読書と日々の記録2003.02下

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■読書記録: 28日短評6冊 24日『戦略的思考の技術』 20日『デモクラシーの帝国』 16日『話すということ』
■日々記録:

■2月の読書生活

2003/02/28(金)

 そろそろ徒歩通勤で汗ばむ陽気になってきた。

 今月は,月半ばに,大急ぎで仕上げなければいけない大仕事が舞い込んできたので,後半は読書どころではなかった。この状態は少なくとも来月中旬までは続く予定である。ということで来月から,定期更新をもう一日延ばして,5日に一回とすることにしようと思っている。今のペースにしたのが2000年5月なので,まあよく続いたと思っている。

 ということで今月は,総冊数も少ないのだが,そのなかで強いてよかったものを挙げるなら,『身体から表象へ』(やっぱり身体性って大事だよね)と『デモクラシーの帝国』(ナルホドそうだったのかあ勉強になったなあ)ぐらいか。強いて挙げれば『話すということ』も入るかな。

『政治の教室』(橋爪大三郎 2001 PHP新書 ISBN: 4569618456 \660)

 政治を専門としない社会学者による,政治の本。政治とはどういうもので,どう言う歴史があるのか,今の政治を変えるにはどうしたらいいかが書かれている。政治の歴史は,ちょっと単純化されすぎているような気がしないでもないが,歴史の流れを大づかみに理解するにはいいかもしれない。筆者の基本的な立場は,民主制が一番すっきりしている制度である,というもののようだ。また筆者の考える民主主義とは,多数決によって多数の意思のありかを知り,それを現実化する,というもので,『デモクラシーの論じ方』に出てくる「B」の立場に近いのではないかと思う。政治の質を高める方策も,「競争原理を働かせる」(p.171)というもので,それ以外の方策はあまり考えられていないようだ。ある立場からの民主主義観を理解するには悪くない本だとは思うのだが(例によって政治経済オンチの私が言うことなので当てにはならない)。

『記憶力を強くする─最新脳科学が語る記憶のしくみと鍛え方─』(池谷裕二 2001 講談社ブルーバックス ISBN: 4062573156 \980)

 記憶に関する脳科学が,わかりやすく書かれた本。わかりやすくするために挿入されたのだろうと思われる,日常的なエピソードや,「記憶の鍛え方」の話は,私はあんまりおもしろくなかった。しかし,最近の雑誌に載せられている研究成果などは,本書の文脈に合わせて,きわめてうまく説明されていたように思う。ちょっと気になったのは,「意識」という語の使われ方。筆者は「潜在的な意識」(p.25)という使い方をしている。これは注釈が必要であるように思う。あとは「知能」。HMの症例では,「知能は高いが記憶が失われている」と,両者を区別して書いているのに,最後の方では,記憶力増強=知能のドーピング(p.248)と,両者をごっちゃにして使っている。小さい点だが気になった。

『はじめてのディベート─効く力・話す力・考える力がぐんぐん身につく!─』(西部直樹 1998 あさ出版 ISBN: 4900699292 \1,500)

 初心者向けのディベート入門の本。といっても,ディベートの独習書というよりも,ディベート紹介本だと思う。内容は,ディベートとは何か,ディベートの準備のしかた,試合について,論理とプレゼンテーション,ディベート紙上再現,となっている(タイトルは私が適当に付けた)。内容的にはなかなか実用的と思った。ただ,ひとつ気になったこと。ディベート本ではよく,ディベートによって多角的な視点が身につけられるという記述がある。本書でも「個人的意見と関わりなく,肯定・否定が決められることによって,必然的に多角的に物事を見ざるを得なくなります。自分の意見を主張する場合は,物事を一方向からのみ考えがちです。」(p.31)という記述がある。しかし本当にそうだろうかと思う。第一に,ディベートは肯定vs否定なので,「多」ではなく「二面」でしかない。第三の立場や止揚的立場というのは,少なくともディベート中にはありえない。それに,上にある「物事を一方向からのみ考えがち」というのは,「自分の意見を主張する場合」だけの話ではなく,「一方の立場のみから論じる場合」全般に当てはまることではないのだろうか。

