読書と日々の記録2003.01下

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■読書記録: 31日短評7冊 30日『教えるということ』 28日『教師というアポリア』 24日『じょうずな勉強法』 20日『大衆教育社会のゆくえ』 16日『質的心理学研究第1号』
■日々記録: 26日歯の掃除 22日正月太り 18日4歳7ヵ月児に十余の質問

■1月の読書生活

2003/01/31(金)

 今月は何だか難しい。どれもそこそこ良かったような気もするが,はっきりこれがよかった,と言えるものはというと,なかなか浮かばない。それでもえいやとピックアップするなら, 『追補 精神科診断面接のコツ』(批判的思考者としての臨床家を再認識),『事故調査』(人間要因の重要性を再認識),『じょうずな勉強法』(疑問から学ぶことの重要性を再認識),『教えるということ』(授業における吟味のありかたを再認識),というところだろうか。

 今月は,少し日々の記録を書く気力が戻ってきたかも。本を読む時間を優先させてしまい,書く時間がとれないという問題があるのだが。

『賞の柩』(帚木蓬生 1990/1996 新潮文庫 ISBN: 4101288054 \476)

 最近お気に入りの作家のサスペンス物。この筆者にしては比較的ページ数の少ないものを選んだのだが,それでも300ページ以上ある。が,ほぼ1日で読んでしまった。評価を記号で表すなら○(中の上)というところか。ノーベル賞にまつわる事件が題材なのだが,「研究室の運営は町工場の経営と似ていた」(p.278)という表現は納得。理系と違って文系は基本的に零細企業なのだけれども。

『心のマルチ・ネットワーク─脳と心の多重理論─』(岡野憲一郎 2000 講談社現代新書 ISBN: 4061495194 \660)

 「私たちの心はいくつもの異なる声の間の対話であり,そしてそれらの個々の声が,特定の神経細胞のネットワークに相当している」(p.43)という,心のマルチ・ネットワークモデルを提唱した本。このモデルは,精神分析を専門の一つとする精神科医が,多重人格患者を診た経験や自分が自由連想した経験に基づいて作られている。基本的な考えは,まあ悪くないのではないかと思う。私も『24人のビリー・ミリガン(上・下)』を読んで,似たようなことは考えたし。しかし本書は,理論としては堅牢さが足りないように感じた。後の方で述べられている,「わかった」という体験の正体や偽りの記憶,閾下知覚,新興宗教の話は,あくまでも「このモデルで考えると,これらはこのように説明できる」という程度にとどまっており,「正体」とはいいがたい。モデルの10年後に期待したい。

『夢分析と心理療法』(鑪幹八郎 1998 創元社 ISBN: 4422111957 \1,800)

 夢分析の専門家である筆者が,臨床の中で夢分析をどう扱うかを技術論的に書いた本。夢分析というとおどろおどろしいイメージがあったのだが,主題をクライエント自身が選択できるなど,面接としては自然な流れになる,安全かつ有効な,なかなかのすぐれものであることが分かった。私がなるほどと思ったのは,夢の理解は,面接者の理解ではなくクライエントの理解を優先すべきであるという点。面接者主導になると,知的理解のみにとどまってしまい,意味はわかるが何も変わらない,ということになるという(p.59)。これは,対人理解を考える上でもヒントになりそうな記述である。

『知っていそうで知らないフランス─愛すべきトンデモ民主主義国─』(安達功 2001 平凡社新書 ISBN: 4582851142 \720)

 カトリックや民主主義など,我々が言葉でイメージしているフランスとは違うフランスを紹介した本。筆者は通信社の特派員として4年ほど滞在していたとのことである。一握りのエリートしか許さない学校制度,選挙における2回投票制,大統領と首相の立場が異なる保革共存政権,移民の国であること,長いバカンスと家族制度など,知らなかったことがたくさん書かれていた(もともと私自身,外国事情には疎いのだけれど)。よく日本は,アメリカと違う部分を取り上げて,劣っているかのように言われるが,本書では「日本だけが「特殊」な国ではない」(p.209)ことが示されている。たとえばフランスでも,アメリカのような市場至上主義は嫌悪されているとか,学校制度が日本以上に単線的であるとか。そういう,興味深いところがところどころに見られる本であったが,政治事情などを知らないと楽しめない部分も多少あった。

