読書と日々の記録2002.09上

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■読書記録: 12日『からくり民主主義』 8日『マルチメディアと教育』 4日『学力低下論争』
■日々記録:  2日もう一回読みたい本

■『からくり民主主義』(高橋秀実 2002 草思社 ISBN: 4794211368 \1,800)

2002/09/12(木)
〜迷路のなかの社会問題〜

 なかなか興味深い本だった。ルポルタージュというのだろうか,統一教会,諫早湾干拓問題,米軍基地問題など,全部で10の現場に出かけ,われわれのイメージと地元(現場)の人の語りのズレぐあいを浮き彫りにした本である。

 たとえば諫早湾で言うと,すごい反対運動が起きているとか,ノリ養殖が大打撃を受けているとか,干拓は環境に悪影響を与えるというイメージがあると思う。しかし筆者によると,反対している人たちは「ごく一部の中のごく一部」(p.88)とか,ノリの不作と干拓事業の因果関係は特定できないとか,賛成派の人も反対派の人もどちらも,それぞれの理由で「環境保護」を訴えているとか。

 沖縄の米軍基地問題でいうと,基地前(金武町)で基地反対のシュプレヒコールをしている人の中には地元の人はいないとか,地元では中央のメディアが報道するほどには明確な賛成派と反対派の対立やしこりはないとか,沖縄人と日本人の対立意識はもともとはあまりなく,占領時の米軍が戦略的に強調し利用したとか。賛成派にとっても,多少反対してくれた方が軍用地の借地料が上がっていいのだとか。似たような話は,上九一色村のオウム反対運動でも,若狭湾の反原発運動でも地元民から語られている。

 筆者は,取材前は本を読んだり専門家に話を聞いたりして,テーマの輪郭がある程度わかるようになっているという。しかし現地におもむくと即座にわからなくなる。そのことについて筆者は,次のように述べている。

現地で私がわからなくなったのは,テーマが生み出すプレーンな「みんな」と一人ひとりが語る「みんな」がズレているからです。(p.270)

 ここに出てくる2つの「みんな」のうち,前のものはマスコミなどを通して目に見える形で固定された,イメージとしての「みんな」,後ろのものは現地で暮らし,さまざまなしがらみの中でさまざまな思いを抱きながら暮らしている個人としての「みんな」だろう。そういう意味では本書は,ちょっとしたメディア・リテラシーの本として読むことが可能だろう。

 そしてさらに言うならば,この本は,社会問題版の『七つの科学事件ファイル』とか『迷路のなかのテクノロジー』ということも可能だろう。これらの本では,科学や技術の教科書的な知識と,現場で起きていることがいかにズレているかが指摘されていた。現場の最前線におもむき,実験結果を詳細に検討して行けばいくほど,事実はあいまい混沌としているのである。それとまったく同じことが,社会問題でも起きていることが本書では指摘される。まあ当たり前といえば当たり前だが,しかし私たちはつい,そういう当たり前を忘れてしまい,わかりやすい「事実」や「結論」で物事をすっきりと理解しようとしてしまう。そのことを思い起こさせてくれる本であった。もちろん,本書に書かれた話が,唯一の固定されたものと見てはいけないのだろうけれども。

■『マルチメディアと教育─知識と情報,学びと教え─』(佐伯胖 1999 太郎二郎社 ISBN: 4811806492 \2,000)

2002/09/08(日)
〜バトルつき〜

 おもしろかった。が,実に奇妙な本である。というか,タイトルから想像される内容とは,まったくといっていいほど違う内容だった。簡単にいうと,全11章あるなかで,「マルチメディア」が出てこない章が半分以上あるのだ。そのことは,あとがきの次の記述でも見ることができる。

本書の前半(IとII)は,そのように「マルチメディアを使う」ということに目を奪われて,本来の「学び」が見失われてしまいがちになる傾向を批判し,本来の人間の学びの原点を見なおすことから,教育にマルチメディアを活用することの意義を問い直した。
 このように,道具や媒介に引きずられて,本来のことを見失うということは,かならずしも「マルチメディア教育」に限られた話ではない。私たちが授業で教材を活用するときにも十分注意しなければならないことである。本書の後半(III)では算数の学習で「タイル」を利用することをめぐって,この問題を掘り下げた。
(p.209)

 すなわち本書の後半では,マルチメディアではなく,授業について,そして教材について論じられているのである。あとがきで筆者は「タイルという一つのメディア」(学習の媒体)(p.210)と表現しているので,メディアとは無関係というわけではないのだろうが...

