読書と日々の記録2002.07上
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■読書記録: 12日『感情の科学』 8日『幼児教育へのいざない』 4日『会議の技法』
■日々記録: 14日お医者さんごっこする4歳児 10日姉と遊んだり怒ったりする1歳児 6日ウェストサイド・メイキングDVD 2日ちゃぶ台ビーチ

 

■お医者さんごっこする4歳児
2002/07/14(日)
(午後8時現在,
台風の目にいる模様)

 最近,上の娘(4歳1ヵ月)が,お医者さんごっこに凝っている。といっても,娘は「患者」で,医者は私なのだが。

 具体的にはどうするかと言うと。私がベッドに座って本を読んでいると,上の娘がやってきて,ちょっと離れたところにあるイスに座る。何しているのかな〜と思っていると,「みちたさーん,ごばんへどうぞ,って言って」とせがまれる。

 で,言ってあげると,ベッドの近くに置いてあるフトン乾燥機のところに来て,腰掛ける。手にはクマのぬいぐるみを抱いて。で,私に言うのである。「あのー,赤ちゃんの足が割れちゃって...」とかなんとか。適当に診察と処置のふりをすると,満足して帰っていく。これがえんえんと繰り返されるのである。

 きっかけは,先々週ぐらいに,みんなで病院に行ったことだろうか。上の娘はトビヒ疑い,私はイボで皮膚科に,妻は健診で婦人科に行ったのだ。おかげで,長い時間病院で過ごしているうちに,真似したくなったのだろう。

 まあ,適度に本が読めつつ,適度に相手もできるので,付き合ってあげている(かくれんぼをせがまれた時は,本が読めなくて閉口した)。あんまりしょっちゅう「来院」されると,けっこう大変ではあるのだが。

 #しかも,上の娘が帰った後でふと見ると,今度は下の娘(1歳10ヵ月)がクマさんを抱っこしてイスに座ってたりして...

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■『感情の科学−心理学は感情をどこまで理解できたか−』(ランドルフ・R.コーネリアス 1996/1999 誠信書房 ISBN: 4414302897 \3,800)
2002/07/12(金)
〜心理学を見る4つの視点〜

 『ロボットの心』で参考文献としてあがっていた本。これまでに行なわれた感情の心理学的研究を,4つの視点に分けて概説し,感情研究の今後について論じている。個々の研究の詳細やその後の論争まで立ちいって論じられているので,なかなかに読み進めるのには時間がかかったが,興味深かった。

 感情の心理学的な研究というと,教科書的には,ジェームズ=ランゲ説(感情体験は身体的変化の体験=末梢説)があり,それがキャノン=バード説(中枢説)によって否定され,最終的にはシャクターの生理−認知説(二要因説)で落ち着いている,みたいな流れになっていることが多い(ように思っていた)。しかし話はそんなに単純ではないことが,本書でわかる。詳細はここでは述べないが,たとえばジェームズ=ランゲ説に関する,次のような記述からもそれがわかる。

ジェームズ=ランゲ説は,ジェームズが望んだような「定説」となっていないことはたしかですが,ますます多くの感情研究者が,その本質的な妥当性を信じるようになってきています。(p.84)

 本書で取り上げられている感情の心理学的研究の4つの視点とは,ダーウィン説(感情の昨日を自然淘汰による進化の文脈の中でとらえる),ジェームズ説(前述),認知説(環境の中での出来事に対する個人の評価から感情が生じる),社会的構築説(感情は社会的,個人的目的に役に立つ文化の産物)である。前述のシャクターは,私は認知説だと思っていた。筆者も最初の構想では,認知説として紹介するつもりだったらしい。しかしシャクターは,認知よりも「覚醒」に重点をおいており,そのうえ自分で自説を「修正ジェームズ主義」(p.148)と呼んでいるらしい。

 そして私は,感情についてはこの説で決め打ちかと思っていたが,そうではなかった。シャクターとシンガーの最初の研究を追試あるいはその他の方法で直接テストしようと試みた研究は,この理論の裏づけとはならなかった(p.106)そうである。これも詳細は取り上げないが,これだけではなく,本書では全編に渡って,ある説を検証するために,心理学者がいかに工夫して実験を行なったりデータを集めたりしており,それがまた,いかに他の証拠で反証されるかが詳細に示されており,心理学研究のダイナミズムを知ることができる。

