読書と日々の記録2002.12上

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■読書記録: 12日『シャーロック・ホームズの推理学』 8日『ザ・ディベート』 4日『検証ドキュメント 臨界19時間の教訓』
■日々記録: 14日夜更かしする娘たち 6日階段を歩いて降りる娘 2日イボその後

■夜更かしする娘たち(4歳と2歳)

2002/12/14(土)

 うちの娘たち(4歳6ヵ月と2歳3ヵ月)は,生まれたときから,とはいわないまでも,物心ついた頃から,宵っ張りである。人様にはお聞かせできないくらいに。まあ簡単に言うと,親が寝ないと子どもも寝ないというか。それが最近,少し改善されてきた。

 それは,親が「寝せよう」と努力しはじめたからなのだが,それはしかし,今までも何度か試みて,挫折してきた。今回成功しているのは,ちょっとした秘訣がある。といっても,大したものではないのだが。

 うちの近所には,携帯電話用の電波塔がある。クリスマス前は,夕方からそれにイルミネーションがつくのである。それが午後11時には消える。上の娘には,「それが消えたら寝る」ことを言い聞かせている。下の娘には,それが消えたら「オバケが来る」と脅しているのである。おかげで二人とも,11時には寝てくれるようになった。そのときに電気を消して親も一緒に寝る(ふりをしている)ときに限ってではあるのだが。

 最近はさらに努力して,9時過ぎには寝せるようにしている。これはうまく行ったり行かなかったりである。子どもが寝つくまでは親も寝たふりをしているわけで,なかなか寝つかない時は,いたずらに時間を浪費して入る気がしないでもないが。

 よそのうちの話とか,学生が子どもだった頃の話を聞くと,みんな早々と寝ている(寝ていた)ようで,うらやましいというか不思議というか。何で寝てくれるのか。というか,うちの娘はなんで寝てくれないのだろうか。

■『シャーロック・ホームズの推理学』(内井惣七 1988 講談社現代新書 ISBN: 4061489224 \650)

2002/12/12(木)
〜実は科学論の本〜

 「シャーロック・ホームズの,論理に関する能力と,あからさまな論理学の知識の程度を推理」(p.15)した本。以前から持っていたのだが,読了できずに放ってあった。読了できなかったのは,格段難しかったから,というわけではない。まあそういう部分も無きにしも非ずだが,それよりも,「本書の意図を読み違えていた」という部分が大きかったように思う。そのときはこの本を,推理とか論理の本と思って読んでいたのである。

 もちろん論理の話もある。しかしそこで明らかにされることは,ホームズの多くの推理が演繹ではないこと,しかし何らかの推理の力であることである。ではどんな推理かというと,「ホームズの方法は確率論的方法であり,不確実な推理を確率の判断をうまく使い,いくつかの推理の相乗作用で高い成功率を得る」(p.149)ものであるらしい。

 しかし本書は,そのことを示しているだけではない。というよりは,実はこちらの方が真の目的ではないかと思うのだが,ホームズのこの推理法は,(ホームズと同時代の)19世紀に起きた科学方法論と,基本的に同じものなのである。そのことを本書では,ダーウィンの進化論を例に示している。ダーウィンの考えは,それまで主流と考えられていた「仮説−演繹法」からは逸脱している。「ダーウィンの理論においては,仮説からの厳密な演繹は多くの場合欠如している。代わりになるのは,統計的あるいは確率的なつながり」(p.172)なのである。

 この方向性は,その後の科学で主流になっているようで,本書によると「確実な証明は,万有引力の法則や光の波動説に関してすら不可能」(p.184)なのだそうだ。このように現代科学においては,「因果関係についての人間の知識は,つねに確率論的な不確実さを含む」(p.78)のである。当然といえば当然なことではあるが,それまでの,あるいはわれわれのイメージ上の「確実な科学」という考えからすると,大きな転換である。そして,このような転換をすることによって,統計的にしか把握できない対象(熱力学とか社会現象とか)まで,科学の対象を広げることが可能になったのである。ただしそこで得られる帰結は必然ではなく蓋然であり,その蓋然性(仮説の確からしさ)を増大させることも,現在の科学の重要な仕事なのである。

 この話は,まとまりとしては1章しか費やされていないが,しかし本書においては,ホームズの話はマクラで,メインは,科学哲学や科学的方法論と思ったほうがいいのかもしれない。そう思えば,方向違いの期待を抱いて挫折する,ということはないだろう。そして,ホームズを通して,現代科学の論理の立て方が理解できる。少なくとも私にとってはそういう本であった。というか,そういうつもりで読んで初めて,最後まで読み通すことができた。

