読書と日々の記録2002.10下

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■読書記録: 31日短評8冊 30日『個人主義と集団主義』 28日『リサイクル幻想』 24日『カリキュラムの批評』 20日『質的研究法による授業研究』 16日『ことばが劈かれるとき』
■日々記録:  26日近況報告

■10月の読書生活

2002/10/31(木)

 先月に引き続き,仕事が溜まっている感があり,日々の記録が激減したのに加え,読書の方も,ペースが落ちてしまった。とはいえ,これは悪いことではない。今年に入ってから8月までが,快調すぎたのだ。もちろん心身ともに充実しているときは,理解も十分なわけで,問題ない。しかし,これまでこのペースで来た,ということを必要以上に気にしてしまうと,ついペースをあげようと思い,読み方が粗雑になるのである。まだその域から抜けきれていない気がする。来月の課題は,じっくりきちんと読むことか。

 そうそう,日々の記録には書かなかったが,今月特筆すべきことが,もう一つあった。イボが取れたのである。ポロッと,というわけには行かなかったが,ちょっと浮いてきたので,風呂上りに引っ張ってみたら取れたのだ。ただし,まだ回りが残っているのだそうで,それをとるために通院はしないといけないらしい。まあ,病院の待ち時間は格好の読書時間なので,いいんだけど。

 今月良かった本は,『実践!アカデミック・ディベート』(授業で使えそう),『ことばが劈かれるとき』(いろいろ考えた),『リサイクル幻想』(単純におもしろかった),『個人主義と集団主義』(この発想は使えそうな気がした),というところだろうか。

『進化論という考えかた』(佐倉統 2002 講談社現代新書 ISBN: 4061495984 \660)

 「進化論を使って知的冒険を展開」(p.205)した本。わかりやすく,おもしろかった。ただ,話題が多岐にわたりすぎているためか,ひとつひとつの論点に関する記述が浅く,その点は残念であった。私としては,進化論から見た「意識」について詳しく知りたかったのだが。まあ推薦図書を読むしかないか。機会があれば。

『大学はどこへ行く』(石弘光 2002 講談社現代新書 ISBN: 4061495909 \660)

 一橋大学の学長をしている筆者が,あちこちに書いた大学論関係の文章を集めた本。内容はさまざまで,ごく一般的な大学改革論や,学生に向けて書かれたと思われる学長訓示っぽい話もあるが,独法化に関する章と,一橋,東工大,東京医科歯科大,東京外大の4大学連合の章は興味深かった。なんせ独法化に関しては,かつては大学としては反対していたはずなのにいつのまにかそうなることが前提で話が進んでいるし,いったいどうなってんの?と思っていたので,その間の流れが本書で分かった。4大学連合は,単なる大学間の単位互換ではなく,複合領域コース,編入学,複数学士号制度(p.122)などがあるのだそうだ。複数学士というのは,4年プラス1年で2学士号もらえる制度で,なかなか魅力的。複合領域の授業なんてのは,従来から一般教育科目にある総合科目と同じでは?とは思ったが,考えてみれば,ここに挙がっているものはどれも,総合大学で実施可能なものばかりだ。しかし総合大学でなかなかそういうアイディアが出ず,複数集まった単科大学で出るというのは,大学組織の硬直性を物語っているのかもしれない。

『松本サリン事件─弁護記録が明かす7年目の真相─』(永田恒治 2001 明石書店 ISBN: 4750314374 \1,500)

 松本サリン事件被害者の河野氏の弁護士をしていた人の本。「本書の内容の大半は事件当時,実際に弁護活動に使われた河野義行氏らの供述のテープなど生の記録であり,すでに公表されたものも多い」(p.7)という内容なので,本書のサブタイトルはちょっと誇大広告気味である。これまで松本サリン事件に関しては,本人家族マスコミ関係者のものを読んだことになる。ただ本書の著者である弁護士には,マスコミ関係者である『推定有罪−あいつは……クロ−』の著者の評判は,ひどく低かった。まあそういう情報が7年目の真実といえなくもないか。

『宮澤賢治殺人事件』(吉田司 1997/2002 文春文庫 ISBN: 4167341034 \629)

