に井上氏の文章に対して短いコメントをつける,という形で登場している。もっとも本編の端々に,井上氏によって師匠の言葉が紹介されるので,その部分は,井上氏が自分のなかにある師匠と対話している,と見ることもできるのだが。そして本書は,冒頭に書いたように「師匠と正反対の資質を持つ」筆者が書いているところに面白味がある。その点を早い時点で知っていたほうが,よりいっそう面白く読めるのではないかと思った。

 本書は,いくつかの点で興味深かった本。まず一つ目は,『精神療法面接のコツ』を読んだだけではイメージが湧きにくかった「対話精神療法」が,事例を通して,また創始者とは別の人間(井上氏)の目を通して語られたこと。とくに事例を通して,関わり方やその意味が説明されたのは,理解を促進したように思う。また対話精神療法の本質は本書では,対話によって相手の資質を引き出しいのちを生かす(p.274)と一言で説明されている。もっとも神田橋氏はボクの中には,対話精神療法なんてものは無く,「精神療法に寄与しうる対話とはどういうものなのか」という問いと,それに答えるべく自分なりの工夫を生み出してゆく日々があるにすぎない(p.27)とコメントされているが。

 興味深かった点の第二は,「反省的実践」と関連した部分である。神田橋氏のコメントなのだが,「相性がよい」わけではないクライエントを治療するにあたっては,3つの道があることが書かれている。第一は心理療法の技法を導入することで守備範囲を広げる方法,第二は相性がよいわけではないクライエントに手を出さず,これまでの技法や洞察を精錬していく方法(p.186)である。これらは成長やオーソリティへの道につながるが,安全な選択肢とも言える。そうではなく,なかなか納得しないという自身のもがきを正面に据えること(p.187)で守備範囲を広げるというやり方をとることもできるという。おそらく神田橋氏自身も採用している方法であり,それは反省的実践と呼ぶことができるのではないかと思う。

 そのほかにも,発達心理学と臨床心理学が結ばれている部分(7〜8章)とか,カウンセリングの中で相手の発言に理を見出すやり方など,興味深かった点はいくつかある。発達心理学と臨床心理学の結び方は,来年の心理学の授業で参考にしようかと思っている。しかし一番興味深かったのは,短いながらも的確な神田橋氏のコメントであろうか。本人ではない人間の目が間に入ることで,少しだが,神田橋氏のやり方に対する理解が深まったように思う。

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■広げつつ狭める
2002/02/09(土)

 ここ3日ほど,風邪で熱があったのだが,他研究室の学生の卒論や修論にコメントすることになっていたので,通常通り勤務した。そのほかにも,授業がまとめの回に入っていたりして,休みづらかったせいもある。

 以下は,そういう状態(発熱+論文コメント+授業まとめ)で考えたことである。

 心理学を学ぶことは,視点を広げることにつながる。自分では,あるいは常識的にはこういう状況ではこうする,と思っていても実際はそうしない人が多い。そういうことが,実験や調査を通して浮き彫りにされる。『冷淡な傍観者』『服従の心理』がそのいい例である。今まで考えなかった視点で考えることができるようになる,という意味で「広げる」ことにつながるのである。もちろんこれは心理学だけに限った話ではない。一般的に何かを学ぶことの意義の一つとして,忘れてはならない重要な側面だろう。

 しかし一方,ある概念を用いて何かを説明するということは,その見方以外の部分を切り捨ててしまうことでもある。それは視点を狭めていることにほかならない。心理学関係者のなかには,日常会話によく心理学用語を用いる人がいる。そうすることがいつでもどんなときでも悪いというわけではない。しかしそのせいで,その概念からはみ出す部分を見落としたりして,現実をきちんと見ることがおろそかになってはまずいと思う。

 こう考えてみると,最初に述べた「広げる」とは,実は広げているのではなく,単に視点を移動させているにすぎない。それはあくまでも「別の」地点から見た「一つの」視点に過ぎないのである。そのことを忘れてしまうと,現実を離れ,心理学の中だけで自己完結してしまう世界をつくるだけに終わってしまうのではないかと思う。

 そういえばこれを書きながら,野矢茂樹氏が『はじめて考えるときのように』のなかで次のように書かれているのを思い出した。

常識を踏まえつつ,自分の立っているそこを絶対視しないこと。(中略)考えるってことは,そんなふうに軽やかに踊って見せることだ(p.146)
そうそう,私が考えたことを一言で表現すると「考えることを忘れないでほしい」,ということのようだ。心理学の概念を知ったり,一定のやり方でデータを取ることは,考えることの手助けになるのと同時に,考えるのを止めることの手助けにもなるのだから。