『被抑圧者の教育学』(パウロ・フレイレ 1970/1979 亜紀書房 ISBN: 4750579076 \1,845)

 再読。今回は,本書の小難しさばかりが目に付いた再読で,あまり得るところはなかった。解説の人は本書の小難しさを,「抽象化し普遍化し諸思想によってそれをうらうち」しているのだ,と好意的にみている。しかし著者本人が本文のなかで,「教育者と政治家が話をしても理解されないことが多いのは,かれらの言葉使いが,聞き手の具体的状況に波長を合わせていないからである」(p.110)と書いていることからすると,もう少し本書も書きようが会ったのではないかと思う。勝手な一読者の意見でしかないといわれればそれまでではあるが。

『霧のむこうのふしぎな町』(柏葉幸子 1975 講談社)

 妻が図書館から借りてきた本。なるほど仕事をする話だなあ,という程度の印象しかない。あと,しいて思ったことと言えば,そういえば『魔女の宅急便』も少女が仕事をする話だなあ,なんてことだ。オソマツ。

『クリティカル・シンキング』(ポ−ル&エルダー 2001/2003 東洋経済新報社 ISBN: 4492554696 \2,200)

 うーん,ポールって結構好きだったのだが,この本は,ありきたりの思考系自己啓発書のようだ。言ってることはまあもっともではあるのだが,具体性がない。「ほかの人の視点に立てるよう努力し,自分の視点にとらわれることを防ぎましょう」(p.198)とか。それが大事だとわかっていても,どうしたらいいか分からなければ,どうしようもないと思うのだ。本書で強調されているのは,訓練,意識化,内省みたいなことしかない。これじゃああんまり役に立たないと思うのだが。

■『戦略的思考の技術』(梶井厚志 2002 中公新書 ISBN: 4121016580 \760)

2003/02/24(月)

 戦略的に考えるとはどういうことで,それで何がわかるのかを解説した本。戦略的思考とは,自分と他人の行動や思考がお互いの利害を決める環境(戦略的環境)にいることを認識した上で,合理的に意思決定すること(p.4)らしい。

 ごく常識的なレベルでいうならば,他人に何か言う前に,「相手がどのような戦略で立ち向かってくる可能性があるのかリストアップしてから考える」(p.15)といったものだ。それができれば,たとえば囚人のジレンマゲームで使われるような利得行列を作って,合理的に意思決定することができるわけである。

 しかし現実には,相手の行動可能性をリストアップし,適切な利得を配点することは,とても難しいことだろうと思う。そして本書でも,そういったことは具体的にどうやれば適切にできるのかについては,一言も触れられていない。しかしそれができなければ,合理的な意思決定はまあ不可能だろう。そういう意味では本書は,「合理的に意思決定する」技術ややり方について解いた本ではないと言える。

 では本書はどういう本かというと,戦略的思考業界の専門用語を用いて現実世界(の合理/非合理性)を読み解みて見せる本だろうと思われる。そのことは次の記述にも現れている。

ゲーム理論は,囲碁将棋のような具体的なゲームの必勝法の解明にも役立つが,社会科学でのゲーム理論の目的はそこにあるのではない。重要なのは戦略的思考の原則に即して考えた時に,現実問題がどのように理解できるか,ということなのである。(p.43)

 たとえばインセンティブ(賞罰あるいは賞罰を与える仕組み)という観点で大学の授業評価を考えてみると,授業評価は「興味深い講義を教員にさせるための手段とも位置づけられているが,評価するだけでは成果を測定しようとしているにすぎず,インセンティブの構造は大して変わらない」(p.75)ので,何も変わりはしないだろうと言える。これもまあ常識的と言えば常識的かもしれないが,しかし,授業評価を導入しさえすればしないよりもいくらかはマシ的な発想に対する反論としては悪くないかもしれない。なお,インセンティブだの行動だのがこの業界では重視されているようで,行動分析学と親和性が高いように思えた。

