30日短評4冊 29日『ことばと国家』 25日『聞きとりの作法』 23日『私の体験的ノンフィクション術』 16日『心理学の新しいかたち』 | |
| 28日減量2年後の人間ドック 24日口笛吹いて指パッチンする5歳児 |
先月仕上がらなかった論文が,ようやくバージョン1.0ぐらいまでこぎつけてちょっとうれしい。来月はもっとバージョンアップしたいものだが,授業も始まるしなあ。
今月は,教育実習生の授業を2時間見た(付属小6年の道徳)。かなり討論ができるクラスなのだが,それをうまく組織する教師の技量の大きさを感じた。
今月よかった本は,『私の体験的ノンフィクション術』(大文字小文字とは言いえて妙),『聞きとりの作法』(具体的で使えそう),『ことばと国家』(プチ目から鱗)である。下に挙げた本もなかなかよかったんだけど。総冊数が少ないのは,出張と帰省中にあまり読めなかったためか。
実はこの本を読む前は、タイトルから政治的な内容を想像して、あまり期待していなかったのだが、そういうことはまったくなく、非常に面白かった。本書における主要な考えのひとつは、以下のものに表現されている。
あることばが独立の言語であるのか、それともある言葉に従属し、その下位単位をなす方言であるのかという議論は、そのことばの話し手のおかれた政治状況と願望とによって決定されるのであって、決して動植物の分類のように自然科学的客観主義によって一義的に決められるわけではない。(p.9)
実際、〜語と呼ばれているある国家の言語が、他の言語と方言程度の違いしかない場合もある。逆に、その国の公用語とはかなり異なる言語であるにも関わらず、その国の中の一地方として取り込まれてしまうことで、その言語が無視や弾圧をされたり、一方言的な扱いになることもある。日本で言うなら、アイヌ語が前者、沖縄語が後者である。この事情を筆者は「国家は方言をすりつぶしたり、あるいは逆に方言を国家語へと造成したりするのである」(p.162)と簡潔に表現している。
あることばを「方言」とみなすことは、「標準」からずれたものと位置づけることになる。しかし上記のように、「方言」と(独立した)「言語」の境があいまいであり、あることばを方言とみなすのが、国家的な力によるものと考えるならば、そのことばを「標準からずれた方言」ではない位置づけも可能である。そのことを筆者は「母語」という語で表現している。母語とは、母親から乳をもらい育てられながら口移しに覚えたことばである。それは「標準語の文法」が適用すべきものではない。また、ことばは生き物であるので、常に変化するのが常態である。したがって、「母語には原理的にまちがいはあり得ない」(p.158)と筆者は言う。それを誤ったものとみなすのは、「自分が慣れた基準でしか他者を見ることのできない、みじめでとらわれた思想」(p.64)と筆者は断ずる。
本書と同じく「ことばは変わるもの」という視点を持つ言語学の本としては、『日本語ウォッチング』がある。この本は、一見標準語からずれたもののように見える方言の中に存在する規則性や合理性を指摘する本であった。本書はさらに、そのズレを一言語として認定したり、方言として抑圧するものとしての国家(あるいはわれわれの中にある国家意識)の存在を指摘した本である。国と民族と言語の関係を考える上で、非常に興味深い一冊であった。
#あえて付け足すなら,「母語には原理的にまちがいはあり得ない」という指摘は不十分ではないかと思うが。発達途上の間違いというのが念頭に入っていないし,何らかの理由(単なる思い付きとか異文化接触とか)で子どもが母親と違う言い回しをすることは,非常によくあることだと思うし。その場合はやはり,母語とは違うという意味で「間違い」というべきではないかと思う。もっともそれは「間違い」の定義によるのかもしれないけれども。
減量宣言をして2年。人間ドックの結果が送られてきたので、今後1年の健康計画を立てておこう。
体重は昨年と変わらず。というか何とか維持できているようである。最近、筋トレもどきが減っており、間食摂取が増えているような気はするので、これ以上増えないよう気をつけなければならない。
