読書と日々の記録2002.04上
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■読書記録: 12日『批判と挑戦』 8日『自己カウンセリングとアサーションのすすめ』 4日『発達心理学再考のための序説』
■日々記録: 13日「ちゃんと見ながら言えよ!」 10日紀要論文 6日お昼寝とかニュアイとか 2日大学生に読んでほしい12冊
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日記じゃんくしょん投稿

■「ちゃんと見ながら言えよ!」と親に注意する娘(3歳10ヶ月)
2002/04/13(土)

 上の娘が3歳10ヶ月になった。口も達者である。というか,1年前からそれなりに達者だったのだが,それに磨きがかかっている。

 先日,「お母さんと一緒」をつけているときに,娘が体操のお兄さんと同じような格好に着替えて言った。「まーちゃん(仮名),お兄さんとおんなじかっこうしてるね」

 私はちょうど,パソコンに向かって仕事をしていたので,そちらを見ずに口だけで,「あ,ほんとだ」と返事をした。パパはそちらを見ていなくても見えてるんだよ的な子どもだましが利くかと思ったのである。すると,

「ちゃんと見ながら言えよ!」

と言われてしまった。たぶんこれは,以前私が妻に言っていたセリフではないかと思う。ほかにも私が言いそうなセリフとしては,「それはどうかな」とか「ちゃんと聞いてる?」みたいなものを,的確に使いこなしている。頼もしいやら怖いやらである。

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■『批判と挑戦−ポパー哲学の継承と発展にむけて−』(小河原誠編 2000 未來社 ISBN: 4624011538 \2,200)
2002/04/12(金)
〜知ってたつもり,ポパー哲学〜

 世間で受け止められているいわゆる「ポパー哲学」なるものには,唖然とするほどの誤解や歪曲が溢れかえっている(p.9)そうである。その点を指摘することを通したポパー哲学再入門書的な本。「唖然とする誤解」の例として,この読書記録で取り上げた『クーン』も取り上げられている。

 私も,ポパー自身の著作をはじめ科学論関係の本はいくつか読んでいるので,ポパーはある程度は知っているつもりだったが,その理解がいかに浅いものであるかを,本書で思い知らされた。それと同時に,ポパーの哲学の奥の深さに改めて触れ,改めてそのよさを味わうことができたように思う。

 誤解としては,次のようなものがある。

  • ポパーの科学哲学はクーンの哲学によって論破されてしまった
  • ポパーは反証,即理論放棄と考えていた(p.31)
  • 現実の科学には,決定的な反証(否定的決定実験)がありえないので,反証可能性は科学の規準としては不適切である。(p.53-)

 これらが誤解だとすると,「正解」は何か。ここではそれは扱わないが,反証可能性はどう理解すべきか,という記述を一箇所だけ抜き出しておこう。それはある意味,上記の誤解を解く手がかりにもなると思う。

反証は,磐石の基盤と考えられていた理論体系のなかで,問題を抉り出し,静寂のなかに波風を立てる。そしてそうすることによって,心理の探索をはじめるきっかけをつくり出す。反証可能性は,この新たな問題を提起して,探求を前に進められるかどうかを問題にする。(p.98)

 つまり反証可能性とは,前に進むための,そして真理の探索を続ける(終わりにしない)ための行動規則なのであり,方法論的,態度的要請でしかないのである。そしてそのためには,まずは既存の理論を,暫定的に受け入れたうえで,反証として意味を持つ事例を意図的に探さなければならない(p.127)。それは,どのような理論を前にしても批判的態度を維持し続けるということである。その意味でポパーは,批判は科学の生命そのものである(p.189)と述べている。

 本書はこのように,歪曲されたポパー像を訂正し正しいポパー像を伝えているわけであるが,それだけにとどまっていない。最後の章では,ある日本の哲学者(ポパーの直弟子)を紹介している。彼は,ポパー的な批判的合理主義(ドグマや権威への批判を重視すること)を守った結果,ポパーが「これまで人類が築き上げた最良の社会」と賞賛した西洋近代的民主主義(そして科学的思想も)を相対化した人物である。その人物,市井三郎氏の哲学は,ポパー哲学の批判的そしてポパー主義的継承(p.232)と称せられている。この章がつくことによって,本書は深みを増すとともに,(方法論としての)ポパー哲学の普遍性を自ら示しているように思われた。サブタイトルにあるように,「継承」だけでなく「発展」にも目が配られているのである。良書である。

