読書と日々の記録2003.06上

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■読書記録: 15日『A』 10日『人間科学』 5日『マルチメディアでフィールドワーク』
■日々記録: 14日尿管結石 11日保育参観 7日星を書く4歳児 6日否定する2歳児

■『A─マスコミが報道しなかったオウムの素顔─』(森達也 2002 角川文庫 ISBN:4043625014 600円)

〜フィールドワークとしてのドキュメンタリー〜

 オウム真理教のドキュメンタリーを作成した筆者による、一種の撮影日誌。非常に興味深かった。撮影日誌といっても、この言葉から一般に連想されるような内容ではない。撮影は中止を命じられるし、番組関係者に作品を売り込んでも相手にされないし、途中で他の仕事はクビになるし、警察の不当逮捕の現場を目撃(撮影)したためにまたひと悶着起きるし。

 この本で記されていることを一言で言うと、オウム真理教のフィールドワークだろう。広報の荒木氏に着目し、彼を中心に信者たちと関係を作り取材や観察を行い、オウム真理教内部の空気を吸う。その中で見えてきたのは、オウムが外の世界となんら変わらない世界だということのようだ。

 フィールドワークとはいっても、通常社会学で行われているようなフィールドワークとは違う面もある(私の理解では)。たとえば筆者は、信者と一緒に「修行」することは拒否している。「そこまで同化することも対象との距離感を失いそうで、直感的な忌避感がある」(p.108-109)という理由のようだ。まあこれについてはいろいろなスタンスがありうるだろうが、フィールドワーカーなら修行に参加しているのではないかと思う。もちろんそうしなくても見えてくるものはたくさんあることは本書でわかるのだが。

 また本書では、「筆者自身」のことがけっこう出てくる。たとえば「「オウムとは何か?」という命題を抱えて撮影を始めた僕が、いつのまにか、「おまえは何だ?」「ここで何をしている?」「なぜここにいる?」と自分に問いかけ続けている」(p.55)というように。こういうのも、学問的なフィールドワークではあまり見られないような気がする(私の知るかぎりでは)。上の問いを見ても、焦点が絞りきれていないという感じもするが、そうやって焦点を絞らないことで、オウムを通して自分や社会やマスコミなどさまざまなものが見えてくる、という点もあるようである。そして少なくとも本書では、その試みは成功しているように私には思えた。

 筆者はいわゆる通常のマスコミの枠をはみ出してこの作品を作ったわけだが、そのようにはみ出したがために、その作業を通して「通常のマスコミの枠」(のおかしさ)がその視点から照らし出されている。そういう点はいくつもあるのだが、たとえばオウムとの関わり方がある。通常のマスコミは、オウムの施設の内部を見るにしても、「荒木浩という観光ガイドに引率されるパック旅行の観光客のように、施設内を案内され、視界に入るめぼしいものにはとにかくレンズを向け、幾つかの質問を荒木浩に浴びせて、そして彼らは満足げに、それぞれが帰属する組織へと帰っていく」(p.159)という、筆者の関わり方とは対極にある関わり方をする。あるいは、信者たちがオウムに惹かれた理由を、マスコミ(に引っ張り出された評論家たち)は、さまざまに解釈する。しかし筆者はいう。

そんな理由は信者によって様々だし、解明する意味はない。〔中略〕どれもが間違いではないが一部でしかない。父性を渇望する人も、被差別者も、アニメおたくも、彼らの世界と同量にこちら側にもいる。濃淡はあっても峻別はできない。(p.113-113)

 これらの点から見ると、通常のマスコミは表面だけを見て一つの理由を求めたがるといえそうである。それに対して筆者は、一人一人の違いをきちんと見据えながら、自分自身や社会のあり方までも問いに含めながら、吟味を深めていく。この2者の対比は、(できの悪い)量的調査と(できの良い)質的調査の対比そのものである。

 もっとも筆者は、すべてを個人差で片付けるわけではない。「残された信者、逮捕された信者が、今もオウムにこだわり続ける理由は解かなくてはならない」(p.113)と考え、信者個人個人の日常をみることを通して、オウム全体に共通する答えをおぼろげながらも見出している。このように適切な問いを探し、ボトムアップ的にその答えを模索する点も、きわめてフィールドワーク的である。そういう視点で見なくても、十分に興味深いノンフィクションなのだが。

■尿管結石

2003/06/14(土)

 今朝6時、腰の痛みで目が覚めた。ヘルニアが再発したんだと思った。数日前から腰の調子は悪かったし、昨日は不機嫌な上の娘(5歳0ヶ月)をなだめるためにダッコしたりしたし。

