読書と日々の記録2002.08上

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■読書記録: 12日『暗黙知の解剖』 8日『大学は生まれ変われるか』 4日『現場主義の知的生産法』
■日々記録: 13日模擬面接官体験 9日保育園準備する4歳児ほか 6日1歳11ヵ月児のマライア泣き 2日ディスカッションのある講義

■模擬面接官体験

2002/08/13(火)

 今日,模擬面接官体験をした。教員採用試験(2次試験)対策で,学部が行っているものだ。本番は1週間後。1次試験合格者に練習しておいてもらおうということだ。

 午前が集団討論,午後が個人面接で,私が主におおせつかったのは,午後の個人面接の面接官だった。こういうの,今回はじめてやったのだが,面接官ってけっこう難しい。的確な質問をしつつ,相手の様子を観察したりしなければならないので。

 あと,試験対策としては遅すぎるのではないか,と学外の方がおっしゃっていた。まあ試験の日程上,この設定になるのはしょうがない。むしろ,日頃の授業で,自己アピールを言わせたり書かせたり,教育に対する意見を表明させたりする体験を組み込むのがいいのかもしれない。それがどのようにできるのかは,今後の課題だが。

 集団討論は,ちょっとのぞいただけなのだが,なかなか面白かった。討論は私のテーマでもあるわけだし。

 見ていて思ったのは,「集団」で「討論」することの難しさだ。あるグループは,テーマを投げかけられたあと,みんなが下向いて一人で考えたあとで,しばらくしてから自分の意見を発表していた。これは,その後の展開によっては悪くないのかもしれないが,下手をするとそれは「ひとり言」になりかねない。いきなり問いに対する答えを考えるのではなく,「集団」であることを生かして,たとえば「このテーマはどんな風に論じていったらいいか」とか,「具体的にどんなケースがあるか」みたいなところから,みんなで話し合いながら進めて言ってもよかったのではないかと思う。

 もう一つ。集団で話すことは,ときとして「討論」ではなく「おしゃべり」(雑談)になってしまう。とくに,方向性が一方を向き始めた時はそうなりやすいのではないかと思う。ある発言に対して,「そうだねそうだね私もそう思うよ」という,同じ向きの話ばかりが出てくるときだ。そういうとき,意図的にクリシン的に,他のケースや可能性や例外などに目を向けることも,「討論」にするためには必要なのではないかと思った。あ,これは,授業のなかで行う討論にもいえるかもしれない。

■『暗黙知の解剖─認知と社会のインターフェイス─』(福島真人 2001 金子書房 ISBN: 4760895124 \2,000)

2002/08/12(月)
〜迷宮への誘い〜

 暗黙知の「解剖」というよりも,あとがきにあるように「暗黙知と書かれた入口の背後に広がる,迷宮への誘い」(p.178)という感じの本。あつかわれている概念は,暗黙知を軸として,ルーティン,徒弟制,学習,認知的分業,現場などであるが,これらについて,従来的な扱われ方が批判的に検討されている。たとえば,暗黙知に関しては次のような具合である。

暗黙知の議論は,すべての学的概念がそうであるように,多くの可能性と同時にいくつかの理論的欠落をも含んでいる。(p.14)

あるいは,レイヴのような認知的徒弟制に関しては,全人的な学習の理想像的に語られることがあるが,それに対しては次のような具合である。

もし徒弟制がそんなに結構なものなら,なぜ歴史的に現存する徒弟制はこれほど制限されているのだろうか。(p.74)

そして本書ではその理由が,歴史的に考察されており,興味深い。それは,次のようにまとめられるだろうか(これが適切な理解かどうか,実は自信がないのだが)。分業が拡大する中で,徒弟制は原型のままで残ってはいないが,特定技能に分断された形で,ミクロなレベルで,「即興の徒弟制」(p.89)として残っている。また伝統的徒弟制の「全人格的」な性格は,組織が巨大化して仕事上も組織上もさまざまな分業がなされるようになってくるにつれて,問題点にもなってくる。

