31日短評10冊 30日『増補新版 ひめゆり忠臣蔵』 28日『「からだ」と「ことば」のレッスン』 24日『家族』 20日『目からウロコの教育を考えるヒント』 16日『〈うそ〉を見抜く心理学』 | |
| 29日読書アンテナ 27日我が家の夏休み 22日エイサー道ジュネー 17日減量1年後の人間ドック |
今月よかったのは,『現場主義の知的生産法』,『暗黙知の解剖』,『〈うそ〉を見抜く心理学』『「からだ」と「ことば」のレッスン』といったところか。ほかのも悪くなかったし。なんだか豊作。
あと,ふと思い立って,スタイルシートをちょびっとだけ本格的に(形容矛盾?)導入してみた。まだまだ初心者なのだけれど。そのための本を1冊買ったが,ここには挙げていない。
なんとも刺激的な本である。内容は,「戦後沖縄の反戦平和の虚妄さを暴く!?」(p.6)とか「「反戦平和の聖地化」にショックを与える」(p.8)と筆者自身が紹介している旧版の前後に文章を付け足したり削ったり改定したりして出された,増補新版である。ひめゆりや反戦の話だけでなく,明治前後以降の沖縄についての歴史的記述も多く,沖縄の現代史を俯瞰できる面も持っている。ひめゆりに関しても,現在の話だけでなく,「国民伝説的なひめゆり像がどうやって発生し,聖なる成長を遂げたのか」についても明らかにされている。さらには,現在の沖縄関連諸政策や政治的な動きなど,沖縄のこれからについても考えるヒントが含まれており,興味深い。
本記録冒頭に「刺激的」と書いたのは,その視点が,通常あまり語られない角度からのものだからである。これまで沖縄関係の本は何冊か読んできた(索引の【沖縄】の項参照。その他に短評もあり)。しかし沖縄を見る視点は,そこで語られているようなもの以外にもあることに本書で気づかされた。あらかじめ書いておくと,筆者の視点は,『戦争を記憶する』にある「現在語り継がれている記憶が,過去の戦争の意味づけを決定する」というような考え方を土台としたものと言えよう。
しかしまあ,筆者の文体は,「(笑)」を多用するような週刊誌的なもので,そういう道具立てを使っていきおいで話をごまかしているのではないかと思えなくもない面もあり,それをどのように受け取るかは難しい問題だとは思うが,しかしそのせいで,こういう視点の存在を指摘した本書の意義が小さくなるわけではない。また,いきおいによるゴマカシ的な面は,いわゆる週刊誌などの記事に比べたらはるかに少ないように見えることも付け加えておく。
筆者の基本的視点と関係ありそうなところをまとめておく。戦後の沖縄の語られ方は,日本で唯一の地上戦が行われた地であるとか米軍基地の多さ,米軍支配の時代など,「戦争被害」の地として語られることが多い。その被害と犠牲の大きさと尊さから,逆に「被害者意識の特権化」が進んでしまう。それは「反戦平和思想の聖地化」となり,思想の祭典化,タテマエ化,儀式化,教条化につながる。そこで筆者はこう述べる。
そうなりゃもうお涙頂戴の紋切り型,無難なパターン悲劇ばっかり繰り返し上演される以外になくなる。だから見ろ,ひめゆり物ナンカ「いよ〜ッ,沖縄十八番!」と声をかける分には良いが,中身は誰に語らせても似たり寄ったりで退屈極まりない。一方,ホンネやアイロニーで語られる喜劇的会話は危険な冒険となり,<沖縄のこころ>を侮辱,冒涜するものとして排除される。まあ言葉に於ける<琉球処分>みたいなもので(笑),ろくなことがなかった。(中略)そんな風にして思想の聖地化が進むと,今度は日本本土から拝みにくる巡礼者の列も増える。(p.73)
もちろん,ひめゆり部隊をはじめとして沖縄の人は,れっきとした戦争被害者であるのは間違いないのだが,それだけではないのだ。ひめゆり部隊のもととなった第一高等女学校と女子師範学校は,沖縄における日本化,軍国化の忠臣かつ最前衛という位置づけであった。それはつまり,日本軍に,喜んで積極的に協力する立場にあったわけで,他の学校に比べて戦争被害者数が多いのも,必然の結果だと筆者は考えている。もちろん,だからしょうがない,というわけではないのだろうが,そのような面があったことも忘れてはいけない,「無難なパターン悲劇ばっかり」じゃないんだ,というところであろうか。筆者は,沖縄人にとっての沖縄戦の意味を,次のように述べている。
