読書と日々の記録2002.05上
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■読書記録: 12日『自由教育をとらえ直す』 8日『社会学になにができるか』 4日『カント『純粋理性批判』入門』
■日々記録: 13日別離を演じる父と娘 10日相互批判と相互承認 6日「ととま」とか「キラキラぃって」とか 2日最近の読書生活
日記才人説明
日記じゃんくしょん投稿

■別離を演じる父と娘(3歳11ヶ月)
2002/05/13(月)

 トトロに引き続いて「魔女の宅急便」のDVDを買ったところ,上の娘(3歳11ヶ月)はトトロのときと同じく,毎日見ている。しかも1日に3回はみる。すごいというかなんというか。

 トトロのときもそうだったが,見ながらいろいろとまねをしている。はじめのうちは主人公がほうきに乗って空を飛ぶシーンを見ながら,クイックルワイパーを持ってきてまたがっていた。あと,セリフを真似する。トトロのときは「ワーーーッ」とか「まっくろくろすけ出ておいでー」みたいに叫ぶやつが中心だった。おかげでうるさかったのなんのって。

 しかし「魔女の宅急便」には,そういう叫ぶシーンはない。その代わりに,主人公の娘(13歳)が家を出る前に父と交わす会話を,最近,毎日やっている。私も参加して。こういうセリフである(ト書きは私が適当に書いた)。

父:「どれ,私の小さな魔女を見せておくれ」
−−娘,くるくる回って・・・
父:「かあさんの若いころによく似ている」
娘:「おとうさん。高い高いやって。小さいときみたいに」
−−父,娘を高い高いしたまま回る。娘は飛行機のように手を広げる。
父:「いつのまにこんなに大きくなっちゃったんだろう。」
−−といいながら,娘をお姫様抱っこ。
  「うまくいかなかったら,帰ってきていいんだよ」
娘:「そんなことに,なりませんよーだ」
−−二人で楽しそうに笑う。
父:「いい町が見つかるといいね」
娘:「うん」
−−父が娘を抱っこしたまま,ぎゅっと抱きしめる。

 ・・・と,これを毎日やっているわけである。抱きしめながら,うちの娘にもいつかこういう別離の日が来るのか,なんてちょっとしんみりしたりして。って,まだ4歳前だけど。

 #これが終わってふと下を見ると,下の娘(1歳8ヶ月)が順番を待っている。セリフはいえないが,「よーだ」というのだけは上手。

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■『自由教育をとらえ直す−ニイルの学園=サマーヒルの実際から−』(永田佳之 1996 世織書房 ISBN: 4906388485 \2,500)
2002/05/12(日)
〜目的ではなく前提としての「自由」〜

 『誤りから学ぶ教育に向けて』を読んで,そこに取り上げられていた教育者ニイルに興味をもった。それで,彼の学校(サマーヒルという自由学校)についての本を探した。日本語で読めるその手の本は何冊かあるようだが,どれがいいのかわからず,インターネットで検索しても,決め手になりそうな情報はなかった。それで,適当に買ってみたのが本書なのだが,結果的にはこの選書は大正解だったようだ。

 というのは,本書の筆者によると日本ほどニイルやサマーヒル熱の高い国も珍しい(p.5)のだそうで,ニイルの教育理念や実践を賛美した本が山ほどあるようなのである。しかし本書は,ニイルを賛美的にとらえるのでも否定的にとらえるのでもなく,きわめて冷静にその理念と実践のよさや問題点とその克服について考察されている。それがタイトル「とらえなおす」の意味である。

 しかも著者は,実際にイギリスのサマーヒル・スクールで教鞭をとっていたそうである。というのは,先に述べたニイル熱のせいか,生徒の1/3が日本人なのだそうだ。本書の論考は,その経験に裏づけられている。経験があるからとはいっても,その経験だけにたよって論じているわけでもない。ニイルの著書はもちろん,ニイルに関する論文や本にも,そうとう目配りした上で,本書は書かれているようである。そういう目配りの広さや考察の冷静さは,きわめて好感のもてる本であった。

 自由教育とは一般には,教育の場からあらゆる管理的・強制的要素を排除し,子どもの自発性や意思決定を最大限に尊重する教育(p.5)である。実際,サマーヒルスクールにも,子どもは授業を出ない「自由」はあるし,大人と子どもの関係は対等(平等)である。学校に関することは教師も校長も小さな子どもも同等の力をもつ自治会で決められるのである(民主)。この,自由・平等・民主主義がニイルの教育実践における基本的な主義なのである。