 冒頭に述べたように,本書は迷宮への誘いの書なので,明確にこれがわかった的なものはなかなか挙げにくい。が,一応,最終章の議論の要点を抜きだすならば,次のようになるだろうか(道田による要約)。

現場での学習には困難が付きまとっている。現場,とくに失敗の許されない現場や時間的余裕のない現場では,学習そのものが成立しにくい。そのうえ,学習が進んで儀礼化すると,今度は変化に対する盲目化という問題も生じる。そうならないためには「反省」が必要であるが,暗黙知という事柄の性質上,反省は難しいし,それができて理論化されたとしても,それで活動が改善されるとは限らない。さらには,そのような反省が現場で評価されるかどうかも別問題である。さらには,このような暗黙知を研究するという営みも,さまざまな暗黙の了解に支えられた特殊技能であり,そのことに留意する必要がある。

 うーむなんだか,難しい難しいのオンパレードで,結局結論が何なのかはよくわからない。難しい面に目を向けることはもちろん重要なことだが,次になされるべきは,難しさの指摘だけではなく,現場での学習と反省がうまく行っている現場をフィールドワークすることではないだろうか。もちろんフィールドワークなどの研究の性質に留意しながらだけれども。そうすると,一見難しいように見えたものも,なかには,杞憂だったことが明らかになるかもしれない。理屈の上では,その可能性のある箇所を指摘できる部分もある。たとえば,「暗黙知という事柄の性質上,反省は難しい」という点は,どういう方向性で反省するかによるのではないかと思われる。まあそれにしても,答えも次の問いも現場にあるようには思えるのだが。

■オープンキャンパス/言ったのはって言ったのは/保育園準備する4歳児

2002/08/09(金)

 今日はオープンキャンパスだった。参加者は32名と,昨年から倍増している。理由は不明。昨年は前半が教官からの説明,後半が学生からの説明と分けていたが,ことしは,1項目ごとに学生に補足させた。これは割とうまくいったようだ。

 参加者の中には,若くない人もいた。聞いてみたところ,予備校の先生らしい。適切な進路指導をしてもらったほうがこちらとしてもありがたいので,いいことだと思う。来年からは,そういうところにも案内出せばいいのに。

 もうすぐ4歳2ヶ月になる上の娘,最近ますますおもしろい。

 ちょっと前から,「誰だー××って言ったのはー」と言うのが彼女のマイブームだった。どこで覚えてきたのかは知らない。というか本人に聞くと,自分で考えたというのだが。たとえばテレビ番組を見ているとき,出演者が「キュート」と言ったりすると,「誰だーキュートって言ったのはー」と突っ込むのだ。4歳児が。

 おもしろいので,私や妻がこれを真似していると,上の娘が最近,こういうようになった。「誰だーキュートって言ったのはって言ったのはー」。うーんおもしろい。というか,彼女のなかの何かが,また一歩大人に近づいたような気がする。何かが何なのかはわからないのだけれど(広く言うなら認知構造とかメタなんとかになるのかな)。

 整理好きの(妻の性質を受け継いだ)上の娘,ついに実用的な分野にまでその才能が発揮されるようになった。

 というのは,保育園の準備を自分でやるようになったのだ。自分の分のみならず,下の娘の分まで。洋服やらオムツやら,プールのある日は水着やタオルまで,完璧に準備をこなすらしい。

 らしい,と書いたのは,私自身が確かめようがないからだ。娘が保育園に通うようになって3年余りが経つが,袋詰めの苦手な私は,保育園の準備はすべて妻にまかせていた。自分が直接やっていないから思うのかもしれないが,けっこう複雑な作業だと思っていた。それがもうできるなんて。もう少ししたら,私の仕事の準備なんかもしてもらうことにするかな。

 話は違うが,昨日は一家で外食した。隣のテーブルにたくさん人が来たので,上の娘が数えていた。「いち,に,さん,し,ご,ろく,しち,はち。はちにんいるねー」。正解である。へーこんなこともできるのかあ,と感心していたら,妻が言った。「だって,保育園の準備で,いつも,オムツを6枚数えてカバンに入れてるのよ」。ふーん,風呂場の算数ならぬ保育園準備の算数か。子どもって,生活の中で,いろんなところでいろんなことを学んでいくんだなあと思った次第である。