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 #この日記について,はせぴぃ先生から次のようなコメントをいただいた。

私は、「何かを説明」なるものが何を目ざしているのか、その視点を明確にすることが第一であり、目標なり要請なりが明確になれば、それに適した用語が自然と使われるようになると考えている。行動分析の用語を使うのはそれ自体が目的ではない。「行動を変える」という視点に立った時、それ以上に適した用語が無いから使うというだけのことだ。極言すれば、「説明」とは「ツール(道具)づくり」。

 

■『授業を変える学校が変わる−総合学習からカリキュラムの創造へ−』(佐藤学 2000 小学館 ISBN: 4098373351 \1,900)
2002/02/08(金)
〜活動・協同・表現のある学び〜

 今まで佐藤学氏の本のなかで,氏が長年にわたって多くの学校を訪問してきたという話を読み,そこでいったい何をしているのか,知りたかった。どうやら授業観察をしているらしいことが『授業研究入門』でわかった。どのような方法で観察しているかも。しかしそれだけでなく,学校の改革にも携わっているという。具体的には何をしているのか,そして氏は,どのような学校を理想としているのか。あるいは観察は,何のために行っているのか。それが知りたかったのだが,本書でその一端を知ることができた。筆者の記述に疑問に思った箇所もあったが,そういう点で本書は有益だった。

 まずは観察について。彼の基本的な方法は,アクション・リサーチだそうである。『アクション・リサーチのすすめ』では,実践者が自分の実践を改善するという形の研究をアクション・リサーチと呼んでいた。それに対して,本書で使われているアクション・リサーチは,次のようなものである。

研究者自身が調査対象となっている人々と連携して問題の解決に関与し,協同で実践を創造し,その解決の過程を探究する(p.74)
すなわちこちらでは,研究者と実践者は別人であり,両者の「連携」を通した実践の改善が研究となっているのである。なんとなくの印象であるが,この2つのアクション・リサーチは一見似ているようだが,違いが大きいような気がする。単に実践者と研究者が同一人物かそうでないか,という違いだけではなくて。どこがどのように,とはいえない印象レベルの話なのだけれど。まあいずれにしても,氏の行っている観察は見るだけで終わっているわけではなく,問題解決に関与するための観察であるらしいことはわかった。

 で,改革の具体例であるが,次のようなものが載っている。対象は生徒がひどく荒れている都内の中学校。佐藤氏は校長先生と研修主任と相談し,授業の改革を中心とした学校改革を計画した。そのとき提案された内容は次の4つである(p.98-99。強調は道田)。

  1. 職員室や学校外で生徒に関する愚痴はけっして口外しない
  2. すべての授業のなかで,たとえ数分であっても,生徒が活動する作業を入れ,生徒たちが小グループで協同で話し合う活動を入れ,生徒がわかったことを互いに表現し交流して吟味する活動を入れる
  3. 週一回は校内研修の時間を設定して授業の事例研究を行い,それとは別に週一回は学年会や教科部会でも授業の事例研究を行う
  4. 校務分掌と委員会とを廃止して,すべて週一回の職員会議で話し合うようにする

 そして,三ヶ月もたたないうちに,校内暴力がほとんど姿を消し,教師たちが変化したという。また,上記3に関することとして,筆者は学校を変える第一歩は,校内のすべての教師が一年に一回は同僚に対して授業を公開する体制を築くこと(P.78)と述べている。

 抽象的に語られることの多い(ように私には見えた)筆者の考えの具体例を,ようやく知ることができた。しかし,これは私の想像でしかないのだが,これらを技術的実践的に導入することで即効果が現れたのではないのではないだろうか。それを教室に適合させ使いこなしていくなかで,教師たちの中に反省的実践的な営み(reflection in action)が起こり,試行錯誤のすえ,上記のような結果が得られたのではないかと思う。できればその過程でどのようなことが起こり,どのような省察が行われたのか(あるいは行われなかったのか)が知りたいところなのだが,それに関する記述は残念ながら本書にはなかった。あと,冒頭に書いたような,筆者の授業観察が,この改革の過程でどのように生かされているのかも記述がなかったのだが,知りたいところである。

