読書と日々の記録2002.04下
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■読書記録: 30日短評12冊 28日『論破できるか!子どもの珍説・奇説』 24日『世界でいちばん受けたい授業』 20日『人を伸ばす力』 16日『教育の社会学』
■日々記録: 29日りんけんバンドのライブ 26日出会い系授業 22日ヘルニアから1年 17日今日の体重

■4月の読書生活
2002/04/30(火)

 今月は,合計19冊読んだ。この2年半で月間最多記録なのだが,はっきりいってハズレが多かった。というか,ハズレが多かったからこそ,どんどん先を急いで読んだわけだが。それにしても,読めども読めども「これは!」と思える本になかなか行き当たらないというのは,けっこうツラいもんがある。

 もちろんよかった本がないわけではない。とくに『批判と挑戦』『人を伸ばす力』は再読したい一冊。ほかにも『発達心理学再考のための序説』『自己カウンセリングとアサーションのすすめ』も,悪くなかったような気はする。

『それでも新資本主義についていくか−アメリカ型経営と個人の衝突−』(リチャード・セネット 1998/1999 ダイヤモンド社 ISBN: 4478231052 \1,800)

 フレキシブル資本主義(短期的資本主義,スピード経営)と筆者が呼んでいるアングロ−アメリカ型資本主義が,信頼や忠誠心,相互の献身などを腐食(p.17)させることを,いくつかの事例を通して示した本。そのような経営のあり方は,経営革命の本(たとえばこれ)で楽観的に語られている,失敗があらかじめ組み込まれた変化に強いビジネスモデルが具体化された姿でもある。そしてそこで起きていることはまさに,『文化・組織・雇用制度』などの著書を通して荒井氏が危惧している,信頼や人間性や長期的な時間展望が破壊された状況である。そういう状況で成功するのは,ごく一握りの無秩序と同居する自信のある人間,変動のまっただ中でやる気を起こす人間(p.76)だけである。それが大多数の人には難しいことであることが,たとえば1993年にIBMに吹き荒れた大リストラの嵐を体験した人の話などを通して語られている。そういう部分は,非常に興味深かった。わかりにくい部分も多かったのだけれど。

『医者が患者をだますとき』(ロバート・S.メンデルソン 1979/1999 草思社 ISBN: 4794208545 \1,800)

 アメリカ医学会の重鎮による,医者告発の書。現代医学を宗教になぞらえ,健康診断は(意味のない)儀式である,などと書いている。最近私が読んでいる医療事故関係の本にも通じるような指摘もあるが,『買ってはいけない』風の大雑把で誇張されたような議論もあり,微妙な感じがする。人にはちょっと薦めにくい本かもしれない。個人的にナルホドと思ったのは,薬に関する記述。薬の危険性は患者本人が判断するしかない。自分で注意していれば,飲んではいけない体の状態がわかってくるし,しかもこれは本人にしかわからないことである(P.89)というものである。そういえば私も薬に関してはつい,本を読んだり薬剤師に聞いたりして何とかしようとしていた。最終的には,自分でなんとかしないといけないのだ。薬と体調の関係のデータを取ってみたりして。

『文化心理学−理論と実証−』(柏木恵子・北山忍・東洋編 1997 東京大学出版会 ISBN: 413011106X \4,500)

 文化心理学という新しい分野の,理論的考察および実証的研究を知ることができる本。学会でのシンポジウムがベースになっており,コメンテーターのコメントもついている。『自己と感情』を読んだときにも思ったのだが,文化心理学は,理論を聞いている限りは非常にエキサイティングなものに思える。従来の心理学的な,文化と心のプロセスを分ける二元論は取らないというし,従来的な比較文化心理学とは違うというし。しかし実証研究を見る限り,文化を独立変数にすえた従来的な発想の研究が多いように私には思えた。もちろんこれは,私の理解不足かもしれないが,それに近いことは,佐伯氏もコメントで述べている。また本書的には,そのような「文化差の心理学」ではない実証的研究としては,上野氏の状況的学習論の研究しか収容されていないが,佐伯氏はこれこそが,すべての人間行動を「文化的な実践」であるとするアプローチであると述べている。次は,このようなタイプの研究をより多く含んだ文化心理学の本を見てみたいものである。

