読書と日々の記録2002.12下

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■読書記録: 31日短評7冊 30日『日本語のレッスン』 28日『「超」文章法』 24日『人間現象としての保育研究』 20日『うそとパラドックス』 16日『思考のレッスン』
■日々記録: 29日この1年 23日言葉を伝えることの意味

■今月の読書生活

2002/12/31(火)

 今月よかった本は,『日本語のレッスン』(筆者の目指すところが見えてきた)ぐらいだろうか。しいて他の本もあげるなら,『シャーロック・ホームズの推理学』は推理と科学論が結びついた点がよかったし,『「超」文章法』の応援歌には励まされたといえるかもしれない。

 結局今年読んだのは,合計208冊(再読本十数冊を含む)。年間200冊は越えたが,まあこれが限界だろう。ついペースを気にしてしまうと,読み方が荒れてしまう。つまり,理解よりもスピードを優先してしまいそうになるので,あまりよろしくない。量はもういいので,次に必要なのは,良書を発掘する技術であろう。これは前々からの課題なのだが,なかなか適当な方法が見つからない。

『能力という謎─シリーズ発達と障害を探る3─』(長崎勤・本郷一夫編 1998 ミネルヴァ書房 ISBN: 4623028933 \2,400)

 発達や障害における「能力」ということについて,さまざまな立場の人が,主に実践を通して論じた本。興味深い論考もあったが,さまざまな立場の人たちが,同一の論点を論じているわけではなく,自分の立場から自分の考えを論じているだけなので,ちょっと物足りなかった。せめて各論者が,「個体能力」と「関係」というものについて,他の論者の議論も想定しながら論じるとおもしろかったのに。関係論に関しては,ややもすると「関係至上主義」的になりがちだが,ある筆者は「「関係によって促された能力の発達」と「個の能力の発達によって作られた関係」という両側面を捉えることが重要」(p.218)と述べており,これは,この領域素人の私の目から見てバランスのよい考え方であるように思えた。

『私のなかの他者─私の成り立ちとウソ─』(浜田寿美男 1998 金子書房 ISBN: 4760894020 \2,200)

 ウソを通して,「「私」と「他者」がからみ,「私」のなかに「他者」の食いこんでいく様相」(p.35)を記述した本。ある人がAさんと共有しているコミュニケーション領域と,Bさんと共有している領域にはズレがある。その重なり部分で,一方の人に隠したい事柄や違和感があるとき,この構図を背景に生まれるのがウソである。そういうズレの構図が存在することは必然であり,その意味で「人間はウソをまぬがれることが原理的にできない」(p.187)という指摘はナルホドである。しかしこの構図と,サブタイトルにある「私の成り立ち」の関係は,今ひとつはっきりとは分からなかった。

『「考える」ための小論文』(西研・森下育彦 1999 ちくま新書 ISBN: 4480057102 \660)

 再読。作文に関する本は,いくつか見た中では,一番よいように思う。それは,文章作法について述べるのではなく,考え方について述べられているからであろう。ここで述べられている「考える」ことは,あらゆる学問研究において必要なことだと思う。

『デモクラシーの論じ方─論争の政治─』(杉田敦 2001 ちくま新書 ISBN: 448005894X \714)

 再読。1年前の印象と同じく,やはり読みにくかった。それでも本書をMIBに入れたのは,この時点では私に理解できていない何かが本書にはあり,1年後にもう一度読めば,それが分かるのではないか,と期待したからであった。しかし残念ながら,そこまでは至らなかった。本書が読みにくいのは,その「浅さ」にあるような気がする。ある論点があるとき,ある立場からの主張,それに対する反論,それに対する再反論,と言う形で話が進んで行くのであれば,論点についての理解も深まると思うのだが,本書はそうなっていない。でもまあ,デモクラシーにまつわる対立軸は広く浅く取り上げられているので,本書は,いずれデモクラシーについてきちんと考えたくなったときに,辞書的に使うのがよさそうである。少なくとも私にとっては。

『論理的文章学習帳』(入部明子 2002 牧野出版 ISBN: 4895001083 \1500)

