読書と日々の記録2002.02下
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■読書記録: 28日短評11冊 24日『学ぶ意欲の心理学』 20日『迷路のなかのテクノロジー』 16日『教育改革の幻想』
■日々記録: 26日学問を地図に譬えてみた 21日授業を振り返って 18日体重のコントロール感
日記才人説明
■2月の読書生活
2002/02/28(木)

 今月よかったのは,なんといっても『迷路のなかのテクノロジー』。あとは,『授業を変える学校が変わる』『対話の技』も興味深かったような気がする。2月にしてはたくさん読めたので満足。

『スポーツ選手のための心身調律プログラム』(白石豊・脇元幸一 2000 大修館書店 ISBN: 4469264466 \2,000)

 メンタルトレーニングの専門家である白石氏と,理学療法士である脇元氏による,心と身体の調律の本。おもしろかった。脇元氏は,スポーツ選手のリハビリを多数手がけている。スポーツ選手に対して脇元氏は,はじめは従来の治療セオリーに盲目的になっていた。しかし,既存の治療手順では通用しない患者が多いこと,ケガから回復したはずの選手の練習への復帰率が異常に低かったこと,身体的には完全によくなっているのに痛みが取れなかったり以前のような成績が出せない選手がいたことがわかった。それをもとに試行錯誤し,脇元氏は,よりよい治療手順を考案し,現場との連携,心理面への配慮を行うようになったという。この過程はまさに反省的実践といえる。また,白石氏の記述の中では,運動指導法として,直接指導,間接指導,課題の設定すらしない方法があるという話が興味深かった。これも,スポーツ指導に限らず教育全般を考えるうえでヒントになりそうな話だ。

『クリティカルシンキングの技術』(寺田欣司 2001 オーエス出版 ISBN: 4871909204 \1,800)

 あくまでも本書を読んで上での私のイメージなのだが,「心理学をよく知らない人が,クリシン本とその手の本を何冊か読み,自分が知っていることと混ぜ合わせて作った本」という印象。ゼックミスタたちの『クリティカル・シンキング』と同じく(というよりは,この本をベースにして),認知心理学や社会心理学を中心として批判的思考が語られているのだが,その心理学的な説明が微妙にずれていたり,図が間違っていたりするのだ。あまり人には薦められない本である。

『他者の心は存在するか』(金沢創 1999 金子書房 ISBN: 4760894055 \2,400)

 「他者」の問題を,哲学の言葉ではなくできるだけ自然科学の枠組みの中で考えていく(p.5-6)ことを目的とした本。どのような枠組みで考えるかは,もちろん好き好きだが,私には,あまりにも自然科学の枠組みに縛られすぎているように見えた。それは,良くも悪くも,その範囲外の事柄を検討の対象からはずすという免罪符になっているように思えた。それも含めていくつか気になる点があり,欄外に?マークの書き込みをした箇所がけっこうかある。たとえば,「他人の感覚」という表現が論理的にありえないという話はまあわからないでもないが,そこから注釈なしに,「他人の心」がありえない,私たちが感じることができない,という話にすりかわっているのは問題である。それに,最終的には筆者は感覚を重視した結論を出しているのに,この点の考察を論理だけですませていいのか? 筆者は日常的に,本当に他人の心を感じていないのだろうか? あるいは進化論的な説明について,冒頭ではその説明を支持する物的証拠がなければ,その説明があやしくみえるのも仕方がない(p.29)といいながら,後ろのほうでは,物的証拠なしに,進化論的な説明を行って,どのようなメカニズムによって生じているのかは理解できた(p.190)と述べている点とか。説明が可能=理解できたではない。それはあくまでも一つの可能性に過ぎないだろうに。

『少女はなぜ逃げなかったか−続出する特異事件の心理学−』(碓井真史 2000 小学館文庫 ISBN: 4094043411 \495)