『教育における経済合理性−教育問題の新しい視点−』(村上龍編 2000 日本放送出版協会 ISBN: 4140805196 \1,200)

 村上氏が発刊するメールマガジンをまとめたもの。これが第8巻である。合理性ということに興味があって買ってみたのだが,村上氏のいう合理性とは,人生をできるだけ有利に生きること(p.5)であるという。しかしそういう視点で全体がきわめて強力に貫かれている,というわけではない。対談やディベートなど,多くの人がかかわっているからだろうか。ちょっと面白かったのは,村上氏を含め2名の人が「分数のできない大学生」問題を肯定的に解釈して見せているところ。そのほかにも,文部省の寺脇氏が対談に参加しており,氏のイメージする総合学習が紹介されていたり,「いまは受験がそれほど厳しくなく,子どもたちはすでにゆとりを手にしている」という発言に対する氏の反論が聞けたりする。

『フェミニズムと科学/技術−双書科学/技術のゆくえ−』(小川真里子 2001 岩波書店 ISBN: 4000266365 \2,100)

 科学において女性(科学者)がいかに虐げられてきたかという話と,科学的知識(の生産)にいかに男性性が貼りつけられて来たか,を論じた本。このような「女性と科学・技術」に関する科学史的な研究は,挟フェミニズム(70年代)に運動が大衆レベルに拡大したとき,医学の男性中心性や家父長的性格が問われるなかで広げられていったものだという(p.27)。しかし本書は,扱っているテーマは興味深いものの,面白さという点では私にはイマイチだった。まとまりや方向性が明確には感じられなかったような気がする。

『ママ、ひとりでするのを手伝ってね』(相良敦子 1985 講談社 ISBN: 4062016087 \1200)

 妻が持っていたので読んでみた。筆者は日本モンテッソーリ協会理事という。基本的なことは,『誤りから学ぶ教育に向けて』で知ったこととだいたい同じだった。それ以外に知ったこと。人間の成長を4段階でとらえている。ー分で選び(自由選択),∩んだものに主体的にかかわり(子どもの仕事),A歓由覆鬚けてかかわり抜き(集中),ぜ分のより本来的な高い資質を実現していく(正常化)(p.197)というものである。あと,大人が誤りを訂正しながら教えてはいけない,ということを指してモンテッソーリは,「教えながら,教えなさい!」(p.145)といったという。訂正せずに,あくまでも,教えて,教えて,繰り返し教えることがたいせつ(p.145)なのだ。これがなかなか難しいんだけどね。あと本書の難点は,このようなやり方をしたらあらゆる事柄が(一生にわたって)うまくいくかのごとき書き方がされていたり,モンテッソーリの考えの底にたいそうな生理学的事実があるかのような書き方がされているところで,こういうところはトンデモすれすれであるように感じてしまう。

『知覚はおわらない−アフォーダンスへの招待−』(佐々木正人 2000 青土社 ISBN: 4791758471 \2,400)

 再読。今回は,わかりにくい「アフォーダンス」という言葉に注意しながら読んでみた。定義としては,行為することで現れてくる環境にある意味(p.42)ということなのだろうが,どうもそれだけの意味で使われているのではなさそうである。というのは,「踏み切りのアフォーダンス」という言い方は,上記の定義にもあうと思うが,たとえば静止して立つためのアフォーダンスも環境のなかにある(p.43)という言い方は,単に「環境にある意味」という言葉で置き換えられるものとは違うような気がする。

『文明の衝突と21世紀の日本』(サミュエル・P.ハンティントン 2000 集英社新書 ISBN: 4087200159 \660)