 ワードを使って,思考マップやアウトラインを作ったり,コメントを付けてもらったり版を管理するやり方が書かれた本。なるほど,ワードはこういう使い方があるのか,と思った。ただし,ツールとしての使い方の話が中心で,それを使って,どのような論理的文章をどのように作るのか,と言う話がもっと聞きたいと思った。筆者はアメリカの大学にいたとき,「なぜこの文章が論理的でないのかをずいぶん考えさせられた経験を持つ」(p.10)そうだが,そういう苦労話とか,工夫の話などである。それが,私にとっては残念。

『高校生のための心理学』(松井豊 2000 大日本図書 ISBN: 4477010990 \950)

 大学で心理学を勉強したい高校生に,心理学の「本当の姿」を知ってもらおうと意図して作られた本。本当の姿といっているのは,心理学に対するイメージには誤解が多いからである。章立ては比較的オーソドックスで,導入のほかは,認知心理学,発達心理学,教育心理学,社会心理学,臨床心理学の内容紹介になっている。実験例などを通して,これらの学問が,面白く,役に立つことを示すことが念頭におかれているようである。最後には,大学の心理学関連学科ではどんなことを学ぶのかや,卒業後の進路についても紹介されており,まあ高校生には悪くないのではないかと思う。なお,もし私がこういう本を書くとしたら,単に研究を紹介してそれが役に立つことを示す,というだけではなく,研究の考え方やダイナミズムがわかるようなものにしたい気がする。

『文章表現法─五つの法則による十の方策─』(樺島忠夫 1999 角川書店 ISBN: 4047033030 \1,500)

 人は,予測に沿って受け取った言葉を理解する,みたいな,理解・表現に関する法則を通して,よい文章を書くための方策について書かれた本。教科書的にはいいかもしれないが,私的にはあまりインパクトのある本ではなかった。

■『日本語のレッスン』(竹内敏晴 1998 講談社現代新書 ISBN: 406149399X \660)

2002/12/30(月)
〜問いを通して〜

 この筆者の本は,『「からだ」と「ことば」のレッスン』『ことばが劈かれるとき』と読んできた。本書で,筆者が目指しているものの一部がある程度明確に見えてきたような気がする。

 筆者は,メルロ=ポンティにならって,言葉を2つに分けている。一つは,情報伝達の言葉である。ワープロを音声化しただけで事足りるような,アナウンサーがニュース原稿を読むような,事実や確認事項を報告するような言葉である。二次的な表現,制度化された言葉,過去に使用済みの言葉の組み替え,などと表現されている。

 もう一つの言葉は,表現し呼びかける言葉である。それは次のように表現されている(文中「かれ」とはメルロ=ポンティのこと)。

人がみずからの奥で動き始めたなにかをことばにしようと努力する時,ことばは現れ出るにつれて意味を形作って来るので,以前にわかっていた意味をことば化するのではない。これが「考える」ということだ,とかれは言うのだろう。これをわたしは「今生まれ出ることば」と呼ぼう。(p.16)

 このようなことばを見出すことが,筆者のレッスンの主眼のようである。それは,「自分を表現し,自分になること,自分のいのちを生き切ること」(p.17)である。このように,自分のことばを探すことを「考える」ことの最重要点とみなす考え方は,現象学の基本である(と思う。たとえば『「考える」ための小論文』参照)。一般にこのようなことを現象学で扱う場合,それはきわめて思弁的になる。しかし筆者の場合は,歌を歌ったり詩を読んだり役者としてセリフをいう行為のなかで,このことを実現しようとしている。本書の中心は,歌と詩で,演劇の話は出てこないのだが。

 私なりのまとめなのだが,そのために筆者が行っているレッスンは,大きく2つあるようである。一つは体をほぐすこと,もう一つは「問う」ことである。体をほぐすことについては,『「からだ」と「ことば」のレッスン』に詳しい。本書では,特に「問うことの意味」や「問い方」がよく分かったように思う。

