読書と日々の記録2003.01上

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■読書記録: 12日『日本航空事故処理担当』 8日『事故調査』 4日『追補 精神科診断面接のコツ』
■日々記録: 7日不思議なケンカ 2日お姉さんであり,かつお姉さんでない

■『日本航空事故処理担当』(山本善明 2001 講談社+α新書 ISBN: 4062720647 \880)

2003/01/12(日)
〜安全管理の難しさ〜

 日本航空で30年以上に渡って事故処理の仕事をしていた筆者による,体験談や提言の本。筆者は自分の仕事を,次のように述べている。

早急に結果を出さなければならない仕事の性質上,強引にことを進めざるを得ないことも多く,社内外の人間関係は最悪の状態だった。(p.76)

 このように,事故処理担当者はなかなか難しい位置にあるようだ。他にも,「事務職で自ら航空機を操縦したこともない者が運航の問題に口出しするとは何事か」(p.135)という反発も紹介されている(筆者本人に向けられた言葉ではないが)。これは,航空会社における安全管理組織だけでなく,あらゆる会社における安全管理の問題,ひいては組織内で批判的思考を発揮しようとする人に対して向けられうる反発であろう。

 このような安全の問題や事故防止の問題に対して向けられる意見としては,いくつかの方向性があるようである。ひとつは,事故をまったく個人の問題だと考える方向性である。航空事故でいうならば,パイロットにありがちな反応で,「あいつの問題で,俺だったらあんなミスはしない」(p.155)という反応である。こう考える限り,安全管理組織の必要性はいつまでたっても認識されまい。別の方向性として,「地上職については,これとは逆に会社に対する帰属意識が強く,それが会社に対する過剰な忠誠心となって形成される場合がある」(p.155)ことを筆者が指摘している。それは事故隠しにつながる考えである。つまり,安全管理組織を作り有効に機能するよう維持しようとする場合には,このような,方向性の違う反対に対する多正面作戦を強いられる,ということのようである。

 本書で一番興味深かったのは,1982年に羽田沖で日航機が墜落した事故に関する章である。筆者はこの事件を,上下巻本にしているようなので,この章はそのダイジェストになっているかもしれない。精神分裂病(統合失調症)にかかっていた機長の症状が物語的に臨場感あふれる筆致で具体的にかかれており,興味深かった。これを通して,統合失調の人が事故まで,いかに機長職をこなしてきたかを知ることができた。

 この記述自体も興味深いものではあったが,それに加えて,ここでも問題になっているのは組織の問題であった。機長は精神疾患の症状を数年間も示している。なぜそのときに適切な(人間的な)対処ができなかったのか,という問題である。この点について筆者は,「各自が各自の利害のみを考えて行動」(p.198)している点を挙げており,より一般的には,「企業経営そのものに人間に対する思いやりがなかった」(p.198)点を挙げている。筆者の言う企業の思いやりとは,「厳重なる安全管理システムを構築・整備し,それを維持・管理すること」(p.200)のようである。それは,私的利益追求よりも公的利益を優先させる,という考えである。

 この指摘が適切なものなのかどうかは,私には分からない。しかし企業とは基本的には,利益を上げることで社員の生活や会社を維持する,というのが第一の前提であり,メシが食えないのであれば,「公的利益優先」もへったくれもないのではないと思うのだが。企業が私的利益追求よりも公的利益を優先させることがありうるとすれば,それは,そうすることが,間接的にせよ企業の私的利益追求にプラスになることが必要で,それさえもなしに公的利益を優先させることなどありうるのだろうかと思うのだがどうだろうか。前から時々書いているように,私自身は政治経済オンチを自認しているので,この意見に自信があるわけではないのだけれども。まあいずれにしても,企業内で安全を管理するとか批判的思考を維持するというということは,相当に難しいことなのだろうと思う。

■『事故調査』(柳田邦男 1994/1997 新潮文庫 ISBN: 4101249148 \552)