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■紀要論文
2002/04/10(水)

 金曜日から授業が始まるので,つかの間のフル研究タイムは明日で終わりだ。3月は学会発表原稿を作っていた。4月に入ってからは紀要論文を書いている。短いにせよ,こういうことだけに専念できる期間があるのは幸せだ。

 以前「紀要論文」という言葉を使ったら,知人に「何それ?」と言われた。日常語ではないので当然だ。辞書的には「大学・研究所などで刊行する、研究論文を収載した定期刊行物」(広辞苑)だが,感覚的には「社内報や同人誌」みたいなものだ(と思う)。審査がある学会誌と違って,その組織に属する人なら誰でも書けるものなので。

 そういう位置づけなので,紀要論文は格としては低く見られる。無審査で,誰でもどんなものでも書けるからだ。そういう意味では,社内報や同人誌よりも載せるのは容易かもしれない。

 しかし以前,大学関係のある知人が言っていた。「紀要に格落ちの学会誌論文を書くからいけないのだ。紀要には,紀要にしか書けないことを書けばいいのだ」。最初これを聞いたときは,具体的なイメージが湧かなかったが,今ではよく分かる。そして私も,昨年からそうすることにしている。今書いているものもそうだ。

 それは何かというと,ここ数年いろいろな本を読みながら,自分の研究テーマに関して考えたことを,本の内容を引用しながら展開する,というスタイルの論文だ。ふつうの論文が,「先行研究を引用しながら自説を展開する」構成になっているところを,先行研究ではなく「読んだ本」を引用しながら自説を展開するわけだ。先行研究というと,心理学やその周辺分野の実証論文や理論論文が中心になる。しかしいま書いているものは,何でもありだ。エッセイなんかも混じっている。しかも,私にとって興味深かった本が中心である。そういう意味ではこの論文は,ブックガイド兼論文になっているのではないかと思う。

 残念ながら,文章は,読書記録で書いたことをそのまま使うわけにはいかないので,楽々書けるわけではない。しかしこの作業は,なかなか「たのくるしい」作業になっている。

 楽しいのは,仕事時間中に本を読むことができる点だ。一応基本的に,仕事時間中は読書はしない(2000/12/30参照)ことにしているのだが,それを公然と破ることができる。再読とはいえ,かつて読んで刺激を受けた本だ。全部は読まないが,関連ありそうな章は一通り目を通す。新たな発見があったりして楽しい。もちろんそれだけではなく,複数の本の記述を見渡しながら頭のなかのモヤモヤを形にする,という作業もとても楽しい。

 苦しいのは,なかなか思った通りに進まない点か。頭の中で考えることと,それを文章にしてきちんと説明することは,やはりかなり違う。細部まできちんと詰めないといけないし,矛盾が出てきそうになることがあるし,できたらおもしろく話を運びたいし(これはぜんぜんできていない)。

 内容が具体化するにつれ,だんだん苦しさのほうがまさっていく。いま,そういう状態になりつつある。しかし,それをうまく乗り越えられたら,書き始める前は思いもよらなかった新たな考えが出てくることがある。それを楽しみにしながら,あと半月ほど苦しんでみようと思っている。

 #授業が始まると,楽しんでる余裕がなくなるかもしれないけど(^^;;

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■『自己カウンセリングとアサーションのすすめ』(平木典子 2000 金子書房 ISBN: 476082586X \1,500)
2002/04/08(月)
〜自己理解のためのアサーション〜

 『アサーション・トレーニング』の著者による本。本の外見が非常に似ているので,前著と同じような内容の本かと思ったが,思ったほど同じではなかった。本書の目的は,次のようなものだという。

カウンセリングのエッセンスを,できるかぎり一人作業,自己カウンセリングに取り入れてみようとしたもの(p.168)

 カウンセリングのエッセンスとは,自分とうまくつき合えるようになること(p.167)である。自分とうまくつき合うためには,自分を知る必要がある。自分を知るためには,適切に自己表現(=アサーション)を行いつつ相手を理解することで,相互理解したり自分らしさを確認する必要がある,ということのようだ。つまり本書では,アサーションだけの本ではなく,自己理解のための自己カウンセリングというより大きな文脈の中に,アサーションが位置づけられているわけである。そういう点が興味深かった。

 その他,興味深かった記述をいくつか。

ありのままの自分を見るよりは,理想の自分になろうと頑張っている人は,否定的,消極的に自分を見る傾向になります。理想の自己には到達していない自分の側面ばかりを気にしていると,ダメな自分を強調しがちになるからです。(p.19)