 「新潟少女監禁事件」を中心とした本。タイトルのような問いに対して答えるためには,取材を中心として証拠を積み上げることで精度の高い推理を行う必要があると思われるが,本書ではそうではなく,いくつかの心理学実験や心理学的な概念を通して,一つの解釈を可能性として提示する,という形をとっている。その意味では,この事件の本というよりは,この事件を導入にした,犯罪・異常心理学の本(エッセイ?)といったほうがいいような気がする。それがいいとか悪いとかではなく。ただ,こういう形をとっている以上,しょうがないのかもしれないが,被害者や加害者(容疑者)の気持ちを憶測で語っている部分が非常に多く,ちょっと気になった。そういう部分は少なくとも,「心理学」的というよりはエッセイ的といったほうがいいように思う。それがいいとか悪いとかではなく。あと,この事件でも,いくつか警察のミスや嘘があったようである。このあたりの話は失敗学の話として使えそうだ。

『シュタイナー再発見の旅−娘とのドイツ−』(子安美知子 1997 小学館 ISBN: 4093872163 \1,100)

 娘をシュタイナー学校に入れ,20年前にシュタイナー学校を日本に紹介した筆者が,母娘でシュタイナー学校を再訪した。そういう企画の番組が制作され,その機会に同窓生が集まったり,筆者母娘が過去を回想したりしている本。シュタイナーの教育理念は,よくわからなかった。本書で読んだ感じでは,理屈で説明するものではない,と考えられているのかもしれない(私の憶測もかなり入っているが)。しかし授業場面の描写はあり,教育内容の一端は多少わかった。ちょっと目を引いたのは,シュタイナー学校の生徒は卒業後はひとまずシュタイナーの名のつくものから遠ざかる(p.70)という記述と,シュタイナー学校の生徒には,なかなか健康な批判精神がある(p.140)という記述。詳細はわからないのだけれど。

『教育の方法と技術』(柴田義松編 2001 学文社 ISBN: 4762010316 \1,700)

 以前,『教育方法学』を読んだときに,「もう少し他の(一般的な)テキストも読んでみなければ」と思ったので,教育方法学の先生に一般的なテキストを紹介してもらった。そのうちの一冊が本書だ。新し目なのでこれを読んでみた。確かにいかにもテキストだった。しかし,ソクラテスに始まる教育方法の歴史の基本とか,学力論については,教育心理学を専門にするものも知っておくべきだと思った。本書は5人の著者による本だが,教育学には理念的な話もかなり入ってくるので,全体の一貫性という意味では,佐藤氏の『教育方法学』のように,一人で書かれたもののほうがいいかもしれないと思った。

『愛を乞うひと』(下田治美 1993 角川文庫 ISBN: 4041873010 \480)

 母親から虐待されて育った女性が,父親の遺骨を探す話。月並みな言い方をすれば,それは彼女の自分探しでもある。あえて人に勧めたいと思ような,万人向けの本ではないと思ったが,そういった過去の話に,非常にリアル感の漂う話であった。映画化されており,日本アカデミー賞やモントリオール映画祭で賞をもらっているようである。

『夫婦茶碗』(町田康 1998/2001 新潮文庫 ISBN: 4101319316 \400)

 激しく好き嫌いの分かれる本であろう,リトマス試験紙のような小説。私は,表題作よりはもう一つの「人間の屑」の方が「まだ」ましなように感じた。その見事な評価のわかれ具合は,WEB本の雑誌で見ることができる(評価がAからEまである)。ちなみに,本書の存在を教えてくれた聖月氏は,超お薦めの◎◎印。

『「授業の個別化」その原理と方法を問う』(安彦忠彦 1993 明治図書 ISBN: 4181635023 \951)

 全98ページのブックレット。原理的な話が中心なのだが,実践的な話があるわけではないし,筆者も書いているように理論的にはやや丁寧さに欠けるところがある(p.97)。そのあたり,私の知りたかったこととはやや違う本だった。基礎基本をベースにして,逆ピラミッド型あるいは扇形に個性教育をイメージしているのは,『新学力観と基礎学力』と同じであった。

『考える脳・考えない脳』(信原幸弘 2000 講談社現代新書 \660)

 再読はじめて読んだときほどは感心しなかった。結論部分は非常に面白いのだけれど,それにいたる論証の雑さが目に付いたので。思考は脳の外で行われるというが,脳の入力部分も出力部分も「脳の外」として切り捨ててしまえば,そういう結論もであるであろうが,それでは「環境の中に生じる思考」(p.202),「環境の中に作り出される表象」(p.203)というような表現から想像されるものとは違うように思う。