 遊民性,被差別性,宗教性という3つの観点から,「聖者としての賢治」像を解体し,等身大の「デクノボーとしての賢治」(p.13)を再生させようとした本。非常に興味深い内容だが,『増補新版 ひめゆり忠臣蔵』と同じ文体で,どこまで信じていいのかわからない感がただよっている。非常にきちんと考証されているように思える箇所もあるし,大胆ながらも的確に論じているように見える箇所もある一方で,「〜ということがなかったかどーか」(p.80),みたいな表現であいまいかつ強引に論じている点も,相変わらずある。こういう文章,信じていいんだかどーか。

『医療事故を考える─その処理と処方せん─』(森功・和田努 2002 同友館 ISBN: 4496033178 \1,800)

 医者と医療ジャーナリストで書いた本。『医療事故自衛BOOK』『医療事故』などの類書を超える情報は私にはあまりなかった。最後の対談はちょっと面白いところもあったけど。病気の診断に際して,複数の可能性を考えてそれを一つ一つ確かめるのが「鑑別診断」,それをしないのが「決めつけ診断」と筆者は呼んでいるらしい。そういう言葉を使うと言うことは,そう言う診断が十分にあると言うことだろう。おおコワ。

『アサーティブ─自分も相手も尊重するハッピーコミュニケーション─』(岩舩展子・渋谷武子 1999 PHPエディターズ・グループ ISBN: 4569608094 \1,350)

 筆者らは,平木典子氏のもとで学んだ「第二世代」だそうだ。そのせいか,書かれていることは,平木氏の著作(『アサーション・トレーニング』とか『自己カウンセリングとアサーションのすすめ』)を超えるような情報はあまりなかった。というか,それらをさらに,一般向けにしたと言うか,ちょっと人生相談に近いというか。ただ,「批判」に関して2節割かれており,「自分に対する批判を投げかけられても動揺せずに対応するためには,自分を信頼し,自身をもつことが大切」(p.209)という指摘にはちょっと頷いた。そのせいで適切な批判を逃してしまうこともあるのだ。この点は,アサーティブの世界でももっと論じられていいのではないかと思う。

『対話の技─資質により添う心理援助─』(井上信子・神田橋條治 2001 新曜社 ISBN: 4788507579 \2,800)

 再読。対話精神療法を説明している1章は,師匠(神田橋氏)のイタコをしているように見えた。あと,本書は井上氏の事例報告や小文のあとに,師匠の短いコメントがつくという構成になっている。前回は素直に最初から順番に読んだが,今回は,先に師匠のコメントを読んでから井上氏の本文を読んでみたら,ちょっと面白かった。それにしても本書は,十分には理解できないながらも興味深い本であると思った。

『考える力をつけるための「読む」技術─情報の解読と解釈─』(妹尾堅一郎 2002 ダイヤモンド社 ISBN: 4478490309 \2,000)

 がんばって最後まで読んだが,私にはあまり得るところのない本だった。大学院での授業がベースになっているということであり,おそらく明確に意識している読者層があり,その人たちにとっては有益なのかもしれないが,対象範囲が狭い感じがする。表題は興味をそそるようなものなのだが,「考える力をつける」というよりは,「考える力がない人に,こういう読み方をすべきですよと伝授する」部分が大半で,筆者の考え方の「型」を学ぶ感が強い。

■『個人主義と集団主義─2つのレンズを通して読み解く文化─』(ハリー・C.トリアンディス 1995/2002 北大路書房 ISBN: 4762822418 \3,600)

2002/10/30(水)
〜水平・垂直で4分類〜

 個人主義と集団主義に関して,包括的に論じられた本。個人主義とか集団主義というと,言い古されたことのように思っていたが,さまざまな事柄を理解し説明するための強力な概念であることを再認識した。

 本書の大半は,個人主義者と集団主義者の特質が列挙されており,ある意味退屈でもある。いや,もちろんそういう記述の中にも,興味深いものはあるのだが。集団間葛藤に関する「個人主義者は,歴史や文脈を無視して葛藤を分解してとらえたがる。(中略)集団主義者は,全体像に焦点を当てる。」(p.135)という記述は,個体能力主義と関係論の対比を思わせるし,教室における行動に関する「垂直的集団主義者はめったに質問しないが,個人主義者はしばしばそれを行う」(p.163)という記述は,教育に関するヒントがあるように思う(垂直的集団主義に関しては次の次の段落で)。質問をするかしないかということは,単にやる気とか資質の問題(だけ)ではなく,生き方とか,教室内の人間関係をどう捉えるかという基本的な前提の違いかもしれないのだ。