 たとえば詩を音読する。まずは「声が出てくる」ようになるために,体をほぐしたり自然な発声のレッスンを行う。それから「問い」が始まる。谷川俊太郎の詩「生きる」でいうと,1行目の「生きているということ」の部分を音読した時点で,3つのことが問われる。「それで『生きてる!』って気がする?」(p.207) 「それで」とは「その読み方で」ということである。これは,情報伝達的に,単調なワープロの音声化のように読まれたときに発せられる問いである。さらにそれを深める問いがある。この1行を「生き」「ている」「ということ」と分けたときに,「この三つのうち,どれが一番大切な語句だと思う?」(p.207)というものである。これが,「まるでキャタピラーで踏み潰すみたいにすべての語句を一様に平板化して」読むのではなく,自然なリズムを生みだす読み方がレッスンされる。

 それから第三の,そして一番根本的な問いが発せられる。「『生きてる』って,だれが生きてるの」(p.208) この問いは,「そのことば,だれに言ってるの?」(p.106)という形を取ることもある。この問いの重要性を,筆者は次のように表現している。

この単純な一語は,話しことばがよみがえるために,わたしたちがくり返しくり返し何百回も何千回もそこへ立ち戻らなければならない,大切な魔法のキイワードなのだ(p.106)

「話しことばがよみがえる」とは,記録されている文字をテープレコーダのように再生するのではなく,「今生まれ出ることば」として生まれさせる,ということであろう。そのことを稽古することについて,筆者は次のように書いている。

生活の中でしらずしらず垢の溜まっていた,一つ一つのことばに対する思い込みのイメージや口調を,脱ぎ捨てていくこと,詩人のことばの用い方に驚きながら,自分の感性を別の次元に目覚めさせていくこと,新しくことばに出会える自分を準備していくこと,一言で言えば「今」に近づいてゆく努力である。(p.228)

 そのために,どのように問い,考え,行為し,レッスンするかが,本書では豊富な例を元に示されている。それらを通して,問うこと,考えること,感じること,表現することをつなぎ,考えること,などが実現されていく。本書はその意味で,私にとって貴重な一冊であった。

■この1年

2002/12/29(日)

 この1年を振り返ってみる。いろんなことがあったような気もするし,あまり何もなかったような気もするが,私の中では,一番のキーワードは「研究」かもしれない。

 といっても,人様に対してはっきりこれといえる何かがあったわけではない。しかし,種ができたり芽が出たりつぼみが膨らんだりしたことはあったように思う。

 春には,学会発表の構想を練るなかで,今後につながりそうなちょっとしたアイディアを得ることができた。いうなれば「芽」が出たようなものである。

 夏には,3年来書きたいと思っていた論文を,一応の形にすることができた。これは,わたし的には「花」である。査読の結果によっては,はかなく散ってしまうのかもしれないけれど。

 秋には,調査面接を始めた。これはまだ継続中で,半分しか済んでいないのだが,その半分の結果を見ても,得るところは大きいように感じている。こちらはまだ「つぼみ」で,年明けには花を咲かせるべく努力する必要がある。

 冬には,講演をした。したこと自体も収穫ではあるのだが,その過程で考えたことは大きいように思う。これはまだ「種」の段階か。

 来年は,「実」をつけるようにしたいものである。

■『「超」文章法─伝えたいことをどう書くか─』(野口 悠紀雄 2002 中公新書 ISBN: 4121016629 \780)

2002/12/28(土)
〜マニュアル+応援+激励〜

 「文章を書く際にすぐに使えるマニュアル」(p.4)やチェックリストを目指した本。確かにそういう部分も多く,「メッセージの見つけ方」から,「ゲラの校正のしかた」まで,プラクティカルな話がたくさん書かれている。ちょっとびっくりしたのは校正についてで,筆者は「ある行に一文字しかないことや,あるページが一行だけになってしまうことを避ける」(p.204)のだそうである。印刷物では見かけは重要だからだそうだ。ふーん,そこまでするわけね。

 筆者のいう「メッセージ」は,主張やテーマと同義のようであるが,筆者はこれを非常に重視している。文章を書く上で最も重要なのは,一言で表せるような「メッセージ」であり,文章を書く上では,ピントのあった,発展性のあるメッセージを見つけることが必要であることが,最初の方で強調されている。それはわかりきったことのようにも聞こえるが,社内報にせよ卒論やレポートにせよ,人は広すぎるテーマを選びがちであり,それは結果的に深みのないものになってしまう。そのことを意識しておくことは案外重要である。このようなアドバイスや注意も実際的でなかなかいい。

