15日『人生を物語る』 10日『日本語ディベートの技法』 5日『精神科養生のコツ』 | |
| 13日姉妹らしい遊び 6日舌足らずとか「いてーんだよ」とか 4日最近の健康状態 |
人生を物語ることの意味を明らかにしようとする,ライフストーリー研究の理論と実践を集めたもの。ライフストーリーは,「その人が生きている経験を有機的に組織し,意味づける行為」(p.1)と定義づけられている。確かに人は,自分の人生の出来事を,ある一定のやり方で語ることで,自分や出来事を意味づけし,理解している。つまり,出来事や行動を通して人を理解するのではなく,意味づけを通して人を理解する。そういう研究である。それが研究としては具体的に,どういう形で,何を目指して行われるのか。私は本書を,そういう興味で読んだ。
本書は全部で8章あるが,その中で私が一番わかり易かったのは,頭部外傷者の自己理解(自己のとらえ直しの語り)について書かれた,能智氏の章である。氏は,質的研究について,次のように書いている。
特殊事例の記述に飽きたらず,また従来の世論調査的サーベイにも違和感をもつ研究者に新たなアプローチを提供してくれる方法論として,最近では質的方法(Qualitative method)が注目されています。質的方法というのは,研究対象者の観察記録や面接を中心的なデータとしながらもっぱら言語的な分析を行う研究法の総称で,エスノグラフィー,エスノメソドロジー,グラウンディッドセオリー法などがそこに含まれます。〔中略〕そこで目指されているのは,個別事例の具体性を保ちながらデータを整理し,そのカテゴリーに属する人々の経験の特質を取り出して彼らを内部の視点から理解することです。また,これまではマジョリティによって一方的に対象化されがちであった人びとに,生身の個人としての「声」を与えると言う目的を重視する研究者もいます(Richardson, L., 1990)。(p.186)
これでいうと,先の私の問いに対する答としては,「言語的な分析」が方法論,「内部の視点からの理解」が目的ということになる。さらに具体的な分析としては,インフォーマントの語りに見られる語りの方略の典型的なものを取りだして類型化し,さらにそれを2次元平面上に位置づけることで,そこで取られている方略を理解する枠組みを示す,というやり方がとられている。こうすることで,「一方的に対象化」するわけでも,個別のままで論じるわけでもなく,中間レベルで(かつインフォーマントの内部的視点を重視して)データを整理して提示することに成功しているのである。
私自身ときどき,一般的な研究の気持ち悪さや狭さを書いているが,その一部は,対象を研究者の視点だけで一方的に対象化しているところから来ている。その気持ち悪さを回避するのに,このような質的方法は有効そうであることを,本書であらためて認識した。
なお,最初の章で編者のやまだ氏は,ライフストーリーの研究のあり方として,3つのタイプをあげている。「類型化に向かう素データとしてのライフストーリー」「それ自体を典型事例として生かすライフストーリー」,そしてやまだ氏自身が目指す第三の方向性である「質は「質」として生かし,モデル構成によって一般化をめざす方法論」(p.14)の3つである。これでいうならば,能智氏の方法論は,第一のものといえそうである。では,やまだ氏が目指す第三の道とはどういうものだろうか。
実はそれは今ひとつよくわからなかった。本書にはやまだ氏の研究も載せられているのだが,どうも私にはそれは,能智氏のものとあまり変わらない,「意味に着目して類型化する」方向性にしか見えないのである。私の理解が悪いのかもしれないし,ここに載せられているやまだ氏の研究は第三の道を目指しているものではないかもしれない。そのどちらなのかは分からないが,どうも質的研究には,能智氏の論文を読んだときのようなスッキリ感と同時に,こういうなんだかよくわからない感も付きまとう。それを理解することが,当面の私のテーマなわけだが。
上の娘も4歳9ヵ月になった。最近は,下の娘と遊ぶ時,なんだかいかにも「姉と妹」が遊んでいるっぽい遊びをしていることが多い。変ないい方だが。
