読書と日々の記録2003.06下

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■読書記録: 30日短評8冊 25日『カール・ロジャーズ入門』 20日『深い河』
■日々記録: 28日ジャンケンする5歳児(2) 26日ジャンケンする5歳児(1) 22日DVD「es[エス]」 21日中心視と周辺視 19日娘たちをその気にさせる 17日5歳になった娘/結石その後

■6月の読書生活

2003/06/30(月)

 ひところ低調だったのだが、今月はまあまあ読めたので満足。日々の記録は10回も更新できたし。ちょっと余裕が出てきたのかな。自分ではよくわからない。あと読書以外に、先月末から今月にかけて、いくつか学校現場の授業を見ることができた。小6(特活)、幼稚園、小1(道徳)、小5(野外活動)である。けっこうおもしろい。

 今月読んだ本は、どれもよかった。特によかったのは、『人間科学』(情報という視点は重要)と『A』(内側から描くことって重要だよね)か。本当に他のもよかったんだけど。

『地球がわかる50話』(島村英紀 1994 岩波ジュニア新書 ISBN: 4005002420 780円)

 多分この著者の本を読むのは5冊目なのだが、相変わらず面白い。他の本にも出てくるような話の使いまわしもほとんどないし。本書を読みながら、何も面白いのか考えてみた。それはいくつもあるのだが、次のものが挙げられるかもしれない。ぼんやりと持っていた自分の科学の知識をよりクリアに再認識することができる。いまだわかっていないことや、かつて誤解されていたことを通して、科学の進歩や変化を感じさせる。科学に、ロマンやドラマが感じられる。科学に携わる人のドラマが見える。最前線の研究テーマを通して、この領域そのものに興味が持てる。などなど。しかもそれらが平易な言葉で語られているとは、とても凄いことだと思う。

『教育工学を始めよう─研究テーマの選び方から論文の書き方まで─』(ロス&モリソン 1995/2002 北大路書房 ISBN: 4762822450 1,700円)

 教育工学研究の手引き的な本。研究計画の立て方、プロポーザルの書き方、発表の仕方、投稿論文の書き方までが扱われている。全154ページの本なのだが、後半40ページは訳者による解説である。本文も、翻訳部分は左ページのみで、見開きの右ページには、訳者による用語解説になっている(こちらの方が役立ちそうな部分が多かったりして...)。研究手引きとはいっても、比較的一般的な(心理学的)実証研究の話なので、教育工学に限らず、心理学関連分野の人には役に立つのではないかと思う。対象が幅広いということはもちろんとてもいいことなのだが、それは逆に言うと、教育工学色があまり強くないともいえるかと思う。たとえばサブタイトルに「研究テーマの選び方」とあるので、教育工学に代表的なテーマの一覧でもあるのかと思ったが、そうではなかった。ということはつまり本書は、教育工学のテーマについてある程度見当が付いている人向けなのかもしれない。本書は「教育工学の入門書」ではないのでそれでいいんだけど。

『管制官の決断─ニアミス、大空港の危機一髪─』(加藤寛一郎 1992/1996 講談社+α文庫 ISBN: 4062561468 951円)

 航空管制にまつわる話についての本。空中衝突の事例、管制の現場の観察、管制官へのインタビューなどからなっている。筆者は航空学の専門家だが、立派なフィールドワークになっている(のではないかと思う)。ただ、内容はやや専門的で、飛行機とか管制に詳しい人なら面白いのだろうが、と思いながら読んだ。その印象は同じ著者による『生還への飛行』も同じなのだが、本書の方が難易度が高かった。こうやって考えてみると、『生還への飛行』はけっこうよかったなあ。

『意味から言葉へ─物語の生まれるまえに─』(浜田寿美男 1995 ミネルヴァ書房 ISBN: 4623025802 \2,800)