『プチ哲学』(佐藤雅彦 2000 マガジンハウス ISBN: 483871226X \1,200)

 だんご3兄弟を作ったCMプランナー(現慶応大学教授)の本。『オリーブ』誌に連載されたもので,もうちょっと世の中のことをこうやって見ると,おもしろいでしょうというところをかみ砕いて説いた(p.89)内容である。そういう対象向けの本としてみれば,小難しくなく説教臭くなくうまくさらっと書かれていると言える。私には物足りなかったが。全31話中10話目に「「詭弁」にごまかされない」というテーマで,理屈になっていない理屈(中略)を見破るコツは,「説明された気分」に負けないで,一度,自分の頭を通して,相手の言うことをかみしめてみることです(p.27)と書かれている。評するものの気楽さで言わせてもらうなら,私だったら本の冒頭か最後に持ってきて,本全体を相対化するところだ。もちろん,想定読者層から考えてそうしないほうがいいという判断もありうるだろう。

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■学問を森ではなく地図に譬えてみた
2002/02/26(火)

 「学問の世界は森のようなもの」(胡桃の中の航海日誌 2/20)というのは,なかなかうまいたとえだ。学問の広さや深さや見通しのきかなさ(暗さも?)をたとえることによって,学問に行き詰まりそうな少年に希望を与えることができる,という意味で。

 しかし,このたとえは「自分が日常的に体感している知から研究の知を定位できない」苦しみには,あまり有効ではない。たとえのなかに「日常」が含まれていないので。では,学問を「地図」にたとえて見たらどうだろうか。自分の日常を含む現実世界のほうを「森」として。まあありきたりのたとえかもしれないが。情報を縮約し現実を抽象して俯瞰するという学問の性質は,よく表されるのではないかと思う。物事をある一面で切り取る,という性質も。

 地図を通して見てみると,「みんなこっちが好きなのね」とか「あいつ,他の人からはぐれてあんなところでウロウロしてるよ」とか「あ,もっとこっち行けばいいのに。バカだね」と,他人の行動を評論することはできる。でも,地図を見ながら(森を見ないで)自分が歩き回ることはできない。

 そういうときにどうするか。自分が森(=日常)を歩き回ることとは完全に切り離して,地図作りに専念する人もいる。最近の地図作りは,レーザーだのGPSだの高性能の機械があるので,現地に行かなくてもできるし。それに,今までにたくさんの地図が作られているので,それを参考にすれば,割と簡単に地図なんて作れてしまう。現実はさておき,それは地図業界では重宝され評価される地図になる。あと,そういう地図は,躓いたり、草にかぶれたり、虫にかまれたりという体験は豊富で,あとは俯瞰が足りないだけで森で迷っている人も,そういう地図を重宝するだろう。

 別の人たちは「自分がやりたいのは地図作りじゃない」といって,一緒に森を歩きながら,生の現実を写真にとったり言葉で切り取ったりしている。フィールドワーカーである。それは,現実の一部を切り取っている点では地図に似ているが,地図のように俯瞰したものではない。これは,第三者的に俯瞰することをよしとしない人がとる手段の一つだろう。もちろん,地図を捨てることなく,もっと意味のある,役に立つ地図を作る人もいるし,これらをうまくミックスしている人もいる。もっと他にも手があるかもしれないが,いまのところは思いつかない。

 考えてみれば,私が毎日いろんな本を読んでいるのも,他の人がどんな地図を作っているか,あるいは地図を作る以外にどんなことができるか知りたいからだと思う。そのうち,自分にしっくりくる行き方が見つかるのではないかと期待している。そういう意味では私もいま,迷いの途上にいる。

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 #はせぴぃ先生より以下のコメントがつく。「ニーズによって様々な地図ができる」とはまさにそのとおり。地図の譬えも悪くないようだ。

こちらの補注4[佐藤(1976)の引用]に示すように、行動分析において科学とは 「自然のなかに厳然と存在する秩序を人間が何とかして見つけ出す作業」ではなく、「自然を人間が秩序づける作業である」 と考えることができる。地図に例えるというのは、まさにそういうことを言うのだと思う。それゆえ、同じ都市が対象であっても、グルメ地図とか駐車場マップのようにニーズによって様々な地図ができる。結局のところ、学問とは絶対的真理を発見することではなく、ニーズに応じて、対象を秩序づける行動ということになるかと思う。】