 そして,このような方法が,学校改革の方策の一つとしてうまくいく可能性のあるものであるならば,大学にこそ導入されるべきことではないか,とも思った(とくに授業の公開)。

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■一歳児が人間らしく感じられるとき
2002/02/06(水)

 約1年前に,乳児が人間らしく感じられるときという日記を書いたが,今日はその一歳児版。

 うちの下の娘(1歳5ヶ月)は,最近ふるまいが実に人間らしい。どこでそう感じられるのかと考えてみると,どうやらそれは,「意思表示」にあるようである。

 たとえば「拒否」をする。私がベッドで本を読んでいると,娘が来る。それで,歌を歌ってあげたりするのだが,ちょっと前までは,どんな歌でも無条件に嬉しそうに聞いていた。しかし最近は違う。必死になって首を横に振りながら「イヤ,イヤ」というのである。眉をひそめて。それで,数少ないレパートリーの中を順に歌っていくと,そのうち満足そうに首を縦に振りながら聞き入るのである。「私が聞きたいのはこの曲じゃない!」という意志が感じられる。

 あるいは「指示」をする。「ここ,ここ」と言って,特定の場所に私が座ることを強要するわけである。そこに座ってあげないと,不機嫌であることはなはだしい。

 ほかにも「強要」されることがある。最近多いのは,ボールペンを持ってきて,自分の手の甲を差し出し,「パンマン,パンマン」と言う。アンパンマンの絵を書けというわけである。書かないとうるさい。書き終わったら,もう一方の手を出すので,今度はバイキンマンを書いてあげる。それがすむと,「マーン,マーン」といって手を差し出す。これは,私がふと思いついてやってあげたことで,「アンパンマーン」といいながら,手の皮を引っ張るとアンパンマンの顔が広がっておもしろい,というだけの他愛ない遊びなのだが,かならず「強要」されるのである。

 その他にも,私が帰宅後にうがいをしていると,「ガガ,ペ,ガガ,ペ」といいながらやってくる。うがいをさせろというわけだ。これもさせないと,床に大の字になって泣き叫ぶので,コップに水を少し入れてうがい(のマネごと)をさせてあげる。それでようやく満足する。そのときによく見ていてあげないと,服から床から水浸しになってしまうのだけれど。でも,意志の疎通が感じられて,かわいいんだよねぇ。

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■『新学力観と基礎学力−何が問われているか−』(安彦忠彦 1996 明治図書 ISBN: 4181658007 \1,800)
2002/02/04(月)
〜学力問題って意外と複雑〜

 私は学力に関する本を読んだことはほとんどない。おそらく,『現代学力形成論』『論争・学力崩壊』だけだ。前者はずっと前に,問題意識なく読んだだけだし,後者はあくまでも「論争」の本であって,理論的に一定の理解が得られるたぐいの本ではない。本書は,1994年から1995年に筆者が『現代教育科学』誌に連載した内容をまとめた本である。あまりわかりやすいとはいえない本だったが,どうやら学力論を押さえておく必要もありそうなので,その出発点として,本書から得たことをここにまとめておく(ので,以下の部分はあまり人様に読ませるような内容ではないことをお断りしておく)。

 まず「新学力観」(おそらく1989年の新しい学力観)に関して筆者は,3つの学力を区別すべきであると述べている。すなわち,測定学力(測定という操作を経て間接的に得られた能力値としての学力),形成学力(実際に子どもの中に形成された,本当の学力。どんなものかは本人にも第三者にもわからない),理念学力(学力とはこういうものであるべき)である。「新学力観」は「理念学力」なので,あたかも測定(不能)学力であるかのように論じるのはカテゴリーエラーというわけだ(逆に「学力低下」は測定学力の観点からしか議論できない)。まったく同様のことは,「思考力」に関してもいえるであろう。

 同様に基礎学力も,筆者は次のように区別している。「人間として必要な基礎学力」(読・書・算など),「学問研究の基礎としての基礎学力」,「国民として必要な基礎学力」。2番目のものだと,すべての学力はその上位の学力からみれば「基礎学力」となってしまうので不適切だといい,3番目のものは結局義務教育の内容すべてを指すことに名ってしまう,と筆者は述べている。結局,本書のタイトルである「新学力観と基礎学力」に関する筆者の考えは,次のようなもののようである。

大切なのは,小学校低学年までは,「機能的学力」を支えるための「実体的学力」として,読書算の技能と人間・社会・自然に対する感覚とを,その習熟と定着をめざして徹底的に身につけさせなければならない。他の部分の力については幼稚園からでも機能的な学力をめざして育ててよい。(p.30)