 では適切なテーマをどうやって見つけるか。それは,「考え抜く」しかないという。考え抜くと,あるとき啓示があり,天使が微笑んでいるのが見えるそうだ。その啓示を得るために,筆者も含め,いろんな人がいろんな工夫をしていることが紹介されている。たとえばアシモフは,「考えて考えて,窓から飛び出したくなるほど考え抜くしかない」と言っているそうである。こういう話を読むと,私自身,ちょっと考えて思いつかなかったぐらいでへこたれていはいけない,という気にさせられる。

 このような話が,本書にはたくさん詰まっているのだが,これは,「どう書くか」というマニュアル的な話ではない。むしろ,これから文章を書こうとする人や,文章に行き詰まっている人のための,「応援歌」と言えるのではないかと思う。ほかにも例えば,思いつくことを何でもよいから書きとめてみよう,なんて話があり,本書もそういうメモの集まりからスタートした,なんてことが語られている。こういうのを見ると,なんだか本が書けそうな気がしてくる。本書が他の文章作法の本と一番違う点は,この点ではないかと思う。

 なお,応援歌ではなく,激励歌的な部分もある。それはたとえば,「文章を読む前と読んだ後で,読者の心の中で何かが変わらなければならない」(p.63)という記述である。筆者は別の箇所で,自分が書こうとしているメッセージが「ためになるか? 面白いか?」と何度も自問すべきである,と書いているが,これはそれをもっと明確に主張したものである。研究論文をはじめとして,あらゆる主張を行う場合に,考えるべきことであろう。

■『人間現象としての保育研究 増補版』(津守真ほか 1999 光生館 ISBN: 4332510194 \2,000)

2002/12/24(火)
〜公共性はどこに?〜

 1970年代に,津守氏が行っていた保育に関する研究会のレポートなどが収容された本。本当に研究会用のレジメ的な部分があり,読みにくくもあったが,逆に良かった点もあった。

 それは,方法論や考え方が確立されていない段階での,報告者の迷いや考えが表明されている点である。「M男が体を細かくゆするのは何を表しているのだろうか」(p.41)とか「あまりにこだわったみかた(M男の不安定性とむりやり関係づけたみかた)かもしれないと思ったので記録に出すことをためらった」(p.42)とか。

 「意味が見える」事に関しては,「子どもと共に遊べた時は,子どもの動きの一つ一つに共感できて,動きの意味が見えてきたりした」(p.49)とナイーブ(に見える)な記述がある。ナイーブとは,「見えたと自分が感じた」ものが,「本当の意味」であるという考えのナイーブさである。「自分の見え方」と「相手のつもり」がズレることは,日常的には少なくないことだと思うので。一方,「一つの発見を中心に「みえる通路」ができてしまう危険性も感じる」(p.56)というためらい的な記述も見られる。

 しかしこの「危険性」をどう回避するかは,本書ではあまり問題にされていないようである。たとえば津守氏は,「既成の解釈にとらわれないで再び実践の場で子どもと出会うことによって,その解釈は修正を余儀なくされる」(p.179)と,比較的楽観的に捉えているように感じる。せめてそれも,解釈の変遷を示して欲しいように思うが,そのような記述はあまりみられないようである。

 このような危険性をはっきりと回避するためには,考えられうる限りの解釈をすべて提示し,諸事実を元に,どの解釈が最も妥当か検討する必要があるのだと思うが,そういうことがなされている形跡も見当たらない。筆者の一人によると,少なくともここで行われていることは,「真理を求めて続けられる,意識的な,ある問題への処し方」(p.158)という意味で,立派に研究であるという。そうであるならば,妥当性の検討を行う必要があるのではないだろうか。

 いやもっとも,「「感動的な世界」を語るには,論理的・科学的な言語だけでは不可能であろう」(p.76)という記述も見られる。この人にとっては,知見の公共性はあまり問題ではないということであろうか。そうだとするならば,何を目指して研究発表をされているのだろう。してはいけないというのではない。それが知りたいのにそれが見えないのである。