 いつものように、腰に負担がかからない姿勢にして、痛みが治まるのをまった。しかしちっとも痛みは治まらない。それどころか、ますます痛くなってくる。しょうがないので妻を呼んだ。妻に手伝ってもらって着替え、タクシーを呼んでもらい、近くの大きな病院に行った。

 病院に向かうタクシーの中でも痛みはますます強まってくる。辛いのでシートに横になっていたら、病院についたら運転手さんが車椅子で受付まで連れて行ってくれた。感謝。

 「腰の痛み、吐き気、手足のしびれ」と訴えると整形外科に運んでくれた。検温、血圧測定、問診や触診、レントゲンを受けたが、ヘルニアではなさそうだという。そういえば寝ていてもちっとも楽にならないし、ヘルニアになるきっかけが思いつかない。

 それからもさらに痛みは強まる。その辛さはうめき声になって現れる。最初は「ンー」だったのだが、次第に「ウー」になり、「アー」になり、声が大きくなっていった。そうしても痛みは変わらないのだけれど、自然に出てしまうのである。出産直前の妊婦のようだと思ったが、こちらは痛みが間断なく襲ってくる。「七転八倒」とはこのことかと思った。それぐらい痛かった。7時過ぎにようやく座薬を入れてもらい、それから10分ぐらいで痛みはウソのようになくなった。ほっとした。

 その後、尿検査や腹部エコーを受け、尿管結石らしいことがわかった。帰宅後、ネットで調べ見ると、尿管結石は再発することが多いという。恐ろしい。節制して暮らすべきなのだろうけれども、自分の性格からしても、喉もと過ぎれば暑さを忘れそうだしなあ。まあ座薬を切らさないようにするか。それにしても最近は病院にお世話になることが多いなあ。トシを感じるというか。とりあえず水を大量に飲むことを心がけますか。

■保育参観

2003/06/11(水)

 昨日の午前中,上の娘(4歳11ヶ月)の保育参観に行ってきた。

 この幼稚園に行くのは今年からで,初めての参観だったので,どういう一日の過ごし方なのかが,はじめてわかった。昨日は,9時半までが自由遊び,10時までがお外遊び,10時半ぐらいまでが,全学年集まって外での朝会(歌や体操あり),それから教室に戻って授業(たぶん1つ),という流れであった。

 ちょっと驚いたのは,子どもたちがちゃんと統制されていたこと。朝会にしても授業にしても。朝会なんて,100人近くの子どもがいるわけで,烏合の衆になってもおかしくないのだが,きちんと静かにしていたし,みんな歌も体操もちゃんとやっていた。年少組など,入園してからまだ2ヶ月ちょっとのはずなのだが,どうやって仕込んだのかちょっと知りたい気もする。

 興味深かったのは授業。昨日あったのは何でも「ピアジェの時間」というらしく,前々から時間割を見てなんだろうと思っていたのが,正体がわかった。昨日のは,お花の書かれたカードを分類する,という遊びだった。種類が3種類(タンポポ,ひまわり,チューリップ),色が3つ(赤,黄色,白),大きさが2つ(大,小)あり,どれかの属性に着目して分類する,という遊びである。これがなんで「ピアジェ」というのか,誰が名づけたのか,何を狙っているのかは,これからの要調査課題である(やるかどうかはわからないけど)。

 去年まで行っていた保育園は「参加」だった。今年はオーソドックスな「参観」スタイルであった。教室の後ろで子どもを眺め,お互いに交流はしないという。これはこれでいいのだけれど,ちょっとは参加もしてみたいと思ったりして。

 #2時間以上立っていたせいか,最後は腰が痛くなってちょっと辛かった。トシやのー。

 ##ちょっと検索してみると,「ピアジェ博士の理論をふまえた教材を使用しています」という幼稚園は山のようにある模様。ひょっとしたらこれのことなのかな。「ピアジェ博士が監修された世界で唯一つの教材」だそうだ。ふーん。

■『人間科学』(養老孟司 2002 筑摩書房 ISBN: 4480860649 1,810円)

2003/06/10(火)
〜変化から生まれる固定〜

 科学の視点から「ヒトとは何か」を考えようとした本。それを筆者は「人間科学」と称している。この場合の人間科学とは、単に「人間」を対象とした「科学」という意味ではなさそうである。筆者は次のように述べている。

ここでの人間科学は、物質・エネルギー系に加えるに情報という視点から、人間を考えることになる。(p.17)

 古典的には、科学の対象は物質とエネルギーであった。典型的には物理学や医学がそうである。心理学は、基本的に人間の行動を対象としているが、それを実験・調査するやり方は、きわめて物理学的なものであるし、実験の結果は、人間という「物質」の振る舞いとして法則化される。そういう意味では、心理学もここでいう人間科学ではなく、物理学の流れを汲む古典的科学と言える。

