読書と日々の記録2003.08上

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■読書記録:  15日『将棋の子』 10日『哲学と現実世界』 5日『放送禁止歌』
■日々記録:  12日ティンクティンクのライブ 6日反抗期の2歳児

■『将棋の子』(大崎善生 2001/2003 講談社文庫 ISBN: 4062737388 590円 )

2003/08/15(金)
〜喪失体験の受容の物語〜

  プロ棋士の登竜門である「奨励会」で争いに敗れて「去っていった奨励会員がその扉の向こうで何を思い、その扉の向こう側からどのような一歩を踏み出すのか」(p.30)をテーマとしたノンフィクション。◎〜◎◎レベルだった。要するに面白かった。

 中心的に取り上げられるのは一人だが、全体としては数名の「その後」が取り上げられている。「この奨励会という場所で経験してきたことは、たとえ自分がその後にどんな人生を歩むことになろうとも決して無駄にはならないはずだ」(p.13)というある棋士の考えが最初の方で紹介されているが、そう簡単なものではないことが本書でわかる。将棋しか知らず、将棋に青春をかけた人が、将棋で暮らしていく道を断たれるわけであるから、それは当然といえば当然であろう。

 いってみれば、奨励会という自分の人生をかけた戦いから離れなければならなくなるということは、一種の喪失体験である。死などの喪失体験を受け入れるまでには、一般には、否認−怒り−取引−抑うつ−受容の段階を経るといわれるが、それと同じ過程が彼らの前には待っているのだ。

 しかも、受容にいたるまでの道筋はさまざまである。たとえばある者は、ノイローゼの末、南に向かう船の上から見たイルカに救われた。ある者は転職を繰り返した末、将棋で培った集中力を生かして司法書士の資格をとった(本書中、こういう形で「奨励会経験」が別の道で明確に生かされていたのは彼一人であった)。ある者はギャンブルで2週間に300万円すったが、それでも救われはしなかった。それでも、将棋が自分に自信を与えてくれ、自分の支えや誇りになっているのだという。

 そういったことから筆者は、奨励会が競争と厳しさだけでなく、勇気や優しさを教えてくれる場所だと述べている。本書で取り上げられている棋士は10人弱だし、全員がそういう考えをもっているようには書かれていないので、それが適切なのかどうかはわからない(そもそも、そういう思いをもっていない人には、将棋界に身をおく筆者が意見を求めることさえ難しいだろう)。しかし少なくとも、「喪失体験の受容」の一環として、そういう「物語」は何らかの形で必要なのかもしれない。

■ティンクティンクのライブ

2003/08/12(火)

 昨日,ふと思い立って,家族でティンクティンクのライブに行ってきた。

 ふと思い立ったのは,お盆(昨日は旧暦のお盆の中日)で妻の仕事がなく,妻も子どもも日中ゆったりと過ごしているので,夜,出歩く余裕があるかと思ったのだ。あと,お盆なので客も少ないかも,という考えもあった。

 お盆のせいか,道路は比較的すいており,すいすいと会場まで行けた。しかし客が少ないとの予想ははずれで,1階席は満員。予約をしていなかったので,2階席に通された。まずは料理をいくつか取って腹ごしらえ。

 そうこうするうちに1回目のステージ。思いのほか下の娘(2歳11ヶ月)が喜んでおり,手をたたいたり,ティンクティンクのお姉さんたちの振りを真似しながら見ていた。それ以上に,料理も旺盛に食べていたのだけれど。下の娘はいつも夕食時は,遊びながら食べるし,あまりたくさん食べることなくすぐにやめちゃうので,ちょっとビックリだった。