 ここでは,「理想の自分になろうと頑張っている人」の話になっているが,似たような指摘は,浜田寿美男氏の一連の著書(『発達心理学再考のための序説』など)で,「個体能力」中心に人をみる弊害として語られている。個体能力に焦点を当てた見方をすると,「できないこと」にばかり目が行ってしまう,ということだ。上の引用は,理想追求の場合にも似たようなことがおこる,ということでもあるし,また,カウンセリング的な人間観は,個体能力主義とは違うところにある,ということでもあるようだ。

自己評価が低い人は,権威ある人の強い意見に出会うと,自分の特徴や居場所を見失い,相手に屈することになりがちです。(中略)逆に,自己評価が高すぎる人は,自己本位でものごとを判断し,ものの見方が偏っていても,それが正しいと考えています。(p.158)

 自己理解の歪みが対人関係にも影響を与える話だが,対等でない人間関係の話ととることもできると思う。ここでは自己評価の高低や権威の有無が問題にされているが,別の箇所では,「相手に屈する」例として,自分に確信が持てず,消極的な生き方をしている時,相手に従わなければならないと思っている時(p.90)に相手に合わせがち,とある。「自分本位」の例として,世の中には唯一の正しい答えがあって,自分のほうが正しい(p.97)と思っている人や,人間関係を力の関係,上下関係,勝ち負けでとらえ(p.97)る人は攻撃的になりがち,とある。

 これらも結局,自己評価や権威主義の問題,とまとめることが可能だろう。つまり対等な人間関係を作ろうと思ったら,お互いが適切に自己評価し,権威から切り離されたところで関係を結ぶ必要がある,ということのようである。これは,言うのは簡単だが実現するのは,なかなか難しいことだろうと思われる。アサーションとはそういうところを目指しているのだろうけれども。

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■お昼寝とかニュアイとか(1歳7ヶ月の娘)
2002/04/06(土)

 今日の午後,妻が歯医者に行った。上の娘もいっしょに行くというので,私と下の娘(1歳7ヶ月)だけがうちに残った。

 半年前にも書いたように,こういうときに,子どもを眠らせることができれば,本を読んだりしてすごせる。ところが半年前と違い,下の娘はなかなか昼寝しなくなっている。そこでまた,一計を案じた

 まずはりんけんバンドの「ありがとう」を何度もかけた。下の娘が大好きなのである。しかも最近は,ピョンピョン飛び跳ねながら音楽に乗っている。これを30分もやればだいぶ疲れるだろう。そう思った。実際,最初は私の腹の上でピョンピョン踊り,それからタンバリンとバチを自分で持ってきて,それをたたきながら踊っていた(エイサーの真似である)。なかなか出足好調である。

 30分過ぎたところで,今度は牛乳を飲ませ,部屋を暗くして寝たふりをした。ところが娘はなかなか寝ない。当初の予定では30分もすれば寝るだろうと踏んでいたのに,ちっとも寝ないで,私の上を登ったり降りたりしている。私もあきらめて,カーテンをあけて本を読み始めたら,それからほどなくして,やっと寝てくれた。結局寝つくのに,全部で1時間半かかった。

 よーし,これからが俺の時間だ。そう思っていたら,ほどなくして妻と上の娘が帰ってきた。おまけに,寝たばかりの下の娘に,上の娘がちょっかいを出して起こしてしまうし。

 結局,下の娘とりんけんバンドで踊っただけの午後だった。もちろん,それはそれで楽しかったのだけれど。

 ちなみに下の娘,異様に牛乳が好きである(この月齢の子はみなそうかもしれないが)。で,牛乳がほしいとき彼女が言うのは,「ニュアイ」である。これははじめは,「にゅうにゅう,あい」だった。「牛乳ちょうだい」であろうか。これを一日何十回も言っているうちに短縮されて,「ニュアイ」になった,というわけである。

 最近はこちらのいうこともだいぶよくわかるみたいなので,娘が「ニュアーイニュアーイ」に対して「牛乳のコップは?」と返すと,トトトトと走って取りに行く。なんとも可愛いものである(オヤバカ失礼)。

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■『発達心理学再考のための序説』(浜田寿美男 1993 ミネルヴァ書房 ISBN: 4623022935 \2,800)
2002/04/04(木)
〜産業革命から生まれた個体能力主義〜