2003/01/08(水)
〜人間要因の重要性〜

 筆者の本は,『この国の失敗の本質』以来の2冊目のようである。話題は,医療,航空機,列車,ジェットコースター,折りたたみイス,原発,都市災害など,幅広い。幅広いということは,雑多ということでもあるが,全体が,ゆるやかながら「ヒューマン・ファクター」という視点でまとめられている。ヒューマン・ファクターとは要するに,「最後にジョーカーを引いた現場の運転員や保守・点検要員の過失責任を問うだけの捜査あるいは調査からでは見えてこない様々な事故要因を浮き彫りにする」(p.283)ことを表している言葉のようである。

 この場合の「様々な事故要因」には大きく,4つのMがある。マン,マシーン,メディア,マネジメントである。最終的に関わった人だけではなく,機械の設計の問題,情報の問題,管理の問題がそれ以前の問題としてあるわけである。そしてそれらには,すべて人が関わっている。そういう意味でのヒューマン・ファクターということのようである。つい事故というと,「ナンヤカンヤ言っても,最終的には,最後の人が気をつけたらよかったんじゃないの?」と思いがちであるが,その視点を広げ,より全体的に事故を把握し,他の状況との共通性を見出して教訓にするために,これは重要な視点であると感じた。

 そのほかにも本書には,他の概念との関連で,なるほどと思うところがあった。たとえば,飛行機の操縦に関しては,次のような記述があった。

操作上はかなりマニュアルがきちんとしている。対地接近警報装置(GPWS)もある。けれども離陸のときは,0.1秒刻みでもっと厳しい局面がある。(p.87)

 これは,『状況のインタフェース』などの状況論で言う,「行為はプランでコントロールされているわけではない。プランは行為のための一つのリソースに過ぎない」という考えに対応するように思われる。

 次の記述は,現代技術が確率論的なものであることを示していると思われる。

国の形式証明の試験をパスした航空機,あるいはエンジンというものは実際のところ90パーセントぐらいは安全性が証明されている。ところが残りの10パーセントぐらいはエアラインが使いだしてから出てくる問題として残っている。(p.96)

 飛行機なんて,落ちたら簡単に人命が奪われるものであるのに,90%しか安全ではないとは何事か,と思われる方もおられるかもしれないし,こういうのをみると,飛行機に乗るのがちょっと怖くなるかもしれない。しかし,『シャーロック・ホームズの推理学』にもあったように,19世紀以降,(技術の根底にある)科学自体が,確率論的なものになっていることを考えること,このことは,現代技術においては,避けられないものであろう。そのことがいいのか悪いのかは別にして。そしてまた,そういうことからも,科学においても技術においてもその他の世界においても,「現場」というものが重要になってこざるを得ないのだろうと思う。

 本書は,取り上げたい記述が多数あったのだが,あまり多いのもなになので,もう一つだけ。上にもちょっと出てきたように,警報装置は現代の技術においては重要な位置を占めている。しかしそれは,誤動作もあるのである。そして,誤動作だと「思い込む」ことが,事故を呼んだりしている。そのことに関する記述。

現段階では,警報の誤作動をゼロにするところまではいっていない。問題は,警報が転倒したとき,それを誤作動と断定するためには,それなりの明確な根拠がなければならないということである。「どうも異常を確認できないから,警報の誤作動だろう」というようなあいまいな判断では危険この上ないが,現実にはその程度の対処をしている場合が多い。(p.163)

 そして実際に本書では,そのように「みなし誤作動」が事故を招いた実例が,豊富におさめられている。このことからいえるのは簡単に言うと,批判的,多面的,客観的,論理的思考の重要性であろう。他の箇所にも,「安全の原点というのは,まず疑ってかかること」(p.97)という, 対談相手(舟津氏)の発言もある。こういった部分に,失敗学における批判的思考のポジションがあるのだろう。