 筆者はこれらを固定的なものではなく,状況特定的と考えているし,一つの文化の中でも両方のタイプの人がいると考えている(含まれる割合は文化によって違う)。また,ともすれば理解しにくい,自分とは違う主義の人をいかに理解し,つきあうかということも論じられている。

 本書では,集団主義と個人主義を,単なる2分法としてだけ捉えているのではない。そこに「水平−垂直」という次元を入れることによって,4分類で理解している部分もある。垂直的個人主義とは達成志向的ということであり,競争的ということである。水平的個人主義とは,平等性を強調するということであり,独自性を重視する。垂直的集団主義とは,上下関係を重視するということであり,礼儀を重視するということである。水平的集団主義とは,相互依存性を重視することであり,協力的であることを重視する。

 政治でいうなら,垂直的個人主義は市場主義的自由主義,水平的個人主義は社会民主主義,垂直的集団主義は共産主義,水平的集団主義はキブツ的政治組織にあたる。なるほど,教育改革問題でいうと,現在推し進められている方向性は垂直的個人主義を重視する方向性,それに反対している佐藤学氏などが提唱しているのは,水平的個人主義,ということになる。このような位置づけが可能になるという点でも,この概念装置の有効性がわかるのではないだろうか。

 他にも興味深い記述はたくさんある(退屈な記述もたくさんあったが)。それらを全部は紹介できないが,個人差を能力差としてではなく捉える一つの視点として,個人主義と集団主義という視点は非常に重要かつ有効であるように思った。

■『リサイクル幻想』(武田邦彦 2000 文春新書 ISBN: 4166601318 \660)

2002/10/28(月)
〜科学的に矛盾を指摘し解決を提案〜

 リサイクルの重要性が叫ばれ,リサイクルのための制度や法律が整備されつつある世の中になっているが,「リサイクルをするとかえって環境を汚すという矛盾が生じるし,循環型社会を作るとタイヘンな苦労が待っている」(p.40)ことを,科学的(工学的,化学的)に論じた本。工学博士が書いた本で,内容の妥当性は私には判断できないが,書かれている内容で判断する限りにおいては,妥当なことを言っているように見えたし,わかりやすく面白かった。その点を中心に書いておこう。

 本書の面白さの第一は,なんとなく妥当に聞こえるリサイクル論に潜む矛盾を指摘している点である。たとえば,材料工学という観点から見ると,使った材料は劣化することは基本原理である。劣化したものは使えないし,再利用しようと思えば劣化する前に捨てなければいけない(リサイクルの劣化矛盾)。このほかにも,リサイクル量を増やそうとするとリサイクル先がなくなってしまうという「リサイクルの需要矛盾」,製品原料は輸入しているのに廃棄物は輸出できない「リサイクルの貿易矛盾」,リサイクルすればするほど資源を使う「リサイクルの増幅矛盾」などがある。

 本書の面白さの第二は,リサイクルによって環境が汚されることが,「科学的」に説明されていることである。たとえば,廃棄物から使える物を取り出すことは,天然の鉱石から資源を取り出すことと同じ過程であり,それは「分離工学」を用いて,そのコストパフォーマンス(の低さ)が説得的に説明される。それはリサイクルの化学的説明であるのと同時に,分離工学などの科学の簡単な入門にもなっている(と思う。多分。素人なのは判断できないけど)。

 あるいは,それぞれの材料がどのような性質を持っているためにどのようにリサイクルしにくいかが,化学的に説明される。もちろん簡単な説明ではあるのだが,リサイクルということを念頭に置いて記述されているせいであろうか,苦手だと思った化学が非常におもしろく思えた。そのなかには,「「何で生物はプラスチックと同じ高分子でできていて,金属の生物はいないの?」という質問に答えられないと,リサイクルを本当に理解することはできません。」(p.74)という筆者の,興味深く挑発的な文章も挟まれていたりして,化学的説明を理解しようという気持ちを高めてくれる。こういう点もうまいなあと思う。そしてそういう説明を通して,「「使い終わった材料をもったいないのでもう一度使う」ということがそれほど単純ではないこと」(p.89)が,説得的に示されるのである。