人間ドックの結果で朗報は、昨年までは言われていた「脂肪肝」がなくなったこと。これは自分でもちょっとびっくりした。あと、2年前は高く昨年やや下がった尿酸値が、さらに下がっていたこと。とはいえ正常参考値の範囲よりは少し上にあるのだが。
脂肪肝はなくなっていたが、中性脂肪の値が1.4倍ほどになっており、正常参考値の範囲から出ていた。一応「所見はありますが心配いりません」レベルではあるのだが、この点は、来年への改善課題その1としたい。
6月に苦しんだ尿管結石だが、エコーによると腎結石があるようだ。去年もあったのだが、去年は最大4mm以下であったのに、今年は最大5〜9mmと大きくなっている。それがいいことか悪いことかはわからないのだが、またあの苦しみは味わいたくない。といっても、せっせと水を飲むぐらいしか対処はなさそうなのだが。
消化管X線では、食道ポリープ疑いと十二指腸潰瘍疑いが出ている。これは今、薬を飲んで治療中なのだが、これが改善課題その2か。
もうひとつ大きいのは、視力が落ちていること。左は裸眼が0.3から0.1に落ちている。最近、見えにくいような気がしていたのだが、やはりそうであったのか。不思議なのは右。裸眼は変わっていないのだが、矯正視力がやはり0.2落ちているのである。こういうこともあるもんだ。近々眼科にもいくべきか。この結果に出ていない点として、腰痛もあるし、つくづくトシを感じてしまう。
この手の本は最近までに、フィールドワークやノンフィクション、ルポ、ライフヒストリーなど、いくつも読んできた。と思っていたが、本書はそれらの本とはかなり違っていた。
筆者は経済学者として、企業の聞き取りを長年行ったきた人である。そういう人はあまりいないようで、筆者は「大学教員としては、おそらくもっとも多くの企業に話を聞きにいったひとり」(p.4)だそうである。本書は、その具体的なノウハウがつまっている本であった。本書では主に、「生産職場における技能の問題」が中心に取り上げられ説明されている。そこで筆者が行っているのは、かなり明確な形で仮説を形成した上での聞き取りである。それはたとえば次のような形をとる。
オペレイターはこれまでに手がけた不具合につき、短くともよいから報告書に書くかどうか、もし書くならその報告書を職場の人たちで討議する機会があるかないか、もしあるなら参加者は全員か、それとも班長クラス以上か、などの指標を用意する。つまり比較的簡単に有無をきける形に志、もしありという答えなら、さらに問いを重ねる。2分法を採用しそれを重ねる。(p.30)
ただし2分法を重ねるとはいっても、ずっとyes/noで聞いていくわけではない。あくまでも半構造的なのである。最初の質問は決まっていても、2問以下は、「相手の答えによって違ってくる」(p.89)のである。あるいは一連の問いの最後には、かなりオープンな問いも行う。まあ全体としては、かなり構造化度の高い半構造化面接だろうとは思うのだが、明確な仮説を持ちそれを検討しつつも、新しい知見を得ることのできる、なかなかうまい方法であると見た(もちろんその有効性は問題によって違うのだろうけれども)。
また本書では、「聞き取り相手は数名、一人1時間半で一人につき2回」などという筆者のガイドラインも示されている。それだけでなく、調査計画や依頼手紙の具体例もあがっており、かなり詳しく筆者のノウハウをすることができるようになっている。その上、数量化指標(いわゆる質問紙など)の問題点も、かなりていねいに吟味されており、その点も参考になる。
経済学の分野でこのような聞き取りを行っている例としては、『現場主義の知的生産法』があった。しかしこちらには、このような点に関してはそれほど詳しくなく、「わからないことはとことん聞く」と書かれている程度であったと思う。その「とことん」のきき方や、とことんきくための前準備の仕方がわかるという点で、本書は非常によかった。あと、いわゆる参与観察は、「技能の高い職場の慣行を調べたり、高い技能の内実を吟味するには、それほど有利とはいえないかもしれない」(p.22)という意見は納得であった。参与観察というと何となく手間がかかっている分、上等な感じがするのだが(私は)、しかし、聞き取りこそ効果を発揮する場があるということだ。いわれてみれば当たり前のことだし、もちろん筆者のいうような、周到かつ柔軟な計画の下に行われた場合の話ではあるのだが。