 2ステージ目には,下に空きができたので,席を移動してもらい,すぐ近くで見ることができた。ここでも下の娘は元気で,最初に出てきて「こんばんわー」とお姉さんたちが言ったときには,私のひざに立ち上がって大きな声で手を振りながら「こんばんわー」と返してお姉さんたちに注目されてしまったし(そのあとしばらくは,恥ずかしがって私の手をもって,自分の目を隠していた)。最後のほうでは,曲が終わると「おもしろかった」なんて言ってるし。2歳児の声はよく通るので,これもお姉さんたちに聞こえたようで,リアクションされてしまった。

 上の娘(5歳2ヶ月)は,そういう目に見える反応はなかったが,面白かったらしく,帰りの車の中で「CDがほしかった」と言っていた。また来たときに買おうね。そんなこんなで,ようやく(ちょっぴり)夏休み気分の夜だった。

■『哲学と現実世界─カール・ポパー入門─』(マギー 1985/2001 恒星社厚生閣 ISBN: 4769909330 1,900円)

2003/08/10(日)
〜方法論的反証主義〜

 サブタイトルどおり、ポパーの入門書。「体系的統一性を示すポパーの思想の大胆で明快な輪郭を与える」(p.12)ことが目指されており、良書だと思うが、割と薄く、すぐに読める。

 前に読んだ『批判と挑戦』によると、ポパーの科学論は誤解されやすく、日本で出されている科学哲学の入門書的なものには、ポパーについての誤った記述に満ちているそうだが、本書では、「ポパーは、論理のレベルでは素朴反証主義者であるといえるかもしれないが、方法論のレベルでは高度に批判的な反証主義者」(p.22)と、誤解されやすい点が、的確かつ簡潔に説明されている。これは要するに、次のような意味である。「論理的」には、反証例がひとつあれば全称命題を決定的に反証できる。しかし「方法論的」には、その反証をさまざまな方法で回避可能であるので、それは決定的な反証にはなりえないし、すべきではない。「なりえない」からといって、その場しのぎで命題を生き延びらせないよう、理論はできるだけ明確に定式化すべきである。一方、「すべきではない」のは、「理論を簡単に放棄してしまうということは、テスト〔批判〕に対してあまりに無批判的な態度をとること」(p.22)にほかならないからである。反証とは理論の全面的棄却ではなく、方法論的には「新たな問題の発見」の契機であり、更なる推測と反駁(誤りの排除)を繰り返していくべきものなのである。詳しいことは『批判と挑戦』の方がお勧めだが、手軽に知るには本書も悪くない。

 あと誤解されやすいのが、ポパーが、反証可能性のない理論=疑似科学として、フロイトやアドラーを挙げた点。挙げたことは挙げたのだが、ポパーはそれらを、無価値とか無意味とみなしているわけではないのである。具体的には、「私個人としては、彼らが述べた多くのことはかなり重要なものであって、いつの日かテスト可能な心理学の分野でその役割を果たすようになるであろうことを疑わない」(p.57)と述べているようである。反証可能性がないのであれば、反証可能な命題に作り変えるなり、それなりの批判的議論を展開すればいいのである。そこから推測と反駁による科学の進歩が始まる。これぞまさに「方法論のレベルでの高度に批判的な反証主義者」である。

 あと興味深かったのが、ポパーの議論の仕方。パパーは論敵の主張の「弱点を探して攻撃」したりはしないのだという。そうすれば、小修正だけで切り抜けられたりしてしまう。そうではなく、「ポパーがやろうとめざしていること、そして最善を尽くしておこなっていることは、論敵の最強の論点を捜し、それを攻撃すること」(p.125)なのだという。場合によっては、相手の論点の疑わしい点は相手に有利に解釈したうえで、最強ポイントを攻撃するという。言われてみれば、批判を通して進歩するための方策としては極めて正道であるが、なかなかのイバラの道で、つい忘れたり避けたくなるような道である。さすが批判的合理主義者といった感じだ。

■反抗期の2歳児

2003/08/06(水)

 1年前2年前も、下の娘(現在2歳11ヶ月)は「マライア泣き」をしていた。超音波のような超高音で耳をつんざくような泣き方である。そのとき、「きっとこれは3歳になっても変わらないだろう」と思った。