それは一面では確かに日本防衛(=天皇制護持)の捨て石にされた汚い戦争だったが,もう一面では沖縄人が近代を賭けて日本人になろうとして払い続けてきた献身と犠牲の山,その総決算の美しい戦だった。(p.272)
まあこれもわかりにくいといえばわかりにくいが,それは,戦争という特異事態に加えて,沖縄という日本における特殊な位置をしめる地域の話が重なったからと言えるかもしれない。被害者意識の特権化という部分は,日本における戦争の語り全般に通じる指摘であろう。空襲や原爆についての語りをはじめとして。いや,もちろん被害は被害だったのだが,しかしこのような語り「のみ」が主流として流布した結果,たとえば今の中学生に平和意識のアンケートを取ると,第二次世界大戦の最大の被害国を日本と答えたのが74%,朝鮮・韓国との回答が6%だったという(p.173)。そういうことであれば,被害者意識を強調しすぎることの弊害を筆者が言うのもよくわかる。
そしてこのような日本全般の話に加えて,沖縄戦の場合は,歴史的地理的文化的に特殊である沖縄の事情が入っているのであるのである(上の「日本人になろうとして」云々のくだり)。本書を読んで一番考えたのは,戦争ということに加えて,「沖縄とは何か」ということだったような気がする。もちろん,納得のいく答えは思いつかないのだけれど。
1ヶ月ほど前から,わたしもはてなアンテナを利用して,自分のアンテナを作ってみた。題して,主にがくもん系読書アンテナ。
読書系アンテナはけっこうあるが,小説を中心としたものが多い。一方私のは,ノンフィクションや学術よりの本も,一定以上の割合で取り上げているサイトを中心としている。それで,小説系のものと区別するために,主にがくもん系とつけた(ちょっと恥ずかしい気がしないでもないが)。
登録したのは,最初は新聞社系書評ページや信頼のおける個人書評サイトなど,以前から定期巡回していたサイトが中心である。それに加えて,最近見つけた書評サイトを順次加えている。私は読書記録を書くたびに,その本を取り上げているサイトを検索して見るのだが,そこに悪くなさそうなサイトがあれば,とりあえず登録しているのである。
一つ自慢なのは,私しか登録していない(しかも悪くない)サイトが結構多いこと。今や,そういうサイトを見つけるのがちょっとした楽しみになっている。といっても,読書記録ついでにちょっと検索してみているだけなのだけれど。
演出家である筆者による,レッスンのエッセンスを記した本。ことばのレッスンといっても,いわゆる発声練習をするのではない。「声によって人間存在のあり方に気づき,それを変えることによって声が出るようになっていく」(p.18)という方向性のレッスンなのである。これだけを見ると,ナンジャソリャ,という感じだが,実際,そういうレッスンとしか言いようがない気がする。
もう少し詳しくいうと,こういう感じである。
外界にばかり向かって右往左往している感覚を遮断して,自分のからだの内なる感覚に集中すること,つまりは自分が何を感じているのかを気づき,意識の内に浮かび上がらせ,とり入れていくこと,そして,それを出発点として,自分の存在の仕方の奇妙さ──具体的な出発点としてはたとえば姿勢──に気づいてゆくこと,を,最初の段階では目指すようになってきている(p.51)
姿勢に気づくとは,たとえば私たちが習慣的にとっている姿勢について,「なぜいつもそういう姿勢をとっているのかなあ」(p.46)と問いかけ,姿勢を真似し,そこからどんな感じがするか,どう見えるかに気づいていく,ということである。姿勢は,私たちが世界に触れる触れ方,存在のしかたを表しているからである。