『日常生活の認知行動─ひとは日常生活でどう計算し,実践するか─』(ジーン・レイヴ 1988/1995 新曜社 ISBN: 4788505169 \3,200)

 再読。やはり難しかった。ただ,ここ二ヶ月ほど頭にある,質的研究の公共性の問題に関しては,「認知活動における(ごく普通の)バリエーションを観察するため,三五人の参加者が,学歴,年齢,卒業後の年数,家族構成,収入のばらつきを考慮して選ばれた」(p.4)と,結論の公共性に配慮するような手続きが取られていた。本書は,「日常のなかでの実践の認知について理論化」(p.28)することを中心課題としているので,当然といえよう。あと,本書の方法は,観察,面接,実験が有機的に連携されている点が魅力であることを再認識した。その点に関しては,「一つの方法に任せていたのでは,調査結果がその手法からどの程度人為的に作られたものがあるか,評価するのは不可能」(p.180)と述べられている。これも御意である。それは質的研究であったも同じはずである。

『ビジネスマン、必読。─会社と国,そして自由を考える100冊─』(斎藤貴男 2001 日経ビジネス人文庫 ISBN: 4532190908 \667)

 『機会不平等』の筆者による書評集。といっても単なる書評集とは違う。本の紹介にかこつけて,筆者の考えやそのときに気になっていることが述べられているような印象。それがいいか悪いかは別にして。ただし,その本がどんな本なのかを詳しく知りたい人向きではない。

『沈黙の春』(レイチェル・ルイス・カーソン 1962/1974 新潮文庫 ISBN: 4102074015 \552)

 微妙な感じの本。豊富なデータを元に言っているようにも見えるが,出典も明確ではないし,「有機農薬である町のある動物が全滅した」のような,おおざっぱな記述が目立つ。因果関係をどのように確認したのかも明確ではないし,全滅という全称否定命題を,どのように立証したのかも不明。こういった点が明確でないと,『買ってはいけない』のようになってしまう危険性がある。もっとも,40年以上も前にこういう問題を提起した点は十分に評価されるべきなのだろうけれども。

■『教えるということ』(林竹二 1990 国土社 ISBN: 4337659021 \1,600)

2003/01/30(木)
〜吟味を通してわがものに〜

 林竹二氏が授業について書いた文章を集めて編集された本。そういう作りなので,重複部分もあるが,授業に対する林氏自身の考え方や,授業の様子をうかがい知ることができて良かった。授業に対する著者の考え方とは,次のようなものである。

私にとって,授業の中で教師に課せられているもっとも大切な仕事は,子どもにたくさん発言させることではなく,子どもの発言をきびしく吟味にかけること(p.25)

 それは,大学で林氏がやっているゼミと同質のものである。筆者はまた,「授業は,子どもの内に一つの事件をひきおこす営み」(p.14)とか,「授業とは,一定のきまったものを与える作業ではなく,子供が,その与えられたものを充分にかみくだき,咀嚼し,わがものとするのを助ける仕事」(p.203)とも書いている。最後の引用にあるように,「吟味」の目的は,「わがものにする」ことの手助けなのである。これは重要な視点であろう。これから考えるなら,「吟味」をすることそのものが重要なのではなく「わがものにする」ことの援助になることであれば,他の手段でもいいのかもしれない。もっとも林氏は,吟味が主たる武器のようであるけど。

 本書には授業の記録が一箇所だけ載っているが,「吟味にかける」に相当しそうな部分としては,次のようなものがあった。

「これはなんだろう」「どうしてわかった?」「でも,どうして?」「ほんとうにビーバーのダムかな」「書いてあるからそうだなんて,きめるわけにいかないよ」「だれが持ってきたの?」「どこかで拾ってくるのかな」「倒れている木がなかったら?」(p.113-115)

 おそらくこれですべてではないのだろうが,こうすることで筆者は,「ほんとうの意味で知識になっていない,知識以前のいろいろな意見,あるいは借り物の知識,あるいは似て非なる知識(これをドクサといいます),それを全部きびしく吟味にかけて,それが維持できないんだということを,ほんとうに子どもに思い知らせる」(p.129)と述べている。なるほど,確かにゼミ的である。