 本書の面白さの第三は,観点が俯瞰的である点である。筆者は現状のリサイクル論の問題を,次のように述べている。

循環型社会の問題の系統的な整理が難しいのは,さまざまな主張に一見納得できそうな「部分的正当性」があるからなのですが,採取的にはそれらの主張は,環境をいよいよ汚すことになる結論を出してしまうのです。(p.109)

 それはたとえば,リサイクルをリサイクルだけで見るとただしいかもしれない。しかし,「一つの対象,つまり「系」の能率を高めようとすると,「系」と「系」の外側を含む全体は損失を受け」(p.180)るのである。リサイクルのためには「動力」が必要というのもそうである。それは先にも述べたように,鉱石から資源を取り出すのと同じ「生産活動」なのである。

 本書の面白さの第四は,このような問題点の指摘だけではなく,工学的,化学的観点に基づいた解決策も提案されていることである。それは,廃棄物は埋め立てたり分別したりせずに「全量焼却」して可燃物からは熱を取り出し,残ったもの(金属やガラス)を元に「人工鉱山」を作る,というものである。これならそれほど不可能ではなさそうだし,無理も多くなさそうである。実際に実現するためには,さまざまな問題を解決する必要はあるのだろうが(たとえば筆者が指摘しているのは,毒物流出に対するコンセンサスを得る必要性がある)。

 このように本書は,久々に読んだ「わかりやすく,面白く,ためになる」と思える本であった。

■近況報告

2002/10/26(土)

 あんまり日々の記録をさぼっていたら,師匠からお叱りの言葉を受けたので,ちょっとこの一月を振り返って見た。

10/6 1泊のプチ旅行に。またまた温水プールで楽しむ。前回は,上の娘は「コワイコワイ」,下の娘は大喜びだったのだが,今回は逆になり,下の娘(2歳1ヵ月)はずっとついていてあげないと大泣きだった。上の娘(4歳3ヵ月)は,浮き輪付きながら,一人でバシャバシャ楽しそうに泳いでいた。二人が大喜びで親を放っておいてくれるようになるのはいつなんだろう。

10/7 DVDレコーダを買ってしまった。前々からほしいとは思っていたのだが,なかなか踏み切れなかった。インターネットで情報を集めていると,長所も短所もあるようだし。決め手になったのは,集中講義に来られたある先生。といっても私は,授業を受けたわけでもお会いしたわけでもない。学生からその先生の講義プリントを見せてもらったところ,豊富なビデオ資料がちりばめられていたのだ。ほとんどがテレビ番組を録画したもの。テレビ番組で,これだけ有用な資料が手に入ることがわかり,「やっぱり録画するならアレしかない」と思ったわけだ。授業のときなど,DVDに焼いていると頭出しなんかも簡単だし。とはいっても,今のところはもっぱら,娘が生まれてから撮ったHi8をDVD-RAMに落としているのだけれど。

10/12 午前中は,娘たちの保育園の運動会。保育園ぐらいだと,1年の違いがものすごく大きい。下の娘は,昨年も今年も同じく障害物競技(みたいなもの)。1年前は泣いて競技にならなかったのだが,今回はスイスイとこなしていた。上の娘はイス体操なるものを披露してくれた。入場もきちんとしたもので,1学年下の子たちが烏合の衆でウジャウジャと入場して来たのと比べると,大違い。おもしろいねえ。

10/12〜 午後から学会で熊本に。夕方着き,荷物を置いて,すぐに社交に出かける。先月の学会ではまったく社交しなかったのだが,今回は毎日社交していた。もちろんお勉強もちゃんとしたけど。

10/18?- 風呂の調子がおかしくなる。シャワーの温度が上がらないのだ。ガス屋さんに来てもらい,悪い箇所が判明したものの,官舎なので,修理をするのに,書類のやり取りがあるらしく,その間,1週間ほど,ぬるーいシャワーでガマンした。でようやく修理されたのが昨日。シャワー周りに新品に取り替えられた。おかげで,そこだけみると,新しい家に引っ越したような気分で,昨日は久々に気持ちよくシャワーを浴びた。

10/20- 妻が頚椎ヘルニア(疑い)になる。首が痛いと,家事が辛いらしい。しかし上の娘がフォローしてくれる。洗濯など,干して,取り入れて,きれいにたたんでくれるらしい。寝る前には湿布も貼ってくれるというし。すばらしい。ちなみに一番最初は私が湿布を貼ったのだが,私が貼ると曲がるといって,妻が嫌がったのだ。