 そのほかに興味深かったのは,シグナリング(戦略的に相手に合図を送ること)である。たとえば,商品の返品を認める,という売買契約があるが,それは,品質に対する自信があるというシグナルになる。ただし返品できる条件が制約されていたりすると,それはシグナルとして機能しない,なんて話である。

 あと本書では,オークションに1章さかれているのだが,「オークションの戦略的構造はかなり複雑であって,理論的に未解決の部分も多い」(p.244)のだそうである。私はオークションはやったことがないが,考えて見れば,家電製品が時間とともにだんだん値段が下がっていくのも,洋服のバーゲンなども,スーパーで閉店前に安売りするのも,どれもオークション(価格下落型)と同じである。そのつもりで戦略的思考をしながら買い物をすると,あとで「しまった!」なんて思うこともないかもしれない。

 まあ何度か書いたように,この本で読み解かれている現実は,なんだか常識的なことを言っているように聞こえるものも多かったが,興味深い話もいくつかあった。もう少し学問的なはなしの香りも聞きたかったかな,という読後感である。筆者の狙いはそういうところにはなかったのかもしれないけど。

■『デモクラシーの帝国』(藤原帰一 2002 岩波新書 ISBN: 400430802X \740)

2003/02/20(木)

 先日,テレビのニュースを見ながら妻が,「どうしてアメリカは戦争をしたがるのかしら?」とつぶやいた。そのとき私は,まさに本書を読んでいたので,その理由は分かっているつもりだった。が,うまく説明できなかった。そこで,妻への説明もかねて,本書の内容をまとめてみたい。

 まずあらかじめお断りしておくと,私は何度も書いているように政治経済オンチである。そのうえ,本書の内容も,わかったような気になっていたが,丁寧に追っていくと,案外,筋が複雑であることがわかった。したがって,以下に書いたものが,本書の適切な要約である保証はない。私なりにはこのように理解した,という程度のものである。

 タイトルにあるように,筆者はアメリカを「帝国」として捉えている。帝国とは誤解され易そうな表現だが,「政治や政策の評価ではなく,現代社会における力の分布と力の行使を捕まえる観念」(p.3)である。要するに,圧倒的な力を持つ大国による支配を浮き彫りにしようとして,筆者は「帝国」という言葉を使う。

 帝国という概念から見たアメリカを,筆者は次のように表現している。

本書では,軍事力の国際的分布から帝国を捉え,特定の政府に軍事力が集中した状況を「帝国秩序」として考えている。この帝国秩序は,以下に述べるような一方的抑止,内政と外交の連続,そして軍の警察化という三つの点で,通常の国際関係とは異なった特徴を持っている。(p.31)

 つまり,アメリカが帝国たる所以は,第一に圧倒的な軍事力によるものというわけである。そこでは,冷戦下のような相互抑止は働かず,アメリカは他国を抑止できるが他国はアメリカを抑止できない,という一方的抑止状況が生まれる。それは協調よりも単独行動の誘惑が高められる状況である。また,一方的な軍事力を背景に他国の内政に干渉することも可能になり,軍事行動が,帝国支配下での安定を維持するための「警察行動」に近い性格を帯びることになる。帝国支配下での安定を維持するために,「アメリカに対抗できるような大国や同盟が生まれない努力」(p.140)を行う。簡単に言えば,これが「アメリカが戦争したがる」理由である。

 しかもその戦いには,「自由と民主主義を広げる」という大義名分がついている。なぜ他国を(暗に)支配することが自由のためになるのか。それは,アメリカの基盤が民族によっていない,という点にある。アメリカとは,特定の民族性や言語,宗教などによって支えることのできない,多民族国家である。そこで,国家の基盤が,民族などではなく理念やイデオロギーによって与えられることになる。それがデモクラシーである。それが普遍的な理念であることを基盤として多文化・多民族を統合し,アメリカが国家として成り立っているのである。そして,その普遍的で「自由な空間を外部に広げることは,内政干渉どころか自由の拡大であり,無謀な権力行使ではなく使命の実現だ」(p.30)という考えが生まれる。そして,先の「軍事力」とこの「普遍的理念の標榜」が組み合わさると,「デモクラシーを強制する帝国」(p.53)が生まれるのである。