 本書では,随所に子供の感想が載せられているのだが,非常に好意的な反応が多く,「もっと勉強したい」とか,「おもしろかった」「熱中した」という作文が載せられている(もっともそれらが全体に占める割合は不明なのだが)。これは,ひとつには,覚えるだけでなく知的な訓練が行われており,それを子供が歓迎していると見ることもできる。しかしそれだけではないのではないかと思う。というのは,ゼミでも大学の授業でもそうなのだが,「発言をきびしく吟味にかける」という作業をしさせすれば子どもが食らいつくとは限らないからだ。本書に引用されている子どもの感想にも,「写真や図を利用している」「他の先生と違ってやさしい」「問題がおもしろい」などが良かった点としてあげられている。その他にも,著者の目配りのしかたや語りかけ方など,「吟味」以外の要素も大きいのではないかと思う。本書ではそこまでは分からないが。

 なお筆者は,子どもの感想と授業中の写真に見る表情を元に,子どもがこのような授業を歓迎していることを述べている。しかし,写真はともかく,感想は私には,筆者が書いているほどには子どもの内面が現れているかどうかを判断することはできなかった。と思っていたら,巻末の解説で,筆者の同僚も同じようなことを述べていた。それをみて,ちょっとほっとしたりして。まあそれにしても,講義中心ではあるけれども,子どもの心の中に「事件」を引き起こし,知識を自分のものとさせるような授業がありうるのだと再認識できただけでもよかったと思う。

■『教師というアポリア─反省的実践へ─』(佐藤学 1997 世織書房 ISBN: 4906388604 \4,000)

2003/01/28(火)

 『カリキュラムの批評』と同じく,筆者の教育論を集めたもの。本書は,「反省的実践」としての教育実践の再定義に関する論考20篇がおさめられている。筆者の書いたものは,これまでに単著だけで6冊読んでいる。おかげで,大まかには,筆者の書くことは大体わかってきた気がする。あくまでも「気がする」だけだし,細かいところはまだまだだとは思うのだが。以下,そのなかで,本書であらためてナルホドと思った部分をピックアップしておく。

専門家学部の一世紀以上の歴史において,ケース・メソッドを専門家教育の基本的方法とする原則と,長期の臨床的研究や実践的経験を専門家教育の基礎に組織する原則は,時代により揺らぐことはあっても,決して放棄されることはなかった。(p.109-110)

 冒頭に書いたように筆者は,教育を(技術的実践ではなく)反省的実践として再定義しようとしている。そのための方法論は,これまで読んだ本の中では,ある種の授業研究やインフォーマルな研究会,というような記述しかなく,なんだか難しそうだなあ,と思っていた。本書にもたとえば,「一人ひとりの教師の個の経験の軌跡を「小さな物語」として語り記述し批評し合う研究」(p.19)という表現がある。イメージとしては分かるが,これでは具体的に何をすればいいのかわからない。しかし上記のあたりの記述によると,それはある部分では,いくつかの専門教育(法学や経営学など)で行われているケースメソッドと同じことらしい。これならなんとか考えるヒントが得られそうである。もっとも本書によると,ケースメソッドには多様な方法論があるらしいのだが。

「発見学習」の授業スタイルが,実は,教師が準備している「概念」に無意識に統括されていたり,「教師主導」に見える授業も,実は,子どもが自然と出会う契機を開いている場合もありうる(p.360)

 このあたりでは,ナルホドと思ったことはいくつかある。上の発見学習の記述は,「仮説実験授業」にはそのまま当てはまるだろう。しかもそれは「意識的」な統括である。逆に教師主導の一斉授業に関する上の記述は,なんだかそれを悪いもののように思っていつつも,今の自分にはそれしかできなような気がしていた私には,そうではない視点がありうることに気づかせてくれた。筆者は続けて,「授業スタイルの問題は,もっと別の次元,すなわち,教師の科学認識とそこから導かれる学習の次元で捉えなおさなければならない」(p.360)と書き,極地方式などは高く評価しているのである。極地方式については,もう少し知る必要があるかも。

私は,<存在論的接近>を教師の職業生活を対象とする研究の中核に位置づけてきたし,この<存在論的接近>が<規範的接近>や<制度的接近>において探究される教師論や授業論や教師教育論の根底にも貫かれるべきだと考えてきた。(p.7)