 そんなこんなで,どの説にも肯定的な証拠と否定的な証拠が積み重ねられてきているわけだが,その様子を筆者は,「群盲象をなでる」の図として見ている。すなわち4つの視点の違いは,感情の定義の違いであり,感情を体系のどのレベルにおくかという問題で,必ずしも排他的なものではないというのだ。それはちょうど,「食べること」が,生物学的にも神経生理学的にも学習としても認知としても社会的な意味としても見ることができるのと同じである。それらは,強調しようとする体系のレベルの違いなのである。

 まあそれは,ありきたりな統合といえばそれまでだが,しかしこの指摘と本書の4つの視点は,心理学研究自体にきわめて重要な視点を提供してくれると思う。というのは,感情だけに限らず,心理学が対象としている多くの事柄は,この4つの視点から見ることが可能と思われるからである。最近,文化心理学や進化心理学が脚光を浴びている(『自己と感情』参照)が,これらは要するに,社会的構築説とダーウィン説である。少し前までは「認知説」が一世を風靡していた。ジェームズ説はどう位置づけていいのかわからないが,神経・生理(心理)学的な部分もあるであろうか。多くの心理学的現象を見るに際しては,この4つの視点を考えてみることが重要であるし,どれか一つのみが正解ではなさそうである。そのことを,「感情」という現象を通して考えることができるのが,本書であると思う。

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■姉と遊んだり怒ったりする1歳児
2002/07/10(水)

 数日前,風邪で臥せっていた。クーラーの空気も冷たく感じていたので,頭から布団をかぶって寝ていた。そこに,下の娘(1歳10ヵ月)がやってきて,布団の中にもぐってきた。

 布団の中は,暗くて暑かろうと思い,寝たまま,膝と腕で布団を支え,空間を作ってやった。簡易テントみたいな感じである。すると,下の娘はやけに面白がって,私の顔を見てはムフフフ的な笑いを浮かべたり,私のポーズのまねをしたりしている。

 しばらくそうしていたのだが,そのうちに,ふといなくなってしまった。そして隣の部屋から,「ネーネー,オイデオイデー」と聞こえてくる。よっぽど面白かったのか,姉(4歳)を呼びにいったのだ。で,結局,3人で「布団テントごっこ」で遊ぶはめになった。こっちは風邪だっちゅうのに。

 まあそれにしても,楽しいことがあったときに,一人で楽しむだけではなく,姉を呼びにいったというのは,プチ感動である。「また一歩,人間に近づいた」という感じだ。

 上の娘とは,そうやって仲がいいばかりではない。ケンカは毎日である。発端は,下の娘がもっていた人形なんかを,上の娘が取り上げたりするといった,ささいなことなのだが。

 そういうとき,下の娘は「ネーネーガッ」という。「姉が(私をいじめた)」というわけだ。口調も,口を尖らして怒ったような言い方なのがおかしい。

 始めの頃は,怒っている時は,それが誰のせいであっても「ネーネーガッ」と言っていた。どこで覚えたのかはわからないのだが。それが最近は,上の娘とケンカするときだけ,的確に「ネーネーガッ」と言う。それだけではなく,ときには「パパガッ」などとも言われてしまう。こういうことが言えるようになったというのも,プチ感動である。ああ,1歳児っておもしろい。

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■『幼児教育へのいざない−円熟した保育者になるために−』(佐伯胖 2001 東京大学出版会 ISBN:4130020803 \1,800)
2002/07/08(月)
(風邪で不調)
〜「課題」を見出す〜

 最近「幼児教育」の世界に参入した筆者による本。筆者自身が保育経験や保育研究経験があるわけではなく,筆者がこれまでに教育研究の中で提唱・重視してきた「文化的実践への参加」「関係論的発達論」「ドーナッツ論」などが,保育との関連で述べられている。それは,これらの概念を「保育」という文脈で捉えなおし述べなおすことになるので,そういう意味では,保育を通してこれらの概念の理解を深めることができる。そういう本として読める思う。

 なかでも「ドーナッツ論」については,いくつかの本で見かけて面白そうだとは思ったものの,その出典となっている本が手に入らず,これまで詳しいことがわからずじまいだったのが,本書では,この考えの由来(出発点が,マンーマシン・インタフェイス研究だったとはちょっとオドロキ)や,幼児教育との関連が書かれているので,たいへんためになった。