逆に言うとちょっと前までは,あまり姉妹っぽくない遊び方だった。というのは,下の娘がまず動き,それを真似する形で上の娘が動く,という遊びがわりと多かったのだ。まあ上の娘は,前から「パパになる」とか「魔女の宅急便ごっこ」みたいな,マネっこ遊びが好きだった。それと同じで,下の娘の真似をする,という遊びをしていたのだ。真似をすると言うよりも,ただついて回る,みたいな感じで,どっちが上でどっちが下か分からない遊びだなあ,と思ったり,上の娘の主体性のなさに,ちょっと不安を覚えたりしたものだ。
それが今では,普通に上の娘が下の娘をリードしつつ,一緒に遊んでいるのである。今も,歯医者さんごっこだの,保育園ごっこみたいなことを,上の娘が状況設定しながらやっている。そこにも,歯医者さんだの,保育園の先生のマネっこがはいってはいるわけだが,目の前の人を模倣しているわけではない点が大きく違う。
こういうことができるようになったのには,上の娘も下の娘も,それができるような成長をしたからだろう。上の娘は,ごっこ遊びがしたいというか,自分で状況を作って大人のように振舞いたい,という時期なのだろう。下の娘も,そういう状況に合わせて行動し,姉の指示に従える,という成長があるのだろう。ちょっと前だったら,下の娘は,自分のしたいことができないと泣いて怒っていたはずだ。いまはそういうことも(あまり)なく,おとなしく従っているのが,ちょっと不思議でさえある。まあときどき,お互いのしたいことがぶつかってケンカしたりもするのだけれど,それもすぐに元に戻って楽しく遊び始める。
そうやって二人で遊んでくれるおかげで,私はこうやって,娘たちを観察しながら日記が書けるのであった。。
この読書記録を始めてから,ディベート本は4冊目である(長評としては『実践!アカデミック・ディベート』,『ザ・ディベート』)。ディベートを見たこともやったこともない私も,一冊ごとにディベートについての理解が広がっていく。本書もそうであった。
一番ナルホドと思ったのは,ディベートはシミュレーションであるという説明である。
「わが社は年俸制を導入すべきである」というような新しい政策(システム)を提案する論題の場合,「ディベートはシミュレーション」だと考えるとよい。/論題に対する答がYESだったとしたら,どのような議論が構築できるか。NOだとしたら,どのような議論が構築されるか,というように考える。/つまりあなたはどっちの立場ですか,というような結論そのものではなく,結論に到達するまでの根拠を問題としている。(p.15)
なるほど,そう考えるのであれば,一方の立場を割り振るというディベートのゲーム性を,現実の思考や問題解決との関連で理解することができそうである。筆者は,行政組織のディベート研修の講師などを積極的にされているようだが,その仕事を通して,「議論ができる組織作り」(p.72)あるいは「「議論文化」を創造」(p.51)することを目指しておられるようである。それは必要なことだし,そのための一つの方策として,ディベートのような形で気楽に議論に触れる機会を持つ,というのは,悪くない方法であろうと思う。
ただひとつ思うのは,たとえば,議論文化創造に貢献する,ということを考えた場合,「ディベート」を出発点として考えるのと,現実の問題や議論を出発点として考えるのでは,そのアプローチ法は,重なる部分は大きいにしても,内容的にはかなり異なるのではないだろうか。これは本書についての意見ではなく,「ディベートの本」一般に言えることだし,ディベートの本では,その点が目的とされることはあまりないだろうから,これはディベートの本の範囲を超えた話になるのだが,ちょっと思ったので書きとめておく。
要するに,ディベートの本はあくまでもディベートの本であるので,そのルール内でのテクニックや方法論が中心になってしまう,ということである。あるいは政策に関する議論で言うと,両方の立場をシミュレーションすることは重要だろうが,実際には,そうやって両方の立場を考えたその後が重要なのだろうと思うが,ディベートの本という体裁をとってしまうと,そこの部分を論じる余地はなくなってしまう。