最近の上の娘(5歳3ヶ月)のマイブームは「口笛」と「指パッチン」である。
口笛は,何のきっかけで吹きたがったのかは忘れてしまったのだが,娘が求めるので,私が吹いて見せると,娘も懸命に真似しようとした。鳴ったのは,ほとんどがヒューヒューいう風の音に,ほんのちょっと音程らしきものが混じったかすれ音だった。しかし娘は「鳴った鳴った」と大喜びした。
まあ,まだ難しかろう,と私は思っていたのだが,そういうのを繰り返し鳴らしているうちに,「風」成分よりも「音」成分が多くなり始め,あっという間に,きれいな口笛が鳴らせるようになってしまった。音程をつけるのも上手なもので,今は毎日得意げにピーピー鳴らしている。
一方,指パッチンは,私がしていたので真似しようとした。しかしこちらは,「真似をしているうちにいつの間にかできるように」はならなかった。そこで私がやり方を教えた。娘には,親指の付け根に薬指を添えさせ,中指をココに当てるんだよ,と教えただけなのだが(なお余談ながら,私の知る限り,指パッチンができない人は,薬指がうまく使えていないことが多い。一見関係ないように思えるかもしれないが,薬指がないと決してパッチンとは鳴らないのである)。
これも,まあ5歳児には難しいのではないかと思っていた。自分の体(というか指の位置)を正確にコントロールする必要があるので。ところがこちらも,娘は繰り返しているうちに,できるようになった。ということで,今は毎日,得意げに指をパッチンパッチン鳴らしている(ピーピー口笛を吹きながら)。
ここでちょっと面白いと思ったのは,学習過程が違うこと。口笛は完全な試行錯誤学習。要するに見よう見まねで練習するうちにできるようになった。しかし指パッチンは,試行錯誤ではおそらくできるようにはならなかったろうと思う。もちろん偶然に薬指の使い方を発見するということもありえるであろうが,その可能性は低いような気がする。こちらは,私がやり方を説明したことが,できるようになるための重要なポイントになっているのである。逆に口笛は,やり方を口で説明しろと言われても,しようがない(少なくとも私は)。だから,試行錯誤してもらうしかなかった,と言える。
まあ,だから何というわけではないのだが,同じ「教える」といっても,教える内容によってできることとできないこと,適切なやり方とそうでないものが存在するんだなあと思った次第である。
タイトル通り、筆者の体験を通してノンフィクションのやり方を説明した本。体験には、プロになる前にノンフィクション的な考えをどこで学んだかから始まり、筆者がこれまでに書いてきたノンフィクションのこぼれ話的な、着想や経過や後日談などがあり、それを通して、ノンフィクションの筆者なりのやり方が語られており、興味深かった。
この手の本はそれぞれ力点の置かれ方が違うので、それぞれの本でそれぞれに異なることが学べる。この本の場合、ノンフィクション本を書くまでの一連の流れ全体がわりとていねいに説明されていた。筆者の場合は、まず素朴な疑問や違和感から得られた「仮説」がある。そこから「文献収集」、「資料批判」(資料間の矛盾を見つけ、どちらがただしいのか、間違っている理由は何かを検討する)、「当事者情報収集」(いわゆる取材)、「構成」(データを整理し、目次(=物語)作りをし、資料を割り振り、空白を見出す作業)、「穴埋め」、「執筆」という過程を経るそうである。こういうことが書かれた本は、私が今まで読んだ本の中にはなかった。中でも「構成」は、「「取材」の成果を自分の手足におぼえこませ、血肉化させるプロセス」(p.123)であり、一番つらい作業ながら、一番重要であるという。このあたり、私の仕事でも何か役にたちそうな気がした。