 デモクラシーの帝国は,9.11テロによって完成を見た。それは,帝国として行動するためには軍事費がかかるわけだが,9.11によって国際的関与への無条件の支持が生まれ,予算や世論という足かせが取り払われたのである。もっとも,それまでも帝国になる要素は整っていたし,そういう行動も行われていた。それは,冷戦下で地域紛争に介入し,政治工作を行うという形で行われていた。それが冷戦終結前よりもおおっぴらに行われるようになり,9.11でそれが加速された。これが今日の状況なのである。

 うまくまとまったかどうかはわからないが,このような視点を本書から得ることができた。それによって,最近のアメリカの行動や報道を見る視点も得ることができたように思う。話がもう少し整理されているといいのに,と思う部分もあったが,得るところの大きい本であった。

■『話すということ─朗読源論への試み─』(竹内敏晴 1981/1994 国土社 ISBN: 4337659544 \2,600)

2003/02/16(日)

 『「からだ」と「ことば」のレッスン』などに本の筆者による本。本書は国土社の「現代教育101選」の1冊で,筆者の他の本に比べて,教育色が強くなっているような気がする。この人の本も4冊目なので,言わんとしているところもだいぶ分かってきたが,本書でも新たな発見があった。今回の発見は,私がなぜこの人の書くものに惹かれるか,その一因がわかったことである。一因というか,2つ理由があるのだが。

 ひとつは,私との共通点である。筆者は次のように書いている。

オレは,概念的な単語で概念的なことをしゃべるのっての,ものすごく不得手でさ,だから,おとなのしゃべり方ができないわけだ,元来。だけども,プリミティブな認識の過程をことばにすることこそ,子どもにとって基本的に大切だということは,体験をかけて主張したい。(p.70)

 前半は私もまったく同じである。そこで,「プリミティブな認識の過程をことばにする」ことが大切だ,ということも同感である。それは,何かを表現するときに,子ども(だけでなく人)の認識過程や思考過程からみて不自然でない形で表現する,ということである。そういう観点で筆者は国語の教科書の文章を吟味し,たとえば「細長い貝の形の花びら」という表現が,「イメージは最終の形へいくまで幾転換もしなくてはならない」(p.64)ことを問題にする。自然ではないので,耳にすっと入ってこないのである。

 こういう,自然なイメージや自然なわかりやすさを重視している点は,私も普段から気にしている点であり,筆者の主張が私にとって入ってきやすい部分なのだろうと思う。こういう共通性があるとは,本書を読むまでは思いもしなかったのだが。

 もう一つは,私の「課題」と関係した部分である。教師のことばについて,筆者は次のように書く。

教師の場合には〔中略〕相手である子どもがその表現を理解できたかどうか,そのからだ全体の反応を感じとって,それに応じて自分の働きかけ,ことばとか身ぶりとかを変えて,授業を展開していくという能力があるかどうかということが,決定的に重要な要素になるだろうと思うのです。(p.225)

 筆者のことばのレッスンでは,文章の朗読や歌が主に使われる。しかしそこで必要とされる,「相手への働きかけ」は,話すこと全般に共通することである。授業をすることを含めて。そして私は,授業をするときに,相手の反応を見るということが,とても苦手なのである。感じはするのだと思うが,何人もいるとどこに焦点を当てていいか分からないし,こちらの言葉がうまく受け止められていない人というのは,いつでも必ずいるものだが,そういう人ばかりを気にしていると,ちっとも先に進むことができないし,そういう人を相手にしていると,逆によくわかっている人(早く先を聞きたい人)のことが今度は気になってしょうがなくなる。それに,そういうことばかりに気を遣っていると,とても疲れるのだ。しかしそれじゃいけないよなあ,と常日頃思っているところなのである。すぐに筆者の方法や考えが応用できるとは思わないが,何かヒントなり,視点を広げるようなことが得られれば,と思う。


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