読書と日々の記録2003.05上

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■読書記録: 15日『女の能力、男の能力』 10日『デモクラシー』 5日『学びの身体技法』
■日々記録: 13日成長を感じる娘 6日象の好きな娘 3日最近の読書生活

■『女の能力、男の能力─性差について科学者が答える─』(ドリーン・キムラ 1999/2001 新曜社 ISBN: 4788507706 \2,900)

2003/05/15(木)
〜性差を通して認知の進化を知る〜

 男女の平均的な差を、主に単純な認知・運動能力を対象として、実験的に検討した研究を概説した本。それを通して、認知のパターンの現れ方には、生物学的な影響に基づく男女差があることを論じている。

 こういう性差研究は、なかなか難しいものがある。それは、フェミニズム研究者からの激しい攻撃にさらされる、という点もある。それに加えて難しいのは、特に人間を対象とした場合には、性差を実験変数として実験者が操作するわけにはいかず、純粋な実験の俎上に乗せることができない、という難しさもある。

 しかし本書は、その点を、多方面からの証拠を用いてうまく回避(できるところは)されており、論理的な推論の手本といってもよさそうな議論が積み重ねられている。もちろんそれは、この領域についての素人である私の判断によるものではあるのだが。

 たとえば、的当ての成績は、平均的にいって女性よりも男性のほうが高い。それが体格の違いに由来するものではないことを示すために、ホモセクシャルの男性の的当てスキルがヘテロセクシャルの女性とほぼ同じであることを示している。このことから、「男性的な肉体」を持っていることが重要なのではなく、ホルモン的に男性的である必要がある、ということができる。これだけでなく、そのほかにも過去のスポーツ経験、幼児のデータやキー押しのデータなども併用された上で、結論が導かれているのである。

 他の章では、人間以外の哺乳類のデータも使われていたり、自然のホルモン変動下での遂行成績の変化、同性内での個人差、他の人種のデータ、複数のテスト間の変化パターンの比較などが用いられている。そのうえ、わからないことはわからないと、また、ある解釈の問題点は問題点として指摘されており、特定の方向性のある結論に無理に導こうとする姿勢は(私が見る限り)見られなかった。しいて言えば一箇所、男女の数学能力の差異を論じているところで、教える教師は一人なので教師側の要因であるとは考えにくい、と論じている点はどうかと思った。ここでは教師の先入観(男性の方が数学ができるので高い期待をもって接する、などの)が考慮されていない。この点はもう少し検討すべきではなかろうか、と感じた。そういうのは、ここ1箇所だけであった。

 本書(やこの領域)の研究目的は、性差を明らかにすることそのものではなさそうである。この点については、「男女の違いを知ることは、男女に限らず人一般に当てはまる脳と行動的傾向の関係について知る一つの方法」(p.15)という記述がある。つまり目的は、認知能力そのものであり、その個人差の理解なのであり、それにアクセスするための大きな切り口が、性差なのである。それは男女がこれまでの生活の中で役割分担をしており、その中で進化してきたから、ということのようである。したがって本書では、男女差が進化論的な観点から解釈されている。本書を見るかぎり、性差は人間の認知特性を知る上で、なかなか効果的な切り口であるように思えた。

 なお冒頭で述べたように、本書で対象としているのは、単純な認知や運動であり、そこでは性差が見つかっている。しかし日常では、たとえば地図を読むにしても人の話を聞くにしても、単純な認知過程ではなく、複数の認知能力がかかわっているし、複数の方略がありうるので、一般には日常では、実験で得られたような明確な男女差は見出されにくい。本書で扱われているような研究は、ともすれば日常の男女差に過度に適用されたり一般化されてトンデモになる可能性は高い。本書では、最後に統計に関するクリシン的解説などもつけられており、そういう点には十分配慮した書かれ方がされており、難しいテーマをうまく扱っている本であると感じた。

■成長を感じる娘(4歳11ヶ月)

2003/05/13(火)

 最近、なんだか上の娘(4歳11ヶ月)の成長を感じる。

 たとえば、妻に文句を言われたとき、理屈を言い返す。それがけっこうマトモな理屈になっているのである。ちょっと具体例はすぐには思い浮かばないのだが。

 あるいは、いっぱしのことをいう。たとえば、妻がピアノを弾いていた。それを横で聞いていた上の娘は、「おー,いいじゃんいいじゃん」なんていっていた。ちょっとオヤジっぽいけど。

 あるいは、私たち親に何か言われると、すぐに「わかるよ」といいたがる。「わかるってばー」と強調されることもある。なんだか、自分の有能さをアピールしたいかのようにも見える。

 先日は、娘二人と公園に行ったのだが、上の娘はずっと一人でブランコをこいでいだ。以前はまったくできなくて、私がずっと押してやらなければいけなかった。ちょっと前にはこげるようになっていたのだが、「つかれるー」とかいって、ちょっとこいだだけで、すぐ私の助力を求めていた。一人で最初から最後までこいだのは、先日の土曜日が初めてだったのではないかと思う。プチ感動した。これで下の娘も手がかからなくなれば、私は公園でゆっくり読書ができる、と思いながら。