 ここのところは,ナルホドではないのだが。その前に用語解説。存在論的接近とは「教師であることはどういうことなのか」という問い,規範的接近は「教師はいかにあるべきか」,制度的接近は「教師とはどういう職業なのか」という問いである(もう一つ,生成的接近=いかにして教師になるか,がある)。この「存在論的問い」が筆者の中核にあるらしいのだが,それが具体的にどのように本書の中に表現され追及されているのかは,残念ながら分からなかった。「教育を反省的実践として再定義する」ということは,教師は反省的実践家でなければならない,という規範的接近に思えるし,本書にもおさめられている新米教師と熟練教師の思考のあり方に関する実証的研究は,生成的接近であろうし。

 先の記述からすると,その根底には存在論的接近が貫かれているのだろうけれども。そこのところが分からないと,おそらく筆者の考えが分かったとはいえないのだろうと思う。私はまだまだのようだな。

■歯の掃除

2003/01/26(日)

 昨日,歯医者さんに歯の掃除に行った。1年半ぶりである。以前は1年に1回は必ず行っていた。しかし今回は,ちょっと忙しかったりサボったりしている間に,1年半もたってしまった。それで,自戒の念を込めて,今回のことを記録しておく。

 今回,歯科衛生士さんに歯の状態をみてもらったところ,歯の裏が着色しており,歯と歯茎の間に歯石もついていたようだ。歯茎も少しはれていた。これを放置すると,歯槽膿漏になるらしい。

 アドバイスとしては,歯並びがあまりよくないので,一本一本の歯が生えている方向を考えながら歯磨きをしないといけない,ということだった。あとは,歯間ブラシとデンタルフロスだ。歯間ブラシは一時熱心にやっていたのだが,いつの間にかやめてしまった。デンタルフロスも,ときどき思いだしたときにやる程度になってしまっている。こういうの,忘れないようにしないといけない。

 私が1年に1回必ず歯の掃除に行こうと思ったのには理由がある。かつて,5年ほど歯科衛生士学校で非常勤講師をしていたのだが,その間にそこの先生方に,歯の掃除の大事さを吹き込まれたのだ。歯医者が怖くないところだということも,その間に学んだように思う。

 とくにある先生が言っていた,「自分は歯医者に行って,ちょっとでも痛かったら文句を言うようにしている」という話は印象的だった。そっか,文句言ってもいいんだ,我慢しなくてもいいんだ,と目からうろこが落ちる思いがした。逆に言うと,どこかで「ガマンしないといけない」と思わせられていたのだ。どこでこんなこと学んだんだろう。でも,こう思って歯医者を恐れている人は多いと思う。歯医者も,痛くないところだということをもっと宣伝すればいいのに。

■『じょうずな勉強法─こうすれば好きになる─』(麻柄啓一 2002 北大路書房 心理学ジュニアライブラリ01 ISBN: 4762822787 \1,200)

2003/01/24(金)
〜疑問や違和感から学ぶ〜

 勉強をする上では,「間違うことが大切だし必要だ」(p.7)と考える筆者による,学習法の本。中学生から大学生までが念頭において書かれている。筆者の関係している本は,『授業づくりの心理学』や『いじめられた知識からのメッセージ』など読んでおり,本書の中には見たことのあるネタもいくつかあった。しかし,基本的なメッセージがしっかりしており,私も授業をする上で役に立つように思えた。

 「間違うことが大切」とは言っても,ただ間違えればいいわけではない。必要なことは,間違えたときに,その間違いの根源を探ることであり,そのために筆者は,「「なぜ?」という素朴な疑問や違和感を口にしてみること」(p.34)を勧めている。そうすれば,その答えは先生や教科書から得られる可能性がある。その結果,新しい知識をすでに知っている知識と結びつけることによって疑問や違和感が解消することができれば,それが楽しい勉強につながるし,そうしてはじめて,誤った知識を捨てることもできるのである(逆に言うと,こういう過程を経なければ,誤認識は誤認識のまま温存されてしまう)。

 このような疑問や違和感も含め,個人的な想い(筆者の言葉では「自分の世界」)を通して知識を得ることを,筆者は「日記を作ること」と呼んでおり,「勉強がうまくいくのは,客観的な知識が<自分の世界>をくぐるとき」(p.110)と述べている。そのような自分の想いとして,筆者は,疑問以外には,感想,世界の広がり,自分の経験との関係,自分の考えの変化,興味,将来像,周りの人との関係などを挙げている。しかしこれらの中核というか出発点にあるのはやはり,「疑問や違和感」であろう。この意味で筆者の推奨する勉強スタイルの中心にあるのは,ある種の批判的思考と言うこともできそうである。