 最近私が気になっている浜田氏の,発達心理学に関するはじめて単著。浜田氏の本はこれまでも『発達心理学入門』『「私」というもののなりたち』『「私」とは何か』と3冊読んでいる。これまで読んできた本にも,「発達心理学再考」的な内容は含まれていたし,本書は「序説」ということで,萌芽的な議論で終わっているかもしれないという危惧があり,読もうかどうしようか迷ったのだが,読んでみた。内容は,これまでに読んだ話ももちろん含まれていたのだが,それだけではなく,むしろそれらの基盤というか出発点にあたる話が詳しく述べられており,結果的には読んで非常に良かったと思っている。

 今まで読んだ本にはあまり明確に出てきていなかった論点で,なるほどと思ったのが,個体能力論の歴史的な根っこが,産業革命に始まる賃金労働にある,と論じている部分である。その点をまとめようと思ったのだがうまくまとめられないので,筆者がまとめている箇所を引用しておく。

歴史の中で人は次第に個体化し,その個体としての能力を商品として売り出すことに生活の糧を求め,その能力の優劣に関心をもち,能力の育成に努力を傾注するところに進んできたということになります。(p.108)

 ここには,労働だけでなく能力も教育も,貨幣と同じく,生活から切り離された交換価値で測定され売買されるものであることが論じられている。どの程度適切な内容なのかは私にはわからないが,個体能力主義がどのようになりたち,今日の社会でどのように制度的に位置づいているかを理解する上では,非常にうまい説明であると思われた。

 その他にも本書で論じられている点は,多岐にわたるが,すべて私たちの現実生活のなかから発達を考え直してみる(p.6)という観点では一貫している。人間のもつ自己中心性や共同性,知能テストや発達テストの思想性,心理学的な人間記述と文学的な人間記述,物語性,実験文化の問題点,供述分析などである。基本的な方向性としては,発達を(大人を基準とした)能力の変化として見るのではなく,「意味の物語」として記述することを模索しているように思える。

 これらはどれも興味深く,全部触れてみたいのだが,とてもではないが長たらしくなりそうなので,ここではやめておく。一点だけ,実験文化批判のなかでとくに興味を引いた記述があったので,その点にだけ触れておく。

 筆者の実験文化批判とは,次のようなものである。

生活の場から実験の場への写像が,はたしていかなるものかを考えずに,実験という独自の論理に乗せられたとき,私たちは最終的にきわめて歪つな人間像をそこに描いてしまいかねないのです。(p.227)

 それは具体的には,生活世界の中からではなく先行研究のなかから問いを生み出すこと,他者を(主体性をもつ人間であるにもかかわらず)単なる客体(刺激)としてしか扱わないこと,全体を諸能力,諸特性に分解して部分的な人間像しか描いていないこと,意味の問いが欠如していること,などが論じられている。

 そのなかで筆者は,実験文化に決定的に欠けたものの一つとして「時間性」を指摘する(p.246)。それは,時計的,暦的単位で測られる客観的,外部的時間を用いていくら細かく心理現象を刻み,それを積分したとしても,人間の心的現象をトータルに把握したことにはならない,ということなのである。それは,ひとつの流れとして連続し,私がそれを内側から生きている私の「時間性」とは異なるものだから,というのである。それについて筆者は,次のように書いている。

(時計的時間の上で実験し観察される諸現象への考察,研究を)いくら無限に積みあげても,私たちがその内から生きている心的現象に到達することはないと言いたいのです。それはいくら時間を無限に区切ってもアキレスが亀には追いつかないようなものかもしれません(p.248)。

 ここでひとつ思い出した本がある。『パラドックス!』である。このなかで野矢氏は,ゼノンのパラドックス(亀に追いつけないアキレスなど)を指して,「問うべきなのは,どのような語りをすべきか,ということ」というようなことを述べている。筆者が多用する「物語」と近い「語り」という表現があることからしても,この指摘は本書の時間性の話と呼応しているような気がする。実験的時間把握はわれわれの日常感覚と相容れない(パラドックスを生み出す)ということを,浜田氏も野矢氏も指摘しているように私には思えたのである。私も最近,そのような気がしてしょうがない。

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■大学生に読んでほしい12冊
2002/04/02(火)

 この12ヶ月に読んだ本(短評したものを除いて88冊)のなかから,大学生に読んでほしい12冊を選んでみた。選定規準は,基本的には「専門的知識がなくても分かり,かつ,得るものがある」ということである。結果的にはどれも,「多面的に見ること,相対化すること,違う見方をすることの重要性を説いた本」になっているのではないかと思う。下では,そういうところを感じさせる一節を本から抜粋して紹介してみた。