10/20- 下の娘が水痘になった。おかげで妻は1週間,仕事を休む羽目に。おまけに抵抗力が弱っているらしく,前から風邪気味だったのが悪化して,9度以上の熱が続いたりして。もうそれは落ち着いているのだけれど。水を持った赤い発疹が全身にできている。風呂上りに薬を塗るのだが,肌につくのが気持ち悪いらしく,毎晩大泣きしている。もうそろそろ落ち着くのではないかと思うのだが。

最近の上の娘 塗り絵とか折り紙とかひらがな練習帳でよく遊ぶ。小さなちゃぶ台みたいなのを自分で出して,そこで正座して書いている。何十分も。かわいいというかおかしいというか。勉強っぽいことをするのが好きなんだなあと思う。

最近の下の娘 第一反抗期まっさかり。口癖は「ヤガヤガ」(やだやだ)。朝,お着替えをさせようとしてもパジャマを脱がないし,オムツも換えない。「オキガエナイ」(お着替えしない)とか言って。飲み薬も,そのまま飲ませようとすると「ヤガヤガ,ホークデ」(フォークで=スプーンでの間違い)と言う。夜寝るときも,パジャマのボタンを自分でつけないと気が済まない(そしてつけ終わると,「クマさんの踊り」を踊りだす)。発達に必要なステップとはいえ,親は大変だ。

■『カリキュラムの批評─公共性の再構築へ─』(佐藤学 1996 世織書房 ISBN: 4906388493 \4,800)

2002/10/24(木)

 500ページ近くある分厚い本。筆者がこれまでに書いた,「公共性の再構築を主題として執筆した論文」(p.478)が集められている。そういうタイプの本なので,同じような話も何度か出てくるが,しかしまったく同じような話にはなっていないのは,筆者の豊富な知識と深い考察が伺われる。難しかったところもあったが,公共性に関する筆者の考えが少しはわかったように思う。以下は,まとまってはいないが,私が読んで何かを感じた断片の一部である。

(教室における典型的な会話パターンである,教師の主導(I)−応答(R)−教師の評価(E)という構造において)教室の会話の特殊性と教師の権力性は,最後の<E>においてもっともよく表現されている。(中略)言い換えれば,教室の会話では,最後の<E>が介在することによって,対等な人間関係の対話の性格が剥奪されている。(p.186)

 この話はすでに別のところ(たぶん『教育方法学』あたり)で読んでいて知っていたはずなのだが,最後のところにハッとした。「対等な人間関係の対話」とは,日常の会話ではもちろん普通のことだが,複数者間の議論ということを考えたときには,必要でありたいへん重要なことである。それを教室で実現することはなかなか難しいと感じていたのだが,そのヒントはこんなところにあったのか,という気分である。実践に生かすのはまだ先になりそうだが。

ショッピング・モール・ハイスクールの根底にある原理は,選択の原理,多様性の原理,中立性の原理。(p.251あたりを道田なりに要約)

 進化とか行動変容ということを考えたときに,多様性に基づく選択,という原理は欠かせない。それはある意味で批判的思考の過程にもなるわけだが,しかしそれは,学校をショッピングモールにしてしまい,生徒の居場所をなくしてしまう危険性があることが指摘されている。これも,進歩や改善ということを考えたときに,必要な視点だと思った。

(音楽の時間に,喜びを全身で表現して歌っていた子どもを先生が制した,ということを指して)それは,「完成された音楽」から出発した教師の「音楽」と,「生成的な音楽」として経験される子どもの「音楽」との間の壁であったというべきだろう。(p.415)

 この話は,フレイレの銀行型教育と課題提起型教育の対比(『被抑圧者の教育学』)にも対応しているように思う。私はこの2つの区別は,どちらかというと知的な教科に特有に現れるものと理解していた。しかし上の事例は,そうではないことを教えてくれる。この2つは,前者は伝統の継承ということであり,銀行の比喩は悪くないと思うが,後者は課題提起というよりは,新しいものの創造や生成といったほうがよさそうであり,そう表現した方が,音楽などの芸術活動一般まで含めて考えることができそうである。

 以上,ごく断片的なコメントであるが,このほかにもいろいろと得るところや考えるところのある本であると思った。

■『質的研究法による授業研究─教育学/教育工学/心理学からのアプローチ─』(平山満義編 1997 北大路書房 ISBN: 4762820865 \3,200)