レッスンはこんな感じで進んでいくのだが,それらを簡潔かつ的確に書くのは難しそうなのでここではしない。しかし上の記述は,具体的ではないがレッスンの基本的な部分はかなり含まれている,と言ってよさそうである。さらにその中に含まれているものをピックアップするなら,「気づく」「ほぐす」「感じる」「動く」「触れる」となるだろうか。逆にいうと,レッスンが必要なのは,技術がないとかできないからとかではない。気づいていないから,ほぐれていない(緊張している)から,感じていないから,動いていないから,触れていないから,レッスンが必要なのである。
本書の最後には,「私のレッスンは「問いかけ」であって,カリキュラムではない」(p.209)と書かれている。
私が,ほんとに私であるとはどういうことか,ほんとに他者に触れるとはどういうことか,人間として生きるということは,ほんとうにこれでいいのか。私のレッスンは,さまざまな様相の下でこの「問いかけ」を深めようとする。(p.20)
「問いかけとしてのレッスン」に対して,筆者は「カリキュラムとしてのレッスン」を対置させている。それは技能の訓練とも言えるであろう。私がこの本に興味をもつのは,技能訓練としてではないレッスンのあり方を考えるヒントになりそうだからである。たとえば「考える」ことについて。それは,気づき,ほぐし,感じ,動き,触れるというような形をとるのかもしれない。具体的なイメージはないのだけれども。
夏休みはいっぱい仕事するぞー,と思っていた。とは言っても,前半は試験やら採点,オープンキャンパス,模擬面接,人間ドック,学生との宿泊研修など,けっこう忙しく,なかなか仕事に専念することができなかった。
それがようやく落ち着いたのが先週で,お盆もあって来客も少なく,日によっては,1日丸々仕事に没頭できることが多くなった。おかげで最近は,幸せに仕事している。ときには週末も出勤したりして。
しかし少しは家族サービスもしなければ,と思い,先週末は,東南植物楽園に出かけた。今,夏休み特別企画をやっているのだ。
昼に出発し,まずは昼食を。昼食は,嘉手納にある「ロータリー・ドライブイン」というところにした。りんけんバンドのライブ前に流れていた映像で,りんけんさんが紹介していたのだ。
しかし結果的にはイマイチだった。妻はそこの名物,世界一デカいというジャンボチーズバーガーを頼んだ。たしかにでかくてびっくり。私は,同じものを頼むのもナニなので,Aランチ(\1300)を頼んだ。Bランチ,Cランチなんてのもあったが,一番ランクが高いものにしておけば失敗はないだろうと思ったのだ。
がしかし,失敗だった。ご飯,スープ,野菜のほかは,トンカツ,魚フライ,揚げた鶏肉,エビフライと,揚げ物ばっかりだったのだ。質より量のランチ。げっそりだった。
で東南植物楽園。午後に行ったので,はっきり言って暑かった。イベントに関しては,ヤギにえさをあげたのは面白かったし,氷の滑り台も,ちょっとだけ面白かったのだが,あとはそれほどでもなかった。むしろこういうイベントがあったため,植物をあまり楽しむことはできなかった。
まあそれでも,久々に家族で外出したし,一応はパパとして夏休みの義務を果たせたのでよかったのだけれど。
これまで,松本サリン事件の本を何冊か読んできた(『「疑惑」は晴れようとも』,『推定有罪−あいつは……クロ−』,『無責任なマスメディア』)。本書も,河野さん一家の話だというので,中身もよく知らずに,新聞の新刊紹介の欄で見つけて注文した本だ。まあ,この事件のことや報道被害のことを理解する助けになればいいかと思って。それにしても,中身の良く見えないタイトルだなあ,という印象だった。
河野さん一家のことが書いてあるのであれば,彼らがこの事件を,どのように体験したかがわかるかとは思った。下世話な興味すれすれだ。そして実際,本書の半分以上をそういう視点で読み,彼らが事件そのものをどう体験したかはわかったのだが,しかしそれだけではなかった。というか,そういう本ではなかったのかもしれない。本書後半で気づいたのだが,実にタイトル・サブタイトルどおりの本だったのである。
河野さん一家は,松本サリン事件で「深い傷」をいくつか受けた。一つは,事件や報道で,身体的精神的に受けた傷である。社会から受けた傷とでも表現できようか。それに対して彼ら,とくに3人の子どもたちは,「家族」を拠りどころにしてそれに対処した。それは,単に家族で助け合ったというだけではない。そこで支えとなったのは,必死で警察やマスコミに立ち向かう父親の姿であり,自分の価値観を信じて行動するという(事件後植物状態に陥った)母親から学んだ価値観である。これが本書のタイトル「家族」の一つの面であろう。