 現在そしてこれから,国家の行動が文明という要素によって決定される傾向が強まることを示した本。私はこういう世界にはまったく暗いので,内容の是非はいえないのだが,非常にすっきりと分かりやすい議論だし,同じ話が何回か出てくるので,私自身,世界情勢を見る上での視点を得ることができたと思っている。昨今に起きている事態の意味も,なんとなく分かったような気がするし。筆者によると,現在の体制はアメリカといくつかの地域大国が中心となっている一極・多極体勢であるという。しかしこの体勢が続くのも,今後10年か20年だそうだ。筆者の結論は,来るべき時代には文明の衝突こそが世界平和に取って最大の脅威であり,文明に基づいた国際秩序こそが世界戦争を防ぐ最も確実な安全装置なのである(p.189)ということのようだ。

『探究・創造・表現する総合的な学習−学びをネットワークする−』(福井大学教育地域科学部附属中学校研究会 1999 東洋館出版社 ISBN: 449101518X \2,900)

 この学校は附属と大学の共同研究がうまくいっているという話を聞いたので読んでみたが,そういう話はほとんど出てこなかった。ただ最後のほうにある「大学の教員との連携」という項には,実践研究の方向が教科教育の研究に終始しないように,学校研究として教育活動全体で子どもたちを育もうと,5名の教育学・心理学専攻の大学教員と連携を図っている(p.206)と書かれていた。おっと,5名だけだったのか? しかし教育学と心理学とは意外だった。そういえば本書末にある「出版プロジェクト関係者」の氏名一覧にも,大学関係者は5名しか書かれていない。別の箇所には,7・8月の夏季休業中には,大学の教員を交えて集中的に校内研究会を設定し,すべての教師が1学期の実践をレポートすることになっている(p.207)とある。具体的には2日間のようだ。こちらは「すべての教師」ということで,かなり大規模なようだ。しかしこの表現からすると,大学教員の役割は「指導助言」的なものにしか見えないが。はたしてどのような共同研究がなされているのか,具体的に知りたいところである。
 その他の内容に関しては,まあまあだった。修学旅行を,観光や見学ではなく「調査研究」に当てるというのは,非常にいいアイディアだと思ったが。

『ゆっくり走れば速くなる−佐々木功のマラソン丸秘トレーニング−』(佐々木功 1984 ランナーズ ISBN: 4947537124 \1,262)

 LSD(long, slow, distance)を中心に書かれた本。歩きを交えながらフルマラソンを4時間で走る方法なんてのも書かれていて,なんだか自分でもできそうな錯覚に陥ってしまう。実は小出監督の本(『ジョギング&マラソン入門』)も最近読んだ(読書記録では報告していない)。小出監督は,フォームは人それぞれでいい,と書いているが,本書はLSDでフォームをチェックしろ,と結構厳しい。あと,佐々木氏自身故障の多い選手だったそうで,そういうことを元に,次々と湧いてくる疑問を考え続け,実践し,その答えを得る(p.311)ことを繰り返したそうだ。これも反省的実践だ。

『黒い家』(貴志祐介 1997 角川書店 ISBN4048730568 \1,500)

 ホラー小説。「このミス」で2位だったそうだが,私にはフツーのホラー小説に思えた。もちろん山場のシーンはドキドキさせられたが。それだけといえばそれだけだった。主人公の恋人関連で心理学が出てくるが,きわめて「技術的実践」(人を理論に当てはめて説明・理解するだけの行為)的な心理学(者)だった。まあそれが現状なのかもしれないけれど。あと,エピローグ的な部分におかしいと思われる記述があり,それも私にとっては本書の評価を下げている。まあ本筋には関係ない部分なんだろうけれども。本筋と関係ある箇所としては,一介の保険屋が探偵まがいのことをする部分にも,ちょっと無理があるような感じがした。ついでにいうと,主人公が感じる「背筋が凍るような悪寒」も,都合のいい話にしか思えなかった。いや,悪いと言っているわけではない。あくまでも私にとっては「フツーのホラー」なのであった。

『飛ぶ夢をしばらく見ない』(山田太一 1985/1988 新潮文庫 ISBN: 4101018138 \320)

 10年以上ぶりに再読。おもしろかった。何がおもしろいかはまったく言葉にできないのだけれど。

 

■りんけんバンドのライブに行ってきた
2002/04/29(月)