2002/10/20(日)
〜制約なしのなんでもアリ〜

 ずっと前に買って,ちょっと読んでほったらかしておいた本。たぶん読みにくかったんだと思う。総論なしにいきなり各論に入るような感じで。それでも,この領域の真っ只中にいる人ならいいだろうけど,当時の私には,ちょっとハードルが高かった。今回もそういう読みにくさは感じたけれども,ここ数年間でそれなりに勉強もしたし,この手の本を読む意欲も上がってるので,今回は最後まで読めた。

 本書は,教育学,教育工学,心理学の3分野の研究者が,量的研究と質的研究の違い,質的研究の独自性,その分野におけるユニークな質的研究について論じた本である(p.v)。それだけに,重なっている部分もあったが,興味深い部分もあった。

 一つ,やっぱりそういうこともあるのかーと思ったのは,次のくだり。

(児童の学習の失敗について,ある研究者は)当初からその原因は教師にあるという見方に立っていたが,得られたデータは,生徒自身にその原因があるという仮説を支持するものばかりであった。これは,研究者が予想している仮説が,しばしば現地の人(この場合,教師)によって隠され,ぼかされることがあるという例証である。(p.64))

 その後,否定例,矛盾例が見出されたという。ちょっと分かりにくい文章だが,教師にインタビューしたけれど教師に都合のいいことしか言わなかった,ということのようである。これは3年にわたる研究だったようだ。エスノグラフィーは生態学的妥当性が高いとか,当事者のホンネに迫れるとよく言うが,その妥当性は何によって担保されているのだろうという疑問があった。文献に現れるのは,研究期間の長さとかインフォーマントとの関係の良好さとか説明の適合度などだが,よさそうに見えても実は違っていた,ということもあるのではないかと思っていた。そして上の話は,それが十分にありうることであると言っているようである。そういう例がある以上,今後はもっと意図的に問題意識を持って,研究の妥当性について考えて行く必要がありそうである。

 次は,教育工学研究者による,痛烈な(従来の)教育工学批判。

実際,教育工学が研究成果として残してきた膨大なノウハウとシステムのほとんどは,開発のために開発されたもの,あるいは研究のために研究されたものであって,残念ながら,多くはその後一度も実用されたことはないのである。(p.127)

 そう断言する根拠も知りたい気はするが,それにしても辛口である。これ以外にも,教育工学には理論を算出する態度が欠如している(p.129)とか,実証は厳密だけれども結果の解釈や説明は単純で常識的(p.130)などと述べられている。そこでこれからの教育工学に求められるものとして,文化的・社会的文脈を考慮したり,問題を発見する研究であり(p.131),そこに質的アプローチの必要性が生まれるようである。教育工学で質的アプローチというのも意外な気がしたが,本書で取り上げられていたのは,観察データを表計算ソフト上でソートして問題を発見する,というもので,確かに「質的」かつ「教育工学的」という気がした(適切な感想かどうかは分からないが)。

 本書を読んで考えたこと。質的研究とは,量的測度にこだわらず制約なしに何でもアリで臨むこと,といえるかもしれない。ちょっと無理やりなまとめかもしれないが。それは方法論的に広がるし,それだけではなく,使えそうなものは何でも使って自由に研究する,という態度にもつながるわけで,案外重要な捉え方かもしれない(そういえば『カタログ現場心理学』にはそういう意見が書かれていた)。ただし,量的研究のように,従来のやり方に乗っかっていれば,自動的に信頼性だの妥当性だのが保証される(とみなされる)わけではないので,そういうものがいかに保証されるかは,その場その場で,自分なりに考え,説得力のある議論(や方法論)を展開しなければならない,ということなのだろう。

■『ことばが(ひら)かれるとき』(竹内敏晴 1975/1988 ちくま文庫 ISBN: 4480021787 \640)

2002/10/16(水)
〜自然さ・必然性・無意識〜

 『「からだ」と「ことば」のレッスン』の著者が,自伝を語ることを通して,彼の「からだ」や「ことば」に対する考えが作られていった過程を述べた本。その発想は,従来的,西洋的,自然科学的なものとはまったく異なっているので,その考えをきちんと理解しようと思ったら,最終的には彼のレッスンを受けるしかないのではないかと思った。しかしおぼろげに理解できた範囲でも,非常に興味深い,示唆的な考えがたくさんあるように感じた。また本書によって,『「からだ」と「ことば」のレッスン』に出てくるレッスンの考え方の根底も多少分かったような気がした。全体をまとめて論じることは,内容的にも時間的にも難しいので,いくつかの断片をピックアップしてみる。