 正確に言うと、物質やエネルギーの振る舞いを法則としてあらわすのがこれらの学問である。この場合の「法則」がここでいう「情報」にあたる。情報の特質は、変化しないもの、固定されたものということである。それに対して物質(実体)は、絶えず変化している。人間に関わる情報としては、言葉や遺伝子がある。それらは、脳や細胞という物質(でできている「生きたシステム」)から生み出され、変換され、翻訳され、複製される。

 このように人間を、細胞ー遺伝子および脳−言葉という「システム−情報」に分け、両者の相互作用、すなわち「「生きている」システムの中で、どのようにして「固定した」情報が産出されるのか」(p.50)を考えるのが、筆者のいう人間科学である。なおこの引用は、「心身問題」の人間科学的な表現と筆者は述べている。すなわち、このように人間を、システムと情報の問題と捉えなおしたとき、哲学もその射程の中に含まれるのである(というか、それが中心テーマのようである)。

 このように人間科学的視点から見たときに、捉えなおされるのは科学や哲学だけではない。歴史、都市の意味、宗教、日本文化論、自己、クオリア、進化、性差(ジェンダー)なども本書では論じられている。全部は紹介できないが、たとえば文化に関していうと、「情報という視点からすれば、西欧風の自己とは、それぞれの個人が固定点だというものである。」(p.133)などと論じられている。それに対して日本は伝統的に、「変転極まりないものとしての個」を停止(固定)させるために身分制度が存在する社会であった。この対比は、個人主義と集団主義を情報という観点から論じたものである。このようにすべては、物質のように変動するものをいかに情報として固定するか、という視点から論じられる。

 一つ一つの問題はそれだけで数冊の本になってもおかしくない問題なので、ここで論じられているのはあくまでも簡単なアウトラインで、十分に網羅的な検討・検証がされているとはいいがたいが、しかし、人間を統一的に論じる論点として「システム−情報」(変動−固定)という観点がいかに強力なものであるかを示すことには成功していると思う。なかには大雑把に見える議論もないわけではないが。

■星を書く4歳児

2003/06/07(土)

 つい先ほどのこと。上の娘(4歳11ヶ月)が「お星さま書いて」と、紙と鉛筆を持ってやってきた。5本の線で一筆書きで書くアレだ。自分が書きたいので、お手本を求めてやってきたようだ。

 書いてやったが、それをうまく真似することができないようである。娘が書いているのを見ると、くさび形というか、昔の石器の矢じりというか幅のある逆「V」の字みたいなのを書いている。

 そこで、一歩ずつ教えることにした。まず、5本の線の4本だけを書いて1本未完成な星形を書いて、「もう一本線を書いて星にしてごらん」というと、それはすぐにできた。次に、3本だけを書いて、残りの2本を付け加えさせる。これもできた。次に、2本だけを書いて(逆Vの字ですね)、残りの3本を付け加えさせようとしたら、これはできなかった。(私が書いた2本の線に続く)第三の線を適切な位置に書くのが難しいらしかった。へえ、こういうのが難しいんだ。発見だった。

 そこで今度は、何もないところから、3本目の線までを書かせてみた(数字の「4」が裏返ってちょっと傾いたようなヤツですね)。これは書けたのだが、面白いことに、私の手本とは傾きが違っている。未完成の星形というよりも、「×」の右側を垂直線で閉じた形になっている。これを見て私は「魚みたいだ」と思った。そこで、魚で攻めてみることにした。

 「おさかなさんだね」と言いながら、縦線の右に点をひとつ打って、「これはお魚さんの目だよ」と言い、「しっぽと目を線で結んでごらん」と言って、やらせてみたのだ。これはすぐにできた。これで書き方のイメージができたのか、そしてしばらくもしないうちに、何もないところから一人で全部書けるようになった。

 どうやら「魚」が成功したようだ。単なるスモールステップよりも、具体物のイメージが大事という部分に、「教育」に対するちょっとしたヒントがあるような気がして、日記に記録した次第。

■否定する2歳児

2003/06/06(金)

 最近、下の娘(現在2歳9ヶ月)は、「違うよ」みたいなことを言うことが多くなった。

 たとえば昨日、上の娘が照る照る坊主の歌を歌っていた。「♪てるてるぼーず てるぼーず あーした天気になーれ」と歌ったところ、すかさず下の娘が聞きとがめて「ちがうよ。あーした天気にしておくれ、だよ」という具合である。