 こんなに急に最近、成長を見せるようになったのは、ひょっとしたら、幼稚園に通い始めたからかもしれない。まあ単に成熟しただけなのかもしれないけど。

■『デモクラシー─思考のフロンティア─』(千葉真 2000 岩波書店 ISBN: 4000264281 \1,200)

2003/05/10(土)
〜ふぞろいの民主主義たち〜

 民主主義について、古代ギリシア型と近代西欧型の特徴や問題点を論じ、精神の自由論を論じ、近代日本における民主主義の伝統について論じた本。はっきりいって、後半はよくわからなかった。が、前半は非常に興味深かったので、ここで取り上げることにした(ただし、政治経済オンチである私のまとめなので、どれほど適切な記述かは保証の限りではない)。

 ということで、前半部分だけについて書くのだが、筆者の基本的な考えは、次のようなものである。

本書は、民主主義には大別して、直接民主主義と間接民主主義という二つの異なった種(species)ないし種類(kinds)があり、この二つの民主主義(two democracies)のあいだには、安易に同一種として認識するのをためらわせるだけの矛盾や齟齬があるという解釈に立脚している。(p.v)

 直接民主主義は民衆の自己統治、間接民主主義は代表者による委任統治的な寡頭政の一形態、ということなのである。私も民主主義については、いくつか本を読んでいるが、なんだかあんまりすっきりとはわからないなあと思っていたのだが、本書を読んで、なるほど別物なのかあ、と目からうろこが落ちる感じであった。そうすると現代や過去の状況も、「二つの民主主義が、デモクラシーの正統性をかけて競合しあっている」(p.v)状況と理解することが可能である。そういえば『デモクラシーの論じ方』では2つの対立軸でデモクラシーが論じられているが、それは正統性をめぐる争いだったのだ。そう考えるとなんだかすっきりする気がする。

 また、近代西欧型民主主義にしても、一枚岩ではない。筆者によると、古代ギリシア的な「デモクラシー」に「ナショナル」なものが17〜18世紀に付け加わり、さらに18世紀末から「資本主義」的なものが加わり、この三頭立てのトロイカ体制が現代の民主主義であるという。そしてこの「三頭の馬は、それぞれ独自の思惑とリズムとを有し、この三頭立ての馬車を御すのは西欧各国にとってなかなか骨折り」(p.28)なのである。こちらも、なるほど、トロイカ体制か、と目ウロコであった。この言い方で言うと、『デモクラシーの帝国』としてのアメリカとは、ナショナルなものをきっかけとして他国に介入してデモクラシーを広め、資本主義的な部分で支配する帝国、といえそうである。また、『民主主義とは何なのか』で紹介されていた、フランス革命におけるデモクラシーの暴走は、トロイカのうちのナショナルなものの暴走といえる(というか、筆者がp.35あたりでそう書いている)。

 あと、ソクラテスの「自己吟味の問答法」を、本書では「自己吟味デモクラシー」として、言説的民主主義や審議的民主主義のプロトタイプと位置づけている。

仮にアテナイのデーモスのあいだにソクラテス流の自己吟味の問答法が欠けていたとしたならば、民主政はさながら無節操な欲望自然主義に頽落し、デマゴーグや悪党どもの巣窟になりかねないであろう。その限りで自己吟味の問答法は、すぐれて民主主義的な実践でもありえたわけである。(p.70)

 素人考えであるが、これは現代でも必要とされていることであろう。というか、いつの時代のどの民主主義にも言えることではないだろうか。たとえそれが代表者による委任統治的な寡頭政であったとしても。つまり、直接民主主義でない民主主義にも、吟味や問答はあるわけで、その意味では、筆者が別物といったこの二者を、単純に別物というのも問題がありはしないだろうか、なんて思ったりした。あくまでも素人考えだが。

■象の好きな娘(2歳8ヶ月)

2003/05/06(火)

 いつの頃からかは忘れたのだが、今、下の娘(2歳8ヶ月)は、象に夢中である。

 たぶん始まりは、象さんのぬいぐるみを手に入れたときからではないかと思う。始終そのぬいぐるみを抱っこしているのである。どこへ行くときも連れて行く。なくしたりするといけないから、と置いていかせようとすると、泣いて怒る。

 あるいは、テレビや絵本で象が出てきたとする。すると、「しーちゃん(仮名)のぞうさん!」と言って大喜びするのである。冗談で「あれはパパのだよ」などと言おうものなら、もう大変。「しーちゃんの、しーちゃんの」と、泣いて怒るのである。

 ところで、下の娘がはいているオムツは、前にも後ろにも動物のイラストが描かれている。以前は、絵柄にこだわらず、出されたオムツを素直にはいていた。次には、選んでもらったことに満足しなくなったので、2〜3このオムツの中で「今日はどれがいいか」を自分で選ばせて、はかせるようにしていた。

 それが今度は、「ぞうさんがいいの、ぞうさんがいいの」と他の動物のをはかなくなってきた。象のイラストがついたオムツがあるうちは、それをはかせれば満足し、なくなってしまうと「もうないよ」といえば、ほかのをはいてくれていた。