 本書全体に一貫してある考えは,正統的周辺参加としての,納得を伴う学び論であり,知識を権威から手続きとして学ぶのではなく,自分で知識(情報)をつくりだし,再編集し,吟味することによって,意味世界を広げつつ再構成していくという学び論である。

 それにしても後半部分は,実にスリリングだった。ある授業を引き合いに出しながら,日本の教育の「権威主義・手続き主義」批判を筆者が展開する。それに対して,3名の論者(大学や小学校の先生)が反論をし,著者が再び反論する,という展開になっているのである。おかげで,なんとなくわかったつもりになっていた著者の主張を,反論の目をとおして改めて深く理解することができた。

 3名のの論者の反論も,なんとなく読んでいると,「あれ,なかなかいい線ついてるな。こんなの出して,著者は大丈夫かな?」と思えるようなしっかりしたものだった(ようにみえた)。しかしそれに対して筆者は,きちんと反論を出しつつ,その問題点を指摘すると共に,筆者の主張を改めて論じていくのである。さすが,だてに20年以上前から「考えること」(の教育)について論じている筆者なだけあるな,と感心したしだいである。それと同時に,このような対話・議論形式で話が進められ深められていることの有効性を,改めて感じさせられた。

 最後に,権威主義的でない知識観について筆者が書いている部分を,抜書きしておこう。

このような知識観では,外部に物象化された「知識」というのは,どこまでも「資料」であって,特定の人にとっての「意味づけ」と「真実性の追求」の足跡のようなものである。それを他者から得たとしても,それはただちに,資料を得た当人があらためて意味づけなおし吟味しなければ意味がない。(p.97)

 なるほど筆者にとっては,「一般的に定評のある教材=メディア」であっても,「当人があらためて意味づけなおし吟味しなければ意味がない」と言っているわけか。そういう観点で見ると,後半の教材の話も良くわかる。そしてこれは,実に批判的思考の勧めになっているのである。教師にとっても生徒にとっても同様に。

■『学力低下論争』(市川伸一 2002 ちくま新書 ISBN: 4480059598 \740)

2002/09/04(水)
〜実は人間観のぶつかり合い〜

 1999年に火がついた学力低下論争に関して,「この論争の全体像を描いた上で,その社会的・教育的な意味と今後の教育改革の方向を考え」(p.7)た本。『論争・学力崩壊』が,論争の両論が併置されているような本であったのに対し,本書では両論を位置づけ,分析し,意味づけ,そこから教訓を得ようとしている点が異なる。そして興味深い。

 論争を分析する本書の基本的な構図は,「学力低下」に関して「憂慮−楽観」という軸と「教育改革路線」に関して「賛成−反対」という軸の2次元平面上に位置づけていることである。この平面上で各論者は,3箇所(3象限)に位置づけられる。つまり3極構造の論争と見ることができるのである。

 「学力低下憂慮・教育改革路線反対」に位置するのは「学力低下論者」。私が読んだ本で言うと,『教育改革の幻想』の苅谷剛彦氏はここである。その対極の「学力低下楽観・教育改革賛成」にあるのは,教育行政側あるいはそれに近い立場の人たち。『目からウロコの教育を考えるヒント』の清水義範氏は,比較的ここに近い。そしてもう一つが,「学力低下憂慮・教育改革路線賛成」の「折衷論」あるいは「もう一つの学力低下論者」である。これは,「学力低下は深刻な問題であるが,それを打開するためにこそ,教育改革路線は重要」(p.17)という立場である。『「学び」から逃走する子どもたち』の佐藤学氏はここ,筆者自身もここに分類されている。

 この論争は,なかなか全体像が掴みにくいものであるように思う。それは,規模が大きくさまざまな人が参加している上に,立場が多様であるだけでなく,論点も一つではないためだろう。それが,上記の図式および筆者の整理でだいぶ見えるようになってきた。しかし本書を読んだ後でも今ひとつすっきりとはしなかったため,もう少し自分なりに全体をまとめなおしてみた。以下にはそのことを記す(ので,以下の記述は,筆者の記述のまとめというよりも,私なりに力点を置き変えたもの,ということになる)。

 まず,論争の表題となっている「学力低下」に関しては,「学力低下の有無を明らかにできるデータはない」といえそうである。学力低下論者の「学力そのものの低下」を論じているデータには,いくつも問題があり,単純に低下とは言えないことは,本書でいくつも示されている。むしろ国際比較データなどを見る限り,日本の学力は非常に高い。

 しかしそれで論争が終わったわけではない。この論争は結局「学力が低下したか否か」を明らかにする論争ではないのである。学力低下論争から明らかになった実態認識として,筆者は次のようにまとめている。

実態についての最大公約数的な認識として,「教科学習に関する意欲はしだいに低下してきており,その結果として知識・技能の習得も何らかの低下を示している」と,ひとまずまとめておきたい。(p.175)

 ここでまとめられている通り,問題となっているのは「意欲」や「技能」であって,「学力そのもの」ではないのである。これに関しては低下の証拠があるし,将来学力そのものに影響する可能性があるので,もちろん重要な問題ではあるのだが。しかしこの点を問題にするのであれば,それは「学力低下論争」ではなく,「学力低下憂慮論争」と言うべきだろう。