あるいは,ディベートでは「相手の話を鵜呑みにしないで判断する」ことが要求されるのだろうが,しかし,ディベートの中で使われる証拠文献に関しては,権威性に疑問のつかない人の書いた文献であれば,その内容は疑問に付されることなく証拠として通用してしまう,ということは少なからずあるのではないだろうか。本書に載せられているディベート原稿の中にもあるのだが,たとえば「安楽死によって弱者が切り捨てられる」ことを主張するのに,「安楽死の思想が広がれば,弱者切捨てと言う風潮につながる恐れがある」(p.126)という記述が証拠として使われたりする。これは主張と証拠が同じことをいっているわけで,「私はこう思う。その理由は,ある人がこういっているからである」といっているのとあまり変わらなくなる(もっとも筆者は,このディベート例が上出来のものといっているわけではなく,「まだまだ改善の余地がある」(p.118)と述べているが)。
まあ証拠が問題なのであれば,相手が反論の時間に突けばいいことなので,これが問題になるかどうかは,相手次第かもしれない。あるいは,ちゃんとしたディベータなら複数の証拠に当たったり集めたりするのかもしれない。そうではないにしても,普段,何も証拠なしにある事柄を論じたりすることも多い中,ひとつでも証拠を探すということが習慣付けられるだけでも,教育上は悪くはないのかもしれない。
しかし,現実の議論や思考の中で,考えが深まっていくのは,こういう一つの証拠をめぐって疑問を深め追求を深めていくようなところからだろうと思う。追求する中で,その点自体に議論の焦点が移るというような形で,問題設定そのものを積極的に変えていったり。ディベートはゲームという性質上,そういうところまでは行われない。このあたりに,ディベートを通した思考教育と,批判的思考教育の差があるかもしれない。
1年前は片言で単語中心に喋っていた下の娘(2歳6ヵ月)。今はというと...
けっこう文章を喋っているのだが,ちょっと舌足らずだ。たとえばラ行がヤ行になるのである。食べる→たべゆ,とか,ブランコ→ぶーやんこ,とか。こういうのがあると,赤ちゃん臭くてカワイイ。
独特なのが,たとえばある絵本を読みたいとき,「よんだい,よんだい」(読みたい,読みたい)というのである。誰かがそういういい方をしたわけではないだろうに,どこでこういういい方を思いついたんだか。
あと,実にうまいタイミングで親の口癖を真似する。たとえば妻が,「ねえ,ママのこと好き?」と聞くと,「んー,それはどうかな?」なんていったりする。うけるツボを押さえているみたいだ。
こないだは,押入れの中に入っていたら,頭をぶつけたらしく,「いてーんだよ!」なんていっていた。私の真似だ。これは狙っていっているのかどうかわからないのだけれど。まあ,笑える娘に成長しているようでウレシイ。
神田橋氏の「コツ」三部作(『精神療法面接のコツ』,『追補 精神科診断面接のコツ』)の最後の一冊。最初の2冊が専門家向けに書かれているのに対して,本書は,患者や一般の人向けに書かれている。
基本メッセージは明快である。
「気持ちがいい」という感じをつかんで,その感じですべてを判定すること。(p.11)
これだけである。しかしそれで1冊の本になっているということは,こうすることがいかに難しいことか,ということだろう。筆者自身がそう述べているわけではないが,私はそのように理解した。
まず第一に,「気持ちがいいという感じをつかむ」ことが難しい。それは,普段そういうことをあまり意識していないからであり,それに,「どこに注目して「気持ちいい」を感じるか」が難しいからである。前者は,気持ちよさよりも頑張り,今よりも将来ばかりを優先して考えてしまう,という現代人の行き方の問題である。将来を優先することを筆者は「現在の道具化」と呼んでいる。これは,『サヨナラ、学校化社会』で上野氏が「学校化社会」とか「学校的価値」と呼んだものと,基本的に同じものであろう(そういえば上野氏の基本メッセージも「自分が気持ちいいと思えることを自分で探りあてながら,将来のためではなく現在をせいいっぱい楽しく生きる」であった。本書とまったく同じだ)。