 もうまったくの推測なのだが,このような考えは,現在強調されている「生きる力+基礎・基本」と対応しているのではないかと思った。もちろん本書にそう書かれているわけではなく,私の勝手な考えなのだが。

 本書の中で,わかりにくかったが何かあると感じたのは,戦後の系統主義vs経験主義の学力論争の話。系統主義とはおおざっぱにいうと,学問の成果と知識の習得を重視し,論理的思考,分析・抽象する思考を重視する立場である。新学力観などの,経験主義の学力観が台頭している今日でも,日本の教育で系統主義は主たる流れとなっている。それに対する学力観(はっきり書かれていなかったので断言はできないのだが,経験主義だろうか)は,直観的閃き,身近な経験や体験,興味・関心・態度,問題の発見や批判を重視しているようである。いわゆる批判的思考と関係のありそうな部分が,これら両方の学力観のどちらにもあらわれている点が興味深い。

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■クレーター錯視とパースペクティブ
2002/02/01(金)

 昨日,研究室で仕事していたら,質問の電話がかかってきた。なんでも,私のWebページを見て,電話をかけてきたという。電話の主は,東京の写真関係の専門学校の学生さんのようで,私のページで『視覚ミステリ−えほん』について書いているのを見たという。こんな本を読んだなんて,私はすっかり忘れていた。

 この本に,「粘土にいろんなものを押し付けてくぼみを作った」写真が載っている。そのまま見るとくぼみなのだが,上下逆さまにしてみると,それが出っ張って見えるのだ。有名なクレーター錯視(こんなの)の応用だ(有名な,と書いたものの,検索したらひじょーに少なかった)。

 彼女の質問は,「同じような写真を撮ってみたが,飛び出して見えるという人と,引っ込んで見えるという人がいる。それはどうしてか。」というものだった。昔とった杵柄で,一応お答えしたのだが,ちょっと不十分だったようなので,ここで補足しておく(って,見てるかどうかわかんないけど)。

 電話で答えたのは,「ある向きで見た時にそれがでっぱって(あるいはへこんで)見えるのは,光が上からきていると(経験に基づいて無意識的に)想定して見ているからだ。その想定が異なると,違って見えるはずだ」ということだ。ま,一般的な答だろう。しかし電話を切ってから,本を探して該当ページを見て,もうちょっと具体的に説明すればよかった,と気がついた。

 自分でこういうものを作ったことがないので,おそらくこうだろう,という話なのだが,粘土に型をつけるときに,くぼみをうんと深くする。光は,上からではなく斜めから当てる(おそらく左前方がいいのではないかと思う)。朝日とか夕日の感じである。要するに,明るいところと暗いところのメリハリがつくようにするのである。そうすると,誰が見ても同じように,ひっこんで(逆さまにすれば出っ張って)見えると思う。そうだ,うちには3歳児が遊ぶ粘土があるし,デジカメもあるので,今度試してみるか。くぼみの深さや,光源の位置や種類をいろいろ変えると,見え方の違う写真ができるに違いない。

 こういうことを考えながら思ったこと。クレーター(粘土)錯視は,写真をひっくり返して見ても,すぐに凸凹が逆になるわけではない。はじめはなんだか,どう見ていいのか分からなくてちょっとした戸惑いがある。しばらくじーっと見ていると,そのうちにパッ,と飛び出して見えるのだ。そうやって見えたときには,ちょっとした安心感さえある。

 どうやらはじめのうちは,全体をどう捉えていいか分からず,頭の中でいろいろと見方を模索しているようである。そうやっているうちに,あ,こっちから光がきてるんだな,だからここが白っぽくて(=光)ここが黒っぽい(=影)んだな,と全体がスッと理解できる。推理小説の謎が解き明かされたときのように,解決感があるというか,すべてがきれいに説明できるというか。もちろんこのように言葉で明確に考えるわけではなく,「あっ!」と思うだけなのだけれど。

 これってちょっと,『「私」とは何か』に出てきたパースペクティブの話に似ている気がする。厳密にはパースペクティブ(視点)ではなく,光源の位置をどう想定するか,という問題なのだけれど。そういう想定もすべて視点という言葉を使うならば,あるものを見るのに,もっとも適切な視点というものが存在し,その視点に入り込めてはじめて,全体を整合的に理解することができる,と言えるのではないだろうか。

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