 再読。今回目に留まった表現は2つ。一つは、「同型活動こそはじつは他者理解の基礎なのです。理解とは、いわば他者と同じ形をとることなのだと言っていいでしょう。」(p.112)というもので、これは主観的理解に限った話だろうと思うが、その根底に同型性があるというのは大事な指摘だろうと思った。もう一つは、「私たちは、従来の力のパラダイムに則った発達論ではなく、赤ちゃんにとっての意味形成を軸にした発達論を描こうと努力してきたのです」(p.144)というもの。力のパラダイムとは、個体能力的に、できない状態からいかに「できる」ようになるかを記述するパラダイムだ。それに対して筆者が取っているのは「意味形成を軸にした発達論」と表現されている。固体能力主義に対する言葉としては、関係論という表現が使われることが一般的なのだが、「意味形成」というのはわかりやすい表現だと思った。この言い方で言うと、本書で描かれている発達論は、反射という生来的な外界の意味づけに、条件づけという意味づけの広がりがあり、さらに、情動などを用いた同型性による他者理解、三項関係を軸として相補的に行われる外界の理解(他者との意味世界の共有)、と意味づけが広がっていく過程と言えそうである。

『質的研究の基礎─グラウンデッド・セオリーの技法と手順─』(ストラウス&コービン 1990/1999 医学書院 ISBN: 426034353X 3,600円)

 サブタイトルどおり、グラウンデッド・セオリーの技法と手順について概説した本。グラウンデッド・セオリーの雰囲気はなんとなくわかったが、細部に関しては、翻訳のせいか、なんだか漠としてつかみ所のない感じだった。ただし最後につけられていた訳者による解説はわかった。次は日本人が書いたものを読むか。

『超図説目からウロコの進化心理学入門─人間の心は10万年前に完成していた─』(ディラン・エヴァンス 1999/2003 講談社sophia books ISBN: 4062691981 \1,900)

 うーん?な本。いや、私も、進化心理学に詳しいわけではないので、本書で勉強になったことも多い。しかし、疑問な点もあった。たとえば、養父母と一緒に暮らしている子供の方が、生みの親と一緒に暮らしている子供よりも、何十倍も虐待を受けているという統計が複数あるらしい。そしてそこから、「これらのデータからも、人間にある「子育てモジュール」の存在が、はっきり示され」(p.88)と考えるらしい。子育てモジュールとは、血縁による協力、すなわち、親は自分の子供が血縁関係があるから一生懸命育てることを促進するモジュール(群)である。しかしこのデータだけでは、ひとつの可能性を示しているだけで、「はっきり示されている」とはいえないのではないだろうか。もっと積極的に他の可能性を提示し消去しなければ、こういう説明は単なる解釈に終わってしまうように思う。その点に配慮がまったく見られなかった点がうーん?である。

『個人志向性・社会志向性から見た人格形成に関する一研究』(伊藤美奈子 1997 北大路書房 ISBN: 4762820741 \4725)

 人間が個人志向性、社会志向性という「本質的二重構造」を持っていることを、理論的、実証的に検討した研究。テーマは非常に興味深い。この研究は、「これらが緊張をはらみつつも、その解決に向けて相互作用を繰り返す力動的な関係にある点を明らかにしようとする」(p.12)ものだそうだが、実際の研究部分には不満が残った。このような二志向性はこれまでにもいくつか検討されているが、本研究で提唱される概念ががそれらを包括するものであるであることは、十分には論じられていないように思う。また実証研究の部分は、そのほとんどが、筆者が作成した二志向性質問紙と、他の質問紙との関係をもとに考察されているが、それでは「緊張をはらんだ力動的関係」にあることは、解釈としてはいえても、その点にダイレクトに迫っているようには感じられなかった。質問紙はあるものを研究者の視点で静的に切り取るものでしかないのではないだろうか。この続きとしての力動的な研究が見てみたいものである。

『モンテッソーリの教育─子どもの発達と可能性 子どもの何を知るべきか─』(M.モンテッソーリ 1948/2001 あすなろ書房 ISBN: 4751500643 1,500円)