 ゴールデンウィークの初日である土曜日,一家4人でりんけんバンドのライブに行ってきた。りんけんバンドのライブに行くのは,2年ぶり2度目である。

 2年前は下の娘はおらず,上の娘が2歳だった。そのときも,子連れで大丈夫だろうかと思っていたのだが,『ナビィの恋』という本を読んだとき,林賢夫妻の対談があり,「ゼロ歳の赤ちゃんから」来れる店だと言っていたので行ってみたところ,とくに問題はなく楽しめた。下の娘ももうすぐ2歳(まだ1歳7ヶ月だけど)なので,そろそろいいかと思って行ってみたわけだ。

 行こうと思ったのは,年齢の問題だけではない。にも書いたように,下の娘はりんけんバンドの「ありがとう」がお気に入りで,「あいとー,あいとー」と毎日せがまれている。それにエイサーは前々から見せていて娘たちも気に入っているし。これは絶対喜ぶに違いない。そう思ったわけである。

 開演は20時からなのだが,いい場所をとるために,開場時間である18時30分にはライブハウスに到着した(ら,もう人が並んでいた)。一応娘たちが泣いたりしたときのために,壁際(だけど一番前)の席に陣取り,食事を食べつつ開演を待った。ちなみに食事は,沖縄そばナポリタンは見た目どおりの普通の味,ゆし豆腐は本物ではなく「もどき」だったが,じゅーしーはまあまあおいしく,ラフテーもけっこう柔らかくてよかった。

 娘たちは,うちで「ありがとう」を毎日狂喜しながら聞いているので,演奏中どんなに喜ぶかと思ったら,案外だまってじーっと聞いていた。半分びっくりしていたのかもしれない。でも,小さい子どもということもあるのか,りんけんバンドのフロントで太鼓を叩いているお兄さんたちが,娘たちに愛想を振り撒いてくれたり,太鼓を叩かせてくれたりした。娘たちの反応はイマイチだったのだけれど。

 客の入りも,思ったほどぎゅうぎゅうではなく,落ち着いてみることができた(なんせこの連休中,6回ライブをやるらしい)。曲も喋りも楽しめたし。よーし次は,もう少し娘たちが物心ついたら,正面最前列で見るか。

 

■『論破できるか!子どもの珍説・奇説−親子の対話を通してはぐくむ科学的な考え方−』(松森靖夫編 2002 講談社ブルーバックス ISBN: 4062573628 \820)
2002/04/28(日)
〜論破できたか?〜

 今月は,読んだ冊数の割には,これと言った本が多くなかったので,本来なら取り上げないような本を,ちょっと辛口で紹介してみることにする。

 「カラスやスズメは死なないんだよ。だって,死んでるのを見たことないもん」(p.18)というような子ども(が出しそうな?)の疑問に対して,子どもの考え方のルーツを検討しつつ,どう考え,どう説明したらいいかについて解説した本。全部で22の疑問が取り上げられている。発想は非常におもしろいし,取り上げられている子どもの疑問も興味深いものが多い。

 しかし,内容はあまり感心しなかった。その理由のひとつは,説明として不適切ではないかと思える箇所も見られた点である。科学的に,という意味ではない。説明としてである。たとえば先ほどの「カラスやスズメは死なない」という疑問に対しては,「死体を見たことがないから死なない」とか「卵や雛を見たことがないから生まれない」という子どもの議論を膨らませていくと,「野鳥は死なないし,生まれない」ということになっていきます(p.20)と述べられているが,これはいくらなんでも「雪だるま式論法」(に基づくわら人形論法)というものであろう。またここから,その考えが「野鳥の絶滅が危惧されている」ことと矛盾していることを論じることで,上記の「珍説」を論破しようとしている。しかしこれも,理屈としては正しいとしても,子どもの実感に訴える議論にしないと,「わかるけどそうは思えない」みたいなことになってしまうのではないかと思う。そういう,抽象的思考が抵抗なくできる子だけが相手だったら,こういう議論でも悪くないのだろうけど。こういう論法はほかにも見られた。その他に,「それは単なる定義の違いではないか?」言いたい箇所もあった。「お湯からのぼっている白い煙は水蒸気じゃない」とか「1/2+2/3=3/5ではない」とか。正しい定義や用語を学ぶことはもちろん重要なことだが,それは子ども自身が興味をもって考える,ということとは異なることである。そのことについては次で論じる。