 しかし筆者は,ニイルの実践記録や自分の経験をもとに,自由教育の問題を明らかにしている。それは,何から何まで自分でやらなくてはいけない(p.79)という不安や自由へのとまどいであり,そのような状態にうまく対処することができないことから感じる「不自由な自分」(p.80)である。これが「自由」に伴う問題である。それ以外にも,小さな子どもでも結託すればジャンクフードを大量に食べることを阻止できない,という出来事が筆者の在職中にあったのだそうだが,このように,本質的に異なるものも安易に「均質化」してしまう(p.90)という「平等」の問題がある。また,あまりにも罰則や罰金が多すぎ,日常のあらゆる行動の是非がそれらを基準に考えられてしまう(p.111)という「民主主義」の問題もある。このように,サマーヒル的な自由学校には,大きな危険性が隣り合って存在しているのである。

 実践家としてのニイルは,そのような問題をうまくクリアしてきた。しかしそのようなニイル像は,これまで強調されてこず,理論だけが一人歩きしていた。そのような実践家としてのニイル像が,本書では浮かび上がらせているのである。それはまとめると,次のような姿である。

子どもへの干渉を極力回避しようとする大人の役割の消極性とダイナミックに子どもに関与しようとする大人の役割の積極性,子どもによりそう母性的性格と子どもに厳しく接する父権的性格−これらの両面性である。(p.15)

 おそらくこの両面性を指しているのであろう,筆者実践家としてのニイルを「慈しみのある権威」(p.104)と形容している。それは,自治会にまかせるべき問題とそうでない問題を明確に分けることであり,母性を必要とする問題は,信頼関係や関心,見守り,寛容,親和性,理解,内的な温かさ,愛や受け入れを発揮することである。あるいは民主主義とはいっても,必要な問題には大人としての父権性を発揮することである。

 それは結局,大人が自然に家庭で発揮している権威であり寛容である。こういう表現をしてしまうと,それはごく当たり前のように聞こえるが,えてして自由教育は「自由を実現すること」がすべてを解決してきたようにとられてきた。しかし自由は,あくまでも「前提」に過ぎないのである。実践家としてのニイルはそうではなく,状況に応じて「自由」と「統制」との間を自覚的に往き来できるような判断力(感性)(p.171)をもっていたのである。それはまさに「反省的実践家」としての姿である。

 私もかつて,ほんの少しではあるが,自由(統制しないこと)を強調した授業を行って,失敗した経験がある。本書を読むと,その何が問題だったのかが,よくわかるような気がする。「自由」を目的視しすぎたのだろうと思う。大事なことは,その自由を通して何を実現しようとしたのかということであり,そのために必要なことは,自由に固執するのではなく,相手の様子を見ながら省察(反省的実践)を行うことだったのだろう。そのような整理ができたという点で,非常に収穫の多い本だった。

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■研究の相互批判と相互承認
2002/05/10(金)
(今日から梅雨入り)

 一年ほど前に学術雑誌に拙論が掲載された。この分野の研究はほとんどなかったせいか,興味をもってくれている人が少数とはいえコンスタントにいるようで,この1年の間に,実験材料についての問い合わせなどが何件かあった。研究会で検討されたり,文献購読演習や実験演習で取り上げたりされているようである。ありがたいことである。

 なかでも,ある大学の院生さんは,修論のテーマとして取り上げてくれた。私の研究をベースとして,問題点を改良して新たな実験を行ってくれたのである。そのレジメが先日送られたきた。

 もちろん前々から材料を送ってはいるので,こういう形で取り上げられることは,当然承知していた。しかし実際にそれが,(未公刊とはいえ)論文の形になっているのをみると,ちょっと感慨深いものがある。筆者が問題と思った箇所に変更を加えたり,精緻にされたりしているとはいえ,私の研究が基本的なベースになっているのである。

 この研究をやっていた当時(読書と日々の記録を始めた前後だ)は,この研究をやるのがイヤでイヤでしょうがなかった。何しろ,直接参考にできる先行研究がなかったので,方法も分析も,ほとんどすべて私なりに考えたのだが,これで果たしていいものかどうか,よくわからなかったのだ。自信がないままに実験を行い,結果を分析し,論文に仕上げた。それが雑誌に載るだけでも感慨深い(なんてことをいっていてはいけないのだろうが,この場合は特にそうだった)のに,それが追試されて研究としてまとめられるというのは,私が試行錯誤して作った方法論の妥当性が認められたといえないこともないわけで,予想していた以上に感慨深かった。

 その上,筆者なりの改良も加えられている。材料のバリエーションが増えていたり,材料の提示方法に工夫があったり,問題文の最後に文言が付け加える条件設定がなされていたり,質問が増えていたり,採点上の問題点が明らかになったり,実態研究だけでなく処方研究が付け加わっていたり。それは,拙論の子どもを見るような感慨がある。とくに付け加わった部分は,その子どもが成長した姿でもある。しかもそのような工夫はあるものの,基本的な結果は私のものと変わっていない。そこでまた,拙論の考察の妥当性が確認されたようで,またうれしくなったりするのである。