 なお本書には,1986年に起きた,スペースシャトル・チェレンジャー爆発事故についても触れられている(p.18-)が,その論考が,大統領任命の事故調査委員会の調査報告書に完全に依存しているのは残念。この件に関しては,そんなに単純なものではなかったことが,『迷路のなかのテクノロジー』に触れられている。もっとも本書におさめられている論考は,1986年に書かれたもので,そういう事情は知れてはいなかったのだろうけれども。

■不思議なケンカ(2歳4ヶ月)

2003/01/07(火)

 下の娘(2歳4ヶ月)は,上の娘とケンカするとき,不思議な言動を見せる。

 最近のケンカは,たいてい次のように推移する。下の娘が何かおもちゃを手にもっている。上の娘がそれで遊びたくなり,下の娘から取り上げる。下の娘が,泣きながら抵抗する。それでもおもちゃが取り返せないと,母親に訴えに行く。母親に「ママー,ネーネーがやった」と言うのである。

 ここまでは,以前からこうだったのだが,それから先が不思議である。下の娘は続いて上の娘のところに戻り,こういうのである。

「ネーネー,ママがやった」

 つまり逆のことを言うのである。そこで上の娘が下の娘を慰め,二人は妙に仲良しになって,いつのまにかケンカが終了している。

 いったいこれが何なのか,私たち夫婦は理解できないでいる。一つの可能性は,現実の状況ではなく,言葉にして表現した状況の方が,彼女の現実理解を規定する上で役に立っているということか。ちょうど1年前に言葉の魔力(1歳児編)という日記を書いたが,それと同じようなことなのだろうか。それにしても言葉だけで,現実と逆の世界に生きられるなんて,ちょっと想像できないんだけど。

■『追補 精神科診断面接のコツ』(神田橋條治 1994 岩崎学術出版社 ISBN: 4753394085 \3,000)

2003/01/04(土)
〜受信と気づきのコツ〜

 本書は,面接技術に関する心構えを,講演風に書いた読み物である。「追補」とついているのは,初版後10年目に筆者が本書を読み,そこで思ったことを注釈的に付け加えているためである。この筆者の本は『精神療法面接のコツ』『対話の技』と読んでいるが,本書もこれらの本と同様,示唆深い本であった。

 本書は「診断」に焦点を当てた本であるが,より充実した陳述を得るための診察者側の要件としては,筆者は次のものを挙げている。

患者の陳述の流れに同調し,提供される情報をできるだけ洩れなく受信することと,自分が誤った理解をしている場合,早目にそれと感知することとである。(p.48)

 ここには2つのことが述べられている。「受信すること」と「自分の誤りを感知すること」である。前者に関する技法としては,「患者の身になってみる」(p.72)とか,言葉よりも生理的変化や行動に注目する(第5章),患者のことばを鳴き声として聴き,鳴き声や雰囲気を返すこと(第7章),「なぜということばを使わずに問うこと」(第9章)などが挙げられている。どれも興味深い考えだと思うが,中でも特に,「なぜの禁止」は興味深い。「なぜ」には,叱責,強要,吊るし上げの味がしみこんでいて患者の不安や緊張をかきたてる。その上,「なぜ」による問題への接近は,相手(患者)に全面的に依存したものになってしまう。そこで筆者は「なぜ」という発問を禁止し,自分の中で「なぜ」を問いつつ発問を工夫することで,面接技術を磨くことを勧めているのである。

 後者の「自分の誤りを感知すること」に対する筆者の意見も興味深い。それは,「偏見にとらわれることがないようにして,診断を進める」というような空疎な正論に訴えるのではなく,診断における偏見(=経験)の意味や位置づけを考え,自分の偏見を具体的な手続きの中で把握し,センスを磨いていく,ということである(第13章)。こうやって書くと大したことがないように聞こえるかもしれないが,これらがすべて具体的な方策とともに提示されている点がすばらしい。