話を元に戻す。後者の「どの気持ちよさに注目するか」については,筆者は「こころ」と「心身」を対比させて考えているようである。例えば食べ物で言うと,体に必要あるいは相性のいい食べ物を見分ける能力をもっているのに,「ヒトはその能力が鈍くなっており,かわりにチョコレートが好きとか寿司は嫌いとかの好き嫌い,つまりこころの好き嫌いで行動する動物になってしまっている」(p.84)というような使い方をしている。あるいは,次のような記述もある。
精神科の病気や心身症の患者のなかには,体の感覚が鈍い人が多いのです。こころがこころだけで孤立している人が多いのです。こころと体は互いに影響しあっていることが実感できること,そのこと事態が健康法なのです。(p.155)
つまり筆者のいう「こころ」とは「体から切り離されたたもの」ということであり,体の要求や相性に気づくことが重要,ということを,全編を通して言っているようである。その方策の一つとして本書の中盤ではかなりのスペースを割いて,指テスト,骨の歪みの直し方,気功法などについて書かれており,その辺の記述の適否は私にはわからなかったが。もっとも,まずは試して見て,体の反応を見てみなければいけないのだろうけれども。
さらに話を戻す。冒頭に書いた基本メッセージが難しい理由の第二である。それは,「気持ちを判定基準に据える」ことの難しさである。普通は「養生のコツ」というと,具体的なやり方が示され「これがコツです」と言われる。しかし本書は違う。具体的なやり方は示されるものの,最終的には自分の体(気持ちよさ)で判断してください,といわれるのである。言われてみれば当たり前のようだが,普段はあまり考えないことであろう。あるいは,「病名」を通して自分を理解し,対処法を考える。しかし本書の考え方は,「病名は養生にはあまり役に立たない」(p.203)というものである。どうやらこれは,漢方的な考え方らしい。
さて,このように体(心身)を重視する筆者は,病気も「悪者」だとは考えない。「病と折り合う」「病と仲良く」が筆者の基本的スタンスである。それは,精神科の病気は他の病気と違って慢性のものだから,ということのようである。まあこういう考え方は,慢性の病気であればさほど珍しいものではないだろう。しかしそこから先の具体論が違う。筆者は,症状は自然治癒力の現れであり,ある種の能力と考えている。前者は正確には,「病気の症状はすべて,いのちがよくない状態になっていることを教える働きと,回復しようとする自然治癒力の働きとをどこかに含んでいる」(p.45)と表現されている。したがって,それを利用し応用するのが養生ということになる。たとえば「吐いているとき,吐いた直後に「気持ちがいい」ならば,吐くのを続けるのがよい」(p.47)というようなことである。あるいは,病気が悪いときに気が立って物を壊したりする人は,日ごろから何かを壊す作業をするのが養生となる。もちろん何が養生になるかは,その人が具合が悪いときに何をするかをよく観察し,しかもそれが「気持ちがいいか」どうかを考えなければならない。
という具合に本書では,目からウロコの逆転の,あるいは盲点の発想がたくさん載っていた。そういう部分は,折に触れ役に立つのではないかと思った。
1ヵ月前,胃が痛かった。その後しばらく胃部不快感はあったが,やわらかいものを中心に,よく噛んで,食べすぎないように気をつけながら食事をしたせいか,今のところ痛みはおさまっている。
そしてこれには余禄があった。正月太り以来,どんなにがんばっても落ちなかった体重がどんどん落ち,減量開始以来の最低記録を更新したのだ。もっともそれは元に戻りつつあるが,それにしても,減量終了後の安定期よりは,500gから1kg低い数値でとどまっている。ちょっとオドロキである。
まあこれがいつまで続くかは分からない。それにしても,いったん落ちたり増えたりした体重がけっこう持続することが分かった。やはり体重変化に「きっかけ」は,かなり重要なのかも知れない。
#おかげで筋トレもどきはさぼっているのだけど。忙しいし。