 感心しなかった第二の点は,「考える」ことに対する考えの違いである。本書は,サブタイトルに「科学的な考え方」とある。また「おわりに」には,子どもが理科に対して興味・関心が低いのは,考えるのが嫌いなわけではないと述べられている。次のように筆者らは考えているのである。

考えるのが嫌いなのではなく,学校の理科授業の中でこうした機会が与えられないことに対して,いらだちを覚えているのではないか(p.188)
その点に関しては私もそう思う。しかし本書は,子どもに「自分で考え」させようとしているわけではなさそうである。基本的に本書は,科学的な知識や原理を,いかに日常の現象を理解するのに適用するか,という形で説明がなされているからである。あるいは上で述べたように,科学の世界の決まりごと(定義や用語)を身につけさせようとしている。

 そのような筆者らの姿勢は,「科学の態度は「証拠より論」である」(p.102)という表現にも現れている。これは,現在の科学で言われている原理や考えと一致しない現象があったとき,なるべくその考えを変えないで,現象のほうに解釈を加えて,その考えの一貫性の方を大切にする(p.101-2)ということである。別にそれが悪いといいたいわけではない。「考える」ということについても,複数の考え方があるんだなあと感じた次第である。まあでも,そのような方向で考えることは,上の引用にあるような「考える機会を与えられないことに対するいらだち」を解消するようにはあまり思えない。その分野特有の考え方を身につけるということと,自分で考えるということは違うことだというかなんというか。本書の目的は「考えさせること」よりも「論破」にあるからそれでいいのかもしれないけど。

 

■出会い系授業
2002/04/26(金)

 最近,新入生とよく話をする機会がある。

 授業が始まってまだ1〜2回なのだが,どんな授業を受けているのか興味があるので,印象や感想を聞いてみている。すると,ときどき「出会い系授業」という言葉が出てくる。「これってどんな授業?」「んー,出会い系」みたいな。

 それは,体育実技だったりグループワークのある授業だったりするのだが,そういうカテゴリーで授業をとらえているということに,ちょっとびっくりした。いや,昔からそういう授業がなかったわけではない。しかし,それほど多くはなかったはずだ。だから,カテゴリーとしてまとめられることもなかったのではないかと思う。

 実は私が前期に開いている授業も「出会い系」のようだ。一般教養的な心理学の実験・実習の授業なのだが(私も,授業を通して友だちができるみたいな副作用があってもいいかとは思っていたが)。そういえば昨年あたりから,授業後に学生同士が携帯の番号を交換しあっている光景が目につくようになったような気がする。あるいは,最後の授業のときにひそかに,打ち上げのお知らせの紙が回されていたり。

 大学の授業も,講義一辺倒から変わってきたということだろうか。それに加えて,学生の意識の変化もあるかもしれない。授業に対する意識とか出会いに対する意識とか。

 

■『世界でいちばん受けたい授業−足立十一中[よのなか]科−』(藤原和博 2001 小学館 ISBN: 4098400707 \1,600)
2002/04/24(水)
〜(大人&生徒)参加型の社会科授業〜

 民間人(リクルート社フェロー?)である筆者が提唱し,実際に公立中学校の社会の時間に実践している[よのなか]科の実践記録。[よのなか]科とは,中学生に生きた社会科をダイナミックに学んでもらおうという試み(p.6)のようだ。どのような授業かは,ゲスト講師への依頼文に見ることができる。

中学校*年生にとって身近な話題から入り,シミュレーションやロールプレイングといったゲーム的な手法を多用する一方で,グループで考えさせながら自分の考えを発表させるプレゼンテーションを重視する試みをしています。
 私たちの意図は「社会科」をもっと学校の外に開かれたものとして,さまざまな分野の社会人が顔を店,プロとしての話も聞かせながら,子供たちに,自分の父親や先生とは違った大人モデルを提示していくことにあります。
(p.112)