■『大学は生まれ変われるか─国際化する大学評価のなかで─』(喜多村和之 2002 中公新書 ISBN: 4121016319 \680)

2002/08/07(水)
〜大学評価の時代〜

 大学の「質」とは何かという問題を,大学評価を軸として展開した本。質とは簡単にいうと「目的への適合性」(p.37)であり,そのことから,評価が重要になるということだろうか。諸外国の現状や研究者の知見,歴史的な流れの中での現在の位置づけなどが抱負に盛り込まれており,大学のこれからについて考える上で,重要な情報が多数盛り込まれている本だと思った。

 なるほどと思ったのは,次のくだり。

アメリカという社会では,評価するものは必ず相手からも評価されるという,チェック・アンド・バランスの関係が大学評価の場合にも貫かれている。(p.50)

まったくその通りだと思う。というか,すべての評価は,評価者自体に対する評価がなければ,一方的なな権威でしかなくなってしまうだろう。不勉強で「チェック・アンド・バランス」という言葉の存在を知らなかったのだが,評価に関していうならば,要は相互批判のことであり,抑制と均衡と訳されるらしい。たとえば現在,大学評価機構による外部評価が実施されているが,そこでなされる評価に対するチェック・アンド・バランスは行われるのだろうか? 大学評価機構の評価を評価するという直接的なことではなくても,本書で提唱(というか引用)されているように,「複数の機関が評価を競い合う」という状態でも,一種のチェックになりうるであろう。またそれだけでなく,大学で現在導入されている研究費の重点配分や,これから導入されるかもしれない教員の褒章システム(プロフェッサー・オブ・ザ・イヤーのような)の場合も,このチェック・アンド・バランスは必須であろう。

 へえ,と思ったのは,カリフォルニアの高等教育制度について説明した次のくだり。

一部の研究および大学院を重視する研究大学(リサーチ・ユニバーシティ)を重点的に強化し,他機関には研究大学への昇格を認めないカリフォルニア州マスタープランの三層構造(研究大学,教育大学,コミュニティ・カレッジの三類型の高等教育制度)(p.87)

カリフォルニアでは,大学を3つにわけ,相互移動を認めないという。佐藤学氏はたしか,現在の日本の大学改革の方向性を指して,「現在単線化されている大学を,種別化することによって複線化するのは,世界の趨勢に逆行した改革」というような感じの言い方で批判しているが,上の記述から見る限り,そうでもないようである。なおカリフォルニアの3類型は要するに,エリート教育,マス教育,ユニバーサル教育に対応している。それぞれ目的が違う以上,種別化し,それに対応した教員を配置し予算を配分するのは,それほど悪くない考えだと私は思うのだが。

 追記:確認したところ,佐藤学氏は『教育改革をデザインする』で,(六年一貫の中等学校の選択導入によって)「戦後,教育の民主主義を保証してきた単線型の学校体系は複線型へと改編されている。世界の学校改革が複線型から単線型への以降を遂げてきたのに対して,この改革は民主主義の歴史に逆行する改編である」(p.26)と述べられていた。中等学校の話なので,上の私の記述は間違いだが,「世界の学校改革」という表現のなかには,大学を含めて考えることも可能ではないかと思われる。

 ふーむ,と思ったのは次のくだり。

学生集団はますます消費者としての性格を強めてくる。リースマンによれば,消費者とは生産者の対立概念であって,その基本的性格は受動性にある。(中略)いやま学生は大学という名のバザーやアカデミック・スーパーマーケットから提供される出来合いの教育サービスを,受動的に受けとり,気に入れば買ってゆく消費者のようなものである。(中略)したがって大学の重要な課題は,消費者的性格を強めている学生集団をいかにして能動的な生産者に誘導・変革していくかということにある。学問水準の低下,学生の要求にこびる授業,成績インフレなどに対抗できない大学は衰退せざるを得なくなるだろう。(p.148-9)