 モンテッソーリ教育の(方法ではなく)原理についての本。なので、モンテッソーリ教育がどういうものかを知るには不適だが、どういう考えで作られたのかとか、モンテッソーリの発達観を知ることは(多少)できる。あまり十分ではないような気はするが。その考えは、「子どもに向かいあうのではなく、その後ろに立つ」(p.91)とか、散歩で言うと「散歩に行くのは子どもであり、おとなはただついていくだけ」(p.131)というもののようである。あるいは、子どものために目的的に作られた道具を使い、ことばではなく「主として物でまたは物をとおしてする教育」(p.180)である。その点は確認できたが、あとはごく一般的な話のように私には思えた。

■ジャンケンする5歳児(2)

2003/06/28(土)

 先日の続き。

 上の娘(5歳0ヶ月)がジャンケンするときに、「パパなにだす?」と聞いてきた。どういうつもりかはわからなかったが、とりあえず「グーを出すよ」と答えると、ジャンケンで娘はパーを出してきた。娘の勝ちである(以下、話がわかり易いように、私は全部「グー」と言ったことにして話を進める)。

 ほほお、と思って、次は「グーは出さないよ」といい、あまりじっくり考えるひまを与えずにジャンケンに突入すると、娘はチョキを出してきた。チョキなら私がチョキを出してもパーを出しても負けることはない。そこまで考えたのかどうかはわからないけれども、ちょっとびっくりした。

 今度は、「グーを出すよ」といったあと、ジャンケンを始める直前に、「やっぱりやめるかも」とつぶやいてみた。私がチョキを出し、娘がグーを出し、やはり娘の勝ちである。へー、あんまり考える時間は与えなかったはずなのになあ。

 最後に、私が「グーをだすよ。まーちゃん(仮名)は?」と聞くと、「うーん、パーを出す」と言ってきた。で私がチョキを出すと、娘はちゃんとグーを出してきた。ということで娘の完勝であった。

 もっとも、すべてがこうだったわけではない。ときには混乱したのか、最適ではない手を出すこともあったが、それでも、負けることはなく、せいぜいアイコの手であった。というわけで、スゴイと思った始末であった。前にも断ったように、同年齢のほかの子がどうなのかはまったく知らないのだけれど。

■ジャンケンする5歳児(1)

2003/06/26(木)

 上の娘(5歳0ヶ月)は、びっくりするぐらいジャンケンがうまい。これはオヤバカというよりは、同じぐらいの頃の自分を思い出しての感想だ。

 たとえば、最初に出す手が毎回違う。あるいは、ある手を出した後に、次に何を出すかが毎回違う。つまり、出す手が結構「でたらめ」なのだ。これはすごいことではないかと思っている。

 思えば私は小さい頃、ジャンケンがとても弱かった。何歳ぐらいの記憶かは定かではないのだが、家族でジャンケンをしていて、私は一度も勝てなかった記憶がある。そのとき、1歳半上の姉が、ジャンケンの必勝法を耳打ちしてくれた。それはなんともあっけないものだった。「グー、パー、チョキって出してごらん」というものである。ジャンケンはいろんな手を出すもの、と思っていた私は、わが耳を疑った。

 それでも、半信半疑ながらそのとおりに出してみたところ、なんと勝ったのである。正確には、1回目はアイコ、2回目で勝った。そういう細かいところまで覚えているぐらいに、衝撃的な出来事だったわけだ。

 しかしそのタネはあっけなかった。なんと私は(おそらく意識せずに)、いつも「グー、チョキ、パー」の順番で出していたのだ。親はそれを読み、1回目はグーを出してアイコにし、2回目にグーを出して勝つ、という戦法を取っていたのだ。

 そういう自分から見て、手の出し方にパターンのない娘はスゴイと思えるのであった。同年齢のほかの子がどうなのかはまったく知らないのだけれど。

 #なに,それだけかって? 娘の本当のすごさはまた後日

■『カール・ロジャーズ入門─自分が“自分”になるということ─』(諸富祥彦 1997 コスモス・ライブラリー ISBN: 4795223653 2,400円)

〜カウンセリングを通して自己内対話〜
2003/06/25(水)