 なおこの企画,昨年に引き続いて3度目である。そういう本も多少たまってきたので,それらを集めて選書のページも作ってみた(リンクは今年に入ってからはっているので,お気づきの方も多いかとは思うが)。星なんかもつけてみてみたりして。参考にしていただければ幸いである。

  • 育心理】『学ぶ意欲の心理学』(市川伸一)\720〜動機づけ心理学の本流の見事な継承・発展
    学習とかほかの活動もそうですけれども,いろいろな動機に支えられているということが持続の秘訣だと思います。多重の動機に支えられていると,ある動機が弱くなった時でも,他の動機によって持続できる。(p.211)
  • 学論】『迷路のなかのテクノロジー』(コリンズ&ピンチ)\2,200〜技術の複雑性と非専門家の重要性
    科学や技術に関する論争では,離れたところから見た方が,はるかに割り切れた直截な形になる,ということである。愛するものから離れれば離れるほど,その欠点は忘れられて,愛すべきところだけが思い出されるのと同じである。(p.4)
  • 敗学】『医療事故自衛BOOK』(和田努)\476〜対等さは勝ち取るもの
    みんなが遠慮せず,セカンドオピニオンを要求するようになれば,病院,医師の意識も変わっていくはずです。患者の医療情報を開示しない病院には,行かないようにすればいいのです。(p.80)
  • 育】『授業研究入門』(稲垣忠彦・佐藤学)\1,700〜思考を再構成する教師
    思考の多様性を尊重し,それぞれの異質性の理解を通して,自分自身の思考を吟味しあうこと。この場面で紡ぎ出されている社会的関係は,教室を「ディスコース・コミュニティ(探究し議論し合う共同体)」へと再組織する実践の方向を示している。(p.20)
  • 治経済】『〈政治参加〉する7つの方法』(筑紫哲也編)\680〜できそうな範囲での参加
    (民主主義とは)その欠点をたえず自覚しつつ,少しでもよりましなものにしていく努力をする−−というリアリズムがない限り成り立たない制度なのである。(p.19)
  • 会科学】『戦争を記憶する』(藤原帰一)\660〜自伝的記憶としての戦争
    両極に分かれた論争として構成すればするほど議論の中身が単純になり,単純になった歴史が現実から離れた教条主義に陥ってしまう。(p.171)
  • 達心理】『発達心理学入門』(岡本夏木・浜田寿美男)\1900〜文化実践への参加としての発達
    当たり前が当たり前でなかったところに還元して考える,発達心理学の究極はそこにあると言って過言ではないと思います。(p.47)
  • 育】『「学ぶ」ということの意味』(佐伯胖)\1,575〜学ぶとは自分探しである
    自分にとっての学びがいをどこまでも探し求めていうという立場からいえば,「動機づけ」「やる気」や「学ぶ意欲」などをどうやって起こさせるかという話は,ぜんぶうまとめて「ウソ!」と叫びたくなる。なぜなら,これらのことばはすべて,どういうことに意欲をもつか,あるいはもたないかということについて,本来は学び手本人が自分できめてよいことなのだという前提をまったく否定しているからである。(p.11)
  • 育】『論争・学力崩壊』(「中央公論」編集部・中井浩一編)\798〜紙上論争で学力問題がわかる
    新しい学力(理解力)か古い学力(知識)という文部省内の二者択一的な発想が,現場に降りていくにしたがってより単純化・矮小化される。ここには構造的な問題があるのではないか。(p.16)
  • 会科学】『ちびくろサンボよすこやかによみがえれ』(灘本昌久)\2,400〜実感から考える差別語問題
    自分がどのような意図でその言葉を使ったかということよりも,「この言葉は差別語である」という外からの決めつけが優位に立つと,話し手にとって,ある言葉を用いることの妥当性は外部に存在するしかない。(p.16)
  • 論】『議論術速成法』(香西秀信)\714〜気質を考えて議論を磨く
    われわれ自身のトピカを作るためには,まず自らの「議論的」気質をわきまえなければならない。(p.170)
  • 敗学】『失敗学のすすめ』(畑村洋太郎)\1,600〜創造における批判の役割は?
    失敗はたしかにマイナスの結果をもたらすものですが,その反面,失敗をうまく生かせば,将来への大きなプラスへ転じさせる可能性を秘めています。(p.16)

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