そう,現在の学生は「消費者」なのである。そのことをきちんと意識しなければ,いくら形式的に「自己評価報告書」的なものを作成しても,適切な評価にも改革にもつながってはいかないだろう。そうしなければ,『変わるニッポンの大学』で苅谷氏が指摘したように,教育の論理や経済の論理ではなく,正当化を偽装するための評価という徒労に終わってしまう。教育の論理の本道である「評価を通した質の確保」を行ううえで,示唆に富む知見を提供してくれる本であった。

■1歳11ヵ月児のマライア泣き

2002/08/06(火)

 ふと思い立って娘たちを定点観測しようと思って1年がたった。当たり前のことだが,当時1歳前の正真正銘の乳児だった下の娘も,もうすぐ2歳。乳児期から片足を抜きつつある。

 1年前はすぐコケていて,「コイツにぶいかも」と思っていたのだが,今は全然そういうことはない。単に歩き始めが早かったから安定が悪かっただけなのか。ちょっと安心。

 ただ,「マライア・キャリーばりの超音波的高音を発して泣く」のは今も変わらない。というか,大きくなった分,パワーアップしている。

 たとえば今,妻は早朝ウォーキングしている。本人はこっそり出て行っているつもりのようだが,下の娘がすぐに気づいて「ママ,ママ」といいながら私のところに来る。ママがいないことに気づくと号泣である。号泣しながら「ガッコ,ガッコ」(抱っこ抱っこ)とか,「ニュウニュウ」(牛乳チョウダイ)という。しかし,抱っこしても牛乳をあげてもおさまらない。抱っこされながら,「ガッコ,ガッコ」と言って身をよじって泣くのである。私がもう15年も若ければ,放り投げていたかもしれない,なんて思ったりする。

 おそらく,抱っこや牛乳を指してこれらの言葉を使ってはいないのだろうと思う。何か満たされない欲求があるときに,こういう言葉にその気持ちを乗せて発散している,という感じである。マライア泣きをしながら。おかげでこのところ,私はとても寝不足である。

 そこでしばらく放置する。そのあとで抱っこしてあげると,ようやく観念したように,こちらに身をゆだね,牛乳を飲んで満足して寝入るのである。ようやくこのタイミングがわかってきたからいいものの,思えばここにたどり着くまで,1年近くかかっている。そして私の予想が正しければ,このマライア泣きは,まだ1年以上続くのではないかと思う。まあ,泣いているとき以外は,すごくかわいいことが多いんだけどね。

■『現場主義の知的生産法』(関満博 2002 ちくま新書 ISBN: 4480059407 \700)

2002/08/04(日)
〜対話を通して発見を〜

 長年「現場主義」で研究してきた経済学者である筆者の,現場調査の準備から結果のまとめ方,生産性の上げ方,フィールドの育て方や講演のしかたまで,ノウハウの詰め込まれた本。

 筆者は,「「現場」には常に最先端がある」(p.16),「新たな発見がある」(p.12)との認識のもと,海外で年5〜7回,国内で年数十回もの現場調査を行っている(p.36)。調査期間は,海外では1回1〜2週間。1回1〜2時間程度の聞き取りを,2週間で40社も行うという。方法は,「「対話」と「提案」が基本,わからないことはとことん聞く,相手の話したいと思っていることを引き出す」(p.88-9)などといったものである。

 テーマも,あらかじめ質問紙などをもちいてあたりをつけるのではない。現地を歩きながら見つける。アンケートに関しては,筆者はかなり否定的で,次のように述べている。

実際には,事前のアンケートでわかることなど知れているか,あるいは,既にわかり切っていることが少なくない。むしろ,ある程度の経験があるならば,数件の企業ヒアリングでほぼ問題の構図は見えてくる。見えないようでは専門家とはいえない。(p.124)