 ところが最近、それでは納得しなくなった。どうしても「ぞうさんがいい」といいはるのである。ときには、象のイラストが後ろに描かれているものではだめで、「ぞうさんが前だった、ぞうさんが前だった」と、前に象が描かれたものでないとはかない、とまでいい始めたのだ。

 困った妻は、最後の手として、(別の動物が描かれた)オムツに、手書きで象の絵を描くことにした。そう提案したら、娘はこの交渉で妥協してくれたのである。おかげで妻は、オムツをはかせるたびに絵を描くはめになってしまった(最近は描かなくてもよくなったみたいだけど)。でも幼児のこだわりって、大変である反面、ちょっと頼もしいような気もしないでもない。まあ傍観者だから言えることかもしれないけれど。

■『学びの身体技法』(佐藤学 1997 太郎二郎社 ISBN: 4811806433 \2,000)

2003/05/05(月)
〜考える出発点のある本〜

 いつも佐藤学氏の本を読むと,ここに答えがある,という思いに駆られる。それが具体的に何なのかは,はっきりとはわからないが。というか、読んでしばらくすると、それが何だったのか、うまく思い出せなくなるのだけれど。そうならないためにも、これは、と思った点を中心に記録しておく。

 本書で言うと,教材の知識を地図に例えたデューイの話は興味深かった。

デューイは、学びを既知から未知への「旅」と定義したうえで、「知識」の伝達と習得に終始する教育も「体験」や「活動」を絶対化する教育も、ともに学びを実現しない教育として厳しく批判している。(p.20)

 教科書に依存した教育は地図の上での虚構の旅,体験主義(のみ)の教育は地図を与えない彷徨、ということのようである。私も以前、学問を地図にたとえ、地図上での虚構の旅に対する違和感を表明したことがあったが、ここで述べられているのは、それだけではなく、地図なしの旅の問題点も加えられている。両者とも重要であるということか。ちょっとしたヒントが得られたような気がする。

 次は、技法の教育と自己表現の関連について。

逆説的なようだが、一度、「自己表現」の呪縛や「自由な表現」から離れて、思いきり制約のある表現を追及してみることである。技法の教育の重要性はここにあるのではないだろうか。(p.46)

 この話は、いつも自由という言葉と結びついて語られる自己表現がかえって不自由なものである、というところから始まっている。自由も不自由だが、技法も不自由である。では自由はどこにあるのか。どのように獲得可能なのか。これも、ここしばらく私のテーマなのだが、ちょっとしたヒントになりそうである。

 ちなみにもう一箇所面白いと思ったのは、歴史の出発点は個々人の歴史にある、という話(p.135)である。これは、この文章をまとめながら思ったことなのだが、ここにあげたものはどれも、2つのもののバランスをとる問題といえそうである。地図と体験、自由と技法、一定の傾向性としての歴史と個々人のもつ多様な歴史、という。いや、単なる「バランス」だけの話ではないのだろうけれども。これらの問題にそれなりに私なりの意見を持つことができるようになるといいのだが。そういう意味では、佐藤氏の本は、答えがあるというよりは、ヒントがある本、いや、考える出発点のある本といえるかもしれない。

■最近の読書生活

2003/05/03(土)

 思えば1年前はたくさん本を読んでいたなあ、と遠い目をしたくなる今日この頃である。ちなみに4月で比べると、今年が10冊、1年前が19冊、2年前は14冊、3年前は16冊であった。激減である。

 減った理由はいくつかある。が、一番の理由は「気持ち」かもしれない。確かに2〜3月は忙しかった。それであまり読めなかった。そこで、読書記録(長評)の冊数を減らすことにした。それで気が緩んだのが大きそうである。

 これまでの経験上、長評したくなる本に行き当たる確率は、50%前後である。ということで、長評予定数の倍も読めば、つい満足してしまって、それ以上読まなくなった、というわけである。空いた時間は何をしているかというと、子供と遊んだり、テレビを見たり、ボーっとしてすごしたりしている。でも、時間があまってしょうがない、みたいな感じはまったくしない。それなりに忙しく時間がつぶれているのである。

 読書記録を始めてから、よく人に、「どうしてそんなにたくさん本が読めるのか?」と聞かれた。やっている当時、私はそんなに無理をしている感じはしていなかった。だからそういうとき、「普通に読んでいるだけ」みたいな答え方をしていた。でも今の私は、そのころの私に、同じ質問をしたい心境だ。どうしてそんなにたくさん本が読めていたんだろう。

 よく考えてみると、このころは(というよりは1月ぐらいまでは)、ちょっとでも時間ができると本を読んでいたように思う。10分でも15分でも。そういう時間を1日に何回かとると、それなりに読めてしまう。ちりも積もれば山となる、である。考えてみたら、今はそういうことをしていない。

 またバンバン「ちりを積んで」みたい気もする。でも、この3年半で初めてといっていいほど、体は動かない。ま、今は「ちりを積む」以外のことを楽しむ時期かもしれない。


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