 クライエント中心療法の創始者であるロジャーズについて、その生涯と思想形成過程、基本的な考えやアプローチ、ロジャーズが扱ったケースの紹介、主要著作の概要など、ロジャーズについて一通りのことがわかる本。非常に読みやすかった。私はロジャーズについては、心理学概論程度の知識しかなく、「指示しない」「相手の言葉を繰り返す」という認識しかなかったのだが、どうやらそれが誤解であることがわかった。誤解というか、それは初期のロジャーズの考えで、途中で考えや表明の仕方が変わっているようなのである。

 まず「非指示」に関して言うと、ロジャーズはある時期から、「「非指示」という技術志向の言葉を使わなくなり、専ら「クライエント中心」という言葉を使うようになって」(p.82)いったそうである。それと同時に、感情の反射(「クライエントが今ここで感じつつあることを、評価や偏見を加えずそっくりそのまま受け取って返していく応答のこと」(p.224)のような技術の説明もおこなわなくなり、「それに代わって、相手のあるがままの世界を尊重し、理解し、受容するという「態度」を強調し始め」(p.83)たそうなのである。このような「技術ではなく態度」の強調は、本書によると、「単に相手の言葉を繰り返すだけの技法」と理解されることに嫌気がさしたからでそうである。

 実際、本書には、ロジャーズが行ったカウンセリングの逐語録の一部もいくつか載せられているが、そこで見られるロジャーズの応答は、「自分の理解や受け取りを確認する」(p.245)ものであったり、「クライエントがまだ表明していない態度や感情に応答する」(p.263)ものであったりして、単なる繰り返しではないのである。前者に関してはロジャーズは「反射」ではなく「理解の確かめ」「受け取りのチェック」という言葉を使っている。

 ロジャーズは、「自分を受け入れ、自分にやさしく耳を傾ける時、人は、真に"自分自身"になることができる」(p.148)といっているという。おそらくそれを筆者なりに解釈したものだと思うのだが、筆者はこのような状態について、次のように述べている。

私たちが一人で思い悩んでいる時、心の内側には複数の他者が存在しており、それらの人々の目を気にしたり、何かを言い聞かせられたりしている。しかし、自分が何を感じ何を話してもていねいに聞いて受けとめてもらえるような空間を体験すると、自分の心を支配していた「他者の声」から開放され、ほんとうの意味で「ひとり」になることができ、心の奥から聞こえてくる「自分のほんとうの声」に耳を傾けることができ、「自分自身との対話」を行うことができるようになる。(p.162-163をもとに道田が要約)

 このくだりはちょっと興味深かった。思考とは一般的には、他者間対話が自己内対話に移行したもの、と考えられている(と思う)。つまり豊富に他者との対話を行う経験があってはじめて、より深い思考ができると思うのだ。しかしこのくだりによると、そのような「心の中の他者」の存在が「自分自身との対話」を阻害する場合があるというのだ。このあたりの他者や自己や対話の位置づけは、もう少し考える必要があると思うが、このことをもっと考えてみることによって、思考その他についての考察が深まりそうな気がした。

 あまり書くと長くなるのでこれぐらいしておくが、本書では興味深かった点としてそのほかにも、ロジャーズの考えの源泉がキリスト教にあることとか、ロジャーズ的アプローチの本質が民主主義的なものであることとか、ロジャーズの教育が「学生中心の教育」であることとか、ロジャーズ本人が対人関係の中でときとして冷淡で尊大であったとか、いくつもあった。次はロジャーズの本でも読んでみなければ。

■DVD「es[エス]」 オリバー・ヒルツェヴィゲル(監督) ポニーキャニオン ¥3,800

2003/06/22(日)

 1年ぶり2度目の映像の記録。

 「ジンバルドーの模擬監獄実験の映画化」というふれこみだったのだが、だいぶ脚色があるような気がした。気はしたのだが、よく考えてみると、ジンバルドーの実験の詳細を私は知らないことに気づいた。DVDの解説を見ると、「看守が囚人に、素手で便器を磨くことを要求する」シーンは実話だそうだ。映画ではそれだけでなく、どんどん看守がエスカレートするのだが、後半はまあフィクションだろう。現物をちゃんと知らないので、まったくの憶測なのだが。