 研究は相互批判の上に成り立っているというのが建前だし,実際にこの研究にもそういう面はある。しかしその一方で,研究には相互承認の上に成り立っている部分もあるようにも思った出来事であった。

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■『社会学になにができるか』(奥村隆編 1997 八千代出版 ISBN: 484291033X \2,900)
2002/05/08(水)
〜「なめらか」の中に「ごつごつ」を見る〜

 社会学のさまざまな分野に「なにができるか」を問うことで,そこで使われている道具や考え方を使って物事がどう見えるか,そこが何が浮かび上がってくるかを描いた本。教科書として作られた本で,「実際の授業を再現するような」言葉づかいが目指されており,平易ながらいろいろと考えさせられる章がけっこうあった。残念ながらすべての章がそうだったのではないけれども。

 これまで私も,社会学の概説書をいくつか読んできた(『教育の社会学』『社会学研究法』『ビデオで社会学しませんか』『ジェンダーで学ぶ社会学』)が,本書が一番「なるほど」と思う部分が多かったように思う。それはとくに,序章で社会学の根本の部分がうまく説明されていたことが大きく関係しているように思う。

 序章によると,われわれは「あたりまえ」,「一般人の見方」,「通念」,「常識」などを身につけることで,居心地のよい「社会」に所属していく。それを編者は「なめらか」と呼んでいる。それに対して,社会学がやっていることは次のようなことだ。

ふだん「あたりまえ」のなかで存在をが実感できない「社会」を,ほらここにある,それはこのような形をしてこのような力をもったものなのだ,というふうに見えるようにする(p.15)
それを編者は「ごつごつ」と呼んでいる。このなめらかとごつごつの対比で語られる社会や社会学が,私にとっては「なるほど」であったわけだ。さらには,「社会学」自身のなめらかとごつごつについても語られている。社会学の言葉が社会学者にとって,なめらかな安全地帯になってしまうことがあるというわけだ。それは思考停止につながる。そうならないためには,「社会学」の言葉は,そのために,つねに更新されていかなければならない(p.28)と編者は述べる。過激であるが面白い。心理学にはあまりそういう視点はないのではないだろうか。

 本編でも,儀礼論,会話分析,文化装置論など,「なるほど」がいくつかあった。ここではそのなかで,ジェンダー論について触れておこう。『ジェンダーの心理学』についての読書記録で指摘したように,ジェンダー論のなかには「論理の組み立てが弱い」ものが見られる。とくに,「男と女はそもそも身体のつくりが違う(生物学的性差)のだから,果たすべき役目(性役割)も違って当然だ」という一般通念を否定するために,性差の存在そのものを否定しようとする場合がある。しかし本書4章の筆者も述べているように,あらゆる性差の存在を否定することは無理(p.179)である。そうではなくてこれらは,「だから」という言葉で前者が後者と必然的に結びつけられている部分に疑問を呈すべきなのだ。その点が本書では,簡潔ながらも鮮やかに論じられていた。

 良質の社会学では,心理学のように実験や調査(だけ)に頼ることなく,論理や思考を深めることで常識を疑っていっているようである。そのことを示してくれたという点で興味深い本だった。すべての社会学がそうなのかどうかはわからないが。

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■「ととま」とか「きらきらぃって」とか(1歳8ヶ月の娘)
2002/05/06(月)

 下の娘(1歳8ヶ月)も,断片的ながら言葉らしいものがしょっちゅう聞かれるようになってきた。

 喋れそうな音だけをピックアップするという喋りは相変わらずで,先日も「ととま」といっていた。これは,「とんとんとんとんアンパンマン」という手遊び歌だ(「ひげじいさん」の変形バージョン)。「ちょうだい」が「ちあい」になったりとか。

 どうも,こうして見ると,「喋れそうな音ピックアップ」というよりも,「最初と最後をピックアップ」かもしれない。「あいとー」(ありがとう)も「にゅあい」(ぎゅうにゅうちょうだい)もそうだし。

 あと今日,上の娘(3歳10ヶ月)がオカリナ(100円の)を出してきたので,娘のリクエストに従って「キラキラ星」を吹いてあげた。やめると下の娘が来て「キラキラぃって」と言う(微妙な発音を字にするのは難しい)。「キラキラ星やって」みたいなことだろう。これも「最初と最後」だ。しかも2語文。もうそういう時期なのか,と思った。

 このように下の娘は,日々言語能力を向上させているようである。上の娘の経験からすると,もう半年もすると,「フツー」の日本語を喋りはじめるに違いない。もう赤ちゃんじゃなくなって,こういう言葉も聞けなくなるのかと思うと,ちょっと残念な気もする。