 総合学習にも似ているが,あくまでも「社会科」という枠組みの中にあること,集客力,為替レートなど,社会=よのなかで役に立つ「概念の獲得」を目指していることなどが違うように思われる。参加型の社会科授業とでもいおうか。

 シミュレーションとしては,たとえば,ある地区にハンバーガー点を出すのにどこがいいかを考えさせるという実践がある。最初に生徒たちのなじみのない地区の地図を渡し,グループで考えさせるのである。まずはひとりで考え,次に他のグループメンバーの意見をみなでディスカッションして検討する,という具合である。情報収集は,駅の乗降客数が必要となったら,授業中に携帯で駅に電話して聞かせたりしている。最後には,マクドナルドの仕入れ担当者を呼んで,話をしてもらったり。それは上の依頼文にある「自分の父親や先生とは違った大人モデルを提示」することにもなっている。

 どの実践も,非常にうまく「手軽に」やれる形で作られている。教育学者の理論や教育畑の実践家の実践報告とは一味違った,新しい授業の提案である。民間企業の人材育成的な観点が多少入っているというか。完全に生徒が主導する問題解決学習ではないが,ディベートなどで,適度な場所で適度に大人(筆者は教師など)が介入するさまも,逐語録に近い形で記録が載せられているので,参考にしやすいし。そういう点が興味深かった。

 

■ヘルニアから1年
2002/04/22(月)

 椎間板ヘルニアになってから,約1年が過ぎた。そして,私としては奇跡的なことに,ヘルニアを予防するための腰痛体操は,毎日とは言わないが,ちゃんとこの1年,続けることができた。

 ちなみにヘルニアはこれで3度目だと思う。前の2回は,1ヶ月ぐらいで痛みがなくなるなり,すぐに体操をしなくなった。

 私の分析では,勝因はおそらく2つある。ひとつは,高尿酸血症など,減量せざるを得ない状況になったこと。そのために,腰痛体操と筋トレ(もどき)を組み合わせて行うようになった。どっちも必要に迫られてやっていることなので,一方だけをしそこなうということはない。

 もうひとつは,その腰痛体操+筋トレに,娘たちが参加してくれるようになったこと。なんだかかわいいので,ついやってしまう。下の娘など,風呂から上がるなり,一人でスクワットの態勢に入っていることがある。体操せねば,という気にさせてくれる。これがこのまま習慣として定着するといいんだけど。

と思っていたら最近,娘は自分たちで遊んだりビデオを見たりするのが楽しいらしく,あんまり参加してくれなくなっている。いっしょに体操されると,うっとうしいこともあるので,それはそれで悪くないのだが,ちょっと寂しいような気も...

 

■『人を伸ばす力−内発と自律のすすめ−』(エドワード・デシ&リチャード・フラスト 1995/1999 新曜社 ISBN: 4788506793 \2,400)
2002/04/20(土)
〜知ってたつもり,内発的動機づけ〜

 内発的動機づけの研究で有名なデシが,これまでの研究をまとめつつ,「自律性と有能感がなぜ大切なのか」「人との絆がもつ役割」「自律を促進するための方法」について一般向けに書いた本。原文のせいか翻訳のせいかはわからないが,読んでいる最中はなんだか漠として捕らえどころのない本,という印象をずっともっていた。

 しかし読み終わって,全体を自分なりに考え直してみると,非常に興味深い内容の本であることが,だんだんわかってきた。そのうえ,「内発的動機づけ」ということを,どうやら私が誤解していたのではないか,ということも見えてきた。以下の記述は,誤解していた可能性がある人間が漠とした本を読んで自分なりに考えたことなので,これが本書のポイントを正しく抑えているかどうかは自信がない。そういうエクスキューズをした上で,私なりに理解したことを述べてみたい。