 あるいは,朝NHKでやっているミッフィーのテーマソングを,私が(わざと)間違えて歌ったりする。「♪ミッフィー,だっふぃー」 すると下の娘はすかさず「ダッフィーじゃないよ,大好きーだよ」と訂正してくれる。ちなみに「だっふぃー」というのは,娘たちには最初そう聞こえていたらしく,娘たちが歌っていた歌詞だ。今は正しく歌っているのだが,この言い方がなんとなくかわいいので,私がいつまで真似していると,本当に間違えたと思って怒りながら訂正されるのである。

 そういえば下の娘は,ちょうど1年前も「チャウチャウ」といっていた。でも今の「違うよ」と「チャウチャウ」は,似ているようで違う。チャウチャウは,自分の意に沿わないことがあるときや,自分が思ったのと違うことをされたときにいう言葉だ。ぎゅーにゅーちょーだいといったのにお茶を出されたときに言う,みたいな。それが「自分の意図するもの」と違っていることを伝える言葉というか。

 それに対して,最近使っている「違うよ」は,自分の意図や意思ではなく,その場で従うべき「ルール」みたいなものとのズレを指摘する言葉だ。

 ちなみにこれと同じ考察を,私は上の娘が2歳11ヶ月のときにもしている。上の娘も下の娘も,おんなじような時期に,おんなじような言動を見せているわけだ。その内部では,同じような発達(認知構造の変化とかなんか)がおきているに違いない。なんかおもしろいね。

 #NHKといえば,最近うちの娘たちは毎日「にほんごであそぼ」をみており,ついには「じゅげむ」が全部いえるようになっている。下の娘は「ポンポコピー」を「ぽんぽこにー」というんだけど。それがまたかわいかったりして(^^ゞ

■『マルチメディアでフィールドワーク』(山中速人編 2002 有斐閣 ISBN: 4641076537 \2,600)

2003/06/05(木)
〜CD-ROMで社会学〜

 フィールドワークを独習するための本。独習といっても、フィールドワークには職人技的な部分があり、徒弟制的なトレーニングを通して身につけられることが多い。しかし本書では、「文字では伝えられないからといって、「フィールドに出なければ結局何もわからない」と言ってしまえば、おしまい」(p.5)というスタンスを取っている。

 そして、文字を補うものとしてCD-ROMがついており、7人の著者のフィールドワークの一端を垣間見ることができるようになっている。実は私は、CD-ROMはまだ全部は見ていないのだが、いくつか見たかぎり、1つが30分ほどの構成になっており、フィールドワークの様子を一部見ることができるようになっている。画期的である。

 なお映像は、小さなサイズで表示されるので、ちょっとストレスはあるが、慣れればまあなんということはない。それに、空いたスペースを利用して、CD-ROMには、そのフィールドワークで使われた質問票がついていたり、各筆者が書いた関連文献がPDFファイルでついている。全部で50本以上ある。そちらも画期的である。

 本書の内容は、まあ言ってみればフィールドワークの理論的な話と実践の話であり、オーソドックスである。

 その中でも、いくつか興味深い話はあった。たとえば、フィールドワークで集めた資料を整理する作業を、「本の索引(とくに「事項索引」)をつくっていく作業に似ている」(p.43)という話はナルホドであった。これはうまい比ゆであると同時に、実際の作業もそのつもりでやれば、やっていることの位置づけが見えやすくていいような気がする。

 また本書では、フィールドワークといっても、ある社会に長期間住み込んで参与観察するタイプのフィールドワークばかりでなく、インタビューを中心としたフィールドワークもいくつかあった。しかもそれが、学生のトレーニングプログラムを兼ねたものであったりして、なんだかとっつきやすく思えた。あるいは別の筆者は、最初は質問紙調査をやっていたのだが、そこで見えにくいものを感じ、インタビュー調査にシフトしていった経緯を書いていた。その流れやそこで行われているものは、私の現在の問題意識に近いものがあり、参考になるとともに、励ましにもなるものであった。

 あと、移民を対象としたライフヒストリー調査もあり、これも学生のトレーニングを兼ねたものであった。それを見ると、フィールドワーク未経験の私にもなんとかやれそうなものに思えてくる。時間があったら、トレーニングがてら、自分の親のライフヒストリー調査でもやってみようかと思っている。

 とまあ本書は、フィールドワークに前向きに取り組んでみようと思わせてくれるような本であったわけである。ただひとつ難点を言うならば、せっかくフィールドワークの本なのに、CD-ROMに出てくる研究者の語りが、モノローグである点である。どうせなら、聞き手を前面に出してインタビューの妙を示してもよかったのではないかと思う。


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