 目指していることというか研究課題に関して,津守氏は次のように書かれている。

遊びとは,いったい,何なのか。それが生み出される過程はどのようなものなのだろうか。ことに,幼稚園の場において,子どもたちが,自分を打ち込んで遊んで,満足できる一日は,どのようにして生まれるのか。これは,わたくしの保育研究の,最初の課題であった。(p.3)

 一方,研究の方法論に関しては,次のような記述が見られる。

客観的に,形式的に,条件を整えないと,科学的研究にならないという考えが強くあると,観察していて,自分が感動してとらえたことを,研究の中心部にもってくることができなくなり,せいぜい,副産物としかならなくなる。(p.6)

 客観性や形式は,科学的研究の主流ではある。しかしそれは,科学的(あるいは,公共的な性質を持つ研究)であるための,絶対の条件ではないはずである。客観性や形式は,公共性を確保するための,一つの方策である。それはないならないでもいい。しかしその代わりに,何らかの形で,主張の公共性を担保するための方策が必要だと思うのだが,そういうものがあるのかどうかは,残念ながらいくつか読んだ津守氏の記述や本書からは,読み取れなかった。

■言葉を伝えることの意味

2002/12/23(月)

 週末,東京で講演をしてきた。研修会のプログラムの冒頭に置かれた,基調講演的な講演である。

 実は私,こういう講演はやったことがまったくない。いや,非常勤講師をしていた専門学校で頼まれて,数十人を相手に講演をやったことは何回かあるのだが,それはあくまでも,授業の延長のような講演であった。本当に普段授業で話しているような内容を,現職の人向けに適当にアレンジすれば済むような。

 今回はそういうものではない。授業で話したことがないどころか,視野の中に入ってはいるものの,きちんと考えたことはなかったような事柄がテーマだった。しかもフロアの人数は,私がやったことがある一番大きい講義よりも多いときている。おかげで,とても苦労はしたけれども,結果的には勉強になった。

 特にこういうときには,窮すれば通ず的なアイディアが沸いてくれることがある。今回でいうと,講演の前日に,「キーワードを設定する」というアイディアが沸いた。あとは,『思考のレッスン』にあった「型に対して名前をつける」というアイディアを実践してみたり。まあ人から見れば,大したことはないことだとは思うが,しかしおかげで,ふだん平板になりがちな私の話に,多少なりともメリハリをつけることができたように思う。こういう,ポイントを示すことでメリハリを持たすような目的のキーワードであれば,最初ではなく最後に考えるほうがいいかもしれない,なんて後知恵的に思ったりして。

 そのほかにも得たものとしては,いろいろな人にコメントをもらえたことだろうか。「ふだん自分たちが,これでいいんだろうかと思いながらやっていることを,明確に概念化して示してくれた」みたいな。今これを書きながら思ったことなのだが,この言葉は,おっしゃった方にそのままお返しをすることができる。「これでいいんだろうか」と思いながら私が講演したことの意味を,明確に言葉にして与えてくれたことになるわけなので。

 研究にしても講演にしてもコメントにしても,何かの言葉を人に伝えることの意味は,あんがいこういう部分が大きいのかもしれない。

■『うそとパラドックス─ゲーデル論理学への道─』(内井惣七  1987 講談社現代新書 ISBN: 4061488813 \530)

2002/12/20(金)
〜論理学入門としては悪くない〜

 『シャーロック・ホームズの推理学』を読み終わってから,ひょっとしてこの人の本,他にも持ってたかなあと思って本棚を探したら見つかった本。やはり途中で読むのを止めていたようだ。

 本書は,タイトルから受ける印象と違い,論理学を「できるだけわかり易く,面白く」(p.5)書いたものである。内容も結構オーソドックスで,論理パズルから始まって,真理表,多くの学生がつまづきやすいという条件文と量化子,述語論理と,基本が押さえられている。最後には,副題通り,ゲーデルの話が,パラドックスを使いながら説明されている。まあこのあたりは私は,あんまりちゃんとは理解していないのだが。

 それにしても今回は,私も本書を買った当初(10年ぐらい前?)よりは,多少論理学を知らないでもないので,一応最後まで読みおえることができた。内容も,論理学の本にしてはわかり易いかなあとは思った。話も,面白くなるよう,それなりに工夫されているみたいだし。