 また,筆者は既存の研究の中に,述べられていない「課題」を見つけ,現実を見るための手がかりとすることが実にうまいと感じた。ここでいう課題とは,それが解決すると,単に当初の疑問が解消するだけでなく,他のさまざまなことが同時に解明されるのではないかと思われるような問い(p.10)である。本書冒頭はこのことを強調することから始まっている。それくらいに筆者が重視している事柄なのであろう。

 たとえば,母親が子どもの身になって発話する「代弁」という行為についての研究がある。それは『カタログ現場心理学』にも収納されている研究なので,私も読んだし記憶にあるのだが,単に「代弁」のタイプが分類されているだけのように思えて,何かすっきりしない研究だったような記憶がある。しかし佐伯氏はこの研究を「保育において保育者が子どもに寄り添うときの寄り添い方」を考えるためのヒントとして援用し,保育者の寄り添い方に「自然」なものとそうでないものがあることを見てとっている。

 このほかにも(私もなんとなく釈然としなかった)「心の理論」研究(たとえば『幼児が「心」に出会うとき』)についても,それが「道具的な意味での心の理論」であり,「共感的な意味での心の理論」とは違うことを指摘し,保育や発達との関連について考察している。「課題」というか,研究の中に「スジ」を見出し,現実との関連の中に位置づけ捉えなおすこれらの視点には,驚くべき,見習うべきものがあると感じた。

 最後に,筆者が描き出そうとしている保育を「ともに生きる保育」とまとめ,それは「対話の保育」であり,「共感する保育」であり,「因果論ではなく『関係』という視点でみる」ことである,とまとめられている。これもいろいろな意味で参考になる。

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■DVD『《ウェスト・サイド・ストーリー》メイキング・オブ・レコーディング』(バーンスタイン指揮 2002 ユニバーサルミュージック UCBG-3015 \3,200) )
2002/07/06(土)

 このページ始まって以来の,「音楽の記録」である。正確には「映像の記録」か。

 そもそも,昨年DVDプレイヤーを買ってから,子ども用のDVDしか買っていなかったので,そろそろ自分のものがほしいと思っていた。かといって,映画を繰り返してみる趣味はないし,子どもが小さいうちは,じっくり映画をみるなんてできないだろうし,かといって音楽ものもどうかなあ,と思っていた。音楽はやっぱりテレビで見るよりCDで聞いたほうがいいような気がするし。

 と思いつつ,折に触れてネット上でDVD探しをしている最中に見つけたのがこれである。そもそも私,ウェスト・サイド・ストーリーの音楽は昔から好きだった。CDも4枚もってるし。このDVDは,単なる音楽ものじゃなくてメイキングなので,それなりの面白さもあるかもしれないし。それに,再発売ものなので値段が安い(以前は5000円ぐらいしていたようである)。これなら,たまーにみるぐらいでも惜しくないか。そう思って買ってみた。ちなみにこれは,映画音楽のサントラではない。映画は1961年公開なのだが,1984年にその音楽を,作曲者自身が指揮をして,一流のオペラ歌手をそろえて録音した,そのときの録音風景なのである。

 で,数日前に手元に来た。たまーにしか見ないかと思っていたが,実は,毎日見ている。妻がえらく気に入ったのだ。とくに,ホセ・カレーラスがいいらしい。歌のうまさもさることながら,バーンスタインその他のスタッフにいじめられているのだ。いや,いじめではない。音楽作りに欠かせないことなのだが,なぜか彼に攻撃が集中しているように見える。発音の問題から始まって,テンポ,息継ぎ,感じの出し方など,さまざまな注文がつく。音楽だけとはいえ,ホセ自身も,スペイン人がニューヨーカーを演じるとあって,けっこう苦労しているみたいだ。雰囲気作りとか。その末に,すばらしい「マリア」を歌い上げるのだ。妻など,音楽のすばらしさに涙が出たと言っていた。あと,繊細な彼の様子に,母性本能をくすぐられるとかなんとか。

 バーンスタインがレコーディングした,このウェスト・サイド・ストーリー,私はCDを持っており,何度も聞いていた。でもやっぱり映像だと違うね。特に歌が。なんというか,歌手の顔を見ながら聞くせいだろうか,つい引き込まれてしまうのである。歌っている人の気持ちになるというか。表現も,音だけではなく顔を見ることで感じるものもあるし。浜田寿美男氏のいう「同型性」体験である。そんなこんなで,夫婦で毎日見ては,毎日感動しているのである。