 なお,授業や知識獲得に関する筆者たちのグループの実験には,いつも感心するものがあるのだが,本書でもそういうのがいくつかあった。たとえば,どのような学習観を持っているかを調べるために,「計算過程は間違っているが答えは(たまたま)あっている答案にどのような点数をつけるか」を問う,というものがあった。質問紙で自覚的な態度測定をするのとは違う,ナルホドな方法であった。何かの参考になりそうだと思った。

 #こちらで「学ぶことは日記を作ること」に関する筆者の文章が読める。

■正月太り

2003/01/22(水)

 正月太りした。1kgだけど。それに気づいて運動量を増やしてもう2週間たつというのに,一向に改善しない。足に重りもつけてるのに。

 原因ははっきりしている。1年前とまったくおんなじなのだ。1年前,「次回帰省時には,対策が必要かもしれない」と書いたのに,何の対策もしなかったのだ。

 実は原因はこれだけではない。思えば昨年9月に帰省したとき,論文書きに忙しくてほとんど運動しなかった。にも関わらず,体重は増加しなかった。それに味をしめて,ここ3ヶ月ほど,通勤時のウォーキング以外は運動らしい運動も,摂食(主にお菓子)制限もしなかった。それでも体重は増えはしなかったのだ。そこで,「ひょっとして,太りにくい体質に変わってるのかも?」と思ってしまった。

 ところが現実はそう甘くなかった。というか,増えるのも減るのも,「きっかけ」と「蓄積」の両方が必要なのかもしれない(このことは,体重以外のことにも当てはまるかもしれない)。ということで,しばらくは蓄積作りをしてみますか。

■『大衆教育社会のゆくえ─学歴主義と平等神話の戦後史─』(苅谷剛彦 1995 中公新書 ISBN: 4121012496 \700)

2003/01/20(月)

 日本に特徴的な学歴社会がどのように生まれ,それがどこに向かうのかを論じた本。こういう問題に関しては,『機会不平等』(2000)なんて本も読んでるし,それに比べると本書はやや古いので,まあ読まなくてもいいかと思っていたが,古本屋で安く出ていたので買ってみた。読んでみたら,非常に面白かった。それは,現在の日本の教育の成り立ちを,資料や統計を元に丁寧に,かつ謎にせまるよう論じているからである。それだけではない。本書は「教育」という観点から,教育だけでなく,「戦後日本の社会の成り立ち」まで論じている。しかも,我々が常識と思っていることを常識と捉えず,比較社会学という観点でその「当たり前でなさ」を暴いていく。そのような謎解きの面白さが本書にはあった。

 筆者の謎解きによると,日本の社会とは,次のような社会である。

実際には学校を通じて不平等の再生産が行われていても,そのような事実にあえて目を向けない仕組みが作動している(p.205)

つまり,「不平等の再生産が行われている」社会であり,「それが見えにくい」社会なのである。不平等の再生産が行われていることは,「東大やその他の有力大学への入学のチャンスといったところでは,戦後一貫して特定の階層出身者に有利な構造が維持されてきた」(p.71)ことから論じられている。その根拠となっているのは,上層ノンマニュアルの出身者が有力大学への入学者が多いというデータである。

 しかしこのような構造は,人々が教育に向けるまなざし(=思い込み?)によって「見えにくく」なっている。それは,教育機会があらゆる階層に開放されているというまなざしであり,どの子も無限の可能性を持っているという「能力=平等観」である。そして,このような仕組み(大衆教育社会)が,最近の教育改革によってゆらぎはじめている。それは,不平等の再生産を拡大するのではないか,というのが筆者の示唆である。

 豊富なデータと精緻な論証で,きわめて説得的に展開された議論であった。ただし残念なことがある。たとえば,「ではどうすればいいのか」が明示されていないことである。もちろんそれは難しいことなのかもしれない。しかし,現在の教育改革に多少なりとも夢をもっている人間としては,その問題点を指摘されそれに納得しはしたけれども,じゃあどうしたらいいのかが見えないと,不安を煽られただけで終わってしまう。もちろんそれを指摘することは難しいことなのだろうけれども。