 ところが、どうやらこの予想は外れたらしい。少なくとも今は、「下の娘が泣いて耳が痛い」ことはない。ちょっとほっとしている。ただし今は、「自分が思ったとおりにならないと気がすまない」面が強い。第一反抗期というやつだろうか(心理学者ながらヂツはよくわかっていない)。

 思い通りにならないと、ぴょんぴょん飛びながら泣きながら「あっちがよかった、あっちがよかった」と泣き叫ぶ。それは、思ったとおりになるまで止まない。そのたびにいつも「泣く子と地頭には勝てない」という言葉が頭をよぎる。何度か、「いつも自分の思うとおりにはならないことを思い知らせて」やろうと試みたことがあるのだが、一度も勝ったためしがない。そこで、今はあきらめて、この言葉を思い返すことにしているのである。

 さらには、言動も反抗的なときがある。今朝も、NHKの「日本語であそぼ」を見ていた。オープニングで「に・ほ・ん・ご・で・あ・そ・ぼ」というのだが、それを聞いた下の娘がボソリと「あしょばない」といっていた。ちょっと怖い。いや、将来が楽しみと言うべきか。

■『放送禁止歌』(森達也 2000/2003 光文社 知恵の森文庫 ISBN: 4334782256 648円)

2003/08/05(火)
〜組織に帰属して思考停止〜

 放送禁止歌を題材にしたドキュメンタリーを制作したフリーのテレビディレクターが、その制作の経緯や後日談を記した本。筆者は『A』のディレクターでもある。非常に面白かった。ただし、本書のタイトルは放送禁止歌だが、正確には「放送禁止歌」発「部落差別問題」行き、という感じか。

 「放送禁止歌」部分に関しては、さまざまな取材により、放送禁止歌なるものは存在しないことが明らかにされる。放送人がクレームを恐れて自主規制していただけのことなのだ。しかも多くの放送人は、それが「自主規制」であることを知らないという。 そこで使われるキーワードは「無自覚」であり、「思考停止」である。たとえば、どうしてメディアはクレームもないのに自主規制しているのかという問いに対して、ある人はこう答える。「皆が自分で考えていないからでしょう。マニュアルや他人の判断を鵜呑みにして、自分自身で考えるという当たり前のことがなされていない。(p.89) あるいは、クレームが来たらどうするかという「覚悟以前に、そもそもこの問題に理解も関心もないヒトが圧倒的な多数派です」(p.132)という。それは「一過性」「情報量が多い」「一人ひとりが忙しすぎる」というテレビの特性から来る部分もあるという。あとは,その問題自体をまったく重視していないので、周辺視野としての処理しかなされない、ということなのだろう。

 そしてこのような構図は、差別問題も本質は同じだという(放送禁止歌のように単純ではないにしても)。だから、この2つのテーマが本書の中ではスムーズにつながっているのである。放送禁止歌に対する筆者のスタンスは、「自分のまわりをみわたして,その歌や言葉がどんな意味で使われているかを考えること」という『ちびくろサンボよすこやかによみがえれ』の著者と同じである。

 本書の中には、デーブ・スペクターとの対談部分もあり、アメリカの放送界の事情も明らかにされている。それによるとアメリカでは、「個々の放送局や番組責任者〔中略〕がこの歌は放送すべきじゃないと考えたときは規制する」(p.148)のだという。つまり、思考停止による無自覚の規制ではなく、きわめて自覚的な規制なのだ。そのあたりの事情を指して筆者は、「組織に帰属するが故に陥る思考停止」は「日本人が突出して強い」(p.254)と評価している。その評価が適切かどうかは私には判断できない。そのとおりなのかもしれない。しかし、とするならば、なぜアメリカではそうではないのかについて知りたいと思った。アメリカのテレビだった一過性で情報量が多く忙しい、という部分がないわけではないだろうに。


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