 ジンバルドーの実験は、5日ぐらいで中止になったはずだが、もし中止にならず、しかも非常にエスカレートしやすい状況がそこで起きていたらどうなったかを映像化した、という内容といえるだろうか。まあ映画らしく恋愛だのアクションだのホラーだの娯楽的な要素も含まれているのだが。

 心理学の授業では、「人は簡単に役割を内面化する」ことの例として、この実験に触れたりする。しかし、一つこの映画でわかったのは、役割の内面化は何もないところで自然に起きるのではない、ということだ。最初はみんな、ゲーム感覚(役割とはあまり関係なく)で実験に参加している。しかしそこで、「看守」として解決する必要のある問題が生じる。その解決過程で、看守らしくなっていくのである(少なくとも映画では)。

 そういえば「親が親になる過程」にしても、同じような過程を経ることが多いはずだ。子どもが生まれれば自動的に親になるわけではなく、「親」として解決しなければいけない問題や出来事に直面したとき、その解決過程や体験を通して「親になっていく」のである。

 単なる「役割の内面化」というだけでなく、そういう日常にさまざまにある「適応過程」の一つとしての内面化、という視点を、この映画を観ることによって持つことができた。

■中心視と周辺視

2003/06/21(土)

 昨日の続き的な話。

 『深い河』の面白さの一つに、5人の人の人生模様がそれぞれ比較的詳しく描写されている、という多視点的な点がある。章によって、ある登場人物が主役となり、他の登場人物が脇役になる。章が変わるとそれが入れ替わる。たとえば、第1章の主人公は磯辺なのだが、そこには美津子が少し出てくる。2章では数人がちらと登場し、美津子の章である3章では、大津が助演的に出てくる、という具合である。

 こういうのを読むと、同じ人物でも、主役か脇役かによって見え方が違うなあと思う。たとえば「病院でボランティアをしている人」というと一定のイメージを持ってしまうが、その人の内面世界は全然違っていたり。主役ではなく外から見える部分の描写だけだと、ありきたりで平板で一般的な人物像を思い描いてしまうのである。ステレオタイプ的というか。

 ここから、知覚における中心視野と周辺視野の見え方の違いを連想した。中心視野(要するに見える世界の中央部分)は、右目でも左目でも見えているので、両眼の像のズレ(両眼視差)を用いて立体的に見えている。そのうえ中心視野は解像度も高いし色もよくわかる。一方、周辺視野は、片眼の情報しか使えなかったり、解像度も低かったりする。錐体細胞も少ないので色も付いていない。要するに中心視野ほどはよく見えていない。そこで、曖昧な部分やよく見えない部分は、経験や常識でおぎなって見るのである。いや、見ざるを得ないのである。

 脇役的な人を見るときや、情報が乏しい場合は、周辺視野で物を見るときのように、勝手な推測が混じってしまう。しかしそういう人でも、中心視野に移して、つまり主役として詳しく見ると、そこには奥行きも色もさまざまな事情も見えてくるし、そこまで見ないとちゃんと理解できない。人を理解するということは、その人を中心視野にすえて、そういう歴史とか状況とか考えとか必然性とか迷いとかも含めて、見ることだと思う。

 『深い河』には脇役としてしか登場しない人物ももちろんいる。中には、司祭とか新婚さんとか、どちらかというと悪役的な位置づけの人もいる。しかし、そういう人たちも、中心視野にすえて、その人たちなりの歴史や考えや事情にも目を向けると、見え方が違ってくるんだろうなと思う。物語の中では「悪役」という位置づけなのだろうが、現実世界では、そういうふうな見方しかしないと、大事なものが見えなくなるのではないかと思う。

 #こういうことを思ったのは、最近『A』『マルチメディアでフィールドワーク』を読んだことも関係しているかもしれない。いや、ほかにもいっぱいあるんだけど。

■『深い河』(遠藤周作 1993/1996 講談社文庫 ISBN: 4062632578 ¥590)