 まず私は,内発的動機づけを,たとえば次のような形で理解していた(実はどちらの記述も,心理学の教科書にある記述である)。

  • 外発的動機づけよりも内発的動機づけによる学習が望ましいが,学習意欲がない場合には外発的動機づけを用いる必要がある
  • 学習者を内発的に動機づけるためにはどうしたらいいのか
しかしどうやら,このような理解は「間違い」だろうと思われる。たとえば外発的動機づけと内発的動機づけを同列に並べるというのは適切ではないし,両者を使い分けるという視点はおそらくデシにはないし,「内発的」動機づけを他人が(外から)喚起する,という言い方は,矛盾している。本書の筆者も,次のように述べている。
正しい問いは「他者をどのように動機づけるか」ではない。「どのようにすれば他者が自らを動機づける条件を生み出せるか」と問わなければならない(p.12)
あるいは,人を動機づけたり自律的にするテクニックはない。動機づけはテクニックによってではなく内側から出てくる必要がある(p.264)とも述べている。ついでにいうと,デシが「内発的動機づけ」の研究者である,という理解も間違いではないかと思う。本書で一番強調されているのは,「自律性」なのである。

 デシは,自分の研究をこう述べている。「もう二五年以上,私は動機づけという観点から自律性,偽りのない自分,真の自己について研究してきた。」(p.9) 動機づけはあくまでも「観点」であって,目的は「自律性」のようなのである。自律性とは,自分で選んだと感じることである。それがあれば,人は自発的(=内発的)になる。しかし自律性の感覚が低まると−−統制されているという感覚に陥ると−−内発的動機づけが低まり,他のマイナスの結果が大変生じやすくなる(p.40)のである。したがって本書でもっとも重要な,そして最も頻出する言葉は「自律性」なのである。

 なお,ごく個人的な意見だが,内発的動機づけという概念は,なくてもいいのではないかと思っている。というのは,内発的動機づけというと,「心の中」のことを指しているように聞こえるが,操作的には,「どのくらいの時間,ある活動を自発的に行うか」という「行動」から知る事柄である。長く行うということは,そこには内発的な動機づけが存在する,というわけであるが,そういう仮説構成概念を用いなくても,「自発的にあることを行う/行わないのはどういう状況か」という問題設定で十分ではないかと思う。そしてそのことと関係しているのが,「自律性が保障されているかどうか」である。

 自律的ではない状態とは,外から統制(コントロール)されていると感じる状態である。自分の意思で自分の行為を選んでいない状態である。それは,外的報酬(金銭,ほめことば,賞状,食べ物など)によって誘発される行動であり,罰,締め切り,押し付けられた目標,監視,評価,テストなどによって強制される行動である。そういうものなしに行われる自発的な行動を筆者は「自律的」と言っており,最も価値を置いているのである。

 そもそも筆者は,内発的動機づけを,生得的に持っているもの(p.40)とみなしているようである。幼児が絶え間なく探求しチャレンジする姿が,本来の姿だというわけだ。しかし,外的な報酬によって,内発的動機づけが低められてしまう(これは有名な実験だ)。したがって著者は,内発的動機づけをどうしたら「喚起できるか」ではなく,どうしたら「阻害されないか」という観点で実験を記述している。そういう意味では,「自ら学ぶ力,考える力」もいかに「育成するか」ではなく,「阻害しないか」という視点が必要なのではないかと思う。

 そのような筆者の観点は,以下の記述からもうかがうことができる。これは,私たちは自分や他人(子ども,被雇用者,患者,学生,スポーツ選手など)のために何ができるかに関する処方箋として,本書の最初のほうに掲げられているものである。

処方はまず,動機づけを理解すること,そしてそれがどれほど偽りのない自分にもとづくものであるかを知ることから始まる。そうした理解に立って,自分自身をもっと有効に統御すること,今までとは違うしかたで他者と関係をもつこと,そしてもっと意味ある社会的方針を立てることを目指している。(p.15)

 これをみるとわかるように,動機づけとはまず第一に「理解する」ことがらである。もちろん自分のことについては,理解したうえでいかに「統御」(コントロール)するか,ということが必要になってくるが,他人相手の場合は違う。相手とどのように「関係をもつか」であって,どのようにコントロールするか,ではないのである。それは,「注意深く相手の話に耳を傾け,相手の視点から世界を見ることによって,相手が何を考え,どう感じていたかを知る」(p.115, 199)ことからはじまる。あとは,「することの合理的な理由を提示する,相手の感情を認める,強制の圧力を最小限にする」(p.139),「選択を与える」(p.201)ような形で,自律性を「支援」するしかない。こういう話のなかで,『誤りから学ぶ教育に向けて』に出てきたロジャーズやニイルが本書でも扱われているのがおもしろい。