 筆者はそういう示唆を全く書いていないわけではない。しかしそれは,「教育に何を期待すべきかではなく,何を期待してはいけないのかを論じること」(p.218)という表現であったり,「私たちの教育の論じ方そのものの成立を議論の対象に捉えてみること」(p.220)と書かれていたりする。後者は,本書が行っていることそのものであるが,これだけでは,今後の方向性が出てくるものではないのだろう(あれば本書でもっと明確に論じられていてもよさそうなものである)。前者は,何かヒントになりそうな記述ではあるが,本書ではこれ以上のことは書かれていない。筆者の他の著作を探して見るしかないのだろうか。既に読んだ『教育改革の幻想』なんかにすでに書かれていることなのかな。

 他にも残念だった点としては,筆者の描いた戦後日本社会が今ひとつクリアにイメージできなかった点があげられる。たとえば不平等の再生産」に関しては,有力大学への入学者に特定階層のものが多いことは示されているが,それがどのような「特定の階層出身者に有利な構造」に支えられたものであるのかは,明確には示されていない。また,日本の学歴エリートは階層中立的な学校文化を背景としているために基盤が脆弱というが,それはなぜ「特定の階層」や「有利な構造」が基盤にならなかったのかも,私には今ひとつ分からなかった。もっともこれは私の理解力不足のせいかもしれない。それでも,見えにくい階層をもつ社会,という視点は,教育を考えるうえで忘れてはならないものであろう。

■4歳7ヵ月児に十余の質問

2003/01/18(土)

 1年前にやった,発達検査(日本版デンバー式発達スクリーニング検査)の質問を,数日前に上の娘(4歳7ヶ月)にやってみた。検査者は母親。これも2年前から3回目である(カッコ内は1年前の答え。太字は両者の答えの違う部分。アンダーラインは私があとでコメントした部分)。

  1. お名前を教えてください
    みちたまあ(仮名)です (みちたまあちゃんです)
  2. 何歳ですか?
    4さいです (3さい)
  3. お腹が減ったときどうしますか?
    ごはんとかたべればいいです (ごはんたべる)
  4. 寒いときは?
    んー,おようふくとかえりまきとかやったらいい (ながそで きる)
  5. 疲れたときは?
    んー,すこしきゅうけいしたらいい (ねむる)
  6. 火は熱いよね。氷は?
    つめたい (こおりはつめたい)
  7. お母さんは女です。じゃあお父さんは?
    おとこ (おとこ)
  8. 馬は大きい。ねずみは?
    ちいちゃい (ちいちゃい)
  9. ボールってどんなものですか?
    んー,ボール,ぽんってするやつ (ボールぽんするの
  10. 湖ってどんなものですか?
    んー,スケートでぇ,しゅるーってするもの (わからない)
  11. 机ってどんなものですか?
    ごはんとかのせるもの (つくえって,テーブルでごはんたべること
  12. おうちってどんなものですか?
    んー,みんながー,おうちにはいるの ドアがあってトイレとかあるところ 〔昨年は質問なし〕
  13. バナナってどんなもの?
    バナナはー,つるつるってするもの 〔昨年は質問なし〕
  14. カーテンってどんなもの?
    カーテンってー,いつもよるになったらしめるの 〔昨年は質問なし〕
  15. じゃ天井ってなあに?
    てんじょう? てんじょうってどんなの? 〔昨年は質問なし〕
  16. 垣根ってどんなもの?
    かきねもしらない。なあに,かきねって? 〔昨年は質問なし〕
  17. スプーンって何でできてるかなあ?
    うーんわからない。おしょくじとかでできている 〔昨年は質問なし〕
  18. 靴って何でできてるかなあ?
    わからない。むずかしいこというなー 〔昨年は質問なし〕
  19. ドアって何でできてる?
    ...ぜんぶわからないどれでつくれらたか。ぎゅうにゅうならしってるよ! (何でできてる?) ぎゅうにゅうはね,うしでできてる 〔昨年は質問なし〕

 ちょっと思ったことを。

 あと娘は,このシチュエーションをなんだか学校的なものとして捉えていたようだ。というのは,上には書いていないのだが,娘は検査者である母親に向かって「ママせんせいだから」と言ったり,絵描き課題ができたとき,「できました」と言っていたりするのだ。横で一緒に遊んでいた下の娘(2歳4ヵ月)が「ママできたよ」と,普段どおりの言葉遣いをしていたのとは,対照的である(もっとも上の娘も,後半は日常モードで返答してたのだが)。これはひとつには,母親が「それじゃはじめます。こんばんは。お名前を教えてください 」などと,フォーマルな雰囲気で始めたことに一因があるかもしれない。それに対して娘は,自分の名前に「ちゃん」を付けずに答えたり,「〜です」と,普段とは違う丁寧な答え方をしている(はじめのうちだけだけど)。他にも,母親が言っていることが,母親的ではなく先生的というか。