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■『カント『純粋理性批判』入門』(黒崎政男 2000 講談社選書メチエ ISBN: 4062581922 \1,500)
2002/05/04(土)
〜主観が客観を成立させる〜

 実は,カントの「批判」概念を知りたくて買ってみたのだが,そういう話は載っていなかった。が,おもしろかった。

 本書のおもしろさのひとつは,カントを出発点にするのではなく,筆者が高校時代に感じた素朴な疑問を出発点にしている点である。それは,人間が勝手に編み出した発明品である数学を駆使した結果,どうしてアポロ11号が月面に到着できたり,地球や月などの宇宙の運行にぴったり合ってしまうのか?というものである(p.8)。

 問題の焦点も絞られている。あつかう問題を,純粋理性批判で論じている問題のうち,「客観的な認識とは何か」という点に焦点を絞っているのである。それはもちろん,上記の疑問と関連した部分であり,筆者がいうには純粋理性批判の中核部分でもある。

 しかも,構成に工夫がこらされている。純粋理性批判が難解であることから,いきなりそこに入るのではなく,「純粋理性批判の建築現場」と称して,純粋理性批判成立以前の10年間のカントの思索を追いつつ,基本的なアイディアの成立過程を明らかにしている。そのうえで,「純粋理性批判見学ツアー」と称して,美術館見学のように,1日(1章)で見て回れるだけをピックアップして基本的な考えを紹介しているのである。おかげで素人の私も,なんとなくわかったような気になることができた。

 一応わかったことをまとめておく。人間は「物自体」を認識することができない。認識はあくまでも,感覚を経るしかないからである。そのようにして世界から受け取った,混沌としており多様な認識の素材を,時間,空間,因果関係のような主観によって形や脈絡を与えることによって,意味が与えられる(p.122-124)。それによって認識が成立するのである。そのように,私たちの知覚や感性的直観の対象となるものが「現象」である。このようにして(物自体ではなく)「現象」が成立することを指して,主観が世界を成立させるゆえに,現象の認識は客観的(p.3)というようである。もう少しだけ詳しい記述が次である。

一.主観が世界を成立させる。
一,その世界は物自体の世界なのではなく,現象の世界である。
一,その現象の認識は客観的だが,物自体についての認識は主観的なものにすぎない。
(p.30)
これは,実在論と観念論,経験論と合理論を統合したものといえる。そして冒頭のアポロ宇宙船の問いの答えをいうならば,世界(カントの場合は<現象>)の成立そのものに,人間の主観的原理であるカテゴリーがそもそも関与しているから(p.133)ということになるのである。

 とはいうものの,こうやってまとめながらも,十分にはわかっていないことが自分でもわかる。しかしなんとなく,「素材」に「意味」を与えることで現象が成立するのだろうということはわかった。このあたり,知覚や記憶などの認知心理学的発想に非常に近いような気がする。とくに「意味を与える」というあたりが。ということで,自分なりに理解して自分なりに面白がっているというレベルでしかないのだが,「なにかある」ような面白さが感じられたのは確かである。

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■最近の読書生活
2002/05/02(木)

 1年前は,娘たちの来襲があったものの,それなりに本が読めていた。今はどうかというと...

 なぜだか知らないが,めっきり娘たちの来襲が減っている。ほんの2ヶ月前は「パパになる」と言って,みっちり私にまとわりついていた上の娘(3歳10ヶ月)も,最近は「ママになる」「ママが好き」と言うことが多くなった。私としては,心おきなく一人で本が読めていいのだけれど,ちょっと寂しくもある。

 下の娘(1歳7ヶ月)も,以前は「ダッコダッコ」とせがまれて大変だったのだが,最近は,上の娘と遊んでいることが多い。それ以外にも,一人で遊んでいたりビデオをじーっと見ていたりすることもけっこうあるので,かなり楽になった。とはいえ,上の娘とケンカみたいなことをして号泣することもあるので,大変なこともまだまだあるのだけれど。

 ということで,今は割と本が読める。先月,読書数月間最多記録をマークできたことの一因は,ここにあるかもしれない。

 ただし,その日,本が読めるかどうかを左右する大きな要因がまだ残っている。それは,娘たちが夕食にかかる時間である。どうも最近,とくに下の娘が「遊び食べ」で,食べることに専念しないのである。へたをすると,食べ終わるまでに2時間近くかかったりもする。妻が下の娘を食べさせるのに奮闘している横で本を読むのはチト気が引ける。かといって私が手を出しても食べないことが多い。ということで,どれだけ本を読めるかは,最近は下の娘の夕食の食べっぷりに大きくかかっているのである。

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