 また最後には,人間は本来的に保守的なもので,考えを変えるなどの不連続を作りたくない。このような保守性に対処するための方策が2つ示されている(p.249-)。一つは,いくつもの可能性を常に考えるようにすることである。具体的には,第一案だけでなく,その正反対を考え,さらにそれ以外の第三のアイディアを連想でひねり出すことが提唱されている。なるほど,3つというのは重要かもしれない。そしてもう一つの方策が以下のものである。

保守性と共存するための第二の工夫は,考えの道筋を踏みかえ,不連続を作ることを,自分の一貫した生きる道であると考えることである。その心構えをもつと,不連続は表層であり,自己はそれと一体化していない,もう一段深層に一貫した自己の生きる道が在るというイメージが起こる。(p.251)

 うまく文章化できないが,これは批判的思考の基本的心構えそのものである。まことにごもっともと言える。どうやればそういう心構えでいられるのかという実際の問題は,難しいところなのだろうけれども。

■お姉さんであり,かつお姉さんでない(4歳6ヶ月)

2003/01/02(木)

 冬休み,子どもと過ごす時間が増えるので,ちょっとしたテーマを持って子どもを観察することにした。テーマといっても大したことではないのだが,着目したのは「理由表現」である。

 もういつのころからかは忘れたのだが,しばらく前から上の娘(4歳6ヶ月)の言葉に,理由を表す表現が混じるようになった。はじめのうちは,「〜だから」みたいな言葉を使っているだけで,全然理由になっていなかったのだが,いつのころからか,いっぱしの理由を言うようになった。それで,どんなことを理由としてあげているのだろう,というのをきちんと見てみようと思ったわけである。

 とはいえ,24時間一緒にいるわけではないし,すぐにメモできなかったときは記録していないので,取りこぼしがあるかもしれない。それでも,私が気づいただけでも,1日に3回ぐらいは,理由表現を使っていた。例えば,誰かに「歌って」と言われて,「食べてるからだめ」と言ったり。服を着るときに,「ボタンがないからすぐできる」と言いながら服をスパッと着てみせたり。大人からすると当たり前のようだが,こういう理由の使い方は,すごく適切であるように感じる。

 ただ,これだと,いくつかの表現は収集できたとしても,それだけで終わるなあ,と思っていたら,ある日,次のような表現が収集できた。

(「わかった?」と聞かれて)「わからない。だってお姉さんじゃないから。」

 これだけなら別になんということはないが,次の日には,次のように言っていたのである。

(「お手玉,できる?」と聞かれて)「できるかもよ。もうお姉さんだから。」

 この場合の「お姉さん」とは,下に弟や妹がいるという意味ではなく,「赤ちゃんじゃない」とか,「自分で何でもできる人間である」という意味であろう。そういう意味では,上の理由は同語反復と言えなくもない。しかし,あるときは「お姉さんである」ことが理由になり,別のときには「お姉さんじゃない」ことが理由になっているのは,ちょっとおもしろいのではないかと思う。具体的にどう理解するのが最も適切なのかは分からないけど,いくつかのことを考えてみた。

 たとえば,「お姉さんであるかどうか」という基準が彼女の中では大きな位置を占めているといえるかもしれない。いや,彼女の「理由づけ」(=自分の物語)の世界で大きな位置を占めているのかな。あるいは,思春期が大人でも子どもでもないのと同じように,4歳ぐらいというのは,お姉さんでもありお姉さんでもないといえるかもしれない。いやこれも,お姉さんになりたいと同時に,赤ちゃんでいたい気持ちもあるのかな。もっというなら,こういうことは,幼児と思春期だけのことではなく,あらゆる時期の,あらゆるアイデンティティにいえることかもしれない,と考えてみたり。それは状況的学習論における「十全参加」と「周辺参加」と関係があるのかと思ってみたり。

 まあ何が適切なのかはわからない。ただ,大したことがないように思えても,テーマを決めて継続的にデータを集めてみると,思いもよらなかったことが見えたりする(ような気がする)な,とは思った。


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