しかしそれだけではない。母親が植物状態になるということは,家族関係に変化をもたらさずにはいない。母親がいないために,父親と子どもの間に入るクッションがなかったり,特に女の子などは母親から学べることが学べなかったり,父親に母親的なことを求めて求められずに失望したり,父親との距離が広がっていったり。そのことを長男は,次のように語る。
親父のことがよくわかんなくなって,自分が無批判に受け入れていた自分の一部ともなっているようなものが,急に異質なものになったような感覚,ガラッと崩れた感覚はものすごくこたえました(p.145)
しかし子どもたちは,そういうなかで,自分たちなりに道を模索し,親のことを客観視したり相対視したりしながら,彼らなりに自立していくのである。こうまとめてしまってはまとめすぎだと思うが,まあ無理にまとめるならそういうことである。本書のサブタイトルの言い方でいうなら,それは「再生」であるし,(素人ながら)社会学的にいうならば,事件による家族のダイナミズムの変容と再構成(≒安定化),ということができるのではないかと思う。そして,これらの表現や,上の長男の言葉を見てもわかるように,それはけっして特殊なことではない。そのことを筆者も次のように述べている。
どんな家庭にも一度や二度ならず,危機は訪れる。家族の病気,嫁姑の諍い,夫婦のすれ違い,子どもの反抗期……,それが河野家にとっては,あの松本サリン事件だった。(p.239)
そう。これは河野家だけの特殊な話なのではなく,我が家も含めておそらくどこの家庭にも起きることである。その意味で本書は,聞きとり調査というフィールドワークに基づく,家族ナントカ学(社会学とか心理学とか?)のケーススタディということが可能かもしれない。そして本書の場合,子どもたちは,「この本の原稿を読んでから,それぞれの気持ちがわかり,気が楽になった」(p.242)のだそうだ。その意味では,下手な研究論文以上に意味のあるドキュメンタリーということが可能だろう。
今日は旧暦のお盆の中日。昼間も大学はガランとしている。来ている人間は,普段の半分ぐらいではないだろうか。生協もこの3日間はお休みだし。
我が家は,エイサー狂いの妻に引き連れられて,夜から沖縄市は園田(そんだ)にエイサーを見に出かけた。お盆は3日間,各地区の青年会が太鼓を鳴らして踊りながら練り歩くのだ(道ジュネーという。「道尋ね」かな?)。それについて回ったのだ。
弁当屋で弁当を買って車の中で食べ,車をコインパーキングにとめ,園田の公民館に着いたのが午後8時。エイサー隊は,公民館の広場で1回踊った後,さっそく道ジュネーだ。これに来るのは2年ぶり2度目である。
2年前は初日(ウンケー)に行ったところ,大通りを練り歩くコースだった。歩道が狭くてちょっと往生したっけ。今年は2日目に来たところ,路地裏コースだった。道は狭かったけれど,家の中の仏壇が見えたりして,けっこう面白かった。家も沖縄の昔風の瓦屋根の家がけっこう多く,へえ,こんなところが,と思いながら歩いていた。そういう点では,前回よりもずっと面白かった。そういえばフト見ると,民俗学の先生が熱心に写真を取ってたりして。
下の娘(1歳11ヵ月)は,はじめのころは眠いのかボーッとしていたが,そのうちに調子が出てき始め,そのうちに手で拍子を取るようになり,けっこう楽しんでいたようだ。妻と上の娘が楽しんでいたのはいうまでもない。今回は9時半ごろにはおいとましたのだが,帰る道すがら,妻と上の娘はエイサー風の歩き方で(腰に手をあててがに股で)歩いたりして。うちに帰ってからも「沖縄に来てよかったわー」だの「じーんとするわー」だの言っていた。
明日は最終日(ウークイ)。園田では,夜中の12時ごろから,4団体がぶつかり合うエイサーガーエーがある。妻はどうやら行く気らしい。4歳児と1歳児を連れて。まああさっては休みだからいいんだけど...