(従来的な発声発音の訓練について)これらは,私から見るとすべて,よくこえが出,よく話せ,よく歌える人が,多少それを美しくかっこよくみせるための技術にすぎなかった。声楽のレッスンによって,こえの出ない人がうまくこえを出せるようになった,という例など聞いたことがない。(中略)まだヨチヨチ歩きの赤ん坊に百メートル競争のスタートのしかたを教えているようなものである。(p.80)

 まずはレッスンということについて。筆者は「脱力」から始まる彼なりのレッスンを行っている。それが上記のように,従来的なレッスンの否定から来ていることが本書で分かった。おそらくその底には,人は本来自然に声をよく出す力を持っているが,それが何かによってさえぎられている,だからからだを劈きことばを劈くために自然なからだのあり方を取り戻す方向でのレッスンこそが必要という考えがあるのであろう。また別の箇所では,やはり従来的な発声訓練について,なんの切実さもない訓練だと,<からだ>の中に動いてくるものが何もないわけで,こえは出てこないのが当然,というようなことが書かれている(p.16。ただし筆者の言葉を他者が理解して書いているもの)。自然さと必然性,筆者のレッスンの考えの要点はこのあたりにあるようである。

意識によって無意識を操作することはできない,だから無意識が働き始めるような(からだの)状態を準備することしか演技者にできることはない。(p.117)

 最近私はよく,意識と無意識について考えるのだが,そのヒントになりそうなことが書かれていた。演技とは通常,「劇の登場人物(役)の性格を細かく分析し,状況による反応を計算して,肉体(表情もふくめて)を動かし,ことばを発してみせるという方法」(p.103)と考えられている。すべてを意識的・計算的にコントロールするというやり方である。しかしそれは筆者によると,「アタマの中に描いたお手本に無限に近づく努力にすぎない」(p.103)。それを筆者は「干からびた押し花」(p.103)と形容している。確かにその通りだと思った。そしてそれに対する筆者のやり方が上記のものである。ただしこれは,「無意識になる」のとは違うのだという。このへんが分かりにくいが,重要な示唆を含んでいるように思えた。

人間のからだの中では,(中略)背筋力を緊張させて上へ伸びる力と背筋をゆるめて下へ崩れ落ちたいという力が<からだ>の中で戦いあっている。そういうからだが「人間」なのだといえるだろう。人間の<からだ>はけっして合理的だといえないのである。
 だとすれば,人間の姿勢はこの二つのヴェクトルの交錯,混合,変容の表現であって,固定した「いい」姿勢などというものはありえないということになる。ただ,その状況に応じて,もっとも合理的で,可能性の大きい姿勢が選ばれうるだけだ,と言えるだろう。
(p.255)

 これも実に示唆的である。二つのヴェクトルが交錯しているのは何も姿勢だけではない。思考や学習を始めとしてさまざまなものに,この上と下へのヴェクトルは存在する。そこには「固定したいいものはない」「状況に応じて選ばれうる」という指摘は,それらの活動を考える上でも当てはまることだろう。

(教育における発表訓練について)発表を急がせることは,「からだ」の内に動くものを,自分なりに「わかって=分かって」いくおぼつかない作業を途中で切り上げて,できあいのことばを並べることになりやすい。(p.285)

 本書の最後には,教育に対する筆者の考えが述べられているのだが,そのなかで,発表に関するこの記述は興味深かった。基本的な考えは上の2つにあるように,自然や必然性を重視し,無意識がよく働くようにからだやことばを劈く,ということなのだろう。これは,『「考える」ための小論文』に出てきた「考えることとは,しつこく「問い」をくりかえして「自分なりの言葉」を成立させようとする営み」という考えに似ていると思った。まあどちらも現象学的な発想が元にあるので,当然といえば当然ではあるのだが。しかし本書の場合はそこで,からだや無意識が重視されている点が興味深い思った。

 というわけでうまくまとめられはしないのだけれども,私なりの言葉を成立させる上で,いろいろときっかけを与えてくれそうな予感のする本であった,とまとめることができるだろうか。性急に言葉にする前に,もう少し考えてみなければいけない。


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