2003/06/20(金)
〜人間科学的に読んでみた〜

 遠藤周作の晩年の代表作。内容は簡単に言うと,5人の人がそれぞれの問題を抱えながらインドに向かうという話。この中には,遠藤氏が到達したキリスト教観(宗教観)が表現されているという。

 本書は,小説(文学)としてとても面白いものである。しかし私は,キリスト教に興味があることもあり,もっぱらキリスト教について考えながら本書を読んだ。さらに私は本書を読みながら,『人間科学』のことを考えていた。つい最近読んだせいかもしれないが,深い河のテーマや舞台などが,なんだかとても人間科学的な感じがしたのだ。どちらも私はきちんと消化しているとはいえないので,十分な考察ではないが,そこで考えたことの一端を記してみよう。

 まず,本書に出てくる,ヨーロッパ的なものとは違うキリスト教観が現れている箇所を抜書き。

神は色々な顔を持っておられる。ヨーロッパの教会やチャペルだけでなく,ユダヤ教徒にも仏教の信徒のなかにもヒンズー教の信者にも神はおられると思います。(p.196)

 これは大津(神学生)が指導司祭に言った言葉で,司祭には,「その考えこそ,君の汎神論的な過ちだ」,「では正統と異端の区別を君はどこでするのかね」(p.197)と批判される。

 私はこの2つの対立は,「どちらが正しいか」という問題ではないと考える(筆者もそうは問うていないと思うが)。というのは,上に「神は色々な顔を持っておられる」とあるのとまったく同じことで,「キリスト教は色々な顔を持っている」と考えられるからである。「イエスという人の思想や行動」という部分もあるし「ローマ・カトリック的な教義や制度」という部分もある,といってしまえばそれまでなのだが。

 『人間科学』によると,宗教(特に一神教)は「都市イデオロギー」であるという。順を追って説明すると,「都市」とは「ヒトが意図的に作ったものだけを置く」人工空間であり,すべてをヒトの予測と統御の下に置こうとする空間である。そのためそこでは,「自然」は極力排除される(雑草も生身の身体も死も)。しかし万物は流転する。そのことはヒトを不安にする。そこで,変転するものをつなぎとめる「固定点」が必要である。そこで作られるのが「建造物」であり「イデオロギー」(としての宗教)である。ローマ・カトリックの聖書や組織や儀式や教義もその役目を果たしている。

 それに対して仏教は,釈迦が都市から外に出て,生老病死(=自然)などと出会いながら悟りを開いて作った,(都市イデオロギーとは違う)「自然宗教」である。キリスト教にしても,整備される前のものは,イエスがやはり生老病死をはじめとするさまざまな苦しみに出会いながら作っていった思想である。その点で両者は一致してもおかしくない。それが上で「汎神論」と呼ばれているものであろう。それは,キリスト教を「イエスの思想」を中心に考えると自然にたどり着く結論である。この点は,自然宗教である仏教に近く,また自然を共存する思想のある日本人にはなじみやすい考えだろうと思う。私もキリスト教をこのように捉える考え方は非常によくわかるような気がする。

 ただし,そのような自然的な部分をキリスト教の中核とみなしてしまうと,教会も司祭も儀式も不要になってしまうわけで,そのことを「教会の人」は認めるわけにはいかないだろうと思う。その意味で,上の司祭の発言もよく理解できる。

 次に「舞台」について。本書の舞台となっているインド(ガンジス川のほとり)は,死が隠蔽されておらず生と共存している非「都市」である。自然宗教的なものを求めていった大津がそこにたどり着くのはある意味自然とも思える。

 そういう意味で本書は,大津という日本人(非西洋人)が,キリスト教や仏教の根底にあるものを考えながら,インドという「非都市」的な場所にたどり着いた話なのかなあと考えると,(大津の考えも司祭の考えも)自然に受け入れられる話であった。ま,勝手な考えだろうと思うけど。

 #なお,上の司祭のセリフとは違い,キリスト教では案外正統と異端の区別が未分化であることについては,『ジャンヌ・ダルク』が参考になる。

 ##『深い河』に関するもう一つの考察あり

■娘たちをその気にさせる

2003/06/19(木)