教育大学卒にして学校教員経験のない筆者による教育論。これが意外に面白かった。けっして難しいことを述べているのではない。われわれの日常的な感覚から遊離していないうえ,考えが深い感じがするのだ。それはどうも,筆者の基本的な考え方に負うところが大きいようである。ということが,あとがきを見てはじめて気がついた。
たとえば,「小学校で英語の授業をやる」という話題に対して,筆者の考える道筋は次のようになっている。
私がそれに関して考えていくのは,そもそも私たちはどんな英語教育を受けてきたのか,であり,その結果どうなっているのか,である。そして,その根底に,どうして英語を学ぶ必要があるのだろう,というような問いかけがある。それらがしっかりとわかった上で,具体策はそのつど考えていけばいい,というのが私の考え方なのである。(p.254-255)
つまり,第一に自分の体験を素直に想起し,捉えなおすところから始めているのである。それがわれわれの感覚から遊離していないと感じさせる一因であろう。それ以外にも,小学生の姪が,英語の授業が楽しかったと言っていた,という話なども入る。きわめて具体的であると同時に,どうして楽しかったのか,どうして自分の学生時代は楽しくなかったのか,などの分析も的確である。
その上で,その問題だけに焦点を絞って考えるのではなく,一歩下がって広く全体を見渡しながら,あるいはもともとの問いを相対化しながら,公用語とは何か,言葉とは,文化とは,といったところから考えていく。それが,深さを感じさせているのだろう。
このような調子で,教育にまつわるさまざまな問題が論じられていく。たとえば学力低下に関しては,ゆとりの教育の結果,「狙い通りに,ゆとりがでてきて,ちょっと学力が落ちたのだ」(p.13),だからそんなに悪いことではないのではないか,と論じられている。ここで筆者は,一般的に悪いと言われていることのいい点に目を配っているのである。一面的でないというか。
高校生にガングロなどの奇怪なファッションがはやっていることに対しては,(過去を思い起こしてみても)「流行というのはいつも,あきれかえった変なことを若者にさせる」(p.85)のであり,それは健全な成長だし,理屈で批判してもあまり意味がない,と論じられている。そのほかにも,近頃の子どもはひどい,なんていわれたりするが,「それは時代が狂ったからなんかではない。その親たちが,そういう世代に育てたのである」(p.161)という具合である。この後ろ2つの事例のようなものは,私も常日頃思っていることで,それをうまい筆運びで軽やかに論じられている。こういう問題は,論理の破綻なくしかも説得的に論じることは,案外難しいことで,しかもそこに軽やかさやわかりやすさが加わると,もう脱帽という感じである。
私自身も痛感していることなのだが,教育を論じるということは,つい大上段に振りかざしたりテクニックに走ったり諦めが入ったりして,なかなか難しいものである。筆者の発想の道筋や語り口は,そうならないために参考になりそうなものだと思った。
減量宣言をして1年。体重は9kg減の70.3kgになった。
1年ぶりの人間ドックの結果,血中の中性脂肪も尿酸も,一応正常範囲になっていた。1年前はsevereだった脂肪肝も,「軽い」ものに変わっていた。それでも脂肪肝は脂肪肝なので,これから1年で,体重をもう1〜2kgでも落とすことができればいいのだけれど。
そういえば,胃部X線検査のことを「宇宙飛行士体験講座」とかなんとか言っている人がいたような気がする。検査を受けながら,ついその言葉を思い出してしまって,じっとすべきところで笑いをこらえてヒクヒクしてしまった私。けっこうツラかった。
結局この1年でやったのは,継続的なウォーキングだ。平均すると,1日7300歩強歩いている。始める前は,おそらくこの半分以下だったはずだ。もう少し体重を落とそうと思ったら,歩数を増やす必要がありそうだ。歩数計をリセットして,これから1年は,最低7300歩で臨んでみますか。当面妻をライバルとして。
ちなみに,減量前は「無制限に本能のおもむくままに」食べていたお菓子。量は多少減ったものの,結局今も,割と本能のおもむくままに食べている。家にいる時は,コーヒー時のチョコは欠かせないし,夕食後,妻も子どももアイスクリームを必ず食べているので,私もつられて食べてしまう。本当はあまりよくないことなんだろうけれども,あんまり無理してガマンするのも精神衛生上よくないかと思って,あまり歯止めをかけることなく食べている。そういう考え方でいいのか,単なる言い訳になっているのかはわからないのだけれど。