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■『会議の技法−チームワークが開く発想の新次元−』(吉田新一郎 2000 中公新書 ISBN: 4121015207 \740)
2002/07/04(木)
(今年初の台風休暇)
〜というよりも,参加型授業の技法〜

 本書は次のような内容の本である。

多くの人が会議への不満を抱え,そこで決まった事柄を積極的に推進できない現状から脱する方法として,みんなでいっしょにつくり出す会議,つまりコンセンサスを基調にした意思決定ないし問題解決のアプローチを中心に据えて,それを可能にする具体的な方法を紹介(p.191)
本書は,非常にいい本だった。文献や筆者の豊富な経験をもとに,具体的で会議の技法が多数紹介されていた,ということはもちろん大きいが,それだけではない。ここで述べられている「会議の技法」は,いわゆる「会議」だけではなく,討論や話し合いを中心にすえた「学生参加型授業」の技法としても役に立ちそうなものばかりなのである。

 たとえば,『学生参加型の大学授業』には,講義の途中で話し合わせるインフォーマルグループについて書かれていた。それは確かに手軽に授業を学生参加型にできるように見えるが,時間もかかりそうだし効果もどれほどあるかわからないのでどうしたものか,と思っていた。と思っていたら本書でも同様の提案があった。会議で誰か発表するとき,15分以上は絶対に話さないで,間に2〜3人の話し合いをはさむ,というやり方である(p.108)。ねらいは「単に聞きっぱなしにしないこと」なので,話し合った内容は無理に発表させなくてもいいという。なるほどこういうふうにインフォーマルグループを位置づければ,気軽に導入できるかもしれない。こういうふうに本書には,ちょっとした技法がねらいや代替案も含めてあげられているものが多いので,その意義や必要性,やり方のポイントがわかりやすいように思った。

 そのほかに,授業でも使えそうな示唆の一例としては次のようなものがあった。会議への参加意識を高めるためには,達成したい目標を書かせ,小グループ討議を通して最終的に全員で合意する目標にまとめるとよい(p.41)。生産的,創造的,効率的な会議のためには,議長でも司会でもなく,進行役(ファシリテーター)が必要(p.61-)。小集団は,アイディアのバラエティがある程度期待でき,しかも参加しない「観客」が出ない4〜5人ぐらいが一番活発に取り組む(p.138)。会議における目標達成(=問題解決)を氷山の一角とすると,水面下には,創造的に考える要素,相互に理解し助け合い価値を認め合う要素,グループをつくり維持する要素が隠れており,支えている(p.192)。そのため,これらに対応した技法を練習によって身につける必要があるのである。そういう練習法も,本書では豊富に紹介されている。

 私のようなペーペーには,日ごろの会議を変えることは難しいだろうと思う。それどころか,筆者が本書を執筆している間に参加した会議でさえ,出席してよかったと思える会議は残念ながらなかったという。しかし自分の授業であれば話は別である。授業を「生産的で創造的な会議」と考え,その技法を学生と一緒に磨いてみたいものである。

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■ちゃぶ台ビーチ
2002/07/02(火)

 週末,近所のビーチに行った。去年と同じ,トロピカル・ビーチ。

 夕方5時過ぎから6時過ぎまで泳いだのだが,浅くてびっくり。海底から海面までの高さが,ちゃぶ台ぐらいしかないのだ。そのせいか,水がやけに温かかった。風が吹くとけっこう涼しいのだけれど。それにしても,次は行く前に潮をチェックせねば。

 でもその浅さが子ども達にはよかったようで,浮き輪でプールに入っても恐がる4歳の娘も,はじめのうちはちょっと恐がっていたものの,最終的には,さほど恐がることなく楽しんでいたようだ。これで水に慣れてくれるといいのだけど。

 1歳9ヶ月の娘の方は,相変わらず恐いもの知らずで,一人でプカプカ遠くに行ってしまったり,ビニールのシャチを見つけては,ずんずん近づいていったり。恐がりすぎるのもどうかと思うが,あまり恐がらないのも,ちょっと心配かも。

 それにしても,相変わらず汚い海で,ちゃぶ台の高さなのに,海底は見えもしない。次はきれいでお魚のいっぱいいるビーチに行きたいもんだ。

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