 今回,筆者の方向性にうまくついていけたのは,同じ著者の『科学哲学入門』なんてのを読んだりしているからであろう。こちらも,あまり十分には理解できなかったものの,19世紀の科学観の変化が中心テーマとなっており,どうやら確率という概念が重要になったらしい,ということぐらいは分かった。おかげで本書も,そのつもりで読めたし,筆者の意図するところが分かって読めたと思う。そういうつもりで読むと,ホームズの名セリフを味わいながら科学の論理について学ぶことのできる,味のある本でさえあるように思える。

 #こちらに,本書にまつわる筆者のエッセイあり。

 #個人的メモ:「いくつかの推理の相乗作用で高い成功率を得る」とは,論理学でいう「合流論証」だな。確率つきの。

 #昨日でた判決は,「関係亜ヒ酸の同一性=がい然性がきわめて高い」,「亜ヒ酸混入の機会=十分に可能」という,確率付き合流論証のようだ。なおこの判決要旨を見て,初めて「直接証拠」が自白,目撃を指す(含む?)ことを知った。それ以外はすべて状況証拠ということなのかな。

■『ザ・ディベート─自己責任時代の思考・表現技術─』(茂木秀昭 2001 ちくま新書 ISBN: 4480058923 \680)

2002/12/08(日)
〜パフォーマンスとしてのディベート〜

 「ディベートにまつわる様々な誤解を解きほぐし,議論の勝ち負けを競うものではなく,教育効果に主眼をおいて,どのような分野である知的ツールとしてのディベートを紹介」(p.7-8)した本。筆者は20年以上の経験を持つディベータである。本書の中には,ディベートの逐語録があったり,それに対する筆者のコメントなどがついていたりして,理論だけではなく実践的にもディベートに触れることができる。そういう点ではいい本だった。その点は認めつつも,以下に私の疑問を書いておく。

 ディベートに対してもたれる代表的な誤解として,筆者は「鷺を烏と言いくるめる技術」「相手を理屈で言い負かすうわべだけの討論ゲーム」「ディベートはパフォーマンス」というものをあげている。それに対して,ディベートの長所として,筆者は次のようなものをあげている。

ディベートはものごとの持つ二面性を複眼的に見る目を養い,あらゆることに疑問を投げかける冷静さをもたせ,客観的な根拠に基づく合理的な判断力を育てます。(p.12)

 確かに筆者のいうように,ディベートを通して見に付けた技術を,二面的,複眼的に見たり判断したりするための技術として持ちいることは可能だろうと思う。しかしディベートはそのゲーム性ゆえ,筆者が「誤解」としているような側面を持つことは否めないだろうと思う。ディベートを通して複眼的な判断力が養われたとしても,実際のディベートの中では,一面のみしかいう必要がないからである。ディベータは,ディベート中にある主張をしながら,「本当はこの意見には弱点もあるんだよねあ」と思ったとしても,それはおくびにも出さないだろう。そういう点を指して「パフォーマンス」と言ったとしても,それは単なる誤解とはいえないだろう。

 本書には,ディベートの否定的な側面や弱点については,ほとんど触れられていない。それは論理的にいうならば,筆者がディベートに関しては,上で引用したような「二面性を複眼的に見る目」や「疑問を投げかける冷静さを」を,持っていないか,持っている(けれども表には出していない)かのどちらかであろう。しかし筆者は,数々のディベート大会で優勝経験のある,経験豊富なディベータである。そして上の引用内容が適切なものであるとするならば,後者(すなわち分かっているけれども言っていない)である可能性が高い。そのことから考えると,本書における筆者のスタンスは,「ディベートの是非」を論じるディベートにおける肯定側ディベータなのではないかと思う。そしてそこには,上に書かれているような「パフォーマンスとしてのディベート」という問題点が如実に表れている。

 ついでにいうならば,筆者は,アメリカの紳士録に載っている人の50%以上が学生時代にディベート経験者であるというデータなどをもとに,「ディベート能力に秀でている人に対して社会のリーダーとしての資質を備えていると認め将来に期待して大学としても後押しする,というようなことが社会的にも通念になっている」(p.31)と論じているが,これは明らかに不十分なデータである。アメリカ人全般の何パーセントがディベート経験者かが分からなければ,50%以上という数字は,多いとも少ないとも言えないからである。

 なお,最後の方で「ディベートはアウフヘーベンすることがない」という批判に対して,「これはディベート後の展開のしかたや指導によるのです」(p.212)として,「フォローアップ活動」によって「ディベートを弁証法として社会の問題解決に活かすことも可能」になると論じている。これも結局,ディベート「後」に可能ということであって,「ディベートはアウフヘーベンすることがない」ことの反論にはなっていない。こういう議論をみると,ちょっと大丈夫かなと思ってしまう。いや,ディベートそのものの有効性を認めるにはやぶさかではないのだが。

■階段を歩いて降りる娘(2歳3ヶ月)

2002/12/06(金)

 下の娘もようやく2歳3ヶ月になった。そして,そろそろ赤ちゃん臭さが抜けつつある。

 たとえば下の娘は,夜泣きが多く,夜中に1回は泣いて起きていた。それが最近,めっきり減っている。あるいは,ちょっと転んだくらいで泣くことはなくなり,ヘラヘラしているとか。