 

■『学ぶ意欲の心理学』(市川伸一 2001 PHP新書 ISBN: 4569618359 \720)
2002/02/24(日)
〜動機づけ心理学の本流の見事な継承・発展〜

 「学ぶ意欲」,すなわち学習の「動機づけ」に関する本。1930年代ごろから最近に至る,動機づけに関する心理学的な知見が整理されており,勉強になる。それだけでなく,それらに筆者なりの見解が加えられており,それらを統合するような位置づけの筆者の研究(2要因モデル)が紹介されている。さらには,2つの対談を通して,動機づけの心理学に対する誤解や異論に対してさらなる説明を加えられている。そして最後には,心理学的な知見を日常に生かすための提言がなされている。

 結果論的な言い方だが,本書はこれらがすべてあるところが重要ではないかと思う。「心理学的な知見の整理」がなければ,筆者の独断だけに基づく話のように見えるだろうし,「筆者なりの見解」がなければ,単に教科書的に過去の知識を(絶対のものとして)紹介した本に過ぎなくなるだろうし,「日常に生かすための提言」がなければ,日常から乖離した心理学研究の紹介の本に過ぎなくなってしまっていたであろう。過去の研究も含めて,それらがうまく配列され,うまく生かされている点からみると,筆者のようなアプローチは,「動機づけ」心理学の本流を見事に継承し発展させているということができよう。

 そうでないタイプの本としては,たとえば佐伯胖氏は『「学ぶ」ということの意味』がある(「動機づけ」の本ではないが)。そのなかで佐伯氏は,「動機づけ」「やる気」や「学ぶ意欲」などをどうやって起こさせるかという話は,ぜんぶうまとめて「ウソ!」と叫びたくなる(p.11)と書かれている。こちらは「本流の継承発展」ではなく,新しい流れを作るというスタンスである。それに対して本書は,そういう形で心理学の本流に見切りをつけることなく,かといって単にそれを継承するだけではなく著者の独自の見解をプラスして過去の知見を整理し発展させ,日常への提言にまで拡張している。良くも悪くも本流・王道を感じさせる著書である。

 あと,対談が2つ収録されているが,苅谷剛彦氏との対談は面白かった。心理学は基本的に,ある事柄をある概念のもとにあるやり方で研究を進める。それに対して社会学者は,その概念(言説)がどのように社会の中で正当化されてきたか,という言説分析を行うらしい。そのような教育心理学概念の言説分析を苅谷氏が触れられている点が特に面白かった。心理学にはまずない発想である。またこの対談やその導入で著者は,「教育心理学からの釈明と反論」は行っているものの,最終的には苅谷氏がいうように,教育心理学が「弱者の見方と称する強い個人のモデル」(p.166)になっていることを認めているように見える。おそるべし社会学,という印象。

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■授業を振り返って
2002/02/21(木)

 ようやく後期授業も終わり,テストの採点も終わり,成績もつけ終わったので,主要科目の今学期を振り返っておく。

 人間関係論(共通教育科目)は,数値的な評価は昨年とほぼ同じだった(詳細はこちら)。この授業は,昨年と変えた部分が2個所ある。一つは,5回を失敗学的な話でまとめたこと。もう一つは,仮説実験授業的に,紹介した実験の結果を学生に予想させたことである。

 前者は,まあ悪くなかったと思う。来年は,もう少し失敗学的なネタを仕入れて,この方面で授業を充実させていこうと思っている。

 しかし,仮説実験授業的な試みは,今ひとつだったと自分では思っている。学生はそれなりに,「考える授業だった」と肯定的に評価してくれているみたいだが,やっている私としては,しっくりこなかった。仮説実験授業にならって,「予想の理由は問わない」ことにしたのだが,その結果,きわめて「当て物」的になってしまった。来年は,仮説検討型授業のように,予想の理由を重視してみようと思っている。その分時間も取られるだろうから,内容はいまより減らす必要があるだろうけど。