 そのほかにも,医者が権威的にならずに患者の自律性を支援すべきであるという話や,自由主義経済の問題点など,私が最近関心を持っていることも出てきたりして,そういう点でも興味深かった。

 

■今日の体重
2002/04/17(水)

 今日は月に一度の,体重定点観測の日。

 この1ヶ月間のうちの,はじめの27日ぐらい(要するにさきおとといまで)は,やや高めとはいえ,安定的に推移していた。

 ところがなぜか3日前,イキナリ数値が跳ね上がり,大丈夫かオイ的な体重となってしまった。理由はわからない。風邪気味だったせいだろうか。お菓子のつまみすぎだろうか。

 それがまた,理由はわからないが,昨日今日と,600gずつ体重が減り,定点観測の今日は,何のことはない,先月の17日から200g減でおさまってしまった。

 ということで,相変わらず体重のコントロール感は喪失中である。ともあれ,夏に人間ドックに行くときまではこの体重を維持し,血中の尿酸だの中性脂肪も問題なければ,まあいいかと,なかば投げやりな今日この頃である。

 

■『教育の社会学−<常識>の問い方,見直し方−』(苅谷剛彦・濱名陽子・木村涼子・酒井朗 2000 有斐閣アルマ ISBN: 464112096X \1,900)
2002/04/16(火)
〜スムーズな社会存続の条件を問う〜

 考えてみれば,教育社会学の入門書を読んだのは初めてだ。初めてでこういうのもナニだが,本書は入門書としてはなかなか悪くないのではないかと思う。それは,テーマが4つ(いじめ,幼児教育,ジェンダーと教育,学歴社会)に絞られている点であり,知識的な話に加えて,教育社会学アプローチ法,理解を深めるための理論,という3つの側面から解説されている点である。そういう点で,本書は興味深く読めた。

 本書で知ったこと。本書のサブタイトルにもあるように,社会学は「常識を見直す」ことに力点をおいているらしい。著者の刈谷氏は,「複眼思考」に関する本も書いているし。社会学と「複眼思考」には,どういう関連があるんだろう,と思っていた。少なくとも社会学の定義(社会学は,人々の間の関係のあり方や組織や制度といった,まさに「社会」現象の解明を目指す学問(p.i))には,そういうことは直接は含まれていないように思われるので。

 しかしその関係が,本書でわかった。社会には「当たり前」のものの見方がたくさんある。それがある意味,社会が存続するための条件でもあるのである。筆者は次のように述べている。

このような「当たり前」が疑われずに広く通用していればいるほど,「社会」はスムーズに,秩序を保ちながら存続を続けるのだが,そうだとすれば,<教育の社会学>は,こうした「当たり前」に疑問をむけることを通じて,教育という営みが社会現象としてどのような特徴をもつのかを解明しようとする学問といえる。(p.ii)
だから,「社会」を問うということが「当たり前」を問うことになるのだ。それは,「前提を問う」ともいえるかと思う。あるいは「仮説生成」(p.51)的なアプローチを必要とする。残念ながら心理学では,なかなかこうは行かないのではないかと思う。

 本書ではそのような「社会=当たり前」を,さまざまなアプローチで問うている。白書的なデータ,歴史的なデータ,社会学者が集めたデータ,エスノグラフィ,理論的考察などである。このようなさまざまなアプローチを柔軟に使い分けつつ社会を読み解いていく点に,社会学の魅力があるように思った。この点も心理学にはない点である。さまざまなアプローチの中で,ここぞというときには,エスノグラフィ-や解釈学的な方法が効力を発揮しているように見えた。

 ただしその柔軟性は,安易さにつながることもある。本書でもなかには,一般的に新聞などでみられる程度の(素人でもできそうな)データ解釈が見られたり,過剰な解釈につながっているように見える箇所もあった。もちろんそれは素人考えなのかもしれないし,入門書という制約から来ることなのかもしれないけれども。

 


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