 あと,この子は甘えん坊で,アパートの階段を,以前は決して歩いて昇り降りしようとはしなかった。必ず「ダッコダッコ」とせがむのである。それが最近,自分で昇ったり降りたりしてくれることも増えてきた。

 ちなみに上の娘は,2歳過ぎの頃には妻が妊娠していたので,自力で昇り降りさせていた。ようやくその域に下の娘も達したようである。おかげで少し楽になった。

 とはいえ,言葉はまだカタコトの外国人みたいである。「好きではない」のことを「スキないよ〜」とかいったりして。あとは,体形全般がまだ少し赤ちゃん臭いか。

 前々からこういうことを書いているような気はするが,こういう赤ちゃん臭さも,本当にもう少しなのだろう。惜しいようなうれしいような。

 #と思ったら今朝は,階段を下りるのに,しっかりダッコをせがまれてしまった。まだまだかな〜?

■『検証ドキュメント 臨界19時間の教訓』(核事故緊急取材班+岸本康 2000 小学館文庫 ISBN: 4094042016 \495)

2002/12/04(水)
〜情報とか世界とか〜

 JCO臨界事故の3ヵ月後に出された本。1日を1章として,事故当日,2日目,3日目のことがドキュメントとして語られている。関係者の動向やインタビューも豊富に含まれている。この事件について触れられた本は何冊か読んでいる(『無責任の構造』『原発事故はなぜくりかえすのか』『あの日、東海村でなにが起こったか』)。知っていることも多かったが,あらためて認識したこともある。

 なかでも大きいのは,情報の重要性である。茨城県,東海村,消防本部,学校,病院,隣町,JR,道路公団など複数の機関や住民にとって,「情報がまったく来ない」あるいは「いろんな情報がバラバラと来る」状態だったようである。

 そういう状況で,多くの人がテレビなどのマスメディアが唯一の情報源だったと述べているのだが,そのテレビにしても,「マスコミの報道合戦で,混乱を招く場面もあった」(p.85)ようである。とくに大きいのが,県が半径10キロ圏内の住民に屋内非難要請を出す1時間前に,NHKが,「放射能漏れで茨城県が呼びかけ。10キロ以内の住民は屋内避難を」(p.88)というテロップを流したと言うものである。各市町村役場では,問い合わせが来るものの,そんな連絡は来ていないというしかないし,県に問い合わせても「そんな要請は出していない」,ということで,混乱していたようである。

 それに対してNHKの広報局では,「正しいと確信を持ったものを流しているのです。〔中略〕正しい情報があるのに,県の発表を待たなければいけない,ということは決してありません」(p.88-89)と証言している。これはしかし,不適切な弁明であろう。上述のように「茨城県が呼びかけ」というテロップを流したのであれば,それは事実とは違うので。発表前に流すなら流すで,事実がわかるようなことを流すべきだったのではないだろうか。

 また,新たに知ったこととして,海外の原発の状況がある。よく,ものの本には,「世界は脱原発の流れに傾いている」的な記述がある。それは,間違いではないのだが,それだけではないらしい。たとえばスウェーデンは,1980年の国民投票が元になって,「2010年までに原発全廃を決めた」そうだが,現時点で廃止された原発は一つもなく,現在でも必要な電力の半分は原発に頼っているという。フランスも1998年に高速増殖炉を廃止したが,それは技術的に行き詰ったものだという。なんだかこの辺の事情は,『からくり民主主義』的である。この世界にも,単純な「みんな」とか「世界」は存在しないのだろう。

■イボその後

2002/12/02(月)

 6月からの懸案事項である,かかとのイボだが,10月に大きいのが取れたものの,まだ周辺部が残っていた。それから,通院治療に加えて市販の貼り薬(イボコロリみたいやなつ)を併用したところ,下旬には突起的なものはなくなったかに思えた。

 ようやく通院生活ともお別れか,と思いつつ先週末に病院にいって見ると,「表面のザラザラがある限りは,治療をしないといけない」と言われた。ということで,しばらくはまだ治療継続である。やることは,週に1回液体窒素を吹きつける,というだけなのだが。

 それはいいのだが,その治療,だんだん痛くなって来ている。というのは,はじめは,厚いイボの層があったわけで,液体窒素は痛くも痒くもなかった。2ちゃんねるなどの情報によると,イボの治療はえらく痛いらしく,恐れていたのだが,ぜんぜんそういうことはなかった。

 それが,イボ部分が取れるにつれ,地肌にも液体窒素がかかるようになるわけで,それが痛いのだ。ヒリヒリしたりズキズキしたり。医者がいうには経過は順調だということなので,もう少しがんばってみるしかない。まあ待ち合いの時間は読書ができる。それだけが楽しみである。


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