もしアンケートを用いるとするならば,ヒアリングが済んだ後で,その説得性を増すために必要最小限なものだけを聞くべきだという。まったく同感である。私も最近よく思うのだが,アンケート調査をして変数間の相関などを出し,なぜそういう関係が見られるのかを憶測で語っている調査研究はけっこうある。しかしそういうものは,本来,相手を直接見たり聞いたりすべきことで,勝手に推測するのは,相手に失礼ではないだろうか。問題はそれだけではない。そういうやり方では,研究者の想像の範囲のなかでしか結論が出せない(つまり本書の筆者のいう「発見」はない)。それに,その妥当性が何の形でも検討されないとすれば,それはもはや研究とは呼べないのではないか。基本である観察や対話を忘れるべきではないだろう。本書は,そのことを思い起こさせてくれる本である。

 本書の話に戻る。筆者の方法論は「対話と提案」と書いたが,このなかでも「提案」を筆者は重視しているようで,新しいゼミ生でも,何でもいいから必ず提案するように言うという。それは,提案を意識することで現場を見る目が変わるという点もあるが,現場を愛し,現場のために調査を行うことを基本にしているからであろう。それに加えて,そうしたやり取りが,「現場」との交流の支えとなっていく(p.26)という判断もあるようである。

 このように「提案」が入っているということは,筆者の方法論は,単なるフィールドワークというよりも,アクションリサーチといえるかもしれない。それぞれの現場とは,報告書や論文や本を書いたら終わりではなく,それがむしろはじまりで,関係は一生ものだと言っているし。経済学(地域産業論)という分野ではあるが,実に興味深い,インパクトの強い本であった。もちろんこれらの方法論は,心理学や教育の分野でも十分にヒントとなりうるものだと思われた。

■ディスカッションのある講義

2002/08/02(金)

 まだテストは終わっていないのだが,一応ここらで前期授業の振り返りを。

 昨年は予想外に悪かった教育心理学の授業,今期は,よかったか悪かったかは別にして,新たな試みができた。それは,知識の伝達よりも,学生が考え,意見をいうことに多少重点をおくことが出来たのだ。具体的にいうと,15分程度ではあるが,簡単なグループディスカッションを導入することが出来たのだ。

 受講生が昨年よりも10人程度少なかったせいもあるかもしれない。それに,初回の授業のテーマを「生きる力」としたのがよかったのかもしれない。

 これまでも,質問書を使ったりして,教員と学生の双方向を心がけてはいた。しかし双方向とはいっても,質問書は,(1)教員→学生(授業),(2)学生→教員(質問書),(3)教員→学生(質問書に対するフィードバック),という一往復半しかできない。そのあたりに限界を感じていたのだが,グループディスカッションと発表をすることで,学生同士のやりとりや,学生主体の情報発信が,今回は多少なりとも出来たのではないかと思う。

 具体的な流れは以下の通り。(1)質問書へのフィードバック(15分),(2)今日の授業範囲に関するミニレクチャー(15分),(3)予習書で出てきた疑問についてグループディスカッション(15分),(4)ディスカッション内容の発表(30分程度),(5)質問書への記入(10分)。もちろん時間は目安である。工夫した挙句,こういう形になったのは,最後の3回であった。最初から導入できれば,発表時間を短く出来るかもしれない。

 ちょっと不十分だったのは,これを行ったことの趣旨の説明。もちろん自分で能動的に考える時間をつくる,という点は第一にある。それ以外に,他人の考えに触れることで,自分の考えを見直したり相対化したり広げたりできる。そしてそういう利点に気づいた学生はけっこういた。そこから,今回はまあ悪くなかったかと自己評価しているわけである。しかしそれだけではない。ディスカッションのテーマは,学生が予習をするなかで出してきた疑問である。そういう疑問でも,15分でいいから,対話(他者との対話や自己内対話)をとおして考えて見ると,あんがい答は見つかるものである。そういうことを実感してもらいたかったのだ。

 自ら考える,ということを考えたとき,質問書だけでは不十分だと思った。質問を考えながら文章を読んだり授業を受けたりすることはもちろんいいことである。しかし,下手をするとそれでは,「教えてクン」で終わってしまう。そうではなく,疑問を出したあとが重要なのだ。来年はそのことを力説しなければ。


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