 しかしそれは,あくまでも教科書とか入門書として易い,ということであって,根本的なところでは,決してわかりやすいとはいえなかった。それは,根本が見えにくいわかりにくさである。論理学の,根本的な問いが見えないのである。論理学が解こうとしている問いは何なのかとか,何のために論理学はあるのかとか,論理学は人間生活にどのような意味があるのか,といった一連の問いのすべてに通じるような,根源的な問いである。

 本書の中でみつけた,関係ありそうな記述としては,以下のものがあった。

ライプニッツ(1646-1716)という哲学者は,推論とは記号の計算にほかならないとみなし,われわれの思考を正確に表現できる記号さえ見つけたなら,算術におけるように,計算によって推論の正しさが証明できると考えたのである。(p.120)

 なるほど,計算としての推論ね。これならわからないでもない。それにしても,論理学が進歩したからといって,われわれの推論が進歩しているわけではないと思うのだが。まあこれは,たとえば数学が,正確な計算ということから始まったとしても,それが現代数学とは直接関係がないようなものなのか。

■『思考のレッスン』(丸谷才一 1999/2002 文春文庫 ISBN: 4167138166 \448 )

2002/12/16(月)
〜他者の重要性〜

  本を読むコツ,書き方のコツなど,考え方のノウハウを対話形式で論じた本。筆者の持ち味に加え,対話形式ということもあり,密度は濃くないが,ところどころ,なるほどと思わせられるところがある。

 筆者は子どもの頃から,「人の考えないことを考える」子どもで,「当惑されてばかりいた」(p.97)そうである。それは現在でもそうなのだが,そのような考えを維持する上で,支えになったことがある。それは,「僕の考えを激励し,それでいいんだと安心感を与えてくれた人」(p.60)がいることである。これは,自分の考えを「面白がって」くれる人であったり,自分と同じ方向性の(もっと先に進んだ)考えを打ち出している人であったりする。こういう人の存在は,重要だろうと思う。というか私もほしい。

 これとは一見逆に見えて,基本的には同種の話だろうと思うものに,「自分の疑問を人に話すな」というのがある。普通の人には相手にされず,自信をなくしてしまうというのである。そこで筆者は次のように言う。

一番大事なのは,謎を自分の心に銘記して,常になぜだろう,どうしてだろうと思い続ける。思い続けて謎を明確化,意識化することです。そのためには,自分のなかに他者を作って,そのもう一人の自分に謎を突きつけていく必要があります。(p.181)

 そうやって「謎」を育てて行かなければいけないということである。基本的には一人で行うべきことなのだろうが,自信をなくさないよう,支える仕組みが必要である。それが,面白がってくれ安心させてくれる「他者」である。そういう人に支えられながら,謎を自分で育てて行くのであるが,そのために必要なのも,結局は「他者」なのである。ただし自分のなかの他者であるが。

 このような「他者」(自己内外とも)との相互作用は,文章を書く上でも筆者は重視している。

僕はむしろ「対話的な気持ちで書く」というのが書き方のコツだと思う。自分の内部に甲乙二人がいて,その両者がいろんなことを語り合う。ああでもない,こうでもないと議論をして,考えを深めたり新しい発見をしたりする。そういう気持ちで考えた上で,文章にまとめるとうまく行くような気がします。(p.250)

 この3ヶ所ほどの引用を元に考えるなら,筆者の「思考のレッスン」の極意のひとつとして,他者との対話があげられるかもしれない。自分の内外を問わず。それは謎を生む上でも,育てる上でも,書く上でも役に立つものなのである。

 このほかにも本書には,考え方のコツとして,「多様なものを要約,概括して,そこから一つの型をとりだしたら,その型に対して名前をつける」(p.214)とか,書き方のコツとして,「ものを書くときには,頭の中でセンテンスの最初から最後のマルのところまでつくれ。つくり終わってから,それを一気に書け」(p.229)というものがあり,どちらもナルホドであった。こういうのは,向き不向きがあるとは思うのだが,一度試してみる価値はあるかもしれない。


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