そういえば宇宙飛行士体験講座の後の話。私が中学生のとき,技術科の先生がなぜか授業中に突然,「バリウムが肛門のところでふたをして,何時間もトイレでがんばったけどなかなか出ず,結局切れた」という話をされた。すごく印象的かつコワイ話で,バリウムを飲んだ後,必ず思いだしてしまう。そして,出るものが出るまでは,ああなったらどうしよう,と不安を抱えながらすごすのである。
今回もなかなか出なかったので,深刻な面持ちで妻に,「そういえば中学校のときに」と話を始めたら,「その話は去年も聞いたわよ」と即座に言われてしまった。がっくし。
はじめて読んだ,浜田氏の供述分析の本。供述分析とは簡単にいうと,供述調書を分析することを通して,そこにウソがないかどうかを明らかにすることである。とくに,取調べの圧力に屈して,虚偽の自白をしていないかどうかを検討しているようである。
筆者によると,供述分析の基本は次のようなものであるという。
とにかく調書が取られた時間の順に並べ,その順序で読み進める。これが供述分析の基本である。(p.211)
逆にいうと,これまで裁判では,こういうことはされていなかったのである。複数の調書があっても,最終的なものだけを対象とし,その内容が真実であることをもとに進められてきたのだ。それまでに何通の調書が取られ,その間で供述に食い違いがあったとしてもである。もし複数の調書が,被疑者一人の想起の過程だけを反映しているものであればそれでもいいのかもしれない。しかし実際には,取調べは被疑者一人ではなく,取調官との対話を通して行われるものである。そのことを筆者は次のように述べている。
場が自分と他者との対話関係を左右し,その対話のなかに自分の言葉が組み込まれる。事件にかかわる「供述の世界」もまたそうした対話的な世界の一つとして捉えなければ,その実相は見えてこない。(p.11)
ここでいう「場」とは,取調べの場合は,取調官が一方的な権力や拘束力を持つという,力関係の不均衡な場のことである。そこでは,取調官がある予断を持って取り調べたりしていると,それに合うように供述せざるをえないという圧力となって働くのである。
そのような状況では,次のような流れになって供述が二転三転する可能性がある。無実の被疑者が圧力に屈して,想像で組み立てながら虚偽の自白をする。それは想像であるがゆえに,現実から離れた語りをしてしまい(無知の暴露),現在から過去を想像するために,時間関係を無視した語りをしてしまう(時間性の錯誤)(p.152)。供述者がそのような錯誤に気づいたとき,それがより現実的な語りに修正される。それが転三転の源なのである。そして筆者は,現実の事件の供述調書を元に,そのような錯誤を指摘してみせている。百パーセントとはいえないかもしれないが,十分に説得的な議論である。
百パーセントといえないと言ったのは,真の犯人の語りでも,記憶にあいまいさがある以上,真犯人であったとしても二転三転する可能性はあるだろうし,取調べの経過によっては過去の事件を不自然なくらいの明晰さで想起することはありうるだろうと思うからである。紙面の都合もあるだろうが,できれば,そういう真の犯人の供述の場合の変遷と冤罪の場合の供述を対比するなどすると,より議論の説得性が増すように思った。
あと本書で面白いのは,導入として,芥川龍之介の『藪の中』を取り上げ,供述分析をしてみせている部分である。この話は,「ひとつの事件でも見る人によって三人三様でまったく違う事件であるかのように語られる」というタイプの話として紹介されたりするが,筆者の分析によると,この話はそういう話ではない。簡単にいうとこの話は,単なる見方や解釈の違いの話ではなく,とても「ひとつの同じ事件」としては読めない,いわば不可能物語なのである。そのことを筆者は,ペンローズの三角形という錯視図形(不可能図形)になぞらえて説明している。不可能図形が,部分的には可能な図形が全体としてはひとつの図形になりえないように,不可能物語は,一人一人の語りは成り立っても,全体としてはひとつの物語として成立しえないのである。
不可能図形は,「人間は平面図を三次元として見る」という性質を持つことが不可能性の前提となっている。それと同じように私たちは,ひとつの物語(供述など)を,自分の身体体験を元にして,現実の出来事として臨場感を持って見てしまう。たとえそこに矛盾や錯誤があったとしてもである。それが,人がウソの物語にだまされてしまう原理なのである。そのことが例を通して実にわかりやすく述べられている本であった。そしてこのように,人が絵を三次元として,物語を現実として見てしまうという視点は,事件の供述だけではなく,人の語りやそれを聞く人の理解を理解するうえでも重要な視点であると思った。