 思考力育成論(教職科目)は,討論だけで授業を組んでみた。「自分の考えを作る」ことを目的として掲げて。おかげで,個別の授業評価は意味をなさないような授業になったので,学生の総合評価(自由記述)のみをこちらに抜粋している。

 こういう形態の授業は,私もはじめてで,非常に難しかった。授業の後半の入り口に入る頃までは,学生に「スマン。やっぱりこういう授業は無理だった。もう一回最初からやりなおさせて」と言いたくなる衝動に駆られた。しかし最終的には,「一人一人の中で考えの芽生えみたいなのが現れだして,それに触発されながら,それぞれ考えを成長させた」ようだった(「」内は学生の感想)。

 結果はまあ悪くなかったともいえるが,反省点は多い。とくに,いかに形式的になることなく討論を組織し,その中で教師として学生の思考を触発していくか,という点が,次年度の課題となりそうである。

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■『迷路のなかのテクノロジー』(コリンズ&ピンチ 1998/2001 化学同人 ISBN: 4759808728 \2,200)
2002/02/20(水)
〜技術の複雑性と非専門家の重要性〜

 『七つの科学事件ファイル』の著者による,この本の続編。訳がちょっと難しげだったにもかかわらず,異様に面白かった。前著では「科学」を対象に,ある研究成果がどのように社会的に共有されていく/いかないか,ということが,社会学的な視点から事例研究的に描写されていた。本書は,基本的な視点は同じなのだが,対象が「技術」になっている。前著が,科学者どうしのやりとりがその中心にあったのに対して,本書では,技術ということの性質上,それが一般の人々にどのように見え,どのように受け取られるかが中心に扱われている。

◆技術の複雑性=評価の不確定性

 全部で7章あるが,それらはおおきく2つに分類できるのではないかと思う。前半は,技術の問題,とくに最先端における技術は,われわれ一般人が理解しているものとは違い,非常に曖昧で複雑な様相を示しているということである。たとえば湾岸戦争に使われた「パトリオット・ミサイル」は,非常に成功を収めた(つまりスカッドミサイルをやっつけた)かのようにわれわれは理解している。それはある意味では間違いではないのだが,その実態は,われわれ(というか私)の素朴な理解とは,どうもかけ離れているようなのである。アメリカ陸軍の武官が議会に報告したところによると,47基のスカッドのうち45基がパトリオットによって迎撃した,という(p.17)。やっぱりすごいじゃないか。単純にそう思いそうになるが,「迎撃」は撃墜ではない。両者の空中の航跡が交差した(p.29),という意味でしかないのだ。そこでスカッドが不発化されたり損傷されるためには,パトリオットの弾頭の炸裂が適切な(ごく短い)タイミングでなされる必要がある。

 しかしその成果は,目でもレーダーでも確認できるわけではない。ではスカッドがどこに落ちたとか,落ちたときに爆発したとか,その結果被害をどの程度与えたかによってそれを知ることができるかというと,そうでもない。というのはそれらは,元々スカッドがどこを狙っていたかとか,完全な弾頭が装備されていたなどということを知る必要があるからだ。戦争という事態では,それはまず知りようがない。その結果,どこに基準を置き,どのような前提で事態を捉えるかによって,パトリオットの成功の評価は,0%近くから100%近くまで(p.15)さまざまになしうることになる。たとえばパトリオットによって破壊されたと確信を持って言えるスカッドは何基であるか(p.15)という基準であれば,それは0%に近い数字になってしまうのである。

 これは,前著で扱われていた,科学における「決定」がありえないという話と基本的に同じ話である。技術というと,できあがったものを単に応用するというイメージがあるが,その最前線は,科学の最前線と同じく混沌としたものであることが,本書からよくわかった。

◆非専門家的専門家も交えた反省的実践の重要性

 本書の最後の2章は,イギリス牧草地におけるチェルノブイリの影響とエイズ治療という,人間が関わる問題である。そこではそのような「技術(評価)の不確実性」という問題に対処するなかでおきることは,本書の言葉でいうならば「非専門家の専門家」(p.205)の重要性である。つまり,農民や患者,活動家など現場にいる人たちは,科学的・技術的な意味での専門家ではないが,ローカルな実践や判断(p.193)に関しては,科学者とは比べ物にならないほとの高度な専門家なのである。そう,ここで扱われているのは,反省的実践の問題であり,科学を技術的実践として現場に天下りさせるのではなく,それを現場での実践にどう適合させるかという問題なのである。