 とはいえ,子どもの「先生」イメージには幅がある。下の娘は保育園に行くことを「しぇんしぇーいく」と言う。下の娘にとっては「先生」とは,単に保育者(遊んでくれたり抱っこしてくれたりする人)とイコールでしかない。とはいっても上の娘も,幼稚園やナントカ教室など,学校的な先生がいる場所にいったことはないはずなのだが,最近なんだか学校的なものの存在を知っているようで,それらしい発言がときどき聞かれる。机の上にノートを広げて「まあちゃんおべんきょうしてるの」と言ったり,「じゃあまあちゃんせんせいだからね,おなじようにやってよ」と言って,プチ先生ごっこしたり。どうやら最近,上の娘の先生イメージが変わりつつあると言うか学校的なものに近づいていっているらしい。そういう活動が,保育園でも増えているのかもしれない。

 1年前,(発達検査の)「質問に支障なく答えられるということは,学校のような場所に適応できることを示しているのかもしれない」と考察した。今思うことは,検査というシチュエーション自体が,きわめて学校的なものということである。I(教示)−R(反応)−E(評価)構造のうちの最初の2つはあるわけだし。

 いや,評価がないことはないのだが,日常の会話で自然に出てくるタイプの評価(「えー? 違うんじゃないの?」とか「そうだよね」みたいな)さえもない。それどころか,「どんなの?」「なあに?」(15−16番)と被検査者がいくら問うても,あるいは,検査と関係ないこと(19番)をいくら言っても,答や反応が得られることはない。質問しているのは答を知っている者であり,主導権を握っているのも検査者のみである。このように検査には,学校と同じ非対等構造(問う者−答え,評価される者)をもつ,きわめて非日常的(学校的)なシチュエーションといえそうである。

■『質的心理学研究第1号』(無藤隆ほか編 2002 新曜社 ISBN: 4788507943 \2,800)

2003/01/16(木)
〜公共性の保証はいかに?〜

 これまでの心理学関係雑誌における質的研究の位置づけに不満のある人たちが企画した,質的研究の論文集。8つの論文と8つのブックレビューがおさめられている。学術雑誌(定期刊行物)なのだが,学術団体を背景として出されているのではないせいか,ISSNではなくISBNがついている。

 質的研究という概念が幅広いせいか,あるいは,日本における質的研究の概念が共通理解を得ていないせいかはわからないが,各論文が念頭においている「質的研究」の定義には,非常に幅があるように感じる。

 また,質的研究というと,『人間現象としての保育研究 増補版』の読書記録の中で論じた「公共性」の問題が気になるところであるが,この点については,ブックレビューの中で渡邊氏が,「従来型の客観主義的な方法論を捨てたとき,心理学者が一般人ではなく「学者」であるということは何によって保証されるのか,そもそも保証されるべきなのかということは気になっている」(p.144)と論じている。ここでいう「学者であることの保証」のなかに,「知識の公共性の保証」という問題が含まれているのであれば,私も同感である。

 この「知識の公共性」の問題についても,本書に収録されている各論文のスタンスはさまざまであるように思われる。そのなかでは,論文が2編収録されているやまだ氏が,もっとも明確に知識の公共性の問題を考えているように私には思えた。たとえば,次のような記述が見られた。

 とくに最後のくだりは,挑発的でさえある。というのは,本書におさめられている論文で扱われている対象者の数は,やまだ氏の論文と,テクスト分析を行っている論文を除くと,6名,7名程度,3名,2名,20名と,どれも少ないのである。それに対してやまだ氏は,1600人の被験者のデータを元に論じている。この違いは,結果や結論の公共性に対する意識の違いではないかと思う。では少数事例分析をした筆者たちは,結果の公共性についてどのように考えているのか,知りたいところである。

 とまあ疑問点はあるものの,各論文からは,質的研究を行ううえでの方法論的な示唆を得ることができた。これをもとに,私にとって必要/有用な質的研究について考えてみたいと思っている。


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