 あと,この点は「学力低下憂慮−楽観」という軸で論じられているわけではない。意欲などは現在行われている教育改革と密接に関連してくるため,この教育改革路線に賛成か反対か,どういう点が問題でどうしたらいいか,という観点で論じられている。そしてそれが,学力低下論争の中心にあるのである。つまり「学力低下論争」とは,学力低下という看板を掲げつつも,その実は「教育改革是非論争」と考えるべきなのである。筆者の2次元平面図式で言うならば,最初は「学力低下を憂慮−楽観」という軸で論じられていたものが,「教育改革路線に賛成−反対」という軸に論点がシフトした,といえよう。

 この論点シフトの状況を見るのに,筆者の図式は非常に有用であり,一連の論争の流れを理解するのに役に立つと思われる。しかし,規模が大きく論点が多岐にわたる論争であるために,このような理解だけだと,見えにくくなる部分も出てくるのではないかと思われる。

 たとえば,学力低下憂慮論者には,純粋な学力低下論者と筆者らのような折衷論者がいるが,この2群は,同じ「学力低下憂慮」とはいっても,指している学力の中身が違う。純粋な学力低下論者がいう学力は,旧来的な知識学習的な学力であるのに対して,折衷論者のいう学力は,「もう一つの学力」すなわち表現力・思考力・学習意欲・学習スキル・自己評価力(p.18)といった新学力的な学力である。同じ学力低下憂慮と言っても,その内実は全く違うのである。この図式ではややもすると,この点が誤解されてしまうのではないかと思う。

 教育改革路線に関しても同じである。行政寄りの人も折衷論者も,どちらも教育改革路線賛成というところに位置しているが,やはりその内実は違う。前者は基本的にゆとり教育推進であるのに対して,後者は条件付き賛成と言うか,気を付けてうまくやらないと問題を大きくするよ,と考えているのである。そういう意味で,この2者も同じカテゴリーとは言っても内実は違っている。

 さらに,「学力低下楽観論者」も,一つの言葉で括られているが,いくつかの違うものが含まれている。学力低下はないという「学力低下否定論」,学力低下の根拠はないという「学力低下懐疑論」,学力低下があったとしても,それは旧来的な学力で,近年重視されている学力ではないからいいという,(狭い意味での)「学力低下楽観論」である。こういう点を区別しないと,わかったようでわからない図式になってしまうのではないかと思う。

 今回の論争の影の主軸となっている「教育改革路線の是非」について,筆者自身は,旧来的な学力(知識や技能)と新しい学力(自分のテーマの探究)がリンクすることが必要,と論じている。筆者としての結論はこのような折衷的なものだが,私が本書の情報からえた結論は,実はこれとは異なる。それは,教育における2つの視点に対する筆者の次のような指摘に基づいている。

教育には,つねに現れる2つの立場がある。外発的な動機を重視し,あらかじめ用意された体系を教師が教えるべきとする「教師主導派」と,内発的な動機を重視し,環境を整えれば自発的・自律的に学んで行く能力を備えているとする「児童中心派」である。これらの背後には基本的な人間観の違いがある。(p.184-185を道田なりに要約)

 現行の教育改革路線に対する意見の違いの元にあるのが,「教育観」や「人間観」の違いなのであるならば,是非の結論は出ないのではないだろうか。もちろん似たような改革が行われた過去の事例に学ぶことはできるだろうし,どちらの路線をとるにしても留意すべき点を挙げることはできるだろうが,どちらが絶対にすぐれている,とはいえなさそうである。

 以上,私が本書を通して理解した学力低下論争とは,「実は学力憂慮=教育改革是非論争であり,結論の出ないもの」というものである。

 なお筆者は,最後に次のように述べている。

勉強するのはよいことだが,ペーパーテストのクイズ型問題に答えるだけを目的とする知識のつめこみでは困る。かといって,「ゆとり」と称して何を身につけたかがわからないような放任的教育も困る。どちらの溝にも落ちないようなスローガンを出すとすれば,「みのりある教育」ということになる。(p.246-247)

 「ゆとり」も「知識」も,手段であって目的ではない,ということである。どちらの「観」にたって教育するにしても,それ自体を目的にすることなく,それを通していかに「みのり」を得るか,ということを考えるべきであることは,どちらの観に立つにしても,肝に銘じて置くべきであろう。

 #この件についての,筆者からのメールと補足がこちらにあります。

■もう一回読みたい本

2002/09/02(月)

 昨年に引き続き,この1年間に読んだ本で印象的だったものを12冊選んでみた。

 選考基準は,印象的でもう一度読んでみたいという2点であるが,今年は特に後者を重視した。というのは昨年,『心理学と教育実践の間で』再読したところ,はじめて読んだときの倍も面白かったのだ。逆に1読目があまりにわかりやすい本だと,2回目もまったく同じ印象だったり,かえってアラに目がいったりすることがわかった。それで,「読んだ時はちょっと難しくて全部はわからなかったけれどももう一回読んだら理解度が上がってもっと面白みがわかるかもしれない」と思った本を今回は重点的に選ぶことにした。

 それが吉と出るか凶とでるかはわからないのだけれど。


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