 あるいは,エイズ患者や活動家は,最初からエイズの専門家であるわけではない。彼らは学習を通して科学的な知識をも身に付けていくのだが,その過程はトピック学習(総合学習)の様相を呈している。次のような具合である。

活動家たちは科学と馴染むために,ありとあらゆる方法を使った。学会に出席してみる,研究手引書を読む,運動の内外にあって運動に同情的な専門家から学習する,など様々だった。ここでとられた戦術は学習だった。ある活動家は「手当たり次第」と呼んだが,まず,ある特定の研究トピックから始める。そして薬理を学習し始め,そこで必要とされる基礎的な科学を学ぶという方向に進む。活動家たちは,学術雑誌や学会発表場での言葉を話すべきだ,ということを,自分たちが効果的に参画するために不可欠の要件であると考えていた。(p.230-1)
そのなかでは,活動家が学術用語のリストを作り,それがメンバーの必携術語集となり,他のメンバーも最初はわからないと思いつつも,「これはサブカルチャーの話なんだ。隠語さえマスターすればサーフィンと同じなんだ」と考えて理解が進んでいく,ということがおきている(p.230)。あるいは,臨床治験に参加した患者は偽薬を掴まされることを嫌うが,活動家が偽薬を使わないような対照試験の方法もありうることを指摘(p.219)したり,あるいは,偽薬を一切使わずに自分たちでテストを行ってデータを得,そのデータがFDA(米国食品医薬品局)から信頼されるまでになったりしている(P.223-4)。それは,文化実践への参加としての学習過程ともいうことができるように思う。このような学習がみられ,非専門家が(別の立場の専門家として)科学的専門家に影響を与えつつお互いに学ぶ,という反省的実践の過程の実例を知ることができたという意味で,本書は私にとっては非常にエキサイティングな本であった。

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■体重のコントロール感
2002/02/18(月)

 昨日(17日)は,ここ半年続けている体重の定点観測の日だったが,一泊旅行に出かけていたために,体重は計っていない。もちろんその前後は毎日計っているのだが,先週は風邪の後遺症で,運動しなくても体重が落ちていたし(体脂肪率は増加していた),旅行で外食続きだったので,当然今朝の体重は増加していた。平均を取るならば,まあ先月並みの体重が維持されているといえそうである。

 ・・・と,定点観測はそれぐらいにして,体重関連の別の話題を。

 昨年8月半ばに減量を決意して以来,減量は驚くほどスムーズに進んだ。それに伴って,減量に対する非常に高いコントロール感も持てるようになった。こうすればやせられるとか,運動や食事は,こうすればこれぐらい適度におなかがすく,とか。少なくとも昨年末まではそうだった。

 ところが,最近はそれが思ったほどうまく機能していない。簡単にいうと,あまりおなかがすかないのだ。だからといって体重が増えているわけではない。しかし,昨年11月に考えた「食事の1〜2時間ぐらい前におなかがすくのがちょうどいい」という基準は,もはやあてはまっていない。食事量も運動量も,減量中とあまり変わっていないと思うのだが,おなかだけがすかないのである。しかも間食は確実に増えている。でも今のところ体重は増加していない。このままでいいのか,どうしたらいいのかがわからない。

 関係ない話だが,大学生のごく一時期,パチンコに熱中したことがある。そういえばそのときも,熱中していたときはデータを取ってみたり出る原因を考えてみたりして,コントロール感を求めていた。しかし結局,(私の腕と知識では)出方をコントロールするのは不可能だということがわかり,それでぱったりやめてしまった。今回はそうならないようにしないといけない。でも体重も,思ったほどコントロール可能な代物ではなさそうなんだよなあ。

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■『教育改革の幻想』(苅谷 剛彦 2002 ちくま新書  ISBN: 4480059296 ¥700)
2002/02/16(土)
〜「ゆとり」の検討を通して〜