 過去の日記を見てみると,この時期,1年前2年前も,「娘たちが怖いもの」について書いている。「ライオン」とか「コワイコワイ」さんとか。

 そういえば最近は,あんまりこういうこと考えないなあ。これを見てそう思った。どうして考えないのだろう。逆に言うと,どうして1年前も2年前もこういうことを考えていたのだろう。ああそういえば,娘たちがなかなか言うことを聞かないからであった。ご飯を食べないとか,すぐに飽きて遊んでしまうとか。

 最近もそういうことがないわけではない。しかし,以前に比べるとはるかに順調に対処できているのである。適度に遊びを交えながら。

 たとえば朝。上の娘(5歳0ヶ月)はなかなか朝食を食べ終わらない。そういうときは,娘の勝負心をくすぐるのである。最近は,「どっちが着替えるのが早いか勝負」を毎朝やっている。それで,いそいで食べ終わって着替え始めるのである。私が勝つと怒るので,ボタンを一箇所留め忘れたりして,いつも娘に勝たせるのだけれど。この手は,風呂に入るときも使っている。

 あるいは夜。うちの娘は二人とも,食事が遅い上に,すぐに飽きてしまうので,食事を食べさせるのはずっと大変だった。ところが最近,上の娘がなんだか知らないけどジャンケンに凝りはじめ,食事に飽きたら私にジャンケンを挑むようになった。そこで,ジャンケンに私が勝ったら,ご飯をもう一口食べる,というゲームにしたのだ。しかも口がカラッポでないとジャンケンできないことにしてある。それで,大急ぎで口の中のものを飲み込んでは私とジャンケンし,次のものを食べる,ということを繰り返している。まあこれも遊び食べには違いないかも知れないが,とりあえず食事がさっさと済むので妻もあまりうるさいことは言わない。

 それを見て楽しそうだと思ったのか,下の娘(2歳9ヶ月)も参戦してくる。もっとも,下の娘はジャンケンのルールがまだわかっていないので,適当に出して,勝っても負けてもご飯を食べてくれる。

 ということで最近我が家では,娘たちの怖いもの探しをする必要がなくなったのである。

■5歳になった娘/結石その後

2003/06/17(火)

 数日前、上の娘が5歳になった。3歳から4歳になるときはあまりぱっとしなかったが、4歳から5歳になるときは、ちょっとなんだか大きな差のような気がした。シシャゴニュウすると10歳になるせいだろうか。

 とはいえ、実際には何かが変わるわけではない。上の娘も今朝、「5歳ってなんだか4歳みたいな感じ」と言っていた。言わんとすることはとてもよくわかる。

 それでも、1年前はしょっちゅう言っていた「パパになる」とか「パパきらい」みたいなせりふは、とんと言わなくなった。1年のスパンで見ると、確実に変化している。

 先日の尿管結石の痛み、土曜日で終わりかと思ったら違っていた。おとといも昨日も痛くなったのだ。おかげで7つしかもらっていない鎮痛剤(座薬)を、もう3つも使ってしまった。

 土曜日はあまりの痛さに、どんな痛みかをじっくり考える暇はなかったが、次のときは、一応どんな痛みかを味わいながら苦しんでいた(そうしないと、こんなに痛かったことを忘れてまた不摂生しそうなので)。言葉で言うなら、上からグーッと押される感じ、あるいは、身体の中に手を突っ込んで腎臓をグイとつかまれた感じ、あるいは、万力でギリギリと締め付けられる感じ、というあたりだろうか。まあいずれにしても、逃げようのない、そしてとても嫌な痛さなのである。

 私の場合、石は小さいそうなので、自然排泄を待つという治療方針のようだ(石は小さい方が痛いらしい)。ちゃんと捕捉する努力もしていないので、出たのかどうかわからない。せっせと水をがぶ飲みしているのだが。あの痛みのことを思うと、レントゲンで石がなくなっていることを確認するまでは、ちょっと落ち着かないなあ。


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