あと、筆者がノンフィクションを書く上で重視していることとして、何度も出てくる言葉として「小文字/大文字」というものがある。それはたとえば、「「知」を自負する狭い集団にしか通用しそうにない隠語めいた「大文字」言葉を一切排し、誰にでもわかる「小文字」言葉」(p.9)で語る、というような使い方がされている。大文字とは、たとえば戦後史を語るのに「過疎」「共同体の崩壊」といった便利なキーワードを使うことであり、レッテルを貼ることで人を理解したと考えることである。それに対して小文字とは、「<じっくり観察する」(p.38)ことで可能になる世界であり、本人の生の体験や実感を通して語ることである。
この言い方で言うならば、一般的な心理学って、けっこう大文字の学問だなあという気がする。もちろんすべてがそうであるわけではないのだが。あるいは、大文字小文字に関する上の引用文を見る限り、基本的に学問研究には大文字性が付きまとうともいえるかもしれないのだが。まあこういう具合に、心理学や研究のことも考えながら読むことのできた本であった。
現在心理学で主流として行われている方法論を問い直し、5人の論者が心理学の「新しいかたち」を構想している本。それぞれの論者は切り口は違うものの、基本的な方向性は一致しているようである。それは、量的研究を行うにせよ質的研究を行うにせよ、実証の学としての心理学の基本である「現場における人間観察とその記述的解釈」を丁寧に行うこと、というものだろうと思う。
以下、断片的な感想を。
質的研究においては人を納得させるのに、統計的検定という"レトリック"を用いることができない分、より高度な論理性と記述力とが必要になる(p.67)
まったくそのとおりだと思う。しかし、質的研究に関する本を見ると、「記述力」についてはある程度扱われているようである(とはいっても、それ以前の「観察力」の方に重点は置かれているように感じる)が、「論理性」については、あまり扱われていないように思う。しかし上の指摘にもあるように、この点はとても重要なのではないかと思う。
「一人ひとりについて、ていねいに吟味しよう」ということに関連して、「個人内変動を重視しよう」ということを強く主張したい(p.90)
これは吉田氏による、主に量的研究に対する提言である。逆に言うならば、よくある量的研究では、一人ひとりをていねいに吟味していないし、個人間変動をもって個人内変動の代わりにしているのである。そういえば4年前に、私が始めて学会で批判的思考の実証研究を発表したとき、吉田先生が来られて、「被験者はそんなに多くなくてもいいから、数人の学生に、飯でも食わして、もっとたくさんの課題をやらせたほうがいい」というアドバイスをいただいた。そのときは、その意味や目指すところがよくわからなかったのだが、本書でそれがよくわかった。そして、当時は吉田氏に批判されそうな研究をしていたが、最近は、もう少し個人(内変動)に目を向けた研究を試みている。その研究がまとまったら、また吉田先生にコメントをいただきたいものである(ちょっとコワいけど)。
フィールドワークについて「恣意的解釈」や「ねつ造」を疑われることはあります。しかし、そうした批判をやむをえないことだと思って甘受してはいけません。(p.199)
日本の心理学界におけるフィールドワークの旗振り的(?)存在である佐藤氏による論考。この後、実験的研究でねつ造が行われた例を引き、「ねつ造は「方法」にではなく「人」に属することなのです」と結ばれている。「ねつ造」に関してはそれでいいと思うのだが、「恣意的解釈」疑惑に関しては、もう少し違う角度からの反論が必要なのではないかと思った。それは要するに、上に引用した「論理性や記述力」の問題だからである。その点が十分に論じられていなかったのはちょっと残念だった。
ほかにも思ったことや興味深かった点は多いのだが、とりあえずはこれぐらいにして。それにしても、こういう方向性が、日本の心理学界の比較的中央に近いところから打ち出されているのは、とても心強いものだと思う。