 教育改革につきまとう「幻想」を振り払い,「改革の仕切り直し」が提言されている本。提言部分は最後の方だけであり,本書の第一の目的は,タイトル通り「幻想」を振り払うことであろう。本書は,多くのデータや本の引用,対談も含めた文部(科学)省の見解の引用などを用いて議論が用いられており,数多くの論点を含んでいるが,基本的な考え(と私が捉えたところ)は,現状評価や過去の政策評価を十分に行った上で,改革は計画し実行されるべきである,というものである。まったくその通りだと思う。

 具体的には,以下の2つのことが主に検討されている。

  1. 今までの教育を否定的にとらえる見方自体の検証
  2. 教育改革が掲げてきた理想のとらえ方,理想と現実の交錯のしかた(p.9)

 要するに,過去や現状の評価と,未来(理想)の評価である。検討課題1でいうと,これまでも教育内容の削減とゆとりの拡大が推進されてきたにも関わらず,それが授業理解度として現れていないことなどが指摘されている(その他の点については下でまた触れる)。

 検討課題2は,「子ども中心主義」と呼ばれる教育についての検討が中心となっているが,なるほどと思える指摘があった。アメリカの「子ども中心主義」教育は,「教師たちの意欲も高く,そこで学ぶ生徒たちも恵まれた家庭出身」であり,その他の部分でも「通常の学校とは比べられないほどの恵まれた環境」で実践されているという(p.147)。また州全体をあげての「子ども中心主義」教育が行われたカリフォルニアで,いかに学力低下が起こったかが報告されている。あるいは,心理学研究のレビューにもとづいて,「問題を発見し,自ら解決する力は,それまでに得た知識に依存する」ということも指摘されている。いずれもなるほどである。

 来年度から行われようとしている「生きる力」教育については,制度的基盤が不十分な,手段を欠いた理想でしかないことが指摘されている。普通の学校で普通の教師たちが十分な成果をあげるための制度的なバックアップは十分とはいえないのである。その結果,(データに基づいて)筆者は次のような事態が起きることを危惧している。

教師にとっては,生徒が「自分たちで課題を見つけ,考えたり調べたりする授業」や「自分の興味や関心のあることを学べる授業」をやっているつもりでも,やり方次第によっては,そのまったく同じ授業が,「自由に好きなことができる授業」として勉強のわからない生徒に歓迎される可能性がある(p.187)

 私もそうだと思う。そして,改革が来年度から行われることが現時点では動かせない以上,教員養成学部としてもなんらかのバックアップは必要であるに違いない。

 と,本書の総論部分は大賛成だし,納得いく指摘も多いのだが,疑問に思った点もあった。それは上記検討課題1についてで,第3章(「ゆとり」のゆくえ−学習時間の戦後小史)で,「従来の教育で子どもの「ゆとり」は奪われてきたのか」についての検討が行われている。具体的には,戦後の学生の学校外学習時間や睡眠時間の変化を検討し,過度の受験戦争が行われていた時代でさえも,学生のゆとりが奪われていたわけではなかったことが示されている。

 しかし,ここで検討対象となっている「ゆとり」は,現在進められている教育改革の中における「ゆとり」とはズレているのではないかと思う。本書によると,有馬元文部大臣は次のように述べているようである。(p.50: 道田による要約)

「ゆとり」を主張したきっかけは,子どもが勉強してる知識が十年たつと消えてしまうのはなぜだろうかと考えたから。多様化の前に基礎基本をしっかり教えなければならない。そのための「ゆとり」が必要と気づいた。余裕(ゆとり)をもたせて基礎基本を反復させなきゃいかんと思った。
また中教審第二次答申でも「学校生活における[ゆとり]を確保するためには,学力試験における受験教科・科目数をできるだけ少なくしていくべき」(p.51)とあるそうである。この2つの文章で言われている「ゆとり」は,学校生活におけるゆとり,つまり,時間あたりの教える量を少なくする,ということであって,学校外で学習時間で学習時間が少ないことや睡眠時間が多いことではないのではないかと思う。もちろん両者(学校内と学校外のゆとり)は,ある程度関連しているであろう。しかし直接同じものではないだけに,中心的な検討対象に据えるのは,あまり適切ではないように思った。

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